2012年11月

ゲイのカップルが子供を持つことの是非、とか。またさらに。


先日結婚した僕の友人でゲイのカップル、ディックとピーターは同性愛者が子供を持つことに懐疑的である。

 

ただそれは僕のようにあれこれと勘案した上での結論というよりも、彼らが今実際に子供を持つとしたら、という前提での現実的な話だった。

 

友人のディックは僕よりも20歳近く年上である。パートナーのピーターは僕に近い年齢だが、それでも50歳を過ぎている。決して若いとは言えない。

 

そんな彼らが子供を持つのは「いろいろと大変」、だから養子を迎える気はない、というのが2人の一致した意見。

 

そして、その場合の「最も大きな大変」とは、やはり彼らの年齢が一番のネック、ということのようだった。

 

もし若かったら子供を持つか、という僕の問いにはディックがこう答えた。

 

「多分持たない。僕らが結婚した主な理由は、生きている間に法的にも社会的にも【普通の夫婦】と同じ扱いを受けたかったことと、僕が先に死んだときにピーターがスムースに遺産相続ができること、だったんだ。子供のことは考えてもみなかったよ」

と。

 

それじゃ、他のゲイのカップルが子供を持つことに対してはどう思うか、と僕はまた訊いた。それに対してはデッィクとピーターが口をそろえてひとこと言った。

 

「う~ん、難しい問題だね・・」

と。

 

察するに、2人は僕とほぼ同じ考えでいるのではないかと思う。

 

つまり

 

当然ながらゲイ差別に反対し、結婚を含む彼らの権利拡大を喜び、もしも彼らの仲間のカップルが子供を持った場合はこれを支持し、断固として子供を差別から守る立場に回る・・

 

「う~ん、難しい問題だね・・」

とつぶやくように言った2人の声音には、そんな意味合いが込められているように僕は感じた。

 

誰にとっても簡単には答えの出ない難しいテーマだと思うが、それでもディックとピーターのケースは同性愛者の友人の中では幸福な話であり環境なのである。

 

最近、長年連れ添った友人夫婦が、妻の同性愛問題で離婚した。またもう1組の友人夫婦は、息子の性同一性障害問題で悩んでいる。

 

性同一性障害は言うまでもなく同性愛とは異なるもので、病気の一種と診断される現象だが、どちらも誤解や偏見が多く、しばしば混同されて語られたりするのは周知の通り。


僕は先ず2組の不幸な友人夫婦について書こうとずっと考えてきたが、ペルー旅が飛び込み、さらにディックの結婚話が飛び込んだりして先送りになっている。

ここからもしばらく同じテーマで書き続けるか、あと回しにしようか、と思案迷い中・・

 

 

「余計なお世話」から生まれたゲイ差別は永久に余計なお世話だ



同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。

 

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは特にキリスト教社会で糾弾され、その影響も加わって世界中で差別されるようになった。

 

同性愛にしろ異性愛にしろ、子供ができようができまいが、そんなものほっとけ!というのが現代人の感覚だろうが、昔の人々はそうは考えなかった。それはある意味理解できる思考回路である。

 

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

 

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すためのヒトの道として奨励され保護された。だから子を成すことができない同性愛などもってのほか、ということになった。

 

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という命題は、今や意味を持たずその正当性は崩れ去ってしまった。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、ゲイの夫婦は子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのだ。

同性愛者の結婚が認められた時点で、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなった。ゲイたちは大手を振って前進すればいいのである。事実彼らにとってはそういう生き方は珍しくなくなった。僕はそうした状況を良いことだと素直に思っている。

僕はこの前の記事で、話を分りやすくするために「ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない」と書いた。それは飽くまでも分りやすいからそう書いたのであって、同性愛者・ゲイを差別する根拠に対しては、実は僕はそんなことよりももっと強い違和感を抱いている。

ゲイを差別するのは理不尽なことであり100%間違っている、というのが僕の人間としてのまた政治的な主張である。それはなんと言っても同性愛差別が「余計なお世話」以外の何ものでもないと思うから。

 

それでいながら僕は、ゲイの人たちが子供を成すこと、あるいは子供を持つことに少しの疑念も抱く。彼らが子供を持つというのは、自らの「権利」意識の表明でもあり、それは尊重されるべきことである。ところがその場合には、親となるカップルの権利ばかりが重視されて、子供の権利がきれいさっぱりと忘れ去られているように見える。僕はその点にかすかな不安を覚える。

陳腐な主張に聞こえるだろうが、全ての子供は生物学的な父親と母親を持つ権利があるのではないか、と僕は考えるのである。それでなければ、子供は成長するに従って必ず他の子供たちから、そして社会から「いじめ」や「差別」を受ける。それによって子供が蒙る被害は甚大である。 

 

たとえゲイの両親を持っていなくても、子供たちはあらゆる原因で差別やいじめに遭う。むしろそれが無いほうが珍しいくらいだ。それでも「ゲイの両親」を持つ子供への偏見や差別やいじめは、他の原因による場合よりも激しいものである可能性がある。

 

だからこそ、子供たちにいじめや差別を教え込む社会の歪みを正さなくてはならない。そのためには、今でも既に同性愛者を差別しない僕のような人間がさらに一歩進んで、彼らが子を成すこと、子を持つことも認めて、差別やいじめを否定しなくてはならない。同性愛者を差別しないと表明しながら、彼らが子供を持つことには反対、というのは論理の破綻であり偽善である。そればかりではない。

 

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致するのではないか。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。

 

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその部分では幸せである。しかし、今の社会の現状では、彼らが心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算も非常に高いとも考えられる。

 

是々非々のそれらを全て勘案した上で、僕は今のところはやはり、同性愛者カップルが子供を持つことには積極的には賛成しない立場である。

 

繰り返しになるけれども、僕はゲイの皆さんを差別することはなく、彼らの子供たちに対しても偏見差別などしない。それどころか僕は必ずそれらの子供たちを慈しみ、他の「普通の」子供たちと分け隔てのない存在と見なし、又そう行動するだろう。僕の家族や友人知己にも僕の意見を浸透させる努力をし、あらゆる機会をとらえて同じような活動もするだろう。その上で、それでも「今のところは」やはり、彼らが子供を持つことには微妙に疑念を持つのである。

 

忌憚なく言えば、要するに「そこまでしなくてもいいのではないか」と心奥のさらに深いところで思う。

 

ゲイの皆さんは多くの困難を乗り越えて、ついに同性愛者同士の結婚が認められるところまできたのである。その喜びは2人の間で噛みしめ分かち合って寿げば十分ではないか。多くの混乱と苦悩を受け渡す危険がある「第三者の子供」を巻き込む必要はないのではないか。

この主張が同性愛者に厳しくかつ差別的な態度である可能性を恐れながらも、友人のディックが彼のゲイのパートナーと結婚したことを機会に、僕はこうして、あえて自らの意見を開陳しておこうと考えた。
  


忙中の記



異常気象とまで言われた暑い旱魃の夏のあと、再び異常な降雨と洪水をへて、イタリアは「普通に」冬になった。

 

日ごとに寒さが厳しくなっていく。

11月18日、日曜日。

木の下の白いポツン・・



カテリーナ2012年11月18日 004


カテリーナも寒さに参ったよう。


 カテリーナ2012年11月18日 018①


ブドウ園から庭先に入り込んで一日中じっとしていた。


カテリーナ2012年11月18日 022眠り

 

寒さがさらに厳しくなれば、人もメディアもまたまた「異常気象」と言い出すだろう。

 

ペルーの話の続き、同性愛者の話の続き、などを書きたいが例によって時間がない。

 

ペルーで撮影したビデオの編集が終わり次第書くつもりだが・・

 

写真はこうやって文章を端折るときに便利だ(笑)。

 

ペルーの写真がたくさんあるが、ブログに貼り付けようかどうか迷っている。

 

文章を書きたくないときに貼り付ければいいか(笑)・・などと考えつつ。

イタリア洪水、今年もまた北から南へ・・



イタリアの洪水は時期も所も昨年とほんとに似た形で進行している。

 

北のリグーリア州から始まって南に下り、フィレンツェからローマへと進撃中。

 

フィレンツェのあるアルノ川とローマのテベレ川も警戒水域に達した。

フィレンツェ近郊のグロセット県では昨日農夫1人が死亡した。

 

昨日の記事ではベニスの洪水(高潮)の模様を写真でも伝えた。水着姿の観光客が、大きく冠水したサンマルコ広場で遊ぶ様子である。

 

そこには危機感が無いように見える。しかし、それはある意味で開き直った観光客が広場でふざけているだけで、高潮時のベニスは苦難と危機のオンパレードなのである。

 

昨日のこのフィレンツェのように。

 フィレンツェ洪水① 


あるいは1966年の大水害時のこのフィレンツェのように。

 Alluvione_di_Firenze1966


鉄砲雨はイタリア半島をさらに南下して、島嶼部まで襲うと予想されている。

 

その動きは気味が悪いくらいに昨年のそれと酷似している・・

 

 


イタリア洪水、再びの。



イタリアがまた爆雷雨に襲われた。そこかしこで水害。洪水。

 

去年時期も場所も良く似ている。

 

昨年大きな被害のあったジェノバは今年は災害から外れたものの、同市のあるリグーリア州は再びの打撃。

 

リグーリア州には山が直接に海に落ちこむような険しい地形が多い。

普段は絶景の観光地だが、ひとたび大雨が来ると惨事をもたらすことが少なくないのだ。

 

ベニス沈下


恒常(慢性)的に水の被害を受ける、という点でリグーリア州に共通しているのがベニス。

 

ベニス高潮カフェ前回廊
ベニスの老舗有名店「カフェ・フローリアン」前の回廊


今回もサンマルコ広場を1メート49センチもの高さの高潮が襲った。

これは1872年以来では6番目のワースト記録。

 ベニス高潮2012-④
サンマルコ広場の観光客。この日の最低気温は10度前後。


周知のようにベニスは年々水没している。

ベニス高潮2012-②
サンマルコ広場を横切る観光客。

高潮が襲うのはまさにこの時期(11月~)。ここに始まり冬の間発生し続けるケースが多いのである。

ベニス高潮11-11-2012-①
サンマルコ寺院をバックに寒中水泳をする観光客のカップル。新聞のトップページを飾った


今夏、イタリアは「いつものように」異常気象に見舞われた

 

夏の猛暑と旱魃をこの国のメディアは異常気象と呼び続けている。

 

でも、もはやそれは毎年続く行事で「異常」は「通常」になっているように僕は思う。

 

夏の間、人々があれほど待ち望んだ雨は、今は嫌われもの。

 

異常気象ってホント?と僕はヘソを曲げてよく自問したりする。

 

 

 

友人でゲイのディックが結婚しましたが・・それがなにか?



なつかしくて楽しく、さわやかで嬉しいニューヨークの風を運んできてくれたディックとピーターが帰っていった。

 

ハリケーン「サンディ」の被害を気にしながら。でも、持ち前の明るさでそれを笑って否定し「何があっても大丈夫、なんとかなる」と互いに言い交わしながら。

 
2人はとても良い夫婦、ならぬ、良いカップルでありパートナーである。同性愛者への偏見、という摩訶不思議な色眼鏡をかなぐり捨てて見れば、きっと「同性愛差別主義者」でも僕の主張に頷(うなづ)くに違いない。

 

もっとも差別をする人間は、どうしても色眼鏡を捨てられないから「差別者」なんだけれど・・


ディックは人間として善良で、性格的に明るい、しかも優れたTVディレクターである。

 

それはかつて僕が、同僚として彼とニューヨークで付き合った経験から導き出した結論。

 

彼は以後も変わりなくそのように存在しつづけ、今、ピーターという生涯の伴侶を連れて僕を訪ねてくれた。

 

ピーターはディックに良く似た、いかにもディックにふさわしい連れ合いであるように見えた。つまり、善良で明るく、かつ細やかな神経の持ち主。

 

ディックは善良で明るいところは配偶者にそっくりだが、相当にアバウトで大まかな神経の持ち主なのだ(笑)。

 

だからこそ、彼はTVディレクターという仕事の分野では独創的になる、と僕は密かに思っている。それが陳腐な発想と批判されかねないのは承知している。でも、僕は本気でそう信じているのである。

 

それはさておき、このエントリーで僕が本当に話題にしたいのは、同性愛者の結婚について、ということである。

 

僕はゲイではないが、同性愛者に対してほとんど何の偏見も持たないし、もちろん差別もしない。彼らの結婚に対しても賛成である。

 

僕は今、同性愛者に対して【ほとんど】何の偏見も持たない、と言った。なぜ【全く】ではなく【ほとんど】なのかというと、僕は彼らの結婚には賛成だが、彼らが子供を持つということに対して、少し疑念を抱いているからである。

 

そして、そういう疑念を抱くこと自体が既に同性愛者への偏見、という考え方もできると思う。だから僕は今のところは、同性愛者に対して【全く】何の偏見も持たない、と胸を張って言うことはできないのである。

 

実はそのことについて、僕は今回ディックとピーターの2人と議論した。それはとても意義深いものだった。

 

それについてはまた書くが、僕はその前にゲイの人たちを偏見・差別する者に聞きたい。

 

「彼らはゲイであることであなたに何か迷惑をかけていますか?」
と。

 

彼らはゲイではない者に別に何らの迷惑もかけない。もちろん、家族や環境などの状況によっては、ゲイであることで波風を起すケースもあるだろう。しかし、そういう場合でも「先ず同性愛者への差別・偏見ありき」という事例がほとんどだと思う。

 

ゲイの人たちは僕に対して何の迷惑もかけていない。だから僕には彼らを差別する理由がない。

 

差別するどころか僕は、どちらかと言うとゲイの人々が好きである。

 

ディックをはじめとして僕には何人かのゲイの友人がいて、知り合いも少なくない。

 

そして多くの場合彼らは、ディックのように性格が明るくてユーモアのセンスに溢れ、才能が豊かである。

 

その逆のケースももちろんある。が、僕が知る限り、ゲイの人たちは面白くて有能な者である割合が高い、と感じる。

 

ただ僕が彼らを好きなのは、才能が豊かだからではなく、性格が明るくてユーモアがある、というのが主な理由だけれど。

 

元々そんな事情があるが、僕の大好きな友人のディックが、彼のゲイの恋人・ピーターと正式に結婚した。

 

25年という長い春を経て。

 

そして米ニューヨーク州が同性愛者の婚姻を正式に認める、という歴史的な変革を経て。


僕は20世紀最高峰のイタリアワイン、1997年物の「ブルネッロ・ディ・モンタルチーノ」を開けて、妻と共にディックとピーターの結婚を祝った。

 
ブルネッロ引き


ほぼ15年の歳月をかけて熟成した赤ワインは絶妙な味がした。

ブルネッロ寄り①

25年の歳月をかけて愛を育て、結実した2人の友のように・・

ハートディック&ピーター&ボトル切り取り
          ディックとピーターとブルネッロ・ディ・モンタルチーノと

 



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