先日、ミラノの事務所を閉めた(法律上。仕事場としてはしばらく維持する)。自分では個人事務所のつもりでいたが、形態は有限会社でやってきた。米粒のように小さな番組制作プロダクションである。

小さいながらいろいろ仕事をやってきたから、感慨はある。

感慨とは少しの未練と大きな安堵である。

未練は90年代初めからやってきた時間の中での、いわば「慣れ」が無くなることに対する心残り。

安堵は会社のしがらみから開放されて、元のフリーランスのテレビ屋になったことである。

テレビ屋にはいろいろあるが、僕の仕事は映像ドキュメンタリーを作ることである。

僕は東京の大学を卒業した後にロンドンの映画学校で学び少しの仕事もして、日本に帰っていわゆるフリーのテレビ・ディレクターになった。日本では主に米国向けの報道番組を作った。英国で学んだことがそこでは役に立った。アメリカに来ないかと請われて、ニューヨークで2年程仕事をした。

その間に米公共放送PBSの番組制作で、まぐれ当たりに「Monitor Awards」

(日本の新聞などでは国際モニター賞と訳されていたと思う)のニュース・ドキュメンタリー部門の最優秀監督賞というものをもらった。それは番組制作のスタッフ、つまりテレビの裏方である僕らテレビ屋の為の賞で、僕はそれまで存在さえ知らなかったから、わけが分からずに目をシロクロさせていた。が、後にイタリアに移った時に、受賞は少なからず役に立った。人生ではまったくもって何が起こるか分からない。


この国に渡って来た当初、僕はイタリア語もうまく話せず、仕事の経験も人脈もほとんどなかった。アメリカで作った自分の作品のデモテープを手に放送局やプロダクションを回り、懸命に仕事を探したが、そんな時には受賞作のテープが役に立った。すぐに仕事があるわけではないが、テープを見て皆真剣に話を聞いてくれた。NHKのローマ支局やパリ総局とも僕はそうやってつながりができて、後にはそれは東京にも広がり、NHKには散々お世話になることになった。

新天地で若さにまかせてがむしゃらに走るうちに、機会があって僕はミラノに事務所を構えることができた。

事務所を出してからも、委託を受けてNHKの番組制作やWOWOWなどの番組作りにも手を染めていたが、撮影機材を入れてスタッフも増えたあたりから、いわゆるコーディネーターの仕事も多く舞いこむようになった。

コーディネーターとは簡単に言えば、番組制作の手伝いをするプロのことである。僕の事務所の場合は、イタリアにいて日本からの依頼を受けてリサーチやロケハンやロケそのものの手伝いをする。当然日本人ならイタリア語ができなければならないし、逆にイタリア人なら日本語ができなければ仕事にならない。日本のテレビが外国ロケをする場合には、必要不可欠な存在である。

もっと言えば、コーディネーターがいなければ外国ロケはまず成立しないと考えてもいい。極めて重要な役割であり、れっきとしたキャリア仕事である。コーディネーターとしてりっぱに独立して食べている日本人は、イタリアはもちろんアメリカにもイギリスにも世界中に多い。

重要な仕事であると同時に、コーディネーターにはアシスタントディレクター、つまり助監督という側面もある。そこで僕は初めから積極的にコーディネーターの仕事も受けた。というのも、僕はスタッフがその仕事をこなすことで、助監督としての腕を磨くことができる、と考えたからである。助監督になれれば監督、つまりディレクターまではもうすぐである。

ところが、そうはうまくは行かなかった。コーディネーターとして仕事をしてくれた全てのスタッフは、ディレクターにはなれなかった。あるいはならなかった。明らかにディレクターとしての資質を持つ者もいたが、そういうスタッフに限ってイタリアで別にやりたいことがあって、結局その道に進んでいった。

ディレクターとコーディネーターの違いは、敢えてひと言で言ってしまえば、番組のアイデア或いは企画をひねり出せるかどうか、ということである。全てが同じではないが、フリーランスのディレクターは基本的に自分で番組のアイデアや企画を考えて、テレビ局や制作プロダクションなどに売り込む。

つまり何もないところから出発するのがディレクターであり、企画があって番組制作の骨子があるところに「手伝い」に行くのがコーディネーターである。

ディレクターの僕から見ると、それは少し物足りない。できれば自分で企画を考えて番組を作りたい。最初は一、二分の報道番組でもいい。自分のアイデアが受け入れられて番組になる喜びを、スタッフにもぜひ味わって欲しい。それはおこがましく言えば、「創造する喜び」である。「創造の手伝い」をすることとは少し違う。

実はそれは事務所の経営上も重要だった。なぜなら企画が受け入れられるとは、仕事が発生するということだから。

コーディネーターは仕事が入って来るのを待つだけだが、ディレクターは自ら仕事を生み出すことができるのである。

僕一人のささやかな企画だけではなく、スタッフも企画が出せれば仕事はもっと増えるし、仕事の内容ももっともっと面白くなるはずである。

しかしほとんどのスタッフはあまりそのことには熱心ではなかった。

事務所に仕事を求めて応募してくる日本人は、単身イタリアに渡ってくるだけあって優秀な人ばかりだった。またイタリア人も、どちらかと言うとこの国ではマイナーな外国語である日本語を流暢に話すくらいだから、優秀でないわけがなかった。

しかし、独自にアイデアを考えて、企画に仕上げる作業はしんどいことだし、情熱もいる。

結局、番組制作が何よりも好き、という基本的な心持ちがないと無理だった。

事務所は僕が作る番組やロケ、またスタッフがこなしてくれるコーディネートの仕事で問題なく前に進んだ。しかし僕はあまりハッピーではなかった。というのも、仕事の比重がだんだんコーディネートの方に傾いていき、ここ数年は僕自身が作る番組やロケの機会も少なくなって、事務所がすっかりコーディネーター会社のようになってしまった。僕自身もコーディネーターの仕事をしなければならないことも多くなった。

仕事が回っていればそれはそれでいいことである。だが僕はやっぱり企画から出発する番組作りをしたかった。コーディネート会社のオヤジ社長でいるよりも、カメラマンを始めとするスタッフと共にロケ現場で駈けずり回る仕事が好きだった。

少し体調が良くなかった機会を捉えて、僕は思いきって事務所を閉める決意をした。

そうやって僕は元のフリーランスのディレクターになった。