2014年04月

「政治家ベルルスコーニ」の生みの親



2014年4月12日、マフィアとの共謀罪で有罪判決を受けて控訴していた元イタリア上院議員のマルチェッロ・デルトゥリ氏が、最高裁での審理を前にイタリアからの逃亡を試みて、レバノンの首都ベイルートで逮捕された。

デルトゥリ氏はシチリア島パレルモ市の出身。島を出て北イタリア・ミラノの大学で法律を学んでいた頃、若きベルルスコーニ元首相と知り合った。

デルトゥリ氏は大学を終えて故郷のシチリア島に帰り、銀行家になった。後年、実業家として大成しつつあった旧友のベルルスコーニ氏が、地中海セーリングに訪れて二人は船上で再会した。

氏はそこでベルルスコーニ氏に誘われて島を後にし、元首相のミラノの建設会社に転職した。その後デルトゥリ氏は元首相のビジネス帝国の中で出世を続け、やがてベルルコーニ氏の右腕の一人とみなされるようになった。

そんな折の1992年2月、イタリア共和国に激震が走った。政官財の癒着及び汚職を追及するタンジェントポリの大捜査(Mani puliteマーニ・プリーテ)が開始されたのだ。

ちょうどこの頃、イタリアでは国家とマフィアの戦争と呼ばれる犯罪組織と司法の対決が繰り広げられていた。それは言うまでもなくタンジェントポリ捜査とも深く関わっていた。つまり政官財界の癒着と汚職には、この国の巨大な犯罪組織が大きく関わっていたのである。

司法とマフィアは一進一退の綱引きを続けた。当初はマフィアが有利に見えた。マフィアは大胆にも1992年5月23日、反マフィア捜査のシンボルと見なされていたシチリア島パレルモのジュヴァンニ・ファルコーネ判事を、高速道路に仕掛けた爆弾で殺害した。そのさらに2ヶ月後の7月19日には、ファルコーネ判事の同僚パオロ・ボルセリーノ判事もやはりマファアによって爆殺された。

司法も反撃した。翌1993年1月15日、マフィアのボス中のボスと怖れられていたトト・リイナが23年間の逃亡潜伏の後に逮捕されたのだ。これを機にマフィアへの司法の反撃は勢いづき、大物の逮捕が続くことになる。

リイナの逮捕から2ヵ月後には、3回7期にも渡って首相を務め、戦後のイタリア政界を牛耳ったキリスト教民主党のドン、ジュリオ・アンドレオッティがマフィアとの関連疑惑で捜査の対象になった。またその一ヶ月前の1993年2月11日には、首相を務めたこともあるベッティーノ・クラクシ社会党書記長辞任劇もあった。これもタンジェントポリの汚職に関連した結果だった。

タンジェントポリの大捜査では、1994年までの2年間で400人の国会議員を含む3000人が摘発されたが、捜査対象とされたのは5000人にものぼる。

政界では先ずスキャンダルのあおりを食って、戦後イタリアを牛耳ってきたキリスト教民主党が1994年1月18日に瓦解消滅した。また同年11月には、当時連立政権党だった前述のベッティーノ・クラクシの社会党も崩壊。また西側最大の共産党だったイタリア共産党も1991年には分裂ほぼ消滅していた。

1992年に始まった大々的なタンジェントポリ捜査の包囲網は、2年の間にベルルスコーニ氏の周辺とビジネス帝国にも及ぼうとしていた。このことを敏感に悟ったのが、先日ベイルートで逮捕されたマルチェッロ・デルトゥリ氏だった。事業手腕に加えて彼は政治手腕にも長けていた。

危険を察知したデルトゥリ氏はベルルスコーニ元首相に大胆な進言をした。
即ち:『捜査の目を逃れるために政界に打って出るべき』と主張したのである。司法の攻撃に対抗する手段として政党を立ち上げ、ボス自身が首相を目指すべきだ、と彼は熱心に説いた。

ベルルスコーニ氏は部下の進言を受け入れ、キリスト教民主党の解散と同じ日の1994年1月18日、フォルツァ・イタリア党を旗揚げ。次期総選挙への出馬を表明した。つまりデルトゥリ氏の進言によって「政治家ベルルスコーニ」が誕生することになったのだ。

デルトゥリ氏の狙いは当たった。フォルツァ・イタリア党は政権党にまで急成長し、周知のように党首のベルルスコーニ氏は、以後20年に渡ってイタリア政界を牛耳る大物政治家へと変貌を遂げた。

デルトゥリ氏もフオルツァ・イタリア の創始者の一人として名を連ねた。その後、氏自らも政界に進出して、ボスの進撃と歩調を合わせるようにしてまず下院議員に。2001年から昨年2013年の3月までは上院議員も務めた。

デルトゥリ議員には常にマフィアとの関連を匂わせる黒い噂が付きまとった。事実マフィアの構成員であるヴィットリオ・マンガノが、ベルルスコーニ邸宅の厩舎番として雇われていたが、それはデルトゥリ氏の紹介によっていた。

マンガノは、元首相の幼い子供たちが誘拐されないように目を光らせる役割を負っていた、と言われる。彼は後に殺人罪で逮捕されて獄中で死んだが、マフィアとデルトゥリ氏や元首相の関連については口を噤んだままだった。

デルトゥリ氏は2012年にパレルモ上級裁判所で禁錮7年の有罪判決を受けて控訴していた。だが、冒頭で述べたように、最高裁結審を前にして逃亡を試みて外国で逮捕された。

それはボスのベルルスコーニ氏が、脱税の罪を償うために1年間の社会奉仕活動を開始する時期とほぼ重なっていた。

以心伝心テレパシー、はたまた因果は巡る糸車、か・・・合掌・・




ベルルスコーニの悪運



ベルルスコーニ元首相の適用刑罰が「社会奉仕活動」と最終的に決まった。正式発表は4月15日の予定。

元首相は昨年8月、脱税の罪で禁錮4年と公職禁止を言い渡されていた。

禁錮は恩赦法で1年に減刑され、公職禁止も5年から2年に短縮された。

それでも彼は昨年11月、2年以上の有罪判決が確定した議員を失職させる反汚職法によって、上院議員資格を剥奪され直ちに失職した。

イタリアでは70歳以上の高齢者は刑務所に収監されず、自宅軟禁か社会奉仕活動によって罪を償える、という決まりがある。77歳の元首相もその恩恵を受ける。

ところが自宅軟禁と社会奉仕活動では自由度に大きな違いがある。

自宅軟禁は1日2時間の自由行動が認められるだけ。

その2時間の自由も生活に必要な最小限度の活動の為のみ、と定められてれる。外部との連絡も厳しく監視される。

一方社会奉仕活動の場合は、週に一度、それも半日だけのボランティア活動をすれば済む。

許可なく居住地を変えることはできず、夜11時から翌朝7時までは外出禁止。前科のある者や麻薬中毒者と会うことも禁止等々の規定があるが、基本的には普通の生活と変わらない。

元首相とその支持者は、自由が厳しく制限される自宅軟禁ではなく、ほんの少しの屈辱を我慢すれば政治活動を含むほとんどの行動が許される、社会奉仕活動を希望しその旨裁判所に申請していた。その要望が認められた形である。

これって、結局ベルルスコーニ元首相の完全勝利に近い裁決だと僕は思う。

なぜなら現在の元首相は、脱税判決・議員資格剥奪・未成年者買春容疑・etc、 etc・・と不名誉と恥辱にまみれ切っている。

ところが彼は今でもイタリアの3大政党の1つ「フォルツァ・イタリア」の党首であり、且つ過去20年に渡ってイタリア政界を牛耳ってきたカリスマ性の名残もあって、依然として強い政治力を温存している。

元首相はその強い政治力をさらに拡大したい。できれば最大限にまで。そうすることで、少し対応を間違えればさらなる地獄へと向かいかねない、彼の転落へのスパイラルを断ち切りたいと考えている。

従って元首相にとっては、早くも5月に予定されているEU議会議員選挙で存分に選挙運動をすることもできる、社会奉仕活動がより好ましい選択だったのである。

そういう政治的駆け引きもさることながら、元首相に課された刑罰はほとんど茶番だと僕は思う。

禁錮4年は1年に減刑、公職追放期間は5年から2年へ短縮、且つ刑務所には収監されない等々、元首相は多くの恩恵を受けてきた。

そればかりではない。実は彼の1年の刑は、半年の服役後は45日間の減刑に処する、という法律によってさらに短くなって、10ヶ月半で終了する。

要するに刑罰という観点からは軽い仕置きである。

それは厳罰主義を嫌い、温情主義あるいは人権主義とでも形容できる態勢を取る、イタリアの審判制度から導き出された結論で、元首相だけが特別扱いをされている訳ではない。

僕は厳罰主義を取らないイタリアの司法制度には好感を抱きつつ、それでも正直、もう少しどうにかならないものか、という印象を持つ。

なぜなら元首相の場合は罪状が脱税だ。

イタリアの脱税の状況は酷い。脱税が半減すればイタリアの財政危機は直ちに消える、とさえ言われるくらいだ。

そんな国の1、2を争う大金持ちで、且つ政界を牛耳った20年間のうち、約半分の年月を首相として過ごした男が、脱税で有罪判決を受けたのだ。

彼の腐敗の温床である「政治」活動を制限する意味でも、適用刑をせめて自宅軟禁にできなかったものか、と考えるのは僕だけだろうか。

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