2014年05月

ヴェネツィア共和国がよみがえる!?


州都ヴェネツィアの歴史にならう


水の都として名高いヴェネツィアが独立を模索するかもしれない。先日、ヴェネツィアを州都とする北伊ヴェネト州で、イタリア共和国からの分離独立を問うインターネット投票が行われ、参加した住民 の89%が賛成票を投じた。その後、独立を主張する急進派の24人が、ブルドーザーを改造した手製の戦車をヴェネツィアのサンマルコ広場 に持ち込んで、広場を占拠しようと画策していた等の動きも明るみに出た。

周知のようにヴェネツィア共和国は、強大な海軍力を背景に東方貿易を独占して7世紀から繁栄した海洋都市国家である。1797年にナポ レオンに滅ぼされるまで、1000年以上にわたって経済・文化・貿易の一大拠点として地中海に君臨した。同国は往時、アドリア海からイオニア海、さらにエーゲ海へと続く東地中海を席巻(せっけん)し、領地は現在のロンバル ディア州東南部からヴェネト州を含むイタリア本土の東北部と、かつてのユーゴスラビア、ギリシャ、トルコ、キプロス島にまで及んだ。  

ヴェネト州は、同州の州都でもある昔日の海洋都市国家ヴェネツィアにならって、いわば「ヴェネト共和国」としてイタリアから独立すると している。住民投票はヴェネト州の独立を推進する複数の地域政党が主催した。今のところネット投票の結果には法的な拘束力はないが、主催 者は独立へ向けた法案づくりを目指す計画である。

イタリアの心情的独立国家群
 

ヴェネト州の独立運動は、クリミアのウクライナからの独立や、スコットランドの英国からの独立要求などに影響されていると考えられる。それと同時に、一向に改善しないイタリア財政危機への抗議、という側面もある。しかしそればかりではない。イタリアの場合にはこの国独特の歴史背景があって、独立運動やそれに近い混乱が頻発するのである。  

イタリアが統一国家となったのは今からおよそ150年前のことに過ぎない。それまでは海にへだてられたサルデーニャ島とシチリア島は言 うまでもなく、半島の各地域が細かく分断されて、それぞれが共和国や公国や王国や自由都市などの独立国家として勝手に存在を主張してい た。その中には欧州全体で見ても屈指の強国も多くあった。良く知られているのが、例えばルネッサンスを生み出したフィレンツェであり、東 方貿易 と海運業で栄えたヴェネツィアやジェノヴァなどである。そうやって独立国家が乱立していた頃のイタリアの人々の心性は、統一から少し時間がたった今も実は ほとんど変わっていない。  

国土面積が日本よりも少し小さいこの国の中には、周知のようにバチカン市国とサンマリノ共和国という二つのれっきとした独立国家が あり、形だけの独立国セボルガ公国等もあるが、実際のところはそれ以外の街や地域もほぼ似たようなものである。ミラノはミラノ、ヴェネツィアはヴェネツィア、フィレンツェはフィレンツェ、ナポリはナポリ、シチリアはシチリア…と、イタリアは今もってたくさんの小さな独立 国家を内包して一つの国を作っている。  

そういう歴史があるために、1861年に国家が統一され、それから10年後にローマが統一国家の首都となっても、人々は少しも納得していない。ローマはイタリアの首都かも知れないが国の中心では ない。国の中心はあくまでも自分の邦(街)だと言い張って、お互いに協調するどころか反目しあってばかりいる。

カモッラのボスの本音  

TVドキュメンタリーや報道番組のディレクターという仕事柄、僕は長い間イタリア全国を巡り歩いてきた。僭越ながらイタリア人よりもより多くイタリアを見て歩いた、とさえ自負している。そうやってイタリアを旅して回ると、人々の言い分が強い根 拠に基づいたものであることを思い知らされる。前述の各都市や地方は言うまでもなく、古い歴史を持つイタリアの都市や地域は全て、独自の 文化や町並や気候風土や生活様式を持っている。人々の気風も違えば言葉も違う。  

地方中心主義のイタリア人の心性を端的に表すエピソードを、ここで一つ紹介しておきたい。ナポリの犯罪組織「カモッラ」の大ボス、ミ ケーレ・ザガリアが16年間の逃亡生活の後に検挙された時のことだ。彼は逮捕された瞬間にいかにもイタリア人らしい名言を吐いた。即ち、 “Va bbuo…. Ha vinto lo Stato.”(「わかったよ…。国家の勝ちだ」)。  

日本国と自らは一体だと無意識に思い込んでいるほとんどの日本人には、そんなセリフは逆立ちしてもまず思いつかないだろう。せいぜい 「くそ、サツの勝ちだ」とか「サツに負けた」とか、目いっぱい譲って「検察の勝ちだ」などとでも言うところではないか。ザガリアのその呟きは、各地方が独立国家のように存在を主張してツッパリあっているイタリアならではの愉快発言、と僕には見える。  

つまり彼はイタリア人である前に、イタリア共和国内の心情的独立国家「ナポリ国のナポリ人」なのである。そのナポリ人にとっては、統一 国家イタリア共和国は対立する存在である。「ナポリ国民」であるザガリアは、ナポリよりもより大きな「仮の所属国家」イタリア共和国の官憲に逮捕された。つまり国家に負けた。その思いがぽろりと口をついて出たのが「わかったよ…。国家の勝ちだ」という捨て台詞だったのだ。事ほど左様に、イタリア人の地域所属意識とそこから生まれる独立志向の精神というものは強烈である。

余りにもイタリア的な…  

統一国家は生まれたものの、イタリアの各地域には独立自尊の精神が色濃く残っていて、何かにつけて中央政府に盾ついたり旧独立国家間で言い争ったりと、頻繁に軋轢が生じる。そうした独立志向の精神の表れの一つが、今回のヴェネト州独立運動の背 景だ。ところが、ヴェネト州独立模索のニュースは実は、イギリスやアメリカを始めとする欧米諸国また日本などで結構話題になったものの、 当事国のここイタリアでは意外にもそれほど関心を呼ばなかった。地方自治体が住民投票によって分離独立を主張するのは憲法に抵触する可能 性が高いから、この国のメディアはあまり真剣に捉えなかったのだ。  

だがそれ以上に、メディアがニュースに無関心だった理由がある。つまりイタリア共和国からの独立を目指そうとする地域が、五つの特別自治州(※註1)などを筆頭にこの国の中には多くあるため、メディアも国民も「またかよ。だからなに?」という気分で、ヴェネト州での動きを醒めた目で見ていた、というのが真相なのである。

例えばドイツ語圏の南チロルは、今現在は平穏を保っているが、何かあればすぐに独立を画策する爆薬庫だし、シチリア島やサルデーニャ島などにも事あるごとに独立をチラつかせる強い勢 力がある。南部を斬り捨てて北部だけで独立しようと主張する「北部同盟」のような政党が存在するのも周知の事実である。  

今回のヴェネト州の騒ぎに触発されて、地中海の島嶼(とうしょ)州・サルデーニァ州でも独立を求める動きが活発化している。島の活動家 たちの主張はユニークだ。彼らはイタリアからの分離独立ばかりではなく、EU(ヨーロッパ連合)からの離脱も同時に求めるとしている。その方法はなんと、 EUに加盟していないスイスへの編入・統合なのだという。荒唐無稽な主張に見えるが、経済的に貧しい島の人々のイタリア本土への不満や、 EUへの恨みがにじみ出たような要求である。

このように、イタリアには独立志向の地方が多い。実際に独立運動を起こさなくても、隙あらばいつでもイタリア共和国の枠から出てみたい という意志を持つ、かつての都市国家や独立国家が少なからず存在するのだ。

独立自尊の大いなる光と小さな影
 

各地方が勝手に独立を唱えるような状況では、統一国家は当然まとまりに欠ける。イタリアの歴代政権が回転ドアみたいにくるくる変わったり、何事につけ国家としてのコンセンサスがとれていかなかったりするのも、その遠因には常に、独立自尊の心を持つ各地方が我が道を行こうとして喧々諤々の主張を続ける現実がある。

そこには国が混乱するというマイナス面がある。しかし、同時にそこ には大きなプラス面もある。つまり多様性を尊重・重視しようとする確かな哲学の存在であり、それに裏打ちされた精神の開放と自由な発想の乱舞である。誰もが自説を曲げずに独自の道を行こうと頑張る結果、イタリア共和国にはカラフルで多様な行動様式と、あっとおどろくような 独創的なアイデアが国中にあふれることになる。  

そして何よりも大切な点は、イタリア人の大多数が、「国家としてのまとまりや強力な権力機構を持つことよりも、各地方が多様な行動様式 と独創的なアイデアを持つことの方がこの国にとってははるかに重要だ」と考えている事実である。言葉を変えれば、彼らは、「それぞれの意 見は一致しないし、また一致してはならない」という部分でみごとに意見が一致するのである。

それは多様化とグローバル化が急速に進んでい く世界の中にあって、非常に頼もしい態度であり美しい国の在り方だと僕は思う。多様性こそイタリア共和国の真髄なのである。もっと言えば イタリアの多様性を愛するが故に僕はこの国に長く住んでいる・・  



(※註1)シチリア、サルデーニャ、ヴァッレ・ダオスタ、トレンティーノ=アル ト・アディジェ、フリウリ=ヴェネイア・ジュリアの各州。イタリアには州が20あ り、そのうち15州が通常州、5州 が特別自治州である。特別自治州は通常州よりも大きな地方自治権を有している。


小さな大都市ミラノ

加筆再録


2014年5月現在、イタリアは依然としてギリシャ危機に始まる欧州財政危機に端を発した大不況のただ中にある。失業率は13%。15~24歳の若者の失業率にいたっては42%。この数字の実感は、周囲を見回したら若者のほとんどが無職、と言う風である。やりきれない現実がつづく。

その大不況の中で、イタリアのファッション産業は頑張っている。繊維・衣料品・皮革製品などのファッション産業は、機械、金属製品に次いでイタリア第3位の輸出力を持つ。具体的には年間9兆円弱を売り上げ、100万人以上の雇用を生み出している。

ところが、洒落者が多いここイタリアに於いてさえ、ファッション産業を見下す者は多く、若きレンツィ首相が地元フィレンツェ生まれのフェラガモなどに始まる有名ブランドを着たり、それらを重視・擁護する言動をすると「おしゃれにうつつを抜かしている」などとして批判する人々がいる。

それに対してはレンツィ首相は、不況の中での9兆円の売り上げと100万人雇用、という冷徹な数字を示して、ファッションビジネスはイタリアにとって重要な産業だ、と反論するのが常である。言うまでもなく彼の見解は至当だ。

世の中の、真面目で正しくてまともな大人、と見られるような人々はファッションを軽く見る傾向がある。彼らはきっと、皮ジャンを着て若者とテレビで討論をしたり、ブランド物の服や装飾をさりげなく身につけて、自転車で颯爽と街を行くような39歳の「軽い若い」首相が気に食わないのだ。

どちらかと言うと僕もそんな古い人間の1人になりつつある。が、同時にレンツィ首相の如くこの国のファッション産業にはいつも瞠目し賞賛する気持ちでもいる。それは産業としてのファッションの重みに敬服する意味もさることながら、イタリアファッションの中心地・ミラノに対する僕の特別の思い入れからも来ている。

周知のようにミラノは、ニューヨークやパリやロンドンなどと並ぶ世界のファッションの流行発信地である。ファッションの街ミラノを、僕は長い間テレビ屋として観察してきた。テレビの番組制作や報道取材やリサーチ・オーガナイズ等を通して、実際に街と付き合ったりもしてきた。

ミラノでファッションやデザインを取材する時にいつも感じるのは、なぜこの小さな街がロンドンやパリやニューヨークや東京などの巨大都市と対抗して、あるいはそれ以上の力強さで、世界をリードするデザインやファッションを発信して行けるのだろうか、ということである。 

ロンドンとパリは都市圏の人口がそれぞれ約1300万人と1200万人、ニューヨークは2000万人もいる。東京の都市圏の人口3700余万人には及ばな いにしても、巨大な都会であることに変わりはない。それらの大都市に対してミラノ市の人口はおよそ130万人、その周辺部を含めた都市圏でもわずか400 万人ほどに過ぎない。

もちろん人口数が全てではないが、人が多く寄ればそれだけ多くの才能が集まるのが普通だから、小さなミラノがファッションの世界で多くの巨大都市に負けない力を発揮しているのはやはり稀有のことである。

それは多分ミラノが、都市国家の伝統を持つ自治体として機能し、完結したひとつの小宇宙を作って独立国家にも匹敵する特性を持っているからではないか、と考えられる。つまり、ニューヨークやパリやロンドンが飽くまでも国家の中の一都市に過ぎないのに対して、ミラノは街そのものが一国なのである。都市と国が相 対するのだから、ミラノが世界の大都市と競合できたとしても何の不思議もないわけである。

ところで、秀れた才能に恵まれたミラノのファッションデザイナーたちが、新しい流行を求めて生み出す服のデザインは、まぎれもなく一級の芸術作品である。 しかしその芸術作品は、どんなに素晴らしい傑作であっても、たとえば絵画や小説や音楽のように長く人々に楽しまれることはない。言うまでもなくファッショ ンが、流行によって推移していく消費財だからである。

ファッションデザイナーたちは、一瞬だけ光芒を放つ秀れた作品(服)を作るために、絶え間なく努力をつづけていかなければならない。なにしろファッション ショーは、1年間に女物が2回、男物が2回の計4回行なわれる。彼らはその度に、日々の制作とは別に、多くの新しい作品を作り上げていかなければならない。アイデアをひねり 出すだけでも、大変な才能と精進が必要であることは火を見るよりも明らかである。

1994年、44歳の若さで亡くなった偉大なデザイナー・モスキーノが、かつてファッションショーで語ってくれた内容を僕は決して忘れることができない。

モスキーノは当時のミラノのファッション界では、アルマーニやフェレやベルサーチなどと並び称される大物デザイナーだった。同時に彼らとは一線を画す、カ ラフルで斬新で遊び心の強い作品を魔法のように次々に生み出すことで知られていた。彼のファッションショーも、作り出された服と同じでいつもハチャメチャ に明るく賑やかで、舞台劇を見るような楽しさにあふれていた。

ある日彼のショーを取材した後の雑談の中で、ファッションショーの度に次から次へとアイデアが出るのには感心する、というような月並みな賛辞を僕はモスキーノに言った。するとデザイナーが答えた。

「ファッションショーは一つ一つが生きのびるか死ぬかを賭けたテストなんだ。この間何かの雑誌で読んだけど、日本の大学の入学試験はものすごく厳しいらし いじゃないか。ファッションショーもそれと同じだよ。しかも僕らの入学試験は、仕事を続ける限り毎年毎年3ヶ月に1度づつ繰り返されていく。ときどき辛く て泣きそうになる・・・」

駆け出しのデザイナーならともかく、一流のデザイナーとして既に揺るぎない評価を得ているモスキーノが、一つ一つのファッションショーを生きのびるか否かのテストだと言ったのが僕にはすごく新鮮に聞こえた。

季節ごとに一新される各デザイナーの作品(コレクション)は、必ずファッションショーで発表される。そしてそのショーの成否は服の売り上げに如実に反映される。モスキーノはそのことを指して、ファッションショーを生きのびるか否かを賭けたテストだと言ったのである。

ファッションは創作と販売が分かち難くからみついている珍しい芸術分野である。従ってモスキーノが、ファッションショーを生死を賭けたテスト、と言ったのは極めて適切な表現だったと僕は思う。

ミラノには日夜髪を振り乱して創作にまい進する多くのモスキーノたちがいる。だからこそ小さな都市ミラノは、街そのものが内に秘めている都市国家としての心意気も相俟って、世界中の大都市に対抗して今日も堂々とファッションの世界をリードしていけるのだろう。

マフィアの用心棒


マフィアの構成員ヴィットリオ・マンガノが、ベルルスコーニ元首相の厩舎番として雇われていたのは1973年から1975年の間である。彼は元首相の子供たちが誘拐されないよう警戒する役割を担っていた。

マンガノはベルルスコーニ邸を離れて25年後の2000年7月、殺人罪で終身刑を受けて収監され、わずか数日後に獄死した。死因は癌だとされる。彼はベルルスコーニ邸で仕事をしながら、デルトゥリ元上院議員と共にマフィアとベルルスコーニ氏の仲を取り持ったという強い疑いをかけられている。

 デルトゥリ元議員もベルルスコーニ元首相もそれを否定し、それどころか元首相は、マンガノを雇ったとき彼がマフィアの構成員であるとさえ知らなかった、と証言している。その真偽はさておいて、僕は元首相がマンガノを用心棒として雇ったのは許せる出来事であったように思う。 ベルルスコーニ氏が政界に進出した頃は、僕も彼の支持者とは言わないまでも、元首相に好感を抱いている人間の一人だった。しかし時間経過と共に、公私混同の著しい政策やでたらめな言動に嫌悪感を覚えて、僕は長い間彼の批判者であり続けている。しかし、マンガノ事案に関しては、僕はあまり元首相を批判する気にはなれない。そのことは公平を期するためにも言っておくべきだと考えたので、エントリーすることにした。

1960年代後半からイタリアでは誘拐事件が相次いで発生していた。政治がらみのものもあったが、身代金目当ての誘拐事件も頻発していた。裕福な家の子供が誘拐されて、本人であることの証明として耳を切り落とされ、身代金要求と共にそれが家族に送りつけられる、というような残酷なケースも目だった。

実業家として大成して大きな富を得、それをさらに拡大しようとしていた時期のベルルスコーニ氏が、そんな物騒な世情を目の当たりにして、2人の子供の安全を気遣ったのはごく自然なことである。彼は部下のデルトゥリ氏の紹介で強持ての男、マンガノを子供の周囲の監視役として雇った。

 恐らく彼はその時、マンガノがいかなる経歴の男であるかは知らされていたのではないか。マフィアの一員を雇ったこと。部下の中にマフィアとつながる者がいること。そしてマフィアの存在そのものetc、etc・・それらは悪であり、不快なことであり、排斥されるべき事柄であることは論を待つまでもない。長きにわたってイタリア随一の政治家であり続け、首相経験もあるベルルスコーニ氏の場合には特に。

ところが、マンガノを用心棒として雇った1973年のベルルスコーニ氏は、若くして富を得た有能な実業家の一人に過ぎなかった。彼が政界に進出するのはそこから20年以上も先、1994年のことである。子供の安全の為にマフィアの構成員を用心棒として雇った男が、一人の大金持ちなら良くて、政治家なら悪い、というのは筋の通らない話だが、僕はこの件では敢えて筋を曲げて元首相を弁護したい気持ちになるのだ。

なぜなら一連の出来事はここイタリアでの話である。誘拐事件を起こすような連中は、マフィアと直接あるいは間接に関わりがある場合も多いと考えられる。マフィアの真正の構成員であるヴィットリオ・マンガノが、子供の守護役としてベルルスコーニ氏に雇われた事実は、闇のサークルで素早く広く噂として拡散して、誘拐の抑止力になり易かったであろうことは想像に難くない。

元首相と、マフィアに近いとされる彼の右腕のデルトゥリ元上院議員は、そのことを確認しあった上で、例えば民間の警備会社員や元警察官や元軍人などの
「普通の用心棒」ではなく、闇社会に顔の聞く「異様な用心棒」ヴィットリオ・マンガノを敢えて採用したのではないか。

もしそうであるならそのエピソードは、ベルルスコーニ氏が政界進出をしていなかった場合は、きっと誰にも気に留められずに時間の流れに埋もれて消え去っていたに違いない。

そんなエピソードはイタリアにはきっと多い、と僕が感じるこの「感じ」はしかし、この国に住んでみないと恐らく分かってもらえないことなのだろう・・



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