2019年06月

地中海のカモメがつぶやいた


加筆再録


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昨年に続き地中海のサルデーニャ島で短いバカンスを過ごしている。6月の地中海の気温は高く、だが風は涼しく空気は乾いてさわやかである。

日本語のイメージにある地中海は、西のイベリア半島から東のトルコ・アナトリア半島を経て南のアフリカ大陸に囲まれた、中央にイタリア半島とバルカン半島南端のギリシャが突き出ている海、とでも説明できるだろうか。

日本語ではひとくちに「地中海」と言って済ませることも多いが、実はそれは場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っていて、イタリア語を含む欧州各国語で言い表される地中海も、もっと複雑なコンセプトを持つ言葉である。

地中海にはイタリア半島から見ると、西にバレアス海とアルボラン海があり、さらにリグリア海がある。東にはアドリア海があって、それは南のイオニア海へと続いていく。

イタリア半島とギリシャの間のイオニア海は、ギリシャ本土を隔てて東のエーゲ海と合流し、トルコのマルマラ海にまで連なる。それら全てを合わせた広大な海は、ジブラルタル海峡を通って大西洋にあいまみえる。

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がるのである。

さて、エーゲ海を起点に西に動くとギリシャ半島があり、イオニア海を経てイタリア半島に至る。その西に広がるシチリア島を南端とする海がティレニア海である。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてここサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、連日、文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

カモメが強風に乗って凄まじいスピードで真っ青な空間を飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島とギリシャの島々の空と海とビーチの空気感を敢えて比べて見れば、エーゲ海域をはじめとするギリシャの方がはるかに魅力的だ。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。またサルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

それは恐らく上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わわる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけで昨年に続いて、今回のサルデーニャ島の休暇でも、海三昧の時間というよりも、観光と食巡りに重点を置いた日々を過ごしている。


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ジューン・バカンス



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ジューン・ブライドという言葉がある。ジューンは6月、ブライドは花嫁。「6月の花嫁は幸せになる」という意味の英語である。ギリシャ神話から出た古代ローマ神話のうちの、結婚の女神JUNO(ジュノー)に由来する。

語源を季節や農作業に結び付けて探る考え方もある。僕もそれを気候にからませて考えたい方だ。ジューン・ブライドは、結婚式を「光がまぶしく空気がさわやかな6月」に行えば花嫁が麗しく輝く、という意味にも取れると思う。

梅雨でうっとうしい日本とは違って、ヨーロッパの6月は暑くなく寒くなく、かつバラなどに代表される花々が咲き乱れる1年で最も美しい季節なのである。

ところで僕にとっては6月は、例年ジューンブ・ライドならぬ「ジューン・バカンス」の季節である。

ここイタリアを含むヨーロッパのバカンス期は、6月にぼちぼち始まって7月に加速し、8月のピークを経て、9月いっぱいをかけてゆるゆると終息する。

しかし最適なバカンス時期は6月だと僕は思っている。花が咲き誇る大陸や島々の水無月は雨が少なく、しかも夏時間の真っ最中だから、南欧でも昼が一番長い季節。

その気になれば夜の8時、9時までビーチで過ごすこともできる。ビーチの後で食事や遊びに繰り出す夜の歓楽街の風は、暑い7月や8月とは違って涼しい。

またバカンス最盛期ではないその頃は人出が少ない。それ自体も好都合だが、人が混み合わない分ホテルやビーチ施設の料金など、あらゆるものの値段も安い。良いことずくめなのである。

6月のバカンスの欠点は、普通の勤め人には休みを取るのが難しいという点だ。欧州全体もまたイタリアも、サラリーマンが休めるのはやはり圧倒的に8月が普通なのである。
 
僕はフリーランスのテレビディレクターというヤクザな商売をしているおかげで、6月以外の季節に普通以上に頑張って仕事をする代わりに、皆が休めない時間に休めるというシアワセに恵まれてきた。

そんなわけでことしもこれから休暇に向かう。最近はほぼ毎年ギリシャで過ごすが、昨年に続いて今回もイタリア国内のサルデーニャ島へ。

実はギリシャのパロス島行きを計画したのだが、移動や宿泊の予定がうまく立てられないのでサルデーニャ島に変更した。ことしは昨年とは逆に島の南部に滞在する。

サルデーニャ島は地中海の西部に浮かぶ島。一方パロス島は地中海東部のエーゲ海域にある。地中海では西部よりも東部のほうが乾燥していて気温も高い

乾燥し且つ気温が高ければ、空気が澄んで空が青い。空が青ければ海はなお青い。サルデーニャ島よりも、ギリシャの島々の空と海がより深い青に見えるのはそれが理由だ。

そうはいうものの、バカンスでは海の色よりも海の「空気」の方が大切だ。空気はより乾いて澄んでいるほうが健康はもちろん遊びにも良い。その意味では地中海西部に浮かぶサルデーニャ島は、東部にあるパロス島に及ばない。

だがそれは、たとえばイタリアの赤ワインの双璧であるブルネッロ・ディ・モンタルチーノとバローロを比較するようなもので、優劣は個々人の好みに帰する。どちらも優れているのだ。

それどころか両ブランドは双璧ではない。イタリアの赤ワインにはバルバレスコもアマローネもある、と誰かが言い出せばそれはその通りだからもう切りがなくなる。優れた赤ワインはイタリアにはほかにも多いのだ。

地中海が、パロス島とサルデーニャ島の浮かぶエーゲ海またティレニア海のみならず、イオニア海 、リグリア海、 バレアレス海 、アドリア海 、アルボラン海、さらにトルコのマルマラ海など、いずれ劣らぬ美しい碧海で成り立っているように。。。


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極右のロザリオ~黒い祈り



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イタリアのポピュリズム(大衆迎合主義)政権の一翼を担う極右政党「同盟」は先月(5月26日投開票)行われた欧州議会選挙で予想通り躍進した

同党の党首で副首相のサルヴィーニ氏は、選挙運動中にロザリオをかざして演説を行なうなどしてローマ教皇の怒りを買った。

ロザリオはカトリック教会で聖母マリアへの祈りを唱える時に使う、小さな十字架がついたネックレスのような数珠。

サルヴィーニ氏は、連立政権内で特に難民・移民の排斥を主体にした人種差別的政策を推し進めてローマ教皇と対立している。

イエス・キリストを持ち出すまでもなく、ロザリオに象徴される聖母マリアが貧しい難民・移民を放逐したり、人種差別的な行為を容認するわけがない。

だから教皇を頂点とするバチカンは、聖母マリアの教えと相対するサルヴィーニ氏がロザリオをかざして選挙運動をしたことに不快感をあらわにしたのである。

イタリアは国民の約70%がカトリック教徒とされるが、印象としてはほぼ100%が同教の信者、というのが住んでみての実感だ。9割以上の国民がカトリック教徒という統計も実際に多い。

そこでサルヴィーニ氏は信仰を よりどころに票獲得を企てたが、逆に信仰のシンボル的存在であるローマ教皇の返り討ちに遭った、というふうである。

日本人にはなじみが薄いローマ教皇をわかりやすく語るために、僕は敢えて沖縄に絡めて、沖縄の読者向けに次のような趣旨の文章を書いたことがある。

《ローマ教皇はカトリック教最高位の聖職者である。宗教的存在としての教皇は世界中に12億人程度いるカトリック教徒の精神的支柱だ。同時に彼は政治的な存在でもある。

政治的存在としてのローマ教皇は、われわれの住むこの世界で最も大きな影響力を持つ権力者の1人だ。

ローマ教皇の存在が、遠い極東の島国日本の、さらに外れに当たる沖縄にも影響を与え得る例を一つだけ挙げてみたい。

2011年、アメリカで起きた同時多発テロ事件は、米軍基地の多い沖縄もテロの標的になる可能性が高い、という風評を呼んで観光業に大打撃を与えた。

あの事件はイスラム過激派による反米闘争の一環として決行されたが、その前にはイスラム教とキリスト教のいがみ合いという何世紀にも渡る対立があり、それは現在でも続いている。

つまりひとことで言えば、もしもキリスト教世界とイスラム教世界が親和的な関係であったならば、イスラム過激派のテロは存在せず沖縄の観光産業が打撃を蒙ることもなかった。

そしてローマ教皇はその気になれば、2大宗教の対立に終止符を打つことも、このままま継続させることもできるほどの力を持つ大きな存在なのである。》


“風が吹けば桶屋が儲かる”的な論法に聞こえるかもしれない。が、ローマ教皇はあらゆる国や地域が密接に結びついて狭くなった世界で、一大勢力を持つカトリック教会のトップなのだ。

カトリック教最高位の聖職者たるローマ教皇は非世襲の終身職。コンクラーヴェと呼ばれる枢機卿団の構成員たちの互選投票で選ばれる。

そうしたことからローマ教皇を敢えて日本に例えて言うならば、万世一系の天皇ではなく、一大限りの天皇あるいは選挙で選出される天皇、と形容することもできる。

同盟のサルヴィーニ党首は、国民の圧倒的多数を占めるカトリック教徒に向けて「ロザリオと共に進もう!」と叫ぶことで、あるいはローマ教皇に挑もうと考えているのかもしれない。

極右系の政治家にありがちな彼の思い上がったやり方は、日本の安倍晋三首相が平成の天皇に逆らい、さらに即位したばかりの新天皇を篭絡しようとして躍起になっている、とされる姿にも重なるようだ。

僕は政治家のそうした動きには少しも驚かない。彼らはそうすることで自らの政治目標を達成しようとする。そして政治目標の達成こそが政治家にとっての正義だ。僕はサルヴィーニさんも安倍さんも支持しないが、彼らの飽くなき野心には感心するばかりである。


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9月に会いましょう



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イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というフレーズが多くなる。

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別だ。

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間は海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通うケースもよくある。

僕はそれを「通勤バカンス」と勝手に呼んでいるが、通勤バカンスを過ごす男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取ることはいうまでもない。

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。

とはいうものの実は、大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の「夏休み」を取るのが普通だ。

それは法律で決まっている最低限の「夏期休暇の日数」で、たとえば僕がつい最近まで経営していた個人事務所に毛が生えただけのささやかな番組制作会社でも同じ。

会社はその規模には関係なくスタッフに最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担だ。

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は思う。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものだ。

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

そうすると、普通の期間に休みを取る人々は、休み前にも休みが明けてもクライアントがいなかったり、逆に自らがクライアントとなって仕事を出す相手がいなかったりする。

どんな仕事でも相手があってはじめて成り立つものだから、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の量が減り能率もがくんと落ちてしまう。

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけだ。イタリアがバカンス大国であるゆえんは、夏の間は仕事が回らないことを誰もが納得して、ゆるりと9月を待つところにある。

プロのテレビ屋としてロンドン、東京、ニューヨークに移り住んで仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものだ。

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ないたとえば日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ感じる。

9月に会いましょう!と明るく声をかけあって、イタリア的に休みまくるのはやはり、誰がなんと言おうが、良いことなのだと思わずにはいられないのである。


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スイスの銃は発砲されなければならない



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「そこにある銃は発砲されなければならない」とする“チェーホフの銃”は、ドラマツルギーの一環としての創作法を提示するに過ぎないが、スイスの銃は現実社会の病の一つを体現する事象としてより深刻である。

2019年5月、スイスでEU(欧州連合)と同じ厳しい銃規制策を採用するかどうか、を問う国民投票が行われた。スイスは伝統的に銃を所有している国民が多い。

スイスの人口当たりの銃の保有数は世界で4番目に高い。同国には徴兵制度があり、兵役を終えた人々が軍隊で使った銃を自宅で保管できる独特の仕組みがある。

スイス国民は彼らの1人ひとりが自国防衛にたずさわるべき、という堅牢な考えを持っている。そのため兵役を終えた後も、自宅に銃を置いて“いざ鎌倉”に備えるのである。

スイスは永世中立国である。だから理論的にはこちらからは戦争を仕掛けない。だが、国土が侵略された場合は速やかに立ち上がって戦う、というのが彼らの決意だ。そして戦いには銃が必要である。

スイス国民、特に男性は、銃の扱いに慣れるように教育される。銃の使い方を学ぶのは彼らの義務だ。そのことを象徴するように13~17歳の少年を対象にした全国的な射撃コンテスト等も行われる。

スポーツとしてのライフル射撃なども同国では人気がある。また自己防衛や狩猟等のために銃を保有するのは当然の権利、という基本理念もある。そうしたことの全てがスイス人の銃所持の壁を低くする。

日本とは大きく違って、欧米をはじめとする世界の国々では、銃保有は当然の権利と捉えられるのが普通だ。スイスも例外ではないのである。

スイスの銃規制はゆるいとは言えないものの、銃保有の割合が高いために、同国はEU(欧州連合)から国内の銃保有率を下げるように、としきりに要請されてきた。

スイスはEU加盟国ではない。しかし、人とモノの移動の自由を定めた「シェンゲン協定」には加盟している。そのためにEUは、スイスが銃規制策も彼らと同基準にするように求め続けたのだ。

それを踏まえてスイスは先日、EUの要請を受けるかどうかを問う国民投票を実施したのである。その結果EUと足並みをそろえるという主張が勝利。スイスの銃規制は強化されることになった。

スイスは既述のように国民の銃保有率が高い国だが、イスラム過激派のテロが頻発する昨今のEU各国や、歴史的に銃が蔓延する米国のような銃乱射事件はほとんど起きない。

最後に銃乱射事件が起きたのは2015年5月9日。スイス山中の静かな村で、男が別れた妻の両親と弟を銃撃した後、偶然通りかかった隣人も殺害し、自らも自殺して果てる事件が起きた。

背景には複雑な家族の問題があった。男は暴力的で、彼から逃れるために妻が子供3人を連れて家を出た。逆恨みした男は妻の実家を襲って犯行に及んだ。

家族間のトラブルから来る発砲事件はイタリアでもよく起こる。それなのにイタリアのメディアは当時、外国のスイスのその事件を大きく伝えた。それが「スイスでの事件」だったからである。

スイスはイタリアよりもはるかに銃保有率の高い国である。兵役後も成人男性のほとんどが予備役または民間防衛隊の隊員であるため、既述のように多くの家庭に自動小銃や銃弾が保管されている。

それにも関わらず、銃を使ったスイスでの犯罪はイタリアよりも桁違いに少ない。スイスでは過去30年間に銃による虐殺事件は、前述の2015年のケースも含めてたった9回しか起きていない。

だからニュースになるのだが、その時はちょうどイタリア・ミラノの裁判所で被告人が弁護士や裁判官を銃撃する、という前代未聞の事件が起きた直後だった。それだけに、イタリアのメディアはスイスの「珍しい」銃撃事件を大きく報道した。

銃犯罪が少ない一方でスイスでは、銃を使った自殺が多発する。銃によるスイスの自殺者の数は逆に、イタリアとは比べものにならないくらい多いのだ。

スイスでは一日あたり3~4人が自殺をする。年間では交通事故の死亡者数の4倍にも上る数字である。そのうち銃で自殺をする人の割合は25%弱。欧州で最も高い割合だ。

銃で自殺をする人が多いのは、そこに銃があるからである。自殺のほとんどは衝動的なものだ。とっさに自殺したくなった時にわざわざ銃を買いに行く者はいない。身近にある銃に手を伸ばすのだ。

しかし、スイスで銃による自殺が多いのはそれだけではないように思える。スイスでは安楽死及び尊厳死が合法化されている。正確に言えば自殺幇助が許されているのだ。

不治の病に冒された人や耐え難い苦痛に苦しむ人々が死を望めば、医師が自殺を幇助してもよい。スイスには自殺願望のある不運な人々が国内はもとより世界中から集まる

安楽死や尊厳死を認めるスイス社会の在り方が、スイス人1人ひとりの心中に潜む自殺願望を助長しあるいはそれへの抵抗感を殺ぎ、結果として銃による自殺の割合も欧州で最も高くなる、という見方もできる。

安楽死や尊厳死というものはない。死は死にゆく者にとっても家族にとっても全て苦痛であり、悲しみであり、ネガティブなものだ。あるべき生は幸福な生、つまり安楽生と、誇りある生つまり尊厳生である。

不治の病や限度を超えた苦痛などの不幸に見舞われ、且つ人間としての尊厳をまっとうできない生は、つまり安楽生と尊厳生の対極にある状態である。人は 安楽生または尊厳生を取り戻す権利がある。

それを取り戻す唯一の方法が死であるならば、人はそれを受け入れても非難されるべきではない。死がなければ生は完結しない。全ての生は死を包括する。安楽生も尊厳生も同様である。

その観点から僕は安楽死・尊厳死を認めるスイス社会のあり方を善しと考える。しかしそれがスイスにおける銃自殺率の高さに貢献しているのであれば、銃規制の厳格化はもちろん朗報である。

銃がそこになければ、銃によるスイスの人々の自殺率は、世界中のほぼ全ての国と同じように国民の銃保有率と正比例するだけの数字になり、もはや驚くほどのものではなくなるだろう。



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反安倍一辺倒ではないが反安倍の理由(わけ)

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安倍首相批判になった前記事「安倍阿諛劇場の危うさと怖さ」に対しても保守派の方から抗議の便りをいただいた。何度か便りをくださっている方で、結局仲宗根氏は安倍首相の全てが嫌いで全てに反対なんですね、と締めくくられていた。

安倍さん批判の記事を書くと彼のファンの方からよくメッセージをいただく。たいてい僕が一から十まで反安倍だと思い込んでいる。だがそんなことはまったくないので、その旨の返事をした。これから書くのは安倍ファンのその読者にお送りした内容を踏まえて、さらに少し加筆・拡大したものである。

安倍さんの全てが悪いのではない

僕は安倍さんを政治的に支持しないが、別に彼の全てに異を唱えているわけではない。以前から言っているように彼の「全てが悪いのではなくやり方に問題がある」と考える者だ。そこに言及する前に、これから述べる事案における僕の政治的な立ち位置をはっきりさせておきたい。

僕は日米同盟には賛成である。賛成どころか同盟の強化を願っている。むろん日米安保も支持する。また僕はアメリカが好きである。仕事でニューヨークにも住んだ。しかし僕がアメリカを好きなのは、ニューヨークに住んだことが理由ではない。僕はアメリカの在り方が好きなのである。

アメリカには人種差別も不平等も格差も貧困も依然として多い。それは紛れもない事実だ。だがアメリカは、今この時のアメリカが素晴らしいのではない。愚昧な差別主義と無知から解放された米国の良識ある人々が、アメリカは「かくありたい」と願い、それに向かって前進しようとする「理想のアメリカ」が素晴らしいのである。

その理想とは、より寛容でより自由でより平等なアメリカという理念であり、偏見や差別や憎しみをあおるトランプ大統領の政治姿勢とは真っ向から対立する行動規範である。 そしてアメリカの強さは、彼らが理想を語るだけではなく実際に行動を起こすことだ。

アメリカ合衆国は地球上でもっとも人種差別が少ない国だ。これは皮肉や言葉の遊びではない。奇をてらおうとしているのでもない。日本で生まれ、ロンドンに学び、ニューヨークに住んでアメリカ人と共に仕事をし、今も彼らと付き合いつつ欧州から米国の動向を逐一見ている僕自身の、実体験から導き出した結論だ。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからだ。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからだ。断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡って目立つ。そのためにあたかも米国が人種差別の巣窟のように見える。

アメリカには人種差別がある。同時に自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い続け、絶えず前進しているのがアメリカという国だ。長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴の一つが、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生だった。

安倍さんに賛成し反対する

アメリカが腹から好きな僕は、安倍首相がトランプ大統領との友情を深め日米同盟の絆を強調し、軍事経済文化その他全ての分野で日米が仲良くすることに賛成である。ところが僕は安倍さんのやり方が腑に落ちない。アメリカへの追従が過ぎる、と思う。

日本は敗戦以来、常にアメリカの子分として生きてきた。戦争に敗れ、軍事また経済で圧倒され、文化・文明度でもアメリカの足元にも及ばない、と政府も国民も自信を喪失していたのだから、そうなったのも仕方がない。

時は過ぎて、日本が少しは自信を取り戻した幸運な季節に権力を握った安倍さんは、戦後レジームからの脱却を旗印にした。つまりアメリカとの同盟関係を維持しながら属国の位置を抜け出し、対等な付き合いを目指すと見えた。

ところが安倍さんは逆方向に進んだ。それはトランプ大統領が誕生して以降は加速をつづけて、今ではもはや後戻りはできないほどになった。それが端的に現れたのが2016年、トランプさんが大統領選に勝利したとき、安倍首相が世界の首脳に先駆けてトランプタワーに乗り込んで、彼を祝福し友好親善を推し進めたエピソードだ。

世界の大半がトランプ勝利に眉をひそめている最中に、「何らの批判精神もなく」彼に取り入った安倍さんの行為は世界を驚かせた。そこには安倍さんならではの無邪気と無教養が如実に現れていた。 自尊心のかけらもないような諂笑を振りまいて恥じない姿はおどろきだった。

僕の安倍さんへの不信感の根はそのエピソードに象徴的に集約される。しかし「何らの批判精神もなく」トランプ大統領に追随する姿勢は、安倍さんのその他の政治行為や施策にも多く現れて、僕の中では違和感が高まりつづけた。ほんの2、3の例を挙げてみたい。

北朝鮮

先ず北朝鮮への対応である。安倍首相は金魚のフンよろしくトランプ大統領に寄り添って、彼が圧力と経済制裁と言えば全く同じように追従し、大統領が強硬姿勢を対話へと切り替えて金正恩委員長との首脳会談を実現すると、またそれを真似て前提条件なしに金正恩とトップ会談をしたい、と臆面もなく言い出す。

対話は相手が誰であれ良いことだ。だがトランプさんの物まねにしか見えない動きががみっともないのだ。あるべき姿はアメリカと協調して圧力と制裁は続けながらも、水面下で彼独自の対話路線を模索するなどの、外交のいろはに基づく信念のある政策と行動だ。それは中国との場合も同じだ。

トランプ大統領は、北朝鮮や中国に今にも武力攻撃を仕掛けかねないような激しい言動をしていても、常に対話の道を探る姿勢を言葉の端々に込めて発言している。それなのに安倍さんが、まるでトランプさんの表向きの言葉のみに注目して右往左往するかのような姿は不可思議だ。

安倍首相は最近、前提条件なしでの日朝首脳会談を呼びかけて「安倍は軍国主義」と軍国主義者の金委員長に斬り捨てられたが、さて次はどう動くのだろうか。米北朝鮮の対話路線は紆余曲折を経ながらも続きそうだ。ならばもしも2国関係が元に戻って対決姿勢を強めるなら、安倍さんは次はまた前言を翻して、北朝鮮に圧力と制裁を!と叫び始めるのだろうか。

中東政策

イスラエルの例も見てみよう。トランプ米大統領が2017年12月、エルサレムをイスラエルの首都と認める、と宣言して世界を震撼させた。それはトランプ大統領によるアラブ・イスラムの国々への新たなる挑発であり侮辱だった。

驚きの声明にアラブ世界は言うまでもなく、欧州列強をはじめとする世界の国々が反発、非難した。ところがトランプ大統領の政策なら何でも支持する安倍政権は、トランプ大統領の宣言に異を唱えるどころか「沈黙を守ること」で、チェコやフィリピンと共に大統領支持に回った。

トランプ大統領は例によって、臆面もなく一方を立て一方を無残に斬り捨てる方法で、中東のイスラエルを庇護し、パレスチナを含むアラブ諸国を貶めた。安倍さんもこれまた例によって「なんらの批判精神もなく」トランプ大統領を100%支持した。

無批判に米国に付き従う施策はエスカレートして、日本とイスラエル間に史上初めて直行便が飛ぶ事態にまで至った。そこにはトランプさんに追従し忖度し彼のケツ舐めに徹する、安倍さんの意向が働いていると見てもそれほど的外れではないだろう。

僕の批判はそこでも同じだ。イスラエルとの交誼は歓迎するべきことだが、そこに安倍さん独自の考えがなく、トランプさんに絡めとられているとしか見えない事態がやりきれない。加えてイスラエルと敵対するアラブ諸国への配慮が欠けていて、国益を損なうものなのだからなおさらである。

真の同盟関係の強化は、卑屈を排し互角の立場で付き合うところでしか成り立たない。それは一方が軍事的に強力で経済的に豊かで国力がある、という物理的な優劣とは別の、いわば「精神の対等性」のことだ。それがあれば、たとえば欧州などの首脳が、米国を最大の同盟国と認めながらも、トランプ大統領に堂々と物申す姿勢と同じやり方が可能になる。

友情とは対等な人間関係に基づく信頼と親しみと絆のことであり、言いにくいことでも言うべきところは言い合う関係だ。それは国家間にもあてはまる。日米間になそんな友情は存在しない。ご主人様のアメリカに日本が従僕のごとくひざまずくことからくる、見せ掛けの友宜があるのみだ。安倍さんはそれを矯正するどころかさらに補強し悪化させている。

短期留学の陥穽

安倍さんが米国と対等の付き合いを模索できないのは、もしかすると彼がアメリカに2年間留学したという経験がトラウマになっているのではないか、とさえ疑うほどだ。外国、特に欧米に短期留学したり仕事などで長期滞在をした日本人の中には、突然ナショナリストへと変身する者が少なくない。

それには理由がある。彼らは憧れて行った欧米の文明国で、日本社会の徹底した西洋模倣の現実と同時にその後進性に衝撃を受ける。そこでふいに欧米への強い対抗心に目覚めて民族主義者になるのだ。そこで欧米社会と欧米人に見下された、という体験が重なると相乗効果が生まれて事態はさらに深刻になる。

そうしたショック現象は、留学が長期化するに従って和らいでいき、やがて彼らは欧米の文化文明の真の価値に目覚めていく。彼らは欧米社会の寛容と解放と自由と人権主義に触れ、それに拠って立つ民主主義の進歩性に気づき、これを理解し尊敬し成長して、そこから生まれる叡智によって自らの国の文化文明も客観視し理解することができるようになる。

欧米に1~2年程度の短い留学や在住経験を持つ保守主義者には気をつけた方がいい。彼らは親欧米であろうが反欧米であろうが、生半可な西洋理解の知識蓄積に縛られていて、知ったかぶりと誤解と曲解に基づくねじれた主義主張をして平然としていることが少なくない。彼らのねじれた心理が矯正されるためには、頭でっかちの机上論ではなく欧米の地にさらに長く留まることで得られる経験知が必要だ。

安倍さんがとらわれているように見える、トランプさんやアメリカへの抜きがたい劣等感のようなものは、もしかすると短期留学体験者が陥りがちな陥穽に嵌まった彼の心理屈折がもたらすものではないか、と僕は時々疑ってみる。劣等感は、西洋文明の堅牢に圧倒された短期留学者が、その反動で必要以上に西洋の文物や在り方に対して居丈高になるのと病原が同じなのである。

もう少し続ける。学校等で得た知識ではなく、知識と共に欧米社会の中に長く住み続ける以外には理解できない文化・文明の懐の深さというものがあるのだ。それを理解すれば劣等感と劣等感の裏返しである行過ぎた国粋主義や敵愾心も消える。なぜなら西洋文明の分別はそうした劣等感の無意味もまた教えてくれるからだ。

愛国者

平家、海軍、国際派という成句がある。社会のメインストリームから外れたそれらの人々は、日本では出世できないという意味の言葉だが、政治 問題関連の論壇などでは往々にして「反日」と同じ風に使われたりもする言葉だ。

だがそれは間違いで、平家の中にも、海軍の中にも、国際派の中にも愛国者はいる。と言うか、そこには源氏、陸軍、国内(民族)派とまったく同数の愛国者がいるのだ。そして僕自身は国際派の愛国者を自負している者だ。国際派だから、こう して出世もできずに恐らく死ぬまで外国を放浪し続ける、という寂しい人生を送っているわけだが。

一方安倍さんは、日本最強の権力者であると同時に、日本主流派のそれも中核に属する愛国者である。日本の傍流の国際派の、プー太郎愛国者である僕とは比べるのがアホらしいほどに格が違う。でも愛国者の度合いにおいては彼と僕のそれは何も違わない。僕はその立ち位置から彼にもの申しているだけである。

これからも機会があれば、安倍さんへの批判記事や逆に「賞賛記事」でさえ恐れずに書いて行くつもりだ。が、正直に言えばここまでに既に言いたいことの多くは言った気がしないでもない。安倍首相ファンの皆さんのおしかりや反論は、それが匿名の卑怯者の咆哮ではない限り喜んでお受けするが、意見の開陳は一つひとつの記事のみならずこれまでのいきさつも含めて考察した後にしていただければ有難い。

次にこれまでのいきさつに当たる記事のリンクを貼付する。できれば目を通していただきたい。

http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52128918.html
http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52173441.html
http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52258325.html
http://blog.livedoor.jp/terebiyainmilano/archives/52273203.html



facebook:masanorinakasone


追伸:リンク1のタイトルは「安倍首相への公開状 ~真正保守への脱皮を促す~」ですが、なぜかリンクに飛ばなかったり、記事は削除されている、などの表示が出たりもします。まさかとは思いますが誰かが何かの操作をしているようにさえ見えます。記事は安倍さんに対する私の真摯な意見が詰まったものですので、ぜひお読みいただければ、と思います。再びリンクを貼り付けます。飛ばない場合は日本語のタイトルを貼り付けてトライしてみてください。なお、念のために同記事はFacebookにも転載しておきます。
仲宗根雅則












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