自分ごと

ひとり舞台



ペン(鉛筆)握る手青系600




記事タイトル「子を我が物と見なす怪異」を「名誉殺人という怪異も“多様性”として許されるべきか」に変更した。

ブログ記事は書きっぱなしではなくけっこう編集をする。読み返す機会が多いからである。

僕はこれまで新聞・雑誌・文芸誌などに執筆してきたが、そこには常に編集者がいた。

編集者は書き手にとって極めて重要な存在。

誤字脱字などの単純ミスから大きな間違いまで丁寧に指摘してくれ、力のある編集者は重いアドバイスをくれることもある。

ブログは一人で書き、一人で推敲し、読み返し、編集する。楽しいが間違いが多い。

誤字脱字は日常茶飯事。

その他の単純ミスから思い込みや誤りや書き違えや手抜かりやしくじりなど、など、よくもまぁ、と自分でもあきれるほど多くの落ち度が見つかる。何度も読み返すから。

そこで気づいたことは書き直す。タイトルを変更したくなるのも読み返すから。

新聞雑誌その他に書いて発行された文章はもう直しがきかない。だからこそ編集者や検閲者が出版前に責任を持って直し、指摘し、修正アドバイスをくれる。

ブログは編集権も自分にある代わりに間違いを指摘してくれる編集者がいない。だから時間が許す限り自分の下手な文章を読み返しては、せっせと書き直している。

それでも間違いは完全にはなくならない。

絶対に。。。



facebook:masanorinakasone










地中海の土左衛門 もつぶやいた



則土左衛門800



バカンスあるいは休暇とは「“何もしない”ということをする」ことである。“何もしない”行為はいろいろあるだろうが、僕の場合はビーチパラソルの下で寝椅子に横たわって日がな一日読書をすること、である。

若い頃は一日中釣りをしたり、泳いだり、わざと日光浴をして肌を焼いたりもした。ロンドンでの学生時代、湿った環境に侵されて肋膜炎にかかり、以来日差しを浴びることが健康に欠かせなくなったからだ。

最近は読書以外にビーチですることといえば、朝早い時間に妻に伴ってする散歩ぐらいである。肋膜炎の後遺症が癒えてからは日光浴さえしない。日光浴どころか、直射日光を避けてパラソルの影を求めて、寝椅子を移動してはひたすら文字を追う。

それでも反射光で十分以上に日焼けもすれば暑気も感じる。暑気がよほど我慢ができなくなれば、5分~10分ほど海に入って、仰向けに横たわって水に体をあずける。地中海の塩分濃度は濃い。面白いように体が水に浮く。

地中海は広大だが、狭隘なジブラルタル海峡で大西洋と結ばれる以外は閉ざされている。そのために塩分濃度が濃い。それは大西洋から離れた東に行くほど顕著になる。僕は地中海以外には閉じられた海を知らない。子供のころから親しんだ海は太平洋であり東シナ海だ。

それらの海でも人の体は水に浮く。だが塩分濃度の濃い地中海ではもっと浮く。あるいは黙って仰向けに横たわり、漂いつつ波を受けても体は沈まない。僕の生まれた島の海では、波が来れば水を被って五体は沈む。地中海では浮揚感が面白くて僕は子供のように波間を漂う。

今回は生まれて初めて海水に漬かった体を洗わず、つまり塩分を皮膚にまとわりつかせたまま一日を過ごし、そのまま就寝したりもした。それは妻の健康法である。あるいは彼女が健康に良い、と信じて若いころか実践しているバカンスでの過ごし方だ。

僕はもの心ついたころから真水で海水を洗い流さなければ気がすまない性質だ。体中がむず痒く、気のせいか肌が熱を帯びるようにさえ思う。真水で体をすすがなければとても眠れない。ところが今回思いきって妻のやり方を真似てみたら意外にも爽快だ。

むず痒くもなく熱っぽい感じもなかった。塩分濃度の高い海水だから、乾いたあとの塩気も強いはずだ。したがって痒みも不快感もつのるはずなのにむしろ逆である。あるいはサルデーニャ島の空気が日本よりもはるかに乾いていて、夜になると清涼感が増すせいなのかもしれない。

体から海水を洗い落とさずに過ごすことが、実際に健康に良いかどうかはわからない。だが少なくとも不快ではない、という発見はおどろきだった。以前感じていた不快感は、あるいは塩分が肌にもたらすものではなく、子供時代からの「慣れ」がもたらす心理作用に過ぎないのかもしれない。

幾つになっても、何をしてもどこにいても、新しい発見というものがある。日本を離れて海外にいるとなおさらだ。日常でもそうだが、日常を断ち切って旅や休暇に出ると、またさらに新発見の可能性が高まる。陳腐だが、「非日常」の休暇旅はその意味でも重要だ、とあらためて思わずにはいられない。


facebook:masanorinakasone







ノートルダム大聖堂とミラノ・ドゥオーモ



崩れる尖塔貼り付け時に横拡大600


最近大きく生活習慣が変わって、夜9時前後にベッドで読書を始め眠気の赴くままに9時半~10時頃には寝てしまう。その代わりに朝は早く、午前5時~6時には起きだして執筆を中心に仕事を始める。

ところが昨夜(4月15日)は19時過ぎからテレビの前に釘付けになった。BBCほかの国際放送が、衛星生中継でパリのノートルダム大聖堂の火災の模様を逐一伝え始めたからだ。

ユーロニュース、アルジャジーラ、BBC3局の衛星中継放送をリモコン片手に行き来したあと、結局BBCに絞って、火の勢いが衰えた12時近くまで熱心に見入った。

大ケガをした消防隊員を除けば死者や負傷者はいなかったものの、大惨事と形容しても構わないだろう火災の推移をつぶさに見ながら考えたことの一つは、火災は事故なのかテロなのか、という疑問だった。

その疑問にとらわれつつ、5月の欧州議会選挙を控えたこの時期の出来事だから、おそらくフランス極右「国民連合」のマリーヌ・ルペン党首は、火災がイスラム過激派のテロであってほしい、と心中で痛切に願っているだろうと思った。

そして彼女に呼応して、ここイタリアの極右政党「同盟」のサルヴィーニ党首もそれを切望しているに違いない、などとも考えた。

2人ともまさか大聖堂の火災を喜んではいないだろうが、起きてしまった悲劇を政治利用することは恐らくいとわないだろう。政治家のほとんど全てがそうであるように。

僕は学生時代の遠い昔にノートルダム大聖堂を訪れている。その記憶は僕の中では、後に仕事でもプライベートでもさんざん訪問したミラノのドゥオーモと並んで、だが、ドゥオーモよりもはるかに小さく薄い印象で脳裏に刻み込まれている。

大聖堂とドゥオーモを連想するのは、いうまでもなく両者が甲乙つけがたいゴシック様式の大建築物だからである。どちらも息をのむように美しく威厳のある建物だが、時代が新しい分ドゥオーモのほうが大きい印象だ。後発の建物には、先発の同種のものの規模を凌ぎたい人の気持ちがしばしば反映される。

ところが災に呑み込まれた凄惨な姿でふいに目の前に現れた大聖堂は、ミラノのドゥオーモを凌駕する巨大な、だが重い憂いを帯びた存在となって僕の記憶蓄積の中に聳え立った。

やがてそれはそのままの姿でミラノのドゥオーモを気遣う僕の心に重なった。つまり僕は卑劣・不謹慎にも、火災がミラノで起きていないことに密かに胸をなで下ろすような気分になっていたのだ。

断じて火災を喜ぶのではないが、いわば他人の不幸が身内に起きなかったことをそっと神に感謝するような、独善的な心の動きだった。それだけミラノのドゥオーモが僕にとって近しい存在だということだが、それは決してエゴイズムの釈明にはならない。

そういう心理は、ルペン党首やサルヴィーニ党首が、イスラム教徒系移民に対する有権者の憎しみをあおって選挙戦を有利に進めたい思惑から、大聖堂の火災がどうせならイスラム過激派のテロであってほしい、と願う陋劣と何も違わない。

そのことを十分に知りつつも、僕は湧き起こったかすかな我執を制御することができずに戸惑ったりもした。


facebook:masanorinakasone





いのちあそび



天敵瓶up600



心臓の不調で入院し外科手術を受けた。「いのちびろいをした」というほどの深刻な経緯だったが、あまりその実感はない。

退院後2日目の今日、大量の薬を服用しながら、また気のせいか慣れないからか、一抹のひっかかりを感じなくもないが、施術は成功したという医師の言葉を思っている。

2000年代に入った頃からときどき胸が痛むようになった。時間とともに悪化するようなので医者に診てもらった。狭心症の疑いがあると診断された。

心電図、血液検査、負荷心電図等々の検査をしたが何も異常はなかった。痙攣性の狭心症ではないか、という話もあった。

残るのは冠動脈造影検査 、いわゆるカテーテルだった。当時、仕事が忙しくイタリアと日本をせわしなく往復していた。

イタリアでの診察結果を手に日本でも医者にかかった。そこでミリステープ という狭心症治療の貼り薬をすすめられて使用を始めた。すると痛みがなくなった。

ところがイタリアの医者はそれに反対。貼り薬は狭心症の発作が起きないときにもニトログリセリンを供給し続けて体によくない。貼り薬を使うのは早すぎるし年齢が若すぎると指摘された。

数ヶ月使用したあと、発作が起きるときだけ服用する舌下薬・トリニティーナ(ニトログリセリン)を持ち歩くようになった。2003年頃のことである。

時を同じくして禁煙にも成功した。それまで30年近くにわたって一日平均で3箱60本の煙草を吸い続けていた。ある時期は一日7箱を吸う気の狂ったような状況もあった。

禁煙後、胸が痛む発作の回数が急激に減った。それに惑わされて病気は治りつつあると思い込んだ。喫煙が病の一番の原因、と自分が思い込み医者もそう見なす雰囲気になっていた。

そうやって冠動脈造影検査・カテーテルを行うのを先送りにした。

時間とともに発作の回数は減り続け、最近は忘れた頃にやってきて、しかも舌下薬のニトログリセリンを服用しなくても痛みが治まるようになっていた。

そうやって16年余が過ぎた。禁煙もほぼ同じ年数になった。胸の痛みはやはり無茶な喫煙のせいで、もう間もなく完治するだろう、と素人頭で考えているまさにそのとき、重い発作が来た。

入院させられ、検査をし、カテーテルを差し込まれた。冠動脈の3ヶ所が詰まっていてそのうち一ヶ所は重篤だった。少し処置が遅れていればほぼ確実に心筋梗塞を引き起こしていた、と告げられた。

心筋梗塞は心臓の一部が壊死する重大疾患である。最悪の場合はそのまま死亡することも珍しくない。そういう状況なのだから、僕はやはり「いのちびろいをした」と言わなくてはならないのだろうが、どうしてもそこまでの深刻な感じがしない。

病名も明確にされないまま、16年間にわたって発作が収縮し続けた(収縮し続けるように見えた)こと、また今回の発作が死の恐怖を感じさせるような異様かつ巨大なものではなかったこと。

さらにカテーテル検査に続いた「バルーンによる冠動脈形成術」、いわゆる風船療法もスムースに 運んで成功したこと、などが僕の気持ちをどこかでやや呑気にしているようだ。

だがそれらのイベントは、還暦を過ぎた僕の体の状況を断じて楽観的に語るものではない。僕の体は確実に老いて行っている。

一昨年は生まれて始めての入院手術を経験し、昨年末から年始にかけてはひどい食物アレルギー症に襲われた。その問題がまだ解決しないうちに今回の
「事件」が起きた。

それらは少し意外な出来事だった。それというのも、老いにからむ病気の数々は、おそらく70歳代に入ってから始まるのだろうと僕は漠然と考えていた。

そう考えるほどに僕の体はいたって壮健だった。唯一の気がかりだった狭心症疑念も、既述のように無くなりつつあるように見え、その他の不具合も深刻な事態には至っていなかった。

老いとともにやってきて、日々まとわりつくはずの病との共存は、正直にいって
10年ほど先以降の話だろう、とぼんやりと考えていたのだ。

だが、どうやらそれは大きな間違いだったようだ。

嘆いても仕方がない。現実を受容し真正面から見つめながら、この先の時間をすごして行こうと思う。

何だかんだといっても、40歳代や50歳代で逝ってしまった少なくない数の友人たちに比べれば、僕は十分に長く生き、十分に幸運に恵まれているのだから。



facebook:masanorinakasone









死ぬまで生き抜く



山茶花sazanka-ic4



昨年11月、父が101歳で他界した。

また6月にはイタリア人の義母が92歳で亡くなった。

そうやって母に続いて逝った父を最後に、妻の両親を含む僕ら夫婦の日伊双方の親世代の人々がこの世から全ていなくなった。

それは寂しく感慨深い出来事である。

生きている親は身を挺(てい)して死に対する壁となって立ちはだかり、死から子供を守っている。

だから親が死ぬと子供はたちまち死の荒野に投げ出される。次に死ぬのはその子供なのである。

親の存在の有難さを象徴的に言ってみた。

だがそれは単なる象徴ではない。

先に死ぬべき親が「順番通り」に実際に逝ってしまうと、子供は次は自分の番であることを実感として明確に悟る。

僕自身が置かれた今の立場がまさにそれである。

だが人が、その場ですぐに死の実相を知覚するのかといえば、もちろんそんなことはない。

死はやがて訪れるものだが、生きているこの時は「死について語る」ことはできてもそれを実感することはあり得ない。

人は死を思い、あるいは死を感じつつ生きることはできない。

「死を意識した意識」は、すぐにそのことを忘れて生きることに夢中になる。

100歳の老人でも自分が死ぬことを常時考えながら生きたりはしない。

彼は生きることのみを考えつつ「今を生きている」のである。

晩年の父を観察して僕はそのことに確信を持った。
 
父はいつも生きることを楽しんでいた。

楽しむばかりではなく、生に執着し、死を恐れうろたえる様子さえ見せた。

潔(いさぎよ)さへの憧憬を心中ひそかに育んでいる僕は、時として違和感を覚えたくらいだ。

ともあれ、死について父と語り合うことはついになかったが、僕は人が「死ぬまで生き尽くす」存在であるらしいことを、父から教わったのである。



facebook:masanorinakasone







     



オヤジには「アレルギーバケツ理論」が似合う



紅斑拡大600




還暦過ぎの男が突然アレルギーに見舞われた。食物アレルギー「らしい」。まだ正式な検査をしていないので「らしい」と書くが、薬剤師や医師によればおそらく食べ物、それも魚介だろう、という診たてである。

体中に紅斑ができ、顔も真っ赤になり鼻下から顎までの皮膚がかさかさに乾燥するようだった。かゆみや痛みや緊張はそう強くはなかったが、不快感が大きい。

ところが病院で医者にかかるまでもなく、付き合いの長い薬剤師の処方した薬で効果てきめん、症状が目に見えて収まった。そこまでがイタリアでの話。

すっかり良くなって安心して帰国した。薬のあまりの効果抜群ぶりに気を良くして、というのか、妙に自信を得て、東京でも帰郷先の沖縄でもあらゆる料理を普通に食べ続けた。いや、食べまくった。

クリスマスを故郷の島で過ごした夜も魚介類を含む多くの料理を食べた。するとその翌日再び症状が出た。島の診療所で診察を受け、アレルギーの薬を処方してもらった。

しかし今回はあまり薬の効果がなく、顔と上半身に見えるアレルギーの症状が収まらなくなった。それは新年を経て台湾旅行をする間も執拗に出つづけた。台湾では魚介料理を一切食べなかった。

台湾から沖縄に戻り、病院の皮膚科を訪ねて塗り薬を処方してもらった。アレルギーの薬を飲むかたわら皮膚に塗り薬をすりこむと、嘘のように症状がやわらいだ。

イタリアでは飲み薬が効き、日本では塗り薬がてきめんに効果を発揮した。だがそれが何を意味するのかは医師も良くは分からないらしい。イタリアに戻って徹底的に検査をしてもらうつもりでいる。

イタリアでの検査は150種以上の食物へのアレルギー反応を調べると聞いた、と医師に告げると、日本ではそんなに多くの種類の検査はない、と驚いていた。どうやらイタリアのアレルギー医療は悪くないらしい。

帰国前にイタリアで最初の症状が出たとき、実はすぐに検査をすると決めていた。だが日本へ帰る直前だったので、迷わずに先送りにした。

また既述したように症状も薬ですぐに収まったので、検査は日本から戻ってからで構わないと思った。そればかりではなく、病気を少し甘く見てしまったきらいもある。

反省すると同時に、良く言われる「アレルギーバケツ理論」というのは正しいのではないか、と真剣に考えたりしている。これまで何の問題もなく食べ続けてきた魚介に当たった(らしい)ことが不思議でならないのだ。

「アレルギーバケツ理論」とは、生まれながらに持っている自分の体内のアレルゲンの入れ物(バケツ)があふれると突然発症する 、というもので俗説であり間違いだとされる。

だがアレルギー反応の説明には、境目や境界やボーダーなどを意味する"閾値(いきち)"というコンセプトもあって一筋縄ではいかない、と言われるのもまた現実だ。

要するに、誰でも持っている可能性があるアレルギー発症のスイッチが、いつどこでどのように反応するかはまだ謎のままなのである。

これまでいつでもどこでも、食べたいだけ食べてきた魚介類に、拒絶反応が起こって突然発症したのは、僕の体内のアレルゲン貯蔵庫が満杯になって溢れてしまったから、と考えれば辻褄があうようだ。

要するに僕は、生まれながらに決められていた食べるべき魚介類の量を既に消費してしまい、もうこれ以上は食べてはならない、と神様に告げられたようなものだ。

だが僕は、魚介が食べられないなら死んだ方がまし、と思うほど海鮮料理が好きだ。必ず原因を突き止めて、その素材(タコかエビか貝が怪しい)だけを除いてまた食べまくってやる、と決意しているのである。



facebook:masanorinakasone









まんまの渋谷が面白い



109ビル遠景600


渋谷にいる。今年3度目の帰国。成田に着くと、よほどのことがない限りリムジンバスで渋谷に向かい定宿で一息つく。ホテルからはスクランブル交差点と109ビルが望める。

渋谷とは長い付き合いである。学生時代は世田谷に住んで渋谷で電車を乗り継ぎ横浜の日吉と都内の三田に通った。

大学卒業後はイギリス、アメリカ、イタリアと移り住んだが、仕事で日本に帰るたびに多く渋谷に滞在した。

渋谷にはNHKがあり、テレビ屋になった僕はずい分とNHKのお世話になった。民放の仕事もしたが圧倒的にNHKのそれが多かった。

自然、NHKへの出入りが多くなり、宿泊もNHK近くになった。仕事や仕事以外の活動も渋谷、また民放の仕事でも勝手を知った渋谷に泊まってそこから通う、というふうになった。

番組制作やリサーチ、オーガナイズの仕事等で、若い時には年に4~5回の帰国も珍しくなかった。ほとんど全てのケースで渋谷を起点に動いた。

イタリア・ミラノに置いていた事務所を閉めてテレビの仕事を減らしてからは、年に一度、多くてもせいぜい二度帰国するだけになった。

休暇もあれば仕事もあった。ところがNHKとは無関係の仕事や休暇で帰国する際も、成田からまっすぐ渋谷に行って定宿で旅装を解く、という習慣が続いている。

仕事の場合はそこを拠点にするが、休暇の場合は東京経由で故郷の沖縄に飛ぶのが習わし。ところが沖縄の前に必ず渋谷に寄って、長い場合は4~5日滞在してから島に向かう。

僕は体質的に時差ボケに弱い。イタリアと日本を行き来するたびに重い非同期症候群に襲われて苦しむ。

そこで渋谷に寄ってのんびりし、時差ボケを少し修正してから南の島に飛ぶ、と人には説明している。が、実は時差ボケは島でのんびりして治せばいいのである。

渋谷で一時停止をするのは、ひとえにそうすることが楽しいからである。僕は渋谷が大好きで、そこにいると心が弾み、和み、くつろぎ、喜ぶ。

街の喧騒も嬉しく、食べ物は美味しく、酒も美味く、友人たちに会っても会わなくても、気持ちがひとりでに浮かれる。

若いころは渋谷は地元、みたいな意識があった。電車の乗り換え地であり、そこで降りて遊び、アルバイトも良くした。

若い僕はそこが格別に若者の街だとは感じなかった。若者もいれば大人もいる街だった。ところが渋谷はいつからか若者オンリーの街になった。

プロのテレビ屋になって、日米また日伊を往来して目いっぱい仕事をこなしていた頃、NHKの大先輩のUさんと飲み屋で仕事の打ち合わせをした。

そこで渋谷が若者だらけの街になった、というよくある話題になった。Uさんは渋谷が大きく変わったことをひどく嘆いた。僕は相槌を打ちつつ「でも、渋谷は腐っても渋谷です」と返した。

僕は渋谷が若者に占領されて「腐った」とは少しも考えない。腐っても、という言い回しをしたのは、渋谷の変貌を悲嘆するUさんへの僕なりの気遣いのつもりだった。

渋谷は、今はオヤジの僕らが、「若者だった時分に占領していた頃」と何も変わっていないと思う。それというのも昔の渋谷で、「若者だった僕」の目に映るのは他の若者ばかりだった。つまり渋谷は当時も若者の街だったのだ。

同時に渋谷は大人のための食べ物屋や飲み屋や遊び場や施設にもまた事欠かない街であり続けたのであり、今もあり続けている。

それはつまり、渋谷の本質は昔も今も変わっていないということであり、渋谷は表面はともかく「腐って」などいない街だ、と思うのである。

そうはいうものの、しかし、仕事で渋谷に滞在するたびに、年々若者の姿が目立つように感じられるのもまた確かである。矛盾するようだがその意味では渋谷は変わっている。

本質は変わらないものの、表面上は明らかに変わり続けている渋谷は、言葉を替えれば永遠に腐らないまま輝き変化し続ける「若者と大人の街」と言うべきかもしれない。

近年はそれはさらに、永遠に腐らないまま輝き変化し続ける「若者と大人と"人種のるつぼ"の街」へと変わりつつあるように見える。

僕はますます渋谷が好きになりそうである。





facebook:masanorinakasone













ボランティアという献身、利他主義という高潔



ウーゴさんと
ウーゴさんと。。(ペルーのリマで)


はじまり

カトリック系の慈善団体「マト・グロッソ」のウーゴさんが94歳で亡くなった。

ウーゴさんとは、人生のほとんどを他人のためだけに生きてきた清高な男、カトリック・サレジオ(修道)会のウーゴ・デ・チェンシ神父のことである。

ウーゴさん」と人々に愛称された彼はイタリア北部の生まれ。宣教師としてブラジルに行ったことがきっかけで、土地の名前を取ったマト・グロッソ」という慈善団体を立ち上げた。

「マト・グロッソ」はイタリア国内で年々発展を遂げ、多くのボランティアを南米各国に派遣するなど、広範囲にわたって慈善事業を展開している。

マトグロッソは特に南米のペルーで大きく成長。今では同国で第2位の資産を有するまでになり、その資産を活用して事業を起こし、ペルー人を雇用し、貧者を支援する。

中でも貧しい青少年たちへの支援を中心に、学校事業や社会事業に多大な労力を注いで成果を挙げている。

いきさつ

妻がマト・グロッソと関わっている関係で、わが家ではほぼ毎年マト・グロッソ主催のチャリティーコンサートを開いてきた。募金集めのために食事会を催したりもする。

住まいの由来がかつての貴族館という珍しい広い場所であるため、庭園や屋内で多くの聴衆を受け入れてイベントを開くことができるのである。

2011年には僕が表に立って、わが家で東日本大震災支援のチャリティーコンサートを開いた。その時に協力してくれたのもマト・グロッソのボランティアの皆さんだった。

ウーゴさんを訪ねて


先年、Bresciaマト・グロッソの責任者のブルーノ夫妻と共に、ウーゴ神父を訪ねてペルーに行った。同国でのマト・グロッソの活動地域はほとんどが山中の貧しい場所である。

ペルーにはアンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが多い。

旅では標高約5千メートルの峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動した。言うまでもなくウーゴさんとマトグロッソの活動を見聞するためだ。

目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で面白かった。

面白いとは、旅人の僕のノーテンキな感想で、ウーゴさんとマトグロッソのボランティアたちは、日々厳しい慈善事業に精を出していた。

フィアットよりも大きな会社?

「イタリア最大の産業はボランティア」という箴言がある。イタリアのみならず欧米諸国の人々は概してボランティア活動に熱心だ。

イタリアの場合は、カトリックの総本山バチカンを身内に抱える国らしく、欧米の平均に輪を掛けて人々が活動に一生懸命のような印象を受ける。

この国の人々は、猫も杓子もという感じで、せっせとボランティア活動にいそしむ。博愛や慈善活動を奨励するローマ・カトリック教会の存在がやはり大きいのだろう。

奉仕活動をする善男善女の仕事を賃金に換算すれば、莫大な額になる。まさにイタリア最大の産業である。

「マト・グロッソ」のウーゴさんは、さしずめイタリアのその巨大産業の元締め、あるいは象徴的な存在の一人である。

チャリティーってなに?

チャリティーなんて金持ちやひま人の道楽、と考える人も世の中には多い。それは日々の暮らしに追われている、豊かとばかりも言えない人々の正直な思いだろう。

だが、チャリティーは実は、貧富とは関係のない純粋な自己犠牲行為である。次の統計の一つもそれを物語っている。

慈善活動をする世界の人々のうちのもっとも裕福な20%の層は、収入の1、3%に当たる額を毎年寄付に回す。

一方 慈善活動をする世界の人口のうちのもっとも貧しい20%の人々は、彼らの収入の3、2%を寄付に回している。金持ちは貧乏人よりもケチなのだ。

他人の為に何かをするという行為は尊いものだ。自己犠牲の精神からはほど遠い、俗物然とした心意しか持ち合わせのない僕などは特にそう思う。

一つの例を言えば僕は、東日本大震災支援コンサートを一緒に手伝ってくれた「マトグロッソ」の皆さんには、頭が下がる思いがしてやまない。彼らは「継続して」人のために活動をしているからだ。

思い続ける難しさ

たとえば災害時などに提供する義援金は、一度寄付をすればそこで終わりだが、
「被災者を忘れない」という思いをずっと胸に抱き続けるのは難しい。

思い続けることはいたわりになり、それは行動になる。ボランティアやチャリティーも同じだ。「続ける」ことが重要で、しかもそれはたやすいことではない。

災害の被災者だけではなく、世界中の貧しい子供たちや不運な人たちを思い続けること。それが本物のボランティアやチャリティーの核心だ。

そうはいうものの、「にわかボランティア」や「にわか慈善行為」は、もちろんそれ自体がとても大切なことだ。何はともあれ被災者や被災地に思いを寄せることだからだ。

そしてボランティアや慈善行為を「続ける」ことができれば、さらにもっとすごいことだ。だが、たぶん続けられる人はそれほど多くはない。皆忘れる。「他人を心に思い続ける」のは至難の業だ。

ゴルファーの藍ちゃんの失敗


チャリティーの精神を考えるとき、いつも頭に思い浮かぶエピソードがある。

東日本大震災の直前に、アメリカの女子プロゴルフ界がチャリティーコンペを主催した。チャリティーコンペだから賞金が出ない。賞金は全てチャリティーに回されるのだ。

多くの欧米人プレーヤー参加したものの、宮里藍、上田桃子、宮里美香の日本人トッププレーヤー達は参加しなかった。賞金が出ないからだ。

ところがそのすぐ後に、東日本大震災が起こってしまった。すると日本人3人娘が被災地のためにチャリティーコンペをしようと呼びかけた。

それは良いことの筈だが、当時アメリカでは大変な不評を買った。残念ながら彼女たちは、身内のことには必死になるが、他人のことには鈍感で自分勝手、と見破られてしまったのだ。

自分や身内や友人のことなら誰でもいっしょうけんめいになれる。慈善やチャリティーやボランティアとは、全くの他人のために身を削る尊い行為のことである。

それは特に欧米社会では盛んで、有名人やセレブや金持ちたちには、普通よりも大きな期待がかけられる。

チャリティー活動が盛んではない国・日本で育った3人の日本人娘は、トッププレーヤーにはふさわしくない大失態を演じてしまった。

しかしその後、彼女たちは懸命に頑張ってチャリティー活動を行い、1500万円余りの義援金を被災地に寄付したことは付け加えておきたい。

それは「身内の日本人」被災者への思いやりで、彼女たちが「身内でない者」のためにも同じ気持ちで頑張るかどうか分からない、などと皮肉を言うのはやめよう。身内のためにさえ動かない者がいくらでもいるのだから。

見返りを求めるチャリティーはない

チャリティー活動になじみのない日本人にありがちな、気をつけなければならないエピソードは、実は僕の身近でも起こる。

わが家で催したチャリティーイベントで、多くの飲食物が提供された。ところが、事前に告知されていたローストビーフが手違いで提供されなかった。このことに怒った人々が担当者を突き上げた。

実はそうやって強くクレームをつけたのは残念ながら日本人のみだった。そこで大半を占めていたイタリア人は、一言も不平不満を言わなかった。

彼らはチャリティーとは得る(ローストビーフを食べる)ことではなく、差し出す(寄付する)ものであることを知りつくしていたからだ。

イタリア人は、カトリックの大きな教義の一つである慈善やチャリティーの精神を、子供のころから徹底的に教え込まれる。

そうした経験がほぼゼロの多くの日本人にとっては、得るもの(食べ物)があって初めて与える(支払う)のがチャリティー、という思い違いがあるのかもしれない、と僕はそのとき失望感と共にいぶかった。

一方、マトグロッソという慈善団体を立ち上げ、大きく育て、常に他人を思い利他主義に徹した「ウーゴさん」の尊い精神は、彼を慕うボランティアたちを介して今後も生き続けることが確実である。



facebook:masanorinakasone
















親の壁



コロンバ



父が101歳で逝った。天命を全うしたという意味では大往生、と言っても構わないのだろうが、大往生の条件である安らかで後悔のない人生を送ったかどうか、については僕にはかすかな疑問が残る。

葬儀のため急ぎ一時帰国した。実は年末から年始にかけて家族4人で父を見舞う計画を立てていた。ここ数年は父は、健康長寿とは言いがたい体調に苦しんでいた。イタリアで12月の出発を待っているまさにその時に訃報が入った。

父が妹の介護を受けながら住んでいた、故郷の島を家族4人で訪ねる計画は予定通り行うことにして、取り急ぎ僕だけがひとり帰国した。妻と息子たちを愛した父はもういないが、辺鄙な小さな島を訪問する彼らを父は喜ぶだろう。

父を訪ねる旅には、妻を慰労する意味合いもあった。妻は近年は自らの母親と、妻以外には身内のいない叔母の介護に明け暮れてきた。が、ことし6月に2人が相次いで他界してそこから解放された。1人娘の妻は、難しい性格だった2人の老婆に翻弄されながら、良く両者の面倒をみた。

妻側の2人の老婆に似て、父も難しい性格の人だった。難しい性格とは、年老いた者がひんぱんに見せるわがままや、怒りや、固陋などが、老年ゆえに出てきた瑕疵ではなく、若い時分からの地の性格が悪化したもの、という意味である。

妻と妹はそれぞれの困難を長きにわたって切り盛りし、よく耐え、また老人たちを支えてかいがいしく面倒を見た。そして3人とも最後には、介護者の妻と妹に深く感謝しながら旅立った。

ちなみに、僕が大往生と手放しで喜べない父の晩年の少しの不幸は、難しい性格ゆえのストレスや不安な健康状態などにあるのではなかった。それは田舎にいながら政治に関わった過去と人間関係から生まれた不都合だった。

また政治以外の人間関係でも父は幸運とは言えなかった。それは父自身が招いた隙意だったが、その相手が示した差し合いは父の失敗をはるかに上回るものだった。そうしたことに僕は父の不幸を見るのである。

それらは僕の人生にも大いにかかわりのある事案だから、この先徐々に書いていこうと思う。今は生々しくて書くことにためらいがある。

とまれかくまれ、母に続いて逝った父を最後に、妻の両親を含む僕ら夫婦双方の親世代の家族の人々がこの世から全ていなくなった。それは寂しく感慨深い出来事である。

生きている親は、身を挺して死に対する壁となって立ちはだかり、死から子供を守っている。だから親が死ぬと子供はたちまち死の荒野に投げ出される。次に死ぬのはその子供なのである。

親の存在の有難さを象徴的に言ってみた。だがそれは単なる象徴ではない。先に死ぬべき親が「順番通り」に実際に逝ってしまうと、子供は次は自分の番であることを実感として明確に悟る。

僕自身が置かれた今の立場がまさにそれである。だが人が、その場ですぐに死の実相を知覚するのかといえば、もちろんそんなことはない。

死はやがて訪れるものだが、生きているこの時は「死について語る」ことはできてもそれを実感することはあり得ない。

人は死を思い、あるいは死を感じつつ生きることはできない。「死を意識した意識」は、すぐにそのことを忘れて生きることに夢中になる。

100歳の老人でも自分が死ぬことを常時考えながら生きたりはしない。彼は生きることのみを考えつつ今を生きているのである。

まだ元気だった父を観察して僕はそのことに確信を持った。父は100歳の手前で残念ながらほとんど何も分からなくなったが、それまでは生きることを大いに楽しんでいた。

楽しむばかりではなく、生に執着し、死を恐れうろたえる様子さえ見せた。潔さへの憧憬を心中ひそかに育んでいる僕は、時として違和感を覚えたほどだ。

ともあれ、死について父と語り合うことはついになかったが、僕は人が「死ぬまで生き尽くす」存在であるらしいことを、父から教わったのである。



facebook:masanorinakasone










盆と十字架~仏教系無心論者の墓参り



ロゼッタ墓ヒキ800



霊魂を慰めるイタリアの盆は昨日、すなわち11月2日である。それは 一般に
「死者の日」と呼ばれる万霊節。プロテスタントでは聖徒の日である。

カトリックの教えでは、人間は死後、煉獄の火で責められて罪を浄化され、天国に昇る。その際に親類縁者が教会のミサなどで祈りを捧げれば、煉獄の責め苦の期間が短くなる、とされる。

それは仏教のいわゆる中陰で、死者が良い世界に転生できるように生者が真摯な祈りを捧げる行事、法要によく似ている。

万霊節には死者の魂が地上に戻り、家を訪ねるという考えがある。イタリアでは帰ってくる死者のために夜通し明かりを灯し薪を焚く風習もある。

また死者のためにテーブルを一人分空けて、そこに無人の椅子を置く家庭もある。食事も準備する。むろん死者と生者が共に食べるのが目的である。

イタリア各地にはこの日のために作るスイーツもある。甘い菓子には「死の苦味」を消す、という人々の思いが込められている。

それらの習慣から見ても、カトリック教徒の各家庭の表現法と人々の心の中にある「死者の日」は、日本の盆によく似ていると感じる。

10月31日から11月2日までの3日間も、偶然ながら盆に似ている。盆は元々は20日以上に渡って続くものだが、昨今は迎え火から送り火までの3日間が一般的である。

10月31日のハロウィン、11月1日の諸聖人の日、翌2日の万霊節(死者の日)と宗教祭礼が続く日々が、盆の3日間に似ている、と思うのである。

3つの祭礼のうちハロウィンは、キリスト教本来の祭りではないため教会はこれを認知しない。が、一部のキリスト教徒の心の中では、彼らの信教と不可分の行事になっていると考えられる。

人々は各家庭で死者をもてなすばかりではなく、教会に集まって厳かに祈り、墓地に足を運んでそれぞれの大切な亡き人を偲ぶ。

昨日、僕も6月に亡くなった義母の墓参りをした。義母の新盆、という意識があった。十字架に守られた墓標の前に花を供え、日本風に手を合わせたが、少しも違和感はなかった。

義母は先年、日本の敬老の日を評価して「最近の老人はもう誰も死ななくなった。いつまでも死なない老人を敬う必要はない」と一刀両断、脳天唐竹割りに断罪した荒武者である。

義母の言う「いつまでも死なない老人」とは明らかに、「ムダに長生きをして世の中に嫌われながらも、なお生存しつづけている厄介な高齢者」という意味だった。

当時89歳だった義母は、その言葉を放った直後から急速に壊れて、彼女自身が「いつまでも死なない」やっかいな老人になった。

今考えれば「いつまでも死なない老人」と言い放ったのは、壊れかけている義母の底意地の悪さが言わせた言葉ではないか、という気がしないでもない。

義母は娘時代から壊れる老人になる直前まで、自由奔放な人生を送った。知性に溢れ男性遍歴にも事欠かなかった彼女は、決してカトリックの敬虔な信者とは言えなかった。

死して墓場の一角に埋葬された義母は、それでも、十字架に守られ僕を介して仏教思念に触れて、盆の徳にも抱かれている、と素直に思った。

何らの引っかかりもなく僕がそう感じるのは、恐らく僕が自称「仏教系の無心論者」だからである。僕は宗教のあらゆる儀式やしきたりや法則には興味がない。心だけを重要と考える。

心には仏教もキリスト教もイスラム教もアニミズムも神道も何もない。すなわち心は汎であり、各宗教がそれぞれの施設と教義と準則で縛ることのできないものだ。

死者となった義母を思う僕の心も汎である。従ってカトリックも仏教も等しく彼女を抱擁する。僕の心がそれを容認するからだ。僕は勝手にそう思っている。

カトリックの宗徒は、あるいは義母が盆の徳で洗われることを認めないかもしれない。いや恐らく認めないだろう。一神教の窮屈なところだ。

仏教系無心論者の僕は、何の問題もなく義母が仏教に抱かれ、イエス・キリストに赦され、イスラム教に受容され、神道にも愛される、と考える。

それを「精神の欠けた無節操な不信心者の考え」と捉える者は、自身の信教だけが正義だ、というドグマに縛られている。

だが、一神教だけが正道ではないのだ。他者を認めないそれはむしろ邪道、という考え方もあると思うのである。


facebook:masanorinakasone






ヤギ料理にこだわる理由(わけ)


子やぎ太もも肉



子ヤギ肉と成獣肉

2018年7月、イタリア・サルデーニャ島で子羊及び子ヤギ料理を探し求めていた僕は、これまで味わった中では最も美味い羊の「成獣肉」膳に出会った。子羊肉は中東や欧州ではありふれた食材だ。が、成獣肉のレシピはまれである。

僕が子ヤギや子羊料理(以下子ヤギに統一)にこだわるのは、単純にその料理が美味くて好き、というのがまず第一だが、自分の中に故郷の沖縄へのノスタルジーがあるのだと思う。

沖縄の島々ではヤギ肉が食べられる。僕が子供の頃は、それは貴重な従って高級な食材なので、豚肉と同様にあまり食べることはできなかった。たまに食べるとひどく美味しいと感じた。

島々が昔よりは豊かになった今は、帰郷の際にはその気になればいくらでも食べられる。が、昔のように美味いとは感じなくなった。料理法が単調で肉が大味だからだ。

ところがここイタリアを含む欧州や地中海域で料理される子ヤギの肉は、柔らかく上品な味がしてバラエティーにも富んでいる。ヤギ独特のにおいもない。

貧困ゆえの食習慣

沖縄では子ヤギは食べない。成獣のみを食べる。子ヤギを食べないのは貧困ゆえの昔の慣習の名残りだろう、と僕は勝手に推測している。

小さなヤギは、大きく育ててからつぶす方がより多くの人の空腹を満たす食材になる。だから島の古人は子ヤギを食べるなどという「贅沢」には思いいたらなかった。

ヤギの成獣には独特のにおいがある。それは不快な臭気である。だが臭気よりは空腹の方がはるかに深刻な問題だ。だから人々は喜んでそれを食べた。

僕の遠い記憶の中には、貧しかった島での、ヤギ肉のほのかなイメージがある。たまにしか口にできなかったその料理のにおいは臭みではなく、「風味」だったのだと思う。

その風味は、僕の中では今は「子ヤギ肉の風味」に置き換えられている。つまりここイタリアを含む地中海域の国々で食べる子ヤギ肉の味と香りである。

子ヤギの肉にはヤギの成獣の臭みはない。食肉処理される子ヤギとは、基本的には草を噛(は)む前の小さな生き物だからだ。肉の香ばしさだけがあるのだ。

成獣肉の行方

僕が知る限り、ここイタリアではヤギの成獣の肉は食べない。羊も同じ。牧童家や田舎の貧しい家庭などではもちろん食されているとは思うが、市場には出回らない。臭みが強すぎるからだ。

だが、スペインのカナリア諸島では、僕は一級品のヤギの成獣の肉料理を食べた経験がある。それにはヤギの臭みはなく肉もまろやかだった。秘伝を尽くして臭いを処理し調理しているのだ。

トルコのイスタンブールでも、羊の成獣の肉らしい美味い一品に出会った。その店はカナリア諸島のように「成獣の肉」と表立って説明してはいなかったが、風味がほんのりと子羊とは違った。

子ヤギや子羊肉を伝統的に食する文化圏の国々には、そんな具合に成獣の肉をうまく調理する技術が存在する。イタリアでも隠れた田舎あたりではおそらくそうなのだろう、と僕が憶測するゆえんである。

人工処理

実は「レシピ深化追求」の歴史がなくともヤギの臭みをきれいに消すことはできる。そういう料理に僕はなんとヤギ食文化「事件」当事者の沖縄で出会ったのだ。ほんの数年前のことである。

ヤギ料理をブランド化し観光客にもアピールしよう、という趣旨で自治体がレストランに要請して、各シェフに新しいヤギ料理を考案してもらい、それを試食する会が那覇市内のホテルで開かれた。

たまたま帰郷していた僕もそこに招待された。びっくりするほど多彩なヤギ料理が提供されていた。どれも見た目がきれいで食欲をそそられる。

食べてみるとヤギ肉独特の臭みがまったくと言っていいほどない。まずそのことにおどろかされた。だが味はどれもこれもフランス料理の、いわば「普通の味のレベル」という具合だった。

どの料理もシャレていて美しいが、味にあまり個性がない。ヤギ肉の臭みを消す多くの工夫がなされる時間の中で、肉の風味や個性も消されてしまった、とでもいうふうだった。

多くの場合、島々の素朴を希求して訪れる観光客に、それらのヤギ肉料理が果たして好まれるだろうか、と僕はすぐに疑問を持った。

それらは全て美しくまとまり味がこってりとしていて、ひと言でいえば洗練されている。でもなにかが違う。いかにも「作り物」という印象で、島々の素朴な風情と折り合いがつかない。居心地がわるい。

女性が食の流行をつくる

言葉を替えれば、この飽食の時代に、ほとんどの日本人にとっては新奇、もっといえばゲテモノ風のヤギ肉料理が、はたして食欲をそそる魅力を持っているかどうか、という根本の疑念が僕にはあった。

さらにいえば、それらの料理が女性の目に魅力的に映るかどうか、ということも気になった。食の流行はほとんどの場合女性に好まれたときに起きる。

それらの料理の「見た目の美しさ」はきっと女性に好感をもたれるだろう。だが、そもそもヤギ肉という素材自体には女性は魅力を感じないのではないか、という疑問も消えない。

肉の臭みが取れても、「ヤギは癒し系の動物」というイメージが食欲のジャマをしそうだ。もっともヤギに限らず、全ての家畜とほとんどの野生動物は癒し系なのだけれど。

そうした疑念を吹き飛ばすほどの訴求力が、それらのヤギ料理にあるとは思えなかった。案の定それ以後、披露された新しいヤギ料理が、島で流行ったり観光客の評判になった、という話は聞かない。

ヤギ肉料理喧伝法

ちょっと大げさに言えばヤギ肉料理を流行させる秘策が僕にはある。それは前述とは逆に、女性に嫌われるかたちでのヤギ肉料理のありかたである。つまりヤギ肉の持つ特徴を科学的に解明して、それを徹底的に宣伝し売り込む方法だ。

ヤギ肉には精力増進作用があるといわれる。ならばその精力を、ズバリ「性力」と置き換えても構わないような、ほのかな徴(しるし)が肉の成分に含まれてはいないか。もしそれがあればシメたものだ。

ヤギ肉を食べれば男の機能が高まる、精力絶倫になる、バイアグラならぬヤギグラを食して元気になろう!、などと喧伝すればいい。

もしもそれが露骨すぎるのなら、少しトーンを落としてヤギ肉を食べれば活力が生まれる、ヤギ肉はいわば「若返り薬」だ、などと主張してもいい。

もちろん女性にも好感を持ってもらえるような特徴的な成分がヤギ肉に含まれているのなら、そこを強調すればさらに良い。

たとえば、やはり「若返り作用」の一環で肌がみずみずしくなる、シミなどを抑える。あるいは牛肉や豚肉などと比較するとダイエットに良い効果が期待できる、など、優れた点を徹底的に探して喧伝するのだ。

料理の見た目や味やレシピではなく、ヤギ肉が持つ他の食材とは違う「根本的な特徴」というものでも発見しない限り、ヤギ肉料理が大向こう受けするのは難しいように思う。

それならばいっそ、今のまま、つまり昔からある料理法のままで、「珍味」が好きな少数の観光客に大いに喜んでもらえる努力をしたほうが良いのではないか。要するに薄利多売ではなく、「臭み」という希少価値を売り物にする元々の商法である。


facebook:masanorinakasone




WEB休暇 ~ インターネットの功罪



インターネット600pic


サルデーニャ島滞在中の2週間あまり、ブログ記事を一本投稿したきりでインターネットに触れなかった。滞在施設の部屋の中ではインターネットが使えなかったからである。

そこではレストランやカフェなどが集まっている公共の空間でしかWIFIが機能しなかった。そのためブログ記事の一つを投稿するにもわざわざそこまでPCを抱えて行かなければならない。

スマホでの投稿もできるのかもしれないが、僕はスマホを電話などの最小限の機能以外はOffにしている。自宅外では自由でいたいからだ。

最近は自宅の仕事場やプライベート空間でもインターネット(PC)に縛り付けられた生活をしている。読書の時間が極端に減ったことでもそれは知れる。

せめて外出の際にはインターネットから離れた生活をしたい、と考えて僕はスマホをほぼ「電話のみ」の使用にとどめる努力をしているのである。

PCを抱えてわざわざカフエやレストランまで出向くのはひどく億劫だった。そうやってインターネットにしがみつかない日々が続いた。気がつくと2週間がまたたく間に過ぎたのだった。

インターネットを使わない延長で、というのは正当な理由ではないが、「なんとはなしに」新聞にも手を出さなかった。施設の中に新聞の売店がなかったのも大きな原因だった。

そうやって情報収集という観点からは俗世間から隔絶された状態になって、トランプも北朝鮮も欧州の難民問題も、また杉田水脈なるカス国会議員のLGBT冒涜発言もなにもかも耳に入らなくなった。耳に入らくなっても全く問題ではなかった。むしろすがすがしい時間を過ごしていた。

トランプ大統領の言動や欧州難民問題あるいはイタリアのポピュリスト政権の動きなどは、W杯を観戦するテレビや人の噂話を介してさすがに少しは耳にしていたが、日本限定マターの水田議員発祥のLGBT問題に至っては、サルデーニャ島から帰還して後にようやく知ったくらいである。

インターネットに縛られないすがすがしい時間がもたらす気楽な心情は、気がついてみると世の中の動きを斜めに見る癖を自分の中に育んでいた。もっと直截に言えば「世の中の出来事などどうでもいい」という気分が強くなっていたのだ。

それは諦観に近い危険な心の動きである。「世の中なんてこんなものだ」と、悟りきったような気分に支配された時、人は文字通り心身ともに死に向かって歩みだす。諦観は死にもつながる危険な心理だ。

「諦観≒死」という表現が大げさならば、諦観は老化現象の一つ、と置き換えても良い。だがいずれにしても、老化とは「死に向かう歩み」の湾曲表現に過ぎない。諦観は心の平穏をもたらすプラスの効果も期待できるが、大勢はネガティブなコンセプト考えても良いのではないか。

僕はそのことに気づいて、自らを叱咤激励して怠惰な鈍(にぶ)りきった心情から脱出した、と言えば聞こえがいいが、実は帰宅してインターネットにアクセスし世の中の動きを追い始めたとたんに、怒りや不満や慨嘆が沸き起こってたちまち元の調子を取り戻していた。

それはインターネットの「功罪」のうちの功の一つだ。世の中の動きを楽に満遍なく見渡せる分、気持ちの張りが途切れない。一方、PCにしがみついて中毒患者のようにWEB上で時間を浪費してしまう罪の側面もある。

両者はコインの表裏のように切っても切れない関係である。従ってその事実を素直に受け入れて、中毒にならないように気をつけていくしかないのだろう。

中毒になりそうになったら一度インターネットから離れてみることだ。そうすると再びそこに戻ったときには頭がリフレッシュされて状況がさらによく見えるようになる。

僕は今回のサルデーニャ紀行を通して偶然にそのことを発見した。働きづめの人間には休暇が必要であるように、インターネット漬けの者にも「WEB休暇」が必須なのだと思う。


facebook:masanorinakasone







電子書籍が待ち遠しい



本積みややヨリ600
帰国の度に文庫本と即席ラーメンを大量にイタリアに持ち込む


2、3年前、海外居住者だけに提供されるサービスを利用して、生まれて初めてインターネットで雑誌を買った。文藝春秋と週刊文春。

一つ一つの記事の「魅力のなさ」と、その割には値段がべらぼうに高いのにおどろいた。雑誌の場合には、読者が読みたい1本1本の記事を選んで買える仕組みを作るべき、と強く感じた。

読み物や報道などのWEB上の有料サイトは基本的にそういう仕組みになっている。課金されないサイトも僕が知る限りはそういう形式が多いように思う。

その後帰国した際、いつものように両誌を買って読んだが、「普通に」面白い記事もあると思った。WEB上で購入して読んだとき、あれほど魅力がないと感じたのは、おそらく有料だったからだろう。

僕は今のところは有料の報道や雑誌のサイトを利用していない。利用する必要を感じない。無料で読める多くの優れたサイトで情報を収集している。 WEBの文藝春秋と週刊文春はそれらを凌駕するものではなかった。

それでも高い金を払わされた、という違和感が影響していたのだと思う。また購入した雑誌が「自分の物」になってPCなどに保存できず、読むときはいちいち「保存庫」ともいうべき別のサイトにログインして読むわずらわしさにもあきれた。

購入したモノが自分の手元にない、という現実の心理的な影響はかなり大きいのではないか。買った週刊誌はほとんどの場合は読み終わったあとに捨ててしまう。それでもその気になれば一冊を丸ごと取っておいたり、記事を切り抜くなどして「手元」においておくことができる。

WEB版ではそういうことができない。金を出したのに「自分のモノ」感が皆無なのである。購入後、自分のPCなりの機器に保存していつでも閲覧できれば少しは気分が晴れるかもしれない。

それでも無料サイトがあふれているネットの世界では、文藝春秋と週刊文春またその他の雑誌が大きく値引きをして販売しても、生き残るのは難しいように思う。内容や体裁や製本や文体などなどの総体が、いかにも「古色蒼然」としているのだ。

手にとって読む紙の雑誌の場合には、その「古色蒼然」感がうれしい。ネット上では感覚がまるで違う。ずっと紙の雑誌に親しんできた「オヤジ」の僕でさえそうなのだから、ネット世代の若者たちに受け入れられるには革命的な変化が必要だろう。

僕は電子書籍の全面的な到来を心待ちにしている者のひとりである。電子書籍は今でもネットで買えるが、サイトをのぞいてみると買える本の種類が圧倒的に少ない上に、購入して読むためには新たに端末が必要だとか、うるさくて全く魅力を感じない。

紙の本はなくならないだろうし、またなくなってほしくない。が、海外にいてもあらゆる本がインターネットで買えるようになる日がくれば、日本国内でのメリットも多くあるはずである。それは特に若者に顕著という本(読書)離れに歯止めをかける切り札になる可能性もある。

今ある物足りないサービスではなく、新刊の小説やベストセラー本や新説や見解が満載の新書等々を含む、一切の書籍が電子書籍になってWEB上で手に入る日が待ち遠しい。1年に1~2度帰国する度に大量に本を買い込む、という古くから続いている習慣はまだ捨てられない。

今年2月の帰国の際も、いつものように文庫本を大量に買ってイタリアに戻った。最近はハードカバーや新刊本はよほどのことがない限り買わない。かさ張り、値段が高い、という理由のほかに、僕の読書が文庫本になった多くの本に追いついていない、という現実がある。それは電子書籍になってもおそらく変わらないだろう。読みたい本や読むべき本が無数にある。。。
 
facebook:masanorinakasone



報道に不偏不党はあり得ない



kiritori


マスメディアあるいは報道機関はよく不偏不党の報道姿勢を前面に打ち出す。だが、不偏不党の報道など元よりあり得ない。

報道には必ずそれを行う者のバイアスがかかっている。事実を切り取ること自体が、既に偏りや思い込みの所産だ。

なぜなら事実を切り取るとは、「ある事実を取り上げてほかの事実を捨てる」つまり報道する事案と、しない事案を切り分けること、だからだ。それは偏向以外のなにものでもない。

少し具体的に言おう。例えば日本の大手メディアはアメリカの火山噴火や地震情報はふんだんに報道するが、南米などのそれには熱心ではない。

あるいはパリやロンドンでのテロについてはこれでもか、というほどに豊富に雄弁に語るが、中東やアフリカなどでのテロの情報はおざなりに流す。そんな例はほかにも無数にある。

そこには何が重要で何が重要ではないか、という報道機関の独善と偏向に基づく価値判断がはたらいている。決して不偏不党ではないのだ。

だからこそ報道者は自らを戒めて不偏不党を目指さなければならない。「不偏不党は不可能だから初めからこれをあきらめる」というのは、自らの怠慢を隠ぺいしようとする欺瞞である。

報道機関は不偏不党であろうとする努力を怠ってはならない。「不偏不党は不可能」だからこそ、不偏不党の報道を追求する姿勢を持ちつづけるべきだ。

そして資金や人的資本が豊富な大手メディアのうちの「まともな」報道者は実は、不偏不党を目標に事実に裏付けられた報道をしようと努力している場合がほとんどだ。

一方ブログなどの個人報道ツールを用いる者には、自己以外には人材もなく金もないために、足と労力を使って得た独自情報やニュースは少ない。せいぜい身の回りの出来事が精一杯だ。

そこで彼らは大手メディアが発信する情報を基に記事を書く場合が多くなる。そしてそこには偏向や偏見や思い込みに基づく記述があふれている。それはそれでかまわない。

なぜならブログをはじめとするSNSは、事実や事件の正確な報告よりも「自分の意見を吐露する場」であるべきだから。あるいは事実や事件を「考察する」ツールであるべきだからだ。

そこでの最も重要なことは、報道者が自らの報道はバイアスのかかった偏向報道であり、独断と偏見による「物の見方や意見」であることをしっかりと認識することだ。

自らの偏向独善を意識するとはつまり、他者の持つ違う見解の存在を認めること、である。他者の見解を認めてそれに耳を貸す者は、やがて独善と偏向から抜け出せるようになる。

個人の報道者はそうやって自らの不偏不党を目指すべきである。ブログなど個人の情報発信者が、大手メディアを真似てニュースを発信しようとするのは間違っている。

独自の記事として書いても、また「シェア」という形で他者の記事を紹介しても事情は変わらない。自身の足と金と労力を注ぎ込んで集めた情報ではないからだ。

SNSでの「発信」を目指す者は、あくまでも情報や事実や「報道」等に基づく、書き手の意見や哲学や思考を述べる努力をするべきだ。それでなければ個人で情報を発信する意味はない。

客観的な情報は大手メディア上にあふれている。あふれているばかりではなく、それらは正確で内容も優れている場合が多い。個人の発信者の比ではないのである。



facebook:masanorinaksone






ケガの功名




伝わらない文意

僕が左肩脱臼と打撲の大ケガをしたのは、2007年のことである。

包帯ぐるぐる悲しい切り取り縦150
上半身包帯ぐるぐる”の写真を見た方々からのお見舞いコメントはありがたかった。が、少し戸惑いもした。負傷したのは、今も言ったように、ほぼ11年も前のことだからだ。



普通に文章を読めば障害は過去のことだと分かると思うのだが、書き手の僕のヘタの悲しさで、文意がうまく伝わらなかったようである。

いただいたコメントの中に「携帯なし、山中のなかからどうやって生還したのか気になります」という指摘があって、あ、と自分の思い込みに気づいた。

生還のいきさつはこれまでに何度も書いていて、僕にとってはすでに説明済みのことだったのだ。書き手の思い込みは要するに「文章のヘタ」と同義語である。

例えば2007年8月、僕はケガについて新聞のコラムに次のように書いた。

先日、南アルプスに川釣りに行って、左肩脱きゅうと打撲で全治一ヶ月余の大けがをした。

僕は釣りが好きである。かつては海釣り一辺倒だったが、海まで遠いイタリアの内陸部に居を構えてからは、近場の湖や川での釣りも覚えた。

今回は森林監視官で秘密の釣り場を多く知っているイタリア人の友人と2人で出かけた。クマも出没する2千メートル近い山中である。

険しく、緑深い絶景が連なる清流を上るうちに、なんでもない岩に足を取られて転倒した。肩に激痛が走って僕は一瞬気を失い、身動きができなくなった。救急ヘリを呼ぼうにも携帯電話は圏外で不通。たとえ飛んできても救助は無理と思われる深い谷底である。

友人に担がれるようにして沢の斜面をあえぎあえぎ登り、獣道のような隘路に出た。そこで彼が車を取りに行き、僕は悪化する肩の痛みとクマの恐怖におののきながら道脇に2時間近くうずくまっていた。

以来1ヶ月、僕は上半身をぐるぐると包帯で固められて、書斎兼仕事場にこもりきりである。

書斎兼仕事場は自家の葡萄園に面していて、今年は8月6日に始まったヴェンデミア(葡萄の一斉収穫)の様子をそこの窓から眺めた。本来は9月末のイベントであるヴェンデミアは、温暖化のせいで近年は異常に早くなった。地球は確実に何かに侵されている。

同様に、なんでもない岩に足を取られて転倒した僕の体も、もしかすると温暖化ならぬ「老残化」現象に侵され始めたのではないか、と窮屈で
「熱い」上半身を恨みながら少し憂うつになったりもする日々である。




火事場の≪肉体の≫馬鹿力

転倒後、沢の斜面を登って獣道にたどり着けたのは、今にして思えば奇跡的な出来事だった。屈強で且つ山に詳しい友人のマリオがいなければ、とても達成できなかっただろう。

斜面は急峻で、木々や草やその残骸、また土の盛り上がりや石塊や岩盤などの障害物で埋めつくされている。

友人のマリオは僕の体を時には支え、時には右腕だけでしがみつく相手を引き上げたりしながら、それらの妨害を掻き分けてひたすら上方を目指した。

僕は「火事場の馬鹿力」で彼によく並びまた追いて行った。必死のサバイバル行が呼び覚ました僕の中のエネルギーは、まさに「火事場の馬鹿力」だったのだと思う。

左肩の激痛と疲労に翻弄されながら、僕の決して強いとは言えない身体は、友人のマリオの勇猛で果敢な動きによく応えたのである。


火事場の≪精神の≫馬鹿力

実はその時の僕の中には、いわば精神の「火事場の馬鹿力」も沸き起こっていた。左肩とその周辺の痛みは、「耐え難い」という表現が侮辱に思えるほどの巨大な苦難だった。

僕は生還を目指して懸命に動きながら、胸中で(もう気絶するだろう)と繰り返し自らにつぶやいていた。同時にそこには、我慢の限界を超えた苦辛そのものを「客観的に見よう」、と努力している自分もまたいたのである。

言葉を変えれば僕は、覚めた意識で「痛みそのものを凝視しよう」と心魂を集中させていた。するとそこには開き直りに似た強さが生まれた。消極的な諦めの感情ではなく、飽くまでも痛みに向かって神経を集中させることからくる、いわば「攻めの強さ」だ。

激痛を感じつつ僕はその激痛を受け入れることで、あたかも痛みを感じない時の平穏な心の状態になっていた。

それは決して「痛みを感じない」とか「痛みに打ち勝った」とかいうことではなかった。いうなれば激痛は感じながら激痛に平然と対峙している、というような状況だったのである。

自分の中に秘められていた、その思いがけない「強さのようなもの」は僕をとても勇気付けた。

僕は臆病な人間であり、痛みに叫び声をあげる人間であり、それどころか痛みを怖れて逃げることさえ辞さない類の男だ、とずっと信じてきた。

それだけに自分の中にある 、いわば「肝っ玉」にも似た気力の存在は大きなおどろきであり、喜びだった。

科学的解説

「火事場の馬鹿力」とは科学的に説明すれば、緊急時に体内に満ちるアドレナリンによって運動能力が高まることである。それに伴って脳内に神経伝達物質の β-エンドルフィンが分泌され、痛みを感じることが少なくなると考えられている。

従って僕の心の動きはそうした身体の自然作用によって起こっていた、と結論付けることができるかもしれない。だが僕は意識を集中して「痛みを凝視しよう」と自分を鼓舞し、自身に確かに繰り返しそう語りかけてもいた。

その結果は、決して痛みが無くなったということではなく、いわば「僕の意識がその痛みと共生している」というふうだったである。痛みはあるが痛みに寄り添いつつそれに対抗してもいる自分が確実にいたのだ。

もっと言えば、アドレナリンや β-エンドルフィンは、僕の体内で勝手に分泌されたのではなく、僕が意識して痛みに立ち向かうことによって活性化された、とでもいうような感じがしてならない。

曖昧な記憶あるいは回想

急斜面をあえぎ登っていくときに僕の身体に満ちていた「「火事場の馬鹿力」 は前述の通りだが、実は僕の《精神の「火事場の馬鹿力」 》がどのあたりで生まれたのかは定かではない。

高く険しい斜面を上りきった後、僕は隘路脇の草に囲まれて2時間ほどうずくまっていた。その間じゅう僕は、やはり前述したように激痛を凝視し続けていたのだ。

マリオが車を回してきて、そこからさらに3時間近くかけて麓の救急病院に着いた。車の中でも、また病院で治療開始を待つ間も、僕は相変わらず精神を集中して痛みと対峙していた。

一連の心の動きは、斜面を登っている間に始まったのだと思うのだが、僕には正確な時間の記憶がない。それはおそらく崖を登りきるまでにどれくらいの時間がかかったか覚えていないことと関係がある。

僕の時間の記憶は、崖を登りきって隘路脇にうずくまるあたりから鮮明になるのである。痛み以外は全てが少し落ち着いて、僕は腕時計を見る気持ちのゆとりを取り戻したのだった。

エピローグ

あとになって斜面の登りにかかった時間を友人のマリオに訪ねると、彼も必死に動いていたのでよく覚えていない、としながらも「1時間程度ではないか」語ってくれた。おそらく妥当な長さだろう。

そうすると事故発生から治療開始までは、少なくとも6時間が経過していたことになる。あらゆる負傷がそうなのだろうが、脱臼は特に、すばやく治療をすることが完治への鍵だとされる。

事故発生から6時間という時間が影響したのかどうか、僕の負傷は癒えた後もリハビリに半年以上を要し、しかも肩は完全には元に戻らなかった。ほぼ11年が経過した今も痛みや違和感を覚えつつ過ごしている。

いずれにしても僕はそのケガのおかげで、自分の中にあるひそかな胆力(のようなもの)を発見し、釣り一辺倒だった自分の興味が大地の営みにも向かうという僥倖にもよくした。

左肩脱臼は僕にとって、字義通りの「けがの功名」だったのである。


復活祭のいつものあやしい楽しみ  

razoneヤギ群れ



毎年日付けが変わる移動祝日の復活祭。ことしは4月1日(明日)である。その前後の一週間ほどは学校を中心に春休みになる。

統計によると、ことしは1000万人以上のイタリア人が復活祭期の休みに旅行に出、それによって36億ユーロ(約4700億円)程度の消費が見込まれる。約90%はイタリア国内で過ごし、10%程度が外国旅行に向かう。

そうした数字だけを見れば、平和そのもののようなイタリアの復活祭だが、実はイタリア警察は、ここ1週間だけでもイスラム過激派関連の容疑で10人近くを拘束している。このうち5人は2016年、ベルリンのトラックテロで12人を殺害したアニス・アムリの仲間と見られている。

復活祭前後の春休みの間、カトリックの総本山・バチカンを始めイタリア中の観光地には訪問者があふれる。そこを狙ったイスラム過激派のテロが懸念されているのである。

先頃、マフィアが「イタリアでのテロを防いでいる」というヨタ話が日本で流布したと聞いた。しかし、マフィアはテロを防ぐのではなく、逆にそれを鼓舞するのだ。ヨタ話には気をつけたほうがいい。

テロリストと提携して社会不安を喚起したいのがマフィアだ。イタリア警察はこれまでのところ、テロリストをうまく抑え込んでいる。2017年だけでも132名の要注意人物を国外退去にし、ことしもこれまでに既に29名を同じ処置にしている。

英語のイースター、イタリア語でパスクアと呼ばれる復活祭は、イエス・キリストが死後3日後に甦った奇蹟を祝うキリスト教最大の祭りである。

非キリスト教徒の目には、イエス・キリストの誕生日をことほぐクリスマスが最大の祝祭に見える。が、復活祭こそキリスト教の最重要なイベントだ。

誕生はあなたにも僕にも誰にでも訪れる奇跡だが、「死からの復活」という大奇蹟は神の子であるイエス・キリストにしか起こり得ない。どちらが重要な祭事かは火を見るよりも明らかである。

食の国ここイタリアでは、復活祭にはクリスマス同様に多くの美味い食べ物が出現する。中でも卵そのものを使った料理や卵型チョコレートなど、卵関連の食品がよく食べられる。

卵はみずみずしい生命のシンボル。ヒナが堅い殻を破って生まれることを「キリストの死からの復活」になぞらえている。同時に全ての新しい命の芽生えをもたらす、春を祝う意味合いもある。

復活祭最大の「食のイベント」は、復活祭当日の各家庭での昼の大食事会。そこでは伝統的に子羊の肉料理がメインコースとして提供される。レストランなどで食べても同じである。

全ての人の罪を背負って、十字架で磔(はりつけ)にされたイエス・キリストは、「神の子羊」とも呼ばれる。子羊が生贄として神に捧げられたユダヤ教由来のコンセプトである。

復活祭に子羊の肉を食べるのは、人類のために死んだイエス・キリストを偲び、称える儀式の意味がある。子羊料理はやがて子ヤギ料理へと広がり、地域によっては後者がより多くなった。

僕はイタリアでは1年に1度、復活祭の日に子ヤギの肉を食べる習わし。それが祭の大きな楽しみでもある。子羊でもかまわないが、北イタリアの僕の住む地域では、子ヤギのほうがよく食べられる。

その習いが高じて、僕は地中海域を旅するときは、各地の子ヤギまた子羊料理を食べ歩くようになった。地中海域やバルカン半島の国々では、子羊や子ヤギがよく食べられ味もすばらしい。

いたいけな子ヤギ(子羊)を食するのは野蛮である。僕が復活祭の時期に必ず子ヤギ(子羊)料理に言及したくなるのは、その罪悪感故、という側面もないことはない。

ところが僕は自分の思いを「偽善」とみなす、もう一つの「思い」もまた胸中にかかえている。それらをできるだけ客観的に眺めてみると、どちらも正しくどちらも舌足らず、という風な結論になる。

つまり

豚や牛に始まるあらゆる動物の子供や成獣の肉を食らうのも野蛮である。それどころか野菜や果物を食するのも野蛮だ。動物も植物も同じ「生命(生物)」だからだ。

動物と植物は違う生命だ、と言う者がいたら、それは思い上がりである。われわれ人間には「今のところ」、動物と植物の《生命の違い》を正確に見極める術はない。

分かっているのは「動いて、食べるもの」が動物であり、「動かず、食べず、光合成を行う」ものが植物、ということぐらいだ。2つの「生命」については何も知らないと同じなのである。

植物が、特に野菜が、われわれに食べられるために殺されるとき、痛みを感じるかどうかをわれわれは判断できない。血も流れず悲鳴も発せられないが、植物は別の方法で苦痛を訴えているのかも知れない。

人間は人間以外の「生命を殺して食べる」生命である。それ以外には生存の方策がない。従って実はそれは野蛮でもなく、罪悪でもない。人間が「生きるとは殺すこと」なのである。肉食者も菜食主義者も変わりがない。

そうすると、生きるとは殺すこと、という自然の摂理を認めないことが野蛮であり罪悪である、という結論になるのかもしれない。

なぜならその摂理を認めない者、あるいは真理に気づかない者は、自らを棚に上げて他者の食習慣をなじる所業に陥ったりもするからである。例えば菜食主義者が肉食者を一方的に指弾するような。。。


老後の移住先?あるいは終の棲家?



伊良部海岸800pic


イタリアから帰国し、故郷の沖縄を訪ねて、そこかしこの島をうろついている。帰省するときのいつものパターンである。

若い頃の僕の夢は、50歳くらいで仕事をやめて冬の間は沖縄の離島で暮らし、残りの季節はイタリアで過ごす生活に入る、ことだった。

当時は人の50歳は、棺桶に片足を突っ込んでいるほどの年齢、に思えたものだ。が、50歳どころか、還暦さえも過ぎた今の自分はまだ元気だ。その代わりに冬の間を島で遊んで暮らす時間も気持ちの余裕もないが。

もっとも夢は捨てていない。理想は11月頃から3月あたりまで島でのんびり過ごすこと。それはまだとてもできないが、1月~2月の2、3週間を沖縄で過ごすことは以前も、また今でも結構やっている。

イタリアには、冬の間をスペインのカナリア諸島やカリブ海の島々で暮らす友人知己が多くいる。チュニジアやエジプトなど、北アフリカのリゾート地も人気だったが、テロ組織のイスラム国などの横行で近年はすっかり嫌われてしまった。

彼らの多くは実業家や弁護士や医者などである。裕福な人々だ。だがそれほどではなくとも、やり繰りや貯蓄で頑張って冬の逃避行を実現させる者も多い。僕もいつか彼らに倣(なら)って冬を常夏の沖縄で過ごしたいと思っている。

もっとも最近は沖縄にはこだわらず、冬の間は「冬のない世界」を移動して暮らすのも悪くない、と考え始めている。実現できるかどうかは全く別の話だけれども。

自分の思惑や願いはさておいてよく思うことがある。僕の生まれ故郷を含む僻地の島々の行く末である。島々は多くが過疎化に悩まされている。そして過疎化に立ち向かう方策が、ほとんど全てのケースで観光産業の育成である。それは恐らく正しい。

農業以外にこれといった産業のない島では、観光事業への期待は大きい。島々の役場はなんとかして多くの観光客を呼び込みたいとあれこれやっている。

この「多くの観光客」を呼び込みたい、という考えは誰もが抱くものだが僕はそこに少しの違和感を覚える。辺鄙の小島にはふさわしくないコンセプトに見えるのだ。

それというのも多くの観光客は、島に恵みをもたらすこともあるが、島を破壊することもある。特に小さな陸地の場合は顕著だ。それは両刃の剣なのだ。

そのことを考慮せずに、何でもいいからとにかく観光客を誘致しよう、と動くのは無責任のそしりをまぬかれないのではないか。

そうは言うものの、観光を振興させたいのなら、もちろん観光客の数は大事だ。多くの観光客を迎えたい気持ちは分かる。

だが僕は、観光客の数を極力おさえて、収入を上げる方策も模索するべきだと考えるのだ。薄利多売ではなく、いわば「厚利薄売」あるいは希少価値商売である。

観光客をできるだけ多く呼び込んで発展を目指すには島々はあまりにも遠く、あまりにも小さく、あまりにもインフラや歓楽・文化施設などが貧しい。人心も観光産業に慣れていない。薄利多売はおそらく無理だ。

ならば厚利薄売はできないか、と考えてみるとこれも難しい。だが、薄利多売よりは可能性は高いと考える。キーワードは希少価値である。あるいは想像を絶する遠隔性である。逆転の発想で、例えば高齢の富裕層などを呼び込むことはできないか、と思うのである。

それも冬季の彼らの長期滞在先として。なぜなら島には冬がないからである。その現実を活かして、冬場に長期滞在をする観光客を増やす知恵を絞れば、あるいは道が開けるかもしれない。

長期滞在をする観光客はもはや観光客ではない。半ばは島の住人である。島人は彼らをそのつもりで受け入れなければならない。もっと言えば、冬以外の季節も島の住人になってもらうつもりで歓迎するのである。

今後、日本人の「生活の質」が欧米並みに豊かになって、長い休暇や季節ごとの移住生活が可能になれば、辺鄙な島も海の美しさと暖冬という2大利点を活かして発展できる可能性がある。

発展とまではいかなくても、過疎化によって島の住民の生存そのものがおびやかされ、ついには無人の島になってしまう危険を避けることができるかもしれない、と考える。

またさらに言えば、僕のように辺鄙の人心や民俗や風儀や海や暖かさが好きな人々を探し出し、訴えかけ、誘致し、歓迎することである。

この際だから敢えて付け加えれば、それらの人々は大金持ちではなくとも、ある程度生活に余裕のある富裕層やそれに近い人々であるのが理想だ。なぜなら彼らは長期滞在をする可能性が高いから。。。

大人のオモチャ



800耕運機バック


僕の菜園は30坪に足りないほどの広さに過ぎないが、手作業での土掘りの辛さに負けて、2年前に耕運機を導入した。

僕が知る限り、ここイタリア製の耕運機の中では最小型のマシンである。

サイズ的には管理機あるいはテーラーなどと呼ぶべきかもしれない。

だが、ロータリー刃が回転してひたすら土を耕すだけの機械だから、やはり耕運機というのが正しいように思う。

菜園はもとは花壇だった場所。細長い土地が□状につながった形なので、もっと小さな耕運機が便利かと思ったのだけれど、実は逆である。

端から端へ何度も往復しなければならず、大仕事だ。次回は少し大きめのものを購入して、一度に鋤く面積を増やして楽をするつもり。

野菜作りも面白いが耕運機での作業も愉快だ。

僕の機械はチビなのにずしりと重く、黙っていてもぐいぐいと深く潜って土を掘り起こし、撹拌していく姿が頼もしい。

作業機でもあり、僕のオモチャでもあるのが耕運機である。

一般に欧州の機械や道具は便利で武骨、というのが多い。僕のこの小さな機器も同じ。

ところが農作業用の道具なのに、イタリアらしく少しシャレた感じもあって、ヘンなところがますます気に入っている。

この冬最後の土起こしは昨年12月9日だった。

この先、2月終わり~3月初め頃に堆肥を撒き(敷き詰め)、再び耕運機で耕し土に埋め込む。その後種まき、苗植えという手順。

友人らから聞いて適当にやっているので、専門家から見るとおかしいところもあるかもしれないが、この方法で結構うまく野菜を育てている。


年を取るごとに時間経過が早く感じられるのはデジャヴ(既視)感のせいである



2012年12月600



さて、また大晦日である。時間経過のあまりの速さに心中おだやかではないものが出没するのは年齢のせい、ときめつけるのはたやすい。それに続く言葉は「残された時間の短さや大切さを思って~」という類の陳腐なフレーズである。

若くはない自らの年齢を時々思ってみるのは事実だが、そして残された時間をそのときに「敢えて」想像したりしないでもないが、実感は正直ない。再び「敢えて」先は長くないのだから毎日しっかり生きよう、と自身を鼓舞してみたりもするが、そんな誓いはまたたく間に忘れてしまうのだから無意味である。

年を取るごとに時間経過が早く感じられるのは、「人の時間の心理的長さは年齢に反比例する」というジャネーの法則によって説明されるが、それは要するに、人は年齢を重ねるに連れて見るもの聞くものが増え、さらにデジャヴ(既視)感も積層して興味が薄くなる、ということなのだろうと思う。

どこかで既に実体験していたり経験したと感じることなので、人はそこで立ち止まって事案をしみじみと見、聞き、感じ、吟味して、勉強することが少ない。立ち止まらない分、人は先を急ぐことになり時間が飛ぶように過ぎて行くのである。

そこには大人の驕りがある。年齢を重ねて知っていることも事実多いのだろうが、無駄に時間を費やし馬齢を重ねただけで、実は何も知らない知ったかぶりの大人は自分自身も含めて多い。それでも知ったつもりで、人は先へ先へと足早に進むのである。死に向かって。

すると理論的には、知ったかぶりをしないであらゆるものに興味を持ち続ければ、人の時間はもっとゆっくりと過ぎて行くと考えられる。だが僕の感じでは、少し違う。

知らないことがあまりにも多すぎて、その過大な未知のもろもろを学び、知り、体験するには、一日一日が短かすぎる。短かすぎる時間の経過(毎日)の積み重ねが、すなわち「時間の無さ感」を呼び起こすように思う。

つまり、時間が疾風よりも光陰よりもさらに速く過ぎていくのは、「一生は短い」という当たり前の現実があるからである。その短い一生を愚痴や、怨みや、憎しみで満たして過ごすのはもったいない。人生にはそんな無駄なことに費やす時間などないのだ。

と、何度も何度も繰り返し自らを戒めるものの、人間ができていない悲しさで日々愚痴を言い、怨み、憎む気持ちが起こる。その度にまた自戒する。

結局、人の人生の理想とは、多くの事柄がそうであるように、愚痴らず、怨まず、憎まない境地を目指して、『試行錯誤を重ねていく過程そのものにある』と思うのである。

閑話休題
間もなく紅白歌合戦が始まる。イタリア時間では午前11時15分。それを見ると熱燗で一杯やりたくなって、一杯がどんどん重なって結局一日が終わってしまう。

そこで夜の再放送を見ることにして、ことしも多かった「書きそびれた事ども」を整理することにした。年内に物事を片付けて新年をあらためたくなるのは、日本人の癖である。

何年外国に住まおうと変わらない・・



2017クリスマス雑感



クリスマス飾りup


2017年のクリスマスは忘れがたいものになった。生まれて初めて入院を伴う手術を受け、クリスマスを体調不良のうちに過ごした。

手術は外傷を伴わないものだが、器官の内部を切除するので出血し痛みをもたらす。やはり体への負担は避けられないのである。

麻酔から覚めて痛みを感じ出血を見定め、しばらくしてベッドから立ち上がった時、やはり生まれて初めて「老い」を意識した。

それは異様な感覚ではあったが、不快ではなく、「あ、なるほど・・」と納得して、今後多くなっていくのであろうそうした「感じ」とうまく付き合ってやるぞ、と思った。

進行してさらに症状が重なれば楽観してはいられないだろうが、今はむしろ老いの兆候を楽しみ期待する気持ちさえある。それはきっとまだ「老い」ではない、ということなのかもしれないが。

「いつまでも死なない老人」、と「老人の」義母が喝破した、嫌われ者の老人が巷にあふれている。実は僕の身内に3人、友人知己の身内にも多い。

「いつまでも死なない老人」とは、身も蓋(ふた)もない言い方をしてもしなくても、要するに《もう生きていてほしくない》と周囲が思っている老人のことである。

年齢的には、義母の言葉が生まれた状況や、有名方言大王『タローア・ソー』氏の“名言”の内容などから推して、「90歳を超えたあたり」というふうに考えれば分かりやすいかもしれない。

90歳を超えてもカクシャクとして、前向きで愚痴を言わず、生きることを楽しんでいる老人なら、200歳まで生きていても誰も「いつまでも死なない老人」などと陰口をたたくことはないだろう。

あるいはカクシャクとしてはいなくとも、足るを知り、高齢まで生きて在ることのありがたみを知って、その良さを周囲に分け与えてくれる老人なら誰もが、「いつまでも死なないでほしい」と願うだろう。

足るを知らないネガティブな存在の老人を、ありのままに受け止めて
「自らのためになす」方法を、僕はやはりことしのクリスマスのあたりで発見した。つまり、彼らを「反面教師」としてしっかり利用しようということだ。

付け加えておけば、「いつまでも死なない老人」の名言を吐いた義母は、その直後から急速に壊れて、今は彼女自身が「いつまでも死なない老人」の一人になってしまった。これは予想外の展開だった。

中国、北朝鮮、およびロシアなどへの僕の敵対意識に近い違和感は急速に薄れて、親近感とは言わないまでも、それらの国々の在り方を一方的に否定することが少なくなった。

トランプ米大統領の存在が原因である。つまり僕が尊敬し愛し肯定し続けてきたアメリカを破壊し、矮小化したトランプという男への嫌悪感の分だけ、僕の中では前述の3国への抵抗感が減少した。

同時に、安倍首相や周囲のネトウヨ・ヘイト・排外主義者らが、トランプ大統領やその(影の)側近のスティーブン・バノン氏などの「白人至上主義者」を称揚し、追随する異様な事態に寒気を覚えるのも今日この頃である。

それらのネトウヨ・ヘイト・排外主義者らは、自らも白人になったつもりなのか「白人至上主義」に凝り固まったアメリカの同種の人々と手を取り合って、日本人と同じ黄色人種の中国人や韓国・北朝鮮人を見下し嘲笑する。その有様は異様を通り越して滑稽だ。

それらの人々は、彼らが「トモダチ」と錯覚している白人種のネトウヨ・ヘイト・排外主義者らが、自分自身やまた同種の日本人を陰で「黄色いサル」などと呼んで蔑んでいる現実に、そろそろ気づくべきだ。彼らは白人種以外を真には認めないから「白人至上主義者」なのである。


記事検索
プロフィール

なかそね則

タグクラウド
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ