時事(一般)

皇后陛下の御髪の差合い



女王ダサい丸帽子合成


今上天皇の退位を間近に控えて、天皇皇后両陛下の動きや足跡や歴史を伝える報道が多い。両陛下のこれまでの生き方を知れば、仮に天皇家に反感を持つ者がいたとしても、その厚い人間力に深く頭を垂れるのではないか。

今上天皇の退位にともなって新天皇となる予定の、皇太子さんに覚えないでもない若干の不安も、ひとえに今上天皇の人間力の大きさゆえである。

しかしながら皇太子さんには、妻への強い思いやりや開けた皇室志向など、今上天皇とは違う人間力もあるように見える。即位後の精勤に期待したい。

政治家の中には、間もなく誕生する新天皇を取り込み操りたい策謀をチラつかせる者もあるようだが、皇太子さんにはぜひ、国民の安穏と国家の過去の過ちを見つめ続けた今上天皇の足跡を見習ってもらいたい。

そういう真摯な思いから皇后陛下にまつわるささやかだが、実は大きな意味合いも持つように見えるエピソードを、上皇后となる前に記しておくことにした。

2011年、僕は新聞に次の趣旨の短いコラムを書いた。
“最近、ウイリアム王子の婚約にちなんで、英王室の女性たちの姿がイタリアのメディアにも頻繁に登場する。多くの場合彼女たちは巨大で華美な帽子をかぶっている。そのとき僕はよく美智子皇后の奇妙なミニ帽子を思い出してしまう。
 皇后陛下の帽子の形は、体格的にも雰囲気的にも、また恐らく皇后陛下も自らにはあまり似合わないと感じているであろう、英王室的な女性の帽子を、彼女に合わせて作り変えたところ自然と小さくなった、ということなのだろう。
 しかし、極端に小さくなった皇后陛下のミニ帽子はもはや帽子ではない。帽子ではないものを帽子に見せかけてかぶるのはいただけない。潔く脱いで帽子なしで過ごそうとしないのは、帽子をかぶることが高貴な人の装いであり、伝統であると信じ、進言するような人などが周辺にいるからだろうか?
 伝統を守るのは立派なことだが、帽子ではないミニ帽子は偽物であるから伝統を引き継いでいるわけではない。だから、さらりと捨て去ればいいのである。
 ある種の日本人が良いと思い込んでいる英王室の女性たちのファッションセンスは、例えばフランスやイタリアなどでは冷めた目で見られている。特にあの帽子のセンスは、尊大なだけの田舎ファッション、という見方も多い。写真を眺めてクスクスと忍び笑いをする者さえいるくらいだ。
「日本の」皇后陛下はあんなものにこだわる必要はないのである。
 ミニ帽子とは縁遠い着物姿の皇后陛下は、実に上品で清淑で美しい。日本の国を代表する重責を担いつつ、あまたいる着物姿の美人女優さえも全く寄せ付けない、軽やかで優美な印象を与える。また洋装の場合でも、奇妙な「プチ被りもの」が頭上にないほうが自然で閑麗だ。言いにくいことだが、やはりあのおかしなミニ帽子にこだわる必要はないのではないか、と思うのである” 


明治維新以降、日本は西洋のあらゆる文明文化や文物や様式までも捜し求めて受け入れ、取り入れてきた。それは間違いではなかったと思う。しかしながら行き過ぎた崇拝にまで至ったケースも少なくない。

日本人が西洋に対する時に見せる、抜きがたい劣等意識やおそれや迷いやためらいといったネガティブな胸懐 や、逆にそれらの裏返しである不必要に猛々しい対抗心や驕りや怒りなどは、全て過度な西洋崇拝から生まれるねじれた心理の表出だ。

皇后陛下のプチ 被りものにもそのことが象徴的に現れているように思う。彼女は日本国民の心情を代弁してそういう装いもしなければならなかった、という一面もある。皇后陛下は上皇后となるのを機にそのしがらみから解き放たれるべきだ。またきっとそうなることだろう。

それは日本国民が同じしがらみから解き放たれる可能性を示唆する慶事だ。だが同時に、過去のしがらみを忘れてはならない。そのエピソードは将来への戒めとなり得る記憶だからだ。そうした意味をこめて、繰り返しになるが、皇后陛下が「皇后」であるうちにあえてここに記しておくことにした。



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二重国籍の大坂なおみ選手は今よりももっと日本の宝物



似顔絵タテ600切り取り
大坂なおみ&蓮舫

テニスの大坂なおみ選手の国籍問題で沸騰した日本の国内世論が、熱しやすく冷めやすい国民性をモロに発揮して急激に静まっているようだ。日系人関連事案や国籍問題などのグローバルな設問は、国内土着の日本人には難解きわまるテーマだからだろう。

国籍問題といえば、2016年に起きた蓮舫元民進党代表の二重国籍問題が思い出される。当時は蓮舫氏へのバッシングのピークが過ぎてもしつこくそれを取り上げる人々がいて、問題の大きさをうかがい知ることができた。

排外・民族主義者の言い分

二重国籍(問題)に青筋を立てて「反対」の蛮声を上げ続けるのは、たいてい保守排外主義者である。中にはリベラルを自称したり、「2重国籍を歓迎する国はない」などと独善的な言説を弄する民族主義者もいる。

それらの人々の大半はいわゆる嫌韓・嫌朝・嫌中派のナショナリストで、特に在日韓国・朝鮮人の人々への日本国籍付与に危機感を抱いているケースが多いようである。彼らの懸念は理解できないことではない。

日本に敵愾心を抱いている在日外国人に日本国籍を与える必要はもちろんない。必要がないどころかそれは大きな間違いでさえある。しかし彼らの多く、特に日本で生まれ育った人々は、日本への親愛の念も強く持っているに違いない。

そうした人々に例えば宣誓や署名文書など、順法精神を徹底させる方法で日本への尊敬や忠誠を明確に示してもらい、且つ違反した場合には日本国籍をただちに剥奪する、などの条項を設けて国籍を付与することは国益にかなうことだ。

なぜなら彼らは日本と彼らの出身国との間の架け橋になり得るし、なによりも
「外国人」の目でも日本を見、理解し、発言して日本文化の多様性を広げ、深め、豊かにしてくれることが期待できる。ネガティブな側面ばかりではなく、日本社会に資する側面も考慮して国籍問題を論するべきである。

排斥ではなく抱擁することが国益

二重国籍を有する者は今の日本では、本人が外国で生まれたり、生まれた時に両親が外国に滞在していたというケースなどを別にすれば、大坂なおみ選手のように日本人と外国人の間に生まれた子供、というケースが圧倒的に多いと考えられる。

理由が何であれ、そうした人々は日本の宝である。なぜならば、彼らは日本で育つ場合は言うまでもなく、外国で育っても、いや外国で育つからこそ余計に、自らのルーツである日本への愛情を深く心に刻みつつ成長していくことが確実だからだ。大坂選手はその典型のようにも見える。

そんな彼らは将来、日本と諸外国を結ぶ架け橋になる大きな可能性を秘めている。日本を愛するが日本国籍は持たない人々、すなわち親日派や知日派の外国人は世界に多くいる。われわれはそうした人々に親近感を持つ。彼らの態度を嬉しいと感じる。

ましてや二重国籍の日本人は、黙っていても日本への愛情や愛着を身内に強く育んでいる人々がほとんどなのだから、純粋あるいは土着の日本人が、彼らに親近感を抱かない方がおかしい。彼らを排斥するのではなく抱擁することが、国益にもつながるのだ。

例えばブラジルで生まれ育った二重国籍の日本人が日本に住む場合、あるいは彼らが日本社会の慣習や文化を知らないために周囲とトラブルや摩擦を起こすこともあるだろう。そのときには無論、彼らが日本の文化風習を理解しようと努力することが第一義である。

同時に日本で生まれ育った土着の日本人も、彼らの心情を察してこれを受け入れ抱擁する寛容さが必要である。それを逆に相手が悪いとして一方的に排撃する者は、グローバル世界の今のあり方を解しない内向きの民族主義者、と見られても仕方がないのではないか。

国防ではなく安全保障を見据えるべき

二重国籍者を憎悪する排外民族主義者らは、多くの場合文化や心情や人となりで物事を理解するのが不得手だ。そうした人々は、日本人に限らずどの国の者でも、暴力的なコンセプトで世界を捉える傾向がある。そこでそうした人々にも分かりやすい言葉で解説を試みようと思う。

二重国籍者を排撃しようとするのは、喧嘩や暴力や戦闘を意識して力を蓄えて、それを行使しようとする態度に近い動きだ。つまり国家戦略で言えば「国防」の考え方である。先ず戦争あるいは暴力ありき、のコンセプトなのだ。

これに対して二重国籍者を受け入れるのは「安全保障」の立場だ。つまり、抑止力としての軍備は怠りなく進めながらも、それを使用しないで済む道を探る態度。言葉を替えれば友誼を模索する生き方、のことである。

たとえば蓮舫議員のケースを考えてみよう。彼女をバッシングする人々の中には、台湾との摩擦があった場合、台湾国籍の彼女は日本への忠誠心が希薄なので、日本の不利になるような動きをして台湾に味方するのではないか、という疑問を呈する者がいる。

その疑念は理解できることだ。そういう危険が絶対にないとは言えない。しかし、こうも考えられる。彼女は台湾国籍を持っているおかげで台湾との対話や友誼の構築を速やかに行うことができ、そのおかげで日台は武力衝突を避けて平和裡に問題解決ができる、という可能性も高くなるのである。

これを疑う人は、フジモリ元ペルー大統領のケースを考えてみればいい。われわれ日本人の多くはフジモリ大統領に無条件に親近感を抱いた。彼が日本にルーツを持っていたからだ。それと同じように台湾や中国の人々は、日本の指導者である蓮舫氏が、台湾にルーツを持っている事実に親近感を抱くことだろう。

それは彼らの敵愾心を溶かしこそすれ決して高めることにはならない。これこそが「安全保障」の一つの要になるコンセプトだ。排撃や拒絶や敵愾心は相手の心に反発を生じさせるだけである。片や、受容や寛容や親愛は、相手の心にそれに倍する友誼を植え付け、育てることだ。

引きこもりの暴力愛好家になるな

グローバル世界を知らない、また知ろうという気もない内向き土着の日本人は、概して想像力に欠けるきらいがあるためにそのあたりの機微にも疎い。だが国内外にいる二重国籍の日本人というのは、えてしてそうではない日本人以上に日本を愛し、さらに日本のイメージ向上のためにも資している場合が多いのだ。

日本土着の日本人は、グローバル化する世の中に追いつくためにも、世界から目をそむけたまま日本という家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、石原慎太郎氏に代表される「引き籠りの暴力愛好家」の態度を捨てて、世界に目を向けて行動を始めるべきだ。二重国籍者の価値を知ることがその第一歩になり得る。

血のつながりに引かれるのは、イデオロギーや政治スタンスとは関係のない人間の本質的な性(さが)だ。それは親の片方が日本人で、且つ外国に住んでいる二重国籍の子供たちを多く見知っている僕にとっては、疑いようもない真実だ。

外国に住んでその国の国籍と同時に日本国籍も有する子供たちの日本への愛着は、ほぼ例外なく強く、好意は限りなく深い。目の前に無い故国は彼らの渇望の的なのだ。外国に住まうことでグローバルな感覚を身につけたそれらの日本人を、わが国が受容し懐抱して、彼らの能力を活用しない手はない。

大阪なおみ選手の二重国籍を認めるべき

それと同じことが、日本国内に住まう二重国籍の日本人にも当てはまると考える。例えば蓮舫二重国籍問題にかこつけて差別ヘイトに夢中になっている人々は、今こそ先入観をかなぐり捨てて「二重国籍者という国の宝」を排斥する間違いを正し、国益を追求する「安全保障」の方向に舵を切って歩みを始めるべきだ。

テニスで世界を制しつつある大坂なおみ選手は日本の宝だ。彼女がもしかすると22歳で日本国籍を失うかもしれない事態は不可解を通り越して奇怪でさえある。大坂選手がプロのテニス選手としての利益を守るために、たとえ米国籍を取得したとしても彼女から日本国籍を剥奪するべきではない。

日本国籍を持つ日本人であると同時に米国籍も持つ大坂選手とは、いったい誰なのだろうか?言うまでもないことだ。彼女はどこまでいってもやはり日本人なのである。なぜなら日本国籍を有するから。日本の宝を「日本のものではない宝」にしてしまうのはもったいない。

同じことがグローバル社会の息吹を我が物として躍動する二重国籍の若者たちにも言える。彼らが22歳になると同時に日本国籍を失うのはいかにも惜しい。日本人の血を持つ彼らの多くは、国籍を失っても日本を愛するだろう。しかし日本人として世界であるいは日本国内で活躍できれば、彼らはもっとさらに日本を愛すると同時に、祖国のためにもきっともっともっと懸命に働くことだろう。




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同性婚でも当たり前に愛は勝つ



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2019年2月14日、 いわゆる“愛の誓いの日 ” とされるバレンタインデー に、 日本の 13組の同性カップルが国を相手取って「ようやく」同性婚訴訟を起こした。「ようやく」と表現するのは、日本がいわゆる先進7ヵ国の中で同性婚を認めない唯一の国だからである。

同性愛者が差別されるのは、さまざまな理由によるように見えるが、実はその根は一つである。

つまり、同性愛者のカップルには子供が生まれない。だから彼らは、特にキリスト教社会で糾弾され、その影響が加わって世界中でさらに差別されるようになった。

自民党の杉田水脈議員が先ごろ、LGBTの人々は「生産性がない」と発言して物議をかもしたが、彼女は恐らくそのあたりの歴史も踏まえて発言したのだろう。つまりあの言説は、日本人の多くが口には出さないものの、胸の内に秘めている思いを吐露した、確信犯的な放言だったのである。

子孫を残さなければあらゆる種が絶滅する。自然は、あるいは神を信じる者にとっての神は、何よりも子孫を残すことを優先して全ての生物を造形した。

もちろんヒトも例外ではない。それは宗教上も理のあることとされ、人間の結婚は子孫を残すための「ヒトの道」として奨励され保護された。そこから子を成すことができない同性愛などはもってのほか、という風潮が形成されていった。

しかし時は流れ、差別正当化の拠り所であった「同性愛者は子を成さない」という烙印は今や意味を持たず、その正当性は崩れ去った。なぜなら同性愛者の結婚が認められた段階で、そのカップルは子供を養子として迎えることができる。生物学的には子供を成さないかもしれないが、子供を持つことができるのである。

同性愛者の結婚が認められる社会では、彼らはもはや何も恐れるべきものはなく、宗教も彼らを差別するための都合の良いレッテルを貼る意味がなくなる。同性愛者の皆さんは大手を振って前進すればいい。事実欧米諸国などでは同性愛者のそういう生き方は珍しくなくなった。

同性愛者が子供を持つということは、子を成すにしろ養子を取るにしろ、種の保存の仕方にもう一つの形が加わる、つまり種の保存法の広がり、あるいは多様化に他ならないのだから、ある意味で自然の法則にも合致する。否定する根拠も合理性もないのである。それだけでは終わらない。

自然のままでは絶対に子を成さないカップルが、それでも子供が欲しいと願って実現する場合、彼らの子供に対する愛情は普通の夫婦のそれよりもはるかに強く深いものになる可能性が高い。またその大きな愛に包まれて育つ子供もその意味では幸せだ。

しかし、同性愛者を否定し差別する者も少なくない社会の現状では、子供が心理的に大きく傷つき追い詰められて苦しむ懸念もまた強い。ところがまさのそのネガティブな体験のおかげで、その同じ子供が他人の痛みに敏感な心優しい人間に成長する公算もまた非常に高い、とも考えられる。

同性愛者の結婚は愛し合う男女の結婚と何も変わらない。好きな相手と共に生きたいという当たり前の思いに始まって、究極には例えばパートナーが病気がなったときには付き添いたい、片方が亡くなった場合は遺産を残したい等々の切実且つ普通の願望も背後にある。つまり家族愛である。

同性愛者は差別によって彼らの恋愛を嘲笑されたり否定されたりするばかりではなく、そんな普通の家族愛までも無視される。文明社会ではもはやそうした未開性は許されない。同性結婚は、日本でもただちに認められるべきである。

同性愛者への偏見差別の大本は、既述のように彼らの関係が生物学的には絶対に子供を成さない、ということにつきる。そこからいろいろな中傷や罵詈や嘲笑が生まれてきた。

その一つが2012年に筆者が書いた記事:「友人でゲイのディックが結婚しましたが、それが何か?」

に寄せられた次のコメントだ。

佐藤 -- · 港区 東京都

ゲイに限らないのかも知れないが、アナルセックスは汚らしい。

いいね! · 返信 · 2012年11 月15 日 10:15



コメントは公開された記事に寄せられたものである。従ってここで紹介しても構わないと考えた。あえてそうするのは、同性愛者への嘲笑や悪意や中傷の中にはこのコメントに近いものも多い、というふうに感じるからである。いやそれどころか、このコメントの内容はあるいは世間一般の人々の平均的なリアクションであるのかも知れない。

悪意に満ちたその論評には2つの意味で違和感を覚える。一つは、普通の人は例えば友人カップル(異性愛者か同性愛者に関わらず)が「どのようにセックスをするのか」などと妄想したりはしない。少なくとも僕はそうだ。このコメントの主が、彼自身の主張が示唆するようにその逆であるならば、彼こそマニアックで異様な性癖を持つ者である可能性がある。

そうではなく、彼または彼女が僕の友人を知らないために平然と悪意の礫(つぶて)を投げたのであるならば、もっと許しがたい。なぜなら恐らく異性愛者である投稿者は、匿名性を隠れ蓑にして同性愛者を罵倒している卑劣な人間だからだ。しかしそれよりももっと重大な誤謬がここにはある。それが僕が最も強い違和感を覚える2つ目のポイントである。

つまり自らに責任を持てる成人である限り、また当事者どうしが合意し満足する限り、人はどのようにセックスをしても構わない。なぜならそれは憎しみや怒りなどの対極にある『愛』にほかならないからだ。愛の異名である性愛の形状は、繰り返すが当事者たちが好む限りいかなるものでも構わない。

例えばある人がパートナーの“ つむじ ” が好きで、愛の交歓の際にそこに固執し、いつくしみ、愛撫してよろこぶならば、そして相手がそれを許し受け入れるならば(そしてできればそうすることでパーートナー自身もよろこぶならばなお一層)、それは疑いもなく愛である。つむじが親指になろうが鼻の頭であろうが何であろうが構わない。

性愛において許されないのは、なによりも先ず相手の同意を得ない行為だ。続いて暴力行為。例えば強姦や小児性愛にはその二つが伴っている。というか、レイプやペドフィリアはその二つのカタマリ、と断定しても過言ではない。その他の「相手の同意を得ない」性愛行為もほぼ同じと考えていいだろう。

繰り返しになるが、成人の当事者どうしが納得し愛し合うならば性行為は何でも構わない。同性愛者の親交の形のみを、“ゲスの勘ぐり”で邪推してそれを貶めるのは、差別意識の発露以外の何ものでもないのである。

リンク記事で紹介した筆者の友人は、米ニューヨーク州が同性結婚を正式に認める決定をしたことを受けてパートナーの男性と結婚した。彼がそうしたのは「男女の夫婦の場合と何も変わらない」事情からだが、特に愛する相手に「普通に遺産を残したい」という切実な思いがあった。ここでもやはり家族愛が最大の理由なのである。

同性愛者について語るときは、彼らの性愛や恋愛や性的嗜好や痴話など、性的事案の方にも多く関心が行きがちだ。そしてそれらの偏見差別のせいで泣いているのは、友人のケースでも明らかなように、またここまでしばしば述べてきたように、家族愛などの人の「当たり前の」感情や権利にほかならない。

同性愛者は子を成さない、ということにまつわる宗教的、社会的、歴史的な差別はいわれのない誹謗であり中傷でd。彼らはわれわれの社会になんらの危害も与えていない。危害どころか、人の「存在」の多様性、という大きな利益をもたらしているのが真実である。

もしもそうした考え方を受け入れられない批判者はこう考えてみればいい。つまり同性愛者から見れば彼らの愛の形が普通であり「正常」である。あなた(僕も含む)と、あなたの恋人や妻や愛人との艶事は、異性愛者という「多数派の情交の形」であるに過ぎず、決して正義や道徳や節操を代表するものではない。

それでも先のコメントに同調する人々はもしかすると、同性愛者は道徳的に社会に悪影響を与えていると主張するかもしれない。だがその道徳とは、何よりもまず「同性愛者=(イコール)異常性愛者」という偏見にまみれた結論ありき、の上に構築された似非道徳に過ぎないのである。

そんな道徳は、宗教や政治権力による同性愛者や同姓婚の否定、またそれに影響された保守強硬論者やネトウヨ系差別論者などのヘイトスピーチ、あるいは排外主義者らの牽強付会な汚れたレトリックなどと何も変わるところはないのである。

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書きそびれていることども2019年1月23日 


600則①



《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。とはいうものの、これまでではそうやって記録しておいたテーマを改めてじっくりと考察し書き上げたものは少ない。次々と書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点である。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである。いつも、「いつか実際に書く」つもりでいるので。。。》

1.サルヴィーニ副首相と安倍首相は一卵性双生児
イタリアのマッテオ・サルヴィーニ副首相は日本の安倍晋三首相に似ている、とよく思う。2人の見た目はひどく違っている。サルヴィーニさんはネクタイ姿が全く似合わない、いわばワイルドな野獣。一方の安倍さんは育ちの良さがにじみ出た都会風の紳士である。でも2人の腹の中身は同じ。極論者は右も左も言動が酷似して区別がつかなくなるが、当事者たちは彼我は大いに違うと考えそう主張する。そのあたりはある意味で正直だ。サルヴィーニ同盟党首兼副首相は、そういう正直な政治家である。安倍首相にはその点での真率がない。そして怖いのは、彼自身が意識して腹の中身を隠すのではなく、首相自身の人となりが腹の中身を自然に消し去るふうに見える点だ。だが彼は、サルヴィーニ同盟党首兼副首相に酷似した危うい政治家である。

2.「ボヘミアン・ラプソディ」
昨年末、「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。実はいろいろな場所でいろいろな人がいろいろなことをケンケンガクガク言ってることに触発されて映画館まで足を運んだ。結論を言えば、おおいに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。 「ボヘミアン・ラプソディ」は普通に優れたエンターテインメント映画だ。ただそれだけなのに、いろいろと理屈っぽい人たちがウンチクや分析や考察やダメ出しを、衒学的な表現を用いたり,なまはんかな知識を振り回したりして、あれこれとへ理屈を開陳しているのを面白がった。かなり前の話になるが、スーパーマン(1978年の映画)が世に出たとき、シチリア人の友人がバカバカしい映画で全くつまらんと憤慨したのを思い出した。「ボヘミアン・ラプソディ」を否定的に語る人々は僕のその友人に似ている。

3.台湾~不潔な楽園
台湾の魅力と不衛生力について。台湾は楽しい島だが不潔な印象も強い。彼我の衛生観念の相違はおそらく中国本土との比較にも当てはまることだろう。そう考えると僕は中国旅行への興味をすっかり殺がれてしまった。それでも台湾が好きなことに変わりはない。離島で生まれ育った僕には、島の文化やあり方や「島人」のメンタリティーが結構分かる、と自負している。それは台湾の場合も同じ、と感じる。

4.ノーベル賞文学の退屈は純文学の退屈と同じ。
カズオ・イシグロの作品は、初め数ページ読んで挫折。しかし、なぜ退屈かを見極めるために拷問を承知で読破することにし、本当に読破した。すると静謐な筆致が好ましいと分かった。執事という英国の文化に触れた喜びもあった。だがいわゆる純文学に属する文体とテーマと細部フェチの全体像は、やはりつまらない。ノーベル賞の作家に共通する退屈が満載である。つまり「特殊」な文学ジャンルに属する作品なのだ。その特殊な文学ジャンルのノーベル賞作家で、僕にとって唯一面白いのはガルシア・マルケスだけ。川端康成も大江健三郎もその観点で言えば実はつまらない。

5.「流転の海」完結をことほぐ
宮本輝の長編小説の完成は日本文学の金字塔とも形容されるべき偉業だと思う。骨太の人間ドラマを僕は楽しみつつ学びつつ読み続けてきた。多作の天才の一人である宮本輝は、カズオ・イシグロよりも優れた物書きだ。「ノーベル賞系」の作家ではないから、ノーベル賞をもらう可能性は非常に低いが、ノーベル賞が「優れた作家・作品に与えられる賞」と世の中に思い込まれていることを思えば、彼にもぜひその賞を授与してほしい、と思う。僕の宮本輝体験は芥川賞受賞作品の「蛍川」始まり、オムニバス長編「夢見通りの人々」のうちの“肉の鏡”によって決定的に重要になった。 流転の海はまだ6巻までしか読んでいない。食事の際おいしいものをよけておいて、「後で食べる喜び」をかみしめるように、最後の3巻のページを開かないまま眺めたり想像したりして楽しんでいる。

6.銃の重さ
銃を扱う訓練を始める計画である。1994年、イタリア、シチリア島で長期ロケをしていたとき、仕事の合い間をぬってカメラマンのマッシミリアーノ・Tの自宅に招待された。そこは偶然にも、反マフィア闘争の英雄パオロ・ボルセリーノ判事が1992年にマフィアに爆殺されたダメリオ通りにあった。そこでTが合法的に取得・登録済みだという拳銃を見せてくれた。護身用だという。実弾も装填されているそれを手に取ったとき、ずしりと重い感触がそのまま強い不安感に変わった。今にも暴発しそうなイヤな感触だった。僕は引き金に指を掛けた訳でもなくグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて軽く包み込むように持っているだけである。怖い気分、イヤな感じはそのまま残った。それは僕の屈辱になった。人間が作った道具を僕はそれへの無知ゆえに激しく恐怖した。それが僕に屈辱感を与えた。武器に関わる恐怖心の実相は二つある。一つは武器と武器を持つ人間とが犯す事件やその可能性への恐怖。もう一つは武器そのものへに恐怖である。これは「知らない」ことから来る恐怖だ。僕はその恐怖を克服するために武器を勉強することにした。まず猟銃から始めた。猟をする気は毛頭ないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイスに従った。そうやって猟銃は平穏に扱えるようになった。これから拳銃の訓練を受ける予定である。恐怖の克服が第一義の理由だが、イタリアの特殊な家に住んでいる僕の私的な事情と、将来あり得るかもしれない状況に備える意味も、実はひそかに思っている。

7.イタリアでテロが起きない理由(わけ)
欧州ではイスラム過激派によるテロが相次いでいる。もしかすると収まったのかと見えていた2018年12月12日、フランスでイスラム過激派によるテロがまたもや起きた。容疑者は拳銃やナイフで通行人を襲い、2人が死亡10数人が重軽傷を負った。フランスでは2015年に130人が死亡するISのテロが発生するなど、繰り返しイスラム過激派の脅威にさらされている。英独ほかの欧州主要国なども同様だ。その中で執拗な襲撃予告を受けながらもイタリアは今のところテロを回避できている。意外に見えるかもしれないがそれはイタリア警察が有能であることの証である。イタリア警察はテロ防止を目指して熾烈な闘いを続けている。

8.お騒がせな五つ星運動?
イタリア連立政権の一翼を担うポピュリストの五つ星運動は、突飛な主張やキャンペーンを繰り広げて人心を騒がせると同時にそれを掌握するにも長けた政党である。五つ星運動所属でローマ史上初の女性市長、ヴィルジニア・ラッジ氏も自らの政党を代弁するような驚きの言動に事欠かない。その一つがヤギや羊やその他の動物を市内の公園や歴史的建造物の庭園に放牧して、草や木々の葉を食べさせて清掃させようという考え。財政難が続く永遠の都の台所を救い環境保護にも役立てる、と主張した。五つ星運動と犬猿の仲の前政権与党民主党は、ゴミをカモメに食べてもらうアイデアに続くラッジ市長の懲りない荒唐無稽な言動、と一笑に付すと同時に、彼女は次は蚊退治のためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない、などと嘲笑している。でもカモメやヤモリはさておくとして、ヤギや羊に公共の施設の草を食べてもらう、というのは悪い考えではないかもしれない。。。



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インスタントラーメンから見える中国の国力



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中国製“出前一丁”


かつては日本の製品の猿まねをしただけの、臭くてまずくて多分不健康な中国製ラーメンは、今や日本のそれと見分けがつないほど品質が向上した製品も出ている。

日本製ラーメンのクォリティーをしのぐものもやがて出てくるに違いない。それとももう出ているのかもしれないが、今日現在は僕は知らない。

日本に帰国する度に、大量の本とインスタントラーメンを買い込んでイタリアに戻るのが、長い間の僕の習いである。

本は自分のため。ラーメンは家族と自分のため。息子2人も妻も日本製のインスタントラ-メンが好きである。イタリア人友人らに贈ることもある。

毎回100食以上を持ち込むが、けっこう早く食べ切ってしまう。そういうときに中国で生産されてアメリカ経由でイタリアに入る(らしい)日本製品を買うことも過去にはあった。

どういう仕組みなのか、味噌ラーメンなどの日本オリジナルのものも中国製という触れ込みで出回っていた。ところがこれがほとんど偽物といってもよい品で臭いがきつい。

ラーメンを固める油が劣悪であるのが原因らしい。だが乾燥具材や粉末スープは日本で買うものと変わらなかった。

そこで 揚げ麺だけを別に茹でて水を捨てる方法で臭いを消し、別の鍋で乾燥具材と粉末スープと共に再び調理をする、という迂遠な方法をとった。それでも臭いがかすかに残った。

そういう製品は最近は見ない。その代わりと言って良いかどうかわからないが、中国や韓国製のインスタントラーメンがアジア食品店などを席巻している。

最近、日本原産でたぶんライセンス生産をしている「出前一丁」を食べる機会があった。麺の臭みはほとんど無く、日本製とは風味が違うが、それほど気にならない味がした。

「出前一丁」は早くから香港や台湾でも大人気になったブランドだが、初めの頃はやっぱり麺の臭みがあった、という話を聞いた。

その体験を踏まえて、完全に中国生産の即席ラーメンを買っておそるおそる食べてみた。こちらも日本製品と遜色のないクォリティだった。

ラーメンの品柄の向上は、そのまま中国の経済成長と裕福を反映している、とつくづく思う。貧しい中国国民が豊かになって、ラーメンの味にうるさくなったから麺の臭みがなくなったのだ。

当然過ぎるほど当然の成り行きだが、少し前までの中国産物資のお粗末を見ている僕の目には、まぶしいほどの変化に見える。

イタリアの市場を席巻していた日本製の家電製品などが、韓国製や中国製に取って代わられて日は浅いが、その状況はますます広がっている。

もしかするとインスタントラーメンもそんな運命にあるのかもしれない。もしそうなれば僕はむしろうれしい。

なぜならそうなった暁には、わざわざ日本まで帰らなくてもイタリアのこの場で日本製と同じおいしいラーメンが手に入る、ということなのだから。。。


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WEB休暇 ~ インターネットの功罪



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サルデーニャ島滞在中の2週間あまり、ブログ記事を一本投稿したきりでインターネットに触れなかった。滞在施設の部屋の中ではインターネットが使えなかったからである。

そこではレストランやカフェなどが集まっている公共の空間でしかWIFIが機能しなかった。そのためブログ記事の一つを投稿するにもわざわざそこまでPCを抱えて行かなければならない。

スマホでの投稿もできるのかもしれないが、僕はスマホを電話などの最小限の機能以外はOffにしている。自宅外では自由でいたいからだ。

最近は自宅の仕事場やプライベート空間でもインターネット(PC)に縛り付けられた生活をしている。読書の時間が極端に減ったことでもそれは知れる。

せめて外出の際にはインターネットから離れた生活をしたい、と考えて僕はスマホをほぼ「電話のみ」の使用にとどめる努力をしているのである。

PCを抱えてわざわざカフエやレストランまで出向くのはひどく億劫だった。そうやってインターネットにしがみつかない日々が続いた。気がつくと2週間がまたたく間に過ぎたのだった。

インターネットを使わない延長で、というのは正当な理由ではないが、「なんとはなしに」新聞にも手を出さなかった。施設の中に新聞の売店がなかったのも大きな原因だった。

そうやって情報収集という観点からは俗世間から隔絶された状態になって、トランプも北朝鮮も欧州の難民問題も、また杉田水脈なるカス国会議員のLGBT冒涜発言もなにもかも耳に入らなくなった。耳に入らくなっても全く問題ではなかった。むしろすがすがしい時間を過ごしていた。

トランプ大統領の言動や欧州難民問題あるいはイタリアのポピュリスト政権の動きなどは、W杯を観戦するテレビや人の噂話を介してさすがに少しは耳にしていたが、日本限定マターの水田議員発祥のLGBT問題に至っては、サルデーニャ島から帰還して後にようやく知ったくらいである。

インターネットに縛られないすがすがしい時間がもたらす気楽な心情は、気がついてみると世の中の動きを斜めに見る癖を自分の中に育んでいた。もっと直截に言えば「世の中の出来事などどうでもいい」という気分が強くなっていたのだ。

それは諦観に近い危険な心の動きである。「世の中なんてこんなものだ」と、悟りきったような気分に支配された時、人は文字通り心身ともに死に向かって歩みだす。諦観は死にもつながる危険な心理だ。

「諦観≒死」という表現が大げさならば、諦観は老化現象の一つ、と置き換えても良い。だがいずれにしても、老化とは「死に向かう歩み」の湾曲表現に過ぎない。諦観は心の平穏をもたらすプラスの効果も期待できるが、大勢はネガティブなコンセプト考えても良いのではないか。

僕はそのことに気づいて、自らを叱咤激励して怠惰な鈍(にぶ)りきった心情から脱出した、と言えば聞こえがいいが、実は帰宅してインターネットにアクセスし世の中の動きを追い始めたとたんに、怒りや不満や慨嘆が沸き起こってたちまち元の調子を取り戻していた。

それはインターネットの「功罪」のうちの功の一つだ。世の中の動きを楽に満遍なく見渡せる分、気持ちの張りが途切れない。一方、PCにしがみついて中毒患者のようにWEB上で時間を浪費してしまう罪の側面もある。

両者はコインの表裏のように切っても切れない関係である。従ってその事実を素直に受け入れて、中毒にならないように気をつけていくしかないのだろう。

中毒になりそうになったら一度インターネットから離れてみることだ。そうすると再びそこに戻ったときには頭がリフレッシュされて状況がさらによく見えるようになる。

僕は今回のサルデーニャ紀行を通して偶然にそのことを発見した。働きづめの人間には休暇が必要であるように、インターネット漬けの者にも「WEB休暇」が必須なのだと思う。


facebook:masanorinakasone







ことしも異常気象という名の春の詐欺師がやってきた 



悪天候サルでニア ツイッター:3B Neteo
サルデニア島の水害:3Bメテオ


動画を伴ったトルコの大洪水のニュースが世界を駆け巡っている。

昨年の今頃、僕の住む北イタリアは冷害に見舞われてブドウ園に大きな被害が出た。

その前には、前年から続く水不足が農作物に打撃を与えていた。そこにふってわいた気温低下で、農家はまさに泣きっ面に蜂の不運に見舞われたのだった。

それはいわゆる異常気象だった。今年は割と普通に季節が動いていて、僕の周りの農家は笑顔でいる。

それは僕の菜園にもてきめんにあらわれていて、サラダ菜などが順調に発育。3日ほど前からおいしい野菜を食べ始めている。

4月から6月の間の北イタリアの季節変化は予測ができない。したがってこの先悪天候が襲って農作物や僕の小さな菜園を破壊するかもしれない。

その兆候は今年はすでに地中海のサルデニア島で起きた。数日前から島は悪天候に見舞われて洪水や暴風に苦しんでいる。

それは中部から南部イタリアにも上陸。サルデニア島ほどではないが、やはり風水害を引き起こしている。

悪天候は北イタリアにも及ぶ可能性がある、と気象庁は予測しているが、今日ここまでのところは僕の住む一帯には被害は出ていない。

風は強くなく、雨は慈雨と呼ぶほうが適切な勢いで降るのみである。だがそれらが暴風雨になって牙をむかないとは誰にもいえない。。。


Facebook:masanorinakasone





イタリアの若い女性が名誉殺人でまた犠牲になった



sana cheema切り取り
             パキスタンで父親と兄に殺害されたとされるsana cheemaさん(25)


再び、再三、再四、いや残念ながら何度も何度もくりかえし、「だからイスラム教徒はダメなんだ」と人々がつぶやいてしまう事件が、僕の住む北イタリアで発生した。

正確にいうと北イタリアではなくパキスタンでの出来事。パキスタン出身のイタリア人女性(25)が、久しぶりに訪れた故郷の町で父親と兄に喉を掻き切られて死んだ。

彼女は故郷で見合い結婚を迫られた。だがイタリアに「イタリア人の恋人」がいる彼女は、その話をはねつけた。

親が決めた結婚をしないのは家族への侮辱、と怒った父親と兄が彼女を殺害した。イスラム教徒によるいわゆる「名誉殺人」である。

そのニュースは、イタリアで彼女が住む街ブレッシャを中心にたちまち大きな反響を呼んだ。ブレッシャは僕の住む村からすぐ近くの街。ブレッシャ県の県都である。

ブレッシャでは以前にも同様の名誉殺人が発生して人々を震撼させた。19歳のパキスタン人女性が、イタリア人の恋人と付き合い「西洋風」の生き方をしている、という理由で父親と叔父に殺害されて庭に埋められた。

この事件はイスラム過激派のテロと連動して人々に深い衝撃を与え、イタリア人の中にある「テロリストと無垢のイスラム教徒を混同する」偏見差別を助長する結果になった。

そうした偏見差別はイタリア人に限らず、欧州のあらゆる国民の中に存在し年々拡大しているのが現実である。

若い女性が被害者になるケースが圧倒的に多い名誉殺人は、世界中で発生していて一年に5000件を数えるともされる。イスラム教国では特に多く、中でもパキスタンで多発する。

今回の事件もたまたまパキスタンで起きたが、イタリア国籍を持つ彼女が住む北イタリアのブレッシャでは、以前の事件のこともあり再び大きなニュースになった。

この件に関しては以前にも記事を書いたので、できれば参照していただきたい⇒子供は親の所有物(モノ)ではない




女子がついに「立ちションしてやる!」とキレたのはトランプ大統領への抗議行動、という噂はまだ聞こえてこないが・・



しょんべん小僧


「オーストリアの緑の党が女性の立ちションを推奨」という英文記事の見出しが目に入ったとき、僕は少しウンザリした。緑の党がたまにやらかす「やり過ぎ」事案だと直感したのだ。昨年の今ごろのことだ。

「緑の党→フェミニズム→女性差別に怒り→男は立ちション当たり前→ならば女も立ちションするべき」というような流れが僕の脳裏で一瞬にして起きた。女と男の「違い」を「優劣」と勘違い、あるいは曲解することから来る「おバカ」な主張なのだろうと思ったのだ。

すぐにサイトを閉じかけたが思い直して読んでみた。「勘違い」しているのは緑の党ではなく自分の方だとたちまち気づいた。

緑の党の主張は「日本以外の世界中のほぼ全ての国」に見られる、「不潔な公衆便所」への対抗手段としての「女性の立ちション」のすすめだったのだ。

専門家を招いて立ちションがしやすくなるように女性を訓練する。どうやって?⇒運動によって骨盤を進化させる、という論理である。なるほどと思った。

イタリアを含む欧州の公衆便所は汚い。国によって多少の違いはあるものの、例えば清潔な国というイメージがあるスイスの公衆便所でさえ、「日本に比べると」汚い、と僕は実際に体験して思う。

それは男性用トイレの話である。女性用は知らない。知らないがガサツな男どもが使う側と違って、女性用トイレは清潔なのではないかと漠然と考えていた。記事を読むとそうではないことがわかる。そこもやっぱり不潔なのだ。

そんな汚い公衆トイレだから、座って用を足す女性にとってはきっと悪夢のような場所なのだろう。だからせめて小用ぐらいは男のように立って済まそう、というわけだ。まっとうな話である。

ところがその記事に対しては誹謗中傷するコメントが殺到した。醜い、ばかばかしい、恥知らず、女を貶めるな、など、など。

それらのコメントはもしかすると、僕が冒頭で勘違いしたのと同じことを思った人々が発しているのではないか、と感じた。

女子の立ちションは、エログロナンセンス並みのコンセプト、と見なしているのだ。つまり彼らの多くは記事を読まずに見出しだけを見て怒っているのだ。また実際に読んだ者であっても、「女性はこうあるべき」という思い込みの強い人々なのだろう。

その人が男である場合、彼の脳裏には男性用小便器に向かって排尿する女性の姿があるに違いない。それは下半身をさらけ出して用を足している女性像である。滑稽でグロテスクでさらにエロい要素もあるそのイメージを、男は糾弾しているのだろう。

だが、そこで考察されているのは、女性用トイレにおける、つまり密室の中での女性の立ちションである。密室の便器も汚いからそこに腰を下ろしたくない。だから立ったままで用を足そう、という議論だ。

男性用小便器の前で女性が並んで用を足していれば、それは確かに異様な光景だろう。だがそうではなく、あくまでも個室の中での女性の立ちションなのだから、誰の目にも触れない。そのどこが悪い?とも僕は思うのだけれど。

記事を読み終わって僕はすぐにこうも思った。骨盤を鍛えたり変容させるなどのつらい作業をするぐらいなら、なにかの道具を用いればいいのではないか、と。つまりロート状の用具・・と思いついたので試しにインターネットであたったら何のことはない、既にそういう用具は存在する。

女性の立ちションを推奨する女性たち(多分女性だろうと思う)が、そのことを知らないはずはない。なのにあえて骨盤体操などの体の矯正を持ち出すのは、便利な用具の「不便」が頭にあるからなのだろう。つまり不潔な物を持ち歩く憂鬱、かさ張る、携帯忘れの可能性、など、などの。

骨盤体操も用具の携帯も大いに面倒くさそうだ。それらを避けるには結局トイレを清潔にすることだが、それが難しいから珍奇なアイデアが出てきた。なかなか難しいものだ。

ところで一つ不思議なことがある。女性読者が非難コメントにこう反論しているのだ。「尿で便座が濡れまくっている女性トイレを知らない男には、女性の立ちションを非難する資格はない」と。

上から散水してそこら中を濡らす危険がある男の立ちションと違って、座って小用を足す女性がどうやって便座を濡らすのだろう?

考えられるのは、腰を下ろさず立ったままで排尿をする女性がすでにいる、ということではないだろうか。その人はきっとトイレが不潔だから立ちションをしたのだ。不潔の悪循環。

もしかすると女子トイレって、男の想像を絶する悲惨な場所なのではないか、と僕は少しこわくなったりもしたのだった・・お・わ・り・


書きそびれている事ども 2018年4月10日



サクランボ800
フランコ家のサクランボ(4月8日)


《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした》

桜桃 (サクランボ)
ことしは3月17日、友人宅での花見の誘いを受けた。ところが予想に反して、その日の段階では北イタリアの桜はまったく咲かず。寒さに震える桜の堅い蕾たちを家の中から眺めつつ馳走にあずかった。10日後の3月27日、友人で大酒飲みのフランコと、ことし初のわが家でのガーデン飲み会。春爛漫とばかりに日差しはまぶしかったが、同時に「春は名のみの」で気温は低い。ビールを飲みつつサクランボまた桜の話に「花咲かせ」た。フランコの家の庭にはサクランボの木があって、毎年開花し実もつける。サクランボは白い花なので、ソメイヨシノに代表されるいわゆる桜の花の華やかさはない。僕は3年前に桜を庭に植えて、翌年に見事な花が咲いたが、夏の手入れが行き届かずあっという間に枯れてしまった。再び桜を植えたいが、また失敗するのもいやだし、桜のつもりでサクランボ(桜桃)を植えようかな、などとフランコに伝えた。桜の花の華やかさにはかなわないかもしれないが、サクランボの白い花も可憐で悪くはない。実のサクランボも収穫できて一石二鳥だし。。。などと考えている。それにしても桜の実が「桜桃」というのはどうも変だ。たとえば「桜実」などと書いてサクランボと読みたい気がしないでもない。もっともサクランボは桜ではないのだから、桜桃がよし、というとらえ方もあるのだろうけれど。

大相撲 春場所 
鶴竜優勝のつまらなさ。横綱の強いイメージがゼロ。しかし優勝インタビューの日本語の流暢さは相変わらずすばらしかった。引退した日馬富士が、現役横綱でありながら大学に通うものの、日本語のレベルが「昨日来日したばかりか?」と思わせるほどの拙さだったのと対照的。鶴竜も日馬富士も奥さんはモンゴル人。したがって2人が奥さんから日本語のレッスンを受けられない点は同じ。なのにひどい差が出る。もしかして日馬富士って頭が悪かったのかな・・?春場所最高の取り組みは9勝5敗同士で千秋楽にぶつかった栃ノ心VS逸ノ城戦。好調で強く重い逸ノ城をがっぷり四つから寄り切った栃ノ心。見ごたえがあった。栃ノ芯は10勝して初場所の14勝優勝と合わせて24勝。大関昇進の可能性が出てきた。大関昇進の基準は、直前3場所の合計勝利数が33勝以上。従って来場所9勝でも到達。しかし、9勝では心細い。せめて11勝ぐらいはしてほしい。そうなれば文句なしだろうが、10勝でも34勝になるから、相撲協会は昇進か否かをめぐって苦心するだろう。

習近平 永久独裁主席
ロシアのプーチン大統領が再選され、終身国家主席になりかねない習近平さんに並んで、さらなる強大独裁者に。2者択一(民主党VS共和党)の勝負で大統領になったトランプさんにも似ている。エジプトのシシさんも再選。また将来、総裁3選なら日本の安倍さんも同じ穴のムジナ。独裁の茶番劇が続く。

佐川証人喚問
佐川氏が「刑事訴追を受ける可能性がある」一辺倒の答弁で逃げおおせたのは、喚問をかわすことができる規定そのものの問題とともに、安倍一強がロシア・プーチン、中国・習近平独裁政権にも似た権力だから。中露の場合は国家がつまり秘密警察が上から押さえるが、日本の場合はそれと同時に下からの抑え、つまり国民による「忖度という名の警察」があるために不正の隠蔽はより強力なものになる。証人喚問は「刑事訴追を受ける可能性がある」の条項を外して、「司法は証人の証言に囚われずに独自に捜査をすすめなければならない」とした上で、証人にすべてを話すように決め付けるべきだ。それを利用して検察が証人を追及する危険は無くならないが、それは証人が「刑事訴追を受ける可能性がある」という伝家の宝刀の文言を盾にして逃げる危険と同じ程度の危険である。同じ危険ならば、国民により多くの利益を生む危険のほうを採用するべき。自民党の丸川珠代さんの「総理、総理夫人、麻生財務大臣の関与はなかったんですね」という出来合いの質問をすることに、微塵も羞恥を覚えない醜悪。いまさらながら、「TVタックル」時代の可愛さの化けの皮がはがれている、と感じた。仮面の凄味。

パスクア(復活祭)コヒツジ料理
子羊また子ヤギ食いにからませて、動物虐待やら菜食主義に移行しろやらの極論がよく聞かれる。動物を家畜にして量産できる態勢が確立しているのなら、それを食べても非難されるいわれはないのかもしれない。動物虐待(肉食)はNGだが生物虐待(菜食・ヴェジタリアン)はOKでは筋が通らない。食の対象としては、野生動物は基本的にNGだが家畜は基本的にOKとなるべきではないか。動物愛護家も菜食主義者もヌーディストもフェミニストも誰も彼も、主義主張を尊重しろと大いに叫ぶべきだが、菜食主義者が肉食者を、あるいはヌーディストが水着姿の人を糾弾するのは余計なお世話であり、あまり賛同してもらえないのではないだろうか。。。


ドイツ連立政権成る!!



オヤジこぶし800



メルケル首相率いる同盟(キリスト教民主・社会同盟)との連立を模索してきたドイツ社会民主党は今日(3月4日)、党員全員による投票を経て連立政権に参加する決定を下した。

46万人余りの党員による採決は賛成が66%余り、反対が約34%だった。

これによってメルケル首相は4期目の政権を担うことになり、ドイツの政治不安が解消されることになった。

それはEUの安定と強さを担保する朗報である。強いEUはトランプ米反動政権の暴走に歯止めをかけ、変形共産主義の独裁国家ロシアと中国ににらみをきかせることができる。

同時にEU内に巣食い、膨張しようとしている排外差別主義者の極右やポピュリストなどにも毅然として立ち向かうことができるようになるだろう。

今この時点では、ここイタリアで総選挙の投票が行われている。事前の世論調査ではこの国でも排外差別主義者の極右やポピュリストが勢いを強めている。

だが、例え彼らが予想以上の得票をしても、政治的に安定したドイツがあり、従って強いEUがある限り心配するには及ばない。

自由と民主主義と人権と多様性を尊重する強いEUの掌の中では、それらのトランプ主義者らが少々増長しても十分に抑制力が働く。

むしろそれらの反動勢力が少しは幅をきかせたほうが良い。そうすればその対極の力である欧州の良心がより輝きを帯びて見えてくることだろう。

つまり自由と民主主義と人権と多様性を重んじる精神が、それらの暗い流れに待ったをかけることになる。あるいはそこに向かうきっかけができる。





カタルーニャ州議会選挙、独立派が勝利も即座の大変化は期待できない



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スペインからの分離独立を巡って激しく揺れるカタルーニャ州で議会選挙が実施され、分離独立派が135席のうち70議席を獲得して多数を占めた。ラホイ首相率いる国民党は大敗。改選前の11議席から8議席も失って3議席となった。

しかし、国民党と同じくカタルーニャ州の独立に反対する市民党は、ブリュッセルに避難しているプチデモン前州首相率いる「カタルーニャのための連合(JxCat)」さえも抑えて、単独政党としては最多の37議席を確保した。

選挙への住民の関心は高く、投票率は83%を超えた。過半数の議席を得た独立派の勝利は動かないものの、反独立派との勢力は拮抗した。それは今後の独立運動の行方が不透明であることを思わせ、スペイン中央政府とカタルーニャ州の対立が深まる可能性も示唆している。

今回の州選挙は、10月1日に行われたカタルーニャ州の独立の是非を問う住民投票が原因で実施された。住民投票では有権者の43%が投票。賛成票が90%以上を占めた。

これを受けて10月27日、カタルーニャ州議会が独立の動議を賛成多数で可決。共和国としてスペインからの独立を宣言した。

スペイン政府は一連の動きが憲法違反だとしてただちにカタルーニャの自治権を剥奪。プチデモン州首相をはじめとする州幹部を解任し州議会も解散させた。そして12月21日の州議会選挙となったのである。

独立宣言から3日後にスペインを脱出して、EU本部のあるブリュッセルに留まっているプチデモン前州首相は、選挙結果を受けて「スペイン政府は敗れた。ラホイ首相は方針を転換しなければならない。否ならわれわれが国を変える。修正、修復、また回復の時がきた」と宣言した。

これに対してラホイ首相は「プチデモン氏ではなく選挙の勝者と話し合う」と応酬し、国と州の対話の困難が再び浮き彫りになった。

勝利した独立派は、国外にいるプチデモン氏や、スペイン当局に拘束されている独立派ナンバー2の ジュンケラス前州副知事に代わる誰かを、州首相に立てて政権を樹立しなければならない。が、先行きは不透明である。

プチデモン前州首相の国外脱出後、一時期下火になった独立運動は、選挙の勝利で息を吹き返して活発化することが予想され、今後の成り行きはラホイ首相の中央政府次第、ともいえる状況が出現した。そこにEUがからむかどうかが焦点になるだろう。

EUは2009年の欧州ソブリン危機、2015年がピークの難民問題、2016年のBrexit(英国のEU]離脱)決定など、参加国間の結束が乱れ屋台骨が揺らぐ難局に直面している。そのためにEUは、カタルーニャ州の独立問題をスペインの内政問題と端から決め付けて関わることを避けてきた

自らが分断・崩壊の危険にさらされているEUは、構成国のうちの大国の一つであるスペインが、カタルーニャ州の独立で弱体化し、それはEUそのもののさらなる衰勢にも加担しかねないと恐れた。EU内のほとんどの国が、程度の差こそあれ「それぞれのカタルーニャ州」を抱えている現実も不安なのである。

これまで民主主義の原則と非暴力を守ってきたのは、カタルーニャ州とプチデモン前州首相をはじめとする独立派の人々である。EUはこれを庇護しなければならない。だがEUは同時に、スペインの安定と秩序と統一を守ろうとする同国中央政府の立場もまた支持しなければならない。EUは後者を選んだ。

しかし、州議会選挙で独立派に敗れたラホイ政権が、選挙結果を無視してカタルーニャ州の自治権を剥奪し続け、再び強権的な姿勢で同州に対するならば、EUはこれに介入するべきだ。EUは曲りなりにも民主主義と自由と平和主義を原理原則に掲げているのだから。

だがEUの対応がただちに変わるとは思えない。EUの本音は結局、強者の立場からの欧州の統治だ。だがそれは間違っている。カタルーニャ州問題が提示しているのは、少数派の立場を尊重し擁護することでそれらの勢力をEU信奉者として留め置き、それによって連合の結束を固めて行く手法こそが最善の道、ということである。

EUがその方向に舵を切る可能性は今のところは低い。スペインの行く末も不透明である。だが、一点だけ確実なことがある。それはカタルーニャ問題への対応を誤ったラホイ首相の求心力が、急速に弱まった現実だ。彼の退陣の可能性を含むスペイン国内の政局の変化が、あるいは事態打開の大きなきっかけとなっていくのかもしれない。



マフィアの正真正銘のボス・リイナ死す



警官に囲まれて600pic
早朝から繰り返しリイナの獄死を告げる伊メディア


ボスの中のボス、と呼ばれたマフィアの頭領トト・リイナが獄死した。87歳。

1000人以上の殺人事件に関連し、そのうち少なくとも150人の殺害を直接命令したとされる。

1993年に逮捕されたリイナは、26件もの終身刑を科されながら決して罪を認めず、獄中から巨大犯罪組織を指揮し続けていたと見られている。

トト・リイナの前にも、また彼が逮捕された後にも、マフィアの凶悪犯は数多くいた。だがリイナほどの冷酷さと残虐さで大規模殺人を計画、実行した者はいない。

彼はマフィア間のライバルや敵対する官憲の抹殺、という「伝統的」なマフィア・ビジネスを「女子供」にまで広げて容赦なく殺害する、という手法でのしあがった。

野獣と呼ばれたリイナは、イタリア共和国そのものにまで戦いを挑んだ。それを象徴的に示すのがシチリア島で起きたカパーチの悲劇

1992年5月23日、マフィアは自動車道を高速で走る「反マフィアの旗手」ジョヴァンニ・ファルコーネ判事の車を、遠隔操作の起爆装置を用いて正確に爆破、殺害した。

イタリア国家とマフィアが、食うか食われるかの激しい戦いを繰り返していた時期に起きたその事件は、マフィアがついに国家権力に勝ったのでもあるかのような衝撃をもたらした。

しかし、強い反マフィアの世論に後押しされたイタリア司法が反撃。翌年1993年には、24年間に渡って逃亡潜伏を繰り返していたリイナを逮捕した。

しかし、リイナは折れなかった。獄中でも傲岸な態度を貫き、反省や自白を一切しないままマフィアのトップに君臨し続けた。

彼の死は、昨年やはり獄死したベルナルド・プロベンツァーノに続いて、マフィアの一時代の終焉を告げるものだが、決して「マフィアの終わり」を物語ってはいない。

                                 
                                     この項つづく





カタルーニャ独立は「スペイン問題」から「EUの問題」へと進化した



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先日独立を宣言したスペイン・カタルーニャ州のプチデモン首相が、EU(欧州連合)の本拠地ブリュッセルに移動したのは、EU幹部を含む誰も予期できなかった事態であり、同時にEUにとっては大迷惑な話である。

それは言い換えれば、プチデモン州首相は突然ブリュッセルに乗り込むことによって、「カタルーニャ独立をスペインではなくEU全体の問題にすることに成功した」ということである。

EUの結束は、2009年に始まった欧州ソブリン危機、2015年にピークを迎えた難民問題、2016年のBrexit(英国のEU]離脱)決定などで、大幅に乱れてきた。

またそれらの問題と並行する形で、EU参加国の間には極右政党や極左勢力が台頭して、欧州の核である民主主義や自由や寛容や平和主義の精神が貶められかねない状況が生まれた。

それは米国に誕生したトランプ反動政権と通底する政治の地殻変動である。自由と寛容と民主主義を死守しようとするEUの主流勢力は、欧州と米国の「トランプ主義」勢力に対抗する必要に迫られている。

EUは同時に、ロシアと中国の勢力拡大にも目を配らなければならない。変形共産主義の2大国は、EUおよび欧州にとっては、ほぼ永遠に協調と警戒を平行して遂行しなければならない厄介な相手である。

内外に難問を抱えて正念場に立たされているEUは、特にBrexitによって大きく後退した連帯意識を再構築して、団結して事態に対面していかなければならない。

そんな折に、EUの重要国の一つであるスペインが分断の危機にさらされた。EU首脳は、内心の動揺を隠して不干渉を決め込んだ。スペインがどうにかして
「ひとりで問題を解決してくれる」ことを祈ったのである。

スペイン一国の内政問題、と規定して事態を矮小化し、EUのさらなる混乱と分裂を避けようとしたEU指導部の姑息な思惑は、プチデモン・カタルーニャ州首相のブリュッセルへの闖入によって粉々に打ち砕かれた。

EUは突然、カタルーニャ危機の当事者になった。あるいは当事者にさせられた。プチデモン州首相は民主主義を全うしてカタルーニャで住民投票を実施し、スペイン当局はそれに対して愚かにも暴力と抑圧で対抗した。

EUの原理原則である自由と民主主義と寛容と平和主義を遵守しているのは、スペインのラホイ政権ではなくカタルーニャ州とプチデモン州首相である。EUはこれを庇護しなければならない。

同時にEUは、安定と秩序と統一を守ろうとするスペイン中央政府の立場もまた支持しなければならない。カタルーニャ問題を見て見ぬ振りをしてきたEUの偽善のツケは大きい。

EUと足並みをそろえて無関心を装ってきたドイツ・メルケル、フランス・マクロン、英国・メイなど大国首脳の責任も重大である。その他のEU諸国にも連帯責任がある。

スペインを分断しているカタルーニャ独立問題は、EUにとっては前述した「多くの危機・難問」にも匹敵する重要課題だ。EUはスペインの統一を維持し、且つ民主主義と非暴力を貫くカタルーニャ州の魂も救わなければならない。

最善の道は、スペイン・ラホイ政権がカタルーニャ州の自治権をさらに拡大して、双方が納得した形で統一国家を維持することだ。EUはそこに向けて働きかけを強めるべきだと考える。

だがそれは、僕の勝手な思いである。カタルーニャ州の人々が飽くまでも独立を志向するなら、誰もそれを止めることはできない。それに暴力が伴うかどうかは、スペイン政府次第である。それはつまり、「EU次第」と言い換えることもできる。


カタルーニャ州プチデモン首相の知恵と勇気



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亡命でも逃亡でもない動き

スペイン・カタルーニャ州の独立宣言とそれを真っ向から否定したスペイン政府の動きを受けて、カタルーニャ州のカルレス・プチデモン首相が取った行動はめざましいものだった。

プチデモン州首相は10月30日、誰も予期しなかった形でスペイン・カタルーニャから陸路フランスに渡り、そこから空路ベルギーの首都ブリュッセルに入った。

強権的なスペイン・ラホイ政権の攻勢を“座して死を待つ”状況で受け入れるよりも、EU(欧州連合)の首都であるブリュッセルに身を寄せて難を避けたのである。

それは同時に、自由と民主主義と非暴力と平和主義を旗印にするEUに、カタルーニャ人民が同じ価値観を共有することを、EU首脳部に直に訴えかける手段でもあった。

駆け込み寺

カタルーニャ州は自由と民主主義に基づいて独立か否かを問う住民投票を実施し、賛成多数の実績を踏まえて州議会が独立を宣言した。

それに対してスペイン中央政府は同州への圧力を強め、投票時には警察が暴力を行使。一方、カタルーニャ州政府と人民は非暴力を貫き、中央政府との対話を持ちかけて平和的解決を模索した。

プチデモン州首相はそうした事実を盾に、ブリュッセルで記者会見を開いて国際世論、特にEU域内世論にカタルーニャ州の立場を支持するように強く求めた。

プチデモン州首相にとっては、自由と民主主義と平和を旗印にするEUの本部があるブリュッセルは、同じ価値観を共有する文字通りの駆け込み寺となったのである。

EUほかの反応

プチデモン州首相の訴えに対するEUの反応は、表向き冷淡そのものである。昨年のBrexit(英国のEU離脱)、米トランプ反動政権の樹立、仏大統領選に於ける極右政党の躍進など、EUは多くの難問に悩まされている。

また欧州各国には極右、極左勢力の台頭が目立ち、同地を含む世界中の至る所で分離・独立運動の火種がくすぶっている。世界を揺るがす政治の地殻変動が続き、EUの結束も乱れ勝ちになって勢力の弱体化は隠すべくもない。

そんな折に、EUのメンバー国であるスペインの分裂につながりかねないカタルーニャ州の独立の動きは、断じて容認しがたい事案である。トゥスクEU大統領やユンケル欧州委員会委員長をはじめとするEU指導部は、「スペインの内政問題」と決めつけて知らん振りを装った。

またメルケル独首相、マクロン仏大統領、メイ英国首相などの大国首脳も、プチデモン州首相には冷淡な態度でいる。それどころか批判さえも辞さない構えだ。加えて米トランプ大統領もカタルーニャ独立には反対の立場である。

EUの盟主ドイツのメルケル首相は連合の分断を懸念し、メイ英首相はスコットランド独立問題への影響を憂い、マクロン仏大統領の頭の片隅には、ブルゴ-ニュ独立問題等もひっかかっているに違いない。

他人事ではないイタリアの事情

ここイタリア政府の反応はさらに複雑である。去った10月22日には、ミラノが州都のロンバルディア州と、ベネチアが州都のヴェネト州で、強い自治権を求める住民投票が行われ、いずれも賛成派が勝利した。

それらは独立を求めるものではないが、国内有数の豊かな両州が、税制の不公平を主な焦点に中央政府に圧力をかけたものである。2州はカタルーニャ州と同じく、国からの交付金が彼らの納める税金よりも少ないことに、強い不満を抱いている。

それは一歩間違えば、カタルーニャ州のように独立運動にまで発展しかねない。今は沈静化しているが、イタリアは歴史的に南チロル地方の独立問題を抱えており、今この時も独立志向の強い北部同盟が自治権の大幅拡大を求めて何かと騒ぎを起こす。一触即発の状態が永続しているのである。

イタリアはもともと都市国家メンタリティーが色濃く残る国だ。統一国家よりも地方のわが街こそ祖国、と考える人々が多く住まう国である。いつどの州が分離独立を目指して立ち上がっても少しもおかしくないのである。

いきさつ

10月1日、カタルーニャ州が実施した独立の是非を問う住民投票では、有権者の43%が投票。賛成票が90%を超えた。これを受けて10月27日、カタルーニャ州議会が独立の動議を賛成多数で可決。共和国としてスペインからの独立を宣言した。

マリアーノ・ラホイ首相率いるスペイン中央政権は、憲法違反だとしてただちにカタルーニャの自治権を剥奪。またプチデモン州首相をはじめとする州幹部も解任。直接統治に乗り出して州議会も解散し、12月21日に新たに州議会選挙を行うと発表した。

さらに10月30日、スペイン司法当局は、プチデモン州首相ほかの幹部を国家反逆罪などの容疑で捜査すると宣言。有罪になれば最高で禁固30年の可能性がある重い罪状である。

この発表がなされた直後、前述したようにプチデモン州首相は密かにスペインを脱出。EU本部のあるブリュッセルに入り事実上の「亡命政権」を樹立して、国外から独立運動を指導するとした。

法の遵守という形の抵抗

プチデモン州首相はブリュッセルでの記者会見で、「私は自由と安全を確保するためにEUの首都であるブリュッセルにやってきた」と述べた。

スペイン政府は、カタルーニア州と民衆に対して暴力的な仕打ちをしたが、われわれの側は非暴力を貫いた。同時にスペイン司法の判断を尊重する、とも示唆。その代償にEUとの対話を求める、とした。

また彼は、再び暴力を避ける意味合いと、カタルーニア州政府の仕組みを維持する目的から、スペイン中央政府がカタルーニア州を直接統治することには抵抗しない、とも表明した。

プチデモン氏はさらに、12月21日に行われる州議会選挙も、結果がどうであれ尊重する。スペイン中央政府もわれわれと同じようにすることを期待する、という趣旨の発言も行った

州首相は最後に、われわれは欧州の価値観である自由、非暴力、平和主義を共有している。それらの価値観を尊重し、そのように行動する、と国際世論に約束し世論の後押しを請いたい、などとも述べた。

独立運動の歴史

カタルーニャ州での出来事は、政治的な立ち居地や見方によっていろいろと変わるだろうが、「強者に対抗する弱者の行動様式」としては、プチデモン氏の言動は理解できるものである。

スペイン国内におけるカタルーニャ州の立場は、経済力を別にすれば弱者のそれである。「多数派対少数派」というくくりで見た場合には、それはさらに鮮明になる。

独自の歴史、文化、伝統、言語などを持つカタルーニャ州は、スペイン国内で抑圧され数世紀にわたって独立志向の精神を育んできた。それは1939年~75年のフランコ独裁政権下で、カタルーニャ語の使用を禁止されたことでさらに強まった。

1979年に自治州となってからは、カタールニャ州は中央政府と折り合いをつけながら徐々に自治権を拡大させてきた。だが2000年に転機がきた。

スペイン民族主義を標榜する国民党のアスナール政権が、総選挙で絶対過半数を獲得して中央集権化を推し進め、カタールニャ州の自治権が縮小されて対立が深まって行くのである。

カタールニャ州は2005年、独自の自治憲章を制定してスペインを連邦国家的な仕組みに作り変えることを目指した。これには中央政府や他の自治州が反発した。

スペイン憲法裁判所は2010年、カタルーニャの自治憲章は「スペインの揺るぎなき統一」に反する、として違憲判決を下した。このことがカタルーニャの独立運動の火に油をそそぐこととなった。

窮鼠猫を噛む

テロリズムは、テロリストの反対勢力から見た「抵抗運動の一形式」である。テロリズムを行う側から見れば、彼らの暴力は自らの自由と解放を目指す手段であり闘争である。

テロリズムは断じて許されるべきことではない。だがテロリズムには、切羽詰まった弱者が巨大な権力に歯向かう手段、という側面もあることは誰にも否定できない。

例えばイスラム過激派が欧米に仕掛けているテロは本を正せば、権力者の欧米が中東などで犯した過去の罪の因果応報、という見方もできる。強者の横暴に対する弱者の反発がテロリズムなのである。

スペイン中央政権に対抗するカタルーニャ州の戦いにもテロに似た側面がある。もっともカタルーニャ州側は、無抵抗と非暴力を押し通しているのでその呼称は言葉の矛盾だが、事態の成り行きは「強者対弱者の戦い」そのものである。

抑圧また差別の正体

強者あるいは多数派による弱者や少数派への抑圧や差別は、能動側の強者や多数派には分かり辛い側面もある。しかし抑圧され差別される弱者や少数派が、「抑圧され差別されていると感じたり、あるいは違和感を持っている」限り、そこには何かがある。その何かの正体が抑圧であり差別なのである。

差別や抑圧が無ければ、差別され抑圧されている側は、差別し抑圧している側と同じように「何も感じない」はずなのである。そう考えてみれば、差別し抑圧する側がよく口にしたがる「被害者意識」という言葉も、差別し抑圧する側の思い違いである可能性がある。

抑圧や差別には憎悪と痛みが伴うが、そのうちの痛みは差別や抑圧を「受ける側だけ」が感じるものである。抑圧者や差別を「する側」の人間には痛みはない。だから抑圧も差別もそれを「する側」の感情は関係がない。「される側」の感情だけが問題である。

なぜなら痛みがあるのは異常事態であり、痛みがない状態が人間のあるべき姿だ。従って抑圧や差別を「される側」のその痛みは取り除かれなければならない。カタルーニャ州の人々が感じている痛みももちろん同じである。

暴力ではなく対話で問題解決を

カタルーニャ州と人民の言い分には理がある。同時に統一と秩序を優先するラホイ政権側にもまた理があるのだ。双方に理がありながら対立しているのだから、残された道はさらなる力による抑圧か、逆に対話による解決かである。

ラホイ首相はこれまで強権的な手法でカタルーニヤ州側に対応し、住民投票にあたっては警察の暴力沙汰まで引き起こしてしまった。また、対話を希求するプチデモン州首相の要求を無視して専横的に動いた。

ラホイ首相はそれらの間違いを2度と繰り返してはならない。対話によってお互いの言い分を吟味し妥協して合意に至るべきである。それが民主主義であり文明社会の進むべき道であり開明である。暴力による解決は必ず避けるべきと考える。

鍵を握るのはEU(欧州連合)と、EU内で強い力を持つ独仏英などの動きである。彼らは庇護を求めてEUの胸中、つまりブリュッセルに飛び込んできた小鳥・プチデモン州首相をないがしろにしてはならない。これを保護すると共に、スペイン中央政権に働きかけて、両者の対話を促すべきだ。






「テンポラーレ祭り」のあとの寂しさ



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強風になぎ倒された庭のレモンの大鉢


2017年8月10日午後、朝からの薄い曇り空ににわかに黒雲が湧き起こって風が吹きつけ、巨大な雹が叩きつけるように降り注いだ。

イタリアの夏の風物詩テンポラーレ(雷雨を伴う強烈な夕立、あるいは豆台風、あるいは野分)である。雹を伴うと農作物に甚大な被害をもたらす。

短い間に大量に降りなぐった雹は、未収穫のブドウのほぼ4割を破壊したと見られる。農家にとっては4月の冷害に続く災難である。救いは全体の半分以上がすでに収穫済みだったことだ。

例によって僕の菜園の野菜たちも手ひどい暴力にさらされた。トマトが半死、白菜とキャベツが恐らく全滅。不断草がきついダメージ。あまり結実はしていないものの、ナスとピーマンも破壊された。

白菜とキャベツは、カリフラワーとブロッコリともども、冬に向けての収穫が楽しみの種だった。雹のあまりの攻撃でたぶん巻いて結球することなく終わるだろう。残念無念。

壁際の円形鉢でよく育っていた大葉はかろうじて救われた。週末にオーストリアから訪れる友人夫婦に、天ぷらにしてご馳走する計画だからよかった。その分はなんとかなりそうだ。

トマトもなんとか助かった。生き延びた分を早めに収穫してソースを作ろうと思う。実は今年はすでに2回トマトソース作りをした。不作で2回とも量は少なかった。

次の3回目もたいした量にはならないだろう。豊作だった去年とはえらい違いだ。具体的に言えば今年は、昨年の3分の一程度のソースしかできない見込み。

少しさびしいトマトソース作りは、原料の少なさに加えて、外野からあれこれチャチを入れたり写真撮影をしたりする妻が、今年は母親の介護で留守だったことも原因の一つ。

それにしても、今夏イタリアを襲っている異様な暑気と旱魃は、実は北イタリアの特にわが家のあるロンバルディア州の一角では、ほとんど実感されていない。

昨日のすさまじい雹嵐ほどではないものの、テンポラーレ(雷雨を伴う強烈な夕立、あるいは豆台風、あるいは野分)が適度な頻度で襲って雨を降らせ、暑気を吹き散らしてくれたのだ。

アルプスと向き合う北イタリアと、アフリカに対面する南イタリアが一国を構成するこの地では、経済格差に加えて環境格差もまた南北問題を作り出している、とも考えられる。



トト・リイナは刑務所内で尊厳死を、と裁判所



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裁判所のリイナ



2017年7月17日、イタリアの拘留再審裁判所(ボローニャ市)は、史上最悪のマフィアボスとも規定されるトト・リイナの尊厳死を否定する判決を下した。

1993年に逮捕されて服役中のリイナは、高齢と病気を理由に終身刑の減刑を申し立て、伊最高裁は先日、彼の申請を吟味するように拘留再審裁判所に命じていた。

ボローニャ拘留再審裁は、リイナが収監されているパルマ刑務所内の41Bis(最高警戒レベル棟)の医療施設は最良のものであり、彼の尊厳死が損なわれることはない、とした。

また、リイナは今年2月、面会に来た妻との会話の中で「俺は絶対に司法に屈しない。謝罪も告白もしない。奴らが俺の刑期を30年から3000年に切り換えてもだ」という趣旨の発言をした。

裁判所はそのことも指摘して「リイナは依然として(マフィアのトップにあって)社会の敵である。彼を解放するのは危険が大き過ぎる」とも断言した。

リイナの弁護人は再び控訴するとしているが、恐らく今後申し立ては取り上げられることはなく、世紀の悪人「野獣トト・リイナ」は、41Bis(最高警戒レベル)監視下で死を迎えることになるだろう。


皇太子さんとヘンリー王子



皇太子切り取り横長600pic
写真:デンマーク、ハイネ氏配信


皇太子(徳仁親王)さんがデンマークでゆきずりの人と自撮りをしたことを、僕はゆるりとひそかにうれしく思った。

そのことを書きたいが、さて皇太子さんの呼び方をどうするかで少し迷った。

「皇太子殿下」「徳仁親王殿下」「東宮さま」など、堅苦しい伝統に縛られた言い方をするのがはばかられた。

それというのも皇太子さんが、一般人と街中の路上で、気さくに自撮りに応じたのは、まさにそれらの堅苦しい呼称に代表される「伝統」に挑む行為にほかならないからだ。

大時代なそれらは伝統という名の、だがもしかすると陋習かもしれないコンセプトである。だから皇太子さんはあえてそれらに挑んでいるのだろう。

皇太子さんのその「勇気」を賞賛するのがこの稿の目的である。それなのに僕が、伝統ならまだしも、陋習かもしれないものに縛られた言い方をしては自己撞着だ。

あれこれと迷う間に京都の人々が天皇陛下を(親しみをこめて)天皇さん、と呼ぶことを思い出して、試しに「皇太子さん」と口にしてみた。すると、それが一番しっくりくることがわかった。

先に進む前に保守派の皆さんが眉をひそめそうなので断りを入れておきたい。

皇太子さんを、さん付けで呼ぶのは決して侮辱する意味ではない。皇室典範には皇太子さんを「皇太子殿下」と呼ぶと明記されているが、皇太子は天皇と同じようにその呼称自体がすでに尊称だとも考えられるから、実は陛下や殿下をつけなくても恭しい言葉だ。

だから「皇太子は」と書いても問題はない。むしろ正確と実を重んじるジャーナリズムの書き方はそうあって然るべきだ。

だが僕のこの文章はジャーナリズムのコンセプトで書くものではない。あくまでも僕の意見また心情を吐露するエッセイやコラムや随筆の意味合いで書く。

いわばオフィシャルな呼称ではなく、個人的、人間的な親しみをこめて僕は皇太子殿下を「皇太子さん」と呼ぶのである。

この際なのでさらに付け加えておけば、今こうして僕があれこれと説明したり言い訳をしたりしていること自体が日本の、そして皇室の、つまり宮内庁の時代錯誤と封建制がもたらす弊害以外の何物でもない。

そしてそれは、世界の中で日本が生きていく際に、日本国と日本国民の後進性あるいは閉鎖性を象徴する概念や事象やファクトや思念と見られかねないものであり、日本のイメージの低下をもたらすことはあっても、イメージの向上に資することは決してない。

皇太子さんが自撮りに気軽に応え、大きな笑顔を世界中に披露したのはすばらしいことだ。それは皇室が開けたものになる未来を垣間見させる象徴的な出来事だ。

それはまた今上天皇が、皇太子さんほかの子供たちを手元において、皇后陛下ともどもに「家庭で」育てた「皇室の近代化」の動きの結実でもある。

宮内庁は皇太子さんの前例のない行動におどろき、おそれたという。僕はそれとは逆に、宮内庁の反応そのものにこそおどろき、おそれたものだ。

おどろいたのは、皇太子さんの徹頭徹尾ポジティブな行動をポジティブと理解しない愚昧な守旧性への驚嘆。

またおそれは、宮内庁の考えに似た姿勢でいる日本国内の民族主義者と、それに唯々諾々と取り込まれるであろう一部の、無思考の国民への不安。

彼らの非難の声が起こって、皇太子さんが目指している皇室の行く末と、従って日本の行く方向に暗雲が垂れ込める可能性をおそれ憂いたのだ。

皇太子さんが自撮りを披露した直後に、偶然にも、英国ではヘンリー王子が
「王室の家族の中ですすんで王や女王になりたい者などいない」と」発言して話題になった。

それは王や女王であることの重い責任と、不自由と、非人間的な規制生活の諸々を喜んで引き受ける者などいない。

それでも

王になり女王になるのは、要するに国民に対する王族としての責任感と義務感があるからだ、という意味を行間に込めた人間味あふれる宣言だった。

ヘンリー王子は同時に、彼の母親のダイアナ妃の葬儀の際、幼かった自分が母親の棺の横で行列に従って歩いた苦痛を「あってはならないこと」と、これまた聞く者の涙と共感を呼ばずにはおかない心情も吐露した。

それは伝統やしきたりや慣習の秘める残酷を指弾した宣告だ。だが決して伝統やしきたりや慣習を否定するものではなく、それらは変革し作り変えられるべきものでもある、という開明的な考えの披瀝でもあったのだ。

僕はヘンリー王子の真摯な気持ち表明と、皇太子さんのニコヤカな自撮りに同じルーツを見たのである。

今上天皇から皇太子さんに確実に受け継がれている、人間的な皇室を目指す彼らの摯実な行状は、日本の未来を象徴する明るいものだ。

皇太子さんが妻の雅子妃を妻として「普通に」守り、かばう言動を繰り返すことと共に、実に喜ばしいことだと腹から思うのである。



終わらないイタリアのFemicideまた女性暴力事案について



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塩酸被害者のジェシカ・ノターロさん


先週水曜日、癌専門医のエスター・パスクアロ-ニさん(53)が、イタリア中部アブルッツォ州の勤務先の病院の駐車場で、男に首を刺されて死亡した。

パスクアローニさんは2人の子供の母親。病院の癌部門の責任者で、勤務を終えて帰宅するため車に向かって歩いているところを襲われた。

刺した男はパスクアローニさんにストーカー行為をしていて、警察がすぐに容疑者と割り出して追跡を始めた。だが翌朝、近くのアパートの一室で自殺しているのが発見された。

パスクアロ-ニさんが殺害された翌日、僕が先日の記事で言及した塩酸被害者のジェシカ・ノターロさん(28)が、アシカの飼育員としての仕事に復帰した写真をSNSで公表した。

女性が女性であるという理由だけで殺害されるFemicideは、中南米を中心に頻繁に起こっている。アメリカ、インド、中東などでも多い。

ここ欧州にもかなりの頻度で発生し、たとえばイタリアでは2000年~2012年の12年間で2200人もの女性がFemicideの犠牲になり、昨年も100人以上が殺害された。

その数字はドイツやイギリスではさらに多く、トルコもイタリアより犠牲者の数は多い― トルコも欧州の一国とみなすなら、という条件付きだが。

イタリアの特殊性は前回記事でも言及したように、femicideを男と女の愛のもつれ或いは痴情からくる最悪の結果であり、痴情である以上それは他人が口をさしはさむべき問題ではない、と多くの国民が考えていることである。

男はパートナーの女性を愛し過ぎるあまり時には声を荒げ、暴力を振るい、ストーカー行為に走り、ついには殺害にまで至る不幸が起こったりする。それは仕方のないことだ、という認識が多くのイタリア人の中にあるというのだ。

だがそれは愛などではなく、男の嫉妬であり、歪んだ女性支配願望の顕現であり、女性への優越意識つまり女性蔑視の感情などに根ざした殺人事件に過ぎない。「愛故の殺人」など言い逃れであり幻想である。

イタリアのさらなる問題は、男性ばかりではなく女性も「愛故の殺害」説を認める傾向があり、従ってパートナーからの行過ぎた強要や暴力行為があった場合でも、攻撃を受けた女性が黙ってしまったり、事実を否定し勝ちでさえあるという点。

そういう女性たちは「私さえ我慢すれば相手の暴力は静まる」などと考えて告発を控える。世間体というものも邪魔をする。すると暴力は歯止めがきかなくなってエスカレートし、ついにはFemicideにまで至るケースが少なくない。

塩酸被害者のノターロさんは幸い死亡することはなかったが、Femicideの被害者に匹敵する苦痛を受けた存在であり、かつ女性への暴力を糾弾する活動をしていることで、全国的に動向を注目されるようになった。

ノターロさんの本職はアシカの飼育員。事件前は歌手としても活動していた彼女は、ミスユニバース・イタリア代表選の最終選考まで残ったこともある美形。アドリア海のリゾート地リミニ近郊ではよく知られた存在だった。

彼女は塩酸をかけられた後、顔がケロイド火傷 状に変形し焼け付くような痛みに苦しみ続けている。左目が失明する不安にも苛まれている。

リハビリと手術に明け暮れていた今年4月、彼女はテレビの有名番組に出演して、女性暴力への反対と被害者女性たちへの連帯を呼びかけた。

番組の打ち合わせの際、著名タレントの司会者が「顔をスカーフで隠して出演していただいても構いません」と提案したが、彼女は敢えて崩壊した素顔を見せることを選んだ。

彼女は番組の中で:
「私が素顔をさらすのは全国の視聴者の皆さんに私を襲った元恋人の行為を見てほしいからです。こんなことは決して愛ではありません」
と訴えた。

ノターロさんの前には弁護士のルチア・アンニバリさんが同じ被害に遭って人々の怒りと同情を買った。アンニバリさんのケースでは、元恋人の弁護士が2人の男を金で雇って襲撃させたものだった。

2013年に起きたその事件でも、被害者のアンニバリさんが同じ被害者の女性たちを救いたい、として広報活動を始めたことから事態が広く知られるようになった。

Femicideと同じかそれ以上の罪悪にも見える女性へのそうした攻撃は、嫉妬と凶暴な破壊願望と支配欲とがからんだ蛮行以外の何ものでもない。愛とは嫉妬ではなく信頼であり、破壊ではなく守ることであり、支配ではなく対等であることだ。

直接、間接の理由が何であるにせよ、自分から遠ざかっていく女性を襲うそれらの男の胸中には、共通する底深い闇が広がっている。

すなわち「他の男に取られるくらいなら殺してしまえ。あるいは女性の美を台無しにしてしまえ」という男性特有の危険な利己主義である。

陳腐な歌謡曲のセリフのような心理状況でありまた描写だが、それが真実なのだろう。だからこそ「愛故の殺人」などという不可解な呼称さえ生まれるのではないか。


ロンドン「グレンフェル・タワー」で焼け死んだグロリアとマルコは「死以上の恐怖」を味わっていたかもしれない



大炎上タワー切り取り2 400pic



ロンドン「グレンフェル・タワー」で悲惨な死をとげたイタリア人カップルグロリアとマルコの物語は、いうまでもなくビル内で亡くなった全ての犠牲者の物語である。

象徴的な意味ではなく、「グレンフェル・タワー」火災の一人ひとりの犠牲者が、生きながら焼き殺された凄まじい現実は、若い2人のイタリア人と正確に同じ、という意味で。

そればかりではなく、グロリアとマルコと同様に家族や親しい人に連絡を入れて助けを求め、それが不可能と知って、再びグロリアとマルコのように愛する人たちに永遠の別れを告げた人もまたいたのかもしれない。

いずれにしても、彼らがひと息に死に至るのではなく、恐怖と苦悶に責めさいなまれながらじわじわと死んでいったであろうことを思うとき、僕は胸が苦しくなる。とても他人事には思えない。

その地獄絵図は、2015年初頭、テロ集団ISに拘束されたヨルダン人パイロット、ムアーズ・カサースベ中尉(当時26 )が、檻に入れられて生きたまま焼き殺された凄惨な映像を僕に思い出させた。

そしてその分別によって僕は新たに次の発見をした。つまり「グレンフェル・タワー」に閉じ込められた人々のうち、今まさに彼らがいる建物そのものが燃え盛っている実況生中継のTV映像を見た者がいるのではないか、と思いついたのだ。

そしてその思いつきは僕の意識をやすやすとイタリア人カップルに運んだ。

マルコとグロリアは、彼らが住むタワーの下層階で火災が発生したと知った時、テレビのスイッチをONにする余裕はなかっただろう。

あるいはその時間にちょうどテレビを見ていたとしても、2人はすぐに火事の状況を把握すること、そしてそこからの脱出を考えることで頭の中はいっぱいになって、テレビを消さないにしてもそれを見る気など吹っ飛んでしまったに違いない。

しかし、2人はイタリアの家族と連絡を取り続ける中で、テレビの実況映像を見る羽目に陥った可能性があると思うのだ。

つまり、イタリア時間の午前3時頃に始まった火災の生中継映像を見たグロリアの両親が、そのことを電話で彼らに告げた公算。

燃え狂う建物の中にいる2人が、テレビをONにして、生きたまま焼かれる自らの火葬現場を見てしまうむごい光景が展開されていたかもしれない・・。

そう気づいた時、いかんともしがたい煩悶が僕の中に芽生えた。彼らのさらなる恐怖体験を想像して暗澹たる思いに押しつぶされそうになった。

生前葬という「遊び」がある。年老いた「元気な」人が、自らの死を想定して自らの意志で行う葬儀。友人知己を招いて本人の死を「祝う」のが基本だ。

生前葬儀を主催する人は、自らが死ぬ様子を客観的に眺めるわけだが、そこには切羽詰まった死の恐怖もなければ、阿鼻叫喚の騒ぎもない。

生前葬とは死の恐怖を逃れたい者が、死の恐怖を感じていない振りで、親しい人々と共に儀式を執り行って悦に入る遊び、と言っても大きな間違いではないだろう。

若いイタリア人カップルが、もしも自らが焼かれつつあるタワーの大炎上シーンを同時進行で見ていたとしたら、生前葬にも似た設定になるわけだが、そこには生前葬などとは似ても似つかない巨大な恐怖と苦悶が充満していた違いない。

ここまでに僕が知った限りの情報では、グロリアとマルコの両親がそれぞれの娘と息子に、火災の生中継映像がテレビで流れている、と話したかどうかはうかがい知れない。

しかし、ロンドンからイタリアに送られてくる映像を見ながら、彼らが罠に落ちた若い2人の「現場からの迅速な脱出の助けになるかも」、と考えてそのことを告げた可能性も十分にあると思う。

それに続く2人の狼狽と恐怖と絶望は、文字通り「想像を絶する」ものであって、とても言葉に言い尽くせるものではない。せめてそんな事態にはなっていなかったことを祈りたい。




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