2016年12月

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ Ⅱ



イタリアでイスラム過激派によるテロが発生していないのは、イタリア警察が頑張っているからである。マフィアがテロを防いでいるなどという説は、イタリア=マフィアという先入観に毒されたテンプラに過ぎない。

そのことを確認した上で、いくつかの所感あるいは疑問点も、ここに記録しておこうと思う。

イタリアはもう長い間イスラム過激派からテロの脅迫を受け続けている。それでも一度も事件が起きないのは、あるいはイタリアには攻撃するだけの価値がない、とテロリストが見なしているからかも知れない。

つまり、パリやロンドンやブリュッセル、あるいはベルリンを攻撃するほどの「宣伝価値」がない、と彼らが考えていることだ。ローマを始めとするイタリアの多くの有名観光都市は、政治的に見て価値が低い、と彼らが独自の評価をしていないとは誰にも言えない。

次は幸運な偶然が重なってテロが避けられている可能性。たとえば12人が死亡し50人近くが重軽傷を負ったベルリンのトラック・テロ犯、アニス・アムリは、5日後にイタリア北部の街セスト・サン・ジョヴァンニで警官に射殺された。

ミラノ近郊のセスト・サン・ジョヴァンニは、共産党の勢力が強いことからかつて
「イタリアのスターリングラード 」とも呼ばれた街だ。現在は中東やアフリカからの移民が多く住む多文化都市になっている。大きなムスリム共同体もある。

そこにはミラノ発の地下鉄の終着駅があり、南イタリア各地とモロッコ、スペイン、アルバニアなどへの長距離国際バスの発着所もある。いわば交通の要衝都市だ。アニス・アムリは2011年にチュニジアからイタリアに入り、投獄の経験などを経て北欧に向かった。

ベルリンでの犯行後、フランス経由でイタリアに戻った彼は、セスト・サン・ジョヴァンニ駅近くで職務質問をされて、警官に向かって発砲。銃撃戦の末に死亡した。彼はムスリム共同体のあるセスト・サン・ジョヴァンニで仲間と接触しようとしたと見られる。

テロリストはそこで何らかの準備をした後、セスト・サン・ジョヴァンニからバスでモロッコに出て、故国のチュニジアに逃亡しようとしたのかも知れない。あるいは前述したように、イタリアでのテロを画策していたのが射殺されて潰えたのかもしれない。

アムリの死によって彼が計画していたイタリアでのテロが未然に阻止されたなら、それは偶然以外の何ものでもない。そしてもしかすると、同じようなことがそこかしこで起こっているかもしれない。おかげでイタリアはテロから免れている。

イタリアならではの次のようなシナリオの可能性も皆無ではない、と僕は考えている。イタリア共和国と警察当局が、彼らの対テロ作戦にマフィアを組み込んでうまく利用している。その場合はマフィア以外の組織、つまりンドランゲッタやカモラなどのネットワークも使っているかもしれない。

1980年代、マフィアはイタリア国家を揺るがす勢いで凶悪犯罪を重ねた。彼らは国家を脅迫し、国家との間に犯罪組織を優遇する旨の契約を結んだとさえ言われた。だが90年代に入ると形勢は逆転。最大のボスであるトト・リイナを始めとする多くの幹部も次々に逮捕されて弱体化した。

それでもマフィアは健在である。しかし、現在は国家権力が彼らの優位に立っているのは疑いようがない。したたかな権力機構は、80年代とは逆にマフィアを脅迫、あるいはおだてるなりの手法も使って、組織を対テロ戦争の防御壁として利用している可能性もある。

そこには、かつてマフィアと国家権力との間に結ばれた、契約なり約束に基づいた了解事項あるだろう。それが何かは分からないが、かつて2者の間に何らかの合意があった、という説は執拗に生きている。ナポリターノ前大統領は「イタリア共和国とマフィアとの間には約定はない」と公式に表明しなければならないほどだった。

合意そのもの、あるいはその名残のようなものの存在の是非はさて置くとしよう。もしもテロ対策に長けたイタリア治安当局が、マフィアに何らかの便宜を図る司法取引を持ちかけて、密かに彼らをイスラム過激派との戦いに組み入れているのならば、それはイタリア国家と警察機構の狡猾と有能を示す素晴らしい動きだ。

イタリア警察はここまでテロを未然に防いできた。だが今後はどうなるかは誰にも分からない。前述の作戦が秘密裏に展開されているなら、「国家と犯罪組織の共謀」という大いなる不都合にはしばらく目をつぶって、テロの封じ込めを優先させるべき、と考えるのは不謹慎だろうか?

珍説:マフィアがイタリアのテロを防ぐ


僕のブログの読者の方から「イタリアでテロが起きないのはマフィアがいるから、と聞きましたが本当でしょうか。できたらそのことについて書いてください」という連絡をいただいた。

僕はおどろき、苦笑しつつその情報の出所を探したがよく分からなかった。よく分からないが、イタリア=マフィアという、いつものステレオタイプに根ざしたヨタ話の類であろうことは想像ができる。

先ず一番考えやすいのは、テロ=犯罪(犯罪組織)=マフィアという図式から導き出す浮薄な論考である。犯罪組織であるマフィアは同じ犯罪組織であるテログループ、あるいはテロ犯がイタリアに侵入するのを嫌ってこれを殲滅する、という主張あたりだろうか。

イタリアには3大犯罪組織がある。マフィア(コーザノストラ)、カモラ、ンドランゲッタである。これにサクラ・コローナ・ウニタを加えて4大組織と考える場合もある。それらの犯罪集団は全て経済的に貧しいナポリ以南の各地を拠点にしている。ローマに根を張る別の組織もある。

彼らはそれぞれをの縄張りを互いに尊重し合い、縄張り外に進出する場合も基本的には衝突を避ける形でしのぎを削っている、とされる。だがその実態は正確には分からない。ライバル組織同士がぶつかる、といった事件がほとんど無い事実がその推測を呼ぶのである。

さて、マフィアがテロを防ぐ、という時のマフィアとは歴史や勢力図などから見て、シチリア島が拠点の「本家マフィア」のことだろう。それは最も勢力が大きく、アメリカのマフィアとも親戚筋にあたる。彼らは欧州にも世界各地にも根を張っている。そのマフィアがテロを阻止している、ということなのだろう。

だがそれはお門違いの論法だ。なぜならマフィアはむしろテロ組織との共謀を模索している、と見るほうが妥当だからだ。マフィアはテロが横行して国が混乱する方が嬉しいのだ。それだけ彼らの悪行が成就しやすくなり、彼らに対する官憲の追及もテロ対策に忙殺されて緩む。

事実、イタリア国家と治安機関がISを始めとするイスラム過激派組織の台頭に最も神経を尖らせるのは、彼らのイタリアへの直接攻撃はもちろんだが、テロ組織とマフィアなどの犯罪組織が手を結んで社会を混乱させ、利益を挙げようと画策することである。

マフィアがテロ組織と手を結びたくなるインセンティブは、イタリア国内での犯罪・利権漁りに留まらない。彼らはテロ組織と共謀して、主に北アフリカの国々に勢力を拡大したいと渇望している。そこにはリビアやチュニジアなどを筆頭に、歴史的にイタリアと関係が深いアラブ諸国が幾つも存在する。

それらの国々の多くは、イスラム過激派やテロ組織の巣窟でもある。彼らがマフィアの手助けをする見返りに、マフィアはテロ犯の動きをイタリア国内で助ける、という図式が警察当局の最も恐れるものなのだ。マフィアはテロを阻止するのではなく、むしろ鼓舞するのである。

イタリアの犯罪組織の中では、シチリアを拠点にするマフィアが圧倒的に強かったが、近年は半島南部のプーリア州に興ったンドランゲッタが急速に勢いを増している。マフィアも押され気味だ。ンドランゲッタは北部イタリアのミラノなどでは、マフィアを凌ぐ勢力になったのではないか、とさえ見られている。

加えてイタリアがEU(欧州連合)の一員であるために、欧州全域からのマフィアへの風当たりが強くなって、そこでもマフィアは四苦八苦している。そんな折だから、マフィアはイスラム過激派と組んで、彼らの得意な麻薬密売や密貿易や恐喝、また無差別殺戮の爆弾テロなどを縦横に遂行したい気持ちが山々なのだ。

イタリアの官憲は「イタリアらしく」のんびりしていて厳密さに欠ける、というステレオタイプな見方がある。ステレオタイプには得てして一面の真実が含まれる。だがテロ抑止に関しては、彼らはきわめて有能でもある。それがここまでイタリアにテロが発生していない理由だ。

具体的に見てみよう。カトリックの総本山バチカンを擁するイタリアは、これまでに繰り返しイスラム過激派から名指しでのテロ予告や警告を受けてきた。それにもかかわらず、未だに何事も起こっていない。2015年には、半年にも渡って開催されたミラノ万博の混乱も無事に乗り切った。

また万博終了直後から今年11月20日までのほぼ一年間に渡って催された、バチカンのジュビレオ(特別聖年)祭の警備も無難にこなした。ジュビレオでは2000万人余りのカトリックの巡礼者がバチカンを訪れた。そこに通常の観光客も加わって混雑したローマは、テロリストにとっては絶好の攻撃機会であり続けた。が、何事もなく終わったのだ。

また、国際的にはほとんど報道されることはないが、軍警察を中心とするイタリアの凶悪犯罪担当の治安組織は、実は毎日のようにイスラム過激派の構成員やそれに関連すると見られる容疑者を洗い出し、逮捕し、国外退去処分にしている。このあたりは警察を管轄するシチリア出身のアンジェリーノ・アルファーノ前内務大臣の功績が大きい、と僕は個人的に考えている。

イタリアの官憲は、たとえば車で言えばアルファロメオだと僕は思う。イタリアの名車アルファロメオは、バカバカしいくらいに足が速くて、レースカーのようにスマートで格好がいい。ところがこの車には笑い話のような悪評がいつもついてまわる。いわく、少し雨が降るとたちまち雨もりがする。いわく、車体のそこかしこがあっという間にサビつく、云々。「突出しているが抜けている」のである。

イタリアの官憲もそれに似ている。テロを見事に防いでいるのがアルファロメオの抜群の加速性であり美しいボディーだ。一方、追い詰めたコソ泥やマフィアのチンピラに裏をかかれて慌てふためいたりする様子は、雨漏りや車体のサビとそっくりだ。幸いこれまでのところは官憲の突出部分だけが奏功して、イタリアにはテロが起こっていない。

そこには本当にマフィアの功績はないのか、と言えば実は大いにある。つまりイタリア警察は、長年に渡るマフィアとの激しい戦いのおかげで、彼らの監視、捜査、追及、防止等々の重要な治安テクニックを飛躍的に発展させることができた。その意味では「マフィアがイタリアのテロを防いでいる」という主張も、あながち間違いではない、と言えるかも知れない。


クリスマスに仏教を思い神々を思う幸い



今年のクリスマスも静かに過ぎた。

クリスマスの朝は、久しぶりに家族とともに教会のミサに出かけた。最近、地区の教会の主任司祭(神父)が20年ぶりに替わった。そこで新任の神父さんにできればお目通りを、と考えたのである。

人が多過ぎたので神父との直接の顔合わせはかなわなかった。しかし、何かの行事で近いうちに必ず会うことになるだろうから、一向にかまわない。その日はすぐに帰宅した。

ミサの間中、とはいわないが、大半の時間を神父の講話内容とは別の物思いにふけって過ごした。もっともそこは教会なので、神や宗教と自分のことを考えるのは全て関連性がある、とも言える。

クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み、的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスのミサの最中の考え事も、そんな僕の習癖のひとつに過ぎない。

上の息子が中学に上がるか上がらないかの年頃だったと思う。同じ教会における何かの折のミサの途中で、彼が「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と僕にささやいた。

大丈夫?とはクリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から僕への気遣いである。

僕は成長した息子におどろいた。気遣いをよくする子供だから気遣いそのものにはおどろかなかった。だが、そこにあるかもしれない教会+信者と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのだ。  

僕は彼に伝えた。「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」それは僕の嘘偽りのない思いだった。

イエス・キリストは断じて僕を拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしもそこでキリスト教徒ではない僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸い彼らも僕を拒むことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく仏教系無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論「尊重」する。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を同様に解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。僕だけではない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもある。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。


申し訳ないが今のところ「中国が嫌いなイタリア」は割りと好きです


2年前、アメリカの調査機関が世界44カ国で行った世論調査で、中国が嫌いな国民のトップ3が日本の91%、ベトナム78%、そして3位が意外にもイタリアの70%と出た。

それを見て僕は、われながら大人気ないと思いつつ「中国が嫌いなイタリアが好き」とあらためて感じ、その趣旨でブログ記事を書き出した。が、やはりひどく「大人気ない」と感じて途中でやめた。

ところが先日、中国政府が大都市住民を地方に移住させる計画を立てて、「市民の意思にはお構いなく家を壊しては人々を追い立てている」という事実を知り、忘れていた中国への不信感がよみがえった。

そこで2年前と同じ調査機関のリサーチを覗いてみた。すると中国が嫌いな国の1位は、2016年もやはり日本で86%。2位はフランスとイタリアの61%。続いてドイツの60%などとなっている。

イタリアの中国嫌い度は70%から下がったが、それでもかなり高い数字だ。フランスは2014年は53%で10位だったが、今年は中国嫌いの人が増えた。またドイツは、2014年時も中国が嫌いな人が64%にのぼっていた。

ところで今年は、中国を好きと答えた国々もギリシャやオーストラリアでは50%を越え、オランダ、カナダ、ハンガリーでも40%を越えたことは付け加えておきたい。

僕は中国という多くの優れた思想文化や実学・技術文明を生み出した国を尊敬している。同時に近年は、増長したのか覇権主義に走ったり、人権を踏みにじりつつ詭弁を弄して立ち回ったりする姿には失望も覚える。

そんな折の2年前、日本国民の91%とべトナム国民の78%に続いて、イタリア国民の70%が中国に嫌悪感を抱いているという数字に接し、胸中で「さもありなん」と呟いたものだ。

日本やベトナムは中国の覇権主義の直截あるいは潜在的な脅威にさらされている。従って両国の国民が中国への不信感を募らせるのは理解できることだ。だが中国から遠い欧州に位置しているイタリア国民の、強い「嫌中国」感情は一見奇妙だ。

イタリア国民が中国を疎ましく思うのは、実は中国移民への負の感情によるところが大きい。イタリアには国中に中国人移民が溢れている。ところが彼らは圧倒的な人数でこの国に押し寄せているにも関わらず、全くと言ってよいほどイタリア社会に溶け込まない。

たとえばミ ラノには華僑が集中するチャイナタウンがある。そこは中国人が固まって好き勝手に生きる無法地帯としてイタリア人の不評を買うことも多い。チャイナタウンをミラノ郊外に丸ごと移転さ せようとする計画さえあるぐらいだ。

イタリア政府は世界のあらゆる国々と同様に、中国の経済力を無視できずに彼の国に擦り寄る態度も時々見せる。しかし国民は、ミラノに限らずイタリアの多くの街や地域で増え続ける、中国人移民に恐れをなしているのも事実だ。

世界には中国人移民が多く進出している。イタリアも例外ではない。今言ったミラノを筆頭におびただしい数の中国人が流入して、合法・違法を問わずに住み着き、就労し、商売をしている。

ところが彼らは、前述したように、全くと言って良いほどイタリア社会に溶け込んでいない。その努力をしている気配さえあまり感じられない。彼らだけの閉鎖社会内で寄り添って群れている印象が強い。

中国人移民のほとんどは、社会参画あるいは市民相互の融合という意味では、たとえば僕もその一人である「日本人移民」と比べても分かりにくい存在だ、と多くのイタリア人知己や友人らが言うのも事実だ。

それはひとえに、日本人が多くの場合イタリア社会に溶け込んでいるのに比べ、彼らがそうしないことに由来している。日本人も同胞同士で固まることはもちろんある。だが同時にイタリア社会にも馴染んでいるのが普通だ。

現地社会とほぼ完全に没交渉でありながら彼らは、全ての移民がそうであるように、イタリア社会の恩恵にも浴して生きている。つまりこの国に住まい、商売をし仕事をして、社会保障の恩恵も享受する。それでいながら税金は払わないなどの不都合も目立つ、とも陰口される。

それが事実ならイタリア市民が怒るのも無理はないだろう。もっともそうした悪口には、法に則って居住しビジネスを行い、納税などの義務もきちんと果たしている多くの中国人の存在が、すっぽり抜け落ちている、というのが定番だけれど。

ところで、アメリカの調査機関による分析でイタリア人の反中国感情が高いのは、イタリア国民が持つ日本への共感の裏返し或いは反映ではないか、という意見もよく聞く。しかし、それは見当違いな考え方だろうと思う。

イタリア人の大多数は日本人が好きだし、日本国とイタリア共和国も友誼に富む良好な関係にある。が、彼らの中国嫌いの心情は、飽くまでもイタリア人自身の中国への直接な思いであって、日本との関連はないと見るべきだ。

また、かつてのいわゆる日独伊三国同盟の名残からイタリア人が日本人の肩を持つ、という考えも的を射ているとは言い難い。そんな歴史にロマンを感じる風潮がイタリアに皆無とは言えないが、それは先の大戦を経験した極く少数の老人などが持つ稀な感情である。

イタリア人の日本への好感は、戦後の平和主義とそれに伴う経済成長と謙虚な国民性などによるものである。それがあるからイタリアファシズムという悪と日本軍国主義という悪が手を結んで戦った恥辱の歴史もほぼ帳消しになって、未来志向のポジティブな関係また感情が構築されてきた。

現在イタリア人が持つ日本へのネガティブなイメージは、他の多くの欧米諸国同様に、右カーブ一辺倒の政策を続ける安倍政権への危惧ぐらいのものだ。それとて安倍首相個人を極右に近いナショナリストと見なして監視している、というのが実情で日本国民への好感度は相変わらず高い。

閑話休題

アメリカの調査機関が導き出すイタリア国民の中国観には違和感もある、というのが実は僕の正直な思いである。イタリア人は古代ローマ帝国以来培ってきた自らの長い歴史文明に鑑みて、中国の持つさらに古い伝統文明に畏敬の念を抱いているのが普通だ。

言葉を換えれば彼らは、ローマ帝国の師とも言える古代エジプトにも匹敵する叡智を生んだ中国の歴史に親近感を抱いている。それが突然「嫌中国」感情一色に変わったように見えるのは不思議だ。にわかには信じ難い現象だと思った。だがそれが現実なのである。

イタリアの巷に溢れる中国人移民の動静に加えて、彼らの故国、「中国の国のあり方」もイタリア国民の眉をひそめさせる。つまり国際慣例や法令をないがしろにしたり、覇権主義に走って国際秩序を乱したりしがちな、今この時の中国の実態である。

放埓な共産主義国家と移民のイメージは残念ながら、偉大な世界文明の一つを紡いだ中国の長い輝かしい歴史を否定し、忘れさせるに十分な程のインパクトを持っている。しかもそれはイタリアに限らず欧州の殆どの国々にも当てはまる現実なのだ。

それらの嫌中国、反中国人感情はあってはならない残念なものだ。中国政府と中国国民は、人の良いイタリア人でさえ彼らを嫌悪するケースが多々ある、という深刻な事態にそろそろ気づくべきだ。気づいてそれを修正するべく適切な道を模索するべきだ。

これは決して偽善から言うのではない。そうすることが中国の為になることであり、ひいては日本の利益にもなり、イタリアそして世界全体にも資することになるのだ。中国が大国としての尊敬を集めたいのであれば、そんな当たり前の真実にしっかりと目を向けるべきだ。

このままだと中国は世界からそっぽを向かれかねない。あるいはそっぽを向かれ続ける。そして世界には、日本の極右陣営を始めとして、そうあることを強く望んでいる勢力が多々ある。中国が彼らを利することを潔しとしないなら、その旨しっかりと道を定めて進むべきだ。

似て非なるソックリさん~トランプ&ベルルスコーニ

鏡絵の二人

オワコンvsトレンド

トランプ米次期大統領とイタリアのベルルスコーニ元首相の間には共通点が少なくない。前者はこれから昇り竜の勢いで恐らく世界を席巻し、後者は自らが前者に例えられることを喜んでいる事実からも察せられるように、すでに終わった人と見なしても構わないと思う。それでも、たとえば12月4日に行われたイタリア国民投票のように、紛糾する同国の政局に於いては、依然として影響力を行使政する治家である。事態の是非や好悪の念は別にして、何かと話題になる2人について少し考えてみたい。

ベルルスコーニ元首相への評価は、約20年に渡ってイタリア政界を牛耳り、4期計9年間も首相を務めた時間の重さの割には、極めて低いと言わざるを得ない。将来の歴史家がどこかで違う評価を下す可能性は常にあるが、彼が自らの刑事訴訟を回避する法律を作ったり、巧妙に所有企業への便宜を図るなど、私利私欲のために立ち回った政治スタンスと、裁判沙汰や未成年者買春疑惑などを始めとするスキャンダルの多さは、あまたの批判を喚起するのが普通だ。

一方のトランプ氏は、政治家としてしてはまだ何も成就しておらず、選挙キャンペーン中に彼が提示した政策は、政策と呼ぶには程遠い罵詈雑言やヘイトスピーチや誹謗中傷の類だった。従って2人は政治家としても、また政策上でも相似点や異なる点は今のところは何もない。彼らが似ているのは、政治の世界に乗り出したきっかけや背景や人となりや思想信条などである。それでも政治的にはほぼ終わったベルルスコーニ氏をつぶさに見ることで、トランプ氏の政治家としての未来を占うことはできるかもしれない。

2人の共通点:実業家

共に成功した実業家で大金持ち。どちらも政治家としては未知数、という状況でそれまでのビジネスでの成功を頼みに政治の世界に殴り込みをかけた。それでいながら、ベルルコーニ氏は政界入りから間もない速さで政権を奪取、また周知のようにトランプ氏は、不可能にも見えた共和党大統領候補の座を射止めるや否や、アメリカ大統領へと一気に駆け上っていった。

双方とも建設業を足がかりに、ベルルスコーニ氏はテレビ網や出版また新聞社などを所有してメディア王と呼ばれるようになり、トランプ氏は不動産王と称される事業家になると同時に、テレビタレントとしても成功した。前者はメディアの中でも特にテレビを重視。自らも頻繁にテレビに出演して、討論や演説で自説を開陳しまくった。2人共にテレビに深い縁を持ち、視聴者ひいては世論を味方につけるメディア操作術を得意とする。

艶福家&偏好発言

文学的(?)に言えば性愛好き。つまり好色家。女性蔑視と見られても仕方のない行状や暴言やジョークを連発して、顰シュクを買いつつも少しも悪びれず、むしろそれを特技に変えてしまうかのような悪運の強さがある。トランプ氏は3回結婚。ベルルスコーニ氏も2回の離婚歴があり、御ン年80歳の現在はほぼ50歳年下の婚約者と同棲している。

漁色が高じて、ベルルスコーニ氏は少女買春疑惑を始めとするセックススキャンダルにまみれ、私邸での「ブンガブンガ」乱交パーティーは流行語にもなった。またトランプ氏は選挙期間中に多くの女性への性的虐待疑惑が明るみに出るなど、両人とも女好きでありながら同時に女性の精神性や能力を蔑視するような、いわゆるミソジニストの側面を持っていると批判される。

2人とも反移民の立場を取り、人種差別主義者、また特にイスラム教徒への偏見が強い宗教差別者と見なされることも多い。しかしトランプ氏が、特に選挙期間中にあからさまな表現で人種差別や宗教差別、また移民への偏見や女性蔑視をあらわにしたのと比べて、ベルルスコーニ氏はおおっぴらにそうした主張をすることは少ない。それでいて、イスラム教徒は1400年代と同じメンタリティーに縛られていると口にしたり、オバマ大統領は日焼けしているなど、本人はジョークのつもりの人種差別まがいの失言にも事欠かない。

利害対立と政治手法

両者はビジネスを成功させた手腕をそのまま用いて、国家の経済をうまく機能させられると考え、そう主張する。しかし実際に権力を握ったベルルスコーニ氏は、首相の座に就いていた間もそうでない時も、国民を思って景気を良くしようと努力することはほとんどなかった。それどころか政権の最後には、自らの利益のために立ち回って国家経済を停滞させた責任を取らされ、辞任した。

公益のために身を粉にして活動するには、元首相は余りにも多くの個人資産や事業を抱え込んでいたのだ。いわゆる(公私の)利害衝突だ。元首相と同じビジネス大君のトランプ氏は、同じ轍を踏まない努力をするべきだが、ここまでの動きを見る限りでは、元首相と似た手法を用いて国家経済を牽引できないか、と模索しているふしがある。危ういことこの上もない。

また両氏は正統主義とはほぼ逆の政治手法、つまり体制に反旗を翻すと見せかけた動きで民衆の支持を取り付けるのがうまい。いわゆるポピュリズムの扇動者。彼らが使う言葉が往々にして野卑であり、挑戦的であり、かつ怒りに満ちているように見えるのは、民衆の不満の受け皿としての政治的スタンスを最大限に利用するためである。その場合彼らは具体的な政策や解決法を示さないことも多く、時には嘘も厭うことなく織り込んで、主流派と呼ばれる社会層を声高に批判し、民衆の喝采を受けることに長けている。

子供の放言~元首相を擁護する訳ではないが

2人には巨大かつ根本的な違いもある、というのが僕の意見である。つまりベルルスコーニ氏は、トランプ氏のように剥き出しで、露骨で無残な人種偏見や、宗教差別やイスラムフォビア(嫌悪)や移民排斥、また女性やマイノリティー蔑視の思想を執拗に開陳したりすることはなかった。或いはひたすら人々の憎悪を煽り不寛容を助長する声高なヘイト言論も決してやらなかった。また今後もやらないであろうということだ。

言うまでもなく彼には、オバマ大統領を日焼けしている、と評した前述の言葉を始めとする愚劣で鈍感で粗悪なジョークや、数々の失言や放言も多い。また元首相は日本を含む世界の国々で、欧州の国々では特に、強く批判され嫌悪される存在である。僕はそのことをよく承知している。それでいながら僕は、彼がトランプ米次期大統領に比べると良心的であり、知的(!)でさえあり、背中に歴史の重みが張り付いているのが見える存在、つまり「トランプ主義のあまりの露骨を潔しとはしない欧州人」の一人、であることを微塵も疑わない。

言葉をさらに押し進めて表現を探れば、ベルルスコーニ氏にはいわば欧州の
“慎み”とも呼ぶべき抑制的な行動原理が備わっている、と僕には見える。再び言うが彼のバカげたジョークは、人種差別や宗教偏見や女性蔑視やデリカシーの欠落などの負の要素に満ち満ちている。だが、そこには本物の憎しみはなく、いわば子供っぽい無知や無神経に基づく放言、といった類の他愛のないものであるように僕は感じる。誤解を恐れずに敢えて言い替えれば、それらは実に「イタリア人的」な放言や失言なのだ。

あるいはイタリア人的な「悪ノリし過ぎ」から来る発言といっても良い。元首相は基本的にはコミュニケーション能力に優れた楽しい面白い人だ。彼は自分のその能力を知っていて、時々調子に乗ってトンデモ発言や問題発言に走る。しかしそれらは深刻な根を持たない、いわば子供メンタリティーからほとばしる軽はずみな言葉の数々だ。いつまでたってもマンマ(おっかさん)に見守られ、抱かれていたいイタリアの「コドモ大人」の一人である「シルビオ(元首相の名前)ちゃん」ならではの、おバカ発言なのである。

似て非なる2人

トランプ氏にはベルルスコーニ氏にあるそうした抑制がまるで無く、憎しみや差別や不寛容が直截に、容赦なく、剥き出しのまま体から飛び出して対象を攻撃する、というふうに見える。トランプ氏の咆哮と扇動に似たアクションを見せた歴史上の人物は、ヒトラーと彼に類する独裁者や専制君主や圧制者などの、人道に対する大罪を犯した指導者とその取り巻きの連中だけである。トランプ氏の怖さと危険と醜悪はまさにそこにある。

最後にベルルスコーニ氏は、大国とはいえ世界への影響力が小さいイタリア共和国のトップに過ぎなかったが、トランプ次期大統領は世界最強国のリーダーである。拠って立つ位置や意味が全く異なる。世界への影響力も、イタリア首相のそれとは比べるのが空しいほどに計り知れない。その観点からは、繰り返すが、トランプ氏のほうがずっと危険な要素を持っている。

トランプ氏が大統領の座に就けば、これまでの暴言や危険思想やヘイト言動が軌道修正されて「まとも」な方向に進む、という考えは楽観的に過ぎると思う。またたとえそうなったとしても、それは彼が変わったのではなく、政権の周囲がそうさせるに過ぎない。彼の本質は永久に変わらない、と見るのが妥当だ。その変わらない本質を秘めたまま、トランプ次期大統領は地上最大・最強の権力者の座に就こうとしている。


イラストby kenji A nakasone




ジェンティローニ内閣の課題



イタリア首相にはジェンティローニ外相が昇格。彼は辞任したレンツィ首相に最も近い閣僚だった。その意味ではマタレッラ大統領も同じ。この人事は将来のレンツィ復権をにらんだものかもしれない。

というのもマタレッラ大統領は、テクノクラート内閣ではないなら、パドアン財務大臣かグラッソ上院議長のどちらかを首班に指名して組閣要請をする、とされていたのが突然変わったからだ。

パドアン財務大臣は欧州ひいては世界経済への悪影響を少しでも抑えるために、また党派色の薄いグラッソ上院議長は政治危機を乗り切るための挙国一致内閣に相応しい、と見られていた。

マタレッラ大統領と辞任したレンツィ首相の間に、密約、とは言わないまでも、将来への含みを持たせた話し合いと合意があった、と見るのはそれほど突飛な発想ではないだろう。

ジェンティローニ、マタレッラ、レンツィの3氏は、今後強く連携し、助け合いながら2018年の総選挙でのレンツィ氏のカムバックを目指すのではないか。

むろん、ジェンティローニ内閣が信任され、政権が船出して、かつ権力を得たジェンティローニ首相がレンツィ氏にいつまでも忠誠を尽くす、というあり得そうもない話があった場合の物語だけれど・・

文字通り魑魅魍魎たちが跋扈する政局は、相変わらず複雑で見ていて面白くもありウンザリもする。ウンザリするなら放っておけばいい、というのが筋である。

しかし、それらの魑魅魍魎は、自らにも関わる政治決定や決断や取り決めをする権力をゆだねられているのだから、やっぱり監視をしていたい。いや、監視をしていなければならない。

もっとふざけたやわらかい話や、ノーテンキな発想や、エロやナンセンスやバカバナシというものが僕は好きで、またそういう人間だと思っているので、そこに集中したいというのが本心だけれど・・

ともあれ、ジェンティローニ首相のさしあたっての難題は- 彼の組閣が信任されたと仮定しての話だが- 世界最古でイタリア第3の規模の「モンテ・デイ・パスキ・ディ・シエナ」銀行の救済策。

経営難に陥っている同銀行は、莫大な不良債権を抱えて倒産の危機にある。国民投票の影響でEU(欧州連合)が支援に難色を示して、問題がさらに深刻化しているのだ。

危機のただ中のイタリアは右も左も問題だらけ。誰が政権を担っても国の舵取りは順風満帆からは程遠い・・



たのむぞ~っ!イタリア大統領!Ⅱ


イタリア政治危機を受けて、週末も調整に動き続けるマタレッラ大統領は、土曜日夜までに17の全ての政党代表及び幹部らとも会って意見を聞いた。

結論はまだ出ないが、民主党の首班候補として、前記事中の3人に加えてジェンティローニ外務大臣の名前も挙がっている。

日曜日朝までの時点では、どうやら彼が最右翼と見なされ始めたようだ。

4人以外の誰かが指名される可能性も大いにある。

たとえばフランチェスキーニ文化相の芽も。そのほかも。

もちろん総選挙になだれ込むサプライズもないとは言えない。

全てが流動的だ。

イタリア危機は続く。

首班が指名され、新内閣が組閣されても。

おそらくポピュリズムの大波が収まらない限り・・



たのむぞ~っ!イタリア大統領!



イタリアは国民投票後のレンツィ首相辞任によって、「いつもの」政治危機に陥った。

「いつもの」とは、政局混乱や政治空白や危機はイタリアでは「ありふれたこと」だから。

マタレッラ大統領は、危機打開に向けて、辞意を表明したレンツィ首相を始めとする各政党党首や議会幹部、またナポリターノ前大統領などとも会って協議を開始した。

憲法改正案を大差の「NO票」で反故にして、勢いづくポピュリスト政党の五つ星運動と極右の北部同盟は、予想された通りただちに総選挙をするべきとして声を張り上げている。

事態が混乱すれば選挙になだれ込む可能性は否定できないが、規定では総選挙は早くても2018年までは行われない。

そこまでは議会主流派の民主党を中心とする挙国一致内閣、または政党色を払拭したテクノクラート政権などで乗り切ることが考えられている。

民主党内閣なら、欧州また世界経済への悪影響の可能性を少しでも避ける意味で、パドアン財務大臣を首班とする内閣か、党派職の薄いグラッソ上院議長の首相就任が取り沙汰されている。

また、国民投票で大敗を喫して、完全に芽がなくなったはずのレンツィ首相の再登板も噂に上り始めた。これは民主党内でのレンツィ氏の人気が、国民投票敗北後も圧倒的に高いことが理由である。

政治危機の中ではマタレッラ大統領が重要な任務を負う。イタリア大統領は普段は権限のない名誉職の色合いが強いが、議会解散権や首相任命権、また国民投票実施の権限などが与えられている。

政局が混乱した時には、大統領は政党間の調整役として動いたり、首班を指名して組閣要請を出したり、議会を解散して総選挙を行なうなどの重要な役割を果たす。

例えば2011年11月、ベルルスコーニ内閣が倒れた際には、当時のナポリター の大統領がマリオ・モンティ氏を首相に指名して、組閣要請を出した。

イタリア財政危機に端を発した政治混乱の中で、ナポリターノ大統領が見せた誠実な言動と指導力は、まるで無政府状態のように紛糾・空転するイタリア共和国を一つに繋ぎとめる効力があった。

イタリアはレンツィ首相の辞任で、しばらくは当時に勝るとも劣らない混乱に陥るだろう。首相は辞任に際して、超党派で難局を乗り切る必要があるとマタレッラ大統領に伝えたが、それは大統領も十分に承知だ。

マタレッラ大統領は組閣要請を出すために、レンツィ氏の再登板を含むあらゆる可能性を探ることになる。しかし調整が難航した場合には、議会を解散し総選挙を前倒して行う決断をするかもしれない。

影響が欧州から世界まで及ぶ可能性も高いイタリアの政治危機は、静かに、深く、確実に進行し始めた。マタレッラ大統領はその行く末に関わる重い決断を迫られている。


伊レンツィ首相の大罪、あるいは危険な国民投票

NOOO!


あっ気にとられた、というのがうそ偽りのない僕の最初のリアクションだった。イタリアの国民投票の結果のことだ。

70%に迫る高い投票率も驚きだったが、憲法改正に反対の国民がほぼ60%にものぼり、賛成はわずか約40%。20ポイントもの差がついた。どう逆立ちしても否定しようがない「憲法改正NO」の大勝利だった。

大差の敗北をいち早く認めたレンツィ首相は辞任を表明し、悔しさの中にサバサバした思いもこもっているのが明らかな表情をしていた。

それもそのはずである。投票前の2週間は世論調査の数字の公表が禁止されていたため有権者の動向は分からなかったが、それまでは改正NOのリードと出ていて、しかしYESの追い上げもあるため、どちらが勝ってもその差はわずかだと見られていた。

ところがフタを開けてみると、YESを懸命に押したレンツィ首相の惨敗。たとえ負けても政権を担い続ける可能性もある、と見られていた彼の芽は完全に消えた。僅差の負けなら求心力の低下が限定的に留まったかもしれないが、大きく打ちのめされた男が首相であり続けることは不可能だ。

国民投票で問われた憲法改正案は、上院の権限と定数を大幅に削減して議決権を下院に集中させ、上院と下院が全く同じ力を持つことから来る弊害を解消しよう、というのが主な内容だった。

上院の改革は、上院議員以外の全てのイタリア国民の願い、とまで言われてきた懸案。今回の国民投票で憲法改正に反対した勢力を含む多くの人々が、もともとは改革案に賛成してきた。当事者の上院でさえ昨年10月に改革案を受け入れ、あとは国民投票による最終審査が残されるのみとなった。

そんな状況を見て、自らの力を過信したレンツィ首相は、大きな間違いを起こした。国民投票で賛成が得られない場合は退陣すると表明したのだ。それは「国民投票で私を取るか、それとも私を失うか」と問うにも等しい、尊大な物言いだと多くの人々は感じた。

彼の政敵はその不遜な表明をうまく捉えて、「国民投票は首相への信任投票」と位置づけて強力な反レンツィ運動を展開。そこから流れは大きく変わって、国民投票の真の意味が見えなくなるほどに「改正NO」の勢力が拡大し、ついに彼は退陣にまで追い込まれた。それは、英国のキャメロン前首相が、自らを過信してEU離脱の是非を問う国民投票を実施した先例と同じ大失策である。

2人はそれぞれの政治生命にかかわる失敗をやらかすと同時に、英国とイタリアという個性的で美しい国家を破壊しかねないほどの大罪も犯した。つまり英国はキャメロン前首相のしくじりによってEU離脱という迷い道に踏み込み、イタリア共和国もレンツィ首相の不手際のせいで、英国と同じ道をたどる可能性が出てきたのだ。

それというのも、イタリアの国民投票をNOに誘導したのが、脱ユーロそして将来はEU離脱も視野に入れる、ポピュリスト政党の五つ星運動と極右の北部同盟だからだ。五つ星運動は米トランプ主義を信奉し、北部同盟はトランプ主義を賞賛すると同時に、フランスの国民戦線などの欧州極右勢力と連携する道を模索している。

イタリア国民投票では、ベルルスコーニ元首相率いるFI(フォルツァ・イタリア党)も五つ星運動と北部同盟に同調した。FIは基本的に五つ星運動と相容れず、極右の北部同盟とも一定の距離を置いているが、事態の展開次第では、元首相の私意のままにユーロやEUからの離脱でさえ支持しかねない危うさを秘めている。

イタリア国民投票での「憲法改正NO」の勝利はある程度織り込み済みだったせいか、事前に懸念されていたEU経済ひいては世界経済へのインパクトは今のところは少ない。しかし、ユーロやEUそのものを揺るがす火種になる可能性が高いイタリア発の危機は、今まさに始まったばかりだ。

Brexitとトランプ勝利に続く「欧米第3のグローバル反体制運動」とも位置づけられるイタリアのポピュリズム運動のうねりは、来年春のフランス大統領選と、オランダまたドイツの総選挙などに連動して高まり、大津波となって欧州を呑み込み世界を席巻していくのかもしれない。



そこのあなた、イタリアの国民投票を気にしている場合ですよ


下院と同等の権限を持つ上院の改革を主な争点に、憲法改正を問うイタリアの国民投票が、ついに明日に迫った。歯車が狂えば、EU(欧州連合)の崩壊にまでつながりかねない重要な案件のポイントを、再びここで指摘しておこうと思う。

国民投票で“Yes”が勝った場合:

日本の衆議院に当たる下院と、参議院にあたる上院のうち、上院の力が大幅に縮小される。現在上院は下院と全く同等の権限を有する。そのために政治の停滞と混乱が頻繁に起こる。

上院議員の定数も315から100に削減。そうすることで議員報酬に始まる経費も大幅に減少。また自治県のボルザノとトレントを除く全国の県も廃止し、権限を中央政府に移譲する。そこでも大幅なコストの削減が見込まれる。

政府の試算では、憲法改正によって複雑な官僚組織が簡略化され、一年につき少なくとも約600億円の経費削減ができる。

レンツィ政権は懸案である教育、法制、行政組織などの抜本的な改革にただちに着手できる。憲法改正には民主党主流派と、少数の与党会派、経済界などが賛成している。

国民投票で“NO”が勝った場合:

YESを主導したレンツィ政権が倒れる。それはすぐさま欧州全体にネガティブな影響を及ぼす。ただでも不安定なイタリア政局が大揺れに揺れて、特に経済的な悪影響が広がると見られる。スイスの大手銀行はその予測を否定している。が、それは銀行のポジショントークである可能性も高い。

第2のシナリオ。レンツィ首相は退陣するものの民主党党首に留まる。そしてパドアン財務大臣を首班とする内閣を発足させる。しかし、政治の停滞と混乱を恐れる今の内閣の閣僚や大統領の要請によって、レンツィ首相が政権を担い続ける可能性も依然としてある。

第3の可能性は、レンツィ首相がやはり辞任して、政治家や政党色を廃したテクノクラート(専門家)内閣が発足すること。イタリアでは政治混乱を収束させるためにしばしばテクノクラート内閣が組閣される。英国の週刊紙エコノミストも、「テクノクラート内閣が最良の道」と主張して注目を集めた。

国民投票でNOを声高に主張しているのは反体制ポピュリストの五つ星運動、ベルルスコーニ党(FI)、極右の北部同盟などである。彼らが勝てば、Brexit(英国のEU離脱)とトランプ大統領誕生に続く今年3番目の大きな体制反対運動の勝利、という見方がある一方で、NOの勝利は「現状維持」の確認に過ぎず何も変わらない、とする意見もある。

僕はNOの勝利は「現状維持」とは程遠い大きなインパクトがあると思う。なぜならば、NOを強く推進している最大勢力の五つ星運動が勢いを得て、近い将来政権を奪取する可能性があるからだ。

五つ星運動は政権を取ると同時に、イタリアを先ずユーロから、そして最終的にはEUから離脱させる方向で動くだろう。彼らの最大の政治目標はItalexit、つまりイタリアのEU離脱だからである。

その動きには極右の北部同盟が同調し、もしかすると「国民投票NOキャンペーン」と「反レンツィ」でまとまった、ベルルスコーニ元首相率いるフォルツァ・イタリア(FI)党も賛同する可能性がある。そうなれば、イタリアのEU]離脱すなわちItalexitは容易に実現してしまうだろう。

イタリアの離脱はEUの崩壊につながりかねず、EUが崩壊すれば「トランプ米ネトウヨ・ヘイトスピーチ政権」に物申す力の一つが地上から消えて、世界は憎しみと不寛容と差別が横行する、トランプ次期大統領の頭の中と何も変わらない状況に陥るかもしれない。

そこで日本人も、「遠いイタリアの自分には無関係な国民投票」などと鎖国体制のぬるま湯に浸って傍観していないで、白人至上主義の世界では日本人も有色人種として差別される存在である真実を見据え、状況によっては、巡りめぐって自らにも十分に関係してきかねない事案に、少しは関心を持つべきである。

なお、国民投票2週間前までの世論調査では、憲法改正NOがYESを5~7ポイント上回っていた。それ以後は投票日までの2週間に渡って、調査結果の公表が禁止されるため状況は分からないが、有権者の3人に1人が意志未決定とも言われてきた。

また海外に住む400万人のイタリア人の多くが国民投票ではYESに回ると見られているが、事前の調査では彼らの動向は織り込まれてこなかったため、この部分でも「NOが優勢」という2週間前までの調査結果を無条件に信じることはできない、と考えられている。

ホントの気候変動は菜園の中にある

400pic南畝ヒキ肥料込み


2016年11月末現在、僕の菜園には冬を越すカリフラワーやキャベツなどと共に、大根、ネギ、ラディッキオ(チコリの一種・菊苦菜)、さらに夏野菜のフダン草やルコラ(ロケットサラダ・ハーブの一種)などがまだ結構残っていた。

そのうちのネギとラディッキオを残して全てを刈り取った。

200へ400picラディッキオ・チコーラ→春、庭造りの際に菜園の一部に入れてもらった土が、水はけほとんどゼロの粘土質で野菜作りには適さない。

そこで深さ10センチ~15センチを入れ替えてもらうことにした。それで入れ替え部分の作物を全て取り込んだのである。

今年は、たとえばトマトやピーマンやナスなどは、普通に寿命が来て9月末頃にはすっかり枯れ果てた。

が、前述のラディッキオやルコラやフダン草などはまだしっかりと芽生え育っていた。200へ400picズッキーニ花一輪→

ズッキーニもほとんど枯れたが、まだ花が咲いたりする茎があったので、その部分は11月半ば頃まで生かしておいたりした。

花はさすがにうまく結実し成長することはなかった。

こう書いている今日は2016年12月2日の金曜日である。少し前までならあり得ない話。

200へ400picネギ→11月といえば菜園の作物は冬野菜以外は全て枯れて、土もかちかちに凍る手前の時間だった。

気候変動は「熱」に向かって確実に時を刻んでいる。

渡り鳥は渡らなくなり、冬でも蚊や昆虫が舞い飛ぶ。渡り鳥はそれらを食べることができるので餌に困らなくなり、渡らなくなったのだという。

大雨が降ったり暴風が吹き付けたりと異変が多い。でも、異変はもはや頻繁すぎて異変とは言えないのではないか。200へ400picコステ→

非日常が日常になりつあるのが今の気候のあり方だが、普段は温暖化で暑いと思っているのに寒い年があったり、冷夏さえも出現して頭が混乱する。

しかし、菜園では混乱がない。前述したように気候変動は確実に「熱」に向かっている。

だから野菜の寿命が長いのだ。あるいは野菜を枯らす寒さの到来が遅いのだ。

ありdaikon better 400pic→200へ奥行き季節はその部分では混乱しない。いや、野菜たちが、空気が確実に暖かくなっていることを知っていて、いつまでも枯れない、と言うべきか。

地球規模で考える温暖化は悪い兆候ばかりが目立つ。しかし、僕の菜園に関する限り、温暖化は楽しい。

美味しい野菜が12月に入ってもまだ収穫できたりするのだから。

ちなみに僕の菜園は完全なるオーガニック、有機栽培。なので雑草や害虫やカタツムリ類も大変。200picチビキャベツ2個400→



しかし、作物の味は大量生産のものとは違って、コクがあり、かつ実に美味い。


200へ400picラディッキオ・チコーラUP→

よくオーガニックが美味いと感じるのは錯覚、と言う人がいるけれど、彼らはきっと自分で作ることはおろか、本物の有機栽培野菜を食べたことさえないのだと思う。

でなければ、味覚がちょっとサビれてしまっているのかも。



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