2019年04月

能のない過激派には隠す爪もない


イタリア半島挟んで5星と同盟



伊連立政権は極左の「五つ星運動」と極右の「同盟」で成るが、両者は喧嘩ばかりで間もなく政権崩壊かという危機に直面している。

左寄りと右寄りの思想信条また行動は政治の常識である。両者の対話と、対話から生まれる妥協を民主主義という。

まずいのは「極」左と「極」右だ。2者は英語にいうExtremistつまり過激な者。極論支持者であり過激論者。要するに過激派。

彼ら過激派は対話を拒否し、自らを絶対善として突っ走り、究極的にはテロさえも厭わなくなる。

極右と極左は異なるものに見えて、実は「極」で融合する一卵性双生児。そっくりさん。

なのに仲が悪い。なぜか。

どちらも吼えまくり噛みつき殴りかかる本性を持つ厄介者だから、似た者同士でも吼え合い、噛み付き合い、殴り合うのである。

五つ星運動と同盟に極左と極右のレッテルを貼るのはどうか、という意見もある。もっともな話だ

右と左は立ち位置によって違って見える。左寄りの目には中道も右に映り、右寄りの目には中道も極左に見えかねない。

五つ星運動は自らを左にも右にも属さない政治勢力だという。同盟も、私は極右です、とは口が裂けても言わない。

だが彼らの正体は極左と極右だと僕は思う。能があるかどうかは別にして、両者とも今のところは過激派の爪を隠している。お互いに牽制し合っている。

だが、牽制のタガが外れたとき、つまり両者のうちのどちらかが単独で政権を握ったときは危ない。

五つ星運動はイタリア共和国をアナキストの巣窟に変えてしまうだろう。同盟が単独で議会過半数を制して政権の座に就けば、ファシズムの足音が高く響き出すだろう。

彼らは連立を組んで互いに牽制し合うから、政権運営を任せてみる価値があるのだ。または「あった」のだ。

異なる者同士が手を組んで、お互いの極論を抑えつつ新しい発想で国の舵を取る。彼らに期待されたのはそういう政治だ。

だが本性むき出しで喧嘩ばかりをしているなら、両者が単独で政権を握った場合と同じくらいにイタリア共和国のためにならない。

両者は冷静に対話をし、妥協点を見出し、且つ守旧派の政治勢力とは違うめざましい施策を打ち出せないなら、さっさと政権の座から去るべきなのである。


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皇后陛下の御髪の差合い



女王ダサい丸帽子合成


今上天皇の退位を間近に控えて、天皇皇后両陛下の動きや足跡や歴史を伝える報道が多い。両陛下のこれまでの生き方を知れば、仮に天皇家に反感を持つ者がいたとしても、その厚い人間力に深く頭を垂れるのではないか。

今上天皇の退位にともなって新天皇となる予定の、皇太子さんに覚えないでもない若干の不安も、ひとえに今上天皇の人間力の大きさゆえである。

しかしながら皇太子さんには、妻への強い思いやりや開けた皇室志向など、今上天皇とは違う人間力もあるように見える。即位後の精勤に期待したい。

政治家の中には、間もなく誕生する新天皇を取り込み操りたい策謀をチラつかせる者もあるようだが、皇太子さんにはぜひ、国民の安穏と国家の過去の過ちを見つめ続けた今上天皇の足跡を見習ってもらいたい。

そういう真摯な思いから皇后陛下にまつわるささやかだが、実は大きな意味合いも持つように見えるエピソードを、上皇后となる前に記しておくことにした。

2011年、僕は新聞に次の趣旨の短いコラムを書いた。
“最近、ウイリアム王子の婚約にちなんで、英王室の女性たちの姿がイタリアのメディアにも頻繁に登場する。多くの場合彼女たちは巨大で華美な帽子をかぶっている。そのとき僕はよく美智子皇后の奇妙なミニ帽子を思い出してしまう。
 皇后陛下の帽子の形は、体格的にも雰囲気的にも、また恐らく皇后陛下も自らにはあまり似合わないと感じているであろう、英王室的な女性の帽子を、彼女に合わせて作り変えたところ自然と小さくなった、ということなのだろう。
 しかし、極端に小さくなった皇后陛下のミニ帽子はもはや帽子ではない。帽子ではないものを帽子に見せかけてかぶるのはいただけない。潔く脱いで帽子なしで過ごそうとしないのは、帽子をかぶることが高貴な人の装いであり、伝統であると信じ、進言するような人などが周辺にいるからだろうか?
 伝統を守るのは立派なことだが、帽子ではないミニ帽子は偽物であるから伝統を引き継いでいるわけではない。だから、さらりと捨て去ればいいのである。
 ある種の日本人が良いと思い込んでいる英王室の女性たちのファッションセンスは、例えばフランスやイタリアなどでは冷めた目で見られている。特にあの帽子のセンスは、尊大なだけの田舎ファッション、という見方も多い。写真を眺めてクスクスと忍び笑いをする者さえいるくらいだ。
「日本の」皇后陛下はあんなものにこだわる必要はないのである。
 ミニ帽子とは縁遠い着物姿の皇后陛下は、実に上品で清淑で美しい。日本の国を代表する重責を担いつつ、あまたいる着物姿の美人女優さえも全く寄せ付けない、軽やかで優美な印象を与える。また洋装の場合でも、奇妙な「プチ被りもの」が頭上にないほうが自然で閑麗だ。言いにくいことだが、やはりあのおかしなミニ帽子にこだわる必要はないのではないか、と思うのである” 


明治維新以降、日本は西洋のあらゆる文明文化や文物や様式までも捜し求めて受け入れ、取り入れてきた。それは間違いではなかったと思う。しかしながら行き過ぎた崇拝にまで至ったケースも少なくない。

日本人が西洋に対する時に見せる、抜きがたい劣等意識やおそれや迷いやためらいといったネガティブな胸懐 や、逆にそれらの裏返しである不必要に猛々しい対抗心や驕りや怒りなどは、全て過度な西洋崇拝から生まれるねじれた心理の表出だ。

皇后陛下のプチ 被りものにもそのことが象徴的に現れているように思う。彼女は日本国民の心情を代弁してそういう装いもしなければならなかった、という一面もある。皇后陛下は上皇后となるのを機にそのしがらみから解き放たれるべきだ。またきっとそうなることだろう。

それは日本国民が同じしがらみから解き放たれる可能性を示唆する慶事だ。だが同時に、過去のしがらみを忘れてはならない。そのエピソードは将来への戒めとなり得る記憶だからだ。そうした意味をこめて、繰り返しになるが、皇后陛下が「皇后」であるうちにあえてここに記しておくことにした。



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また犯した「子ヤギ食らい」という自罪


皿盛り食べかけヨリ600



4月21日はイタリアのパスクアだった。イギリスではイースター。日本語では復活祭。イエス・キリストの復活を寿ぐキリスト教最大のイベント。ハイライトは祭り当日に供される子ヤギまたは子羊料理。

不信心者の僕にとっては、パスクアは神様の日というよりも、ほぼ一年に一度だけ食べる子ヤギ料理の日。イタリアでは子羊料理は一年中食べられるが、子ヤギのそれはきわめて難しい。

ことしは初めてレストランで子ヤギ料理を食べた。去年までは家族一同が自宅で、または親戚や友人宅に招かれて食べるのが習いだった。

実はことしも親戚に招かれていたが、子ヤギも子羊も供されない普通の肉料理の食事会、と知って遠慮した。年に一度くらいは特別料理を食べたい。

復活祭前夜の一昨日、友人からも子ヤギ料理への誘いがあった。しかし、レストランを予約してしまっているという不都合もあったので、そちらもやはり遠慮した。

結論をいえば、レストランでの食事は大成功だった。12時半から4時間にも渡った盛りだくさんの料理のメインコースは、もちろん子ヤギのオーブン焼きである。

それは成獣肉を含むこれまでに食べたヤギおよび羊肉料理の中でも第一級の味だった。来年も同じ店で食べてもいいとさえ思っている。

イタリアのレストランでは子羊料理は一年中提供される。だが子ヤギ料理は復活祭が過ぎるとほぼ完全に姿を消す。理由はよく分からない。単純に子ヤギの絶対量が子羊に比べて少ないからではないかと思う。
 
この国を旅すると、羊飼いと牧羊犬に連れられた羊の大群によく出会う。牧草地ばかりではなく、時には田舎町の道路を羊の群れが渡っているのに出くわしたりもする。

羊は数が多い。羊には羊毛の需要もあるから数が多くなるのだろう。それに比べてヤギの姿はめったに見かけない。探せば見つかるが、羊のように頻繁に目にすることはない。

ヤギは山羊、つまり「山の羊」と呼ばれるくらいだから、飼育や繁殖がむつかしくて数が少ないということもあるのかもしれない。

復活祭になぜ子羊や子ヤギ料理を食べるのかというと、由来はキリスト教の前身ともいえるユダヤ教にある。古代、ユダヤ教では神に捧げる生贄として子羊が差し出された。

子羊は犠牲と同義語である。イエス・キリストは人間の罪を贖(あがな)って磔(はりつけ)にされて死んだ。つまり犠牲になったのである。

そこで犠牲になったもの同士の子羊とイエス・キリストが結びつけられて、イエス・キリストは贖罪のために神に捧げられる子ヒツジ、すなわち「神の子羊」とみなされるようになった。そこから復活祭に子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。

復活祭に子羊を食べるのは、そのようにユダヤ教の影響であると同時に、「人類のために犠牲になった子羊」であるイエス・キリストを食する、という意味がある。

救世主イエスを食べる、という感覚はなかなか理解できないという日本人も多い。だがよく考えてみれば、実はそれはわれわれ日本人が神仏に捧げたご馳走や酒を後でいただく、という行為と同じことである。

神棚や仏壇に供された飲食物は、先ず神様や仏様が食べてお腹の中に入ったものである。その後でわれわれ人間は供物を押し頂いて食べる。それはつまり神仏を食するということでもある。

われわれは供物とともに神様や仏様を食べて、神仏と一体化して煩悩にまみれた自身の存在を浄化しようと願う。キリスト教でもそれは同じ。そんなありがたい食べ物が子羊料理なのである。

僕は冒頭でことわったように不信心者なので、神や霊魂や仏や神々と交信するありがたさは理解できない。ただ、おいしいものを食べる幸せを何ものかに感謝したい、とは常々思う。

イタリアでは復活祭の期間中に、通常400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理されてきたとされる。それ以外の期間にも80万頭が消費されてきた。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ数年は200万頭前後に減少したという統計もある。不景気のあおりで人々の財布のヒモが堅いのが理由だ。子ヤギや子羊の肉は、豚肉や牛肉などのありふれた食材に比べて値段が張るのだ。

一方で消費の落ち込みは主に、動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏しているという見方もある。最近はいたいけな子ヤギや子羊を食肉処理して食らうことへの批判も少なくないのである。

2017年にはあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買った。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになった。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出た。

僕は正直に言ってその胡散臭さに苦笑する。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身する元首相も驚きだが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのである。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのだろうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものである。僕は以前、英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験がある。屠殺される全ての動物は、次に記す豚たちと同じ運命にさらされる。

彼らは1頭1頭がまず電気で気絶させられ、失神している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られ、血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていく。

その工程は全て流れ作業だ。すさまじい光景だが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がない。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものだ。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思う。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果がある。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならない。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことだ。それが人間の定めだ。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕はイタリアにいる限りは、復活祭に提供される子ヤギあるいは子羊料理を食べる、と心に決めている。



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ノートルダム大聖堂とミラノ・ドゥオーモ



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最近大きく生活習慣が変わって、夜9時前後にベッドで読書を始め眠気の赴くままに9時半~10時頃には寝てしまう。その代わりに朝は早く、午前5時~6時には起きだして執筆を中心に仕事を始める。

ところが昨夜(4月15日)は19時過ぎからテレビの前に釘付けになった。BBCほかの国際放送が、衛星生中継でパリのノートルダム大聖堂の火災の模様を逐一伝え始めたからだ。

ユーロニュース、アルジャジーラ、BBC3局の衛星中継放送をリモコン片手に行き来したあと、結局BBCに絞って、火の勢いが衰えた12時近くまで熱心に見入った。

大ケガをした消防隊員を除けば死者や負傷者はいなかったものの、大惨事と形容しても構わないだろう火災の推移をつぶさに見ながら考えたことの一つは、火災は事故なのかテロなのか、という疑問だった。

その疑問にとらわれつつ、5月の欧州議会選挙を控えたこの時期の出来事だから、おそらくフランス極右「国民連合」のマリーヌ・ルペン党首は、火災がイスラム過激派のテロであってほしい、と心中で痛切に願っているだろうと思った。

そして彼女に呼応して、ここイタリアの極右政党「同盟」のサルヴィーニ党首もそれを切望しているに違いない、などとも考えた。

2人ともまさか大聖堂の火災を喜んではいないだろうが、起きてしまった悲劇を政治利用することは恐らくいとわないだろう。政治家のほとんど全てがそうであるように。

僕は学生時代の遠い昔にノートルダム大聖堂を訪れている。その記憶は僕の中では、後に仕事でもプライベートでもさんざん訪問したミラノのドゥオーモと並んで、だが、ドゥオーモよりもはるかに小さく薄い印象で脳裏に刻み込まれている。

大聖堂とドゥオーモを連想するのは、いうまでもなく両者が甲乙つけがたいゴシック様式の大建築物だからである。どちらも息をのむように美しく威厳のある建物だが、時代が新しい分ドゥオーモのほうが大きい印象だ。後発の建物には、先発の同種のものの規模を凌ぎたい人の気持ちがしばしば反映される。

ところが災に呑み込まれた凄惨な姿でふいに目の前に現れた大聖堂は、ミラノのドゥオーモを凌駕する巨大な、だが重い憂いを帯びた存在となって僕の記憶蓄積の中に聳え立った。

やがてそれはそのままの姿でミラノのドゥオーモを気遣う僕の心に重なった。つまり僕は卑劣・不謹慎にも、火災がミラノで起きていないことに密かに胸をなで下ろすような気分になっていたのだ。

断じて火災を喜ぶのではないが、いわば他人の不幸が身内に起きなかったことをそっと神に感謝するような、独善的な心の動きだった。それだけミラノのドゥオーモが僕にとって近しい存在だということだが、それは決してエゴイズムの釈明にはならない。

そういう心理は、ルペン党首やサルヴィーニ党首が、イスラム教徒系移民に対する有権者の憎しみをあおって選挙戦を有利に進めたい思惑から、大聖堂の火災がどうせならイスラム過激派のテロであってほしい、と願う陋劣と何も違わない。

そのことを十分に知りつつも、僕は湧き起こったかすかな我執を制御することができずに戸惑ったりもした。


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負け馬たちの功績


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負け馬御三家:左からキャメロン・レンツィ・メイ各氏


いま英国議会下院で起きているBrexit(英国のEU離脱)をめぐる議論の嵐は、民主主義の雄偉を証明しようとする壮大な実験である。それが民主主義体制の先導国である英国で起きているからだ。

そこでは民主主義の最大特徴である多数決(国民投票)を多数決(議会)が否定あるいは疑問視して、煩悶し戸惑い恐れ混乱する状況が続いている。それでも、そしてまさに民主主義ゆえに、直面する難題を克服して進行しようとする強い意志もまた働いている。

2016年、英国議会はBrexitの是非を決められず、結果として市民の要請に応える形で国民投票を行った。国民の代表であるはずの議会が離脱の当否を決定できなかったのはそれ自体が既に敗北である。だが国民投票を誘導した時の首相ディヴィッド・キャメロンと議会はそのことに気づかなかった。

国民投票の結果、Brexitイエスの結果が出た。民主主義の正当な手法によって決定された事案はすぐに実行に移されるべきだった。事実、実行しようとして議会は次の手続きに入った。そこでEUとの話し合いが進められ、責任者のメイ首相は相手との離脱合意に達した。

ところが英国議会はメイ首相とEUの離脱合意の中身を不満としてこれを批准せず、そこから議会の混乱が始まった。それはひと言でいえば、メイ首相の無能が招いた結果だったが、同時にそれは英国民主主義の偉大と限界の証明でもあった。

議会とメイ首相が反目し停滞し混乱する中、彼女はもう一方の巨大な民主主義勢力・EUとの駆け引きにも挑み続けた。そこではBrexitの是非を問う国民投票が、英国民の十分な理解がないまま離脱派によって巧妙に誘導されたもので無効であり、再度の国民投票がなされるべき、という意見が一貫してくすぶり続けた。

だがそれは、民主主義によって選択された国民の意志を、同じ国民が民主主義によって否定することを意味する。それは矛盾であり大いなる誤謬である。再度の国民投票は従って、まさに民主主義の鉄則によって否定されなければならない。

そこで議会で解決の道が探られるべき、という至極当たり前の考えから論戦が展開された。審議が続き採決がなされ、それが否定され、さらなる主張と論駁と激論が交わされた。結果、事態はいよいよ紛糾し混乱してドロ沼化している、というのが今の英国の状況である。

そうこうしているうちに時限が来て、EUは英国メイ首相の離脱延期要請を受け入れた。それでも、いやそれだからこそ、英国議会は今後も喧々諤々の論戦を続けるだろう。それはそれで構わない。構わないどころか民主主義体制ではそうあるべきだ。

だが民主主義に則った議会での議論が尽くされた感もある今、ふたたび民主主義の名において、何かの打開策が考案されて然るべき、というふうにも僕には見える。その最大最良の案が再度の国民投票ではないか。

なぜ否定されている「再国民投票案」なのかといえば、2016年の国民投票は既に“死に体”になっている、とも考えられるからだ。民意は移ろい世論は変遷する。その変化は国民が学習することによって起きる紆余曲折であり、且つ進歩である。

つまり再度の国民投票は「2度目」の国民投票ではなく、新しい知識と意見を得た国民による「新たな」国民投票なのである。経過3年という月日が十分に長いかどうかは別にして、2016年の国民投票以降の英国の激動は、民主主義大国の成熟した民意が、民主主義の改善と進展を学ぶのに十二分以上の影響を及ぼした、と考えることもできる。

いうまでもなく英国議会は、メイ首相を信任あるいは排除する動きを含めてBrexitの行方を自在に操る権限を持っている。同時にこれまでのいきさつから見て、同議会はさらなる混乱と停滞と無力を露呈する可能性も高い。ならば新たな国民投票の是非も議論されなければならないのではないか。

そうなった暁には、投票率にも十分に目が向けられなければならない。そこでは前回の72,1%を上回る投票率が望ましい。2016年の国民投票後の分析では、EU残留派の若者が投票しなかったことが、離脱派勝利の大きな一因とされた。

もしもその分析が正しいならば、投票率の増加は若者層の意思表示が増えたことを意味し、同時にその結果がもたらす意味を熟知する離脱派の「熟年国民」の投票率もまた伸びて、多くの国民による真の意思決定がなされた、と見なすことができるだろう。

要するにBrexitをめぐる英国の混乱と殷賑は、既述したように民主主義の限界と悪と欺瞞と、同時にその良さと善と可能性を提示する大いなる実験なのである。それは民主主義の改革と前進に資する坩堝(るつぼ)なのであって、決してネガティブなだけの動乱ではない。

EU内の紛糾と見た場合、その大きな変革の波は、先ず英国と欧州の成熟した民主主義の上に、Brexit国民投票を実施した英国のデイヴィッド・キャメロン前首相という負け馬がいて、それにイタリアの負け馬マッテオ・レンツィ前首相が続き、テリーザ・メイ英国首相というあらたな負け馬が総仕上げを行っている、という構図である。

民主主義の捨て石となっている彼ら「負け馬」たちに僕はカンパイ!とエールを送りたい。なぜなら3人は民主主義の捨て石であると同時に、疑いなくそれのマイルストーンともなる重要な役割を果たしていて、民主主義そのものに大きく貢献している、と考えるからだ。



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負け馬の人徳



ユニオンジャック&メイ800切り取り②

EU(ヨーロッパ連合)と英国のメイ首相は、2019年4月12日としていたBrexit
(英国のEU離脱)の期日を、ことし10月31日まで延期することで合意した。

メイ首相は2016年、Brexitの是非を問う国民投票の結果を受けてデーヴィッド・キャメロン前首相が辞任した後、タナボタよろしく無投票で英国首相になった。

以後彼女は、国民投票でイエスと決定したEU離脱に向けて動き出した。ところが、元はEU残留派だった本人が、離脱派に鞍替えした風見鶏的な体質が影響したのでもあるかのように、彼女の政策はことごとく失敗。

首相就任1年後には、野党労働党の困窮を見て自らの権力基盤を固めたい野心にとらわれる。そこでEU離脱に向けた党内のさらなる結束が必要、ともっともらしい口実を作って議会を解散、総選挙を実施する。だがみごとに敗退。保守党は議会過半数をのがした。

それは彼女の前任者のキャメロン首相が、「私を取るかEU離脱を取るか」と思い上がったスローガンをかかげて国民投票を戦い、まさかの敗北を喫した失策とウリふたつの慢心行為だった。

キャメロン氏の失脚の半年後、イタリアの若き「政治屋」マッテオ・レンツィ首相も、「私を取るか上院改革ノーを取るか」と英国の失敗を無視したうぬぼれ行為に走って敗北・失脚した。が、メイ首相はその例にも習わなかった。

メイさんは間抜けな行為の責任を取って首相職を辞めるのかと思ったら、ふてぶてしく居座った。北アイルランドの弱小政党を取り込んでようやく過半数を達成して、EU離脱に向けての権謀術策を再開したのである。

しかし野党労働党はおろか、身内の保守党内からも造反者が続出して、繰り出す政策や施策案はことごとく沈没。ついに「EUのお情け」ともいえる今回の半年間の離脱延期となった。

それを受けて、メイ首相は何を血迷ったのか、身内の保守党から顔をそむけるようにして野党の労働党との妥協を探る、などと表明し先行きの不透明感は増すばかりである。

「民主主義は、それ以外の全ての政治体制を除けば最悪の政治である」というウィンストン・チャーチルの名言は、メイ首相が日々格闘しているまさに同じ場所である英国議会の、けたたましい論戦と智謀と策略のぶつかり合いの中から生まれた。

その民主主義の最大の美点とは、武力を排除した舞台で議員(従って国民)が知恵と意見とアイデアをぶつけ合い、しかる後に生まれる「妥協」である。また民主主義の最大の欠点とは多数決と多数派による横暴である。

多数派による暴虐を殺ぐために考案されたのが、「少数派の意見を尊重する」というコンセプトである。それは実行されることは稀だが、現代のまともな民主主義体制の中では、そのことは強く意識されている。そして意識されていること自体が既に民主主義の改善である。

つまるところ民主主義とは、民主主義体制の不完全性を認めつつ、より最善のあり方を目指して進もうとする際の不都合や危険や混乱や不手際等々を真正面から見つめ、これに挑み、自らを改革・改善しようと執拗に努力する政治体制のことなのである。

僕はメイ首相が対峙する英国下院での論戦の渦と、同時に叱咤と欲望と雄叫び、そして何よりも「混乱」の模様を衛星TV報道画面で確認しつつ、その持論にますます自信を深めたりもするのである。

ひと言でいえば、議会に翻弄されているメイ首相は無能である。彼女の政策の善悪や好悪や是非に関わらず、一国の指導者が自らの政策に対して議会の賛同が得られない状況に長く居つづけるのは、無能以外の何ものでもない。

それにもかかわらずにメイ首相がめざましいのは、状況に決してめげない姿勢と行動力、しぶとい意志と厚顔、起き上がりこぼしもマッサオな打たれ強さ、執拗さ、愚直さ、鈍感さで議会に挑む姿だ。ある意味で政治家の鑑でさえある。

恐らくそれが見えるからなのだろう、EU幹部の彼女を見る目は意外と優しい。むろんその前に、EU幹部がメイ首相との離脱交渉において、彼らの思惑を押し通し有利な合意に達している、という現実があり、その現実から生まれる余裕がある。

そのことを知ってか知らでか、自国の議会でこてんぱんにやられたメイさんは、足しげくEU本部に出向いては、離脱合意の中身の見直しを頼んだり離脱延期を要請したりする。そのことも彼女のめげないしぶとさ、を印象付ける

メイ首相が泣きつく度に、EUのユンケル委員長やトゥスク大統領らは、彼女を慰め励まし協力し援助の手を差し伸べる。独仏のメルケル、マクロン両首脳をはじめとするEU加盟国の全首脳も同じ。メイ首相を非難するのは英国内の反対勢力だけ、というふうにさえ見える。

EU内のこちら側、つまり欧州大陸からイギリス島を観察しているとBrexitに関する限りそんな印象がある。その印象は連日繰り返し流れる英国議会論戦の映像や、EU幹部や加盟各国の首脳と会うメイさんの様子などによってさらに強調される。

EU側は誰もがメイさんに親切だ。首脳らは彼女をいつも歓迎し、抱擁し、激励し、心からの親愛の情を行動で示す。映像には彼らの誠実が素直に露見していて見ていてすがすがしいくらいだ。不思議な情景である。

EU幹部にもまた加盟各国首脳にも、英国がEUに残留してほしいという心底での願いがある、と僕はポジショントークながら思う。だが現実には英国は離脱の道を選び、メイ首相自身もそれを目指して政治的駆け引きを繰り返している。

彼女がひんぱんにEU]本部や加盟国を訪れるのも、すみやかなEU離脱の道を模索してのことである。決してEU残留を願って行動しているのではない。

EUはそのことを熟知しつつ、懸命にメイ首相を応援している。むろん、合意なき離脱になれば英国はいうまでもなくEUにも大きな損害と混乱がもたらされることが予想される。それを避けるためにはEUは、メイ首相との合意に基づく離脱を目指したほうがいい。

その実利を十分に理解したうえで見ても、繰り返しになるが、EUのメイさんを見つめる目は寛大だ。これはもうテリーザ・メイというしぶとくて愚直で鈍感な政治家の「人徳」によるもの、といっても過言ではない感じさえする。

EU支持者で英国ファンの僕は、どんな理由であれ英国の離脱が先延ばしにされるのは喜ばしい。延期を繰り返していけば、最終的には離脱そのものがなくなるかもしれない、という可能性がゼロではない展開へのひそかな期待もある。

一方、たとえそうはならなくても、離脱延期が実現したことで「合意なき離脱」という最悪のシナリオが避けられた、という見方が巷には根強く残っている。だがそれは間違っている可能性も高い。

離脱が延期される度に英国内では離脱強硬派の反発が高まるという現実がある。するとメイ首相は保守党内右派の支持を取り付けるのを諦めて別の道を探す。彼女がEUとの離脱延期合意直後に「野党労働党との協議を進めたい」と明言したもそれが理由だ。

すると自らの拠り所である保守党とその他の離脱強硬派の反発がますます高まって議会が紛糾する。結果、EUとの「離脱合意案」への承認が得られないまま時間切れとなって(延期期間の終わりが来て)なし崩しに「合意なき離脱」に至る可能性も極めて高い、と思うのである。



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