今年のクリスマスも静かに過ぎた。

クリスマスの朝は、久しぶりに家族とともに教会のミサに出かけた。最近、地区の教会の主任司祭(神父)が20年ぶりに替わった。そこで新任の神父さんにできればお目通りを、と考えたのである。

人が多過ぎたので神父との直接の顔合わせはかなわなかった。しかし、何かの行事で近いうちに必ず会うことになるだろうから、一向にかまわない。その日はすぐに帰宅した。

ミサの間中、とはいわないが、大半の時間を神父の講話内容とは別の物思いにふけって過ごした。もっともそこは教会なので、神や宗教と自分のことを考えるのは全て関連性がある、とも言える。

クリスマスにはイエス・キリストに思いをはせたり、キリスト教とはなにか、などとふいに考えてみたりもする。それはしかし僕にとっては、困ったときの神頼み、的な一過性の思惟ではない。  

僕は信心深い人間では全くないが、宗教、特にキリスト教についてはしばしば考える。カトリックの影響が極めて強いイタリアにいるせいだろう。クリスマスのミサの最中の考え事も、そんな僕の習癖のひとつに過ぎない。

上の息子が中学に上がるか上がらないかの年頃だったと思う。同じ教会における何かの折のミサの途中で、彼が「お父さんは日本人だけど、ここ(教会)にいても大丈夫?」と僕にささやいた。

大丈夫?とはクリスチャンではない(日本人)のに、お父さんはここにいては疲れるのではないか。あるいはもっと重く考えれば、クリスチャンではないお父さんはここにいて孤独感を覚えているのではないか、という息子から僕への気遣いである。

僕は成長した息子におどろいた。気遣いをよくする子供だから気遣いそのものにはおどろかなかった。だが、そこにあるかもしれない教会+信者と、信者ではない者との間の「齟齬の可能性」に気づいた息子におどろいたのだ。  

僕は彼に伝えた。「全然大丈夫だよ。イエス・キリストは日本人、つまりキリスト教徒ではない僕をいつも受け入れ、抱擁してくださっている。だからお父さんはここにいてもOKなんだ」それは僕の嘘偽りのない思いだった。

イエス・キリストは断じて僕を拒まない。あらゆる人を赦し、受け入れ、愛するのがイエス・キリストだからだ。もしもそこでキリスト教徒ではない僕を拒絶するものがあるとするなら、それは教会であり教会の聖職者であり集まっている信者である。

だが幸い彼らも僕を拒むことはない。拒むどころか、むしろ歓迎してくれる。僕が敵ではないことを知っているからだ。僕は僕で彼らを尊重し、心から親しみ、友好な関係を保っている。

僕はキリスト教徒ではないが、全員がキリスト教徒である家族と共にイタリアで生きている。従ってこの国に住んでいる限りは、一年を通して身近にあるキリスト教のあらゆる儀式や祭礼には可能な範囲で参加しようと考え、またそのように実践してきた

人はどう思うか分からないが、僕はキリスト教の、イタリア語で言ういわゆる「Simpatizzante(シンパティザンテ)」だと自覚している。言葉を変えれば僕は、キリスト教の支持者、同調者、あるいはファンなのである。

もっと正確に言えば、信者を含むキリスト教の構成要素全体のファンである。同時に僕は、仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」である。その状態を指して僕は自分のことをよく「仏教系無神論者」と規定し、そう呼ぶ。

なぜキリスト教系や神道系ではなく仏教系無神論者なのかといえば、僕の中に仏教的な思想や習慣や記憶や日々の動静の心因となるものなどが、他の教派のそれよりも深く存在している、と感じるからである。

すると、それって先祖崇拝のことですか? という質問が素早く飛んで来る。だが僕は先祖崇拝者ではない。先祖は無論「尊重」する。それはキリスト教会や聖職者や信者を「尊重」するように先祖も尊重する、という意味である。

あるいは神社仏閣と僧侶と神官、またそこにいる信徒や氏子らの全ての信者を尊重するように先祖を尊重する、という意味だ。僕にとっては先祖は、親しく敬慕する概念ではあるものの、信仰の対象ではない。

僕が信仰するのはイエス・キリストであり仏陀であり自然の全体だ。教会や神社仏閣は、それらを独自に解釈し規定して実践する施設である。教会はイエス・キリストを解釈し規定し実践する。また寺は仏陀を、神社は神々を同様に解釈し規定し実践する。

それらの実践施設は人々が作ったものだ。だから人々を尊重する僕はそれらの施設や仕組みも尊重する。しかしそれらはイエス・キリストや仏陀や自然そのものではない。僕が信奉するのは人々が解釈する対象自体なのだ。

そういう意味では僕は、全ての「宗門の信者」に拒絶される可能性があるとも考えている。だが前述したようにイエスも、また釈迦も自然も僕を拒絶しない。僕だけではない。彼らは何ものをも拒絶しない。究極の寛容であり愛であり赦しであるのがイエスであり釈迦であり自然である。だから僕はそれらに帰依するのである。

言葉を変えれば僕は、全ての宗教を尊重する「イエス・キリストを信じるキリスト教徒」であり、「釈迦を信奉する仏教徒」である。同時に「自然あるいは八百万神を崇拝する者」つまり「国家神道ではない本来の神道」の信徒でもある。

それはさらに言葉を変えれば「無神論者」と言うにも等しい。一神教にしても多神教にしても、自らの信ずるものが絶対の真実であり無謬の存在だ、と思い込めば、それを受容しない者は彼らにとっては全て無神論者だろう。

僕はそういう意味での無神論者であり、無神論者とはつまり「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば「あらゆる宗教を肯定し受け入れる者」、ということにほかならない。