2019年08月

激増する中国人観光客の重さでベニスが沈み行く!!



女性2人水に浸かって背景にサンマルコ寺院&宮殿800



陸路のイナゴ風大集団

先日ロケでまたベニスを訪れた。そこで異様な光景に出会った。中国人観光客の群れが大型観光バスを連ねて次々にベニスに入り、また出て行くのである。彼らの数の多さに圧倒された。異様とはそういう意味だ。もっとさらに異様な話も聞いた。中国人観光客の重さでベニスの沈下速度が倍加しているのだという。

ベニスは水没しつつある。それは今に始まった問題ではない。周知のようにベニスは遠浅の海に人間が杭を打ち込んで土地を構築・造成し建物を作っていった街だ。地盤が沈下するほどの脆弱な場所に、季節風が送る高潮や海面上昇、またその他の地域特有の問題が重なって、街そのものが沈下を続けているのである。

そんな折に中国人観光客がイナゴ並みの大群で押し寄せて、ベニスは彼らの重みで当初の見込みよりも急速に崩壊し海底に沈降しつつある、というのだ。むろんジョークに違いない。だがそれは、たとえジョークではあっても、事の本質が笑い話とは極めて遠い深刻な内容の風説なのだ。

ベニスには世界中から観光客が押し寄せる。訪問者のあまりの多さに音を上げたベニス当局は、街を訪れる人に入場料を課すと決定した。イタリアの有名観光地の多くはホテルを介して訪問者から観光税を徴収している。ベニスはそれとは別に、日帰りの訪問客を含む全ての訪問者に新税を課すとしたのだ。

その施策の真のターゲットは実は中国人、という噂もこれまたまことしやかにささやかれている。観光で生きているベニスのような街が、(中国人)観光客を締め出す目的で入場料を取るのは矛盾であり、偽善であり、悪政以外のなにものでもない。が、そんなヨタ話が出るほどにベニスへの中国人入域者は多い、ということの証ではある。

大群増加のわけ

ただでも多かったイタリア訪問の中国人観光客の数が、ことし4月以降は爆発的に増えている。イタリアが3月、中国の一路一帯構想への協力を盛り込んだ覚え書きを同国との間に交わしたからだ。そこではインフラや農業またエネルギーなどの取り決めと共に、2020年を両国の観光・文化の年と位置づけることも確認しあった。

それを受けて中国人観光客へのイタリアのビザ承認が簡略化され、中国からイタリアへの直行便が増えるなどした。中国人にとってはイタリア行きが一段と魅力的になったのである。財政難のイタリア政府にとっては、懐の豊かな中国人観光客が増えるのはきわめて喜ばしいことだ。GDPの13%を占めるイタリアの観光業は、中国人の増加で多大な恩恵を蒙るだろう。

だがその他のイタリア国民にとっては、大挙して押し寄せる中国人観光客は必ずしも嬉しいものではないかもしれない。それというのも中国人観光客のマナーの悪さが、ここイタリアでもひんぱんに取り沙汰されるからだ。ベニスで事あるごとに中国人が悪者扱いにされ悪評を立てられるのも、そのことと無関係ではないように見える。

日本イナゴvs中国イナゴ

群れをなして世界中の観光地を掻き回したのはかつての日本人だが、それとは比較にならない数と頻度で世界の名所旧跡を荒らし回るのは、いまや中国人である。それは世界の誰もが知っている事実だろう。

すねにキズを持つ日本人のひとりとしては、中国人を責めるのに気後れがない訳ではないが、人々の批判にうなずかざるを得ないこともある。なにしろ彼らの場合は集団を作る人間の数がケタ違いに違う。少し数を減らしてほしい、とベニスを愛する者として勝手に思ってみたりしないでもない。

中国人旅行者は、数の膨大に加えて既述のようにマナーの悪さを世界各地で指摘されたりもする。傍若無人な群集が観光地に押し寄せれば、彼らの粗野の度合いがますます目立ってしまうから、悪行も誇張拡大されて人々の目に映る。

そういうことが重なって、世界における中国人観光客の野風俗はすっかり悪名高くなってしまった。だが、マナーなどというものは、人々の暮らしが真に豊かになるに従って矯正されていくものだ。われわれ日本人がその生きた証だ。

日本人が昔から清潔好きで日本の集落はどこも衛生的でキレイだった、という神話を騙るネトウヨヘイトつまり民族主義系の人士が最近は多い。日本人であること以外には何も誇るものを持たない彼らは、時を選ばずありとあらゆる場所で「日本ってすごい」と孤独な自己賛美に明け暮れる。

だがそれらのナショナリストの言い分は、手前味噌てんこ盛りの国粋主義的主張に過ぎず、視野狭窄の暗闇に満たされたデタラメ以外のなにものでもない。日本では古来、アニミズム信仰のおかげで、神々が宿るとされる場所が少しは掃除されて清潔になることは確かにあったかもしれない。

しかし、貧しい庶民にとっては身の回りの清潔や潔癖や衛生観念はいつも二の次のコンセプトだった。日々の空腹を満たすことで精一杯の人々にとっては、今この時を生きのびることのみが重要であり、あたりの汚れや不潔な環境を憂う余裕はなかった。空腹で死にかけている者は自他の口臭など気にしない。

日本イナゴの洗練また成長過程

時が過ぎ、1970年代から80年代の高度経済成長期には、農協海外ツアーに代表される日本人の団体が、海外に出かけては人々のひんしゅくを買うようになった。史跡に日本語で落書きをし、旅客機の中で酒盛りをやり、スチュワーデスにセクハラを働き、ワイキキビーチをステテコ姿で歩いた。

1991年には、国土交通省(当時は運輸省)が、外国で批判されたり禁止されている行為などをビデオやパンフレットにして飛行機の中で上映したり、ガイドブックに掲載したりもした。日本人旅行者のマナーの悪さが海外から強く批判されることに危機感を抱いて、国をあげて懸命に対応したのだ。

そうした努力が実って、日本人は世界に通用するマナーを徐々に身につけ、今では世界で最も歓迎される観光客、という評判を得るようにさえなった。だが日本人が海外で“日本人お断り”の洗礼を受け続けていたのは、たった30~40年前のことに過ぎない事実を忘れてはならない。

日本人が昨今の中国人旅行者のマナーの悪さを笑いものにするのはあまりあたらない。中国が経済的にさらに発展して国民の心に余裕が生まれれば、旅を行くおびただしい数の中国人観光客の、衛生観念を含むマナーも必ず向上するだろう。そのことを踏まえた上で、「今このとき」の話をしておきたい。

海路のイナゴ風大集団

最近ベニスではもうひとつの問題も起こっている。巨大クルーズ船が狭い運河で立ち往生したり操船を誤るなどして危険な状況が頻発するのだ。先日は突風にあおられた巨大豪華客船が岸壁に迫って重大な危機を招いた。その少し前にはやはり似たような巨大クルーズ船が、観光客を乗せた地元の小船を道連れにして、桟橋に激突する事故も起きた。

サンサルーテに圧し掛かる巨船原版800
ベニス大運河の入り口付近に迫る巨大クルーズ船

そうした事件は、運河に入る巨大な船の数が急速に多くなったのが原因だ。つまり観光客が増えたのだ。そして最近極端に増えた観光客が中国人。中国人は迷惑だ、と彼らはまたここでも悪者にされている。その悪口をうのみにする訳ではないが、中国人観光客の多さとベニスの危機を思い合わせた時、やはり流言を完全に無視することもできない、という気もする。

海上都市のベニスは現在、イタリア本土と橋で結ばれて列車が乗り入れている。が、元々は街には船でしか入ることができなかった。クルーズ船もそんな船舶の一つだ。列車が街に乗り入れるようになって以降も、豪華客船で旅をする裕福な観光客は絶えることはなく、ベニスの運河にはいつも巨大船の姿が見えた。

悠然と航行する船はかつてはむしろ一幅の絵になる光景だった。だが今は-あらゆる観光旅がそうであるように- 一般大衆がクルーズ船にもなだれ込んで群がり、結果多くの船が野放図にベニスの運河を行き交うようになった。事故やトラブルが後を絶たないのはそれが理由だ。

全てが中国人のせいではもちろんない。だがそうした不都合の大半が中国系の人々の数の暴力によって引き起こされる、と考えるベニス人が増えているのは残念なことだ。決して偽善からではなく、僕は中国人の皆さんに「団体の人数を制御しながらベニス旅をしてほしい」と進言したい。

中国人移民&中華ビジネス

中国人が欧州で目立つのは観光客としてだけではない。中国人移民の数の多さと彼らのビジネスの拡大も強く人目を引く。ここイタリアに限って言えば、中国人はローマやミラノなどの大都市はもちろん、地方都市にまで進出して、特に飲食店などの零細事業の分野で勢力を急激に拡大している。

イタリア北部・ロンバルデア州の田舎にある僕の住む地域でも、駅や繁華街のカフェやバールなどの飲食店の多くが中国人経営に変わり、ニョキニョキと生まれ出る「“中国系”日本レストラン」の数もものすごい勢いで増えている。それらの店は日本レストランと銘打ってはいるものの、経営者や従業員は全て中国人である。

かつて隆盛した中華料理店が消滅して、代わりに日本食レストランが爆発的に増えた。和食の人気が中華食を圧倒したのだ。その機会をとらえて、中国人が日本人を装って日本食を提供し始めた。その実態を知る者にとっては、あまり愉快とばかりはいえない状況だ。再びイタリアだけに関して言えば、今や日本食レストランの9割以上が中国人の店、ともいわれている。

世界第2の経済大国である中国は多くの製品・商品も輸出している。それはかつて世界第2の経済大国だった日本がやってきたことと同じだ。だが2国の間には大きな違いがある。それは中国が物と共に「中国人そのもの」も輸出することだ。しかもその輸出は往々にして中国側の一方的な都合に因っている。

巷にあふれる中国人移民は、常に地元民に歓迎されているとは言えない。例えばミラノでは、無法地帯のようにはびこるチャイナタウンを街ごとミラノ郊外に移してしまおう、という案が検討され実施される直前までいったほどだ。

中国人移民の幸運

そこにアフリカや中東などからの難民・移民問題が勃発した。欧州全体が難民・移民危機におちいった。中でも地中海を隔ててアフリカと隣接するイタリアは、文字通り怒涛の勢いで殺到する難民・移民の巨大津波に飲み込まれて呻吟をはじめた。それは中国人にとってはラッキーな事態だった。

なぜなら中国人移民に向けられていたイタリア国民の不満が、たちまちアフリカ・中東からの難民・移民へと矛先が転じたからだ。今ではイタリア国民の間では、少なくとも「中国人移民は仕事を持っていてしかも働き者。さらにイスラム過激派のようにテロを起こす“中華過激派”も存在しない」と好意的に話す者が増えた。

僕の身近にも少なからずいる中国人移民のそうした幸運を彼らと共に喜びたい。レストランやバールやアジア食料品店などで働く中国人の皆さんとは、僕も親しくさせてもらったりしている。イタリアに来て汗水たらして働いている彼らは、ほぼ全員が善良で気のいい人たちだ。

だが彼らの幸運を中国本土の共産党独裁権力機構、特に習近平国家主席に照らして見れば、彼の「悪運」の強さそのものの現れにも見えて、あまり気分が良いとは言えない。その良くない気分は、残念ながら、ベニスで中国人観光客の大群を目の当たりにする時の心情に似ていないこともない。

政治の風向きが変わるとき

ことし4月以降に大幅に増えた中国人観光客への実害を伴う批判や偏見や憎悪などはしかし、特殊な環境下にあるベニス界隈を別にすれば、あまり目立って増えているようには見えない。イタリアは全国的にまだまだ地中海を経由してなだれ込む難民・移民ショックに心を奪われている状態だ。先日、難民・移民を厳しく規制する連立政権が崩壊して、収まりかけていた難民・移民の流入が再び激化するのではないか、という不安も国民の心中に満ちている。

イタリア国民の中国系移民への関心、また激増する中国人観光客への監視の目は、前述したようにアフリカ・中東からの難民・移民に向けられている分、ゆるやかだ。だがアフリカ・中東からの難民・移民の流入が止まった場合、国民の厳しい目が再び中国人観光客や移民に集中する可能性は極めて高いと思う。

地中海ルートの難民・移民への強硬策を推し進めた連立政権の一翼の「同盟」は、政権崩壊に伴って下野しそうな状況だ。入れ替わりによりリベラルな勢力が政権入りを果たせば、強硬な反移民・難民策は後退するだろう。だが、不安に後押しされた国民が「同盟」の政策の継続を要求することは避けられない状況だ。

つまり、イタリアの寛大な移民・難民政策は終わりを告げた。極右政党「同盟」が押し進めた強硬な反移民・難民策は、より柔軟なものに変わることはあっても、もう決して姿を消すことはないだろう。従ってイタリアが中国人への監視の目を徐々に強めていく可能性はやはり高いと言わざるを得ない。中国人の皆さんはぜひそのあたりの機微に敏感になったほうが得策、と思うのである。


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隠す爪もない過激鷹の無能が露呈した



Salvini-Conte-Di-Maio600
左からディマイオ、サルビーニ、コンテ各氏


イタリアにまたお家芸の政治不安の風が吹いている。まもなく大嵐になる気配だ。ジュゼッペ・コンテ首相が8月20日、議会上院で演説し、連立政権内の「同盟」と「五つ星運動の」対立激化を理由に辞意を表明したのだ。

連立政権を組む極右「同盟」と左派「五つ星運動」は、主に経済政策を巡って政権発足直後から対立を続けてきた。その結果「同盟」は8月9日、「五つ星運動」との関係修復は不可能として内閣不信任案を提出した。

コンテ首相は辞任演説の中で、政権危機の引き金となった「同盟」の党首兼副首相のサルビーニ氏は「個人と党の利益しか考えておらず無責任だ」と非難した。が、首相に近い「五つ星運動」も「同盟」と大同小異の無責任体質だと僕は思う。

連立政権発足時には、総選挙で第一党になった「五つ星運動」の力が政府内でやや優勢だった。しかし、最低所得保障制度(ベーシック・インカム)を目玉にする経済政策が嫌われたことなどもあって、同党の支持率は低迷した。

そうした中、ことし5月の欧州議会選挙では「同盟」が大きく支持率を伸ばした。強硬な難民・移民政策と並行して、米トランプ政権を真似た「イタリア・ファースト(第一)」をスローガンに、国民の不満をうまく吸い上げて躍進したのである。

2019年8月20日現在、総選挙になれば「同盟」が「五つ星運動」を大きく抑えて第一党になる可能性が高い、と多くの統計が示唆している。それをよく知るサルビーニ氏は権力掌握に意欲を見せていて、まるで首相のような振る舞いを見せることも多くなった。

「同盟」の支持率は5月末の欧州議会選挙では34%だった。これは政権発足時からは倍増の数字。むろんイタリア国内では第一党にあたる力強い値だ。一方、連立相手の「五つ星運動」は逆に、ほぼ半減の17%の支持率にとどまった。

総選挙になっても「同盟」は単独で過半数を制することはできない。しかし現在の状況で選挙に突入すれば、左派の「五つ星運」と完全に手を切って、自身よりもさらに右寄りの小政党と保守派を巻き込み、極右一辺倒の政権を樹立する可能性が高まる。

ところが、幸い、一気にそういう動きにはならず、敗者に見える「五つ星運動」が、前政権与党で第3党の民主党にすり寄って新たに連立政権を組もう、と持ちかけた。あわてた「同盟」のサルビーニ党首は強気の姿勢を少し弱めた。が、もはや事態は後には戻らない状況だ。

「五つ星運動」と「民主党」の連立の可能性を含めて、今後のイタリア政局の行方はきわめて流動的だ。議会解散権を持つマタレッラ大統領は、急いで解散をするのではなく、まず政党間の仲を取り持ち調整をして、新たな連立政権の誕生を模索するだろう。

その連立政権構想が頓挫した場合は、イタリアではよくあるように非政治家を首班とするテクノクラートの暫定政権を発足させて、ひとまず当面の政治危機を乗り越えようとするだろう。そのあとで解散総選挙を行う手順である。

大統領の判断によっては、「同盟」のサルビーニ党首が渇望する即時解散・総選挙のシナリオももちろんあり得る。それを避けるには、民主党が一枚岩となって同党と「五つ星運動」との連立政権、もしくは中立の暫定政権の発足を後押しすることだが、民主党は相変わらず内部分裂が続いていて難しい。

それにしても、極右政党の「同盟」と左派ポピュリストの「五つ星運動」の我欲の強さにはあきれるばかりだ。彼らは国民そっちのけで連立枠組み内での政治闘争に明け暮れ、ついに政権そのものの崩壊を招いた。両者はついに能も爪もない鷹に過ぎないことが露呈されたのである。

いや、その例えは鷹に対して失礼だ。彼らは右と左の極論をがなり立てる、うるさいカラス程度の存在、と呼ぶほうがふさわしい。だがカラスも大群になれば人間の脅威になり得る。彼らのうちの一方が単独で政権を奪取した場合のように。。。


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盆は生者のためにある



雲の上の光



日本の多くの地域で今日から始まる盆は、昨年11月に101歳で逝った父の新盆にあたる。盆最終日の8月15日にはイタリアでも大きな宗教行事がある。聖母マリアが死して昇天することを寿ぐ聖母被昇天祭である。僕はその日は家族と共に教会のミサに出席するつもりだ。

僕はキリスト教徒ではないが、教会の行事には家族に請われれば、また時間が許す限りは、顔を出すことを厭わない。一方キリスト教徒の妻は日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる僕の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。それは僕ら異教徒夫婦がごく自然に築いてきた、日伊両国での生活パターンである。

教会では父のために、盆の徳を求めて祈ろうと思う。教会はキリスト教の施設だが、聖母マリアも、その子で神のイエス・キリストも、霊魂となった父を拒まない。拒むどころか抱擁し赦し慈しむ。祈る僕に対してもそうである。イエス・キリストとはそういう存在である。全き愛と抱擁と赦しが即ちイエス・キリストである。

祈りには実は宗教施設はいらない。僕は普段でも父に先立って逝った母に語りかけ、父を思っても祈る。 だが信心深かった母と父はもしかすると、多くの人と同様に寺や神社や祠や仏壇などの宗教設備がないと寂しい思いをするかもしれない。だから僕はそうした場所でも祈る。キリスト教の教会においてさえ。

イエス・キリストの代弁者である教会は僕の祈りを拒まないし拒めない。もしもそこに拒絶があるなら、それは教会施設の管理者である聖職者と信者たちによってなされるものだ。だが異教徒でありながら、あるいは仏教系無神論者でありながら、いや仏教系無神論者だからこそ、イエス・キリストを尊崇してやまない僕を彼らも拒まない。

仏教系無神論者とは、仏教的な思想や習慣や記憶や情緒などにより強く心を奪われながら、全ての宗教を容認し尊崇する者、のことである。同時に僕は仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」でもある。幾つもの宗教を奉ずる者は、特に一神教の信者にとっては、「何も信じない者」であるに等しい。

その意味でも僕はやはり無神論者なのであり、無神論者とは「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば先に述べた「全ての宗教を肯定し受け入れる者」にほかならない。

葬儀や法要や盆などを含むあらゆる宗教儀式と、それを執り行うための施設は、死者のためにあるのではない。それは生者のために存在する。われわれは宗教施設で宗教儀式を行うことによって、大切な人を亡くした悲しみや苦しみを克服しようとする。盆もその例に漏れない。

宗教はそれぞれの信仰対象を解釈し規定し実践する体系である。体系は教会や寺院や神社などの施設によって具現化される。信者は体系や施設を崇拝し、自らの宗教の体系や施設ではないものを拒絶することがある。特に一神教においてそれは激しい。

再び言う。僕はあらゆる宗教を認め受容し尊崇する「仏教系無心論者」である。僕にとっては宗教の教義や教義を含む全体系やそれを具現し実践する施設はあまり意味をなさない。僕はそれらを尊重し信者の祈りももちろん敬仰する。

だが僕はあらゆる宗教の儀式やしきたりや法則よりも、ひたすら「心が重要」と考える者でもある。心には仏教もキリスト教も神道も精霊信仰も何もない。心は宗派を超えた普遍的な真理であり、汎なるものである。それは何ものにも縛られることがない。

灰となった父の亡き骸の残滓は日本の墓地に眠っている。父に先立って逝った母もそうだ。だが2人はそこにはいない。2人の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇でさえも忌避し、生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する

2人は遍在して僕の中にもいる。肉体を持たない母と父は完全に自由だ。自在な両親は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

僕は実感し、いつでも彼らに語りかけ、祈る。繰り返すが祈りは施設を必要としない。だが盆の最終日には僕は、イエス・キリストを慕いつつ仏陀の徳を求めて、母と、そして新盆を迎える父のために、キリスト教の施設である教会で祈ろうと思う。



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ワイン通のうんちく


ブドウ園農薬撒き600



世の中にはワイン通と呼ばれる人たちのワインに関するうんちくがあふれているが、ワインは自分が飲んでおいしいと感じるものだけが良いワインであり真にうまいワインである。

ワイン通のうんちくはあくまでもその人の好みのワインの話であって、他人の好きなワインとは関係がない。

ただ一般論として言えば、値の張るワインは質の良いものである可能性が高い。当たり前じゃないかと言われそうだ。

だが、ワインは複雑な流通の仕組みや、金もうけの上手な輸入業者の仕掛け等で値段が高くなることもあるから単純な話ではない。

ここからはうんちく話ではなく、つい最近まで商業用のワインを造っていた妻の実家のワイン醸造現場で、僕が実際に体験してきたシビアなビジネスの話をしたい。

本物の良いワインの値段が張るのは、製造に手間ひまがかかっているからである。同じ土地の同種のブドウを使っても、時間と労力と金をかけると明らかに違うワインが出来上がる。

具体的にいえば、たとえばブドウを搾るときは、葉っぱや小枝の切れ端や未熟の実や逆に熟し過ぎた実や腐った実など、ブドウ収穫時に混じったり紛れこんだりした要素もすべていっしょくたにして機械で絞る。

それでも普通においしいワインができる。自家のワインもそうである。これを上質のさらにおいしいワインにしたいなら、絞る前に葉っぱや小枝などに始まる夾雑物 を除き、ブドウも選別して良いものだけを集める。これには手間と費用がかかるのはいうまでもない。

ブドウの選別という観点でいえば、ブドウの実は古木であればあるほど質が良い。したがって古木の実だけを使ってワインを作ればさらに良いものができる。

だがブドウは古木になればなるほど果実が少ない。古木の実だけでワインを作れば上質のものができるが、大量には作れない。原料費もぐんと高くなる。

従って中々それだけではまかなえないが、一部だけでもその実を混入して醸造すればやはり味が良くなる。だからそれを混ぜて使ったりもする。そうしたことはすべてコスト高につながる。

またワインを熟成させることも非常に費用のかかる工程である。たとえば3年熟成させるということは、ワイナリー内の熟成装置や熟成場を3年間占拠することである。熟成場は借家かもしれない。

借家の場合は家賃がかかる。加えて作業員や酒つくりの専門家も3年間余計に雇わなければならない。それは熟成場が自家のものであっても同じだ。

それだけでも膨大な金がかかる。また3年間熟成させるとは、単純にいえば3年間そのワインを販売することができない、ということである。

つまりワイナリーは3年間収入がないのに、人件費や醸造所の維持や管理を続けなければならない。ワイナリーの負担はふくらむばかりなのである。

ごく単純化して言えば上質なワインとはそのようにして作られるものである。生産に大変な費用がかかっている。ボトル1本1本の値段が高いのがあたり前なのだ。

たとえばうちでは造っていた赤ワインの原料のブドウをもっと厳しく選別して質を向上させたかったが、そのためには多くの資金が要る。それでいつまでも二の足を踏んでいた。

ところがすぐ近くの業者は、同じ地質の畑の同じ種類のブドウを使って、手間ひまをかけた赤ワインを造っていて、値段もうちのワインの5倍ほどした。

そしてそのワインは客観的に見て自家のものよりも質が良かった。この事実だけを見ても僕の言いたいことは分かってもらえるのではないか。

ところでわれわれがワイン造りをやめたのは、醸造所(ワイナリー)を経営していた義父が亡くなったからである。僕が事業を継ぐ話もあったが遠慮した。

僕はワインを飲むのは好きだが、ワインを「造って売る」商売には興味はない。能力もない。それでなくても義父の事業は赤字続きだった。

ワイン造りはしなくて済んだが、僕は義父の事業の赤字清算のためにひどく苦労をさせられた。彼の問題が一人娘の僕の妻に引き継がれたからだった。

この稿は「うんちく話ではない」と僕は冒頭でことわった。それは趣味や嗜好や遊びの領域の話ではなく商売にまつわる話だから、という意味だった。

しかし、ま、つまるところ僕のこの話も見方によってはワインに関する“うんちく話”になったようである。うんちく話は退屈なものが多い。できれば避けたかったが、文才の不足はいかんともしがたい。

最後に、ワインを造るのはどちらかといえば簡単な仕事だ。日本酒で言えば杜氏にあたるenologo(エノロゴ)というワイン醸造の専門家がいて、こちらの要求に従って酒を造ってくれる。

もちろんenologoには力量の違いがあり、専門家としてのenologoの仕事は厳しく難しい。ワイン造りが簡単とは、優秀なenologoに頼めば全てやってくれるから、こちらは金さえ出せばいい、という意味で「簡単」なのである。

ワインビジネスの真の難しさは、ワイン造りではなく「ワインの販売」である。ワイン造りが好きだった義父は、enologoを雇って彼の思い通りにワインを造っていた。だが販売の能力はゼロだった。

だから彼はワイナリーの経営に失敗し、大きな借金を残したまま他界した。借金は一人娘の妻に受け継がれ、僕はその処理に四苦八苦した。それはは断じてうんちく話ではない。どちらかといえば苦労譚なのである。



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炎上はのぞむところだ。けれど、オ~イ沖縄!マジ今のままでいいんか~いイイイ!?



辺野古・広大な埋め立て区域600
辺野古埋め立て予定地域


僕は個人的には沖縄の独立を支持しない。だが米軍基地問題にからんで怒っている沖縄が、その解決のために独立に向けて立ち上がるなら、僕はそれを否定しない。否定しないどころか、もしも必要ならば、僕はここイタリアを引き払ってでも、故郷の島に移り住み闘いに参加しようと思う。それが僕の噓偽りのない気持ちである。

自分の真意を秘匿して書いた「中露北朝鮮お友達&独立沖縄論」は、僕のブログ上では何も問題はなかったが(無視されただけ?)、新聞に転載されたとたんにネトウヨ・バナナ勢力からのバッシングに遭ったらしい。同時に新聞記事のWEB版には多くの賛同「いいね」もまた寄せられているという。

先のエントリーに書いた通り、新聞は僕の真意を知りつつ記事を掲載した。従って彼らも独立沖縄には反対なのだろうと僕は推察している。もっとも記事タイトルの「“独立沖縄” 論が起きてもいい」を、敢えて「“沖縄独立” 論が起きてもいい」と書き直した編集担当記者の真意は、また別にあるのかもしれないけれど。

掲載紙は、地方紙らしく地元の民意に寄り添う報道を続けているガッツのあるメディアだ。中央権力に媚びて地元を無視する地方紙などクソの役にも立たない。新聞は「普通に」反権力の、地元を深く愛することで結局日本国も愛しているリベラル紙だ。だからバナナのネトウヨ・ヘイト系人種からは、反日・国賊・売国奴などと罵られるわけだ。

新聞はバナナ人種らからのバッシングを大いに浴びるべし、と僕は普段から応援している。それというのも弱体な地方紙が生き延びるためには、全国的な注目を浴びる必要があるからだ。彼らは反権力の報道姿勢を保つことで、権力寄りのネトウヨ・バナナ勢力から攻撃を受けて注目度が上がる。地方紙にとっては願ってもないことだ。

新聞を罵倒しているのは、何度でも言うが、世界から目をそむけたまま日本という狭い家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、偏狭な排外国粋主義者のバナナつまり『引きこもりの暴力愛好家』らである。彼らが叩く相手は相も変わらず中露韓北朝鮮。そこに地方紙を含むリベラル系のメディアが加えられる。

中露北朝鮮はそれぞれ一党独裁、変形独裁、純粋独裁の、従って反民主主義のゴロツキ国家である。そこには自由もなく言論は抑圧され国家が人民を監視する恐怖政治が堂々と行われている。彼らと手を組めば、弱体な沖縄はたちまち飲み込まれて、中国におけるチベット化する可能性がある。

そうなったら沖縄には今のような自由もなく、民主主義は夢のまた夢、言論の自由に至っては影も形もなくなる、という事態が考えられる。嫌中韓露北朝鮮また反沖縄のバナナ勢力を含む、全国の懐疑主義者が真っ先に指摘するのもそこのところだ。

また沖縄地元の知識人やオピニオンリ-ダーなども、国内では抑圧されながらも民主主義と言論の自由がある、中露北朝鮮と手を結べばたちまち独裁権力の圧政にさらされる、として言下に彼らとの提携を否定し拒否する者が多い。僕はもちろん彼らの不信と不安がよく理解できる。

だが、沖縄が置かれている状況は、ゴロツキ国家が人民に与える不都合にも匹敵する無残な現実のように見えないこともない。民意は徹底的に無視され、構造的な差別が横行し、ネトウヨ・ヘイト系差別主義者らの攻撃に恒常的にさらされている。民主主義国家日本の一県でありながら、中露北朝鮮体制下の社会の一員でもあるかのような差別を受けているのだ。

ならば、危険と苦難を覚悟で、日本を捨てて彼らと手を結ぶ可能性を沖縄の為政者は検討してみてもいいのではないか。少なくともそういう生き方もある、と中央権力機構にたて突きあわてさせるぐらいのガッツまた覚悟を持ってもいいのではないか、という僕の提案を含むさまざまな意見を、満遍なく報道しているのがその地方紙である。

そうした報道姿勢と、民意を無視して辺野古新基地の建設を強行する施策に代表される、安倍政権への強い反発表明などが恨まれて、同紙は排外国粋主義者のバナナ・ネトウヨ勢力からの激しい攻撃を受けるのだ。偏向視点に凝り固まったバナナの目には、リベラル姿勢の新聞の報道は全て「偏向報道」に見えるのである。彼らは自らのその偏向に気づかない。だからいつまで経ってもネトウヨ・バナナのままなのだけれど。



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炎上はのぞむところだ。が、



バナナ持つサル着ぐるみ



ここに書いた記事の主旨が新聞に転載されたところ炎上したという知らせがあった。炎上とは見方を変えれば、記事が注目されたということだから望むところだ。炎上が怖くてはブログ記事など書いていられない。

ところが今回の炎上は、僕自身への非難というよりも記事を掲載した新聞への非難、という様相が強いということなので少し状況が違う。自分への攻撃なら無視するところだが、僕が原因の攻撃を他者が受けた、ということだから無視していられなくなった。

まずはっきりしておくが、僕は沖縄の独立には反対である。反対どころかそんな主張は笑止だとさえ考えている。また、中国、ロシア、北朝鮮は、それぞれ一党独裁、変形独裁、独裁そのものの、不自由で野蛮で人権無視の怖いゴロツキ国家だと思っている。

それならば、なぜ僕が沖縄独立の可能性を探り、且つそれらのゴロツキ国家を味方につけるべし、などと書いたのかというと、そのような屈辱的で苦しい手段まで編み出して突破口を探らない限り、安倍政権のひたすらの沖縄軽視、いや沖縄蔑視の施策が止むことはないと考えるからだ。

記事に書いた通り沖縄の選挙で米軍基地の辺野古移設ノーの民意が繰り返し出ても、さらに県民投票が同じ結果でも、安倍政権は態度を変えない。変えないどころか、民意をあざ笑うように基地用地作成のために土砂を海に投入する蛮行をくり返している。

それに対抗して沖縄県は何をするのかといえば、政権を糾弾する県民総決起大会の開催、というナントカの一つ覚えのような愚策を繰り出すばかりだ。いやそれ自体は重要なものだ。が、同じやり方を反復し続けることで、残念ながら効果がなくなり愚策と似た結果になる。

同じことの繰り返しでは中央権力は動かない。沖縄は彼らを驚かせ、あわてさせるぐらいの策を打たなければ何も変わらない、という思いからの提案が、僕の沖縄独立模索、中露北朝鮮お友達案だ。

荒唐無稽且つ売国的行為にさえ見えかねないそうした主張をすれば、国民の多くは怒って「勝手に独立しやがれ」と沖縄を突き放す可能性もある。その危険を見越した上で僕はあえて記事を書いた。現に僕のコラムが載った新聞に対しては、ネトウヨヘイト系の反沖縄勢力が口角泡を飛ばして反論をしているという。

ましてや沖縄の為政者らが僕の提案と同様の主張をすれば、事態は紛糾して現在は基地問題などで沖縄に親和的な思いを抱いている人々を失望させ、あまつさえ怒らせて沖縄離れ沖縄ヘイトの風潮が、ネトウヨ・ネットワークの殻を破って一般国民の間にも造成されるかもしれない。

だが、政権中枢はどうだろうか?日本とほぼ常に敵対している中露北朝鮮に沖縄が近づくと知れば、あるいは狼狽して態度を変えるかもしれない。沖縄の為政者は、政権を驚愕させるくらいの「何か」を打ち出さなければ、辺野古問題はこのままずるずると進んで、必ず安倍強権政府の思い通りになる、と僕は危惧する。

そこで、繰り返しになるが、辺野古問題の本質とそれへの対応、という意味もこめて中露北朝鮮さえ味方につけての“沖縄の独立”に言及してみた。独立とは、強い経済と軍隊によって得られる自由のことである。僕は沖縄県にそれが可能とは考えないし、たとえ可能でも沖縄の独立などこれっぽちも望まない。

飽くまでも沖縄「基地問題」を解決する糸口の一つとして、また沖縄への構造的差別に対抗するために、もっと具体的に言えば安倍晋三首相と周囲の権力中枢を慌てさせ、考えを変えさせるための作戦、戦略の一つ、として沖縄独立の“カードを切ってみる”手もあるのではないか、と沖縄地元の為政者に提案してみたかったのだ。

そんな重い提案をしながら、自らの沖縄独立論や中露北朝鮮お友達論は「ハッタリ」だと明かしてしまえば、提案の本気度の底が割れてしまう。だから僕は真意は伏せて、「沖縄の独立には反対の立場だが~」と言うだけにとどめて論を展開した。

さらに言えば、記事を載せた当の新聞もそのことは知っていた。なぜなら僕は寄稿するにあたって、コラムの担当者に記事の真の意味を説明しているからだ。僕は「沖縄独立」という言葉のあまりの重さを軽減する意味で、タイトルを「沖縄独立」ではなく『独立沖縄』としてくれとさえ要請した。

コラム担当記者(編集)には僕は正確に次のように言った:

「タイトルの“独立沖縄論が起きてもいい”に少しこだわりました。普通なら「沖縄独立」と言うべきだと思いますが、あえて「独立沖縄」としました。沖縄独立と言えば文字通り沖縄が政治的現実的に日本から独立する、という意味ですが「独立沖縄」とした場合には、思想的なまたは形而上学的な独立、あるいは精神的な自立、といったニュアンスがこもるように思います。私は沖縄の日本からの独立には真っ向から反対ですが、島の心情的な自立や独立には大いに賛成です。その意味合いをこめています。同時に沖縄の為政者は「沖縄の独立」というカードを辺野古問題打破に使うぐらいの肝を持つべきではないか、とも考えています」


だが担当者は、僕のその要請を無視して“独立沖縄”ではなく「“沖縄独立”論が起きてもいい」と敢えてタイトルを書き換えて記事を掲載した。編集担当の記者が、外部からの投稿記事を改善したつもりで、あるいは改善した振りで書き手の意思を無視し、自らの趣味や主張に合う表現に変えるのはよくあることだ。

古典的な新聞記者のいわば思い上がりに近い態度は、ネットが力を持った昨今も変わらない。多くの場合彼らは新聞に代表される紙媒体の失墜に気づかず、たとえ気づいてもそれを過小評価して、不都合な真実から目を逸らしていたい心理に強く捉えられていたりもする。

閑話休題

記事に対する批判が僕に向けられたものなら、僕は十中八九無視するか、記事の内容をそのまま前面に押し出して反論する。だが今回は批判の主な矛先が新聞社に向けられているとのことなので、内情を説明して庇いたいと考えた。違和感を抱かせる記者も少なくない新聞ではあるが、彼らが理不尽な批判にさらされても構わない、とは僕は考えない。

僕はブログ記事には、中露北朝鮮に加えてアメリカも沖縄の独立の後押しをする可能性がある、と示唆した。だがそれを新聞コラムに転載する際には、紙面の厳しい字数制限があるのでその部分は削除した。その事実も結果として、あたかも中露北朝鮮のみが沖縄の味方になる、というコンセプトを強調する形になった。

新聞を攻撃しているというネトウヨヘイト系のエセ愛国者らは、彼ら自身も黄色人種であることを忘れて、トランプ大統領に代表される「白人至上主義」者らとオトモダチのつもりでバナナ人間、つまり表が黄色で中身が白い滑稽な「白人」になってしまっている者がほとんどだ。

彼ら「黄色い白人」はまた、自らがアジア人であることも完全に失念して、中韓北朝鮮に代表される「アジアの国々と国民」への蔑視またヘイト感情に凝り固まり、何かというとこめかみに青筋を立てて隣国の人々を罵倒する。

アジアの3国にロシアを加えた国々には先にも述べたように、確かに問題が多い。だがネトウヨヘイト系の「反日」人種が蔑視しているのは、その国々の体制ではなく、国民だ。特に中韓北朝鮮の人々へのいわれのない優越感は、見ているこちらが「穴があれば入りたい」と感じるほどに恥ずかしく醜い。

僕は自らを「国際派の愛国者」と規定し、そう主張もしている者だ。その立場から見ると、ネトウヨヘイト系・排外差別主義者の国民や政治家また知識人などは、彼らが他者を攻撃するときに良く使う「反日」勢力そのものだ。

なぜなら彼らはアジア人でありながら白人目線でアジア人を見、そこから来る驕りでアジアと世界に迷惑をかけた過去も忘れて歴史を修正し無視しようと躍起になる。その態度は中韓北朝鮮はいうまでもなく世界の良識ある国々の反発も招く。そうやって日本国を貶めている彼らこそ「反日」勢力に他ならない。

そんな反日のバナナらが、主として中韓北朝鮮への蔑視感情とロシアへの反感から繰り出す罵詈雑言は、あまりにも陳腐で醜悪なために取り合うことさえ愚かしい。だが冒頭で述べたように僕の記事が原因で新聞が叩かれている、と知ったので自分の真意また見解をこうして披瀝しておくことにした。



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