2017年08月

僕の古ぼけたドキュメンタリーが再公開される訳



バインダー表紙800pic
番組宣伝パンフレット



今年もまた僕の住む地域で日本文化紹介イベントがある。昨年の催しは田舎のイベントとしては大成功と言ってもよいものだった。

気を良くした役場のスタッフは、金曜日~日曜日の開催期間をさらに延ばして、2週の週末に渡って開くと決定した。

金~日の3日間ではなく、2週末の土曜日と日曜日なので開催期間は1日延びただけだが、2週間続くので印象としては大幅延長と感じる。

田舎のイベントで、日本文化のみに絞った祭りを2週間も続けるのは少しやり過ぎではないか、と僕は主催者に疑問を呈した。

ミラノやトリノなどの大都市ならいざ知らず、ブドウ園の景観は美しいものの人口の少ない地方での祭りだ。1週目で観客が底をつくのではないか、と心配したのだ。

でもスタッフは自信満々。昨年も結構バラエティー豊かに日本文化を紹介したが、今年は昨年の内容に加えて秋田犬や錦鯉まで展示するという。

僕は今年も上映する日本映画の選択と紹介、また解説を頼まれた。黒澤明の「デルス・ウザーラ」と北野武の「座頭市」を選んだ。

実は「デルス・ウザーラ」と伊丹十三のラーメン・ウエスタン「タンポポ」にしたかったのだが、「タンポポ」はイタリア語版が存在しないため、紆余曲折を経て「座頭市」に決めた。

「タンポポ」はラーメンの奥深さを面白おかしく描いた作品。日本食ブームが続く中、イタリアでも急速に知名度を高めているラーメンにまつわる意外な物語が、昨年紹介した「おくりびと」同様に必ず受けると思ったのだけれど。

今年は僕がニューヨーク時代に作った30分のドキュメンタリー番組
「のりこの場合」も上映されることになった。その後、地域の学校などで紹介される予定もある。

作品は米公共放送局PBSの13本シリーズ「Faces of Japan(日本の素顔)」の一つ。僕は13本のうちの4本を監督した。「のりこの場合」はシリーズの巻頭放送作品。残る9本は数人の米国人監督が分担して撮った。

その作品は運よくも、ニューヨークのモニター賞ニュース/ドキュメンタリー部門の最優秀監督賞に選ばれた。日本祭りの開催スタッフはそのことを知っていて、上映したいと言ってくれたのだ。

僕は正直ちょっと戸惑った。それというのも番組は1986年に放送され、受賞は翌年の1987年。最近の話ならともかく、30年も前のささやかな栄光を蒸し返すのはちょっと気が引けた。

それよりもなによりも、30年前の番組が今、果たして観客に何かを伝えることができるのかどうか、という重要且つ最大の疑問があった。

昨年、僕は黒澤明監督の名作「用心棒」をイベントで紹介したが、あまり受けなかった。古臭いと観客に思われてしまったのだ。

偉大なクロサワの映画でさえ古くなる、と僕は寂しく思い、以後いろいろなところで話したり書いたりした。

それなのに今年、吹けば飛ぶようなテレビ屋に過ぎない自分の古い作品を持ち出すのはおこがましい、と僕は心底思い、気後れがした。

どうしても、という声に押されてホコリにまみれたテープを見直してみた。やはり古い。しかし、意外にもテーマは今もしっかり生きている、と感じた。

僕は「のりこの場合」を日本の女性問題、特にジェンダーギャップを意識において作った。日本はあれからずいぶん変わった。だが変わっていないところも多い。

つまりそのドキュメンタリーは、切り取られた街の様子や人々のあり方や景観や雰囲気、さらに制作技術や様式等々の古さはあるものの、テーマは今現在にも通じる常に新しいものなのだ。

そこを踏まえて僕は要請を受けることにした。そして新しくイタリア語バージョンを作った。技術的に難しいところも多々あったが何とかクリアした。

史上初の大がかりな「日米共同制作シリーズ番組」の一環だったその作品には、制作過程の困難やドタバタを筆頭に多くのエピソードがある。そのことはまたどこかで書こうと思うが、視聴者の反応について一点だけ面白いエピソードを紹介しておきたい。

放送された「のりこの場合」は、ニューヨークの日本人社会ではあまり評価されなかった。ところがそれが監督賞を受賞したとたんに、まさに手の平を返すように評価が一変して、素晴らしい出来栄えの作品という声が起こった。

外国人の評価に弱い、いかにも日本人らしい豹変ぶりだった。しかし、僕はそのことで人々を非難しようとは少しも思わなかった。

なぜなら「のりこの場合」には、日本人ができれば外国人に知られてほしくない、と思う要素も少なからず紹介されているからだ。日本が特殊な国であることがよく分かる仕組みになっている。

実はそれらの要素は、今ならむしろ多くの日本人が誇りに思うような、日本の伝統であり美であり形式である。だが30年前は違った。

当時はピークを過ぎつつあるものの、いわゆる「日本バッシング(叩き)」が盛んな頃だ。多くの日本人が肩身の狭い思いでいることも珍しくなかった。

またアメリカに同化し、アメリカ人と同じ生き方を目指している米国在の人々にとっては、そのドキュメンタリーは日本の「異質」ぶりを余すところなく紹介していて居心地が悪い、ということもあったと思う。

当時の日本人は、今日のように自らの文化や歴史や伝統に自信を持っていなかった。そのために作品の内容を、むしろ誇るべき日本の古い慣習や様式や哲学、と見なして胸を張る余裕がなかった。

だから「のりこの場合」の中に詰まっている「日本らしさ」から目を背けたかった。アメリカ(欧米)とは異質なものが恥ずかしかった。ところがアメリカ人がそれを高く評価した。うれしい。やっぱり良い番組だ、という風な心理変化があったのだと僕は考えている。

その作品を作った張本人の僕は、日本文化を恥ずかしいものだなどとは夢にも思わなかった。それはアメリカあるいは欧米ほかの文化とは違う文化なのであり、文化はまさに他とは違うことそのものの中にこそ価値がある。異質さは誇るべきものなのだ。

だが同時に僕は、日本社会に潜む固陋や偏見や課題を抉り出したいとも思い、そのつもりで取材をし番組を完成させた。アメリカの人々は、その片鱗を作品に見て評価してくれたのだと思う。

今回上映するにあたっては、イタリア人の反応はもちろんだが、日本人の反応も楽しみだ。おそらく日本人も今なら「“のりこの場合”の中の日本」を、イタリア人が楽しむであろう形とほぼ同じ形で楽しむだろう、と僕は信じている。

30年前の日本人ニューヨーカーたちが抱いたこだわりも疎外感も感じることなく、なによりも外国人の評価などとは無関係に「自主的」に、自らのルーツを見つめるだろうと思っているのである。


独断&偏見~なぜ昨今のサッカーイタリア代表はつまらないか~



50歳のバッジョ
50歳になったイタリア最強の「ファンタジスタ」Rバッジョ


イタリアサッカーが面白くないのは、「違い」を演出できる優れた選手がいないからだ。それらの選手はイタリアではファンタジスタと呼ばれる。ファンタジスタとはイタリア語のファンタジア(英語:ファンタジー)、つまり想像力とか独創性から来た言葉で、オリジナリティーに富むトップ下のストライカーなどを指す場合が多い。

サッカー選手のレベルを表す言葉としてイタリア語にはfuoriclasse(フゥオリクラッセ)、つまり「並外れの」とか「規格外の」あるいは「超一流の」というようなニュアンスの表現があるが、ファンタジスタはそのfuoriclasse(フゥオリクラッセ)の中でも特に優れた選手を形容する、最大級の尊称である。

ファンタジスタには規定や条件はなく、ファンやメディアが自然にそれと見なして呼びかける言葉で、極めて少数の選りすぐりの選手だけに与えられる称号。それがいかに特別な意味を持つ呼び方であるかは、次に示すファンタジスタたちの名前を見るだけでも十分ではないか。

最近のイタリア選手で言えば、ロベルト・バッジョ、アレッサンドロ・デルピエロ、フランチェスコ・トッティ、またFWではないがアンドレア・ピルロもそのうちの一人だ。さらに言えばバルセロナのメッシとスアレス、PSGのネイマール。もっと付け加えれば、マラドーナやジダンもイタリア的な感覚ではファンタジスタだ。

イタリアのファンタジスタの中ではバッジョが史上最強だと思うが、彼以外にも見ていて胸を躍らされる「違いを作り出す」選手たちが、近年だけでもイタリアには多く輩出した。だからイタリアサッカーは面白く強かった。強いサッカーとは面白いサッカーのことで、その逆もまた真なのだが、今は誰もいない。

彼らの仲間入りを果たしそうな選手は2人いた。アントニオ・カッサーノとマリオ・バロテッリである。しかし優れた能力を有しながら、2人は性格の不安定と頭の中身がぶっ飛んでいることが災いして、ついに大成しなかった。

カッサーノはカッサーノらしく先日、引き際でも混乱し物議を醸した後に正式引退。カッサーノに似た問題児のバロテッリは、まだ若いながら絶頂期は過ぎてあとは落ちるばかり、という風である。精神的に大きく成長しない限り、その傾向は逆転しないだろう。

2人はどちらも感情的あるいは衝動的になりやすい性格である。子供精神丸出しですぐに他者とぶつかり迷走する。成長し頭の中身を修正して、ピッチでも私生活でもイタリア代表チームのリーダーになることを期待され続けたのだが、うまくいかなかった。

カッサーノとバロテッリに続く才能は今のところ見当たらない。つまり、イタリアサッカーがかつての栄光を取り戻す道筋は見えない。ディフェンダーはイタリアらしく強い選手がひしめいている。だが守備だけではサッカーは勝てない。たとえ勝てても見ていて面白くない。

直近のビッグイベント、2016年の欧州選手権・イタリア代表の選手を引き合いに出してみよう。代表に選ばれたのは次の選手たちだった。

攻撃:エデル、ペッレ ザザ ジャッケリーニなど、いずれ劣らぬ凡手でどんぐりの背比べ。フゥオリクラセやファンタジスタとは逆立ちしても呼べない。

中盤:デ・ロッシ ティアゴ・モッタ モントリーボら。いずれもワールドクラスの選手だが、彼らは3人束になっても、イタリア最後のファンタジスタ、アンドレア・ピルロには及ばない。違いを演出するなど夢のまた夢だ。3人の中ではデロッシが格上だが、ピルロの天才は備えていない。

2016年のサッカー欧州選手権に際しては、イタリア代表チームを語るときには先ずGKのブッフォンの偉大さを語り、ボヌッチ、バルザッリ、キェリーニのいわゆるBBC守備ラインの堅固さを強調して、それがイタリアの強みだと結論付けるのが当たり前だった。

だが2012年の欧州選手権でも同じBBCラインは健在だった。しかし誰もそのことを口にしなかった。当時は違いを演出できるピルロが健在で、同時に彼の後継者のフゥオリクラッセと見られていたバロテッリがいたからだ。またGKのブッフォンもいた。だがブッフォンを特に強調するメデァもなかった。もう一度言う。ピルロがいてバロテッリがいたからだ。

イタリアサッカーはマルチェロ・リッピ監督が目指した、守備堅牢のカテナッチョ(閂:かんぬき)からの脱却はできていない。いや、おそらく永久にできない。なぜならイタリアの強みが強靭なディフェンスであり続けているからだ。それは中盤が突出して攻撃に優れた選手がいる限り問題ではない。問題どころか強みだ。

そこが問題になるのは、中盤や攻撃陣に“違い”を演出できる突出した選手がいないときだ。過去のイタリアチームにはそういう選手が必ずいた。前述のバッジョやデルピエロやトッティがそうだし、ピルロがそうだった。またヴィエリやマンチーニなどもいた。

若いバロテッリも2012年の欧州選手権でその片鱗を見せて将来が期待された。しかし性格や人間性の問題があってあっけなく消えた。彼の前のカッサーノも同じだった。今のイタリアチームには中盤と攻撃に優れた選手がいない。どんぐりの背比べを繰り返している。イタリアチームの魅力のなさの第一の戦犯はそれだ。

ナショナルチームの不振と退屈を象徴するように、イタリア一部リーグのセリエAもつまらない。欧州一、ということはおそらく今の段階では世界一の守備陣を擁するユベントスが、6連覇を果たした。一つのチームが6連覇するなど、かつてのセリアAでは考えられない。それもこれも、ファンタジスタどころかフゥオリクラッセさえ見当たらない、イタリアサッカー全体の凋落がもたらした停滞だ。

ユベントスの強烈なディフェンスは、そのままナショナルチーム守備陣も形成する。すなわちボヌッチ、バルザッリ、キェリーニのBBCラインに、やはりユベントスの守護神・ブッフォンが鎮座する陣容だ。強力な守備陣に凡庸退屈な中盤と攻撃陣が合体する形。

凡庸な中盤のフォーメーションではゲーム構築もおぼつかず、加えてひ弱な攻撃陣の得点能力は最悪。2016年欧州選手権では、イタリアはなんとか決勝トーナメントまでは進んだものの、それ自体がまぐれ当たりのような頼りない行進だった。

2018年のワールドカップもあまり期待できそうもない。本大会出場権はさすがに逃がさないだろうが、違いを演出できる中盤から上のポジションの選手はいない。頼りになるのは相変わらず守備陣。繰り返すが守備だけではサッカーは勝てない。たとえ勝ち進んでも、見ていてやっぱりあまり面白くない。




サッカー・ネイマールの高額移籍金のからくり



叫ぶNeymar
ブラジル代表ネイマール


イタリアサッカーの凋落について考えていたら、それに引きつけられたのでもあるかのように、サッカーを巡る興味深い出来事が次々に起こった。

メッシのチャリティー結婚披露宴周りの醜聞についてはもう言及した。その少し前から取りざたされていたのが、FCバルセロナからパリ・サンジェルマンFCに鞍替えするネイマールの異常な額の移籍金である。

ブラジル代表のストライカー・ネイマールは25歳。世界でも指折りの強豪クラブ・FCバルセロナでメッシ、スアレスと共に世界最強と言われる3トップ(攻撃態)を構成した。しかし2017年8月3日、パリ・サンジェルマンFCへの移籍が発表された。

その移籍金は「不道徳」と形容する者さえいる史上最高額の2億2200万ユーロ(約291億円)。これまでの移籍金最高額の2倍を一気に超えるものになった。ネイマール自身の年棒は税込みの4500万ユーロ(60億円)。世界最強プレーヤーと呼ばれるメッシやロナウドを、ここでも一気に抜き去ることになる。

時代も金の価値も状況も違うが、移籍金291億円とは、マラドーナが1982年にボカ・ジュニアースからバルセロナに移籍した時の約9億4千万の30倍。つまり、ネイマールは、当時のマラドーナの30人分の価値があるということになる。

また1990年にイタリアの至宝ロベルト・バッジョが、フィオレンティーナからユヴェントスへ移籍した時に動いた金は約13億円。従ってネイマールは、当時のバッジョの22倍の価値があるということになる。あるいは21世紀に入って移籍金が高騰して以降の、ジダンの値段98億円と比較しても約3倍である。

それがいかに荒唐無稽な試算また金額であるかは、サッカーを少し知っている者ならたちまち理解できるはずである。ネイマールの潜在能力の高さは誰にも否定できないが、今のところ彼は断じてマラドーナやバッジョの域には達していない。もちろんフランス最強プレーヤーのジダンにも及ばない。

高額な移籍金はそれぞれの時代を反映したものである。また時代を駆け抜けた名選手たちの価値は、金銭のみで推し測ることはできない。先に述べたように金銭の価値も世情もそれぞれの時代で大きく変わるからだ。それでも、ネイマールの今回の移籍金の高さは尋常ではない、とは子供でも分かるのではないか。

これまでのサッカー選手移籍金の最高額は昨年、ユヴェントスからマンチェスター・ユナイテッドに移籍したポール・ポグバの約140億円。ネイマールのそれは一気に2倍以上になった。普通のサッカーチーム(企業)なら、とても投入できない金額だ。

ネイマールを獲得したパリ・サンジェルマンFCは、中東カタールの国営企業がオーナーである。要するに同クラブは、オイルマネーに溢れたカタールの国営チームとも呼べる形態。採算を無視した取引をやってのけられるのは、親方日の丸ならぬ「親方カタール国」チームだからだ。

パリ・サンジェルマンFCはネイマール関連事業で、今後5年間に790億円近い出費をすることが見込まれている。その内訳はネイマール自身の年棒、税金、契約解除金、ボーナス等々である。つまり同クラブはネイマールを獲得したことで、移籍金とは別に一年に約158億円もの負担増を抱え込むのである。

ネイマール自身と彼のマネージャーでもある父親は、この移籍によって数十億円の一時金をパリ・サンジェルマンFCから支給される。またネイマールの年棒は前述のように一気に世界最高額にハネ上がる。移籍劇には金銭的な動機が大きく関わっていた。ネイマールと父親は、その点でFCバルセロナやファンからバッシングを受けたりもしている。

僕は彼らを非難する人々には違和感を覚える。ネイマールは優れた「プロ」のサッカー選手だ。プロにとっては年棒が自身への評価なのだから、より多くのサラリー(年棒)を提示するチームに移籍するのは当然だ。彼の年棒は税込みで約60億円。手取りでは30億円前後というところだろう。

庶民から見れば、もはやため息さえ出ないような呆れた高額だが、超一流のサッカー選手の年棒としては納得の行く金額だと僕は思う。ネイマールは世界中のサッカーファンの夢を大きく広げ、くすぐり、突き動かすことができる才能の持ち主だ。「夢のような」金額を稼ぐのも、スタープレーヤーの「夢をつむぐ」仕事の一つではないか。

法外なのは移籍金である。これは企業であるプロのクラブ同士が勝手にやり取りをするもので、ネイマールには何の責任もない。ある種の人々が指摘するように金額が不道徳であるならば、彼が所属するクラブが不道徳なのであり、選手自身には関わりのないことだ。責めるならFCバロセロナと、特にパリ・サンジェルマンFCを責めるのが道理である。

さて、ここまでがテレビ屋としての僕の野次馬また金棒引き根性に基づいた、噂話とおしゃべりとパパラッチ的情報である。次に純然たる1人のサッカーファンとしての考えも述べておきたい。

ネイマールはまぎれもなく超一流のサッカー選手である。年齢も25歳と若い。だが彼の所属する(した)スペインのFCバロセロナにはメッシという文字通り世界一のプレーヤーがいる。

バルセロナでは全てがメッシを中心に回る。ゴールを狙うのも第一義にメッシであり、フリーキックやPKも基本的にメッシが受け持つ。そのメッシは契約上、少なくとも2021年までは同チームの顔として存在し続ける。

つまりネイマールは、彼とメッシとスアレスで構成される世界最強の3トップの一角ではあるものの、スアレスとチーム内の2番手、3番手を争う存在であり続けるのだ。全てが普通に動いて行くなら、今後も決して最高峰のメッシの上に行くことはできない。メッシを抜けないとは、つまり世界ナンバーワンにはなれないということだ。

彼はメッシを凌ぐ選手になりたいと熱望している。凌ぐことはできなくても、彼と並ぶ世界最高峰のプレーヤーになりたいと願っている。例えばレアル・マドリードのロナウドのように。そしてネイマールにはそれだけの潜在能力がある。

メッシと同級の選手になり、あわよくば彼をも凌ぐ選手になりたい。それもネイマールがパリ・サンジェルマンFCへの移籍を決意した大きな理由だろうと思う。彼は賭けに出たのである。なぜ賭けなのかというと、パリ・サンジェルマンFCで輝けなかった場合、彼は激しくバッシングされる可能性が高いからだ。

パリ・サンジェルマンFCの最大の目標は、欧州チャンピオンズリーグを制することだ。それによって、スペイン、イングランド、ドイツ、イタリアなどの後塵を拝している仏プロサッカー「リーグ・アン」の地位を押し上げ、そこに所属する自身の知名度も高めたいからだ。

その切り札としてパリ・サンジェルマンFCは大枚をはたいてネイマールを獲得した。その狙いが外れたときの失望は大きく、責任は全てネイマールに押し付けられる可能性がある。その時には彼は、世界一のプレーヤーどころか、FCバロセロナなどの世界トップクラスのチームの一員、という特権も失うことになる。

なぜならパリ・サンジェルマンFCは、ネイマールが大きく輝いて、メッシやロナウドと同格の高みにまで達した時に、初めて「世界トップクラスのチームの一つ」と見なされるようになる筈だからだ。パリ・サンジェルマンFCは今のところ、ネイマール自身と同様に潜在能力の高い、だが同時に脆性も秘めた不確かな存在に過ぎないのである。



「テンポラーレ祭り」のあとの寂しさ



pic倒れたレモン鉢800
強風になぎ倒された庭のレモンの大鉢


2017年8月10日午後、朝からの薄い曇り空ににわかに黒雲が湧き起こって風が吹きつけ、巨大な雹が叩きつけるように降り注いだ。

イタリアの夏の風物詩テンポラーレ(雷雨を伴う強烈な夕立、あるいは豆台風、あるいは野分)である。雹を伴うと農作物に甚大な被害をもたらす。

短い間に大量に降りなぐった雹は、未収穫のブドウのほぼ4割を破壊したと見られる。農家にとっては4月の冷害に続く災難である。救いは全体の半分以上がすでに収穫済みだったことだ。

例によって僕の菜園の野菜たちも手ひどい暴力にさらされた。トマトが半死、白菜とキャベツが恐らく全滅。不断草がきついダメージ。あまり結実はしていないものの、ナスとピーマンも破壊された。

白菜とキャベツは、カリフラワーとブロッコリともども、冬に向けての収穫が楽しみの種だった。雹のあまりの攻撃でたぶん巻いて結球することなく終わるだろう。残念無念。

壁際の円形鉢でよく育っていた大葉はかろうじて救われた。週末にオーストリアから訪れる友人夫婦に、天ぷらにしてご馳走する計画だからよかった。その分はなんとかなりそうだ。

トマトもなんとか助かった。生き延びた分を早めに収穫してソースを作ろうと思う。実は今年はすでに2回トマトソース作りをした。不作で2回とも量は少なかった。

次の3回目もたいした量にはならないだろう。豊作だった去年とはえらい違いだ。具体的に言えば今年は、昨年の3分の一程度のソースしかできない見込み。

少しさびしいトマトソース作りは、原料の少なさに加えて、外野からあれこれチャチを入れたり写真撮影をしたりする妻が、今年は母親の介護で留守だったことも原因の一つ。

それにしても、今夏イタリアを襲っている異様な暑気と旱魃は、実は北イタリアの特にわが家のあるロンバルディア州の一角では、ほとんど実感されていない。

昨日のすさまじい雹嵐ほどではないものの、テンポラーレ(雷雨を伴う強烈な夕立、あるいは豆台風、あるいは野分)が適度な頻度で襲って雨を降らせ、暑気を吹き散らしてくれたのだ。

アルプスと向き合う北イタリアと、アフリカに対面する南イタリアが一国を構成するこの地では、経済格差に加えて環境格差もまた南北問題を作り出している、とも考えられる。



メッシの結婚祝いに集まった「恥ずかしい」セレブたち



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メッシのチャリテー結婚披露宴


チャリティーに関する他人の行為を非難するのは慎むべきである。慈善事業や寄付やボランティア等々はそれぞれの人の気持ちの問題だからだ。慈善行為について他人を非難するなら、じゃ、お前はどうなんだ、と何よりも先に自問自答しなければならない。

しかし、話題にする相手が世界的に知られたセレブで且つ大金持ち、という場合にはこれにはあたらないと思う。あれこれと噂話の種にしてもそれほど問題ではないだろう。そもそもセレブとはそうされることでセレブになり、セレブになることで彼らは社会的、経済的、心理的恩恵などを受けるのだから。

先日、世界最高峰のサッカー選手リオネル・メッシの結婚式があった。そこには260人のセレブが招待された。メッシと新妻は、彼ら2人への祝儀の代わりに、慈善団体へ寄付してほしいと招待客に頼んだ。結婚披露パーティーが終わったところで蓋を開けてみると、合計“たったの”9562ユーロ(約125万円=1人頭4800円)が寄付されているだけだった。

およそ125万円の寄付金は、普通なら少なくない額、と言えるかもしれない。だがそこに集まったのは、前述したように世界中の大金持ちのセレブたちだ。その金額は慈善行為が奨励され大切にされる欧米社会の感覚では、醜聞と形容してもかまわないほどの恥ずかしい数字、なのである。

案の定、そこかしこから糾弾の火の手が上がっている。なにしろそこに招待された裕福なセレブのうちの、ほんの一部の資産状況をのぞいて見るだけでも、彼らがあまりにも吝嗇であることが分かって、少し気分が悪くなるほどだ。

例えばメッシが所属する世界トップクラスのサッカーチーム、FCバルセロナの同僚スアレスは、年棒が手取りで約21億円。元同僚で伝説的ディフェンダーのプヨルは資産が約52億円。歌手のシャキーラは資産およそ262億円。また彼女の夫で同じくメッシの同僚のピケの年棒は約7億6千万円。元同僚で今はトルコでプレーするエトオの資産が約112億7千万円など、など。

招待された人々の中には、例えばメッシの家族や親戚や幼馴染など、セレブでも金持ちでもない人々もいただろう。しかし大半がサッカーのスーパースターの周りに参集した金持ち有名人だ。彼らのうちの何人かが、それぞれの「立場に見合った」寄付をしていれば、その総額は大きく増えていたに違いないのだ。

当たり前の話だが、招待客は豪華な会場の豪華な食事や出し物やショーを楽しんだ。普通ならその返礼に新郎新婦へのプレゼントを贈る。あるいは逆に、彼らが差し出す贈り物のお返しに食事やショーが提供される、と考えてもいい。ともかく招待客はお祝いにある程度の出費をするのが当たり前だ。

メッシは、黙っていても招待客がするはずの出費を、チャリティーの寄付に回してくれ、と彼らに願い入れたのだ。各人の自由意志によるそれは、チャリティー故に、大金持ちたちの寛大な心も期待できて相当な金額になるはずだった。ところが結果は、前述のようになんとも惨めな恥ずかしい内容だったのだ。

そのエピソードは、目を覆いたくなるもう一つの出来事を僕に思い出させた。東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催した。チャリティーコンペだから賞金が出ない。賞金は全てチャリティーに回されるのだ。そこに宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しなかった。賞金が出ないからだ。

ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまった。すると日本人3人娘が被災地のためにチャリティーコンペをしようと呼びかけた。それは良いことの筈だが、当時アメリカでは大変な不評を買った。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのだ。

自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれる。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことである。それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには普通よりも大きな期待がかけられる。日本人3人娘の失態を聞いたとき、誰か彼女たちにアドバイスをしてあげる人がいればよかったのに、と僕はひどく残念に思ったものだ。

しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておきたい。

チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った者にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は僕の身近でも起こった。わが家で催したチャリティーイベントで、多くの飲食物が提供された。ところが、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかった。このことに怒った人々が担当者を突き上げた。

実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみだった。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかった。彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからだ。

イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれる。そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と僕はそのとき失望感と共にいぶかった。

閑話休題

結婚披露宴に参加したシャキーラの夫のピケ(FCバルセロナ所属)は、パーティーの直後に行ったカジノで、11000ユーロ(約145万円)をあっという間にすったが、彼にとってははした金なので涼しい顔をしていた、という。

統計によると、慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1,3%に当たる額を毎年寄付に回す。一方 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回している。

金持ちは貧乏人よりもケチなのだ。メッシの披露宴に集まったセレブな大金持ちたちが、慈善寄付に冷たかったのも仕方のないことかもしれない。

それにしても、メッシがチャリティー披露宴を催したのはアルゼンチンである。アルゼンチンは慈悲の心と寛大と情けを強く奨励する、バチカンのフランシスコ教皇の故郷だ。

しかも出席者は、メッシ夫婦を筆頭にほとんどがカトリック教徒である。そのあたりを考えると余計に、招待客のケチぶりに「なんだかなぁ」とため息をつきたくなるのは、僕だけだろうか。。。




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