地中海紀行

またもや世界一美味いヤギ料理に出会った



サフラン煮込みヤギ肉800
ヤギ成獣肉のサフラン煮込み


2019年6月、イタリア・サルデーニャ島でバカンスを過ごした。前年と合わせて2年連続での同島への休暇旅になった。自然が豊かなサルデーニャ島では、名所旧跡巡りよりもビーチで過ごす時間や食ベ歩きが主な楽しみになる。

サルデーニャ島の、いわばソウルフードともいうべき深みのある郷土食また伝統食は、肉料理である。島でありながら魚料理よりも肉料理が充実したのは、外敵の侵略にさらされ続けた島人が、内陸部に逃げ込んで定住した歴史があるからだ。

島の肉料理の素材は、豚・牛・鶏・羊・山羊・馬・猪・鹿・驢馬等々である。驢馬を別にすればそれらの食材は欧州ではありふれたものだ。また驢馬肉はサルデーニャ島でも珍しい部類の食品。ひんぱんには見られない。

サルデーニャ島の有名肉料理にポルケッタ(島語ではporceddu=ポルチェッドゥ)がある。子豚の丸焼きである。乳飲み子豚が最高級品とされる。また牛、豚、羊、ヤギなどは肉以外の内臓や器官もよく食べられる。ポルケッタを別にすれば、僕は島のヤギ及び羊料理が好きである。

牧羊が盛んな島なのでヤギ肉や羊肉(以下=ヤギ・羊肉)も良く食べられているが、豚や牛や鶏肉などに比較すると目立たない。通常食材の豚・牛・鶏肉が多く食べられるのは、島が「イタリア本土化」し、経済的に豊かになったからである。かつては ヤギ・羊肉 は島の食文化の中心にあった。

島の「イタリア本土化」つまり島の近代化は、魚介料理の発達ももたらした。魚料理は昔からもちろん島にはあった。だが現在の豊富な魚介膳は、イタリア本土の金持ちバカンス客らによって導入された側面が大きい。そしてリゾート地としての同島の中心食は、今や海鮮料理である。

四方が海の島だけにサルデーニャの海産物は新鮮だ。新鮮であれば魚介は何でも既に美味い。刺身が美味なのがその証拠だ。そこにさらに、本土由来の豊穣なイタリア料理のレシピが導入されたのだから、島の魚介膳が飛躍的に発展したのもうなずける。

特に魚介を使ったパスタは今では、イタリア全国でも屈指の美味さを誇るほどになった。僕は島ではいつものように肉料理、中でもヤギ・羊肉料理を探し求めたが、同時に魚料理も積極的に食べた。ただ魚料理といってもメインコースではなく、魚介パスタのファーストコースが主だった。

今回旅ではアサリとボッタルガ(カラスミの一種)をはじめとする、ミックス魚介のパスタに見るべきものが多くあった。秀逸な具材の組み合わせと味付けは、舌の肥えたバカンス客を相手にすることが多い、サルデーニャ島のレストランならではの品々だと痛感した。

だが実は僕は昨年、ほぼ同じ作りのパスタで最悪の味の一皿にまさにそのサルデーニャ島で出会っている。その店の顧客は多くが北欧や旧共産主義圏のバルカン半島からの観光客だった。彼らは食物の味におおらかでイタメシなら何でも美味い、と思い込んでいるとも評価される。

それが理由の一つなのかどうか、その店のアサリとボッタルガのスパゲティは両方とも水っぽく、具材の良さが完全に失われた粗悪な一品だった。パスタの本場のイタリアでは麺料理はほぼ常に美味い。それだけに店の不手際は少し異様にさえ見えた。

今回の旅の初めでは魚介の美味い店は多かったが、肉料理には見るべきものがなかった。それでも情報を集めてポルケッタが美味いと評判のアグリツーリズモにたどり着いた。しかし店構えは良かったものの、そこの料理の味は昨年食べたポルケッタのそれには遠く及ばなかった。

やはり昨年、島の北部のレストランで堪能した、サルデーニャ本来の少し風変わりだが濃厚な味の肉料理を探すことは諦めて、それ以後はイタリア本土が起源の、だが島独自の要素もふんだんに盛り込んだ、海鮮料理に的をしぼって食べ歩くことにした。


アサリ&ボッタルガ
アサリ&ボッタルガのスパゲティ

前述のようにハズレがほとんどない美味い店の連続だった。その中でも海辺のレストランで食べた、上の写真のアサリ&ボッタルガのスパゲティが超一級品だった。昨年、似たような立地のビーチレストランで食べたパスタとは、似ても似つかない素晴らしい味だったのである。

僕はバカンスでは「何もしないことが休暇」というモットーで、連日ビーチでのんびり過ごすが、食事や観光や史跡また名所巡りなどにも、「何もしない」のと同じくらいの情熱で車を駆ってどんどん出掛ける。今回は滞在先に近い島の中心都市カリャリにも足を伸ばした。

カリャリでは昨年のサルデーニャ肉料理店と良く似た体験をした。想定外のおどろきのヤギ肉料理に出会ったのである。成獣のヤギ肉をサフランで煮込んだ一皿で、去年の一大発見である「羊の成獣の骨付き焼肉」に勝るとも劣らない風味を閉じ込めた絶品だった。

冒頭の写真がそれだ。見た目は、例えば沖縄のヤギ汁から汁だけを取り除いたような一皿だが、味わいはヤギ汁とは雲泥の差のある極上、且つ上品なものだった。上質なヤギ・羊肉料理の常で、独特の豊かな風味は残しながら、それらの肉の最大の欠点である異臭がきれいさっぱり消し去られていた。

ヤギや羊の成獣の肉には、独特の臭気という深刻な障害がある。そこで出色の店は、ハーブや香辛料やワインや酢やリキュール等々を駆使して肉をさばいて臭みを消す。その店ではサフランに加えて、おそらくワインも併用して見事に消臭を成し遂げていた。

またヤギ&羊の成獣肉には肉質が硬いという難点もある。成功した調理法では、異臭を消すと同時に、肉も柔らかく且つ上品な歯ごたえに改良されているケースがほとんどだ。僕が知る限りでは舌触りも必ずまろやかになっている。むろんその店の仕上がりも同様だった。

店は丘の上に広がるカリャリの旧市街、カステッロ地区にある。地区の入り口付近にあるエレファンテの塔(Torre dell'Elefante)を通過し左に歩いてすぐの場所だ。 海と市街を見渡す路上にテーブルを並べた同店は、昨年の島の北部のレストランと同じサルデーニャ伝統の肉料理専門店。

全くの偶然で見つけた。昨年のレストランよりもより豪快で素朴な肉料理に徹していた。だが海鮮料理店がひしめいているカリャリで、島伝来の肉料理にこだわるところは、海際の街にありながらやはり島伝統の肉料理に集中していた、昨年の店と心意気は同じだと思った。

ヤギ肉のサフラン煮込みとは正反対のサプライズもあった。子羊の骨付き肉のローストを頼んだところ、肉がタイヤのように硬くて、ナイフで切り分けるのも一苦労、という信じがたい代物が出てきたのである。ようやく切り分けて口に含むとやはり異様に硬い。

味は、ま、普通の味だが肉質の硬さが料理を完全にぶち壊しにしていた。成獣肉のサフラン煮込みという見事なレシピを編み出したシェフが、なぜこんなにも粗悪な料理を提供するのか、と僕は不審になった。よほどクレームを入れようかと思ったが、やめた。

子羊肉はサルデーニャでは秋から春が旬の食材、という話を思い出したからだ。牧羊が盛んなサルデーニャ島では、子羊料理が一年中食べられると思い込んでいた僕は、再び昨年、子羊料理は季節限定の品だとレストランで告げられてひどくおどろいた経験がある。

冷凍技術が発達した現在では、子羊肉はイタリアでは一年中出回っている。ましてや牧羊が活発なサルデーニャ島なのだからいつでもどこでも食べられると思ったのだ。だが牧羊が盛んで羊肉を良く知っているからこそ、サルデーニャの人々は新鮮な子羊肉にこだわるということらしい。

間違った季節に子羊料理を注文した自分が悪い、と僕は思い直した。ヤギ成獣肉のサフラン煮込みのあまりの美味さが、子羊料理のガッカリ感を吹き飛ばしていたこともある。また最高と最悪の味が同居している島の食環境は面白い、という思いもあった。

昨年は最悪の味のアサリとボッタルガのスパゲティを食べた。今年は一転して、妙妙たる口当たりのアサリ&ボッタルガのパスタに出会った。そして今、超ド級の味覚のヤギ成獣肉を頬張りつつ、木切れのように味気ない子羊肉も咀嚼している。実に面白い、とひとり密かにつぶやいた。

そうやって僕のヤギ・羊肉料理体験記には、また一つ「世界一」と格付けしたくなる極上レシピがリストに加えられた。そのリストは実は、子ヤギ・子羊料理のランク付けとして始まったものだが、いつの間にかヤギ・羊の「成獣肉」料理の一覧になりつつある。

ヤギ・羊の成獣肉は、子ヤギ・子羊の肉よりもはるかに臭気が強く肉質も硬い。従って料理の切り盛りも幼獣肉のそれよりずっと難しい。良く言えば珍味、もっと良く言えばゲテモノ(!)のヤギ・羊の成獣肉を、目覚ましい食材に変貌させるシェフたちの意気と技量に、僕ははなはだ感じ入ることが多くなった。


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地中海のカモメがつぶやいた


加筆再録


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昨年に続き地中海のサルデーニャ島で短いバカンスを過ごしている。6月の地中海の気温は高く、だが風は涼しく空気は乾いてさわやかである。

日本語のイメージにある地中海は、西のイベリア半島から東のトルコ・アナトリア半島を経て南のアフリカ大陸に囲まれた、中央にイタリア半島とバルカン半島南端のギリシャが突き出ている海、とでも説明できるだろうか。

日本語ではひとくちに「地中海」と言って済ませることも多いが、実はそれは場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っていて、イタリア語を含む欧州各国語で言い表される地中海も、もっと複雑なコンセプトを持つ言葉である。

地中海にはイタリア半島から見ると、西にバレアス海とアルボラン海があり、さらにリグリア海がある。東にはアドリア海があって、それは南のイオニア海へと続いていく。

イタリア半島とギリシャの間のイオニア海は、ギリシャ本土を隔てて東のエーゲ海と合流し、トルコのマルマラ海にまで連なる。それら全てを合わせた広大な海は、ジブラルタル海峡を通って大西洋にあいまみえる。

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がるのである。

さて、エーゲ海を起点に西に動くとギリシャ半島があり、イオニア海を経てイタリア半島に至る。その西に広がるシチリア島を南端とする海がティレニア海である。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてここサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、連日、文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

カモメが強風に乗って凄まじいスピードで真っ青な空間を飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島とギリシャの島々の空と海とビーチの空気感を敢えて比べて見れば、エーゲ海域をはじめとするギリシャの方がはるかに魅力的だ。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。またサルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

それは恐らく上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わわる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけで昨年に続いて、今回のサルデーニャ島の休暇でも、海三昧の時間というよりも、観光と食巡りに重点を置いた日々を過ごしている。


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スイスとサルデーニャ島が合体するのも面白い



スイス国旗
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さて、またサルデーニャ島にまつわる話。20年ぶりにサルデーニャ島を訪ねてからほぼ3か月が経ったが、島の魅力に取り憑かれて、あたかも魂がまだ滞在先の海岸付近をさ迷っている、というふうである。
 
サルデーニャ島は既述のように古代からイタリア本土とは異なる歴史を歩んできた。それゆえにサルデーニャ島人は独自のアイデンティティー観を持っていて、自立・独立志向が強い。

ローマ帝国の滅亡後、イタリアでは各地が都市国家や公国や海洋国家や教皇国などに分かれて勝手に存在を主張していた。

そこでは1861年の統一国家誕生後も、独立自尊のメンタリティーが消えることはなく、それぞれの土地が自立あるいは独立を模索する傾向がある。

サルデーニャ島(州)もそのうちの一つである。だが同島の場合、島だけで独立していたことはない。アラブやスペインの支配を受けた後、イタリア半島の強国の一つピエモンテのサヴォイア公国に統治された。

現在はイタリア共和国の同じ一員でありながら、サルデーニャ島民が他州の人々特にイタリア本土の住民とは出自が違いルーツが違う、と強く感じているのは島がたどってきた独自の歴史ゆえである。

1970年代には38%のサルデーニャ島民が独立賛成だったが、2012年のカリアリ大学とエジンバラ大学合同の世論調査では、41%もの島民が独立賛成と答えた。その内訳は「イタリアから独立するが欧州連合(EU)には留まる」が31%。「イタリアから独立しEUからも離脱する」が10%だった。

今日現在のサルデーニャ島には深刻な独立運動は存在しない。だが統計からも推測できるように、島では政党等の指導による独立運動が盛んな時期もあったのだ。そして島の独立を主張する政党は今も10以上を数える。

それらの政党にかつての勢いはなく、2018年現在のサルデーニャ州の独立運動は、個人的な活動とも呼べる小規模な動きに留まっているのがほとんどである。

その中にはイタリアから独立し、且つEU(欧州連合)からも抜け出してスイスへの編入・統合を目指そうと主張するユニークなグループもある。

荒唐無稽に見える言い分は、それをまさに荒唐無稽ととらえる欧州や世界の人々の笑いと拍手を集めたが、僕の目にはそれは荒唐無稽とばかりは言えないアイデアに映る。

その主張は、イタリア本土から不当な扱いを受けてきたと感じている島人たちの、不満や恨みが発露されたものだ。イタリア本土の豊かな地域、特に北部イタリアなどに比較すると島は決して裕福とは言えない、

経済的な不満も相まって、島民がこの際イタリアを見限って、同時に、欧州連合内の末端の地域の経済的困窮に冷淡、と批判されるEUそのものさえも捨てて、EU圏外のスイス連邦と手を組もう、というのは面白い考えだ。

ただスイスと一緒になるためには、先ずイタリアからの分離あるいは独立を果たさなければならない。これは至難の業だ。イタリア共和国憲法は国内各州の分離・独立を認めていないからだ。

仮に分離・独立できたとすると、スイスは喜んでサルデーニャを受け入れるかもしれない。なにしろ自国の半分以上の面積を有する欧州の島が、一気にスイスの国土に加わるのだから悪くない話だ。

しかも島の人口はスイスの5分の一以下。サルデーニャの一人当たりの国民所得はスイスよりはるかに少ないが、豊かなスイス国民は新たに加わる領土と引き換えに、島民に富を分配することを厭わないかもしれない。

スイスとサルデーニャ島は全くのあだびと同士ではない。それどころか同じ欧州の一員として文化も国民性も似通っている部分も多い。スイスの一部ティチーノ州は、イタリア語を話す人々の領地でさえあるのだ。

島は少なくとも、現在欧州全体の足かせになっている、大半の難民・移民の出身地であるアフリカや中東ではないから、スイス国民も受け入れやすいだろう。

海のないスイスに、美しいティレニア海と暖かで緑豊かなサルデーニャ島が国土として加わるのだ。何度でも言うがスイスにとっては少しも悪くない話だ。

スイス政府は隣国イタリアの内政問題だとして、サルデーニャ島からのラブコールには沈黙を押し通している。

それは隣国に対する礼儀だが、敢えてノーと言わずに沈黙を貫き通していること自体が、イエスの意思表示のように見えないこともないのである。


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“植民地”サルデーニャ島に当たり前に芽生える 「独立論」



浜に津k立てられたムーア人の旗(有名画像)
サルデーニャ国(州)旗‘4人のムーア人’


先日言及したイタリア・サルデーニャ島の「食の植民地主義」も軽くない現実だが、同島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

salvatore meloni











独立運動家サルヴァトーレ・メローニ


元長距離トラック運転手のメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・デ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴された。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見做された。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかった。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に
「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら
「喜んでサルデーニャをフランスに譲る」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党 (Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党 (Unione Democratica Sarda).」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党は約14%もの支持を得る躍進を見せた。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたくらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家である。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思う。


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サルデーニャ食紀行~魚介パスタに見る植民地メンタル 



古海軍地図600


イタリア本土の魚料理とサルデーニャ島の魚料理の在り方は、見ようによっては極めて植民地主義的な関係である。つまり力のある者、経済的優位に立つ者、多数派に当たる者らが、弱者を抑え込んで排斥したり逆に同化を要求したり、また搾取し、支配することにも似ている。多数派による数の暴力あるいは多勢に無勢、などとも形容できるその関係は料理に限ったことではなく、両者の間の政治力学の歴史を踏襲したものである。

ごく簡略化してサルデーニャ島の歴史を語れば、同島は先史時代を経て紀元前8世紀頃にフェニキア人の植民地となり次にはカルタゴの支配下に入る。支配者の彼らは今のレバノンやチュニジア地方に生を受けた、いわゆるアラブ系の民族だ。紀元前3世紀には島はローマ帝国の統治下に置かれたが、8世紀初頭には多くがイスラム教徒となったアラブ人の侵略を再び受け、長く支配された。

島はその後スペインやオーストリアなどの欧州列強の下におかれ、やがてイタリア王国に組み込まれる。そして最後にイタリア共和国の一部となるのである。そのようにサルデーニャ島の歴史は、欧州文明の外に存在するアラブ系勢力の執拗な侵略と統治を含めて、一貫して植民地主義の犠牲者の形態を取ってきた。

サルデーニャ島の魚料理の変遷を政治的なコンセプトに重ねて見てみると、そこには多数派と少数派の力関係の原理あるいは植民地主義的な状相があることが分かるのである。或いはそこまで政治的な色合いを込めずとも、多勢に無勢また衆寡敵せずで、少数派の島人や島料理が多数派の本土人や本土料理に押され、詰め寄られ、凌駕されていく図が見える。

そうした現実を進化と感じるか、逆に屈辱とさえ感じてしまうかは人それぞれだろうが、島本来のレシピや味も維持しつつ、イタリア本土由来の料理も巧みに取り込んでいけば、島の食は今後もますます発展していくだろう。島国根性に縛られている「島人」は、"島には島のやり方があり伝統がある”などと、一見正論じみた閉塞論を振りかざして、殻に閉じこもろうとする場合がままある。

島のやり方は尊重されなければならないが、それは行き過ぎれば後退につながりかねない。また伝統が単なる陋習である可能性にも留意しなければならない。特に食に関しては、「田舎者の保守性」という世界共通の行動パターンがあって、都会的な場所ではないところの住民は、目新しい食物や料理に懐疑的であることが多い。日本の僻地で生まれ育った僕自身も実はその典型的な例の1人である。

植民地主義的事象は世界中に溢れている。それは差別や偏見や暴力を伴うことも多いやっかいな代物だが、世の中に多数派と少数派が存在する限り植民地主義的な「不都合」は決してなくなることはない。少数派は断じて多数派の横暴に屈してはならないが、多数派が多数派ゆえに獲得している可能性が高い「多様性」や「進歩」や「開明」があるのであれば、それを学び導入する勇気も持つべきである。

同時に多数派は、多数派であるが故に自らが優越した存在である、という愚劣な思い上がりを捨てて、少数派を尊重し数の暴力の排斥に努めるべきだ。これは正論だが実現はなかなか難しい要求でもある。なぜなら多数派が、多数派故に派生する数の力という「特権」を自ら進んで放棄するとは考えにくいからだ。それは多数派の横暴が後を絶たない現実を見れば明らかだ。

それに対しては、少数派の反発と蜂起が続いて対立が深まり、ついには暴力が行使される事態にまで至る愚行が、世界中で飽きもせずに繰り返されている。そうしたしがらみから両者が解放されるためには、堂々巡りに見えるかもしれないが、やはり植民地主義の犠牲になりやすい少数派が立ち上がり声をあげ続けるしかない。なぜなら多数派の自発的な特権放棄行為よりも、少数派の抗議行動の方がより迅速に形成され実践されやすいからだ。

サルデーニャの食に関して言えば、イタリア本土の料理のノウハウを取り込みつつサルデーニャ食の神髄や心を決して忘れないでほしい。それは島人が意識して守る努力をしなければ、多数派や主流派の数の洪水に押し流されてたちまち消え去ってしまう危険を秘めた、デリケートな技であり概念であり伝統であり文化なのである。

20年前とは格段に味が違うサルデーニャ島の魚介料理、中でも海鮮ソースパスタに舌鼓を打ちつつ、また同時に20年前にはほとんど知らなかった島の肉料理のあっぱれな味と深い内容に感動しつつ僕は、突飛なようだが実はありふれた世の中の仕組みに過ぎない植民地主義や植民地メンタル、あるいは多勢に無勢また数の横暴などといった、面倒だがそれから決して目を逸らしてはならない事どもについても思いを馳せたりした。



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サルデーニャ食紀行~進化目覚ましい海鮮料理



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麺もソースも進化し続ける海鮮パスタ~スコーリオ&ボッタルガ~


サルデーニャ島の料理の主流、あるいは正当な伝統料理の食材は肉である。ところがいま現在のサルデーニャ島には魚料理があふれていて、それは食の国イタリアのどの地域の海鮮料理にも全くひけをとらない味を誇っている。

島の魚料理はリゾート地として目覚ましく発展している沿岸地帯を中心に生長してきた。ミラノをはじめとする北イタリアの金持ちたちが、彼らの専属シェフとともに魚料理のレシピを持ちこんで流行らせたり、古くからある沿岸地帯の数少ない魚料理を改良(ある種の人々にとっては改悪)していったのだ。

専属シェフを抱えるほどの経済的余裕や食への情熱をそれほどは持たない者は、島のレストランや招待先で彼らの知る「イタリア本土料理」の要諦を講釈し、そこへ向けて島料理が変化するように要求した。そうやってサルデーニャの「島風魚料理」は、徐々に「イタリア本土風の味」に変ることを余儀なくされた。

言葉を変えれば、島の魚介膳は世界の誰もが知る「普通の」イタメシへと変貌していったのだ。イタメシだからそれはほとんどの人にとって美味しい煮炊きである。それがサルデーニャ島の海岸地域に見られる今日の魚介料理の状況だ。いつでも、どこで食べても美味い。

2018年夏のサルデーニャ訪問旅で行き逢った最善の魚料理は、滞在先のキャンプ場の中のレストランで食べたタコ料理だった。その一皿は茹でたタコをスライスしてマリネで包み固めたもの。レシピも味も伝統料理とはずいぶん違っていた。

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秀逸~まろやかタコマリネ~

僕はマリネに特別な嗜好を持たない。むしろ嫌いなほうだ。そんな自分がすぐに好きになったほどの料理の漬け汁の味が、タコのデリケートな滋味にからまって、得も言われぬ 旨味 を生成していた。

地中海域には、ギリシャやトルコやイタリアなど、タコ料理の美味い国々がある。そこで共通しているのは、日干しのタコやイイダコなどをトマトソースやオリーブ油やワインなどを絡ませてじっくりと煮込む調理法で、どの国の膳も美味い。

サルデーニャ島を含む地中海の島々のオリジナルのタコ料理は、主に新鮮なタコを茹でたり焼いたりする原始的なものだった。16世紀にトマトが南米から欧州に導入され、18世紀に食用として一般化すると、タコ料理はオリジナルのレシピも保ちつつ、大半がトマトにワインとオリーブ油などを加えて煮込む調理法へと変わっていった。

今回食べたタコ料理は、地中海伝統のそれらの煮込み膳とは似ても似つかなかった。見た目はむしろ、海鮮サラダとして提供される時の「茹でダコのスライス」に近い。だが味は初めて体験するもので、一般的な海鮮サラダとはまるで違う、豊饒でまろやかな舌触りが特徴の優れた一品だったのである。

それに続く魚介料理の発見もあった。滞在先近くの街、ポルト・トーレスの老舗レストランで体験した魚介の前菜(伊語アンティパスト、英語スターター或いはアペタイザー)である。エビやタコなどの通常素材をデリケートなタッチで仕上げたもので、シェフの絶妙な手腕に舌を巻いた。

またそれとは別に、何種類もの魚肉をミンチにして混ぜ合わせ、丸めて油で揚げたpolpetta(魚肉ボール揚げ)も美味しかった。さらに、小鮫の肉の煮込みという一品もあった。個人的には鮫肉の味はさておくとして、面白い趣向だと思った。

タコの新しい味わいを引き出した前述の一皿や、冒険心満載の魚介の前菜などは、島の外の人々、つまりリゾートに休暇でやって来るバカンス客を目当てに、島の外からやって来たシェフや料理通らが編み出したレシピだ。だが今では島出身の料理人たちも自家薬籠中の物にしてさらに進展している。

一風変わったそれらの海鮮料理はさておいて、今回もよく食べたのが魚介ソースのパスタだった。いや、「最も多く」食べたのが魚介ソースのパスタだった、と言わなければならない。アサリやムール貝のソース、ボッタルガ(マグロの卵のタラコ風塩漬け)、ミックス魚介ソース和えなどの「通常」パスタをほぼ連日口にしたが、味はどこの店のものもすこぶる美味かった。

イタリア本土からの観光客が多いサルデーニャ島のレストランで、魚介ソースのパスタを美味く仕上げられないなら、その店は完全にアウトである。だからどの店も必死に魚介ソースのパスタに磨きをかける。魚介ソースのパスタは、サルデーニャ島を含むイタリアでは、どこでもいつでも美味いのが「当たり前」なのだ。

ところが今回は、イタリア国外でよく遭遇する不味い魚介パスタにそっくりの代物にも行き会った。極めて珍しい例なので、後学のために敢えてここで言及しておくことにした。

その場所は、スペインのカタルーニャ人が多く渡来し住み着いた濃厚な歴史の街、アルゲーロ(Alghero)のレストラン。アルゲーロのスペイン風の街並みと空気感を楽しんだ後に、車を駆って面白そうなレストランを探し回った。

そうして見つけたのが、ビーチに杭を打ち立てて建造されたりっぱな建物のレストラン。水着姿の客も多い文字通りの「海際の」店だった。

僕はごく普通にボンゴレ(あさり)ソースのスパゲッティを頼み、同伴している妻は魚卵ボッタルガのスパゲティを注文した。出てきたのは見た目がちょっとゆるい感じのソースがからまったボンゴレと、ボッタルガの量をケチったのが見え見えの薄っぺらな雰囲気の2皿。

味見をした。さすがに2品ともにパスタのアルデンテ(歯ごたえのある)まで外すことはなかったが、ソースの不味(まず)さにおおげさではなく「驚愕」した。見た目そのままの味だったからである。

ボンゴレは水っぽく、プチトマトの味もよくなかった。おまけに貝の量が恥ずかしいくらいに少ない。魚介の味がほとんど感じられなかった。パスタ全体の味を語る前に、まず魚介の具を増やさなければ話にならない、というほどの貧しさである。プチトマトを生のものではなく「乾燥トマト」を使っていれば味はぐんと違っていただろうが、「ないものねだり」という風だった。

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本場イタリアとは思えない~お粗末ボッタルガ・スパゲティ~

もう一皿のパスタも良くなかった。こちらも具のボッタルガの量が少ないのに加えて、素材がぱさぱさに乾ききっていて魚卵の風味が損なわれていた。ボッタルガに絡ませる素材も全く考慮していないのが明らかな不手際ぶりである。

その店の料理人は恐らく夏場の超多忙な時期に雇われる三流シェフなのだと感じた。素人に毛が生えただけの料理人を雇って、質よりも量を重視して一気に稼ぐ手法の経営体制の店に違いない。よくある話だが、パスタの本場のイタリアにおいては、ファーストコースの麺料理をないがしろにする店が成功するのは至難の業だ。

それでも繁盛しているように見えるのは、顧客層が普通とは違っていたからだ。イタメシの本場の味としてはいかにも貧弱なその店の客は、ほとんどが外国人だったのだ。特にドイツを中心とする北欧各国と東欧の旧共産主義国からのバカンス客のようだ。彼らは少々のイタメシの粗悪には気がつかないことも多いとされる。

その悪口はイタリア人を始めとする、欧州のいわゆる「グルメの国」の食通たちの言い草である。見方によっては不遜と取られても仕方のないそうした評価は、まさに思い上がりそのものである場合もある。だが一方で、真実を突いた見解であることも少なくない。

繰り返しになるがその店の顧客は常連客やリピターではなく、その場限りの通りすがりの外国人がほとんどだった。味の貧弱にも拘わらずにレストランが繁盛している陰には従って、あるいは食通たちの批判通りの現実があるのかもしれない。

同時に実は僕は、20年前のサルデニャ海鮮料理体験を思い出していた。妻と子供2人を伴って、3週間にわたってキャンピングカーでサルデーニャ島を巡った折、僕は島の魚料理の貧しさに閉口して自分で魚介を買っては調理した経験がある。

20年後の今、サルデーニャ島の魚介レシピは目覚ましい発展を見せている。だがもしかすると、根元では肉料理が主体の「島料理」のメンタリティーはあまり変わっていないため、魚介膳のそうした不備が時々顔を出すのかもしれない、と思ったりもしてみたのである。



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ティレニア海とエーゲ海



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「天国海岸」という陳腐な名称のサルデーニャ島の海の絶景


6月終わりから7月半ばまで滞在したサルデーニャ島では、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始した。海とビーチは昨年のクレタ島で堪能したから今回はなくても構わない、という趣旨の思いを僕は前の記事で書いた。

もっと言えば、「海とビーチはギリシャが最善」だからサルデーニャ島のそれにはあまり魅力を感じなかった、というところである。

多くの人が羨ましがるサルデーニャ島の海なのに、よりによってそこに魅力を感じなかったなんてふざけるな、と島のファンの皆さんに怒られそうだが、それが自分の正直な感想なので仕方がない。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。しかしながらギリシャの島々の、エーゲ海をはじめとする碧海やビーチは、もっとさらに素晴らしい、というのが僕の率直な心緒なのである。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、来る日も来る日も文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

真っ青な空間にカモメが強風に乗って凄まじいスピードで飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけでサルデーニャ島の今回の休暇では、海三昧のバカンスではなく、観光と食巡りに重きを置く日々を過ごした。それはそれで楽しいものだった。


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サルデーニャ島のエッセンス



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2018年6月、20年ぶりに再訪したイタリア・サルデーニャ島では見たいもの、聞きたいこと、確認事項、食べたいもの、知りたい事案など、などが僕の中で目白押しになっていた。

島には世界遺産のヌラーゲ(古代巨石遺跡)やイタリア随一のリゾート地「ポルトチェルヴォ」あるいはスティンティーのラ・ペローザビーチ、マダレーナ諸島、手付かずの各地の自然など、見るべきものが数多くある。

その中でも最も見たいものが、島のほぼ中央部の東寄りにあるオルゴーソロ
(Orgosolo)のアート壁画だった。

島の深い山中にあるオルゴーソロは人口約4500人の村。かつて「人殺しの巣窟」とまで呼ばれて悪名を馳せていた犯罪者の拠点集落である。

犯罪者の拠る場所は往々にして貧民の集落と同義語だ。山賊や殺人鬼や誘拐犯らがたむろしたかつてのオルゴーソロは、まさにそんな貧しい村だった。

一般社会から隔絶された山中の村人は、困窮する経済状況に追い詰められながらも、外の世界との付き合いが下手で不器用なために、それを改善する方策を知らなかった。

そうやってある者は盗みに走り、ある者は誘拐、また別の者は強盗や家畜略奪などに手を染めた。また残りの村人たちはそうした実行犯を助け、庇護し、官憲への協力を拒むことで共犯者となっていった。

犯罪に基盤を置く村の経済状況は良くなることはなかった。それどころか、外部社会から後ろ指を指される無法地帯となってさらに孤立を深め、貧困は進行した。かつてのオルゴーソロの現実こそ、サルデーニャ島全体の貧しさを象徴するものだったのではないか。

時代が下ってイタリア共和国に組み込まれたサルデーニャ島は、イタリア国家の経済繁栄にあずかって徐々に豊かになり、おかげでオルゴーソロの極端な貧困とそこから発生する犯罪も姿を消した。

ある日、国が村の土地を接収しようとしたことをきっかけに、村人らの反骨精神が燃え上がった。彼らは国への怒りを壁画アートで表現し始めた。山賊や殺人犯や誘拐犯らは、イタリア本土の支配に反発する愛郷心の強烈な人々でもあったのだ。

彼らは村中の家の壁に地元の文化や日常を点描する一方、多くの政治主張や、中央政府への抗議や、歴史告発や、世界政治への批判や弾劾などを描きこんで徹底的に抵抗した。1960年代のことである

だが実は、オルゴーソロはサルデーニャ島における壁画アートの先駆者ではない。島南部の小さな町サン・スペラーテの住民が、観光による村興しを目指して家々の壁に絵を描いたのが始まりである。

それは島の集落の各地に広まって、今では壁画アートはサルデーニャ島全体の集落で見られるようになった。特に内陸部の僻地に多い。そこは昔から貧しく今も決して豊かとは言えない村や町が大半である。

そうした中、かつての犯罪者の巣窟オルゴーソロは、インパクトが大きい強烈な政治主張を盛り込んだ壁画を発表し続けた。それが注目を集め、イタリアは言うに及ばず世界中から見物者が訪れるようになった。

外部からの侵略と抑圧にさらされ続けた島人が、「反骨の血」を体中にみなぎらせて行くのは当然の帰結である。そこに加えて貧困があり、「反骨の血」を持つ者の多くは、貧困から逃れようとして犯罪に走った。

イタリア共和国の経済繁栄に伴って村が犯罪の巣窟であることを止めたとき、そこには社会の多数派や主流派に歯向かう反骨の精神のみが残った。そして「反骨の血」を持つ者の一派だった無政府主義者が中心となって壁画を描き始め、それが大きく花開いた。

サルデーニャ島は、イタリア共和国の中でも経済的に遅れた地域としての歩みを続けてきた。それはイタリアの南北問題、つまり南部イタリアの慢性化した経済不振のうちの一つと捉えられるべきものだが、サルデーニャ島の状況は例えば立場がよく似ているシチリア島などとは異なる。

サルデーニャ島はまず地理的にイタリア本土とかけ離れたところにある。地中海の北部ではイタリア本土と島は割合近いものの、イタリア半島が南に延びるに従って本土はサルデーニャ島から離れていく形状になっている。

一見なんでもないことのように見えるが、その地理的な配置がサルデーニャ島を孤立させ、歴史の主要舞台から遠ざける役割も果たした。イタリア半島から見て西、あるいはアフリカ側にあると考えられた島は軽視されたのである。

その要因は、先史時代のアラブの侵略や後年のイスラム教徒による何世紀にも渡る支配など、島が歩んで来た独特の歴史と相俟って、サルデーニャをイタリアの中でもより異質な土地へと仕立て上げていった。

島の支配者はアラブからスペインに変り、最終的にイタリア本土になるが、サルデーニャ島はそこへの同化と、同時に自らの独自性も強く主張する場所へと変貌し、今もそうであり続けている。。

島が政治経済文化的に本土の強い影響を受けるのは、あらゆる国の島嶼部に共通する運命だ。また島が多数派である本土人に圧倒され、時には抑圧されるのも良くあることである。

島は長いものに巻かれることで損害をこうむるが、同時に政治経済規模の大きい本土の発展の恩恵も受ける。島と本土は、島人の不満と本土人の島への無関心あるいは無理解を内包しつつ、「持ちつ持たれつ」の関係を構築するのが宿命だ。

ある国における島人の疎外感は、本土との物理的な距離ではなく本土との精神的距離感によって決定される。サルデーニャ島の人々は、イタリアの他の島々と比べても、本土との精神的距離が遠いと感じているように見える。

そうしたサルデーニャ人の思いが象徴的に表れているのが、オルゴーソロの
「怒れるアート壁画」ではないか、と僕は以前から考えていた。だから島に着くとほぼ同時に僕はそれを見に行かずにはいられなかった。

抗議や怒りや不満や疑問や皮肉などが家々の壁いっぱいに描かれたアート壁画は、芸術的に優れていると同時に、村人たちの反骨の情熱が充溢していて、僕は自分の思いが当たらずとも遠からず、という確信を持ったのだった。


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ギリシャ、エーゲ海の島々の食日記~エピローグ 



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ギリシャ・エーゲ海の島々の中でも最大、且つ最南端のクレタ島は、肉料理が豊富である。

また小さなレロス島では、豊富な魚介料理のうちでも日本の刺身に影響された「刺身マリネ」の一生懸命さが印象的だった。

島が大きいほど肉料理が充溢しているように見えるのは、陸地が広い分だけ野生の動物も多いのが理由だろう。

また家畜の場合でも、土地が潤沢なほど牧草や飼料が充溢するから飼育が盛んに行われる、という当たり前の状況もあるに違いない。

数年前に滞在した同じギリシャのロードス島は、肉料理も魚介料理も同じくらいにレシピが盛りだくさんで、味も良かった。

ロードス島はギリシャ国内4番目の広さの島。大きくもなく小さくもない規模、あるいは大きいとも小さいとも言える島。そのせいで料理も肉と魚が満載、ということなのだろう。

10年程度をかけて中東や北アフリカを含む地中海域を旅する、という僕の計画はイスラム過激派のおかげで頓挫した。

僕は命知らずの勇気ある男ではないので、テロや誘拐や暴力の絶えない地域を旅するのは御免である。

世界には一生かけても訪ねきれない素敵な場所がゴマンとある。なのにわざわざ危険な地域を選んで旅することはない。

アラブまた北アフリカの国々は、「将来機会がある場合のみ訪ね歩く」ときっぱり割り切って、僕の地中海紀行は来年以降もギリシャを中心に回る腹づもりである。

その際の食の探訪のひとつには、アラブ圏で大いに楽しもうと考えていた、ヤギ&子ヤギまた羊肉料理をしっかりとメジャーに据えて、食べ歩く決心をした。

もっとも9月のクレタ島でも10月のドデカネス諸島でも、はたまた3月に旅したスペインのカナリア諸島でも、ヤギ&羊料理は目に付く限り食べ、目に付かない場合も「敢えて」探して食べたのだけれど・・



クレタ島の食日記(番外編)~こってり刺身



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レストランMulinoのマグロのたたき(実はカツオのたたきマリネ風か?)


クレタ島からイタリアに帰還してちょうど20日後の10月13日、再びギリシャを訪ねた。ヨットでドデカネス諸島のうちのいくつかの島々を巡ったのだ。

夏のバカンスをヨット上で過ごす友人に、もう10年以上も誘われていた。断りきれずに今回ようやく実現した。季節はずれの10月の誘い、というのが決め手だった。

もっとも「季節はずれ」とは、7月と8月がピークのバカンス期はいうまでもなく、その前後の6月と9月の準ピーク時にも入らない「10月の静かな時間」と言う意味で、島々の日中の陽射しの強さはまだまだ夏そのものだった。

ヨットは14メートルのかなり大きな船でキャビンが4室あり、中央には6~8人が食事できるリビングがある。快適だが、狭い空間に慣れない自分には息苦しさも伴った。できる限り船外で過ごした。昼と夜の2回の食事も、なるべく船を離れて上陸して、レストランに行った。

島々の食材は、大陸的な風貌をしたクレタ島の肉類とは違って「島らしく」魚介が主体である。それは再び「島らしく」ほぼ全てが新鮮だった。

レシピは欧州のほとんどの地域の魚料理と同様に「焼く、煮る、揚げる」の3形態。単純だが食材が新鮮なだけにどれも美味だった。魚介は新鮮である限り何でも美味い、というのが僕の思いだ。刺身が美味なのも基本的にはそれが理由だ。


2017年10月21日のレロス島のビーチ
2017年10月21日のレロス島のビーチ。11月初めまでこんな風だという

島巡りの拠点だったレロス島には、多くのレストランが軒を連ねていた。ごく普通の観光客やバカンス客のほかに、ヨット愛好家の友人らを含めて僕が勝手に「Barca vela zingari(ヨット・ジプシー族)」と名づけた船上滞在者が多い。ドデカネス諸島最大のヨットハーバーが島にあるからだ。

沖縄県宮古島の半分弱の面積しかない小さな島には、そうした事情もあって夏の間は訪問客があふれる。それらの人々をターゲットにした歓楽施設も多い。その最たるものがレストラン。施設が多い分おいしい店も少なくない。


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レストラン「風車」と風車小屋

島にイタリア語の「風車(Mulino)」という名を冠した店がある。そこは島におけるいわゆる高級店で値段も高いという評判である。訪ねてみると、海際の風車小屋につづくシンプルな造りの店でとても雰囲気が良い。

もちろん魚介がメインのレストランである。シェフが日本食贔屓で刺身も出す。普通に提供しているのは、イタリア語のRicciola(カンパチまたはヒラマサ)とマグロの刺身。新鮮なものが手に入ればイカとエビの刺身も造るらしい。

まずマグロの刺身を頼んだ。普通の刺身と「特別仕立て」があるという。マグロはもはやイタリアでも普通に刺身が食べられるので、どうせなら「特別仕立て」に挑戦したいと思い、それを頼んだ。

出てきたのはどこから見てもカツオのたたき風の一品。イタリアではカツオを
「Tonnetto(小さなマグロ)」と呼ぶので、イタリア風の名を付けているこの店のマグロも、もしかするとカツオのことではないかと思った。だが食べてみるとカツオとは違うようだ。

どちらかといえば大味な感じがあった。正直、マグロの(日本風の)刺身やカツオのたたきのほうが味がデリケートだ。どっちつかずの不思議な味がした。調理されているせいか、カツオかマグロか正確には分からなかったが、素材は極めて新鮮であることはよく分かった。

次に出たのがRicciolaの刺身。オリーブ油やプチトマトの薄切り、唐辛子の千切りに上品なヴィネガ(酢)を和えたソースがかかっている。刺身というよりもマリネだと思った。見栄えが良くて味も悪くはなかった。

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Ricciola(カンパチ)の刺身

イタリアでも、日本食レストラン以外の店の刺身は、マリネ風で提供される場合がほとんどだ。醤油とわさびのみを添えて、素材そのものの味と風味を楽しむ日本風の「サシミ」はあまり受けない。「生の魚肉」をいかに味付けするかが、海外の刺身料理の主流といっても良いだろう。

僕はイタリアでは、ヨーグルトをベースにしたソースで和えた刺身も食べた。それは刺身ではないが、刺身を基にしたフゥージョン料理、というほうが正確なのだろうと思う。不思議な味だが、決して不味いとは言えない。だが僕はまた、これまでのところは、「美味い」と心から思ったことも正直ない。

Ricciolaのマリネはそれなりに美味いと感じた。しかし、舌に重く、味のこってり感がいつまでも残った。シェフの創意工夫と想像力と努力は大いに認めるが、自分が腹から「美味い」とうなり声を上げるような料理ではなかった。

続いてイカとエビの刺身も味わってみた。どちらもやはり味つけ(マリネ)の濃さが気になった。器は趣味や形や色が日本風でどれも趣があった。特に青磁風の皿が上品で良かった。

何でも日本風がベスト、というわけでは毛頭ないが、一応「刺身」と日本風の名前と味を売りにしている料理なので、やはり日本オリジナルのあれこれと比較したくなってしまうのである。

最後に-食事作法としては本末転倒だが-パスタを頼んでみた。店のシェフが刺身をギリシャあるいは「Mulino」風に作り変えたように、パスタもギリシャ風にアレンジするのかどうか見てみたかったのだ。

出てきたのは、イタリアの美味い店のものと寸分違わないひと皿だった。アサリの新鮮なうま味と、完璧なアルデンテ(歯ごたえのある)のパスタががからまっていた。

レロス島の隣のリプスィ島で、魚の卵ソース(ボッタルガではない)和えの秀逸なパスタに出会ったが、それに匹敵するほどのおいしさだった。

どうやらその店では、同じ欧州文化圏の名品「パスタ」は完全に自家薬籠中の物としたようだが、遠い東洋の名品「刺身」の場合は、未だ「試行錯誤の途中」ということらしかった。





「ヨハネの黙示録」の島を行く


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丘の上にそびえる「聖ヨハネ修道院」


ギリシャのドデカネス諸島を訪ねた。9月のクレタ島につづいて今年2度目のギリシャ旅。

ミラノ→アテネ→レロス島と飛行機で移動し、ヨットでリプスィ島→アルキ島→パトモス島と巡って再びレロス島に戻った。

主にレロス島を拠点に夏のバカンスをヨット上で過ごす友人たちがいる。そのうちの1人にかねてから誘われていた。

夏の盛りに、ヨットの狭いキャビンで他人と共同生活をするのは気が引ける。ずっと断りつづけてきたが、今回は断りきれなかった。

季節外れの10月半ば過ぎなので人出が少なく、ヨットのキャビン内の窮屈は、船外の開放感で埋め合わせられるのではないか、という思いがあった。それは的外れな予見ではなかった。

ヨット船内の狭苦しさはやはりつらかったものの、甲板に立てば、エーゲ海上のまだまだ暑い日差しと、乾いた風に救われた。

上陸した島々の素朴な美しさと人出の少なさも予想通り気分を良くしてくれた。食事もうまかった。ひと月前のクレタ島の食とは違い、どの島でも魚介類が中心食材である。

今回の旅の主な目的は、使徒ヨハネが「ヨハネの黙示録」を書いた場所とされるパトモス島の見聞だった。

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「聖ヨハネ修道院」から見下ろす港街

ヨハネが神からの啓示を与えられたとする洞窟内の礼拝所と、その上の広大な「聖ヨハネの修道院」は圧巻だった。

だがそこに人がからむと少し興ざめの光景もあった。明らかに観光客用のパフォーマンスと見える司祭らの動きが垣間見えたのである。

たとえばクレタ島のゴニア修道院では、カメラを向けられた神父が顔を隠して急ぎ足に通り過ぎた。そこには俗に汚されまいとする気概が見えて新鮮だった。

ところが「聖ヨハネの修道院」では、歩いている神父がカメラに向かってそ知らぬ振りでポーズを取り、洞窟内の礼拝所では、神父の祈りの声が観光客の団体が着くたびに高くなる、というふうだった。

僕は苦笑しながら、それでも神気と高貴と清廉が満ちた雰囲気を、厳粛な思いで検分し楽しんだ。

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修道院内は隅々まで美と緊張に満ちている

パトモス島にほど近い、リプスィ島とアルキ島はどちらも小さな島。特にアルキ島はミニチュアのようにかわいい。面積はたった2.15 km2 である。

小なりとはいうものの、どちらの島にも誇り高く且つ友好的なギリシャの島人が住んでいる。間もなく観光シーズンが終わる10月半ばでもバカンス客がけっこう滞在している。

両島ともに観光が主な産業であり、観光客また長期滞在のバカンス客を当てにしての漁業も盛んだ。魚介料理が島の目玉なのである。

島の魚料理は、ほぼ常に焼く、煮る、揚げる、の単純なものだが、地中海域のあらゆる島の魚介膳と同様に、素材の新鮮がレシピの貧困を補って余りあるおいしさだった。


ギリシャ・クレタ島の食日記~おいしい味覚史



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肉・野菜・魚介・カタツムり-なんでもありのクレタ料理惣菜



世界で一番美味いのは日本料理、というのが僕の偽らざる思いである。以下ランク順にイタメシ、中華、トルコ料理、ギリシャ料理と続く。

多くの人が世界一と考えるフランス料理は5本の指に入らない。フランス料理にはなんの恨みもない。仏メシの「こってり感と気取り感」が僕の中ではランクを下げる、というだけの話。

僕の独断と偏見では世界第5番目においしいのがギリシャ料理。そのギリシャ料理の中では国の最南端にあるクレタ島の食が、これまでのところはもっとも美味いと感じる。

この直前の2稿でも言及したように、クレタ島の食は魚介類が少なく、肉が主体である。それはギリシャ全体にも言えることだが、クレタ料理が「島の食」である事実を思えば興味は尽きない。

四方を海に囲まれた島でありながら、魚料理よりも肉料理が豊富なところは、クレタ島と同じく地中海に浮かぶ島、イタリアのサルデーニャ島の状況によく似ている。

サルデーニャ島は歴史的に多くの民族の侵略を受けた。特にイスラム教徒のそれは過酷で殺戮が多発した。そのため島人は内陸の山間部に逃げた。

四国よりも少し大きなサルデーニャ島は山深い土地である。侵略者から逃れた人々は、海から遠い内陸の山里に定住した。魚介よりも羊肉を中心とする肉料理が好まれたのはそのせいである。

いや、肉料理が好まれたというよりも、山峡に住まうことを強いられた人々は、いやでも肉料理に向かわざるを得なかった。海際の住民が魚介を主な糧とするように。

そうした歴史もあって、美食の国イタリアの一部でありながら、サルデーニャ島の魚料理にはあまり見るべきものがない。これは僕が実際に現地で体験しての感想である。

少し前の話になるが、キャンピングカーを借りて家族4人でサルデーニャ島に長期滞在をした。その時にレストランで食べた魚介料理はつまらなかった。

島だけに素材は新鮮な場合が多かったが、料理の味が良くないのである。明らかに魚介類への思い入れが薄いことから来る弊害と見えた。

僕はしばらくすると、魚介類をレストランで食べることをやめた。代わりに鮮魚店や市場で新鮮な素材を手に入れて、家族のために自分で料理をした。

たいした料理ではなかったが、妻も子供たちもそっちの方を喜んで食べた。キャンピングカーでの旅なのでそういうことができたのである。

現在、サルデーニャ島の魚介料理に見える少しの進展は、イタリア北部の金持ちたちによってもたらされたものだと考えられる。

彼らはバカンスで島を訪れる度に沿岸地帯の魚料理を少しづつ改良した。あるいは彼らの要求によって、島の魚介料理は変わることを余儀なくされたのである。

サルデーニャ島に限らずイタリアの魚料理は、パスタにからめたものを別にすれば肉料理ほどのインパクトはない。日本料理における魚介膳のような奥深さはないのだ。

従ってイタリア北部のバカンス客がサルデーニア島に持ちこんだ魚介料理も、日本食に比べた場合はそれほど目覚ましいものではない、と僕には見える。

そうはいうものの魚介類のたとえばパスタは、サルデーニャ島を含むイタリアのそれが世界一の味であることは、幾重にも付け加えておきたい。

あえて簡略化したサルデーニャ島の歴史事実は、ある程度クレタ島にも当てはまるように思う。サルデーニャよりも小さいがクレタ島も山深い土地である。

海からの侵略者に翻弄され続けたクレタ島民も、内陸部を主な居住地とした。そのために島には、魚介ではなく豚、鶏、牛、羊肉などの肉料理が発達した。

そう考えれば、海が間近に広がる島で、魚介膳が大きく進化しなかった理由が説明できるのではないか。ただし繰り返しになるが、島の魚介料理は素朴ではあるものの、素材が新鮮な分うまいことは美味いと付け加えておきたい。

島にやって来たのは侵略者ばかりではなかった。交易や友好を望む者や旅人も多く訪れた。また近年は、島の温暖な気候や鮮やかな景観に魅せられたバカンス客も群れをなして来訪する。

世界中から島に足を運ぶそれらの人々は、彼らの国のレシピを島民に伝え、あるいは彼らの嗜好で島伝来のレシピに改良や変化を求めた。

古来、欧州とアフリカと西アジアの人々が行き交う地中海の要衝であったクレタ島には、そうやって外来の煮炊きも多く根付いていった。

それらのほとんどもやはり肉料理だった。バルカン半島やトルコや西アジアにルーツを持つと見られる、スヴラギやギロスなどの肉料理がもっとも顕著な例である。

またクレタ島の魚介料理も外からの影響によって少なからず変貌していった。その最たるものはイタリア料理である。

クレタ島は13世紀初頭にヴェネツィア共和国の支配下に入った。以後、海の民ヴェネツィア人の魚介レシピが紹介され試されて、次第に島料理に取り込まれていった。

それでも、先に何度も述べたように、クレタ島の食は主に肉料理にかたよって、野菜、オリーブ油、チーズなどの乳製品をからめて発展した。魚介料理は少数派であり続けたのである。

そうしたところもクレタ島とサルデーニャ島の食の容貌は相似している。サルデーニャ島はヴェネツィア共和国に支配されたことはない。が、同島はイタリアの一部であることに変わりはない。

いうまでもなくサルデーニャ島の魚介料理は、イタリア本土のそれの影響下にはある。そしてヴェネツィア(共和国)はイタリア本土の一角にほかならないのである。

ついでに住民の気質についても言及しておくと、2島の住民はどちらかと言えば頑固でとっつきにくい、という評判がある。やはり山の民なのである。

しかし僕が知る限り、気難しい彼らは一度ふところに飛び込んで親しくなってしまうと、逆に大いなる友人となって心あたたかく寛大、且つとびきり明るい素顔を見せてくれる。

そして山の民である彼らが、友好の証として料理のもてなしをしてくれる場合には、今まさに獲れ立ての魚介類がない限り、たとえ島の沿岸部であっても圧倒的に肉料理が多い、とされるのである。


ギリシャ・クレタ島の食日記~珍味という名のゲテモノ料理



2則食べ分に近い
パツァス


ギリシャ料理は僕の勝手なランク付けでは、世界で第5番目に美味い食べ物だが、中でもギリシャ南端のクレタ島料理が特に美味い。

クレタの島料理は、素材が新鮮でそれなりにおいしい魚介レシピよりも、肉料理のほうが豊かである。豚肉と鶏肉が上等で牛肉も美味い。また羊肉料理も秀逸である。

それらの肉料理は、ほとんど全て島の野菜と共に提供される。クレタの島野菜は、まるで家庭菜園の産物でもあるかのように色鮮やかで味が濃く、新鮮そのものである。

サラダで食べても一級品だが、肉に合わせて煮たり焼いたり味付けされたりした野菜もすばらしい。クレタ島は地味豊かな且つ陽光目覚ましい土地柄。野菜の風味も芳醇なのである。

野菜をサラダで食べるときにはオリーブ油が欠かせない。クレタ島はオリーブ油の一大産地であり消費地。ギリシャ全体の約50%を産出し住民の1人当たりの消費量は世界一である。

今年9月に滞在したときは、島産のオリーブ油と醤油で味付をしたサラダを文字通り毎日食べた。僕はもう40年近くサラダをオリーブ油と醤油のドレッシングで食べている。もちろんイタリアでも。

休暇の終わりにはクレタ島第2の街ハニアで、ロンドンの映画学校時代の友人と会食をした。ギリシャのアテネ出身の友人は先年、英国人の奥さん共々クレタ島に移住したのだ。

ハニアの中心街にある市場の中の店で、友人が勧めてくれたパツァスを食べてみることにした。パツァスは豚の胃や腸その他の内臓を煮込んだスープ。牛や羊の内臓も使うという。

僕はその料理を、日本のもつ煮込みやイタリアのトリッパ(牛の胃の煮込み)を想像しながら注文した。ところが出てきたのは、内臓のエグい臭いが沸き立つ代物。良く言えば珍味、はっきり言えばゲテモノ料理だった。

大げさではなく吐き気を催すほどの臭みをぐっとこらえて、僕は口の中の異物を喉に流し込んだ。友人自慢のギリシャ料理を吐き出すのはとてもできなかった。

僕はその後、唐辛子のエキスが詰った激辛のスパイスを大量にスープにぶち込んで、味も臭味もわからないようにした上で必死に、おもむろに、だが完食した。

食べ終わったあとに友人が言った。「良くそんなまずい物が食べられるね」と。実はそれは、イタリアのトリッパと同じで人の好き嫌いが大きく分かれる食べ物であり、彼は大嫌いなほうなのだという。

それを早く言え、と思ったが後の祭りだった。それにしても、日本のもつ煮込みは言うまでもなくイタメシのトリッパにも内臓の臭味はない。パツァスの腐臭じみたにおいは驚きだった。

僕はそこで故郷の沖縄のヤギ汁のにおいを思った。好きな人にとっては強い「風味」であるヤギ汁の臭みは、ヤギ汁が嫌いな人や慣れない人には風味ではなく「異臭」として感じられる。

パツァスの独特のにおいもおそらくそれと同じものである。ある食べ物の「特異な風味」は、それが好きではない者にとっては、「ゲテモノ」とほぼ同義語なのである。

世界の観光地では地元の味をかたくなに守る店がその狷介ゆえに人気がある場合と、観光客向けに味を改良あるいは改悪して人気が出るケースがある。

クレタ島のハニアで僕が食したパツァスは、古いレシピを頑固に守っているという店のひと皿なので、島内の他の店のパツァスとは違っている可能性がある。

その店には地元民らしい客が多かったが、観光地のクレタには、旅行者の嗜好に合わせて、臭いを抑えたパツァスもきっと提供されているに違いない。

伝統料理パツァスの名誉のためにもそう付け加えておく。が、しかし、たとえにおいを制御したパツァスであっても、僕は今のところはもう一度それを食べようという気にはならない。

                                      つづく





ギリシャ・クレタ島の食日記~肉料理



800pic「ギロピタ」あるいは「ピタ・ギロス」
レストラン店内でも注文できるファーストフードのギリシャ版ケバブ「ピタ・ギロス」


独断と偏見であえて世界の食のランク付けをすれば、ギリシャ料理は僕の中では世界で5番目に美味い膳である。

僕にとって世界で一番美味いのは日本料理。以下イタメシ、中華、トルコ料理、と続いてギリシャ料理がそれらの後を追う。

ギリシャ料理の中でも、国の最南端にあるクレタ島の食べ物が、これまでのところはもっとも美味しいと僕は感じる。

島なのだからクレタ料理には魚介類が多そうである。ところがクレタの島料理は肉が主体である。魚介膳はギリシャ本土よりも少ないのではないか、とさえ思う。

クレタ島の魚料理は、焼いたり煮たり揚げたりするだけのシンプルなものがほとんどだ。だが島だけに素材は新鮮である。

新鮮であれば魚介料理は常に美味い。刺身が美味いのも基本的にはそういうことだ。つまりレシピの単純を補って余りあるのが、魚介の活きの良さなのである。

深みのないクレタ島の魚料理の中で秀逸なのがタコ料理。タコ料理はギリシャ全体で好まれてさまざまな調理法があるが、ワインで煮込んだクレタ島のものが特に美味しいと思う。

前述したようにクレタ島は肉料理がメインの土地柄だ。主な素材は、牛肉、豚肉、鶏肉、羊肉である。ヤギ肉もあるのだろうが今回は出会わなかった。

ギリシャでもっともポピュラーな肉料理はおそらく「ギロス」と「スヴラキ」だろう。ギロスは肉をぐるぐる回しながら焼く料理。スヴラキは肉の串焼きである。

スヴラギに用いられる肉はいろいろだが、ギロスの素材は豚肉がほとんど。調理法や食べ方はトルコ料理のドネルケバブと同じである。イスラム教国のトルコでは豚肉の代わりに羊肉を使う。

ギロスは皿盛りでも提供されるが、ピタという薄いパンで包んでファーストフードとしても売られる。いわゆるギロピタあるいはピタ・ギロス。僕はレストランで両方を食べた。どちらもトルコの羊肉ドネルケバブに劣らないすばらしい味がした。

鶏肉料理も美味しい。ほぼ連日通ったレストランのカレー味のチキンは絶品だった。ビーチと宿泊先のほぼ中間に位置するその店は全ての料理が出色だった。

出される料理のどれもが絶巧なので、僕は一度あえてイタリア料理のパスタを頼んだ。クレタ島のレストランはほぼどこでも、イタメシのパスタとピザをメニューに組み入れている。

出てくる料理のすべてが美味しいその店で、もしもパスタがイタリア並みにうまければすごいことだと思った。シェフの力量を見てみたくなった。

だが、提供されたカルボナーラは最悪だった。いや、風味は良いのだが、パスタが茹で過ぎというのもばかばかしいくらいにやわらかくて、フォークにからまらずにちぎれてしまうほどだった。

イタリア以外の国では、専門のイタリアレストランでもない限りアルデンテ(歯ごたえのある)なパスタは余り期待できない。そこの店もさすがにイタリア風のパスタにまでは手が回らないようだった。

同店では、地中海旅行で僕が追求しているヤギ料理および羊肉料理のうち、後者も堪能した。子羊肉を柔らかく煮込んだ一品と羊肉をチーズと共に素焼鉢の中で焼いたひと皿。どちらも絶妙な味がした。

羊肉を素焼鉢に詰めて鉢ごと窯に入れて焼く料理は、トルコのカッパドキアの名物「壷焼きケバブ」の流れをくむように見えた。

カッパドキアでは壷をナイフでカチ割る演出が面白かったが、それ以上に味が印象的だった。店の素焼鉢の羊肉はカッパドキアのひと皿に勝るとも劣らない味がした。

車で遠出をした島の西北端に近いキサモスのレストランでは、羊の成獣の肉を巧妙に焼き上げた一品にも出会った。強烈な臭みを「風味」以外のなにものでもない、というところまで消し去った手腕は素晴らしいと思った。

今年はスペインのカナリア諸島のうちのフエルテベントゥーラ島で、ヤギの成獣の絶品料理にも出会った。クレタ島で食べた羊の成獣の味は、カナリア諸島のそれを彷彿とさせる美味しさだった。ムスリム圏を含む地中海の羊&山羊料理の奥はひたすら深い。。。。

                               
                                    つづく

                                                    




島々の死者たち



墓石群中ヒキ800pic
ひとつひとつの墓石は普通のそれの4~5倍の大きさがある


9月初めから半ばにかけて、ギリシャのクレタ島に滞在した。

借りたアパートからビーチに向かう途中に墓地があった。そこには大理石を用いた巨大な石棺型墓石が並んでいた。

墓石はどれもイタリアなどで見られる墓標の4~5倍の大きさがある。僕はそれを見たときすぐに日本の南の島々の異様に大きな墓を想った。

先年、母を亡くした折に僕は新聞に次のような内容の文章を寄稿した。

生者と死者と


死者は生者の邪魔をしてはならない。僕は故郷の島に帰ってそこかしこに存在する巨大な墓を見るたびに良くそう思う。これは決して死者を冒涜したりばち当たりな慢心から言うのではない。生者の生きるスペースもないような狭い島の土地に大きな墓地があってはならない。  

島々の墓地の在り方は昔ならいざ知らず、現代の状況では言語道断である。巨大墓の奇怪さは時代錯誤である。時代は変わっていく。時代が変わるとは生者が変わっていくことである。生者が変われば死者の在り方も変わるのが摂理である。

僕は死んだら広いスペースなどいらない。生きている僕の息子や孫や甥っ子や姪っ子たちが使えばいい。日当りの良い場所もいらない。片隅に小さく住まわしてもらえれば十分。われわれの親たちもきっとそう思っている。

僕は最近母を亡くした。灰となった母の亡き骸の残滓は墓地に眠っている。しかしそれは母ではない。母はかけがえのない祖霊となって僕の中にいるのである。霊魂が暗い墓の中にいると考えるのは死者への差別だ。母の御霊は墓にはいない。仏壇にもいない。

母の御霊は墓を飛び出し、現益施設に過ぎない仏壇も忌避し、母自身が生まれ育ちそして死んだ島さえも超越して、遍在する。

肉体を持たない母は完全に自由だ。自在な母は僕と共に、たとえば日本とイタリアの間に横たわる巨大空間さえも軽々と行き来しては笑っている。僕はそのことを実感することができる。

われわれが生きている限り御霊も生きている。そして自由に生きている御霊は間違っても生者の邪魔をしようとは考えていない。僕と共に生きている母もきっと生者に道を譲る。

母の教えを受けて、母と同じ気持ちを持つ僕も母と同じことをするであろう。僕は死者となったら生者に生きるスペースを譲る。人の見栄と欺瞞に過ぎない巨大墓などいらない。僕は生者の心の中だけで生きたいのである。


日本の南の島々の墓が巨大なのは、家族のみならず一族が共同で運営するからである。生者は供養を口実に大きな墓の敷地に集まって遊宴し、親睦を深める。

そこは死者と生者の距離が近い「この世とあの世が混在する共同体」である。生者たちは死者をダシにして交歓し親しみあうのだ。古き良き島々の伝統である。

ところが、従前の使命が希薄になった現代の墓を作る際も、人々は虚栄に満ちた大きな墓を演出したがる。僕はそこに強い違和感を覚えるのである。

ギリシャ南端のクレタ島には、ギリシャの島々の街並みによくみられる白色のイメージが少ない。山の多い島の景色は乾いて赤茶けていて、むしろアフリカ的でさえある。

その中にあって、大理石を用いた石棺型墓石が並ぶ霊園は明るく、強い陽ざしをあびて全体がほぼ白一色に統一されている。

大きな墓石のひとつひとつは、島の遅い夏の、しかし肌を突き刺すような陽光を反射してさらに純白にかがやいている。

死の暗黒を必死に拒絶しているような異様な白さ、とでも形容したいところだが、実はそこにはそんな重い空気は一切漂っていない。

墓地はあっけらかんとして清廉、ひたすら軽く、埋葬地を抱いて広がる集落の向こうの、エーゲ海のように心はずむ光景にさえ見えた。

ギリシャと日本の南の島々の巨大墓には、死者への過剰な思い入れと生者の虚栄心が込められている。そして死者への思い入れも生者の精神作用に他ならないことを考えれば、巨大墓はつまるところ「生者のための」施設なのである。

あらゆる葬送の儀式は死者のためにあるのではない。それは残された遺族をはじめとする生者のためにあるのだ。死者は自らの墓がいかなるものかを知らないし、知るよすがもない。

墓も、葬儀も、また供養の行事も、死者をしのぶ口実で生者(遺族)が集い、お互いの絆を確かめ、親睦を図るための施設であり儀式である。従って生者同士がいがみあえば、法要を含むあらゆる宗教儀式はそこで消えてなくなる。誰も墓に行かず仏壇に祈ることもない。

死者たちはそうやって生者のわれわれに生きる道筋を示唆する。死者は生者の中で生きている。巨大墓地などを作って死者をたぶらかし、暗闇の中に閉じ込めてはならない。通常墓や仏壇でさえ死者を縛り貶める「生者の都合」の所産なのだ。

死者は生者と共に自由に生きるべきだ。それどころか生者の限界を超えてさらに自由な存在となって空を飛び、世界を巡り、「死者の生」を生きるべきなのである。僕の中の、僕の母のように・・



大歴史の小さな島、カナリア諸島


アダン浜


スペインのカナリア諸島にいる。スペイン本土から遠く離れたアフリカ大陸の北西洋上にある島々である。7つの主な島と諸小島がある。

かつてスペインが南米大陸を支配した時代、軍事・商業・政治の中継基地として重要な役割を果たしたのが、ここカナリア諸島である。

群島のうちでも最もアフリカ大陸に近いフエルテベントゥーラ島が今回の訪問地。例によって仕事を利用して少し滞在を伸ばし、観光と見聞にも時間を割く計画旅。

カナリア諸島には以前から興味があった。スペイン本土の遥か南に位置するところが、日本の南方にある故郷の沖縄のあり方を思わせ、冬も暖かい常夏の島だと聞いていたからだ。

フエルテベントゥーラ島の印象は、少なくとも気温はまさに沖縄である。ところが3月も終わりに近い季節にしては寒い。強い風が間断なく吹き募るせいで体感温度が低いのだ。

風は、海を隔ててたった100km先にある、アフリカ大陸のサハラ砂漠から吹いてくる。その風の名前はイタリア語でアリゼイ(Alisei)。

旗ランタン青空あああイタリア人のコロンブスはアメリカ大陸発見の旅に出るに際して、「カナリア諸島でアリゼイをつかめば幸運が舞い込む」と言った。帆船の命は風なのである。

実はコロンブスはカナリア諸島の前にも大西洋の強風の恩恵に与っている。それがスペインのアンダルシアに吹く強風だ。

アンダルシアの大西洋沿岸に吹き付ける風は、主に狭くて暖かい地中海と冷たく広い大西洋の空気がぶつかることによって起こる。

コロンブスはアンダルシアの強風に押されて大海に出、カナリア諸島で水と物資の補給をした後、サハラ砂漠由来の順風アリゼイを待って再び大航海の荒海へと乗り出して行った。

2年前の夏、僕はスペインのアンダルシアにいた。そこでは大航海時代のドラマを作った、大西洋と地中海のせめぎ合いが生み出す風に接して感動した。

今年は偶然にもこうして、アンダルシアの風と共に大航海のドラマを織り成した、カナリア諸島の強風アリゼイに吹かれている。

スペインとポルトガルの海の男たちは、大西洋の風をつかんで大海に乗り出し、アフリカ西岸沖の島々で英気を養ってさらなる冒険の船出を敢行した。そうやって南米大陸のほとんどが彼らの手中に納まった。

歴史はその後、欧州の列強を巻き込んで興亡を繰り返しながら大英帝国の圧倒に収斂し、やがて米国が勃興し支配して現在に至っている。古代ローマの次に欧州の力の源泉を作ったのが、大航海時代だ。

そんな歴史の雄大にかかわる小さな島で「歴史」を思いつつ、僕は故郷の沖縄に似た空気感を満喫し、仕事も「仕方なく」頑張りつつ、もうひとつの個人的趣味「独断と偏見の子ヤギ料理紀行」にも精を出している。

気が向けばそのことも、また別事案も,ぼちぼち書いていこうと思う。



シチリア島に見るアラブ・イスラムの息吹 


見上げ後ろにアマトラーナ400pic
サン・カタルド教会


イタリアのシチリア島は1860年、ガリバルディ率いる千人隊によって統一イタリア王国に併合されるまでの2千年余、列強に支配され続けた。

支配者の名を時系列に並べると紀元前のギリシャに始まり、ローマ帝国、ビザンツ、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン等々である。

このうちアラブ支配期を除けば--ビザンツに少しの議論の余地があるかもしれないが--支配者は全てが欧州の強国や大国だった。

つまりシチリア島はれっきとしたヨーロッパだが、そこに侵入支配し、島を蹂躙したパワーもまたヨーロッパのそれだったのである。

そこに9世紀から11世紀にかけてアラブという異質な力が入り、島を統治した。シチリア島最大の都市パレルモを筆頭に、同地には今でもその痕跡が残っている。

例えばアラブのモスク風の赤い丸屋根を持つ教会。シチリアに、そしてイタリア全土に“数え切れないほど”多くある「西洋風」の教会の中にあって、全く違う雰囲気をかもし出している。

そのひとつがサン・カタルド教会。3つの赤い丸屋根が放つイスラム風の情緒が鮮烈な印象を与える、アラブ・ノルマン様式の建築物の一つ。パレルモ市中心の広場に、バロック様式の美しいファサードを持つマルトラーナ教会と並んで建って、有名観光スポットの一つになっている。1160年頃に建設された。

サン・ジョバンニ・デッリ・エレミティ教会の佇まいも琴線に触れる。こちらもモスク風の5つの赤い丸屋根を有する。もともとは6世紀に作られた修道院。キリスト教の施設が、アラブ人によってモスクに作り変えられた往年の姿を偲んで、19世紀に再現された。

観光客もあまり訪れないジーザ城のシンプルな佇まいも面白い。ムスリム排斥後のノルマン時代に建てられたアラブ・ノルマン建築の傑作である。外見もそうだが城の構造とコンセプトがすごい。暑いパレルモの風の動きを計算して、城中に涼しい風を呼び込む工夫がされているのだ。

海風と山風の通り道を計算して建設場所が決められ、さらに風を取り込むために建築構造が考案された。その上に噴水の水を建物内の壁に引き込んで循環させる仕組みが隠されている。いわば原始的なクーラーのコンセプトだ。

クーラーのアイデアは、当時の進んだアラブの技術をノルマン人が取り込んだのではないかと思う。1787年にここを訪れたゲーテは、建物の美と機能に感嘆して、「北国には向かないかもしれないが南国の気候には最適の構造だ」という趣旨の文章を書き残している。

アラブはスペインも支配した。支配地域や権力の変遷はあったものの、紀元711年に始まり、1492年にナスル朝グラナダ王国が滅亡するまでの約800年間、アラブはイベリア半島を席巻した。そこではアラブ支配の痕跡は珍しくない。珍しいどころか、特に支配期間が長かったアンダルシア州などでは、むしろ普通の光景だ。

アラブのシチリア支配はスペインより1世紀余り遅れた。紀元827年に始まり1061年までの200余年に過ぎない。従ってアラブの痕跡はスペインのアンダルシアなどに比較するとはるかに薄い。しかし、数少ない彼らの足跡はやはり鮮やかだ。

実をいうと、アラブ支配時代の「オリジナル」の建物や建造物は、シチリアにはほとんどない。前述の2教会やジーザ城も、アラブの後にシチリアを制したノルマン王朝が、イスラム文明の優れたものを模造したり再建したり修復したために、今日にまで残る道筋ができた。

シチリア島を支配していた当時のアラブ世界は、数学や天文学や医学、薬学、化学、また灌漑技術などもヨーロッパより進んでいた。アラブ人は彼らの進んだ技術や学問や優れた建築・芸術様式などをシチリア島に持ち込んだ。その中でも特に灌漑技術はシチリアの農業を飛躍的に発展させた。
 
島の名産物の代名詞であるオレンジやみかんなどの柑橘類もアラブ人がもたらしたものである。さらに彼らは、サトウキビ、綿花、ピスタキオ、メロン、数々の薬草、ナツメヤシなども初めてシチリア島に導入した。養蚕と桑の栽培も彼らが始めて、絹織物の生産が盛んになった。

アイスクリームの原型とされるシャーベットもアラブ人がもたらした、という説さえある。

彼らは島にあるヨーロッパ最大の火山、標高約3330メートルのエトナ山頂の雪を利用して夏もシャーベットを作り、それはやがて発祥地がナポリともフィレンツェとも言われるアイスクリームへと形を変えていった、というものである。

シャーベットとアイスクリームは別物だと思うが、夏の暑い盛りに冷たいものを食べたい、という人々の欲望に応えた技術の開発という意味では、アラブのかつての進んだ文明を思い起こすにふさわしいエピソードのようにも見える。
 
アラブの優れた文物が、シチリアにもたらされた歴史をしっかりと認識している島の人々は、「アラブはシチリアの一部だよ」とまで断言して、アラブ・イスラム文化を讃える。
 
現在イスラム過激派のテロなどの蛮行が世界を震撼させている。欧州にはいわゆるイスラムフォビア(嫌悪)の感情が日ごとに高まっていく状況がある。そんな中で、アラブ・イスラムを自らの一部とまでとらえて賞賛するシチリアの人々の正直と、懐の深さが僕は大好きである。

彼らは歴史を直視することで「テロリストと一般のイスラム教徒を混同してはならない」という当たり前の原則をやすやすと実践し、泰然として揺るがないように僕の目には映る。



「アンダルシアの天ぷら」は「アンダルシアの犬」よりチョー面白い



2015年初夏、休暇兼リサーチ旅でスペイン、アンダルシアを訪ねた。そこを訪ねると決めたとき、僕はずい分久しぶりにルイス・ブニュエル監督の映画「アンダルシアの犬」を観てみた。

映画「アンダルシアの犬」は、女性の眼球を剃刀で切り裂くシーンを始めとする奇怪な映像の連続が世間を驚かせた、シュルレアリスムの傑作とされる作品である。その映画を初めて観たとき、僕も人並みにおどろいた記憶がある。

「アンダルシアの犬」は無名だったルイス・ブニュエルが、これまた無名だったサルバドール・ダリと組んで1928年に作った短編映画。タイトルは「アンダルシアの犬」だが、映画はアンダルシアの大地とも犬とも何の関係もない。

それでも強いてアンダルシアにこだわれば、映画が世に出た時、これを高く評価したピカソがアンダルシアのマラガ出身というくらいが関連付けられる。が、それよりもブニュエル、ダリ、ピカソの3人がスペイン人、という事実の方がまだ何らかの意味を持ちそうである。

アンダルシアとは関係のない映画を敢えて再び見ようと思ったのは、「アンダルシアの犬」といういつまでも色あせない魅惑的なタイトルに心引かれたからだ。同時に僕は、もし かすると映画には若い時には見落としていたアンダルシアに関する何かが隠されてはいないか、とも考えた。

結論を先に言うと、映画はアンダルシアとはやはり何の関係もなく、内容は最早少しもおどろきではなかった。どれもこれも既視感(デジャヴ)のあるもので、滑稽な印象に満ちていた。もっと正直に言えば奇をてらっただけのつまらない映像である。

既視感を持つのはもちろん僕が一度映画を観ているからである。また、同時にこれまでにシュレレアリスム映画であれ何であれ、似たような映像を多く目にしてきたからでもある。かつて映画学校で学んだこともある僕は、そういう映像に接する機会も少なくなかった。

そういうわけで、今の時点で観る「アンダルシアの犬」は僕にとっては、おどろきでもなく面白い映画でもない。ブニュエルの作品の中では、「アンダルシアの犬」のシュール性に比べた場合はごく普通の作品ともいえる、例えば「昼顔」などがよっぽど面白い。

シュルレアリスムあるいは前衛とは奇をてらうものである。あるいは想像の飛躍、またアナーキーなコンセプトの躍動などと言い換えることもできる。それらの「奇」にしなやかに応じ瞠目するのが若さである。おどろかなくなった僕は、ただ年を取り過ぎたということなのだろう。

アンダルシアはスペインの中でも長大な太陽海岸(コスタ・デル・ソル)を持つ大洋州である。海の幸が豊富な土地だ。そこではペスカイート・フリート と呼ばれる魚介料理が良く食べられる。

衣を薄くまぶしたワカサギ(チカ)、イワシ、ホタルイカ、イイダコ、イカリングなど、各種魚介をオリーブ油で揚げる一品。アツアツで提供され、安くてデリケートで美味い。

ペスカイート・フリートは日本の天ぷらの原型ではないかと言われている。中でも太陽海岸の西の外れ、カディス県のサンルーカル海岸あたりの魚介のフライは一級品。油を強く感じさせないあっさりした味付は、天ぷらの根源と呼ぶに相応しい。

奈良・平安時代の日本には米の粉などを衣にした土着の揚げ物料理が既に存在したという。そこにペスカイト・フリートに代表される西洋風揚げ物、つまり西洋天ぷらが渡来した。室町時代末期のこととされる。

天ぷらの語源はポルトガル語で「調理」を意味する「tempero・テンペロ」、あるいはスペイン語で「天上の日(魚肉の揚げ物を食べる日)」を意味する 「templo・テンプロ」など、諸説がある。

言葉が伝来したとき料理法も日本に入った。あるいは従前から存在した日本土着の揚げ物料理に改良が加えられたのだろう。それでなければ何故わざわざ
「天ぷら」という外来語が定着したかの説明がつかない。むろん料理法が先に渡来し言葉がそれに続いた、と考えても事情は同じだ。

アンダルシア州は長い海岸線と共に、内陸には肥沃な大地も抱く。そこではオリーブに始まる豊かな農産物が生産されて、フランス、イタリアなどと並び称される食の文化を育んだ。だが食の国イタリアに住む僕にとっては、何と言ってもぺスカイート・フリートが圧巻に思えた。

イタリアの魚介料理にも揚げ物は多い。また食通の目が光る国だけに味も良い。だが使う油がオリーブ油でも他のオイルでも、出来上がりが必ずと言っていいほど油っこい。ペ スカイート・フリー トには西洋天ぷら独得のそんな油っこさがほとんどない。あっさりと繊細に仕上げられ絶妙な味がする。そう、まさに日本の天ぷらのような・・・

アンダルシアを「イスラム国」に重ねて見れば(Ⅰ)



先ごろイベリア半島のスペイン・アンダルシアを訪ねた。イベリア半島は8世紀から15世紀終わりにかけてアラブの支配下にあっ た。中でもジブラルタル海峡を挟んでアフリカと対面するアンダルシア地方は、もっともアラブの影響を受けた地域である。

およそ800年にも渡ったアラブのアンダルシア支配は、多くのイスラム文化遺産を同地に残した。世界遺産にも登録されている目ざましいものをざっと見ただけでも、例えばグラナダのアルハンブラ宮殿、セビリアの大聖堂とアルカサル、コルドバのメスキータ(モスク)等々がある。

それらの文化遺産の圧倒的な美しさとアラブ文明の息吹は、スペインの中でも特に旅行者に人気の高いアンダルシアを、まさしくアンダルシアたらしめているものであり、同州のみならずスペイン王国全体の宝といっても過言ではないだろう。

アンダルシアを旅しながら、僕はアラブのテロ集団「イスラム国」を思い続けた。理由は二つある。一つは彼らが極端な原理主義を掲げているとはいえ、文化遺産を残した人々と同じイスラム教徒である事実。また「イスラム国」が世界制覇への一段階として、スペインを含むイベリア半島を2020年までに支配下に置く、と宣言していることである。


後藤健二さんを惨殺した「イスラム国」の蛮行は止む気配がない。シリアとイラクにまたがる地域にはびこっていたテロ集団はリビアにも侵攻し、アフガニスタ ンやパキスタンにも魔手をのばした。中東の他の地域にも影響力を及ぼしつつ東南アジアのムスリム国にさえ忍び入る気配である。

また直近ではシリアの世界遺産パルミラ遺跡の破壊を進めながら、遺跡の保護者である82歳の考古学者ハレド・アサド氏を斬首刑にした。アサド氏がテロ集団への協力を拒んだため公衆の面前で殺害し、血まみれの遺体を遺跡の柱に吊るす、という相変わらずの残虐ぶりを見せている。

「イスラム国」が近い将来、イベリア半島からアフリカ、東ヨーロッパから中東を経てインドネシアに及ぶ広大な地域をカリフ制に基づいて支配する、というのは笑い話の世界だ。が、実はそれらの地域の大部分はかつて、あるいは現在のイスラム世界の版図ではある。彼らの主張はその意味では全てが荒唐無稽ではないのである。

そうしたことからも、その昔イスラム教徒の支配下にあったアンダルシアと「イスラム国」を結びつけて考えるのは、筋の通ったものだ。しかし同時に「こじつ け」にも似た不条理でもある。なぜならテ ロリストである「イスラム国」と一般のイスラム教徒とは断じて同じ人々ではない。

従って、例えばイスラム王朝が残したアルハンブラ宮殿と、「イスラム国」の未開と酷薄をイスラム文化あるいはアラブ文明として、ひとくくりにすることはで きない。あるいはコルドバのメスキータを生んだ創造的で開明的な人々と、人質の首にナイフを突き立てて殺害する「イスラム国の」蛮人とを同一視してもなら ない。

そのことを疑問に思う者は、日本人なら例えばオウム真理教のテロリストと自らを対比して考えてみればいい。オウム真理教のテロリストたちは同じ日本人である。だが彼らは僕やあなたを含むほとんどの日本人とは実に違う人々だ。

彼らはまさに狂気に支配されたテロリストである。イスラム過激派とイスラム教徒の関係はそれと同じだ。その単純だが重大な真実に気づくけば、アンダルシアの素晴らしいイスラム文化と「イスラム国」を混同するべきではない、と明確に理解できる。

そしてそのことが理解できれば、「イスラム国」が近い将来世界の有志連合によって殲滅されるであろうことを喜ぶ気持ちにもなれる。なぜならアンダルシアに 偉大な文化遺産を残したムスリム とは無縁の「イスラム国」が破壊されても、イスラム教徒の誰も傷つくことはないからである。

その場合の理想の形は、有志連合が世界中のイスラム教徒によって結成されることだ。そうすれば非イスラム教徒は誰も戦いに参加する必要がなくなる。 それはこれまでの歴史の重要な節目ごとに他者、特に欧米人の介入によって翻弄され、傷つけられてきた中東の誇りを取り戻すきっかけになるかもしれない。

スペイン・アンダルシアの壮麗なイスラム文化遺跡を巡りながら、僕はそうした事どもを考え続けた。かつて偉大な文化・文明を有し今も大きな可能性を秘めているかもしれない「イスラム教世界」が、自らの内部に生まれた過激派の蛮行によって傷つけられ貶められて、世界から疑惑の目で見られているのは実に残念なことである。

アンダルシアにみる歴史の「たられば」



スペイン・アンダルシアを旅して、思うことが多々ある。

それらのことを書こうとし、書きつつあるのだが、中々書き進むことができない。

言ってみれば、一行書いては数時間立ち止まる、というふうである。

考え、検証するべきことが多すぎる。

特に、アラブ文明と欧州文明の相克と調和。

両者は相克あるいは反発しているだけのように見えるが、実は調和し切磋琢磨した部分も多い。

そうした歴史事実の証拠や証明がアンダルシアには満ちあふれている。

僕は以前「《ヨーロッパとは何か》と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができる」と書いた。

それは基本的には間違いがないと思うが、実はそこには見たい者だけに見える歴史の大きな「たら、れば」も隠されている。

歴史考察に「たら、れば」は禁物、というのは周知の道理である。だがそれは歴史学者向けの戒めであって、歴史好きや空想好きが勝手に想像して遊ぶ分には何の問題もない。

僕も歴史学者ではないので勝手に想像の中で遊んでみたりする。

ヨーロッパの心髄であるギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教のうち、キリスト教が抜け落ちて、そこにイスラム教が据えられていたら現在の世界はどうなっていただろうか。

しかもそれは僕の勝手な虚構イメージではなく、歴史的に大いにあり得たことなのである。

新説や異説をあえて無視して、従来からある分かりやすい仕分けに基づいて話をすすめれば、西ローマ帝国が滅亡した後ヨーロッパはいわゆる暗黒の中世に入ってあらゆるものが沈滞した。

沈滞が言い過ぎなら、少なくとも文化・文明知に大きな進展はなかった。

それは15世紀半ばの東ローマ帝国滅亡まで続く。

キリスト教の厳しい戒律支配の下で、ヨーロッパはギリシャ及び古代ローマ文化文明の否定と破壊を進めた。

そうやって欧州はおよそ1000年にも渡って渋滞する。

中世ヨーロッパの鬱積を尻目に、アラブ世界は大発展を遂げる。

ヨーロッパが立ち往生していたまっただ中の8世紀頃から、アラブ世界は欧州とは逆に古代ギリシャを中心とする知の遺産をアラビア語に翻訳し貪欲に取り込んで行った。

それはイスラム文化の発展に大いに寄与した。そうやってアラブ世界は当時、ヨーロッパをはるかに凌駕する科学や医学や建築工学等々の技術を確立した。

そうした知の遺産はルネッサンスで目覚めたヨーロッパに引き継がれ、イスラム世界の衰退が訪れた。

ヨーロッパ優勢の歴史は続き、やがて産業革命が起こって欧州文明の優位性はゆるぎなないものとなって、現在に至っている。

アラブ世界とヨーロッパの地位が逆転した頃、もしもボタンの掛け違いがあったなら、アラブの優勢は続き、われわれは今頃イスラム教が司るアラブ文明の大いなる恩恵にあずかっていた。

われわれが今、大いに西洋文明の恩恵にあずかっているように・・・

というような妄想にもひたりつつ、「イスラム国」にも留意しつつ、アンダルシアについて少し書いていくつもりでいる。


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