2018年09月

沖縄もいっそのこと『さらなる苦労覚悟で』サルデーニャ島と共に独立するか~い?



Tegole連なり+花+海遠景800
サルデーニャ島のテラコッタの屋根と沖縄の赤瓦の屋根はあまり似ていないかもしれないけれど・・


イタリアのサルデーニャ島は、一見すると「本土から遠く離れた明るいリゾート地」という沖縄と良く似たポジティブな一面を持つ。

それでいながらサルデーニャ島には、もっと深刻な部分でも沖縄との類似点が多い。

サルデーニャ島は、古代からアラブ人を含む多くの力に支配された後、18世紀にイタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国の支配下におかれた。

琉球王国と称したかつての沖縄が、本土の島津藩に支配された史実と「表面上」は同じなのである。

もっともサルデーニャ島は沖縄島(琉球王国)と違って独立国だったことは一度もないが。

サルデーニャ島を獲得したサヴオイア家のサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。

国名こそサルデーニャ王国になったものの、しかし、サルデーニャ王国の本拠地はイタリア本土のピエモンテであり、首都も現在のピエモンテ州都と同じトリノだった。

4人+怒りの目(実写)200pic
加えて王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされた。


1861年、支配者のサヴォイァ家がイタリア統一を成し遂げたため、サルデーニャ島は自動的に統一イタリア王国の一部となった。

しかし「依然として」サルデーニャ島は、イタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

それは第2次大戦後イタリアが奇跡の経済成長を成し遂げた時代になっても変わらず、サルデーニャ島民の不満が募った。

結果、島には一時期イタリアからの独立を求める動きが活発化した。全体の
41%ものサルデーニャ島民が、イタリアからの独立に賛成、という統計さえある。

深刻な独立運動は現在は下火になったが、サルデーニャ島にはイタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊が置かれ、イタリア本土との経済格差も大きいことなどが常に島民を苛立たせる。

不当な扱いを受けながらも深刻な独立運動が影を潜めているのは、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。

米軍基地の過重負担と中央権力及びメディアによる構造的差別に悩まされながらも、経済発展という目先の利益も無視できない沖縄のジレンマとうり二つなのである。


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サルデーニャ「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折



サルデーニャ正式州旗(1999年)WIKI

1999年に正式認定されたサルデーニャ州旗




イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗がある。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現する。

日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成している。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はない。むしろそれが正しい呼称だろう。

だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれないが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしている。

つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのである。

島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともある。が、現在は静まった。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではない。

島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンデンティティーの根幹に関わる重大事案だからである。

起源

スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争が原因で誕生した。

具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいている。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされている。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いだった。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品とした。

アラゴン王国軍はその大きな戦を聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられている。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由である。

またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もある。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものである。

しかし最も多く語られるのは、アラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝った、とする前述の説である。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその主張の方が、信憑性が高い、と僕も思う。

意匠の変遷

旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在する。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印がある。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて鉢巻をしていない。

14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄は、サルデーニャ島でもあたかも島独自のもののように使われた始めた。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用した。

以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられた。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出した。

島民の抵抗

1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡された。以後サヴォイア公国は国名を「サルデーニャ王国」に変えて島を支配するが、同王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した大陸だった。王国の首都もピエモンテのトリノに置かれた。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになった。

これはイタリア本土を本拠地にするサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに自らの領土をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を敷いたことに対する島民の抵抗の現れだった。目隠しの絵柄は、鉢巻姿だった古い旗の意匠をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われている。

さらに、旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もある。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれが頑張ってイスラム教徒の侵略から島を守ったとされる。4人のムーア人はその4国を表すというものである。

だがその主張は島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと僕は思う。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はなかった。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていった。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相である。 

サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった目隠しの図柄はその後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終わりまで続くことになる。

1950年、4人のムーア人旗はサルデーニャ州(島)の正式フラッグと認定された。そこでは4人はまだ目隠しをしたままだった。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし、且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂された。

屈折

何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見ると、僕は大きな感慨を覚えずにはいられない。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人をあたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点である。

そこには2重の心理のごまかしがある。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば被害者である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点だ。

彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているのである。僕は前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられない。僕の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのである。


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“植民地”サルデーニャ島に当たり前に芽生える 「独立論」



浜に津k立てられたムーア人の旗(有名画像)
サルデーニャ国(州)旗‘4人のムーア人’


先日言及したイタリア・サルデーニャ島の「食の植民地主義」も軽くない現実だが、同島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

salvatore meloni











独立運動家サルヴァトーレ・メローニ


元長距離トラック運転手のメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・デ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴された。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見做された。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかった。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に
「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら
「喜んでサルデーニャをフランスに譲る」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党 (Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党 (Unione Democratica Sarda).」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党は約14%もの支持を得る躍進を見せた。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたくらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家である。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思う。


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サルデーニャ食紀行~魚介パスタに見る植民地メンタル 



古海軍地図600


イタリア本土の魚料理とサルデーニャ島の魚料理の在り方は、見ようによっては極めて植民地主義的な関係である。つまり力のある者、経済的優位に立つ者、多数派に当たる者らが、弱者を抑え込んで排斥したり逆に同化を要求したり、また搾取し、支配することにも似ている。多数派による数の暴力あるいは多勢に無勢、などとも形容できるその関係は料理に限ったことではなく、両者の間の政治力学の歴史を踏襲したものである。

ごく簡略化してサルデーニャ島の歴史を語れば、同島は先史時代を経て紀元前8世紀頃にフェニキア人の植民地となり次にはカルタゴの支配下に入る。支配者の彼らは今のレバノンやチュニジア地方に生を受けた、いわゆるアラブ系の民族だ。紀元前3世紀には島はローマ帝国の統治下に置かれたが、8世紀初頭には多くがイスラム教徒となったアラブ人の侵略を再び受け、長く支配された。

島はその後スペインやオーストリアなどの欧州列強の下におかれ、やがてイタリア王国に組み込まれる。そして最後にイタリア共和国の一部となるのである。そのようにサルデーニャ島の歴史は、欧州文明の外に存在するアラブ系勢力の執拗な侵略と統治を含めて、一貫して植民地主義の犠牲者の形態を取ってきた。

サルデーニャ島の魚料理の変遷を政治的なコンセプトに重ねて見てみると、そこには多数派と少数派の力関係の原理あるいは植民地主義的な状相があることが分かるのである。或いはそこまで政治的な色合いを込めずとも、多勢に無勢また衆寡敵せずで、少数派の島人や島料理が多数派の本土人や本土料理に押され、詰め寄られ、凌駕されていく図が見える。

そうした現実を進化と感じるか、逆に屈辱とさえ感じてしまうかは人それぞれだろうが、島本来のレシピや味も維持しつつ、イタリア本土由来の料理も巧みに取り込んでいけば、島の食は今後もますます発展していくだろう。島国根性に縛られている「島人」は、"島には島のやり方があり伝統がある”などと、一見正論じみた閉塞論を振りかざして、殻に閉じこもろうとする場合がままある。

島のやり方は尊重されなければならないが、それは行き過ぎれば後退につながりかねない。また伝統が単なる陋習である可能性にも留意しなければならない。特に食に関しては、「田舎者の保守性」という世界共通の行動パターンがあって、都会的な場所ではないところの住民は、目新しい食物や料理に懐疑的であることが多い。日本の僻地で生まれ育った僕自身も実はその典型的な例の1人である。

植民地主義的事象は世界中に溢れている。それは差別や偏見や暴力を伴うことも多いやっかいな代物だが、世の中に多数派と少数派が存在する限り植民地主義的な「不都合」は決してなくなることはない。少数派は断じて多数派の横暴に屈してはならないが、多数派が多数派ゆえに獲得している可能性が高い「多様性」や「進歩」や「開明」があるのであれば、それを学び導入する勇気も持つべきである。

同時に多数派は、多数派であるが故に自らが優越した存在である、という愚劣な思い上がりを捨てて、少数派を尊重し数の暴力の排斥に努めるべきだ。これは正論だが実現はなかなか難しい要求でもある。なぜなら多数派が、多数派故に派生する数の力という「特権」を自ら進んで放棄するとは考えにくいからだ。それは多数派の横暴が後を絶たない現実を見れば明らかだ。

それに対しては、少数派の反発と蜂起が続いて対立が深まり、ついには暴力が行使される事態にまで至る愚行が、世界中で飽きもせずに繰り返されている。そうしたしがらみから両者が解放されるためには、堂々巡りに見えるかもしれないが、やはり植民地主義の犠牲になりやすい少数派が立ち上がり声をあげ続けるしかない。なぜなら多数派の自発的な特権放棄行為よりも、少数派の抗議行動の方がより迅速に形成され実践されやすいからだ。

サルデーニャの食に関して言えば、イタリア本土の料理のノウハウを取り込みつつサルデーニャ食の神髄や心を決して忘れないでほしい。それは島人が意識して守る努力をしなければ、多数派や主流派の数の洪水に押し流されてたちまち消え去ってしまう危険を秘めた、デリケートな技であり概念であり伝統であり文化なのである。

20年前とは格段に味が違うサルデーニャ島の魚介料理、中でも海鮮ソースパスタに舌鼓を打ちつつ、また同時に20年前にはほとんど知らなかった島の肉料理のあっぱれな味と深い内容に感動しつつ僕は、突飛なようだが実はありふれた世の中の仕組みに過ぎない植民地主義や植民地メンタル、あるいは多勢に無勢また数の横暴などといった、面倒だがそれから決して目を逸らしてはならない事どもについても思いを馳せたりした。



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サルデーニャ食紀行~進化目覚ましい海鮮料理



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麺もソースも進化し続ける海鮮パスタ~スコーリオ&ボッタルガ~


サルデーニャ島の料理の主流、あるいは正当な伝統料理の食材は肉である。ところがいま現在のサルデーニャ島には魚料理があふれていて、それは食の国イタリアのどの地域の海鮮料理にも全くひけをとらない味を誇っている。

島の魚料理はリゾート地として目覚ましく発展している沿岸地帯を中心に生長してきた。ミラノをはじめとする北イタリアの金持ちたちが、彼らの専属シェフとともに魚料理のレシピを持ちこんで流行らせたり、古くからある沿岸地帯の数少ない魚料理を改良(ある種の人々にとっては改悪)していったのだ。

専属シェフを抱えるほどの経済的余裕や食への情熱をそれほどは持たない者は、島のレストランや招待先で彼らの知る「イタリア本土料理」の要諦を講釈し、そこへ向けて島料理が変化するように要求した。そうやってサルデーニャの「島風魚料理」は、徐々に「イタリア本土風の味」に変ることを余儀なくされた。

言葉を変えれば、島の魚介膳は世界の誰もが知る「普通の」イタメシへと変貌していったのだ。イタメシだからそれはほとんどの人にとって美味しい煮炊きである。それがサルデーニャ島の海岸地域に見られる今日の魚介料理の状況だ。いつでも、どこで食べても美味い。

2018年夏のサルデーニャ訪問旅で行き逢った最善の魚料理は、滞在先のキャンプ場の中のレストランで食べたタコ料理だった。その一皿は茹でたタコをスライスしてマリネで包み固めたもの。レシピも味も伝統料理とはずいぶん違っていた。

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秀逸~まろやかタコマリネ~

僕はマリネに特別な嗜好を持たない。むしろ嫌いなほうだ。そんな自分がすぐに好きになったほどの料理の漬け汁の味が、タコのデリケートな滋味にからまって、得も言われぬ 旨味 を生成していた。

地中海域には、ギリシャやトルコやイタリアなど、タコ料理の美味い国々がある。そこで共通しているのは、日干しのタコやイイダコなどをトマトソースやオリーブ油やワインなどを絡ませてじっくりと煮込む調理法で、どの国の膳も美味い。

サルデーニャ島を含む地中海の島々のオリジナルのタコ料理は、主に新鮮なタコを茹でたり焼いたりする原始的なものだった。16世紀にトマトが南米から欧州に導入され、18世紀に食用として一般化すると、タコ料理はオリジナルのレシピも保ちつつ、大半がトマトにワインとオリーブ油などを加えて煮込む調理法へと変わっていった。

今回食べたタコ料理は、地中海伝統のそれらの煮込み膳とは似ても似つかなかった。見た目はむしろ、海鮮サラダとして提供される時の「茹でダコのスライス」に近い。だが味は初めて体験するもので、一般的な海鮮サラダとはまるで違う、豊饒でまろやかな舌触りが特徴の優れた一品だったのである。

それに続く魚介料理の発見もあった。滞在先近くの街、ポルト・トーレスの老舗レストランで体験した魚介の前菜(伊語アンティパスト、英語スターター或いはアペタイザー)である。エビやタコなどの通常素材をデリケートなタッチで仕上げたもので、シェフの絶妙な手腕に舌を巻いた。

またそれとは別に、何種類もの魚肉をミンチにして混ぜ合わせ、丸めて油で揚げたpolpetta(魚肉ボール揚げ)も美味しかった。さらに、小鮫の肉の煮込みという一品もあった。個人的には鮫肉の味はさておくとして、面白い趣向だと思った。

タコの新しい味わいを引き出した前述の一皿や、冒険心満載の魚介の前菜などは、島の外の人々、つまりリゾートに休暇でやって来るバカンス客を目当てに、島の外からやって来たシェフや料理通らが編み出したレシピだ。だが今では島出身の料理人たちも自家薬籠中の物にしてさらに進展している。

一風変わったそれらの海鮮料理はさておいて、今回もよく食べたのが魚介ソースのパスタだった。いや、「最も多く」食べたのが魚介ソースのパスタだった、と言わなければならない。アサリやムール貝のソース、ボッタルガ(マグロの卵のタラコ風塩漬け)、ミックス魚介ソース和えなどの「通常」パスタをほぼ連日口にしたが、味はどこの店のものもすこぶる美味かった。

イタリア本土からの観光客が多いサルデーニャ島のレストランで、魚介ソースのパスタを美味く仕上げられないなら、その店は完全にアウトである。だからどの店も必死に魚介ソースのパスタに磨きをかける。魚介ソースのパスタは、サルデーニャ島を含むイタリアでは、どこでもいつでも美味いのが「当たり前」なのだ。

ところが今回は、イタリア国外でよく遭遇する不味い魚介パスタにそっくりの代物にも行き会った。極めて珍しい例なので、後学のために敢えてここで言及しておくことにした。

その場所は、スペインのカタルーニャ人が多く渡来し住み着いた濃厚な歴史の街、アルゲーロ(Alghero)のレストラン。アルゲーロのスペイン風の街並みと空気感を楽しんだ後に、車を駆って面白そうなレストランを探し回った。

そうして見つけたのが、ビーチに杭を打ち立てて建造されたりっぱな建物のレストラン。水着姿の客も多い文字通りの「海際の」店だった。

僕はごく普通にボンゴレ(あさり)ソースのスパゲッティを頼み、同伴している妻は魚卵ボッタルガのスパゲティを注文した。出てきたのは見た目がちょっとゆるい感じのソースがからまったボンゴレと、ボッタルガの量をケチったのが見え見えの薄っぺらな雰囲気の2皿。

味見をした。さすがに2品ともにパスタのアルデンテ(歯ごたえのある)まで外すことはなかったが、ソースの不味(まず)さにおおげさではなく「驚愕」した。見た目そのままの味だったからである。

ボンゴレは水っぽく、プチトマトの味もよくなかった。おまけに貝の量が恥ずかしいくらいに少ない。魚介の味がほとんど感じられなかった。パスタ全体の味を語る前に、まず魚介の具を増やさなければ話にならない、というほどの貧しさである。プチトマトを生のものではなく「乾燥トマト」を使っていれば味はぐんと違っていただろうが、「ないものねだり」という風だった。

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本場イタリアとは思えない~お粗末ボッタルガ・スパゲティ~

もう一皿のパスタも良くなかった。こちらも具のボッタルガの量が少ないのに加えて、素材がぱさぱさに乾ききっていて魚卵の風味が損なわれていた。ボッタルガに絡ませる素材も全く考慮していないのが明らかな不手際ぶりである。

その店の料理人は恐らく夏場の超多忙な時期に雇われる三流シェフなのだと感じた。素人に毛が生えただけの料理人を雇って、質よりも量を重視して一気に稼ぐ手法の経営体制の店に違いない。よくある話だが、パスタの本場のイタリアにおいては、ファーストコースの麺料理をないがしろにする店が成功するのは至難の業だ。

それでも繁盛しているように見えるのは、顧客層が普通とは違っていたからだ。イタメシの本場の味としてはいかにも貧弱なその店の客は、ほとんどが外国人だったのだ。特にドイツを中心とする北欧各国と東欧の旧共産主義国からのバカンス客のようだ。彼らは少々のイタメシの粗悪には気がつかないことも多いとされる。

その悪口はイタリア人を始めとする、欧州のいわゆる「グルメの国」の食通たちの言い草である。見方によっては不遜と取られても仕方のないそうした評価は、まさに思い上がりそのものである場合もある。だが一方で、真実を突いた見解であることも少なくない。

繰り返しになるがその店の顧客は常連客やリピターではなく、その場限りの通りすがりの外国人がほとんどだった。味の貧弱にも拘わらずにレストランが繁盛している陰には従って、あるいは食通たちの批判通りの現実があるのかもしれない。

同時に実は僕は、20年前のサルデニャ海鮮料理体験を思い出していた。妻と子供2人を伴って、3週間にわたってキャンピングカーでサルデーニャ島を巡った折、僕は島の魚料理の貧しさに閉口して自分で魚介を買っては調理した経験がある。

20年後の今、サルデーニャ島の魚介レシピは目覚ましい発展を見せている。だがもしかすると、根元では肉料理が主体の「島料理」のメンタリティーはあまり変わっていないため、魚介膳のそうした不備が時々顔を出すのかもしれない、と思ったりもしてみたのである。



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