雲の上の光



日本の多くの地域で今日から始まる盆は、昨年11月に101歳で逝った父の新盆にあたる。盆最終日の8月15日にはイタリアでも大きな宗教行事がある。聖母マリアが死して昇天することを寿ぐ聖母被昇天祭である。僕はその日は家族と共に教会のミサに出席するつもりだ。

僕はキリスト教徒ではないが、教会の行事には家族に請われれば、また時間が許す限りは、顔を出すことを厭わない。一方キリスト教徒の妻は日本に帰るときは、冠婚葬祭に始まる僕の家族の側のあらゆる行事に素直に参加する。それは僕ら異教徒夫婦がごく自然に築いてきた、日伊両国での生活パターンである。

教会では父のために、盆の徳を求めて祈ろうと思う。教会はキリスト教の施設だが、聖母マリアも、その子で神のイエス・キリストも、霊魂となった父を拒まない。拒むどころか抱擁し赦し慈しむ。祈る僕に対してもそうである。イエス・キリストとはそういう存在である。全き愛と抱擁と赦しが即ちイエス・キリストである。

祈りには実は宗教施設はいらない。僕は普段でも父に先立って逝った母に語りかけ、父を思っても祈る。 だが信心深かった母と父はもしかすると、多くの人と同様に寺や神社や祠や仏壇などの宗教設備がないと寂しい思いをするかもしれない。だから僕はそうした場所でも祈る。キリスト教の教会においてさえ。

イエス・キリストの代弁者である教会は僕の祈りを拒まないし拒めない。もしもそこに拒絶があるなら、それは教会施設の管理者である聖職者と信者たちによってなされるものだ。だが異教徒でありながら、あるいは仏教系無神論者でありながら、いや仏教系無神論者だからこそ、イエス・キリストを尊崇してやまない僕を彼らも拒まない。

仏教系無神論者とは、仏教的な思想や習慣や記憶や情緒などにより強く心を奪われながら、全ての宗教を容認し尊崇する者、のことである。同時に僕は仏陀と自然とイエス・キリストの「信者」でもある。幾つもの宗教を奉ずる者は、特に一神教の信者にとっては、「何も信じない者」であるに等しい。

その意味でも僕はやはり無神論者なのであり、無神論者とは「無神論」という宗教の信者だと考えている。そして無神論という宗教の信者とは、別の表現を用いれば先に述べた「全ての宗教を肯定し受け入れる者」にほかならない。

葬儀や法要や盆などを含むあらゆる宗教儀式と、それを執り行うための施設は、死者のためにあるのではない。それは生者のために存在する。われわれは宗教施設で宗教儀式を行うことによって、大切な人を亡くした悲しみや苦しみを克服しようとする。盆もその例に漏れない。

宗教はそれぞれの信仰対象を解釈し規定し実践する体系である。体系は教会や寺院や神社などの施設によって具現化される。信者は体系や施設を崇拝し、自らの宗教の体系や施設ではないものを拒絶することがある。特に一神教においてそれは激しい。

再び言う。僕はあらゆる宗教を認め受容し尊崇する「仏教系無心論者」である。僕にとっては宗教の教義や教義を含む全体系やそれを具現し実践する施設はあまり意味をなさない。僕はそれらを尊重し信者の祈りももちろん敬仰する。

だが僕はあらゆる宗教の儀式やしきたりや法則よりも、ひたすら「心が重要」と考える者でもある。心には仏教もキリスト教も神道も精霊信仰も何もない。心は宗派を超えた普遍的な真理であり、汎なるものである。それは何ものにも縛られることがない。

灰となった父の亡き骸の残滓は日本の墓地に眠っている。父に先立って逝った母もそうだ。だが2人はそこにはいない。2人の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇でさえも忌避し、生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する

2人は遍在して僕の中にもいる。肉体を持たない母と父は完全に自由だ。自在な両親は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

僕は実感し、いつでも彼らに語りかけ、祈る。繰り返すが祈りは施設を必要としない。だが盆の最終日には僕は、イエス・キリストを慕いつつ仏陀の徳を求めて、母と、そして新盆を迎える父のために、キリスト教の施設である教会で祈ろうと思う。



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