島の、こと

独立自尊こそ島の心意気



サルデーニャ島に関する8本目の論考。この稿をもってサルデーニャ島の話は“いったん”終わりにする。むろん、将来なにかがあればまた書く計画。そして将来なにもないわけがない、というのが僕の正直な気持ちだ。それだけ面白いのである。サルデーニャ島は。


目隠し絵風になびく600


イタリア・サルデーニャ島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

元長距離トラック運転手だったメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・ディ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴される。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされた。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかったのである。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ
(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら「喜んでサルデーニャをフランスに譲り渡す」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという4輪車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党(Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党(Unione Democratica Sarda)」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党が躍進した。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も多くの島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたぐらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州(※註1)は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家だ。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思うのである。

(※註1)シチリア、サルデーニャ、ヴァッレ・ダオスタ、トレンティーノ=アル ト・アディジェ、フリウリ=ヴェネイア・ジュリアの各州。イタリアには州が20あ り、そのうち15州が通常州、5州 が特別自治州である。特別自治州は通常州よりも大きな地方自治権を有している。



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スイスの海で泳いでみたい



スイス旗+サルデーニャ旗並び合成600



イタリアのサルデーニャ島は古代からイタリア本土とは異なる歴史を歩んできた。それゆえにサルデーニャ島人は独自のアイデンティティー観を持っていて、自立・独立志向が強い、ということも何度か言及した。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアでは半島の各地が都市国家や公国や海洋国家や教皇国などに分かれて勝手に存在を主張していた。

そこでは1861年の統一国家誕生後も、独立自尊のメンタリティーが消えることはなく、それぞれの土地が自立あるいは独立を模索する傾向がある。あるいはその傾向に向かう意志を秘めて存在している。

サルデーニャ島(州)ももちろんそうした「潜在独立国家」群の一つ。だが同島の場合、島だけで独立していたことはない。イタリア共和国に組み込まれる以前はアラブやスペインの支配を受け、イタリア半島の強国の一つピエモンテのサヴォイア公国にも統治された。

現在はイタリア共和国の同じ一員でありながら、サルデーニャ島民が他州の人々、特にイタリア本土の住民とは出自が違いルーツが違う、と強く感じているのは島がたどってきた独自の歴史ゆえである。
抑圧され続けた歴史への怨恨と島人としての誇りから、サルデーニャ島の人々は、独立志向が強いイタリア半島の各地方の中でも特に、イタリア共和国からの独立を企てる傾向が強いと見られている。

1970年代には38%のサルデーニャ島民が独立賛成の意思を示していた。また2012年のカリアリ大学とエジンバラ大学合同の世論調査では、41%もの島民が独立賛成と答えた。

その内訳は「イタリアからは独立するものの欧州連合(EU)には留まる」が31%。「イタリアから独立しEUからも離脱する」が10%だった。

今日現在のサルデーニャ島には深刻な独立運動は存在しない。しかしそれらの統計からも推測できるように、島には政党等の指導による独立運動が盛んな時期もあった。そして島の独立を主張する政党は今でも10以上を数えるのである。

それらの政党にかつての勢いはなく、2019年現在のサルデーニャ州の独立運動は、個人的な活動とも呼べる小規模な動きに留まっているのがほとんどだ。

その中にはイタリアから独立し、且つEU(欧州連合)からも抜け出してスイスへの編入・統合を目指そう、と主張するユニークなグループもある。なぜスイスなのか、と考えてみると次のような理由が挙げられそうだ。

独立を目指すサルデーニャ島民の間には、先ずイタリア本土への反感があり、そのサルデーニャ島民を含むイタリア共和国の全体には欧州連合(EU)への不信感がある。最近イタリアに反EUのポピュリスト政権が誕生したのもそれが理由の一つだ。

イタリア本土とEUを嫌うサルデーニャ島が、欧州内でどこかの国と手を結ぶとするなら、非EU加盟国のスイスとノルウェーしかない。バルカン半島の幾つかの国もあるが、それらは元共産主義圏の貧しい国々。一緒になってもサルデーニ島にメリットはない。

さて、スイスとノルウェーのどちらがサルデーニャにとって得かと考えると、これはもう断然スイスである。金持ちで、EU圏外で、しかも永世中立国。さらに国内にはティチーノ州というイタリア語圏の地域さえある。このことの心理的影響も少なくないと思う。

ノルウェーもリッチな国だが豊かさの大半は石油資源によるもの。石油はいつかなくなるから将来性に不安がある。また人口も約500万人とスイスの約800万人より少ない。従って後者の方が経済的にも受け入れの可能性が高い、など、など、の理由があると考えられる。

仮に島が分離・独立を果たしたとする。その場合にはスイスは、あるいは喜んでサルデーニャを受け入れるかもしれない。なにしろ自国の半分以上の面積を有する欧州の島が、一気にスイスの国土に加わるのだから悪くない話だ。

しかも島の人口はスイスの5分の一以下。サルデーニャの一人当たりの国民所得はスイスよりもはるかに少ないが、豊かなスイス国民は新たに加わる領土と引き換えに、島民に富を分配することを厭わないかもしれない。

スイス政府はこれまでのところ、サルデーニャ島からのラブコールをイタリアの内政問題だとして沈黙を押し通している。それは隣国に対する礼儀だが、敢えてノーと言わずに沈黙を貫き通していること自体が、イエスの意思表示のように見えないこともない、と僕は思う。

ただスイスと一緒になるためには、島は先ずイタリアからの分離あるいは独立を果たさなければならない。イタリア共和国憲法は国内各州の分離・独立を認めていないからだ。分離・独立を目指すならサルデーニャ島は憲法を否定し、従ってイタリア共和国も否定して、武力闘争を含む政治戦争を勝ち抜く必要がある。これは至難の業だ。

分離・独立の主張は、イタリア本土から不当な扱いを受けてきたと感じている島人たちの、不満や恨みが発露されたものだ。イタリア本土の豊かな地域、特に北部イタリアなどに比較すると島は決して裕福とは言えない、

経済的な不満も相まって、島民がこの際イタリアを見限って、同時に、欧州連合内の末端の地域の経済的困窮に冷淡、と批判されるEUそのものさえも捨てて、EU圏外のスイス連邦と手を組もうというのは面白い考えだと思う。

ただし誤解のないように付け加えておきたい。スイスへの編入・統合を主張しているのは今のところ、サルデーニャ島の島民の一方的な声である。片思いなのだ。しかも声高に言い張るのは、これまた今のところはサルデーニャ島民のうちの極く小さなグループに過ぎない。

面白いアイデアながらグループの主張には僕はは違和感も覚える。つまり彼らが独立を求めるようでいながら、最終的には独立ではなく、イタリア本土とは別のスイスという「新たな従属先」を求めているだけの、事大主義的主張をしている点だ。どうせなら彼らは独立自尊の純粋な「独立」を追求するべきだ。

僕はサルデーニャ島の独立にも、そこに似た日本の沖縄の独立にも真っ向から反対の立場だが、「独立を志向する精神」には大賛成だ。島に限らず、国に限らず、人に限らず、あらゆる存在は「独立自尊」の気概を持つべき、というのが僕の立場だ。そしてそういう考えが出てくるほどの多様性にあふれた世界こそが、理想的な「あるべき姿」だと考える。

「イタリアを捨ててスイスに合流する」というサルデーニャ島民の荒唐無稽に見える言い分は、それをまさに荒唐無稽ととらえる欧州や世界の人々の笑いと拍手と喝采を集めた。しかしながら僕の目にはそれは、どうしても荒唐無稽とばかりは言えないアイデアにも映るのだ。

暴力と憎しみと悲哀のみを生みかねない政治闘争の可能性はさておき、海のないスイス連邦に美しいティレニア海と温暖で緑豊かなサルデーニャ島が国土として加わる、というファンタジーは僕の心を躍らせる。スイス連邦サルデーニャ州のビーチで食べるアイスクリームは、あるいはイタリアのサルデーニャ島で食べるそれとは違う味がするかもしれないではないか。




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アートに救われた人殺しの村



加筆再録

前景老人&奥の3階家壁600
 


イタリア、サルデーニャ島に集落中の建物が壁画で覆われた村があります。深い山中にあるオルゴーソロ(Orgosolo)です。人口約4500人のその村は、かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語です。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村でした。イタリア本土の発展から取り残された島嶼州サルデーニャの、さらに奥の陸の孤島に位置していたからです。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知りませんでした。貧しさの中に溺れ、あがき続けていたのです。

そのためにある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めました。また残りの村人たちは、隣人であるそれらの実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていきました。

犯罪に基盤を置く村の経済状況が良くなることはありませんでした。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行しました。かつてのオルゴーソロの現実は、イタリア本土の発展に乗り遅れたサルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものでもあります。

イタリア半島の統一に伴ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も少づつ姿を消していきました。

第2次大戦後初の経済危機がイタリアを襲った際、国が村の土地を接収しようとしました。それをきっかけに村人の反骨精神が燃え上がります。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めました。山賊や殺人犯や誘拐犯らはイタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのです。

アナキストなどが先導する反骨アーチスト集団は、村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗しました。1960年代終わりのことです。

だが実は、オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの最大の担い手ではありますが、それの先駆者ではありません。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのが始まりでした。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになりました。特に内陸部の僻地などにに多いのが特徴です。そこは昔から貧しく。今日も決して豊かとは言えない村や町が大半を占めています。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けました。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになっています。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結です。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、既述のように貧困から逃れようとして犯罪に走りました。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残りました。そして「反骨の血」を持つ者らが中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いたのがオルゴーソロの壁画アートなのです。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきました。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものですが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なります。

まず地理的に考えれば、サルデーニャ島はイタリア本土とかけ離れたところにあります。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっています。

一見なんでもないことのように見えますが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たしました。イタリア半島から見て西方、あるいは「アフリカ側にある」と考えられた島は軽視されたのです。

錯覚に近い人々の思い込みは、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る進入・支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていきました。

島の支配者はアラブからスペインに変り、次にオーストリアが名乗りを上げて最終的にイタリア共和国になりました。以後サルデーニャ島は、イタリアへの同化と同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けています。

島が政治・経済・文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命です。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることです。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむりますが、同時に経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受けます。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命です。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定されます。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々の住民と比べると、「本土との精神的距離が遠いと感じている」ように筆者には見えます。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの「怒れるアート壁画」ではないか、と筆者は以前から考えていました。だから島に着くとほぼ同時に筆者はそれを見に行かずにはいられませんでした。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが、家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、筆者は自らの思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのでした。


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臭豆腐よりも台湾が好き



マスク姿で臭豆腐を煮る人ヒキ600



2019年初頭、4泊4日(最終日はAM3時起床6時半出発)の台湾旅行は、臭豆腐に始まり臭豆腐に終わった、と形容したくなるほどクサイ食べ物である臭豆腐に翻弄された。

特に食を中心に楽しむはずだった旅が不首尾に終わったことは心苦しい。台湾の人々に申し訳ない思いでいっぱいなのだ。その理由はただひとえに島の皆さんがいい人ばかりだったからだ。

圧倒的な腐臭を放つ臭豆腐は、台北の街路に漂う「普通の」中華風香辛料のニオイや、そこかしこから洩れ来る下水のほのかな臭気さえも巻き込んで拡大誇張するようだった。

そうやって台湾の、つまり台北の街に対する僕の印象は悪い方向へと誘導されてしまい、まるでそれらのにおいも臭豆腐と同じレベルの耐え難い悪臭であるかのように感じてしまった。

さらに悪いことにそれらのネガティブな「におい」の数々は、衛生的に既に少し問題があるように見える通りの店々の不潔感を余計に高めてしまい、現地料理への食欲を殺ぎ続けた。

そのためわざわざ台湾まで行きながら、しかも時間が貴重な短い旅にもかかわらず、あえて日本食の店で食事をする、という不本意な時間も多く過ごすことになった。

しかし、それで納得したわけではなく、僕は同伴している妻もうながして、現地食を食べる努力も懸命にしたことはしたのである。

それはあまり功を奏したとは言えない。それというのも妻が僕にも増して街の通りや飲食店の不衛生な環境に恐れをなしてしまい、頑として現地食を拒んだからである。

新しい食べ物に閉鎖的な田舎者の僕とは正反対に、都会育ちの妻は食べ物にきわめてオープンな性質の女性である。

食べ物にオープンとはつまるところ、食べ物のにおいにも大らか、ということだ。ところが彼女は臭豆腐のにおいを受け付けず、それにまとわりつく感じで漂う台北の「空気臭」にも眉根を寄せ続けた。

最初に僕らが知った臭豆腐のにおいが、彼女が受け入れやすい「食べ物のにおい」としてではなく、いわば「街の雑踏のにおい」として飛び込んできたのが間違いの元だったのかもしれない。

ともあれ、友好的で、素晴らしく感じの良い台湾人の皆さんの名誉のためにも、僕は台湾料理を食べる努力を確かにしたのだ、と堂々と主張したい。

そのことを示す意味合いで、趣旨をきっちりと伝達できるかどうか定かではないが、食事にまつわる旅の内容を下記に時系列に正確に並べてみることにする。

台湾旅行:2019年1月3日~1月7日

1日目(1月3日):

昼前に台北の桃園国際空港着。地下鉄で台北駅へ。そこの地下街で恐怖・驚愕の臭豆腐、「腐臭」初体験をする。

ホテルチェックインを経て街を探索。下水臭とさまざまな香辛料などが混ざりあう複雑なにおいが、街に充満していることに気づく。

やがて通り沿いに設えたオープン・カウンターで臭豆腐を売っている店に出会う。再び「ゲテモノ食材」の爆弾級の腐臭に打ちひしがれる。 

仕方なく、日本ブランドの吉野家で遅い昼食の牛丼摂取。臭気にまみれて、不潔っぽい通りの店で台湾料理を食べる気にはどうしてもなれなかった。

ホテルで休憩後、また街をさ迷う。地元のレストランで夕食を、と躍起になるがどうしても入りたい店がない。偶然行き合った少し沖縄テイストの入った日本風居酒屋で食べることにする。

沖縄テイストとは、従業員がクール・ビズの一種である「かりゆしウエア」を着ていること。オリオンビールや泡盛をまるで当たり前のように置いていること、など。

台湾って沖縄のお隣さんなんだなぁ、といまさらのように思った。沖縄のさらに僻地の離島で生まれ育った僕は、世界中の全ての島に強い愛着を抱く癖がある。

台湾島にも訪問前から既に親しみを感じていたが、島が沖縄の隣に位置するのだといまさらのように気づいて、僕はますます台湾が好きになるようだった。それだけに尚のこと臭豆腐がうらめしい。


2日目(1月4日):

ホテルで朝食。多種類のこってり風味が明らかな料理が並ぶ。取り皿が足元に置かれていることにもおどろく。食欲ゼロ。

コーヒーと雀のエサほどの量のフライドポテトを食べる。これが朝食の習慣となる。

朝食後、電車とバスを乗り継いで国立故宮博物院へ。朝10時から午後3時過ぎまで一心不乱に見学。

博物院訪問の後は、ホテルに戻って再三街の中心部をうろつく。やがて夕食の時間がやってきた。

そこではさすがに勇気を奮って地元の店で地元の物を食べようと決意した。

前夜の居酒屋の近くに、あけっぴろげな小さな食堂があった。店先に得体のしれない食材を飾ることもなく、厨房から不審なにおいも漂ってこない。

そのことに意を強くして思い切って店に入った。結論を言えばその選択は正解だった。日本の中華料理店の料理の味を、いわば一回り濃くしたような味付けの膳が次々に出た。

結局その店には翌日も足を運ぶことになった。。

3日目(1月5日):

妻はコーヒーとヨーグルト、僕はコーヒーとほんの少しのフライドポテトのみの遅い朝食後、台北駅界隈を散策。すぐに昼食時間がやって来たものの、街の臭気に耐えかねて、例によって中華食への興味失墜。

ホテルと駅の中間地域にある、またもや日本ブランドの三越デパート地下で、讃岐うどんの昼食。そのデパ地下には食料品コーナーよりもはるかに広大なレストラン街があって、日本食を中心にさまざまな料理を提供していた。

夕方早く、台北駅から電車で15分ほどの夜市へ。食材の豊富と人々の熱狂に圧倒される。だがそこにも臭豆腐臭が充満していて、当たり前のように食欲が吹き飛ぶ。

結局、夜市の屋台では何も口にすることなくホテルに戻り、また周辺の街へ。現地食の店を探したが徒労に終わる。結局2夜連続で前夜の小さな食堂へ。

僕は空腹も手伝って結構おいしく料理を食べた。が、妻は先刻の夜市の混乱と食材の異様と異臭に圧倒された余韻が残っていて、ほとんど何も食べずに終わる。少し深刻な状況にさえ見えた。

4日目(1月6日):

雨。ホテルで朝食後、長距離バスを利用して古都九份 へ。九份でも臭豆腐の腐臭からは逃れられず。昼食を取らないままホテルに戻る。

台北を知る友人からLine情報が入る。台北駅2階のショッピングモール内の土産店また飲食街が清潔で良し、とのこと。

夕方早めにそこに向かい、少しの土産を買ってまたさんざん迷った挙句に、清潔そうな中華料理店でついに「小籠包」 を食べる。美味。

小籠包のほかには「勝手知ったる」チャーハンとナス料理などを注文。妻もそこでようやく台湾料理を口にした。

1月7日:AM6時30分発の飛行機に乗るため3時起床。4時発のタクシーで空港へ。


エピローグ:

「におう」食べ物は世界中にある。日本には納豆がありくさやがありヤギ汁などというものもクサイ食べ物として知られている。

ここイタリアではゴルゴンゾーラ、いわゆるブルーチーズが良く食べられる。それ以外にもチーズ系を中心に異臭を放つ食材は多い。

イタリアに限らない。欧州には世界一クサイ食べ物とされるシュールストレミングがスウェーデンで生産される。他の国々にも珍味やゲテモノ系の食材は少なくない。むろん欧州以外の世界の国々にもある。

臭豆腐もそんな世界のクサイ食べ物一つである。だから臭豆腐だけが嫌われるいわれはない。

台湾で体験した「臭豆腐“臭”」が問題なのは、それがあたりかまわずに漂うところだ。冬でも暖かい台湾では、通りに向けて開け放たれている臭豆腐屋から臭気が傍若無人に溢れ出て、広範囲に漂い広がって充満する。屋台などの場合は言わずもがなだ。

日本では納豆やヤギ汁のにおいが「付近一帯」に拡散する状況はあまり考えられない。イタリアのブルー・チーズは通りから隔絶した家庭やレストラン内で消費される。だからにおいはそこだけに留まる。世界の他の「文明社会」のクサイ食べ物もほぼ同じ。

台湾はその意味では文明度が少し遅れている、と言えるかもしれない。臭豆腐が好きな人には好ましいことだろうが、そうではない人にとっては、臭豆腐の腐臭があたりに満ち溢れている状況は、正直に言って苦痛だ。

繰り返しなるが僕は台湾が好きだ。できれば将来また訪ねてみたい。しかし、臭豆腐の強烈なにおいを規制するメンタリティーや法律でも生まれない限り、また仕事か何かでやむにやまれぬ状況にでもならない限り、残念ながらきっと再び足を向ける気にはならないだろう。


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スイスとサルデーニャ島が合体するのも面白い



スイス国旗
4ムーア人国旗則撮影260pic


さて、またサルデーニャ島にまつわる話。20年ぶりにサルデーニャ島を訪ねてからほぼ3か月が経ったが、島の魅力に取り憑かれて、あたかも魂がまだ滞在先の海岸付近をさ迷っている、というふうである。
 
サルデーニャ島は既述のように古代からイタリア本土とは異なる歴史を歩んできた。それゆえにサルデーニャ島人は独自のアイデンティティー観を持っていて、自立・独立志向が強い。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアでは各地が都市国家や公国や海洋国家や教皇国などに分かれて勝手に存在を主張していた。

そこでは1861年の統一国家誕生後も、独立自尊のメンタリティーが消えることはなく、それぞれの土地が自立あるいは独立を模索する傾向がある。

サルデーニャ島(州)もそのうちの一つである。だが同島の場合、島だけで独立していたことはない。アラブやスペインの支配を受けた後、イタリア半島の強国の一つピエモンテのサヴォイア公国に統治された。

現在はイタリア共和国の同じ一員でありながら、サルデーニャ島民が他州の人々特にイタリア本土の住民とは出自が違いルーツが違う、と強く感じているのは島がたどってきた独自の歴史ゆえである。

1970年代には38%のサルデーニャ島民が独立賛成だったが、2012年のカリアリ大学とエジンバラ大学合同の世論調査では、41%もの島民が独立賛成と答えた。その内訳は「イタリアから独立するが欧州連合(EU)には留まる」が31%。「イタリアから独立しEUからも離脱する」が10%だった。

今日現在のサルデーニャ島には深刻な独立運動は存在しない。だが統計からも推測できるように、島では政党等の指導による独立運動が盛んな時期もあったのだ。そして島の独立を主張する政党は今も10以上を数える。

それらの政党にかつての勢いはなく、2018年現在のサルデーニャ州の独立運動は、個人的な活動とも呼べる小規模な動きに留まっているのがほとんどである。

その中にはイタリアから独立し、且つEU(欧州連合)からも抜け出してスイスへの編入・統合を目指そうと主張するユニークなグループもある。

荒唐無稽に見える言い分は、それをまさに荒唐無稽ととらえる欧州や世界の人々の笑いと拍手を集めたが、僕の目にはそれは荒唐無稽とばかりは言えないアイデアに映る。

その主張は、イタリア本土から不当な扱いを受けてきたと感じている島人たちの、不満や恨みが発露されたものだ。イタリア本土の豊かな地域、特に北部イタリアなどに比較すると島は決して裕福とは言えない、

経済的な不満も相まって、島民がこの際イタリアを見限って、同時に、欧州連合内の末端の地域の経済的困窮に冷淡、と批判されるEUそのものさえも捨てて、EU圏外のスイス連邦と手を組もう、というのは面白い考えだ。

ただスイスと一緒になるためには、先ずイタリアからの分離あるいは独立を果たさなければならない。これは至難の業だ。イタリア共和国憲法は国内各州の分離・独立を認めていないからだ。

仮に分離・独立できたとすると、スイスは喜んでサルデーニャを受け入れるかもしれない。なにしろ自国の半分以上の面積を有する欧州の島が、一気にスイスの国土に加わるのだから悪くない話だ。

しかも島の人口はスイスの5分の一以下。サルデーニャの一人当たりの国民所得はスイスよりはるかに少ないが、豊かなスイス国民は新たに加わる領土と引き換えに、島民に富を分配することを厭わないかもしれない。

スイスとサルデーニャ島は全くのあだびと同士ではない。それどころか同じ欧州の一員として文化も国民性も似通っている部分も多い。スイスの一部ティチーノ州は、イタリア語を話す人々の領地でさえあるのだ。

島は少なくとも、現在欧州全体の足かせになっている、大半の難民・移民の出身地であるアフリカや中東ではないから、スイス国民も受け入れやすいだろう。

海のないスイスに、美しいティレニア海と暖かで緑豊かなサルデーニャ島が国土として加わるのだ。何度でも言うがスイスにとっては少しも悪くない話だ。

スイス政府は隣国イタリアの内政問題だとして、サルデーニャ島からのラブコールには沈黙を押し通している。

それは隣国に対する礼儀だが、敢えてノーと言わずに沈黙を貫き通していること自体が、イエスの意思表示のように見えないこともないのである。


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サルデーニャ「4人のムーア人旗」の由来~島民の誇りと屈折



サルデーニャ正式州旗(1999年)WIKI

1999年に正式認定されたサルデーニャ州旗




イタリア・サルデーニャ島には4人の黒人の横顔をあしらった独特の島旗がある。イタリア語で「Quattro mori(4人のムーア人)」と呼ばれるその旗を、島人は州旗と称し「国旗」とも表現する。

日本の四国よりも少し大きなサルデーニャ島は、付随する離島と共にイタリアの20州のうちの一つの州を形成している。従って旗が州旗と呼ばれても何ら問題はない。むしろそれが正しい呼称だろう。

だがそれを「国旗」と呼ぶと、意図するコンセプトに深刻か否かの違いはあるかもしれないが、発言した者は明確な動機に基づいてそれを口にしている。

つまりサルデーニャ島民が発言する場合はそれは、イタリア共和国からのサルデ-ニャ島の「独立」を意味する文脈で語られているのである。

島民の独立志向は島の苦難の歴史の中から自然発生的に出てきたもので、一時期は大きなうねりとなってイタリアを揺るがせたこともある。が、現在は静まった。しかしそれはサルデーニャ島民の心が静まったことを意味するものではない。

島がたどってきた複雑な歴史や、当事者たちの複雑な心境、また島人の不満とイタリア本土人の無関心、など、などという世界では割とありふれた現象が、当事者中の当事者である島人の心を鋭く抉らずにはおかないのは、それが彼らのアイデンデンティティーの根幹に関わる重大事案だからである。

起源

スペインのアラゴン王国、イタリア半島のピエモンテに本拠を置く「大陸の」サルデーニャ王国、そして最後にサルデーニャ島自身のシンボル旗となった4人のムーア人の旗は、ひとことで言えば、キリスト教徒とイスラム教徒の血みどろの長い厳しい闘争が原因で誕生した。

具体的に言えば、旗の意匠はスペインのアラゴン王国が1096年、侵略者のムーア人つまりアラブ・イスラム教徒を撃退し4人の将軍の首を落として戦勝を祝った、とする伝説に基づいている。それを示す古い絵柄では4人の顔が目隠しされている。捕らえた敗軍の将に目隠しをして首を切り落とすのは、洋の東西を問わず戦国の世の習いだった。日本の戦国時代でも敵の首を切り落として戦利品とした。

アラゴン王国軍はその大きな戦を聖ゲオルギウス(英:聖ジョージ)の手助けで勝利した、と言い伝えられている。4人のムーア人の顔と共に聖ゲオルギウスの象徴である白地に赤い十字が旗に描かれているのはそれが理由である。

またムーア人の4つの顔は、アラゴン王国が4つ大きな戦争、即ちサラゴザ、ヴァレンシア、ムルシア、バレアリス諸島での戦いに勝利したことを表す、という説もある。そこに十字軍のシンボル的な存在でもある前述の聖ゲオルギウスの伝説がからんだ、と主張するものである。

しかし最も多く語られるのは、アラゴン王国がアルコラスの戦いに勝利した際、4人のムーア人将軍の首を切り落として祝った、とする前述の説である。宿敵のイスラム教徒への怨みと怒りがこもったその主張の方が、信憑性が高い、と僕も思う。

意匠の変遷

旗のデザインと成り立ちに関しては、伝説と史実が入り乱れた多数の説がほかにも存在する。史実の最も古い証拠としては、1281年に作られたとされる鉛製の封印がある。そこに描かれたムーア人は髭を蓄えていて鉢巻をしていない。

14世紀にサルデーニャ島がアラゴン王国の支配下に入ると、4人のムーア人の絵柄は、サルデーニャ島でもあたかも島独自のもののように使われた始めた。そして1380年頃には4人のムーア人旗はアラゴン王国統治下の島の旗と認定され、サルデーニャ軍は1571年、鉢巻をした4人が右を向いている図柄を記章として採用した。

以後、ムーア人の図柄は額に鉢巻をしたりしなかったり、頭に王冠が描かれたり、髭を蓄えていたり、目隠しをされたり、顔が左に向いたり逆になったり、肌が白く描かれたり等々、様々に変化して伝えられた。アラゴン王国は最終的にオリジナルの絵柄を尊重して、頭に鉢巻を巻いたものが正しい、という触れを出した。

島民の抵抗

1720年、サルデーニャ島はシチリア島との交換でアラゴン王国からサヴォイア公国に譲り渡された。以後サヴォイア公国は国名を「サルデーニャ王国」に変えて島を支配するが、同王国の本拠はフランスの一部とイタリア本土のピエモンテが合体した大陸だった。王国の首都もピエモンテのトリノに置かれた。そして1800年、4人のムーア人の鉢巻が目隠し姿に変わった図柄の旗が出回るようになった。

これはイタリア本土を本拠地にするサヴォイア家が、サルデーニャ島を獲得したことをきっかけに自らの領土をサルデーニャ王国と称し、支配地の島に圧政を敷いたことに対する島民の抵抗の現れだった。目隠しの絵柄は、鉢巻姿だった古い旗の意匠をわざと間違えて伝え残したもの、とも言われている。

さらに、旗の原型はアラゴン王国にあるとはいえ、4人のムーア人旗はアラゴン統治以前のサルデーニャ島の歴史を物語るとされる説もある。その当時サルデーニャ島には ガルーラ、ログドーロ(トーレス)、アルボレア、カリアリという4つの小さな独立国があり、それぞれが頑張ってイスラム教徒の侵略から島を守ったとされる。4人のムーア人はその4国を表すというものである。

だがその主張は島人たちの希望的憶測あるいは願望に過ぎないと僕は思う。彼らには侵略者のイスラム教徒を撃破する軍事力はなかった。8世紀からイベリア半島を蹂躙し支配したイスラム教徒は、破竹の勢いで地中海の島々も配下に収めていった。サルデーニャ島の住民は、他の被征服地の住民同様に、欧州のキリスト教勢力がイスラム教徒を撃破するまで身を縮めるようにして生き延びた、というのが歴史の真相である。 

サヴォイア家支配下の1800年頃から島に多く出回るようになった目隠しの図柄はその後も広がり続け、サヴィオア家の支配が終わり、2つの大戦を経て、イタリアが近代化し成熟社会を迎えた20世紀終わりまで続くことになる。

1950年、4人のムーア人旗はサルデーニャ州(島)の正式フラッグと認定された。そこでは4人はまだ目隠しをしたままだった。そして1999年、4人の顔は目隠しではなく額に鉢巻をし、且つ旗竿を左に右向きの横顔であること、とこれまた正式に改訂された。

屈折

何世紀にも渡って物議をかもし続けたムーア人旗の絵柄やコンセプトの変遷を見ると、僕は大きな感慨を覚えずにはいられない。すなわち、サルデーニャ島民がかつての支配者のエンブレムを自らのそれと認識し、且つ絵柄の中心である4人のムーア人をあたかも自らの肖像でもあるかのように見做している点である。

そこには2重の心理のごまかしがある。一つはアラゴン家及びサヴォイア家の紋章を引き継ぐことで、自らも支配者になったような気分を味わっていること。また戦いに負けて首を落とされて以降は、いわば被害者である4人のムーア人にも自らを重ね合わせて英雄視している点だ。

彼らは支配者であると同時に支配される者、つまり被抑圧者でもあると主張しているのである。僕は前者にサルデーニャ島民の事大主義を、また後者に同じ島民の偽善を感じないではいられない。僕の目にはそれは、抑圧され続けた民衆が往々にして見せる悲しい性であり、宿命でさえあり、歴史が悪意と共に用意する過酷な陥穽、というふうに見えなくもないのである。


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“植民地”サルデーニャ島に当たり前に芽生える 「独立論」



浜に津k立てられたムーア人の旗(有名画像)
サルデーニャ国(州)旗‘4人のムーア人’


先日言及したイタリア・サルデーニャ島の「食の植民地主義」も軽くない現実だが、同島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

salvatore meloni











独立運動家サルヴァトーレ・メローニ


元長距離トラック運転手のメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・デ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴された。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見做された。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかった。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に
「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら
「喜んでサルデーニャをフランスに譲る」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党 (Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党 (Unione Democratica Sarda).」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党は約14%もの支持を得る躍進を見せた。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたくらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家である。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思う。


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サルデーニャ食紀行~魚介パスタに見る植民地メンタル 



古海軍地図600


イタリア本土の魚料理とサルデーニャ島の魚料理の在り方は、見ようによっては極めて植民地主義的な関係である。つまり力のある者、経済的優位に立つ者、多数派に当たる者らが、弱者を抑え込んで排斥したり逆に同化を要求したり、また搾取し、支配することにも似ている。多数派による数の暴力あるいは多勢に無勢、などとも形容できるその関係は料理に限ったことではなく、両者の間の政治力学の歴史を踏襲したものである。

ごく簡略化してサルデーニャ島の歴史を語れば、同島は先史時代を経て紀元前8世紀頃にフェニキア人の植民地となり次にはカルタゴの支配下に入る。支配者の彼らは今のレバノンやチュニジア地方に生を受けた、いわゆるアラブ系の民族だ。紀元前3世紀には島はローマ帝国の統治下に置かれたが、8世紀初頭には多くがイスラム教徒となったアラブ人の侵略を再び受け、長く支配された。

島はその後スペインやオーストリアなどの欧州列強の下におかれ、やがてイタリア王国に組み込まれる。そして最後にイタリア共和国の一部となるのである。そのようにサルデーニャ島の歴史は、欧州文明の外に存在するアラブ系勢力の執拗な侵略と統治を含めて、一貫して植民地主義の犠牲者の形態を取ってきた。

サルデーニャ島の魚料理の変遷を政治的なコンセプトに重ねて見てみると、そこには多数派と少数派の力関係の原理あるいは植民地主義的な状相があることが分かるのである。或いはそこまで政治的な色合いを込めずとも、多勢に無勢また衆寡敵せずで、少数派の島人や島料理が多数派の本土人や本土料理に押され、詰め寄られ、凌駕されていく図が見える。

そうした現実を進化と感じるか、逆に屈辱とさえ感じてしまうかは人それぞれだろうが、島本来のレシピや味も維持しつつ、イタリア本土由来の料理も巧みに取り込んでいけば、島の食は今後もますます発展していくだろう。島国根性に縛られている「島人」は、"島には島のやり方があり伝統がある”などと、一見正論じみた閉塞論を振りかざして、殻に閉じこもろうとする場合がままある。

島のやり方は尊重されなければならないが、それは行き過ぎれば後退につながりかねない。また伝統が単なる陋習である可能性にも留意しなければならない。特に食に関しては、「田舎者の保守性」という世界共通の行動パターンがあって、都会的な場所ではないところの住民は、目新しい食物や料理に懐疑的であることが多い。日本の僻地で生まれ育った僕自身も実はその典型的な例の1人である。

植民地主義的事象は世界中に溢れている。それは差別や偏見や暴力を伴うことも多いやっかいな代物だが、世の中に多数派と少数派が存在する限り植民地主義的な「不都合」は決してなくなることはない。少数派は断じて多数派の横暴に屈してはならないが、多数派が多数派ゆえに獲得している可能性が高い「多様性」や「進歩」や「開明」があるのであれば、それを学び導入する勇気も持つべきである。

同時に多数派は、多数派であるが故に自らが優越した存在である、という愚劣な思い上がりを捨てて、少数派を尊重し数の暴力の排斥に努めるべきだ。これは正論だが実現はなかなか難しい要求でもある。なぜなら多数派が、多数派故に派生する数の力という「特権」を自ら進んで放棄するとは考えにくいからだ。それは多数派の横暴が後を絶たない現実を見れば明らかだ。

それに対しては、少数派の反発と蜂起が続いて対立が深まり、ついには暴力が行使される事態にまで至る愚行が、世界中で飽きもせずに繰り返されている。そうしたしがらみから両者が解放されるためには、堂々巡りに見えるかもしれないが、やはり植民地主義の犠牲になりやすい少数派が立ち上がり声をあげ続けるしかない。なぜなら多数派の自発的な特権放棄行為よりも、少数派の抗議行動の方がより迅速に形成され実践されやすいからだ。

サルデーニャの食に関して言えば、イタリア本土の料理のノウハウを取り込みつつサルデーニャ食の神髄や心を決して忘れないでほしい。それは島人が意識して守る努力をしなければ、多数派や主流派の数の洪水に押し流されてたちまち消え去ってしまう危険を秘めた、デリケートな技であり概念であり伝統であり文化なのである。

20年前とは格段に味が違うサルデーニャ島の魚介料理、中でも海鮮ソースパスタに舌鼓を打ちつつ、また同時に20年前にはほとんど知らなかった島の肉料理のあっぱれな味と深い内容に感動しつつ僕は、突飛なようだが実はありふれた世の中の仕組みに過ぎない植民地主義や植民地メンタル、あるいは多勢に無勢また数の横暴などといった、面倒だがそれから決して目を逸らしてはならない事どもについても思いを馳せたりした。



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老後の移住先?あるいは終の棲家?



伊良部海岸800pic


イタリアから帰国し、故郷の沖縄を訪ねて、そこかしこの島をうろついている。帰省するときのいつものパターンである。

若い頃の僕の夢は、50歳くらいで仕事をやめて冬の間は沖縄の離島で暮らし、残りの季節はイタリアで過ごす生活に入る、ことだった。

当時は人の50歳は、棺桶に片足を突っ込んでいるほどの年齢、に思えたものだ。が、50歳どころか、還暦さえも過ぎた今の自分はまだ元気だ。その代わりに冬の間を島で遊んで暮らす時間も気持ちの余裕もないが。

もっとも夢は捨てていない。理想は11月頃から3月あたりまで島でのんびり過ごすこと。それはまだとてもできないが、1月~2月の2、3週間を沖縄で過ごすことは以前も、また今でも結構やっている。

イタリアには、冬の間をスペインのカナリア諸島やカリブ海の島々で暮らす友人知己が多くいる。チュニジアやエジプトなど、北アフリカのリゾート地も人気だったが、テロ組織のイスラム国などの横行で近年はすっかり嫌われてしまった。

彼らの多くは実業家や弁護士や医者などである。裕福な人々だ。だがそれほどではなくとも、やり繰りや貯蓄で頑張って冬の逃避行を実現させる者も多い。僕もいつか彼らに倣(なら)って冬を常夏の沖縄で過ごしたいと思っている。

もっとも最近は沖縄にはこだわらず、冬の間は「冬のない世界」を移動して暮らすのも悪くない、と考え始めている。実現できるかどうかは全く別の話だけれども。

自分の思惑や願いはさておいてよく思うことがある。僕の生まれ故郷を含む僻地の島々の行く末である。島々は多くが過疎化に悩まされている。そして過疎化に立ち向かう方策が、ほとんど全てのケースで観光産業の育成である。それは恐らく正しい。

農業以外にこれといった産業のない島では、観光事業への期待は大きい。島々の役場はなんとかして多くの観光客を呼び込みたいとあれこれやっている。

この「多くの観光客」を呼び込みたい、という考えは誰もが抱くものだが僕はそこに少しの違和感を覚える。辺鄙の小島にはふさわしくないコンセプトに見えるのだ。

それというのも多くの観光客は、島に恵みをもたらすこともあるが、島を破壊することもある。特に小さな陸地の場合は顕著だ。それは両刃の剣なのだ。

そのことを考慮せずに、何でもいいからとにかく観光客を誘致しよう、と動くのは無責任のそしりをまぬかれないのではないか。

そうは言うものの、観光を振興させたいのなら、もちろん観光客の数は大事だ。多くの観光客を迎えたい気持ちは分かる。

だが僕は、観光客の数を極力おさえて、収入を上げる方策も模索するべきだと考えるのだ。薄利多売ではなく、いわば「厚利薄売」あるいは希少価値商売である。

観光客をできるだけ多く呼び込んで発展を目指すには島々はあまりにも遠く、あまりにも小さく、あまりにもインフラや歓楽・文化施設などが貧しい。人心も観光産業に慣れていない。薄利多売はおそらく無理だ。

ならば厚利薄売はできないか、と考えてみるとこれも難しい。だが、薄利多売よりは可能性は高いと考える。キーワードは希少価値である。あるいは想像を絶する遠隔性である。逆転の発想で、例えば高齢の富裕層などを呼び込むことはできないか、と思うのである。

それも冬季の彼らの長期滞在先として。なぜなら島には冬がないからである。その現実を活かして、冬場に長期滞在をする観光客を増やす知恵を絞れば、あるいは道が開けるかもしれない。

長期滞在をする観光客はもはや観光客ではない。半ばは島の住人である。島人は彼らをそのつもりで受け入れなければならない。もっと言えば、冬以外の季節も島の住人になってもらうつもりで歓迎するのである。

今後、日本人の「生活の質」が欧米並みに豊かになって、長い休暇や季節ごとの移住生活が可能になれば、辺鄙な島も海の美しさと暖冬という2大利点を活かして発展できる可能性がある。

発展とまではいかなくても、過疎化によって島の住民の生存そのものがおびやかされ、ついには無人の島になってしまう危険を避けることができるかもしれない、と考える。

またさらに言えば、僕のように辺鄙の人心や民俗や風儀や海や暖かさが好きな人々を探し出し、訴えかけ、誘致し、歓迎することである。

この際だから敢えて付け加えれば、それらの人々は大金持ちではなくとも、ある程度生活に余裕のある富裕層やそれに近い人々であるのが理想だ。なぜなら彼らは長期滞在をする可能性が高いから。。。

島々の死者たち



墓石群中ヒキ800pic
ひとつひとつの墓石は普通のそれの4~5倍の大きさがある


9月初めから半ばにかけて、ギリシャのクレタ島に滞在した。

借りたアパートからビーチに向かう途中に墓地があった。そこには大理石を用いた巨大な石棺型墓石が並んでいた。

墓石はどれもイタリアなどで見られる墓標の4~5倍の大きさがある。僕はそれを見たときすぐに日本の南の島々の異様に大きな墓を想った。

先年、母を亡くした折に僕は新聞に次のような内容の文章を寄稿した。

生者と死者と


死者は生者の邪魔をしてはならない。僕は故郷の島に帰ってそこかしこに存在する巨大な墓を見るたびに良くそう思う。これは決して死者を冒涜したりばち当たりな慢心から言うのではない。生者の生きるスペースもないような狭い島の土地に大きな墓地があってはならない。  

島々の墓地の在り方は昔ならいざ知らず、現代の状況では言語道断である。巨大墓の奇怪さは時代錯誤である。時代は変わっていく。時代が変わるとは生者が変わっていくことである。生者が変われば死者の在り方も変わるのが摂理である。

僕は死んだら広いスペースなどいらない。生きている僕の息子や孫や甥っ子や姪っ子たちが使えばいい。日当りの良い場所もいらない。片隅に小さく住まわしてもらえれば十分。われわれの親たちもきっとそう思っている。

僕は最近母を亡くした。灰となった母の亡き骸の残滓は墓地に眠っている。しかしそれは母ではない。母はかけがえのない祖霊となって僕の中にいるのである。霊魂が暗い墓の中にいると考えるのは死者への差別だ。母の御霊は墓にはいない。仏壇にもいない。

母の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇も忌避し、母自身が生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する。

肉体を持たない母は完全に自由だ。自在な母は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

われわれが生きている限り御霊も生きている。そして自由に生きている御霊は間違っても生者の邪魔をしようとは考えていない。僕と共に生きている母もきっと生者に道を譲る。

母の教えを受けて、母と同じ気持ちを持つ僕も母と同じことをするであろう。僕は死者となったら生者に生きるスペースを譲る。人の見栄と欺瞞に過ぎない巨大墓などいらない。僕は生者の心の中だけで生きたいのである。


日本の南の島々の墓が巨大なのは、家族のみならず一族が共同で運営するからである。生者は供養を口実に大きな墓の敷地に集まって遊宴し、親睦を深める。

そこは死者と生者の距離が近い「この世とあの世が混在する共同体」である。生者たちは死者をダシにして交歓し親しみあうのだ。古き良き島々の伝統である。

ところが、従前の使命が希薄になった現代の墓を作る際も、人々は虚栄に満ちた大きな墓を演出したがる。僕はそこに強い違和感を覚えるのである。

ギリシャ南端のクレタ島には、ギリシャの島々の街並みによくみられる白色のイメージが少ない。山の多い島の景色は乾いて赤茶けていて、むしろアフリカ的でさえある。

その中にあって、大理石を用いた石棺型墓石が並ぶ霊園は明るく、強い陽ざしをあびて全体がほぼ白一色に統一されている。

大きな墓石のひとつひとつは、島の遅い夏の、しかし肌を突き刺すような陽光を反射してさらに純白にかがやいている。

死の暗黒を必死に拒絶しているような異様な白さ、とでも形容したいところだが、実はそこにはそんな重い空気は一切漂っていない。

墓地はあっけらかんとして清廉、ひたすら軽く、埋葬地を抱いて広がる集落の向こうの、エーゲ海のように心はずむ光景にさえ見えた。

ギリシャと日本の南の島々の巨大墓には、死者への過剰な思い入れと生者の虚栄心が込められている。そして死者への思い入れも生者の精神作用に他ならないことを考えれば、巨大墓はつまるところ「生者のための」施設なのである。

あらゆる葬送の儀式は死者のためにあるのではない。それは残された遺族をはじめとする生者のためにあるのだ。死者は自らの墓がいかなるものかを知らないし、知るよすがもない。

墓も、葬儀も、また供養の行事も、死者をしのぶ口実で生者(遺族)が集い、お互いの絆を確かめ、親睦を図るための施設であり儀式である。従って生者同士がいがみあえば、法要を含むあらゆる宗教儀式はそこで消えてなくなる。誰も墓に行かず仏壇に祈ることもない。

死者たちはそうやって生者のわれわれに生きる道筋を示唆する。死者は生者の中で生きている。巨大墓地などを作って死者をたぶらかし、暗闇の中に閉じ込めてはならない。通常墓や仏壇でさえ死者を縛り貶める「生者の都合」の所産なのだ。

死者は生者と共に自由に生きるべきだ。それどころか生者の限界を超えてさらに自由な存在となって空を飛び、世界を巡り、「死者の生」を生きるべきなのである。僕の中の、僕の母のように・・



沖縄2紙の潰し方おしえます


百田尚樹さま

私は前回記事で、沖縄2紙が百田尚樹さんに潰されない方法について書きましたので、賛否両論を併記するという言論報道の基本にたち返って(少し意味が違うかもしれませんが)、今回は百田さんが沖縄2紙を潰す方法について書きます。

沖縄2紙を潰すには、あなたと自民党勉強会の議員の皆さんが考えるようにスポンサーを脅したり、イスラム過激派がシャルリー・エブドに殴り込みをかけてジャーナリストを射殺したような、物騒な、でも言論弾圧者が大好きなやり方をする必要はありません。

もっと穏やかで、まっとうで、当事者の沖縄2紙以外は誰も文句を言えないやり方があります。それはあなたと勉強会の議員の皆さんが、偏向報道とまで断じて批判する、沖縄2紙の執拗で厳しい主張や、キャンペーンの「大元」を断つことです。

つまり、普天間基地をなくすことですね。従って同時に辺野古移設もなくなることです。どうしても普天間基地を温存したいのであれば、次に良い方法は普天間基地を沖縄県外に移すことです。

それが成されれば、沖縄2紙は、そのレゾンデートルの全てといっても過言ではない、辺野古移設反対一色のキャンペーンを張ることができなくなります。そうなれば沖縄県民の地元紙への興味も失せて、沖縄2紙はたちまち潰れること請け合いです。

沖縄2紙を潰せ、と言ったのは百田尚樹さんですが、その言葉が導き出された場は自民党本部内の勉強会においてですから、それは会に出席した議員の皆さん全員の言葉といっても良いでしょう。

そこで百田さんに提案します。どうでしょう、あなたのおトモダチである勉強会の議員の皆さんと共に、辺野古移設を断念するように安倍首相に強く働きかけて、怒る沖縄の2紙をあっさりと潰してみませんか。

そうなれば沖縄の民意も政治も静まり、人々は本来の穏やかで明るい、ちょっとヌケたところもある、南国の心やさしい民衆へと回帰して行くことでしょう。

それは同時に「沖縄の2紙は嫌いだが沖縄は好き」だとおっしゃるあなたが、もっとさらに好きになる、適度にリベラルで保守気質も他府県同様に十分にある、従前の沖縄に戻ることも意味します

最後にあなたが執筆をやめるかも知れない、と聞いて私はとても寂しいと感じています。私はあなたの作品をまだ読んだことがありませんが、ベストセラーをお書きになっていると知り、本好きな者の一人としてぜひ読んでみたいと思っていたところでした。

あなたは過去にも引退を宣言して撤回したりしているそうですから、ま、「沖縄2紙を潰せ」発言と似たギャグの部類なのかも知れませんね。同じギャグでも中身の重さが極端に違いますが。

いずれにしましても、できれば執筆をお続けになり、前回記事で述べたように沖縄2紙へのバッシングを続けて「2紙を強く」するか、逆に普天間基地を反故にする運動を展開して「2紙を潰す」活動にまい進するかしていただきたい。

そうした行為は作家を引退してももちろんできますが、有名人ではなくなったあなたの営為は、選挙に落ちて「ただの人」になった政治家の挙止同様、ほとんど誰にも相手にされないでしょう。

ですから、筆を折る、などと百田さんらしくない気弱なことをおっしゃらずに、作家活動のかたわらぜひ沖縄2紙を潰す、あるいは強くするための活動を続けて、われわれ一般大衆を楽しませて下さい。


沖縄2紙への公開状 ~百田尚樹さんに潰されない方法おしえます~



何よりも先ず、作家の百田尚樹さんに「潰してやりたい」と名指しで言われた御2紙「琉球新報」と「沖縄タイムス」に、「おめでとう」と心からの祝福を申し上げたいと思います。

と言いますのも、御2紙が「潰されない」ためには、百田氏のような声の大きな方々にどんどん批判され、罵倒され、憎まれ口をたたかれ続けることが重要だからです。

百田氏のおかげで御2紙は今回、全国区の話題になりました。つまり注目されたのです。注目されること、話題にされることこそが、失礼ながら「弱小な地方紙」である御2紙が生き延びるための最強の武器です。

百田氏は恐らく冗談で「沖縄の2誌を潰すべき」と言ったのだと思います。その後、反響のあまりの大きさに驚き、苛立って「本気で潰したい」と再び口走ったのでしょう。

冗談も「頭に浮かんだ意思」ですから、百田さんは本気をギャグにして表現したわけです。そこまではよくある話ですが、冗談の中身が言論弾圧を想起させる重大な内容だったためにどんどん炎上していきました。ことはジョークではなくなってしまったのです。

それは御2紙にとってラッキーな出来事でした。というのも御2紙を潰したい百田さんは、勇み足で逆に御2紙の存在感を高めてしまい、「潰すのが難しい」方向に事態を誘導して行くこと、と同じ行為をする羽目に陥ったからです。

国民が注目しているものを潰すのは容易ではありません。圧力をかけるのも難しくなります。黙っていれば、あるいは百田さんのお友ダチのネトウヨ議員の皆さんが裏から手を回して、「広告主を脅す」方法などもあったのに、もうそれもできなくなりましたね。

御2紙はどうか今のままのやり方で紙面作りにまい進して、百田氏やネトウヨや沖縄嫌いの政治家や官僚などから、さらに激しくバッシングを受けて下さい。彼らのバッシングこそが御2紙の生存の糧です。

ただし、万人承知のように日本には「出る杭は打たれる」という、画一主義と大勢順応主義を端的に表す、且つ狭量と抑圧と因習にまみれたイヤな諺もあります。どうぞ気をつけてください。

中途半端に「出た杭」は打たれますが、「出過ぎた」杭は打たれません。「出過ぎた」杭は強者だからです。卑怯者の大衆は強者を攻撃しません。また攻撃されても強者は潰れません。ですから必ず「出過ぎた」杭を目指してください。

今回の百田さん絡みの話題は特別でしょうが、インターネットなどでは御2紙はネトウヨやその周辺を中心に、けっこう彼らの罵倒ネタになるように見受けられます。これも喜ぶべきことです。無視されては御2紙の存在意義がなくなるのですから。

国内観光地の人気番付けでは、沖縄は北海道と京都に次いで3番目が定番ですが、新聞という意味ではどうでしょうか。私が知る限りでは御2紙がダントツに話題になりやすい。

北海道や京都その他の地方紙が、全国の目を引くような事態はあまり起こらないように感じます。基地問題を始め沖縄は良きにつけ悪しきにつけ何かと話題になるため、新聞もそうなるのでしょう。

御2紙の報道は偏向しているという批判や罵倒が多いようですが、特に基地問題に関しては声を挙げることをひるんではなりません。なぜなら沖縄への基地集中は許される範囲を超えているからです。

日本国47都道府県の一つとして、日本国憲法によってあらゆる権利と地位が平等に保障されているはずの沖縄県には、日本国の一部とは認められないほどの理不尽が押し付けられている。そこで基地の一部、つまりせめて普天間基地を沖縄以外の地に持って行け、というのはまっとうな主張です

何も恐れることはありません。ぜひ激しく声を出しつづけてネトウヨや百田氏のような皆さんの罵声を、これでもかこれでもか、というほどに引き出して下さい。最後には必ずまっとうな主張が勝利します。

それには「日本がまっとうな国ならば」というただし書きがつきますが、そのただし書きを信じて、目標達成までは決して「潰されない」ように、よく知恵を絞ってある限りの罵詈雑言を集め、受け留めて行って下さい。

さてここで、釈迦に説法を承知で、「潰されない」どころか御2紙がさらに「強くなる」方法を提案させていただきます。それは百田氏に代表される敵の数よりもさらに多くの、味方やファンを増やすことです。

そのためには、大いなるパラドックスですが、百田氏らが主張する「御2紙の報道が偏向している」論に誠実に応え、反証し、反論していくことです。元より報道に真の不偏不党、中立などありません。

しかし、だからといって、不偏不党、中立であろうとする努力を怠ってはなりません。ましてやある事案に対して複数の見解がある場合に、一つの立場のみを報道して反対論を含む他の見解を封殺することなどは、断じてあってはなりません。

そうした報道姿勢を貫くことが、味方やファンを増やす唯一の道です。そのようにして得た味方やファンに加えて、御2紙を蛇蝎のように嫌うさらに多くの「百田尚樹氏とネトウヨ仲間たち」を増やせば、御2紙の多大なる発展はもう約束されたようなものです。

最後に、御2紙へのエールを送りましたので、できれば次回は百田さんとネトウヨ議員の皆さんに向けて「沖縄2紙を潰す方法」を披露しようと思います。反対論も明記するのが公平な議論の基本ですから。


本土はいつまで沖縄にたかるのか



僕も寄稿しているネット論壇「アゴラ」主催者の池田信夫氏が、またもや沖縄を貶める刺激的な記事を発表している。歯に衣着せぬ論はいつものように明快だが、違和感もあるのが正直なところだ。

僕の故郷は沖縄である。愛する故郷を愚弄されて黙っていられるか!という訳で反論を書かせていただく。故郷愛に目が曇ってあるいは論が過激になるかもしれない。その場合はあらかじめお許しを願っておきたい。

沖縄が本土に金をたかっている、というようなえげつない言い回しを相変わらずするのなら、本土は一体いつまで安全保障を沖縄にたかるのか、という視点での論議もなされるべきである。

米軍基地(専用施設)の74%を押し付けられている沖縄が、日本国全体の安全保障の大分を担っている事実を無視して、補助金云々の議論ばかりに終始するのはいかがなものか。

確かに沖縄の心とやらを持ち出して、沖縄を甘やかす極左翼的発想も問題だが、補助金の額ばかりを持ち出して県民を貶めるのは、構造的沖縄差別の発露だと見られても仕方がないのではないか。

そうした説にネトウヨ始めお定まりの右翼系の人々が乗っかって、沖縄に感謝するどころかこれを侮辱する構図はまことに見苦しい。彼ら自身のみならず、日本国の品位をさえ貶める行為である。

本土はもうこれ以上安全保障で沖縄にたかり続けることは許されない。基地問題の歪みの原因の一つは、日本国民のほとんどが「安全(保障)をタダ」かタダに近いものと思っているところにある。

世界から見たらそら怖ろしい幼稚性だ。ほとんど愚民に近い。安全保障をタダだと 思っているから多くの国民が、沖縄にたかりつつ逆に島が本土に金をたかっている、と鉄面皮で下卑た非難をする。

沖縄への補助金は、安全保障のための国防費の一部として提供されて当たり前だ。米軍基地は迷惑施設なのだから、原発の地元に補助金が行くのと同じ構図で何の問題もない。

言うまでもなく、その額が妥当かどうかという疑問はある。従って米軍が日本から完全に撤退した場合の、日本独自の防衛予算がどれ程の額になるかの議論がなされるべきだ。

そうすれば、米軍が駐留することによって国が得ている利益が弾き出され、そこから沖縄の国防負担分の金額がきっちりと導き出される。なぜ国はそれをやらないのか。

実はそんな計算は、とっくの昔に霞ヶ関の魑魅魍魎、つまり官僚どもがやっていることだ。国防には今も膨大な金が掛かっている。米軍が沖縄からまた日本国全体から撤退した場合には、その額は天文学的な数字になるだろう。核武装の可否さえ必ず議題にのぼるに違いない。それよりは沖縄に基地を押し付けておく方が安上がりなのだ。 だから国は沖縄に金を出し続けている。

権力にぴたりと寄り添う官僚と官僚組織は、口が裂けてもそのことは言わない。が、気を入れて探ればすぐに分かることだ。沖縄基地を巡る日本政府とアメリカ政府の姿勢を支え、助長し、且つ隠蔽すると同時に、その力の中核でさえある彼らこそ、構造的沖縄差別の震源とも呼べる存在だ。

戦後、日本は米国との友好関係に助けられて、国防費の支出を抑え、それが経済発展の推進に大きく貢献した。安全保障のただ乗りとまで言われた本土の裕福な状況はそこにも由来する。

その抑えた国防費の多くが、本土から切り離されたまま多大な米軍施設を押し付けられてきた沖縄の犠牲の上に成り立った。そこを忘れてはならないのではないか。言い古されたことだが、あえてここでも指摘しておきたい。

繰り返しになるが、そうした犠牲に対する補償は当然である。その額が妥当かどうかという議論は、前述したようにもちろんなされるべきだ。その上で額が過剰だという結論が出るならば、そのときに沖縄を責めても遅くはない。

同時に、沖縄の一部の人々が後生大事に抱え込んでいる被害者意識と、そこから生まれる本土への甘えは、池田さんが指摘するように最早許されるべきものではない。

本土に対等な扱いを要求するなら、沖縄自身も過去を忘れることなく、だが過去にこだわり過ぎずに、未来志向で経済的にも政治的にもさらに努力をしていくべきである。

さて、ここで池田説に賛同される皆さんに伺いたい。

沖縄の米軍基地の地元に降りる政府の補償金が、特別視されるほどに手厚いものなら、どうして全国の自治体は手を挙げて「ここに基地を持ってきてくれ」と言わないのだろうか?

日本の自治体は東京以外のほとんどが財政難で苦しんでいる。もらえる物なら、沖縄に落ちる補助金が喉から手が出るほど欲しい筈だ。ならば基地をそれぞれの地元に誘致して、補助金を獲得するべきである。

昨年1月の名護市長選挙と、年末の県知事選挙で出た辺野古移設NOの沖縄の民意とは、金よりも基地重圧のない土地を返してくれ、というものである。それは尊重されて然るべきだ。

補助金よりも貧しさの中の誇りを選んだ沖縄の民意が真実なら、普天間基地を招致したいと本土のどこかの自治体が手を挙げれば、沖縄は喜んでそれを受け入れるに違いない。

僕は沖縄にはある程度の米軍基地は必要だと考える。重要な戦略的位置にあることは否定できないし、年々凶暴化する中国への備えの意味でも重要だ。しかし現状は余りにも多過ぎる。

辺野古移設問題を語るときに忘れがちだが、沖縄には面積約20平方キロ、約3700メートルの2本の滑走路を持つ東アジア最大の嘉手納空軍基地を始め、本島の20%近い土地に米軍施設が居座っている

普天間基地はそのほんの一部に過ぎないのだ。補償金あるいは振興予算が、あたかも普天間基地の辺野古移転分のみ、という印象操作にも似た議論も間違っている。

最後に「沖縄県には辺野古移転を拒否する権利がない。日米地位協定で、米軍は日本のどこにでも基地をつくれるので、日本政府も沖縄県もそれを断れない 」という池田さんの指摘は正しい。

だがそれを唯々諾々として受け入れている日本政府はクズだ。日米地位協定は、米国が絶対で日本はそれに従う、という奴隷の発想から出たものだ。協定のおかげで米軍は沖縄で傍若無人に振舞う。沖縄はそのことにも激しく怒っている。

日本と同じ敗戦国、僕が住むここイタリアにも米軍基地はある。が、米軍が住民を無視して暴虐行為を働き許されることなど決してない。沖縄で米軍がしばしばそんな行動に出るのは、奴隷契約「日米地位協定」があるからだ。

日本政府は日米地位協定の見直しを米国に迫りつつ、選挙で示された沖縄の民意を真摯に受け止めるべきだ。自国の小さな一部である「たかが沖縄ごとき」の悲しみや苦しみさえ救えないなら、日本国にはもはや民主国家と呼ばれる資格などない。

また沖縄県民が、今やもう差別だ、と恒常的に口にするようにさえなってしまった基地の過重負担と、それを見て見ぬ振りをする国民の存在も、前述したように日本国の品位を深く貶めている。

日本国民はもうそろそろ偽善の仮面をかなぐり捨てて、沖縄の基地問題に真正直に向き合うべきである。なぜなら基地は安全保障の問題であり、安全保障は全ての国民の問題だからだ。


民間大使




元大関小錦のKONISHIKIさんが、ハワイと沖縄を結ぶ架け橋になりたい、と宣言して沖縄県の「民間大使」になったそうである。東京の僕の友人の「沖縄病」患者、つまり沖縄大好き男からの知らせである。

 

僕は思わず、ほう、とつぶやいた。実は僕も沖縄県から請(こ)われて「民間大使」になったことがある。昔、アメリカで制作したテレビ番組が、全くのまぐれ当たりで向こうの監督賞をもらったことがきっかけだった。

 

沖縄県というのは愉快なところで、世界に広がる沖縄県人のネットワーク構築と国際交流を目的とした文化の祭典、と銘打って5年に1度「世界のウチナーンチュ大会」という祭りを開催している。

 

ウチナーンチュとは沖縄弁で沖縄県人や沖縄人というような意味。ウチナーは沖縄。チュは「人」のこと。ひと⇒ひとぅ⇒ひちゅ⇒ちゅと変化した言葉である。たとえば漁師のことは「海人(うみんちゅ)」島の人間は「島人(しまんちゅ)」などと使う。

 

僕はアメリカで受賞したことが地元で評価されて、世界に羽ばたくウチナーンチュ(笑)、ということで第1回大会に招待されて、そこで「民間大使」に任命されたのである。

 

大会に招待されたとき、僕は祭りの大げさなコンセプトと、いかにも沖縄らしい「こだわり」が気に入って、いつものように面白がりつつ喜んで帰国した。

 

でも僕が面白がったのはそこまでである。

 

それは主として南米各国に移住した沖縄県出身の皆さんを慰労する会、とでもいうような集まりだった。参加している「世界の」ウチナーンチュの皆さんのほとんども南米からの訪問者だった。日本全国から移民として外国に渡って行った人々の大半がそうであるように、彼らも主に経済的困窮から必要に迫られて祖国を後にし、見知らぬ土地で頑張り抜いて今の生活を手に入れた方々である。

 

多分そのせいだと思うが、僕のように生活苦から移民になったのではなく、「好き好んで」外国に出て行った者にとっては、それはちょっと場違いな祭典に感じられた。

僕は東京で大学を卒業すると同時に「喜び勇んで」外国に飛び出したような軽い人間である。そんな僕が、多くの苦難を経て来たに違いない南米移民の方々と並び立つのは、とても申し訳ない気分がして仕方がなかった。

 
そこで任命された民間大使は一体なにをやるのかというと、それぞれの滞在国に戻って、いわば「県人会」のようなものでも立ち上げて交流しなさい、みたいなことで曖昧模糊(あいまいもこ)としてさっぱり意味が分からなかった。

 

まだ若かったその頃の僕は、ぶっちゃけ県人会とか日本人会とかいうものには全く関心がなかった。ましてや自分でそうしたものを立ち上げるなんて考えも及ばなかった。僕は民間大使としては結局なにもせず(できず)、2年かそこらの任期のあとは自然消滅という感じで終わった。

 

でも新しい民間大使のKONISHIKIさんは、僕などとは違っていろいろと楽しいことができそうに見える。トロピカルなハワイと南国の沖縄。似たもの同士が仲良くできる大いなる架け橋になりそうである。ぜひそうなってほしい。

それはさておき、僕は自分の故郷である沖縄の人々の「こだわり」に少し懸念を抱いたりすることがある。正確に言えば「こだわり過ぎ」に。


例えば「ウチナーンチュ大会」は、南米などに移住し苦労して現在の地位を築き上げた、移民の皆さんを故郷に呼んで慰労するという、とても良い企画である。

でもそれは、僕の見た感じでは、
ひたすら地元の環境だけにこだわっている内向きな祝典である。せっかく沖縄という極小の島社会を抜け出し、日本という小さな島国も飛び出して大きな世界で生きている人々を招いておきながら、外に向かって開かれているようには見えない。

 

そこには例えば、どちらかというと日本社会から冷たく扱われることが多い、全ての日本人移民や日系人の皆さんを等しく大会に呼んで、彼らの功績を大会で顕彰したり交流をしたり、というような大らかな発想があまりないように見える。 

 

こだわりのない人やこだわりのない物はつまらない。でも「こだわり過ぎる」のは何ごとにつけ鬱陶(うっとう)しい。

 

僕は沖縄にも適度にこだわりつつ、それよりもさらに強く「島」というものにこだわりを持ち続けている。例えば島である「沖縄」とはひどく限定されたある特殊なコンセプトだが、沖縄という枕詞を消したただの「島」とは、限定されながら大きな広がりも持つ豊かな概念である。

  

つまり「島」とは、例えば僕の生まれた極小原始の島であり、それより少し大きな宮古島や石垣島であり、また少し大きな九州島でもあり本州島でもある。さらにそれは一段と大きな日本という島国でもあり、ついには大陸と称される世界の島々にまで広がる。

面積がオーストラリア島以上の陸地を「大陸」と呼ぶのはただの方便で、地球上のどの陸地も実は全て日本国と同じ島なのである。日本を含むそれらの島は、やがて地球という島になる。

 

さらに、地球島というのは太陽系という海に浮かぶ島であり、太陽系はそれより大きな銀河系の中の一つの島、さらにさらに、銀河系も宇宙の広がりの中の一つの島で・・というふうに果てしもなく広がって行くのが「島」なのである。 


僕はその「島」にこだわる。

 

でも決して「こだわり過ぎる」ことがないように気をつけようとも考える。

 

なぜならこだわり過ぎると、足元の小さな島の強烈な柵(しがらみ)にからめ取られて、島以外の世界を全て「よそ」と見なしてしまうような、「島国根性」のカタマリに陥(おちい)ってしまう危険性も大だから・・

 



普天間基地を災害避難所にしろⅡ

 

イタリア政府が、基地をたてにEUに対して難民問題での譲歩を迫ったらしいことに気づいて、僕は普天間基地のことを思い出した。

 

基地問題を話すのは暗い。疲れる。うっとうしい。

 

出版社の友人によると「基地問題の本は売れない」のが通例らしい。基地問題のこのブログ記事も恐らく誰にも読まれないのだろう。

特に沖縄の基地問題の場合には、島の持つ本来の明るさの反動からか、暗さに拍車がかかるように僕には感じられる。

 

青い海と、さんさんと降りそそぐ太陽と、のん気で陽気な人々の島、沖縄。  癒やしの島、沖縄。  明るい歌の島沖縄は、基地という言葉が絡んだ瞬間に、ツライ、クライ、オモイ、イタイ、の四拍子がそろった恐怖の島になる。しかし、それも島の現実なのだから仕方があるまい。

 

普天間基地問題に関しては、僕は言うなれば過激派である。つまり基地の地元の皆さんに「もっと怒れ」「もっと叫べ」とけしかけている。なぜなら人々は大人しすぎると僕には見えるし、今の状況では、地元が激しく怒ること以外には問題の道筋はつけられないと考えるからである。

 

僕は米国が好きである。日米が対等に向かい合うという条件付で、日米安保条約にも賛成である。また米軍が自衛隊とともに、東日本大震災の被災地を助けた事実には深く感謝したい。

 

そのことと、日米地位協定をたてに米軍が取る横暴の数々はまったく別の話だ。僕はそのことについては、今よりももっと激しく怒るべきだと考える。また小さな島の面積に照らしてみて、明らかに過重負担である米軍基地の割合は減らされるべきだと思うが、民主党現政権を含む歴代政権は、それをどうやって減らすかを考える代わりに、基地の沖縄県内でのたらい回しだけを考え、そう行動してきた。

 

そこには鳩山前首相が政権を投げ出したあとに白状した

 

「普天間基地の移設は、これまでの積み重ねの中での防衛、外務両省の発想があり、国外は言うまでもなく県外も無理だという思いが政府内にまん延していたし、今でもしている」

「“普天間基地を国外、最低でも県外へ”という私のようなアイデアは一笑に付されていたようだ。本当は私と一緒に移設問題を考えるべき防衛省、外務省が、実は米国との間のベース(県内移設)を大事にしたかった」

「防衛省も外務省も沖縄の米軍基地に対する“存在の当然視”があり、数十年の彼らの発想の中で、かなり凝り固まっている。動かそうとしたが、元に舞い戻ってしまう云々・・」

 

などの発言に見られる、歴代政権と官僚機構の「沖縄差別」と言われても仕方のない、不公平そのものの政策や発想がある。

 

また北海道から鹿児島県までの地方自治体の誰もが、自らの土地に基地を受け入れようとは言わない。それは理解できることだ。誰だって面倒で危険な基地など受け入れたくはない。また沖縄県民も、県外のどこそこに基地を持って行け、とは口が裂けても言えないだろう。それは彼らと同じ苦しみをその「どこかの地」に持って行けということだから。

 

地元の人々はただ基地の重圧を軽減してくれ、と言っているだけだが、他の日本国民が見て見ぬ振りをしている。見て見ぬ振りをしているように見える。そして政府はそれを敏感に察して、県内でのたらい回しを画策する。

 

つまりそれは、普天間基地問題では日本国内のどこからも援助の手はやってこない、ということである。

 

それならば仕方がない。

 

怒って怒って、憤死するまでさらに怒って怒りまくれ、というのが僕の主張である。

これは日常の人付き合いの話ではない。政治の話であり国を相手の話であり米国と米軍を相手の話である。誰かが助け船を出すだろう、みたいな甘い考えでは何も解決しない。そこでもっと怒れ、必要なら暴動を起こせとさえ僕は言う。


暴動とは、たとえば今から40年前に沖縄市で起こった、米軍車両や施設への焼き討ち事件、コザ騒動のようなことである。米兵が問題を起こすような時には、街にある米軍人の車をひっくり返して火をつけてしまえ、というぐらいの怒りを示せというのが僕の主張だ。

 

何も恐れることはない。

 

そういう動きは国際社会が見ているから、米軍は丸腰の住民を銃剣で圧することなどできない。必要ならばツイッターやフェイスブックなどを駆使して国際世論に訴えればいい。

 

日本と同じ敗戦国のイタリアにも米軍基地はある。が、米軍が住民を無視して騒音をまき散らしたり、犯罪者の兵をかくまうような横暴が許されることは決してない。

 

沖縄で、また別の基地の地元で、米軍が平然とそんな行動に出るのは、不公平な日米地位協定があり人種差別意識があるからだ。

 

日米両国が対等な立場で手を組み、沖縄に限らずすべての基地を抱える地元の理解を得て、不公平感をなくしていくべきだ、というのが僕の最終的な主張だ。

 

県内外の基地利権や利害にからむ人々の動きに負けて、もしもこの先沖縄の民意が辺野古移設に傾き、現在の日米合意を容認する方向に動いたなら、僕はあきらめて口を閉ざそうと思う。

その程度の民度の島なら日米両政府に翻弄されても仕方がない。

 

僕は帰国の際は、怒ることをやめて、自分の好きな宮古島や石垣島での滞在を、静かにエンジョイするだけにしようと思う。

なぜなら、普天間基地が辺野古に移設された場合、基地問題に関する僕の考えは間違っていたということだろうから。

いや、違う・・

今度は辺野古の基地を国営の災害避難所にしろ、と主張しなければならない。つまり、また怒り続けなければならない。

やっぱり基地問題は暗い。疲れる。うっとうしい・・・


 

 

普天間基地を災害避難所にしろ


東日本大震災のNHK報道を僕は日本との衛星同時放送でずっと見続けてきた。言葉を失う惨劇を、遠いイタリアで苦しい思いで追いかけながら、一つ気づいたことがある。

 

今回の東日本大震災も16年前の阪神淡路大震災も寒い時期に起きている。またそうではない例えば新潟中越地震の場合でも、災害後に厳しい寒さが訪れて、被災者の皆さんの苦労をさらに大きくした。

 

そこで、冬でも暖かい沖縄の米軍基地の全てを、国営の災害避難所に作り変えて、残念ながら今後も全国で発生し続けることが宿命の、あらゆる種類の天災への備えにしたらいいのではないかと考えた。

沖縄以外の日本国土は、本土最南端の鹿児島県でさえ、真冬には雪も降る寒い土地柄だ。冬でも花が咲き乱れ小鳥がさえずっている沖縄県に、苦しんでいる被災者の皆さんを迎えてあげるのは意義のあることであろう。
 

まず手はじめに普天間基地の米軍に退散を願って避難所となし、東日本大震災の被災者の皆さん、避難所の皆さんを全て受け入れる。とにもかくにも厳しい寒さをしのげる、というだけでも大きな負担減になるのではないか。

そうすれば、沖縄県民の基地への怒りも嘆きもきれいさっぱりとなくなり、本来の明るい性格ともてなしの心だけが最大限に発揮されて、被災者の皆さんを暖かく迎え、援助の手を差し伸べるだろう。

 

基地擁護者が言いたがる抑止力が、国難を排するための力であるなら、大震災で甚大な被害を受けて苦しむ国民の存在、という大きな国難を排する避難所こそ、真の抑止力だと言うこともできる。

 

普天間基地を開放して作る避難所には、被災者の皆さんが家族ごとに入れる、アパート群を始めとする様ざまな設備を作るのは言うまでもない。その時、応急処置のチャチな建物ではなく、しっかりしたりっぱな設計建築をすることが重要である。というのも、そこは災害避難所として使われない期間は、国民保養所や国民宿舎のような形にして低料金で貸し出すのである。言うまでもなく、災害が発生した場合は無条件に明け渡す、という契約で。

 

そうすれば施設はきっと夏には海で遊びたい若者で、冬には避寒保養地として、年金生活の高齢者の皆さんなどで溢れるに違いない。

またそうした施設は、島を訪れる多くの観光客が台風で足止めを食う時にも利用してもらう。

台風による足止めは、観光客にとってはホテル宿泊費を始めとする旅行費用の想定外の入り用で負担が大きい。ここでも低料金で提供すれば大きな助けになる筈である。そのほかにも知恵をしぼればいろいろと利用価値があるのではないか。

 

荒唐無稽な話、と一笑に付す人もいるだろう。だが民主主義国家のわが国において、沖縄県民の民意を完全に無視して、現職総理や幹事長や各閣僚が島を訪れては、バカの一つ覚えのように辺野古への基地移設を唱えることこそ荒唐無稽だ。

 

同じ荒唐無稽なら、被災者の負担と沖縄の基地負担を一気に解決できる避難所の方がよっぽどましである。


 

イタリア時間と島時間と

 


もはや旧聞に属する話だが、イタリア・アッシジのサンフランチェスコ教会の鐘の音を合図に、世界8ヶ国を衛星生中継で結んで、正月コンサートをしようというNHKの番組があった。

指揮者の小澤征爾さんが、イタリアの教会の12時丁度の鐘の音を合図に日本でタクトを振ると、中国、アメリカ、ドイツ、セネガル、イスラエル等の国々の楽団が一斉に演奏を始める。この時小澤さんのいる日本は午後8時、セネガルは午前11時、イスラエルは午後2時、ボストンは午前6時などと時差があるが、一斉に演奏を始めるタイミングはイタリア時間の昼の12時きっかりの鐘の音。

アッシジの中継現場にいた僕は、12時きっかりに合図を出して鐘を打たせる役割を担っていた。そこで1時間ほど前からリハーサルを繰りかえした。生中継でもリハーサルは欠かせないのである。いや、むしろ生中継だからこそ、リハーサルは普通の番組作りよりももっと重要になる。

合図で鐘がうまく鳴り出すようになったのが本番20分ほど前。そこで世界各地を結んで時刻合わせをした。ところがイタリアの時間だけが53秒ずれている。慌てて言わばNTTの117にあたるここの標準時報台に連絡した。するとそこもやはり53秒遅れていた。まさかと思って何度も確認するが結果は同じ。

衛星信号を経由するパリと東京に連絡を取った。2国はぴったりと時間が合っている。他の国々も同じ。つまりその年、1995年1月1日のイタリア時間は、グリニッジ世界標準時から、53秒ズレて動いていたのである!

僕はイタリア時刻を無視して、パリと東京がそれぞれ12時と20時を打った瞬間に鐘にゴーサインを出した。そうやってコンサートは無事に始まり、番組も無難に終わった。もしあの時イタリア時間に合わせて鐘を打っていたら・・と考えると、今でもぞっとする。


それは少し極端な例ではあったが、イタリア人は良く言われるように時間に対してけっこうアバウトな感覚を持っている。彼らが5分待ってくれと言えばそれは
20分とか30分であり、1分待ってくれと言えばそれもやっぱり20分とか30分である場合がほとんどだ。


どこかの家に夕食を招待されたりする時も、言われた時間より遅れて行くのが礼儀、という考え方さえある。要するに招待する側もされる側も、あくせく時間にこだわらない、という暗黙の了解があってそういうルールができているのである。


招待された側が時間通りにきちんと現れれば、招待した側はこれに応えるためにあくせく準備作業に精を出さなければならない。逆に招待する側が時間に厳しくこだわれば、招かれた側は万難を排して、急いで準備をし行動を起こして訪問先に姿を現わさなければならない。


イタリア人はそういうきっちりとした動きに余り価値を見出さないところがある。のんびりやろうよ、というのがそういう場合の彼らのキーワードである。それってけっこう沖縄あたりのいい加減な島タイムの感覚に近い。


そう、時間に対するラテン民族の大らかさは、テーゲー(大概、アバウト、いい加減)な南の島の時間感覚に似ているのである。


しかし、島時間がいかにトボけたいい加減なものであっても、公共の時報が1分近くも遅れるなんてあり得ない。


そうして見ると、イタリア時間こそ究極の本物・大物のテーゲーなのかもしれない。


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