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カナリア諸島・フエルテベントゥーラ島1番の味とされる子ヤギ料理


人が子羊や子ヤギの肉を食らう罪深い季節がまたイタリアにやって来た。すなわちパスクア。日本語で復活祭。イエス・キリストが死後3日目に再生したことを祝う、キリスト教最大のイベントである。

復活祭では各家庭の食卓に多くの伝統料理が並ぶ。主役は卵と子羊である。子羊は子ヤギにも置き換えられる。新しい命を宿した卵はイエス・キリストの再生の象徴。また子羊はイエス・キリストそのものを表す。

復活祭になぜ子羊料理なのかというと、イエス・キリストが贖罪のために神に捧げられる子羊、即ち「神の子羊」だとみなされて、子羊を食べてイエス・キリストに感謝をする習慣ができた。子羊の肉はやがてそれに似た子ヤギの肉にも広がっていった。

イタリアでは復活祭の期間中に400万頭内外の子羊や子ヤギが食肉処理されてきたとされる。それ以外の期間にも80万頭が消費されてきた。

しかし、その数字は年々減ってきて、ここ2年間では半分に減少したという統計もある。消費の落ち込みは主に動物愛護家や菜食主義者たちの反対運動が功を奏したと言われている。

今年はあのベルルスコーニ元首相が「復活祭に子羊を食べるのはやめよう」というキャンペーンを張って、食肉業者らの怒りを買った。

ベジタリアンに転向したという元首相は、彼の内閣で観光大臣を務めたブランビッラ女史と組んで、動物愛護を呼びかけるようになった。アニマリストから拍手喝采が起こる一方で、ビジネス界からは反発が出ている。

僕は正直に言ってその胡散臭さに苦笑する。突然ベジタリアンになったり動物愛護家に変身することも驚きだが、子羊だけに狙いを定めた喧伝が不思議なのである。食肉処理される他の家畜はどうでもいいのだろうか。

動物の食肉処理の現場は凄惨なものである。僕は若いころ英国で豚の食肉処理場のドキュメンタリー制作に関わった経験がある。屠殺される全ての動物は、次に記すそこでの豚と同じ運命にさらされる。

彼らは1頭1頭がまず電気で気絶させられ、気絶している20秒~40秒の間に逆さまに吊り上げられて喉を掻き切られ、血液を抜かれ、皮を剥がれ、解体されて、またたく間に「食肉」になっていく。

その工程は全て流れ作業だ。すさまじい光景だが、工程が余りにも単純化され操作がスムースに運ばれるので、ほとんど現実感がない。肉屋やスーパーに並べられている食肉は全てそうやって生産されたものだ。

菜食主義者や動物愛護家の皆さんが、動物を殺すな、肉を食べるな、と声を上げるのは尊いことだと思う。それにはわれわれ自身の残虐性をあらためて気づかせてくれる効果がある。

だが、人間が生きるとは「殺すこと」にほかならない。なぜなら人は人間以外の多くの生物を殺して食べ、そのおかげで生きている。肉や魚を食べない菜食主義者でさえ、植物という生物を殺して食べて生命を保っている。

人間が他の生き物の命を糧に、自らの命をつなぐ生き方は誰にもどうしようもないことだ。それが人間の定めだ。他の生命を殺して食べるのは、人間の業であり、業こそが人間存在の真実だ。

大切なことはその真実を真っ向から見据えることだ。子羊や子ヤギを始めとする小動物を慈しむ心と、それを食肉処理して食らう性癖の間には何らの矛盾もない。

それを食らうも人間の正直であり、食わないと決意するのもまた人間の正直である。僕は1年に一度、イタリアにいる限りは復活祭の子ヤギあるいは子羊料理を食べると決めている。

ただし今年は、3月に旅したカナリア諸島で美味いヤギ料理を十分に食べたので、明日の復活祭には定番の子羊も子ヤギもやめて魚を食べることにした。

カナリヤ諸島では、島で1番といわれる子ヤギ料理店を訪ねた。そこの炭火焼き子ヤギ肉は疑いなく一級品だった。だが島ではもっとすごいヤギ料理に出会った。

ヤギの成獣の肉料理を提供するレストランがあったのだ。ヤギの成獣の肉は、イタリアでは皆無と言って良いほど食べられない食材である。強烈な臭いが嫌われるのだ。

その料理には臭みが全くなかった。恐らくハーブや香辛料やワインまた蒸留酒なども駆使して、異臭を除き肉を柔らかくすることにも成功しているのだろう。味も秀逸である。僕は地元の人々が、島1番の味と言う前出の子ヤギ料理よりもこちらに軍配を上げた。

その味は僕がこれまでに体験したヤギ料理のうち、2番目に美味いものだった。僕が独断と偏見で判定しているこれまでの1番の味は、数年前にギリシャのロードス島の山中の料理屋で食べた子ヤギ料理である。

今年の復活祭でも供される料理はありがたくいただこうと思う。しかし、年々食材は「食罪」だという感覚が強くなっている。中でも動物を食することはなんとも罪深い業だ。深い食罪を意識しつつ、それでも今のところは食べるのみである。