2013年11月

黄昏の大衆政治芸人・ベルルスコーニの光芒


イタリア・ベルルスコーニ元首相が11月27日、国会の本会議で上院議員資格を剥奪された。議員生命に終止符を打たれた元首相は、今後6年間は立候補を含むあらゆる政治活動も禁止される。

 

1994年にまるで彗星のようにイタリア政界に現れて以来20年、ベルルスコーニ氏は4期10年近くに渡って政権を担い、数々のスキャンダルにまみれながらも常に政局の中心にいて伊政界を牛耳ってきた。

 

彼は議員失職の2日前、最高裁が8月に禁錮4年の有罪判決を言い渡した脱税事件の再審理を求める、と表明。それを理由に国会での投票の延期を求めた。国会はそんなことは意に介さず、前述のように元首相を上院から追放した。

 

元首相の申し立てを支持する人々は、国会での投票を前にローマに集結し、上院からのベルルスコーニ追放は「民主主義の死」だとして、黒ずくめの喪服風の装いで演説をする同氏に拍手喝采、気勢を上げた。僕はその様子をテレビ映像で見て、今度こそベルルスコーニ氏の「終りの始まり」を確信した。

 

黒一色の身なりで叫ぶ元首相と歓呼する群集の姿は、黒シャツ隊のファシストやナチスの集会に酷似していた。ベルルスコーニ氏と支持者がファシストというわけではない。ファシズムへの総括は、ドイツによるナチズムへの徹底否定と同様に、イタリアではほぼ国民的合意に達している。中道右派を自認する元首相と支持者は、たとえば侵略戦争を侵略戦争と認めない日本の右派、あるいは中道右派などとは明確に一線を画する。

 

黒ずくめの身なりは、前述した「イタリアの民主主義の死」を悼む、という意味合いで喪服を模したのである。それはべルルスコーニ氏自身の発案だったらしいが、ファシズムを連想させたという意味で、大きな間違いだったと言える。

 

元首相はメディア王と別称されるように、テレビや新聞雑誌の紙媒体を多く傘下に収める手法で、イタリア財界をほぼ支配した。その支配の最大の力は、イタリア国営放送に対抗する形で経営された、彼の巨大民放ネットワークだった。そこで蓄えた強力な財力を背景に彼は政界に打って出て、ここでもたちまち権力を得て20年にも渡ってイタリア政界に君臨したのである。

 

その流れの中で、元首相の権力の源泉であり続けたのがテレビであり、テレビとは基本的に巨大なパブリシティ(広告、宣伝、広報活動、PR, 渉外)の塊という側面を持つ。ベルルスコーニ氏はそのことを知悉していた。

 

彼は多くテレビ媒体を遣って、直接間接に自らの政治基盤また政治信条の広報活動を押し進めた。彼が世界中の同類の政治家と大きく違うのは、ベルルスコーニ氏自身がテレビに頻繁に顔を出し、主張し、ディベートに加わり、人々に話しかけ、祭りに参加し、人々と共に遊び、これでもかこれでもかという具合に自らを露出し続けたことである。

 

その過程で彼は女性スキャンダルや、人種差別を含む多くの失言や、収賄やマフィア関連疑惑などなど、世界中のマスコミが喜ぶ話題を提供し続けて彼らに追求され、さらに露出度を高めるということを繰り返した。

 

そうやって彼は大富豪且つ権力者であると同時に、イタリア最大の大衆芸人へと変貌して行ったのである。芸人や大衆スターが政治に足を突っ込む例は世界に多くあるが、政治家が政治家である事実によって、メディアに追いかけられて有名になる形に加えて、自らが積極的にメディアに顔出しをする手法によって、政治家であると同時に大物の大衆芸人にもなった、という事例を僕は寡聞にして知らない。

 

パブリシティーを知り尽くしていた氏のビジネス哲学を表す例を、僕自身の体験に即して一つだけ挙げておきたい。

 

世界屈指のイタリア・プロサッカーリーグ「セリエA」には20の強力軍団が所属するが、そこでほとんど毎シーズン優勝争いに加わっているのが、ミラノを拠点にするACミランである。世界で最も多く国際試合を制しているチームで、オーナーはベルルスコーニ氏その人である。

 

テレビ屋の僕はイタリアのプロサッカーの取材にもよく関わってきた。ACミランの取材も多くした。そこでつくづく感じたのがミラン広報部のマスコミ扱いのうまさだった。

 

彼らは取材で訪れる例えば僕らのようなテレビクルーを丁重に扱い、便宜を図り、要求にきびきびと対応し、徹底して「立てて」くれる。取材される側のそうした態度は、マスコミ関係者をつけあがらせかねない危険を常に伴うが、自らをうまく喧伝し世間に対する受けを良くしていくためにはとても重要な戦略である。ACミランはオーナーで会長でもあるベルルスコーニ氏の意向で、あくまでもマスコミに開放的な計略で臨み、大きな成功を収め続けている。

 

ミランの明確な対マスコミ戦術は、他のセリアAトップチームのインテルやユベントスと比較するとさらに明らかになる。インテルはマスコミ対応が極めて閉鎖的、またユベントスは軍隊並みの融通の無さでマスコミに対応する。これは僕が実際にそれらのチームと関わった経験からの実感。

 

なお僕が偏向意識でそう言っているのではないことを証明するためにひと言付け加えると、僕は取材で良い思いをさせてくれたACミランのファンではなく、ロケで散々苦労したミランの天敵・インテルのファンである。でも同時に、仕事での付き合いからミランに対しても好感を抱き続けている、という中途半端なサッカー愛好家でもある。

 

喧伝・広報の重要性を知り尽くしていたベルルスコーニ氏だが、議員失職決議に抗議する重大な局面で大きなミスを犯した。自らを政治的に埋葬しようとする勢力にあらがって、黒ずくめの服装で印象を強めようとしたが、これは逆効果を招いた。ファシズムのネガティブな過去に自らが近い存在でもあるかのような印象を与え、あまつさえ彼自身がファシストそのもであるという感触まで刻印する結果になった。

 

元首相は議員資格を剥奪された今後も、自由国民党から「フォルツァ・イタリア」と党名を変えた勢力の代表に居座る。従ってこの先も政局に一定の影響力を持ち続けることが確実だと見られている。同氏の巨大なビジネスネットワークも健在である。

 

しかし、彼の神通力の根源とも言えるメディア活用能力、パブリシティ力、高いコミュニケーション能力に陰りが見え出した今、この稀代の政治役者、あるいは大衆政治スター、あるいは政治芸人の終焉ももう時間の問題だと僕の目には映るのである。

 


「I have a dream」:JFKとキング牧師と世界の共通夢



1963年11月22日、ケネディ米大統領が暗殺されてから今日でちょうど半世紀です。

JFK暗殺の約3ヵ月前、1963年8月28日には、公民権運動の指導者キング牧師が歴史的な「I have a dream」演説を行ないました。

キング牧師のDreamとはまた、公民権運動を積極的に支持し人種差別に反対したケネディ大統領の夢でもありました。2人は同床異夢ならぬ同床同夢の関係にあったと言っても良いでしょう。

アメリカ合衆国は地球上でもっとも人種差別が少ない国です。

皮肉や言葉の遊びではありません。

奇をてらおうとしているのでもありません。

日本で生まれ、ロンドンに学び、ニューヨークに住んでアメリカ人と共に仕事をし、さらにイタリアから多くの国々を巡った、僕自身の実体験から導き出した結論です。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからです。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからです。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡って目立つために、あたかも米国が人種差別の巣窟のように見えます。

そうではなく、自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い続け、絶えず前進しているのがアメリカという国です。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生であることは言うまでもありません。

米国より先に奴隷制度を廃した英国を始めとする欧州諸国には、黒人首脳が誕生する気配すらありません。

僕の住むここイタリアに至っては、2013年現在、史上初の黒人閣僚へのあからさまな人種差別言動が問題になる有り様です。

わが日本では、外見もほとんど違わず文化習慣も近い在日韓国・朝鮮人さえ差別します。しかも差別がない振りさえします。今後、世界中からの移民が増えた時、いかなる差別社会が生まれるのか、考えただけでもぞっとします。

黒人の公民権運動に代表される米国の人種差別反対運動は、リンカーンによる奴隷解放からローザ・パークスの抵抗を経て、マルコムXに受け継がれ、キング牧師による「I have a dream」演説のうねりを介して、ついにはアメリカ初の黒人大統領の誕生という大きな歴史の転換を迎えました。

そこには差別される側の黒人に寄り添う、差別する側の多くの白人がいました。その代表の一人が、第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディでした。

黒人のオバマ大統領誕生までの道程では、南アフリカの人種隔離政策の撤廃と、ネルソン・マンデラ大統領の誕生という瞠目するべき出来事もありました。そうした世界の「事件」もまた、米国での黒人解放運動の影響無くしては起こり得なかったことであり、南アフリカでの変化は翻って米国の動きに追い風を送る、という相乗効果がありました。

それらの一連の歴史変革の波は、今年4月に開催されたローマ教皇選出会議にも届き、当選には至らなかったものの、ガーナ出身の黒人司教ピーター・タークソン卿が、多くの支持者を集めるという出来事ももたらしました。

世界12億人の信者を抱えるバチカンは、保守の牙城の中の牙城とも呼べる存在ですが、そこにも確実に歴史変遷の動きは到達していて、教皇の地位に史上初めてヨーロッパ人以外の人間が就くという事件がありました。それが南米出身のフランチェスコ教皇です。有色人種の教皇の誕生も間近いことでしょう。

希望の国アメリカは、人種差別も不平等も格差も依然として多い、今現在のアメリカが素晴らしいのではない。米国の開放された良識ある人々が、こうでありたいと願い、それに向かって前進しようとする「理想のアメリカ」が素晴らしいのです。

キング牧師は「理想のアメリカ」を表現し、訴え、追及した勇者でした。

ケネディ大統領は、「理想のアメリカ」を彷彿とさせる若き英雄でした。

その若き英雄の死から50年の節目に、亡き大統領令嬢のキャロラインさんが駐日大使として赴任したことを、深い感慨と共に見つめているのは僕だけでしょうか。

パク・クネ韓国大統領への公開状 


パク・クネ大統領閣下

先日、あなたは欧州訪問の一環として英国を訪問し、早速BBC放送のインタビューを受けました。私はBBC国際放送の割と熱心な視聴者で、たまたま同放送の定時ニュースを見ていたところ、あなたのインタビュー映像が流れたのです。あなたはその中で「日本が歴史認識を変えない限り首脳会談をする意味はない。特に従軍慰安婦問題は最大のネックだ」と従来の主張を展開しました。

私は衛星放送画面を見ながら暗澹とした気分になりました。あなたが糾弾する日本の過誤に罪悪感を覚えたからではありません。慰安婦となってしまった女性の皆さんに同情したからでもありません。私個人に関する限り、それらについては既に深く陳謝する気持でいますし、わが国は2度と過去の間違いを繰り返すべきではない。そのためには一刻も早く前大戦を総括して、過去を洗いざらい明らかにして真の再出発をするべきだ、と考えまたそう主張している者です。

私がそこで暗澹としたのは、あなたが狙っているらしい「国際世論に訴えて日本を貶める作戦」がまた一つ功を奏している明確な現実に対してです。まるで駄々っ子のように第三国で日本の悪口を言うあなたの姿に、英国政府首脳や良識ある国民はあるいは呆れているかもしれない。しかし、英国の一般大衆は日本を攻撃するあなたを通して、わが国への反感を募らせたことは間違いない。すぐに強い反感を抱くことは無くても、日本への警戒心がむくりと頭をもたげるのが目に見えるようでした。

私は1980年代に英国に留学した経験がありますが、表向きは日本や日本人に対して好意的な感情を持っている英国人でも、前大戦時のわが国に対しては強い疑念と不信感を持っていることが分りました。田舎町のパブで、実際に日本軍と戦った経験のある老人から「私は日本と日本人が嫌いだ。凶暴で野卑で油断がならない」と静かな口調で言われて衝撃を受けたこともあります。

 貴国民や中国人に始まって、アジアの多くの国民も軍国主義日本に冒涜された過去を持っています。アジアの国々の中にはわが国の過去を許し、友好的な関係を築いているところもありますが、彼らとて日本が再び過去の狂気に陥って、近隣国民に横暴を働く可能性がゼロではないことを知らないわけではありません。そして欧米諸国の場合は、胸中に秘めている「過去形の日本」への警戒心はさらに強い。大人である彼らはそれをおおっぴらに口にしないだけです。

 戦後一貫して築いてきた「平和国家日本」「平和主義者日本人」のイメージは、わが国の経済大成と共に欧米諸国民に好意的に見なされ、あまつさえ賞賛されて来ました。しかしごく最近になって、ナショナリストと見なされる安倍首相と周辺への警戒感から、そのイメージにたちまち疑問符がついて、特にインテリ階級の人々の日本への印象が曇り始めています。あなたはそうした空気が拡散しつつあるヨーロッパで、実にタイミングよくわが国を攻撃したのでした。

 あなたの日本貶め作戦はうまく運んでいます。いわゆる知日派の知識人やアジア通のインテリなどを別にすれば、国際世論に大きな影響力を持つ欧米の大衆は東アジアの情勢などほとんど知らず、また興味もありません。ですから、あなたのようにポピュリスト的に日本批判を展開するととても簡単に影響を受けます。多くの人々がそうやって「日本悪者」意識を薄っすらと抱きます。その感情は世界中の人々が「漠然と」覚えている軍国主義時代の日本の悪のイメージに易々と重なって、「日本悪者」意識がさらに強調されていきます。

 あなたに対抗する手っ取り早い方法は、わが国の首相が世界に赴いてあなたの主張がブラフである、とあなたがやったような仕方で論駁することです。ところが残念ながらそれは逆効果になることが目に見えています。なぜなら安倍首相は欧米各国からナショナリストというレッテルを厚く貼られている存在です。つまり軍国主義の巨悪に繋がる思想信条を持った指導者と見られているのです。彼が欧米諸国に出向いてあなたの主張に反論しても、人々にまともに受け入れられることは難しく、それどころか強い反発を受ける可能性が高い。

 慰安婦問題について、恐らく首相自身が信じているままに「軍の強制関与を示す証拠はない」などと主張しようものなら、欧米の世論は一斉にブーイングを投げかけるに違いない。なぜなら欧米の世論(またそれに強く影響される国際世論)が信じているのは、あるいは信じたがっているのは、軍関与の証拠の有無などでは断じてなく、彼らが思い描くところの、あの悪鬼のような旧日本軍なら『やりかねない』という彼らの中のイメージ、あるいは漠然とした知識、又はぼんやりとした恐怖の方だからです。

 あなたの対日強硬姿勢の根幹を成しているのは、歴史認識でも竹島でもなく、まさに従軍慰安婦問題なのだろう、と私は推測しています。従軍慰安婦はそれが日本軍にまつわる存在であろうとなかろうと、女性にとっての最大の侮辱の一つです。だからこそあなたは韓国国民として、また大統領として、そして何よりも女性として、従軍慰安婦となって屈辱の人生を過ごした同胞女性のために、心底からの怒りを表明しているのでしょう。

 もしかするとあなたは、人類の歴史の中で連綿と続いてきた男尊女卑、女性蔑視、あるいは女性差別の風潮の最たるものが慰安婦だと考えているのかもしれません。そのことで憤激しているあなたは、日本との関係改善という「取るに足らない些事」のために、今さら上げた拳を下ろすわけにはいかない。そうやってあなたは頑なな態度で慰安婦問題を言い立てている。それは世界世論を味方に付けるうまいやり方です。女性は言うまでもなく、世界中の良識ある男たちも人類の歪んだ女性差別の歴史を恥じ、これを改善するのが道だと捉えて努力を続けています。だから皆あなたの側に付きやすいのです。

 多くの人々の努力の甲斐もあって、女性差別の環境は近年大きく改善されてきました。日本同様に女性軽視の雰囲気が強い韓国において、あなたが貴国初の女性大統領に選出された素晴らしい出来事も、世界の多くの女性やフェミニストたちがこれまでに戦ってきた成果の一つであることは、ここで改めて指摘するまでもありません。

 あなたは大統領就任直後に訪問したアメリカでも、今回の欧州訪問でも異例の大歓迎を受けました。欧米諸国のあなたへの好意は、あなたが女性であることへの特別の温情と敬愛と期待と喜びからも来ています。あなたは各国のその普遍的な友誼をうまく利用して、日本叩きを実行しました。そしてそれは成功しました。

 大統領閣下、そうなのです。あなたは国際世論に訴えて日本を貶める作戦にもう十分に勝利しました。女性差別という大局的なテーマを、従軍慰安婦を旗印にして闘い、わが国を生贄にして攻勢をかけ、糾弾し、やがて成功を収めました。国際世論は日本の過去の古傷を思い出して疑心暗鬼に陥っています。私たち日本国民はあなたの攻撃によって十分に辱めを受けました。広告宣伝合戦はあなたの圧倒的な勝利です。

 大きな戦果を収めたあなたは、これからは日本との対話を模索する行動を取るべきです。聞くところによると貴国内にもあなたの対日強硬路線に危機感を抱き始めた勢力があるといいます。それはあなたの行き過ぎた対日批判が曲がり角に差し掛かっていることを示唆しています。

 私たち日本人は過去に多くの過ちを犯し、現在も多くの失敗や問題を抱えています。しかし、あなたは認めたくないでしょうが、わが国はまた世界から賞賛され、友誼を示され、その独特の文化と精神を高く評価されている国でもあります。あなたにまるで取るに足らぬ国でもあるかのように軽侮されるいわれはありません。

 あなたは一国の大統領として隣国に尊敬の念を示すべきです。それは日韓の間に懸案が山積している現実とはまったく別次元の、国家元首としての節義であり、人としての道理です。

 あなたの対日強硬姿勢は、貴国内で親日と見られないための偽装、という見方も日本にはあります。しかしさすがにあなたの常軌を逸した日本攻撃の激しさに、そうした楽観的な見方は影を潜めて、国民の間に緊張感が走っています。あなたの反日感情は半端ではないと人々は考え出したのです。それは同時にわが国内に反韓国、嫌韓国感情が一気に高まることをも意味しました。なにしろ日本国内には貴国との関係改善などしなくても良い、韓国など無視してしまえ、という強硬な意見も台頭しつつあります。それはとても残念なことですし悲しい出来事です。それどころか危険でさえある。

 日韓が戦火を交える、という図はきっと荒唐無稽なものでしょう。しかし、わが国と貴国は、少し大げさに言えば精神的にほとんど戦争状態にある、と言ってもおかしくないほどの仲違いに陥っています。この状況こそ荒唐無稽です。これは中国とわが国の関係にも言えることですが、日韓の我々は隣同士であり、歴史的また文化的にも多くの共通項を持つかけがえのないパートナーです。これ以上いがみ合うのは良くありません。

 繰り返します。日本バッシング戦で大成功を収めたあなたは、今度はぜひ日本との関係修復を目指すべきです。あなたの嫌いなわが国の安倍総理は、対話の扉を大きく開けて待っていると公言しています。彼はナショナリストです。あなたはそのことが気に入らないとおっしゃるかもしれませんが、私からみるとあなたもかなり強情なナショナリストです。そう言えばお二方は良く似ていますね。どちらも国のトップに登り詰めた人物を父と祖父に持ち、いかにも世襲政治家らしい温和な容貌をしていますが、中身は一本筋の通った相当のくせ者同士。もっともくせ者でもなければ一国のリーダーは務まらないとは思いますが。

 私はナショナリストとは一線を画すると自負する者ですが、対話に応じる能力と意志がある限り、いかなるナショナリストも尊重します。右や左や保守や革新などという政治的レッテルに、あまり意味があるとは思えないのです。それは各自の持つ思想信条や哲学の違いのことですから、お互いがそのことを認め合って、その上で文明人らしく対話をし、議論をすればいいのです。民主主義社会に於ける政治的レッテルは、議論をし易くするための道具に過ぎない、とさえ私は考えています。

 議論をしない者は蛮人と同じです。対話ができず、自らの主張ばかりをわめきたて、従って相手への尊敬心などひとかけらも抱けない。彼らはわめき散らしてやがて武器を手に取り、ついには戦争への道を突き進みます。それは左右の思想信条とは関係ありません。彼らはただひたすらの極論者であり過激派であるだけです。過激派には右も左もありません。彼らはそっくり同じなのです。あなたがそんな極端思想の持ち主ではないことを心から祈っています。

 

 敬具


ペルー旅 ~エピローグ:奇譚~

加筆再録


3週間のペルー旅では、撮影を兼ねた道行の最後に遊びでマチュピチュを訪ねた。マチュピチュがペルー旅行の最終訪問地だったのだが、そこまでの日々は結構波乱万丈だった。

怖い体験

あまりの恐怖のために一瞬で頭髪が真っ白になるとか、一夜にして白髪になってしまうとかの話がある。

フランス革命時にギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの白髪伝説。エドガー・アラン・ポーの小説「メールシュトレームに呑まれて」の漁師のそれ。

また巷間でも、恐怖体験や強いストレスによって、多くの人々の頭髪が白くなった、という話をよく耳にする。

僕はペルー旅行中にそれに近い体験をした。旅の間に白髪がぐんと増えたのだ。

しかし、黒髪がいきなり白髪に変わってしまうことは科学的にはありえない、というのが世の中の常識である。

髪の毛の色は、皮膚の深部にある色素細胞の中で作られるメラニン色素によって決定され、一度その色を帯びて育った黒髪や、その他の色の健康な髪は変色しない。白く変色するとすれば、新しく生えてくる髪だけである。

簡単に言えば科学的にはそういう説明ができる。

でも僕はペルーを旅した3週間の間に、白髪だらけの男になった。知命を過ぎたオヤジだから、頭に白髪が繁っていても別におかしくはない。

ところが僕はペルー訪問までは、年齢の割に白髪の少ない男だったのだ。年相応に髪の毛は薄くはなったが、僕は同世代の男の中では明らかに白髪が少なく、自分と同じオヤジ年代の友人らがやっかむほどだった。

最初に白髪の急激な増え方に気づいたのは、自分が写っている写真を見た時だった。え?と思った。まるで白髪の中に髪がある、とでもいう感じで頭が真っ白に見えた。

ビデオカメラを回している僕のその姿を写真に撮ったのは同行していた友人である。妻がたまたま僕のスチールカメラを友人に渡して、彼はそれでパチリパチリとシャッターを押してくれていたのだった。

その後、スチールカメラは僕の手に戻され、旅が終わってビデオ映像と共に写真素材も整理していた僕は、そこでスチールカメラに収められた自分の姿を見たのである。

死も友達旅

僕はペルー入国以来ずっとひどく怖い思いをしながら旅を続け、恐怖心を紛らわすためにも懸命に ビデオカメラを回している、というふうだった。

恐怖の全ては、目もくらむような深い谷底を見下ろしながら、車が車体幅ぎりぎりの隘路を走行し続けることから来ていた。

もっとも強い恐怖は旅の半ば過ぎに襲った。標高3100メートルのサンルイスから標高2500メートルのハンガスへ向かう途中の、海抜ほぼ5000メートルの峠越え。その日は夕方出発して、峠に差し掛かる頃には日が暮れてすっかり暗闇になった。しかも標高が高くなるにつれて天気がくずれて行き、ついには雪が降り出した。

運転手は70歳の元警察官。割とゆっくりのスピードで行くのはいいが、急峻な難路を青息吐息という感じで車が登る姿に、高所恐怖症の気がある僕のみならず、同乗者の全員が息を呑むという様子で緊張していた。

車窓真下には今にも泥道を踏み外しそうな車輪。そのさらに下には少なく見積もっても1000メートルはあるだろう谷の暗い落ち込みが口を開けている。車がカーブに差し掛かるごとに崖の落下がライトに照らし出される。時どき後方から登り来る車のライトにも浮かび上がる。目じりでそれを追うたびに僕は気を失いそうである。

間もなく峠を登り切ろうとしたとき、車はカーブを登攀(とはん)しきれず停車した。一呼吸おいてずるずると後退する。万事休す、と思った。車内が一瞬にして凍りついた。誰もが死を覚悟した。

その時運転手がギアを入れ替えた。車がぐっとこらえて踏みとどまり、すぐに前進登攀を始めた。そうやって僕らは全員が死の淵から生還した。

一瞬、あるいは一夜にして白髪になった、という極端な例ではないが、ペルー滞在中のそうした恐怖体験の連続の果てに、僕の髪の毛は確かにとても白くなった。少なくともぐんと白髪が増えたように見えた。

繰り返しになるが、髪の毛が瞬時に白髪に変わることはない。

しかし、恐怖や強いストレスが原因で血流が極端に悪くなると、皮膚の末端まで十分な栄養が行き渡らなくなってしまい、毛髪皮質細胞が弱くなることがある。

すると毛髪の中の空気の含有量が増えて、1本1本の色が銀色っぽく変化する。その銀色が光の反射の具合いで真っ白に見える、ということは起こり得るらしい。

それもまた科学的な説明。

僕の髪の毛はそれと同じ原因か、あるいは何日間かの強いストレスと恐怖体験によって、一瞬にではないが徐々に変化して白くなったのだと思う。

それは、朝起きたら黒髪が真っ白になっていた、というような極端な変化ではなかったので、同行していた妻や友人夫婦もすぐには気づかなかった。そのために僕自身を含む一行は後になって、高山の晴天の陽光に照らし出されて白く輝いている写真の中の僕の髪を見ておどろく、といういきさつになったものらしい。

ハゲよりカッコいい白髪

その白髪は、ペルー旅行から大分時間が経ったいま、それほど目立たなくなり、それどころか消えかけているようにさえ見える。しかしきっとそれは、僕自身が白髪に慣れたせいなのではないか、とも思う。

近頃鏡をのぞいて目立つのは、白髪よりもむしろハゲの兆候。そしてハゲてしまえば白髪も黒髪もなくなる訳で、僕にとってはそちらの方がよっぽど悲劇的である(笑)。

僕はハゲの家系なので将来の悲劇に向けての覚悟はできているつもりだが、悲劇はできるだけ遅く来てくれるに越したことはない(歪笑・凍笑・硬笑・苦笑・震笑)。

ともあれ今のところは、ペルーの恐怖体験で一気にハゲにならなくて良かった、と心から思う。短い時間で髪が白髪に変わるのはドラマチックだが、髪がバサリと落ちて一度にハゲてしまうのは、なぜかただの滑稽譚にしか聞こえないから。

言い訳
科学を信じたい僕にとっては、ここに書いたことは与太話めいてもいて気が引けたが、実際に自分の身に起こったことなので記録しておくことにした。信じるか信じないかは読む人の勝手、ということで・・

ペルー旅 ~マチュピチュ:その謎~

加筆再録


 
マチュピチュは建設からおよそ
100年後にインカの人々によって遺棄されたと言われています。しかし、インカびとがなぜマチュピチュを捨ててそこを去ったのか、はっきりとは分っていません。

インカびとは文字を持たず、また征服者のスペイン人はマチュピチュそのものの存在を知らなかったから、記録に残す術がなかった。


周知のようにマチュピチュには多くの謎が秘められています。それは主にインカびとが文字を持たなかったことに起因しています。実記が何も残っていないのです。

たとえば、なぜ彼らは外界から隔絶された山の頂上に街を作ったのか。

彼らは一体どうやって一つ5トン~20トンにもなるたくさんの巨石を高山に運び上げたのか。

そしてどこから。

また鉄器具を知らなかった彼らはどうやってそれらの巨石を精巧に掘削し、切り整え、接着し、積み上げていったのか。

など。

など。

謎には、研究者や調査隊や歴史愛好家などの説明や、憶測や、史実に基づいた推論などが多くあります。

それらの謎のうちの技術的なもの、たとえば今言った「巨石を運ぶ方法」とか、それを「精巧に細工するテクニック」などというのは、正確には分からなくてもなんとなくわかります。

つまり、インカびとは巨石や岩を細かく加工するペッキング(敲製)という技術をマチュピチュ以前に既に知っていて、それを活用した。マチュピチュ以外のインカ遺跡にも、ペッキングによる巧緻を極めた岩石細工は多く見られますから、これはほぼ史実と考えてもいいでしょう。

また巨岩を運ぶ謎についても、傾斜路を造るなどの方法で各地の古代文明が高い技術力を持っていたことが分っています。マチュピチュの場合は、その立地から考えて
、他のインカ遺跡と比較しても格段に難しかったでしょうが、当時の人々の「割と普通の知恵」の範ちゅう内のワザだった、と断定してもあながち不当な見解ではないでしょう。

たとえそうではなくても、巨石文明や石造りの構築物という意味では、エジプトのピラミッドに始まり、ギリシャ文明を経て古代ローマに至る地中海域だけを見 ても、マチュピチュを遥かに凌駕する「ハイテク」が地上には存在しました。しかもそれは15世紀前後のマチュピチュなどよりもずっと古い、紀元前の文明開化地で既に考案されていた技術であり人類の知恵です。

マチュピチュの建造物は言うまでもなく美しく優れたものですが、技術力という意味では地上唯一と呼ぶには当たらない、むしろ「ありふれた」と形容する方がふさわしい事案、だとも言えるのではないでしょうか。

マチュピチュの鮮烈はもっと他にあります。つまり「マチュピチュはなぜそこに、なんのために作られたのか」という根源的な、しかも解明不可能に見える謎そのものの存在です。

その謎についても百人百様の主張があります。よく知られている論としては、たとえば

マチュピチュはインカの王族や貴族の避暑地として建設されたという説。

あるいは祭や神事を執り行なうための聖地説。

インカ人が崇拝した太陽を観測し見守るための施設だったという説。

またそこが遺棄されたのは、疫病が流行って人が死に絶えたから、と主張する研究者もいます。

いや、そうではなく、気候変動によって山の斜面を削って作られた畑に作物ができなくなり、暮らしていけなくなった人々がそこを捨てた、とする説もあります。

マチュピチュ遺跡に実際に立ってみての僕の印象は、そこは祭祀のためだけに造形された場所ではないか、という強い感慨でした。

アンデスの山中深くに秘匿された森厳な建物群が、押し寄せる濃霧におおい尽くされて姿を消し、霧の動きに合わせては又ぼうと浮かび上がる神秘的なパノラマは、いかにも霊妙な儀式を行なうためだけに意匠された壮大な徒花、という感じが僕にはしました。

でもそれには矛盾点も多い。たとえば祭祀のためだけの場所にしては、人の住まいのような建物が多いこと。

また街のある山の斜面に多くの段々畑が作られて、トウモロコシやジャガイモなどが栽培されていたこと。

そういう作物は神事にも使用するでしょうが、それにしては畑の規模が大きい。やはり住民の食料として生産されていた、と考えるのが理に叶うようです。

さらに街そのものも、宗教儀式のためだけの施設と見なすには、畑同様に規模が大き過ぎるような印象を与えます。

それらはほんの一例に過ぎません。マチュピチュには他にもたくさんの矛盾や疑問や驚きがあります。しかし、僕にはどうしてもやっぱりそこが、神聖な儀式のための大がかりな設備、というふうに見えて仕方がありませんでした。

マチュピチュには俗なるものが一切ないように僕の目には映ったのです。その位置する場所、山岳に秘匿された地勢、景観、あらゆる造形物の玄妙なたたずまい、空気感、茫々たる自然・・それらの一切が聖なる秘儀にふさわしい組み合わせ、お膳立てのように見えるのです。

そうした印象はもちろん、マチュピチュの失われた時を偲ぶ、僕の感傷がもたらすものに違いない。

しかし、いかなる具体的な描写や考察をもってしても表現できないであろうマチュピチュの美は、そうした感傷や旅愁や感激や深いため息などといった、いかにも「理不尽」な人の感性によってしか把握できない場合も多い、歴史の深淵そのものでもあるのです。


 

ペルー旅 ~マチュピチュ:その美~


 

加筆再録


 


昨年の今頃、仕事半分遊び半分で南米のぺルーを旅しました。


クスコ経由マチュピチュまで

ペルーにはアンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが数多くあります。前回の旅では標高約5000メートルの 峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動しました。目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で且つ面白いものでした。


多くの恐怖体験を含む猛烈過激な旅を続けたあと、世 界遺産マチュピチュを訪ねました。そ
れは仕事抜きの純粋に観光を楽しむ道行でした。マチュピチュのあるクスコ県行きの飛行機が発着するのは首都リマのホルヘ・チャベス国際空港。ペルー入国後は立ち寄ることがなかった首都に回って、そこから空路南のクスコへ向かいました。


クスコ県の県都クスコは、標高3600メートルにある人口30万人の街。かつてのインカ帝国の首都です。クスコは1530年代にフランシスコ・ピサロ率いるスペイン人征服者によって占領破壊されました。

スペイン人はその後、破壊したインカの建物跡の土台や壁などを利用してスペイン風の建築物を多く建立します。そうやってインカの建築技術とスペインの工法 が融合しました。二つの文明文化が一体化して造形された市街は美しく、その歴史的意義も評価されてクスコは世界遺産に指定されています。

クスコ郊外のサクサイワマン遺跡などを見て回ったあと、車でオリャンタイタンボに至りました。オリャンタイタンボにもインカの遺跡が多く残っています。いずこも心踊る山並み、街並み、風景、そして雰囲気。それらを堪能して、列車でいよいよマチュピチュへ。

インカの失われた都市

マチュピチュ遺跡は、列車の終点アグエスカリエンテ駅のあるマチュピチュ村からバスでさらに30分登った、アンデス山脈中にあります。

山頂の尾根の広がりに構築された街は、周囲を自身よりもさらに高い険しい峰々に囲まれています。熱帯雨林が鬱蒼と繁るそれらの山々にはひんぱんに雲が湧 き、霞がかかり、風雨が生成されて、天空都市あるいは失われたインカ都市などとも呼ばれる、マチュピチュにも押し寄せては視界をさえぎります。

僕がそこを訪ねた日の朝も、マチュピチュには深い霧が立ち込めていました。麓から見上げれば雲そのものに見えるであろう濃霧は、やがて雨に変わり、しばら くしてそれは止みましたが、遺跡は立ち込める霧の中から姿をあらわしたりまた隠れたりして、茫々として静謐、かつ神秘的な形貌を片時も絶えることなく見せてくれました。

マチュピチュの標高は2300メートルから2400メートルほど。それまで標高約5000メートルもの峠越えを3回に渡って体験し、平均3700メートル 付近の高地を移動し続けてきた僕にとっては、天空都市はいわば「低地」のようなものでした。インカ帝国の首都だった近郊のクスコと比較しても、マチュピチュは1000メートル以上も低い土地に作られているのです。

ところがそこは、これまで経験してきたどの山地の集落や遺跡よりも、はるかな高みに位置するような印象を与えました。遺跡が崖に囲まれた山頂の尾根に広がり、外縁にはアンデス山脈の高峰がぐるりと聳えている地形が、そんな不思議な錯覚をもたらすものらしい。

マチュピチュはまた、自らが乗る山と、附近の山々に繁茂する原生林に視界を阻まれているため、麓からはうかがい知れない秘密の地形の中にあります。文字通 りの秘境です。遺跡の古色蒼然とした建物群が、手つかずの熱帯山岳に護られるようにしてうずくまっている様子は、神秘的で荘厳。あたかも昔日の生気をあたりに発散してい るかのようです。同時にそこには、悲壮と形容しても過言ではない強い哀感も漂っています。

遺跡の美とはなにか


古い町並や建造物などが人の心を打つのは、それがただ単に古かったり、巨大だったり、珍しかったりするからではありません。それが「人にとって必要なもの」だったからです。

必要だから人はそれらの建造物を壊さずに大切に守り、残し、修復し、あるいは改装したりして使い続けました。そして人間にとって必要なものとは、多くの場 合機能的であり、便利であり、役立つものであり、かつ丈夫なものでした。そして使い続けられるうちにそれらの物には人の気がこもり、物はただの物ではなくなって、精神的な何かがこもった「もの」へと変貌し、一つの真理となってわれわれの心をはげしく揺さぶります。

精神的な何か、とは言うまでもなく、歴史と呼ばれ伝統と形容される時間と空間の凝縮体です。つまり使われ続けたことから来る入魂にも似た人々の息吹のよう なもの。それを感じてわれわれは感動するのです。淘汰されずに生きのびたものが歴史遺産であり、歴史の美とは、必要に駆られて「人間が残すと決めたもの」の具象であり、また抽象に他なりません。

マチュピチュの遺跡はインカの人々が必要としたものです。必要だったから彼らはそれを作り上げたのでした。しかしそれはわずか100年後には遺棄されまし た。つまり、今われわれの目の前にあるマチュピチュの建物群は、その後も常に人々に必要とされて保護され、維持され、使用されてきたものではない。それどころか用済みとなって打ち捨てられたものなのです。

もしもマチュピチュにインカの人々が住み続けていたならば、スペイン人征服者らは必ずそこにも到達し、他のインカの領地同様に占領して破壊し尽くしていた でしょう。マチュピチュは「捨てられたからこそ生き残った」という歴史の不条理を体現している異様な場所でもあるのです。

マチュピチュを覆っている強い哀愁はその不条理がもたらすものに違いない。必要とされなかったにも関わらず残存し、スペイン人征服者によって破壊し尽くさ れたであろう宿命からも逃れて、マチュピチュ遺跡は、何層にもわたって積み重なり封印されたインカびとの悲劇の残滓と共に、熱帯の深山幽谷にひっそりと横たわっています。

そうした尋常ではないマチュピチュの歴史が、目前に展開される厳粛な景色と重なり合って思い出されるとき、われわれは困惑し、魅了され、圧倒的なおどろきの世界へと迷い込んでは、深甚な感動の中に立ち尽くして、ただ飽きないのです。


 


日本語のぶれ、ぶれのもたらす闊達。のようなもの・・




日本語の敬体と常体、つまり「です。ます。」調と「だ。である。」調の間にある齟齬について考えるうちに、袋小路にはまってしまってブログが書けなくなった。


 書けなくなったのは考えがまとまらないからである。そのテーマはこの個人ブログと、二つの公けのサイトにも投稿するつもりでいるので、敬体の「です。ます。」調で書くつもりであり、実際にワードに書き起して推敲を始めてもいる。


 でも、いま言ったように考察がうまく進まない。


 そこで思い切って、先ずここに書いてみることにした。


 書くという行為には、言うまでもなく自分を表現するという意味があるが、自分を表現するには事前に考えをまとめておく必要がある。それでないと文章の意図が読み手にうまく伝わらない。


ところが同時に書く行為には、矛盾するようだが「考えをまとめる」、という効能もある。それは自己表現に勝るとも劣らない「書くことの喜び」の一つである。


 しかし、ここでは喜びのためではなく、あくまでも考えをまとめる目的で先ずは書いてみることにした。いわば推敲を表沙汰にすることなので、読みづらさや見苦しさがあるかもしれない。

また展開によっては続きがあり、公けのブログへの転載の際には書き換えや加筆等もあるかもしれない。


 常体と敬体の間にある齟齬は、僕の感覚では本音と建前の間にある「落ち着かない感じ」と良く似ている。

両文体ともに書いている内容は同じだが、語尾を常体で締める代わりに敬体で締めると、「だ。である。」の場合よりも一歩後ろに引く感じがする。


常体は世界中にある恐らく全ての言語と同じ意味合いを帯びた文体。いわば世界基準の表現方式。少なくとも僕が多少は知っている英語とイタリア語に於いてはそうである。


 「だ。である。」調の常体が僕の本分である。あるいは本分であるように感じる。しっくり来る。

「です。ます。」調の敬体は丁ねいである分、たとえば自分が強く主張したいことなどをオブラートに包んで、少しだけ角を取って丸くする感じがする。

「本音の主張が、突然そこで建前になる」というのは、少し誇張が過ぎるが、そうなりかねないような不安を呼び起こす。


 ならば、「です。ます。」調はしっくり来ないのかというと、これがそうとばかりも断定できないから、ますます不思議である。


 敬体を採用する時の自分の心が一歩うしろに引く感じ、建前になるような感じ、主張をオブラートに包むような感じ等々は、どちらかと言うと全てネガティブな作用である。


 「自らの主張がオブラートに包まれて丸くなる感じ」などは特に、読み手の反応を恐れて弱腰になったり、あらかじめ逃げを打っていたりするようで男らしくない。

男らしくないという表現が滑稽なら、潔(いさぎよ)くない。それどころか卑怯な印象さえある。その点は気に入らない。だが、その文体には明らかな利点もある。


 「です。ます。」調は敬体と規定されていることからも分かるように、また実際に言葉の響からも知覚できるように、読み手を敬う丁ねいな表現である。

そこには日本語独特の自然な優しさと同時に、自らの主張を是としない読み手もいるであろうことを予想して、その存在を認め、反対論者も是とする、とでもいうような至って寛容で闊達な心意気も隠されているのではないか。


つまり、断定し決めつけるのではなく、主張を公けに展開してそれに対する議論を待つ、という風なへりくだった態度、謙遜、思い上がりの無さ、慎み深さなどに通じる、ポジティブな様相を隠し秘めているのが「です。ます。」調の敬体なのではないか、と思うのである。

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