2019年07月

名車という名の欠陥車



レースロメオ600pic


イタリアには名車が多い。古くはOMという車に始まり、現在はフェラーリ、ランボルギーニ、マセラッティ、アルファロメロ、ランチァ、フィアットなどとつづく。これらの車はどれをとってみても、非常にカラフルで新鮮な印象を人に与える。なんとも美しく個性的だ。

ドイツにもイギリスにもアメリカにもその他の国々にも名車はある。しかし、人それぞれの好みというものを別にしても、イタリアのそれほど個性的でカラフルな感じはしないように思う。

なぜそうなのかと考えてみると、どうもこれはイタリアの車が完全無欠というにはほど遠いせいであるらしいことがわかる。典型的な例はアルファロメオだ。この車はスポーツカータイプの、日本で言えば高級車の部類に入る車の一つだが、イタリアではごく一般的に街を走っている。僕もかつて乗り回したことがある。

アルファロメオはバカバカしいくらいに足が速くて、スタートダッシュから時速100キロメートルに達するまでにわずかな秒数しかかからない。まるでレース カーのような抜群の加速性だ。ボディーの形もそれらしくスマートで格好がいい。ところがこの車には、古くて新しく且つ陳腐だが人を不安にさせる、笑い話のような悪評がいつもついてまわる。

いわく、少し雨が降るとたちまち雨もりがする。いわく、車体のそこかしこがあっという間にサビつく。いわく、走っている時間よりも修理屋に入っている時間のほうが長い・・・云々。アルファロメオの名誉のために言っておくが、それらは大げさな陰口である。

しかし、火のないところに煙は立たない。アルファロメオはドイツ車や日本車はもとより、イタリアの他の車種と比べても、故障が多く燃費も悪い上に排気音も カミナリみたいにすさまじい。スマートで足が速い点を除けば、車そのものが不安定のカタマリようなマシンだ。つまり「欠陥車」である。

ところがイタリア人にとっては、アルファロメオはそれでいいのである。スマートで格好が良くてハチャメチャにスピードが出る。それがアルファロメオのアル ファロメオたるゆえんであって、燃費や排気音や故障の多い少ないなどという「些細な事柄」は、ことこの車に関するかぎり彼らにとって
はどうでもいいことなのだ。

そんなバカな、とおどろくにはあたらない。イタリア人というのは、何事につけ、ある一つのことが秀でていればそれを徹底して高く評価し理解しようとする傾 向がある。長所をさらに良くのばすことで、欠点は帳消しになると信じている。だから欠点をあげつらってそれを改善しようとする動きは、いつも 二の次三の次になってしまう。

人間に対しても彼らは車と同じように考える。いや、人間に対するそういう基本的な見方がまずあって、それが車づくりや評価にも反映している、という方が正しいと思う。分かりやすい例を一つ挙げればベルルスコーニ元首相である。

ベルルスコーニー氏は、少女買春容疑等を含む数々の醜聞や訴訟事案を抱えながら、長い間イタリア政界を牛耳り、首相在任期間は4期9年余に及んだ。2013年に脱税で有罪判決を受けながらも政界で生きのび、ことし5月には欧州議会議員に選出された。

醜聞まみれのデタラメな元首相をイタリア人が許し続けるのは、デタラメだが一代で巨財を築いた能力と、人当たりの良い親しみやすい性格が彼を評価する場合には何よりも大事、という視点が優先されるからだ。そうしたイタリア的評価法の真骨頂は子供の教育にも如実に現れる。

この国の人々は、極端に言えば、全科目の平均点が80点の秀才よりも、一科目の成績が100点で残りの科目はゼロの子供の方が好ましい、と考える。そして どんな子供でも必ず一つや二つは100点の部分(試験の成績という意味だけではなく)があるから、その100点の部分を120点にも150点にものばして やるのが教育の役割だと信じ、またそれを実践しているように見える。

たとえば算数の成績がゼロで体育の得意な子がいるならば、親も兄弟も先生も知人も親戚も誰もが、その子の体育の成績をほめちぎり心から高く評価して、体育の力をもっともっと高めるように努力しなさい、と子供を鼓舞する。

日本人ならばこういう場合、体育を少しおさえて算数の成績をせめて30点くらいに引き上げなさい、と言いたくなるところだと思うが、イタリア人はあまりそういう発想をしない。要するに良くいう“個性重視の教育”の典型なのである。

子供の得意な分野をまず認めてこれを見守る、というのは非常に人間的であたたかく、しかも楽観的な態度だ。同時に厳しい態度でもある。なぜなら一人一 人の子供は、平均点をのばして偏差値を気にするだけの画一的な勉強をしなくても良い代りに、長所と認められた部分を徹底して伸ばす努力をしなければならな いからだ。

長所とは言うまでもなく個性のことである。そして個性とは、ただ黙ってぼんやりと生きていては輝かない代物なのだ。

かくしてアルファロメオは、社会通念になっているイタリア国民一人一人の前述の物の見方に支えられて、第一号車ができて以来ずっと、速さとカッコ良さだけ にせっせと磨きをかけてきた。一日や二日で達成したものではないからその部分では他のどんな車種にも負けない。

同時に雨もりや故障という欠陥部分の強い印象も健在である。突出しているが抜けている。だから憎めない。それがアルファロメオであり、名車の名車たるゆえんだ。なんともイタリア的というべきか。はたまた人間的と言うべきか・・陳腐な結論かもしれないがそれ以上の言葉はみつからない。



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酔っ払いとヨッパライ


グラスワイン注ぐバーテンダー600



イタリアに住んでいて一番なつかしいのは日本の酒場である。この国には、じっくりと腰を落ちつけてひたすら飲んだり、あたりをはばからずに浮かれ騒いだりすることのできる、居酒屋やバーや赤ちょうちんやスナックやクラブというものがほとんどない。

それではイタリア人は酒を飲まないのかというと、全く逆で彼らは世界でも1、2を争うワイン生産国の国民らしく、のべつ幕なしに飲んでいる。食事時には夜昼関係なく水や茶の代わりにワインを飲むし、その前後には食前酒や食後酒も口にする。
それとは別に、人々は仕事中でも「バール」と呼ばれる カフェに気軽に立ち寄って、カウンターで1杯のビールやワインをぐいと立ち飲みして去るのが普通の光景である。 そんな具合に酒を飲みつづけていながら、彼らは決して酔わない。

西洋社会はおおむねそうだが、イタリア社会はその中でも酔っぱらいに非常に厳しい。一般におおらかで明るいイタリア人は、酔っぱらいにも寛大そうに見える。だが、現実はまったく逆である。彼らはたしなみ程度の飲酒には寛大だ。しかし酔っぱらいを蛇蝎のように嫌う。

「いやあ、ゆうべは飲み過ぎてしまって」
「いやいや、お互い様。また近いうちに飲(や)りましょう」
とノンベエ同志が無責任なあいさつを交わし合い、それを見ている周囲の人々が、
「しょうがないな。ま、酒の上のことだから・・・」
と苦笑しながら酒飲みを許してやっている日本的な光景は、ここには存在しない。

酒に酔って一度ハメをはずしてしまうと、よほど特殊な状況でもない限り、その人はもう翌日からまともな人間としては扱ってもらえない。酔っ ぱらい、つまり酒に呑まれる人間を人々はそれほどに嫌う。交通安全の標語じゃないが“飲んだら酔うな。酔うなら飲むな。”というのが、イタリアにおける酒の飲み方なのである。

それならイタリアには酔っぱらいは一人もいないのかというと、面白いことにこれまた全く逆の話なのである。うじゃうじゃいる。というより も、イタリア国民の1人ひとりは皆酔っぱらいである。ただし、彼らは酒に酔った本物の“酔っぱらい”ではない。精神的なあるいは性格的な“ヨッパライ”である。

酔うと人は楽しくなる。陽気になる。やたらと元気が出て大声でしゃべりまくる。社長も部長も課長も平社員も関係がなくなって、皆平等になり本音が出る。仕事仕事とガツガツしない。いや、むしろ仕事など投げ出して遊びに精を出す・・こうした酔っぱらいの特徴は、そのまま全てイタリア人に当てはまる。上戸も下戸も、男も女も子供も老人もドロボーも警察官も、そして夜も昼も関係がない。彼らは生まれながらにして、誰もが等しく酔っぱらいならぬ “ヨッパライ”なのだ。

ヨッパライたちの酔いぶりは、アルコールとは縁がないから抑制がきいていて、人に迷惑をかけない。くどくどと同じことを繰り返ししゃべらない。狂暴にならない。言動に筋が通っていて、翌日になってもちゃんと覚えている等々、いいことずくめである。

ただし、イタリア野郎にフランス男と言うくらいで、男のヨッパライの多くは、白昼でもどこでもむやみやたらに若い女性に言い寄る、という欠点はある。なにしろ、ヨッパライだからこれはしょうがない。

ところで、この「むやみやたらに女性に言い寄る」というイタリア野郎どもの欠点は、実は欠点どころか“ヨッパライ”であるイタリア人の最大の長所の一つではないか、と僕は最近考えるようになっている。

女性に言い寄っていくヨッパライたちの最大の武器は言葉である。俗に言う歯の浮くようなセリフ、臆面もないホメ言葉、はたで聞いている者が 「ちょっと待ってくれよ」と思わずチャチを入れたくなるような文句の数々、つまりお世辞を連発して、ヨッパライたちは女性に言い寄っていく。

男「君って、いつもホントにキレイだな」
女「ありがとう」
男「髪型、少し変えたね」
女「分かる?」
男「トーゼンだよ。前髪をちょっとアップにしたから、額が広くなってますます知性的に見える。額が広くなると、どうして人間はかしこく見えるんだろう?あ、分かった。かしこく見えるだけじゃないんだ。セクシーになるんだ」
女「うれしい。ホントにアリガト」
みたいな・・

まるで天気か何かの話しでもしているように自然でスムーズで、且つなぜかいやらしくない、彼らの口説きのテクニックをひんぱんに目のあたりにしているうちに、僕はある日ハタと気づいた。彼らの言動は、口説くとか、言い寄るとか、あるいは愛情表現や情事願望などといった、艶っぽい動機だけに 因っているのではない、と。

それはほとんどの場合、単なる挨拶なのである。まさに天気の話をするのと同じ軽いノリで、彼らはそこにいる女性を持ち上げ、称賛し、あれこ れと世辞を投げかけているに過ぎない。そして目の前の相手を褒めちぎり、世辞を言いつづけるのは、男と女の間に限らず、実はイタリア社会の対人関係の全般に渡って見られる現象である。

こぼれるような笑顔と、身振り手振りの大きな仕草を交えながら、彼らは近況を報告し合い、お互いの服装を褒め、靴の趣味の良さを指摘し合 い、学業や仕事や遊びで相手がいかにガンバッテいるかと元気づけ、家族や恋人に言及して持ち上げ、誰かれの噂話をした後には再びお互いの話に戻って、これ でもかこれでもかとばかりに相手の美点を言いつづける。

イタリア人に悩みがない訳ではない。他人の悪口を言う習慣がない訳でもない。それどころか人生の負の局面は、悲しみも苦しみも妬みも憎しみ も何もかも、イタリア人の生活の中にいくらでも織り込まれていて、彼らの心に絶えず重石を乗せ陰影を投げかける。彼らはそれを隠すこともなければ否定もし ない。あるがままに素直に受け入れて、泣いたり、怒ったり、絶望したりしている。

ところが彼らは、同じ生活の中にある喜びの部分、明るい部分、楽しい部分になると俄然態度が変わる。それをあるがままに素直に受け入れるのではなく、できる限り大げさに騒ぎ立て、強調し、目いっぱいに謳歌して止むことがない。彼らはそうすることで、人の力では決して無くすことのできない人生の負の局面を、相対的に小さくすることができる、とでも信じているようである。何事もポジティブに前向きに考え、行動しようとする態度の一つの表われが、対人関係における彼らのあからさまなお世辞なのである。

男と女の場合に限らず、お世辞は言わないよりは言った方がいいのだ、と僕はイタリアのヨッパライ社会を見て思うようになった。よほどヘソの 形が違う人はともかく、たとえお世辞と分かっていてもそれを言われて悪い気のする人はいない。それならば皆がどんどんお世辞を言い合えばいい。そうすれば 誰もが良い気分になって世の中が明るくなる。陽気になる。イタリア社会のようになる。

そう思ってはみるものの、沈黙を尊ぶ東洋の国から来た僕にとっては、美人はともかく、不美人に対しても美しい、きれいだ、センスがいいと絶えず言葉に出して言いつづけるのは辛い。勇気もいるが、体力も気力も必要だ。面倒くさい。ましてや、日常生活の中で会う人のことごとくに賛辞を述べ、元気づけ、がむしゃらに前向きの会話をつづけるのは、気が遠くなりそうなくらいに疲れる。それこそ酒でも飲んでいなければとてもそんな元気は出ない。しかし、 酒を飲んで酔っぱらってしまってはルール違反だ。飽くまでも素面の“ヨッパライ”でなくてはならないのである。

そういう訳で、僕は素面のままで彼らに合わせようと毎日いっしょうけんめいに努力をする。努力をするから毎日疲れる。疲れるから、夜は一杯 やってストレスを解消したくなる。ところが、もう一度くり返すけれども、この国では酒を飲んで酔っぱらうのはヤバイのだ。“ヨッパライ”は大歓迎される が、本物の酔っぱらいは人間扱いをしてもらえない。当然ここでも飲みながら酔わないように、酔わないように、と努力の連続。

そういう暮らしばかりをしているものだから、飲んで騒いで無責任になれる日本の酒場がなつかしい。赤ちょうちんや居酒屋の匂いが恋しい。努力なんか少しもしないでなれる本物の酔っぱらいになりたい・・・。



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ひとり舞台



ペン(鉛筆)握る手青系600




記事タイトル「子を我が物と見なす怪異」を「名誉殺人という怪異も“多様性”として許されるべきか」に変更した。

ブログ記事は書きっぱなしではなくけっこう編集をする。読み返す機会が多いからである。

僕はこれまで新聞・雑誌・文芸誌などに執筆してきたが、そこには常に編集者がいた。

編集者は書き手にとって極めて重要な存在。

誤字脱字などの単純ミスから大きな間違いまで丁寧に指摘してくれ、力のある編集者は重いアドバイスをくれることもある。

ブログは一人で書き、一人で推敲し、読み返し、編集する。楽しいが間違いが多い。

誤字脱字は日常茶飯事。

その他の単純ミスから思い込みや誤りや書き違えや手抜かりやしくじりなど、など、よくもまぁ、と自分でもあきれるほど多くの落ち度が見つかる。何度も読み返すから。

そこで気づいたことは書き直す。タイトルを変更したくなるのも読み返すから。

新聞雑誌その他に書いて発行された文章はもう直しがきかない。だからこそ編集者や検閲者が出版前に責任を持って直し、指摘し、修正アドバイスをくれる。

ブログは編集権も自分にある代わりに間違いを指摘してくれる編集者がいない。だから時間が許す限り自分の下手な文章を読み返しては、せっせと書き直している。

それでも間違いは完全にはなくならない。

絶対に。。。



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“型破り”がイタリア人の型である


妖しい鏡&鐘楼800



日本とイタリアのテレビスタッフがいっしょに仕事をすると、かならずと言っていいほど日本の側から驚きの声が湧きあがる。それはひとことで言ってしまうと、日本側の生真面目さとイタリア側の大らかさがぶつかって生じるものである。

お互いに初めて仕事をする者どうしだからこの場合には両者が驚くはずなのに、びっくりしているのは日本人だけ。生真面目すぎるからだ。それは偏狭という迷い道に踏み込みかねない。同時に何事も軽く流すイタリア人の大らかさも、いい加減の一言で済まされることが良くある。

こういうことがあった。

「どうしてフォーマットをつくらないのかねぇ・・・。こんな簡単なこともできないなんて、イタリア人はやっぱり本当にバカなのかなぁ・・・」
その道35年のテレビの大ベテランアナウンサー西尾さんが、いらいらする気持ちをおさえてつぶやくように言った。

西尾さんを含むぼくら7人のテレビの日本人クルーはその時、イタリアのプロサッカーの試合の模様を衛星生放送で日本に中継するために、ミラノの「サン・シーロ」スタジアムにいた。

ぼくらが中継しようとしていたのはインテルとミランの試合である。この2チームは、当時“世界最強のプロサッカーリーグ“と折り紙がつけられていたイタリア「セリエA」の中でも、実力人気ともにトップを争っている強力軍団。ただでも好カードであるのに加えて、その日の試合は20チームがしのぎを削る「セリエA」の選手権の行方を、9割方決めてしまうと言われる大一番だった。

スタジアムに詰めかけたファンは約8万5千人。定員をはるかにオーバーしているにもかかわらず、外には入場できないことを承知でまだまだ多数のサポーターが集まってきていた。

球場内では試合前だというのに轟音のような大歓声がしばしば湧きあがって、巨大スタジアムの上の冬空を揺り動かし、氷点下の気温が観衆の熱気でじりじりと上昇していくのでもあるかのような、異様な興奮があたりにみなぎっていた。

こういう国際的なスポーツのイベントを日本に生中継する場合には、現地の放送局に一任して映像をつくって(撮って)もらい、それに日本人アナウンサーの実況報告の声を乗せて日本に送るのが普通である。それでなければ、何台ものカメラをはじめとするたくさんの機材やスタッフをこちらが自前で用意することになり、ただでも高い番組制作費がさらに高くなって、テレビ局はいくら金があっても足りない。

その日われわれはイタリアの公共放送局RAIに映像づくりを一任した。つまりRAIが国内向けにつくる番組の映像をそのまま生で受け取って、それに西尾アナウンサーのこれまた生の声をかぶせて衛星中継で日本に送るのである。

言葉を変えれば、アナウンサーの実況報告の声以外はRAIの番組ということになる。ところがそのRAIからは、いつまでたっても番組の正式なフォーマットがわれわれのところに送られてこなかった。西尾さんはそのことに驚き、やがていらいらして前述の発言をしたのである。

フォーマットとはテレビ番組を作るときに必要な構成表のことである。たとえば1時間なら1時間の番組を細かく分けて、タイトルやコマーシャルやその他のさまざまなクレジットを、どこでどれだけの時間画面に流すかを指定した時間割表のようなもの。

正式なフォーマットを送ってくる代わりに、RAIは試合開始直前になって「口頭で」次のようにわれわれに言った。

1)放送開始と同時に「イタリア公共放送局RAI」のシンボルマークとクレジット。
2)番組メインタイトルとサブタイトル。
3)両チームの選手名の紹介。
4)試合の実況。

ほとんど秒刻みに近い細かなフォーマットが、一人ひとりのスタッフに配られる日本方式など夢のまた夢だった。

あたふたするうちに放送開始。なぜかRAIが口頭で伝えた順序で番組はちゃんと進行して、試合開始のホイッスル。2大チームが激突する試合は、黙っていても面白い、というぐらいのすばらしい内容で、2時間弱の放送時間はまたたく間に過ぎてしまった。

西尾さんは、さすがにベテランらしくフォーマットなしでその2時間をしゃべりまくった。しかし、フォーマットという型をドあたまで取りはずされた不安と動揺は隠し切れず、彼のしゃべりはいつもよりも精彩を欠いてしまった。

ところでこの時、西尾さんとまったく同じ条件下で、生き生きとした実に面白い実況報告をやってのけたもう1人のアナウンサーがいる。ほかならぬRAIの実況アナウンサーである。

僕はたまたま彼と顔見知りなので、放送が終わった数日後に当人に会ったとき番組フォーマットの話をした。

彼はいみじくもこう言った。

「詳細なフォーマット?冗談じゃないよ。そんなものに頼って実況放送をするのはバカか素人だ。ぼくはプロのアナウンサーだぜ。プロは一人ひとりが自分のフォーマットを持っているものだ。」

公平に見て彼と西尾さんはまったく同じレベルのプロ中のプロのアナウンサーである。年齢もほぼ似通っている。2人の違いはフォーマット、つまり型にこだわるかどうかの点だけだ。

実はこれは単に2人のテレビのアナウンサーの違いというだけではなく、日本人とイタリア人の違いだと言い切ってもいいと思う。

型が好きな日本人と型破りが型のイタリア人。どちらから見ても一方はバカに見える。この2者が理解し合うのはなかなか難しいことである。

型にこだわり過ぎると型以外のものが見えなくなる。一方、型を踏まえた上で型を打ち破れば、型も型以外のものも見えてくる。ならば型やぶりのイタリア人の方が日本人より器が大きいのかというと、断じてそういうことはない。

なぜならば型を踏まえるどころか、本当は型の存在さえ知らないいい加減なイタリア人は、型にこだわり過ぎる余り偏狭になってしまう日本人の数とおそらく同じ数だけ、この国に生きているに違いないから・・・


またもや世界一美味いヤギ料理に出会った



サフラン煮込みヤギ肉800
ヤギ成獣肉のサフラン煮込み


2019年6月、イタリア・サルデーニャ島でバカンスを過ごした。前年と合わせて2年連続での同島への休暇旅になった。自然が豊かなサルデーニャ島では、名所旧跡巡りよりもビーチで過ごす時間や食ベ歩きが主な楽しみになる。

サルデーニャ島の、いわばソウルフードともいうべき深みのある郷土食また伝統食は、肉料理である。島でありながら魚料理よりも肉料理が充実したのは、外敵の侵略にさらされ続けた島人が、内陸部に逃げ込んで定住した歴史があるからだ。

島の肉料理の素材は、豚・牛・鶏・羊・山羊・馬・猪・鹿・驢馬等々である。驢馬を別にすればそれらの食材は欧州ではありふれたものだ。また驢馬肉はサルデーニャ島でも珍しい部類の食品。ひんぱんには見られない。

サルデーニャ島の有名肉料理にポルケッタ(島語ではporceddu=ポルチェッドゥ)がある。子豚の丸焼きである。乳飲み子豚が最高級品とされる。また牛、豚、羊、ヤギなどは肉以外の内臓や器官もよく食べられる。ポルケッタを別にすれば、僕は島のヤギ及び羊料理が好きである。

牧羊が盛んな島なのでヤギ肉や羊肉(以下=ヤギ・羊肉)も良く食べられているが、豚や牛や鶏肉などに比較すると目立たない。通常食材の豚・牛・鶏肉が多く食べられるのは、島が「イタリア本土化」し、経済的に豊かになったからである。かつては ヤギ・羊肉 は島の食文化の中心にあった。

島の「イタリア本土化」つまり島の近代化は、魚介料理の発達ももたらした。魚料理は昔からもちろん島にはあった。だが現在の豊富な魚介膳は、イタリア本土の金持ちバカンス客らによって導入された側面が大きい。そしてリゾート地としての同島の中心食は、今や海鮮料理である。

四方が海の島だけにサルデーニャの海産物は新鮮だ。新鮮であれば魚介は何でも既に美味い。刺身が美味なのがその証拠だ。そこにさらに、本土由来の豊穣なイタリア料理のレシピが導入されたのだから、島の魚介膳が飛躍的に発展したのもうなずける。

特に魚介を使ったパスタは今では、イタリア全国でも屈指の美味さを誇るほどになった。僕は島ではいつものように肉料理、中でもヤギ・羊肉料理を探し求めたが、同時に魚料理も積極的に食べた。ただ魚料理といってもメインコースではなく、魚介パスタのファーストコースが主だった。

今回旅ではアサリとボッタルガ(カラスミの一種)をはじめとする、ミックス魚介のパスタに見るべきものが多くあった。秀逸な具材の組み合わせと味付けは、舌の肥えたバカンス客を相手にすることが多い、サルデーニャ島のレストランならではの品々だと痛感した。

だが実は僕は昨年、ほぼ同じ作りのパスタで最悪の味の一皿にまさにそのサルデーニャ島で出会っている。その店の顧客は多くが北欧や旧共産主義圏のバルカン半島からの観光客だった。彼らは食物の味におおらかでイタメシなら何でも美味い、と思い込んでいるとも評価される。

それが理由の一つなのかどうか、その店のアサリとボッタルガのスパゲティは両方とも水っぽく、具材の良さが完全に失われた粗悪な一品だった。パスタの本場のイタリアでは麺料理はほぼ常に美味い。それだけに店の不手際は少し異様にさえ見えた。

今回の旅の初めでは魚介の美味い店は多かったが、肉料理には見るべきものがなかった。それでも情報を集めてポルケッタが美味いと評判のアグリツーリズモにたどり着いた。しかし店構えは良かったものの、そこの料理の味は昨年食べたポルケッタのそれには遠く及ばなかった。

やはり昨年、島の北部のレストランで堪能した、サルデーニャ本来の少し風変わりだが濃厚な味の肉料理を探すことは諦めて、それ以後はイタリア本土が起源の、だが島独自の要素もふんだんに盛り込んだ、海鮮料理に的をしぼって食べ歩くことにした。


アサリ&ボッタルガ
アサリ&ボッタルガのスパゲティ

前述のようにハズレがほとんどない美味い店の連続だった。その中でも海辺のレストランで食べた、上の写真のアサリ&ボッタルガのスパゲティが超一級品だった。昨年、似たような立地のビーチレストランで食べたパスタとは、似ても似つかない素晴らしい味だったのである。

僕はバカンスでは「何もしないことが休暇」というモットーで、連日ビーチでのんびり過ごすが、食事や観光や史跡また名所巡りなどにも、「何もしない」のと同じくらいの情熱で車を駆ってどんどん出掛ける。今回は滞在先に近い島の中心都市カリャリにも足を伸ばした。

カリャリでは昨年のサルデーニャ肉料理店と良く似た体験をした。想定外のおどろきのヤギ肉料理に出会ったのである。成獣のヤギ肉をサフランで煮込んだ一皿で、去年の一大発見である「羊の成獣の骨付き焼肉」に勝るとも劣らない風味を閉じ込めた絶品だった。

冒頭の写真がそれだ。見た目は、例えば沖縄のヤギ汁から汁だけを取り除いたような一皿だが、味わいはヤギ汁とは雲泥の差のある極上、且つ上品なものだった。上質なヤギ・羊肉料理の常で、独特の豊かな風味は残しながら、それらの肉の最大の欠点である異臭がきれいさっぱり消し去られていた。

ヤギや羊の成獣の肉には、独特の臭気という深刻な障害がある。そこで出色の店は、ハーブや香辛料やワインや酢やリキュール等々を駆使して肉をさばいて臭みを消す。その店ではサフランに加えて、おそらくワインも併用して見事に消臭を成し遂げていた。

またヤギ&羊の成獣肉には肉質が硬いという難点もある。成功した調理法では、異臭を消すと同時に、肉も柔らかく且つ上品な歯ごたえに改良されているケースがほとんどだ。僕が知る限りでは舌触りも必ずまろやかになっている。むろんその店の仕上がりも同様だった。

店は丘の上に広がるカリャリの旧市街、カステッロ地区にある。地区の入り口付近にあるエレファンテの塔(Torre dell'Elefante)を通過し左に歩いてすぐの場所だ。 海と市街を見渡す路上にテーブルを並べた同店は、昨年の島の北部のレストランと同じサルデーニャ伝統の肉料理専門店。

全くの偶然で見つけた。昨年のレストランよりもより豪快で素朴な肉料理に徹していた。だが海鮮料理店がひしめいているカリャリで、島伝来の肉料理にこだわるところは、海際の街にありながらやはり島伝統の肉料理に集中していた、昨年の店と心意気は同じだと思った。

ヤギ肉のサフラン煮込みとは正反対のサプライズもあった。子羊の骨付き肉のローストを頼んだところ、肉がタイヤのように硬くて、ナイフで切り分けるのも一苦労、という信じがたい代物が出てきたのである。ようやく切り分けて口に含むとやはり異様に硬い。

味は、ま、普通の味だが肉質の硬さが料理を完全にぶち壊しにしていた。成獣肉のサフラン煮込みという見事なレシピを編み出したシェフが、なぜこんなにも粗悪な料理を提供するのか、と僕は不審になった。よほどクレームを入れようかと思ったが、やめた。

子羊肉はサルデーニャでは秋から春が旬の食材、という話を思い出したからだ。牧羊が盛んなサルデーニャ島では、子羊料理が一年中食べられると思い込んでいた僕は、再び昨年、子羊料理は季節限定の品だとレストランで告げられてひどくおどろいた経験がある。

冷凍技術が発達した現在では、子羊肉はイタリアでは一年中出回っている。ましてや牧羊が活発なサルデーニャ島なのだからいつでもどこでも食べられると思ったのだ。だが牧羊が盛んで羊肉を良く知っているからこそ、サルデーニャの人々は新鮮な子羊肉にこだわるということらしい。

間違った季節に子羊料理を注文した自分が悪い、と僕は思い直した。ヤギ成獣肉のサフラン煮込みのあまりの美味さが、子羊料理のガッカリ感を吹き飛ばしていたこともある。また最高と最悪の味が同居している島の食環境は面白い、という思いもあった。

昨年は最悪の味のアサリとボッタルガのスパゲティを食べた。今年は一転して、妙妙たる口当たりのアサリ&ボッタルガのパスタに出会った。そして今、超ド級の味覚のヤギ成獣肉を頬張りつつ、木切れのように味気ない子羊肉も咀嚼している。実に面白い、とひとり密かにつぶやいた。

そうやって僕のヤギ・羊肉料理体験記には、また一つ「世界一」と格付けしたくなる極上レシピがリストに加えられた。そのリストは実は、子ヤギ・子羊料理のランク付けとして始まったものだが、いつの間にかヤギ・羊の「成獣肉」料理の一覧になりつつある。

ヤギ・羊の成獣肉は、子ヤギ・子羊の肉よりもはるかに臭気が強く肉質も硬い。従って料理の切り盛りも幼獣肉のそれよりずっと難しい。良く言えば珍味、もっと良く言えばゲテモノ(!)のヤギ・羊の成獣肉を、目覚ましい食材に変貌させるシェフたちの意気と技量に、僕ははなはだ感じ入ることが多くなった。


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地中海の土左衛門 もつぶやいた



則土左衛門800



バカンスあるいは休暇とは「“何もしない”ということをする」ことである。“何もしない”行為はいろいろあるだろうが、僕の場合はビーチパラソルの下で寝椅子に横たわって日がな一日読書をすること、である。

若い頃は一日中釣りをしたり、泳いだり、わざと日光浴をして肌を焼いたりもした。ロンドンでの学生時代、湿った環境に侵されて肋膜炎にかかり、以来日差しを浴びることが健康に欠かせなくなったからだ。

最近は読書以外にビーチですることといえば、朝早い時間に妻に伴ってする散歩ぐらいである。肋膜炎の後遺症が癒えてからは日光浴さえしない。日光浴どころか、直射日光を避けてパラソルの影を求めて、寝椅子を移動してはひたすら文字を追う。

それでも反射光で十分以上に日焼けもすれば暑気も感じる。暑気がよほど我慢ができなくなれば、5分~10分ほど海に入って、仰向けに横たわって水に体をあずける。地中海の塩分濃度は濃い。面白いように体が水に浮く。

地中海は広大だが、狭隘なジブラルタル海峡で大西洋と結ばれる以外は閉ざされている。そのために塩分濃度が濃い。それは大西洋から離れた東に行くほど顕著になる。僕は地中海以外には閉じられた海を知らない。子供のころから親しんだ海は太平洋であり東シナ海だ。

それらの海でも人の体は水に浮く。だが塩分濃度の濃い地中海ではもっと浮く。あるいは黙って仰向けに横たわり、漂いつつ波を受けても体は沈まない。僕の生まれた島の海では、波が来れば水を被って五体は沈む。地中海では浮揚感が面白くて僕は子供のように波間を漂う。

今回は生まれて初めて海水に漬かった体を洗わず、つまり塩分を皮膚にまとわりつかせたまま一日を過ごし、そのまま就寝したりもした。それは妻の健康法である。あるいは彼女が健康に良い、と信じて若いころか実践しているバカンスでの過ごし方だ。

僕はもの心ついたころから真水で海水を洗い流さなければ気がすまない性質だ。体中がむず痒く、気のせいか肌が熱を帯びるようにさえ思う。真水で体をすすがなければとても眠れない。ところが今回思いきって妻のやり方を真似てみたら意外にも爽快だ。

むず痒くもなく熱っぽい感じもなかった。塩分濃度の高い海水だから、乾いたあとの塩気も強いはずだ。したがって痒みも不快感もつのるはずなのにむしろ逆である。あるいはサルデーニャ島の空気が日本よりもはるかに乾いていて、夜になると清涼感が増すせいなのかもしれない。

体から海水を洗い落とさずに過ごすことが、実際に健康に良いかどうかはわからない。だが少なくとも不快ではない、という発見はおどろきだった。以前感じていた不快感は、あるいは塩分が肌にもたらすものではなく、子供時代からの「慣れ」がもたらす心理作用に過ぎないのかもしれない。

幾つになっても、何をしてもどこにいても、新しい発見というものがある。日本を離れて海外にいるとなおさらだ。日常でもそうだが、日常を断ち切って旅や休暇に出ると、またさらに新発見の可能性が高まる。陳腐だが、「非日常」の休暇旅はその意味でも重要だ、とあらためて思わずにはいられない。


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