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日本生まれの英国人作家カズオ・イシグロが、2017年度のノーベルを受賞した。すばらしい出来事である。心から賛称したい。

カズオ・イシグロはあくまでも英国人

そのことを明確に踏まえたうえで、自分の中で少しひっかかっている事どもを述べておきたい。それは多少ノーベル賞に批判的な内容になるかもしれない。

だがそれはあくまでもノーベル賞と選考委員会への異論申し立てであって、作家カズオ・イシグロへの僕の三嘆の気持ちはいささかも変わらない。

本題に入る前に、カズオ・イシグロが日本生まれであることを理由に大騒ぎをする日本の風潮に、先ず異議を唱えておきたい。

カズオ・イシグロは日本生まれかもしれないが、あくまでも英国人である。騒ぐならば彼が日本生まれである点ではなく、彼の作品が「優れているか否か」を検証して騒ぐべきである。

またカズオ・イシグロは日本国籍を捨てて英国に帰化した人だ。ことさら国籍にこだわって騒ぐのなら、かつて日本国籍が「あった」ことではなく「日本国籍を捨てたこと」を問題にするべきだ。

英国人作家のサルマン・ラシュディをインド人と呼ぶ人は少ないだろう。英国に帰化したカズオ・イシグロも同じ。彼は日本と日本国籍を捨てた英国人だ。

少子高齢化と人口減少が進む日本なのだから、日本を捨てた人を大事にするのではなく、日本に帰化してくれる人や日本を愛し日本にこだわる人たちをこそ大事にしたほうがいい。

文学賞の良さと限界

ノーベル文学賞を含むあらゆる文学賞は主観的なものである。主観を投影するのは個人であり集団である。彼または彼らが独断と偏見によって、彼らの良しとする基準を満たす作品あるいは作家を選んで賞を与える。

今年ノーベル財団はカズオ・イシグロを文学賞に選んだ。だがそれは村上春樹でも宮本輝でも吉本ばななでも、はたまたイタリアの誰それや中国の誰それでもよかった。要するに選考委員会が気に入るなら誰でもいいのだ。

自然科学部門の物理学賞や生理学・医学賞や化学賞などは、その対象の優劣を客観的に判断できるものだから分かりやすい。経済学賞も経済学者が実体経済に疎く、しばしば理路整然と間違う笑い話を別にすれば、文学よりはずっと明晰な分野だ。

選考基準があいまいな平和賞にしても、選考委員の主観が入りつつも平和活動をしている個人や団体を受賞対象にしている点で、選択の基準がまったく見えない文学賞よりはやはりまだ分かりやすい。

ノーベル文学賞選考委員会は、彼らの主観でカズオ・イシグロを選んだ。繰り返しなるがそれはそれですばらしいことである。そこで僕は僕の主観に基づいて、なぜ村上春樹ではなくカズオ・イシグロなの?と問いたいのである。

ノーベル文学賞に値する日本人はうようよいるよ

言うまでもなく僕は、カズオ・イシグロよりは村上春樹のほうが先に受賞するべき、と考える者である。僕の中ではノーベル文学賞にふさわしい日本人作家は今のところ2人いる。村上春樹と宮本輝である。

また僕の独断と偏見によるノーベル文学賞に値する日本人作家はランク順に:
1.安部公房 2.村上春樹 3.夏目漱石  4.三島由紀夫 5.藤沢周平 6.谷崎潤一郎 7.山本周五郎 8.司馬遼太郎 9.大江健三郎 10.川端康成 11.宮本輝 の11人である。 

このうち実際に受賞したのは周知のように大江健三郎と川端康成。ノーベル賞は存命中の者に授与される賞だから、今後可能性のあるのは村上春樹と宮本輝の2人になる。

なお、ノーベル文学賞の日本人候補として吉本ばななも取り沙汰されるようだが、僕は彼女の本は読んでいなので判断のしようがない。ちなみに僕は前述の11作家の著作はほぼ全て読んでいる。

ほかの日本人作家のことは知らない。またここイタリアをはじめとする欧米やその他の世界の作家のことも知らない。僕の主観では賞にふさわしい作家はいない。いや、ふさわしい作家を知らない。

村上春樹がノーベル賞をもらえない理由にならない理由

文学賞を含むノーベル賞の選考過程は50年後まで公表されない。従って誰が候補に上がっているかは現在はわからない。村上春樹が候補者として取り沙汰されるのは、彼がカフカ賞を受賞したからだ。

チェコのフランツ・カフカ賞は、ノーベル文学賞への登竜門とも目される。これを受賞したことで村上春樹はノーベル文学賞候補とみなされるようになった。しかし、正式なノーベル賞候補というのは存在しない。あくまでも憶測である。

ノーベル文学賞には政治的なバイアスがかかっていると思えるフシが多くある。かつては各国のペンクラブの会長であること、あるいは少なくともペンクラブに属していることが受賞の条件、という噂もあった。

ノーベル文学賞はまた欧州と北米、アジアとアフリカ、また南米その他にバランス良く振り分けられる、という分析もある。それが事実ならば、そろそろ日本人作家が受賞してもいいのではないか、という見方も広がった。

だが村上春樹は、長い間その候補と噂されながら受賞を逃し続けている。ノーベル賞は人道主義的な作風の作家が取ることが多い 。村上春樹にはそういう題材の作品がほとんどない。

また村上春樹は、イスラエルでの「卵と壁」発言の後で沈黙するなど、政治的人道的な活動が少ないから受賞しない、という説もある。

だが「卵と壁」発言は、パレスチナに対するイスラエルの圧倒的な軍事力を壁に譬え、抑圧された民衆を卵にたとえて、イスラエルの地で当のイスラエルを真っ向から批判したものだ。それは極めて大きな政治的発言であり行動だ。

爆弾受賞

つまり村上春樹が受賞しないのはそういうことでもないらしい。要するに理由が分からない。そうこうするうちにノーベル文学賞は、ボブ・ディランの昨年の爆弾受賞でますます分からなくなった。

ボブ・ディランのあっとおどろくノーベル文学賞獲得によって、同賞の受賞対象は「誰でも良い」という実体をさらけ出した、と僕は思う。

爆弾受賞を受けて昨年は、ボブ・ディランの受賞は画期的。ノーベル文学賞選考委員会は創造的。すばらしい。さすがはノーベル賞、などと無責任な賞賛の声が上がった。

ばかばかしい。ボブ・ディランは天才的なアーティストだが、音楽家であって物書きではない。ボブ・ディランが文学賞を受賞するのなら、井上陽水と小椋佳、ここイタリアのファブリツィオ・デ・アンドレとピノ・ダニエレも十分に資格がある。

もっとも残念ながらイタリアのアーティスト2人は亡くなったので、存命者が条件のノーベル賞の対象にはならない。だが両者はボブ・ディランと日本の2人に勝るとも劣らない天才だ。

あえて亡くなった2人の名前を出したのは、僕が知らないだけでイタリアには2人に迫るあるいは凌駕するシンガーソングライターが必ずいると思うからだ。

他の国にもおそらくそれらのアーティストに匹敵する優れたシンガーソングライターがいるに違いない。さあ、ノーベル賞よどうする?と問いかけたいものだ。

あ、あぶなく忘れかけたが、吉田拓郎も「旅の宿」1曲だけでノーベル賞はもらった、と言いたいところだ。しかし、作詞は残念ながら彼本人ではないので厳しいかも。

奇をてらうノーベル文学賞

ボブ・ディランの受賞理由は「偉大な米国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」というものだった。ところが世界中には「それぞれの国の歌の伝統に、新たな詩的表現を創造した」アーティストがゴマンといる。米国だけには限らないのだ。

国際的な認知度ではなく「米国(一国)の歌の伝統」というボブ・ディランの受賞理由に従えば、彼らの全員も「ノーベル文学賞」の対象でなければならない。それがバカバカしいというのなら、ノーベル文学賞そのものがバカバカしいのである。

文学賞をまともなコンセプトに戻したいならば、財団はボブ・ディランの文学賞を没収した上で「ノーベル音楽賞」を新たに設定し、彼をその第一回目の受賞者に認定すればいい。

カズオ・イシグロの受賞は、あるいはボブ・ディランのそれに続くノーベル文学賞の、近年の隠れたテーマ「奇をてらう」の一環である可能性がある。

つまり、村上春樹という王道の受賞候補があまりにも人気が高いため、嫉妬した選考委員(会)が「今年もまた」村上春樹を無視して意表をつく選択をした。

いや、無視したというよりも、出生地を出身国と見なす彼らの考えでは、「長崎県生まれの日本人」であるカズオ・イシグロに賞を授与することで、そろそろ日本人が受賞するべきという人々の思いに応えた。

村上春樹の受賞をわざと外しているようなノーベル財団の動きは、米国アカデミー賞がスピルバーグ監督の受賞を嫌い続けた事実に通底している。アカデミーショーはスピルバーグの人気に嫉妬して彼の受賞を拒み続けた疑いがる。

しかし、アカデミーショー委員会はやがてスピルバーグに賞を与えた。理不尽な態度を批判されたからだ。ノーベル文学賞選考委員会も、間もなく実力絶大な作家の村上春樹に賞を授与せざるを得なくなるのではないか。ぜひそうであってほしいものである。