バカンス

地中海の土左衛門 もつぶやいた



則土左衛門800



バカンスあるいは休暇とは「“何もしない”ということをする」ことである。“何もしない”行為はいろいろあるだろうが、僕の場合はビーチパラソルの下で寝椅子に横たわって日がな一日読書をすること、である。

若い頃は一日中釣りをしたり、泳いだり、わざと日光浴をして肌を焼いたりもした。ロンドンでの学生時代、湿った環境に侵されて肋膜炎にかかり、以来日差しを浴びることが健康に欠かせなくなったからだ。

最近は読書以外にビーチですることといえば、朝早い時間に妻に伴ってする散歩ぐらいである。肋膜炎の後遺症が癒えてからは日光浴さえしない。日光浴どころか、直射日光を避けてパラソルの影を求めて、寝椅子を移動してはひたすら文字を追う。

それでも反射光で十分以上に日焼けもすれば暑気も感じる。暑気がよほど我慢ができなくなれば、5分~10分ほど海に入って、仰向けに横たわって水に体をあずける。地中海の塩分濃度は濃い。面白いように体が水に浮く。

地中海は広大だが、狭隘なジブラルタル海峡で大西洋と結ばれる以外は閉ざされている。そのために塩分濃度が濃い。それは大西洋から離れた東に行くほど顕著になる。僕は地中海以外には閉じられた海を知らない。子供のころから親しんだ海は太平洋であり東シナ海だ。

それらの海でも人の体は水に浮く。だが塩分濃度の濃い地中海ではもっと浮く。あるいは黙って仰向けに横たわり、漂いつつ波を受けても体は沈まない。僕の生まれた島の海では、波が来れば水を被って五体は沈む。地中海では浮揚感が面白くて僕は子供のように波間を漂う。

今回は生まれて初めて海水に漬かった体を洗わず、つまり塩分を皮膚にまとわりつかせたまま一日を過ごし、そのまま就寝したりもした。それは妻の健康法である。あるいは彼女が健康に良い、と信じて若いころか実践しているバカンスでの過ごし方だ。

僕はもの心ついたころから真水で海水を洗い流さなければ気がすまない性質だ。体中がむず痒く、気のせいか肌が熱を帯びるようにさえ思う。真水で体をすすがなければとても眠れない。ところが今回思いきって妻のやり方を真似てみたら意外にも爽快だ。

むず痒くもなく熱っぽい感じもなかった。塩分濃度の高い海水だから、乾いたあとの塩気も強いはずだ。したがって痒みも不快感もつのるはずなのにむしろ逆である。あるいはサルデーニャ島の空気が日本よりもはるかに乾いていて、夜になると清涼感が増すせいなのかもしれない。

体から海水を洗い落とさずに過ごすことが、実際に健康に良いかどうかはわからない。だが少なくとも不快ではない、という発見はおどろきだった。以前感じていた不快感は、あるいは塩分が肌にもたらすものではなく、子供時代からの「慣れ」がもたらす心理作用に過ぎないのかもしれない。

幾つになっても、何をしてもどこにいても、新しい発見というものがある。日本を離れて海外にいるとなおさらだ。日常でもそうだが、日常を断ち切って旅や休暇に出ると、またさらに新発見の可能性が高まる。陳腐だが、「非日常」の休暇旅はその意味でも重要だ、とあらためて思わずにはいられない。


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地中海のカモメがつぶやいた


加筆再録


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昨年に続き地中海のサルデーニャ島で短いバカンスを過ごしている。6月の地中海の気温は高く、だが風は涼しく空気は乾いてさわやかである。

日本語のイメージにある地中海は、西のイベリア半島から東のトルコ・アナトリア半島を経て南のアフリカ大陸に囲まれた、中央にイタリア半島とバルカン半島南端のギリシャが突き出ている海、とでも説明できるだろうか。

日本語ではひとくちに「地中海」と言って済ませることも多いが、実はそれは場所によって呼び名の違う幾つかの海域から成り立っていて、イタリア語を含む欧州各国語で言い表される地中海も、もっと複雑なコンセプトを持つ言葉である。

地中海にはイタリア半島から見ると、西にバレアス海とアルボラン海があり、さらにリグリア海がある。東にはアドリア海があって、それは南のイオニア海へと続いていく。

イタリア半島とギリシャの間のイオニア海は、ギリシャ本土を隔てて東のエーゲ海と合流し、トルコのマルマラ海にまで連なる。それら全てを合わせた広大な海は、ジブラルタル海峡を通って大西洋にあいまみえる。

地中海の日光は、北のリグリア海やアドリア海でも既に白くきらめき、目に痛いくらいにまぶしい。白い陽光は海原を南下するほどにいよいよ輝きを増し、乾ききって美しくなり、ギリシャの島々がちりばめられたイオニア海やエーゲ海で頂点に達する。

乾いた島々の上には、雲ひとつ浮かばない高い真っ青な空がある。夏の間はほとんど雨は降らず、来る日も来る日も抜けるような青空が広がるのである。

さて、エーゲ海を起点に西に動くとギリシャ半島があり、イオニア海を経てイタリア半島に至る。その西に広がるシチリア島を南端とする海がティレニア海である。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてここサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、連日、文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

カモメが強風に乗って凄まじいスピードで真っ青な空間を飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島とギリシャの島々の空と海とビーチの空気感を敢えて比べて見れば、エーゲ海域をはじめとするギリシャの方がはるかに魅力的だ。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。またサルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

それは恐らく上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わわる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけで昨年に続いて、今回のサルデーニャ島の休暇でも、海三昧の時間というよりも、観光と食巡りに重点を置いた日々を過ごしている。


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ジューン・バカンス



サントリーニ島教会800


ジューン・ブライドという言葉がある。ジューンは6月、ブライドは花嫁。「6月の花嫁は幸せになる」という意味の英語である。ギリシャ神話から出た古代ローマ神話のうちの、結婚の女神JUNO(ジュノー)に由来する。

語源を季節や農作業に結び付けて探る考え方もある。僕もそれを気候にからませて考えたい方だ。ジューン・ブライドは、結婚式を「光がまぶしく空気がさわやかな6月」に行えば花嫁が麗しく輝く、という意味にも取れると思う。

梅雨でうっとうしい日本とは違って、ヨーロッパの6月は暑くなく寒くなく、かつバラなどに代表される花々が咲き乱れる1年で最も美しい季節なのである。

ところで僕にとっては6月は、例年ジューンブ・ライドならぬ「ジューン・バカンス」の季節である。

ここイタリアを含むヨーロッパのバカンス期は、6月にぼちぼち始まって7月に加速し、8月のピークを経て、9月いっぱいをかけてゆるゆると終息する。

しかし最適なバカンス時期は6月だと僕は思っている。花が咲き誇る大陸や島々の水無月は雨が少なく、しかも夏時間の真っ最中だから、南欧でも昼が一番長い季節。

その気になれば夜の8時、9時までビーチで過ごすこともできる。ビーチの後で食事や遊びに繰り出す夜の歓楽街の風は、暑い7月や8月とは違って涼しい。

またバカンス最盛期ではないその頃は人出が少ない。それ自体も好都合だが、人が混み合わない分ホテルやビーチ施設の料金など、あらゆるものの値段も安い。良いことずくめなのである。

6月のバカンスの欠点は、普通の勤め人には休みを取るのが難しいという点だ。欧州全体もまたイタリアも、サラリーマンが休めるのはやはり圧倒的に8月が普通なのである。
 
僕はフリーランスのテレビディレクターというヤクザな商売をしているおかげで、6月以外の季節に普通以上に頑張って仕事をする代わりに、皆が休めない時間に休めるというシアワセに恵まれてきた。

そんなわけでことしもこれから休暇に向かう。最近はほぼ毎年ギリシャで過ごすが、昨年に続いて今回もイタリア国内のサルデーニャ島へ。

実はギリシャのパロス島行きを計画したのだが、移動や宿泊の予定がうまく立てられないのでサルデーニャ島に変更した。ことしは昨年とは逆に島の南部に滞在する。

サルデーニャ島は地中海の西部に浮かぶ島。一方パロス島は地中海東部のエーゲ海域にある。地中海では西部よりも東部のほうが乾燥していて気温も高い

乾燥し且つ気温が高ければ、空気が澄んで空が青い。空が青ければ海はなお青い。サルデーニャ島よりも、ギリシャの島々の空と海がより深い青に見えるのはそれが理由だ。

そうはいうものの、バカンスでは海の色よりも海の「空気」の方が大切だ。空気はより乾いて澄んでいるほうが健康はもちろん遊びにも良い。その意味では地中海西部に浮かぶサルデーニャ島は、東部にあるパロス島に及ばない。

だがそれは、たとえばイタリアの赤ワインの双璧であるブルネッロ・ディ・モンタルチーノとバローロを比較するようなもので、優劣は個々人の好みに帰する。どちらも優れているのだ。

それどころか両ブランドは双璧ではない。イタリアの赤ワインにはバルバレスコもアマローネもある、と誰かが言い出せばそれはその通りだからもう切りがなくなる。優れた赤ワインはイタリアにはほかにも多いのだ。

地中海が、パロス島とサルデーニャ島の浮かぶエーゲ海またティレニア海のみならず、イオニア海 、リグリア海、 バレアレス海 、アドリア海 、アルボラン海、さらにトルコのマルマラ海など、いずれ劣らぬ美しい碧海で成り立っているように。。。


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連休という果報、飛び石連休という貧困



サントリーニ見下ろし海パラソル客船800を600に



2019年、日本のゴールデンウイークが10連休になるというニュースは、イタリアにいても日本の衛星放送やネットを介していやというほど見、聞き、知っていた。

それに関連していわゆる識者や文化人なる人々が意見を開陳していたが、その中にまるで正義漢のカタマリのような少し首を傾げたくなる主張があった。

10連休は余裕のあるリッチな人々の特権で休みの取れない不運な貧しい人々も多い。だから、10連休を手放しで喜ぶな。貧者のことを思え、と喧嘩腰で言い立てるのである。

10連休中に休めない人は、ホテルやレストランやテーマパークなど、など、の歓楽・サービス業を中心にもちろん多いだろう。

だが、まず休める人から休む、という原則を基に休暇を設定し増やしていかないと「休む文化」あるいは「ゆとり優先のメンタリティー」は国全体に浸透していかない。10連休は飽くまでも善だったと僕は思う。

休める人が休めば、その分休む人たちの消費が増えて観光業などの売り上げが伸びる。その伸びた売り上げから生まれる利益を従業員にも回せば波及効果も伴って経済がうまく回る。

利益を従業員に回す、とは文字通り給与として彼らに割増し金を支払うことであり、あるいは休暇という形で連休中に休めなかった分の休息をどこかで与えることだ。

他人が休むときに休めない人は別の機会に休む、あるいは割り増しの賃金が出るなどの規則を法律として制定するすることが、真の豊かさのバロメーターなのである。

そうしたことは強欲な営業者などがいてうまく作用しないことが多い。そこで国が法整備をして労働者にも利益がもたらされる仕組みや原理原則を強制するのである。

たとえばここイタリアを含む欧州では従業員の権利を守るために、日曜日に店を開けたなら翌日の月曜日を閉める。旗日に営業をする場合には割り増しの賃金を支払う、など労働者を守る法律が次々に整備されてきた。

そうした歴史を経て、欧州のバカンス文化や「ゆとり優先」のメンタリティ-は発達した。それもこれも先ず休める者から休む、という大本の原則があったからである。

休めない人々の窮状を忘れてはならないが、休める人々や休める仕組みを非難する前に、窮状をもたらしている社会の欠陥にこそ目を向けるべきなのである。

休むことは徹頭徹尾「良いこと」だ。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。

人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる。特に長めの休暇は大切だ。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの働く日本人を見るたびに、僕はそういう思いを強くする。

バカンス大国ここイタリアには、たとえば飛び石連休というケチなつまらないものは存在しない。飛び石連休は「ポンテ(ponte)」=橋または連繋」と呼ばれる“休み”で繋(つな)げられて「全連休」になるのだ。

つまり 飛び石連休の「飛び石」は無視して全て休みにしてしまうのである。要するに、飛び飛びに散らばっている「休みの島々」は、全体が橋で結ばれて見事な「休暇の大陸」になるのだ。

 長い夏休みやクリスマス休暇あるいは春休みなどに重なる場合もあるが、それとは全く別の時期にも、イタリアではそうしたことが一年を通して当たり前に起こっている。

たとえばことしは、日本のゴールデンウイーク前の時節(期間、時分)にもポンテを含む連休があった。復活祭と終戦記念の旗日がからんだ4月20日から28日までの9連休である。

4月20日(土)、21日(日“復活祭”)、22日(月“小復活祭=主顕節”・旗日)23日(火“ポンテ”)24日(水“ポンテ”)25日(木“イタリア解放(終戦)記念日”・旗日)26日(金“ポンテ”)27日(土)28日(日)の9連休である。

もちろん誰もが9連休を取る(取れる)わけではない。23日(火)と24日(水)は働いて25日から28日の間を休む。つまり26日(金)だけをポンテとして休む、という人も相当数いた。だが20日から28日までの長い休暇を取った人もまた多かったのである。

そうした事実もさることながら、旗日と旗日の間をポンテでつなげて連休にする、という考え方がイタリア国民の間に「当たり前のこと」として受け入れられている点が重要である。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に「連続」にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方である。休日を切り離すのではなく、できるだけつなげてしまうのだ。

連休や代休という言葉があるぐらいだからもちろん日本にもその考え方はあるわけだが、その徹底振りが日本とイタリアでは違う。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、飛び石連休という考え方が依然として存在していることで分かるように思う。

一方でイタリア人は、何かのきっかけや理由を見つけては「できるだ長く休む」ことを願っている。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じている。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいる。が、彼らはイタリア的な磊落がはらむ豊穣 が理解できないのである。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者なのである。

休みを希求するのは人生を楽しむ者の行動規範であり「人間賛歌」の表出である。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてこない。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす価値は、休暇を取ることによってのみ理解できるように思う。

2019年に出現した10連休は、日本の豊かさを示す重要なイベントだった。日本社会は今後も飛び石連休を「全連休」にする努力と、連休中に休めなかった人々が休める方策も含めて、もっとさらに休みを増やしていく取り組みを続けるべきなのである。



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ティレニア海とエーゲ海



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「天国海岸」という陳腐な名称のサルデーニャ島の海の絶景


6月終わりから7月半ばまで滞在したサルデーニャ島では、海とビーチを忘れて観光や食巡りに終始した。海とビーチは昨年のクレタ島で堪能したから今回はなくても構わない、という趣旨の思いを僕は前の記事で書いた。

もっと言えば、「海とビーチはギリシャが最善」だからサルデーニャ島のそれにはあまり魅力を感じなかった、というところである。

多くの人が羨ましがるサルデーニャ島の海なのに、よりによってそこに魅力を感じなかったなんてふざけるな、と島のファンの皆さんに怒られそうだが、それが自分の正直な感想なので仕方がない。

サルデーニャ島の海やビーチは言うまでもなく素晴らしい。しかしながらギリシャの島々の、エーゲ海をはじめとする碧海やビーチは、もっとさらに素晴らしい、というのが僕の率直な心緒なのである。

地中海では西よりも東の方が気温が高くより乾燥している。そしてサルデーニャ島は地中海のうちでも西方に広がるティレニア海にあり、ギリシャの島々は東方のエーゲ海に浮かんでいる。

サルデーニャ島よりもさらに空気が乾いているギリシャの島々では、目に映るものの全てが透明感を帯びていて、その分だけ海の青とビーチの白色が際立つように見える。

ギリシャの碧海の青は、乾いた空気の上に広がる空の青につながって融合し一つになり、碧空の宇宙となる。そこには夏の間、来る日も来る日も文字通り「雲ひとつない」時間が多く過ぎる。

真っ青な空間にカモメが強風に乗って凄まじいスピードで飛翔する。それは空の青を引き裂いて走る白光のように見える。

サルデーニャ島の海上にもカモメたちは舞い、疾駆する。だが白い閃光のような軌跡を残す凄烈な飛翔は見られない。

上空に吹く風が弱いためにカモメの飛行速度が鈍く、また空にはところどころに雲が浮かんでいるため、青一色を引き裂くような白い軌跡は、雲の白に呑み込まれて鮮烈を失うのだ。

そうした光景やイメージに、それ自体は十分以上に乾燥しているものの、ギリシャに比較すると湿り気を帯びているサルデーニャ島の環境の「空気感」が加わる。

それらのかすかな違いが重なって、どこまでもギリシャを思う者の心に、サルデーニャ島の「物足りなさ」感がわき起こるのである。それはいわば贅沢な不満ではある。

そんなわけでサルデーニャ島の今回の休暇では、海三昧のバカンスではなく、観光と食巡りに重きを置く日々を過ごした。それはそれで楽しいものだった。


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再訪サルデーニャ島~未開発という名の癒し



アラゴンの塔:Torre spiaggia-pelosa-stintino600pic


6月の終わりから休暇でサルデーニャ島に来ている。島を訪れるのはほぼ20年ぶりのこと。空路ではなく車ともども船で島に着いた。

日本ほど島が多くはないイタリアには、意外なことに地中海で面積が1番大きいシチリア島と2番目に大きなここサルデーニャ島がある。

僕はロンドンでの学生時代からシチリア島は何度も訪れている。イタリアに居を定めてからは、仕事でもプライベートでもさらにひんぱんにシチリア島に行った。

ところがサルデーニャ島は今回が2度目。しかも20年以上も時間が経っての再訪である。島の羊飼いを追いかけるドキュメンタリーを制作しようと思いついて、いろいろ調べた時期もあるが、多忙に呑み込まれて立ち消えになってしまった。

サルデーニャ島は日本の四国よりも面積が大きいが、人口はその半分にも満たないおよそ165万人程度である。内陸部は特に人口密度が低い。

僕は辺鄙な離島で生まれ育ったせいか、もともと島という場所に特別の愛着を抱く傾向がある。島と聞けばすぐに興味を持ち訪ねてみたくなる。サルデーニャ島も例外ではない。

その上サルデーニャ島はイタリアの島のうちでは、面積もさることながら多くの意味でシチリア島と並ぶ重要な島なのである。これまでに一度しか訪問していないのが自分でも不思議なくらいだ。

サルデーニャ島は何よりも自然の景観が目覚ましい島。イタリアの自然はどこも美しい。だがサルデーニャ島のそれは格別だ。なぜならこの島には、イタリアでも1、2を争うほどの豊かで手付かずの大自然がどんと居座っているからである。

島の北部の港町に午前6時に着いて、ホテルにチェックインするまでの長い時間と翌日の全てをかけて、島の半分ほどを一気に車で巡った。それだけで20年前に経験した島のワイルドな自然を再確認することができた。

緑一色がえんえんと続く集落も人影も見当たらない島の内陸部を旅すると、DHローレンスがいみじくも指摘したように、まるで限界ある島ではなく大陸の雄大の中を走っているような印象さえ受ける。

サルデーニャ島は、地中海の十字路とも形容されて古くから開発が進んだシチリア島やイタリア本土の大半とは違い、近代化の流れから少し取り残される形で歴史を刻んできた。

手付かずの大自然が多く残っているのはそのことと無関係ではない。近代化とは開発の異称であり、開発は往々にして自然破壊と同義語だ。

近代化の遅れを工業化の遅滞、あるいは産業化の延滞などと言い換えてみれば、サルデーニャ島の置かれた状況は、イタリア本土の南部地域やシチリア島などにもあてはまる現象であることが分かる。

イタリア共和国を語る時によく引き合いに出される「南北の経済格差」問題とは、サルデーニャ島とシチリア島を含む南イタリア各州の経済不振そのもののことにほかならない。

サルデーニャ島の近・現代は、そのようにイタリアの南部問題のなかに包括して語られるべきものだが、同島の場合にはそれだけでは語りつくせない「遅れ」のようなものがあると僕は思う。

つまり、先史時代からサルデーニャ島が刻んできた特殊な歴史が、同島の近代化の遅れを語る前に既に、島の「後進性」の源を形成してきたということである。

サルデーニャ島には紀元前16世紀頃から謎に満ちたヌラーゲ人が住み着き、紀元前8世紀頃にはフェニキア人が沿岸部に侵攻して次々に都市を建設。やがてカルタゴ人が征服する。次にローマ帝国の支配を受けその後アラブ・イスラム教徒に支配される。

海の民とも呼ばれるフェニキア人は今のレバノン近辺、またカルタゴ人は今のチュニジア周辺に生を受けた人々である。つまり彼らはアラブ人だ。彼らのほとんどは後にイスラム教徒になる。

アラブ・イスラム教徒の支配は、9世紀にはシチリア島にも及んだ。だがサルデーニャ島の場合はそのはるか以前からアラブ系の人々の侵入侵略、また占領が間断なく続いた。

またシチリア島が、古代ギリシャの植民地となって発展した時代もサルデーニャ島は経験してない。そうした歴史が、サルデーニャ島を立ち位置のよく似たシチリア島とは異質なものにした、と言うこともできるようである。

さらに言えばサルデーニャ島は、再びシチリア島やマルタ島、またロードス島とクレタ島に代表されるギリシャの島々などとは違って、十字軍の進路の版図内にはなかった。そのために十字軍とともに拡散した「欧州の息吹」がもたらされることもなかった。

そればかりではない。サルデーニャ島は極めて開明的だったベニス共和国が、アドリア海に始まる東地中海を支配して、自らの文化文明を地域に浸透させ発展させた恩恵にも浴することがなかった。

そのようにサルデーニャ島は、欧州文明のゆりかごとも規定される地中海のただ中に位置しながら、一貫していわば「地中海域の普遍的な発展」から取り残された島であり続けた。それがサルデーニャ島の後進性の正体ではないか。

シチリア島が輝かしい文化の島なら、サルデーニャ島は素朴で庶民的な文化に満ちた場所である。ここにはシチリア島に見られる絢爛な歴史的建築物や芸術作品はあまり多くは存在しない。しかし豊穣雄大な自然と、素朴な人情や民芸などの「癒しの文化」がふんだんに息づいているのである。

今回の休暇も海を満喫する計画で、ビーチに隣接するキャンプ場の中に小さな一軒家を確保した。小なりといえどもベッドやトイレやシャワーやダイニングキッチンが完備した快適な空間。ホテルが経営するレジデンスとほぼ同じ感覚の施設である。

ところが既に10日間が経過したものの、ビーチにはほとんど出向かず島の北部の町や村を車で連日訪ね回っている。各地の癒しの文化を見聞しまた食を味わうのが目的である。海とビーチは昨年ギリシャで堪能したこともあり、後回しになってもあまり胸が痛まない。

滞在施設には一つ大きな問題がある。部屋の中ではインターネットが使えないのである。レストランやカフェなどが集まっている公共の空間でしかWIFIが機能しないのだ。そこでブログ一つの投稿にもわざわざそこまでpcを抱えて行く。

そんなわけで今後の「サルデーニャ島紀行」は島からの報告ではなく、今月半ば以降に帰宅してからあらためて書く、ということになりそうである。もっとも昨年訪れたギリシャの島紀行も自分の中ではまだ書き終えていないから、果たして無事に完成させられるかどうかあまり自信はない。


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「飛び石連休」という貧困


このテーマでは 過去に何度か書いたのだけれど、ゴールデンウイークにからめて今年もやっぱり書いておくことにした。休むことは大切だと思うからだ。特に働き過ぎの日本人にとっては、なおさら。

ゴールデンウイーク前に日本の友人と電話で話をしたところ、今年は4月29日の「昭和の日」を休んで翌30日(木)と5月1日(金)は出勤し、5月2日(土)から5月6日までが連休という人が多いのではないか、という知らせだった。

しかし、土曜日が休みにならない会社もあるから、5月3日から6日の間だけが連休という勤め人もかなりいるだろう、という悲しい話も聞かせてくれた。

悲しいというのは、人生はできれば休みが多い方が心豊かに生きられる、と信じている僕の勝手な感想である。特に長めの休暇は大切だ。

人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。

夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの日本のサラリーマンの皆さんを見るたびに、僕はそういう思いをさらに強くする。

バカンス大国ここイタリアには、飛び石連休の「飛び石」という発想がない。飛び石は全て繋げて連休にしてしまうのだ。

例えば今年の日本のゴールデンウイークがもしもイタリアにあったとするならば、連休の初めの4月29日の後の同30日(木)と5月1日(金)も、間違いなく休みになるだろう。

つまり、4月29日から5月6日までが全て休み、が当たり前。また恐らく4月29日の前の2日間、27日(月)と28日(火)も休みになる公算が高い。その場合は4月25日(土)から5月6日(水)までがどんと連休になるだろう。

それどころか、5月6日(水)と5月9日(土)の間の2日間(木、金)もついでに休みにして、4月25日から5月10日までのほぼ2週間を全て休む、という者がいても少しも不思議ではない。

飛び石、つまり断続または単発という発想ではなく、逆に連続にしてしまうのがイタリア人の休みに対する考え方である。それは「ポンテ(ponte)」=橋、または連繋と呼ばれる。休日を切り離すのではなく、つなげてしまうのである。

連休というぐらいだからもちろん日本にもその考え方はあるわけだが、その徹底振りが日本とイタリアでは大いに違う。勤勉な日本社会がまだまだ休暇に罪悪感を抱いてるらしいことは、今年の場合で言えば4月30日と5月1日の2日が休みにならなかった事実で分かるように思う。

いつも言うことだが、イタリア人は何かのきっかけや理由を見つけては「なんとしても休む」ことを願っている。休みという喜びを見出すことに大いなる生き甲斐を感じている。

そんな態度を「怠け者」と言下に切り捨てて悦に入っている日本人がたまにいる。が、彼らはイタリア的な磊落が孕む豊潤が理解できないのである。あるいは生活の質と量を履き違えているだけの心の貧者なのである。

休みを希求するのは人生を楽しむ達人たちの行動規範であり「人間賛歌」の表出である。それは、ただ働きずくめに働いているだけの日々の中では見えてこない。休暇が人の心身、特に「心」にもたらす重大は、休暇を取ることによってのみ真に理解できるように思う。

ジャスミン革命の今を見た



チュニジアに行ってきた。

 恒例の地中海周遊の一環だが、昨年のアンコーナのポルト・レカナーティ旅行同様、迷いつつ突然のように急いで決めて出た旅だった。

アラブの春の騒動で、中東から北アフリカの国々は安心して旅をするには程遠い環境にある。その中でチュニジアは比較的落ち着いているとされる。

 一連のアラブの国々の中で一番初めにジャスミン革命が起こったから、沈静するのも早かったという見方もできる。しかし、そればかりではない。

誰も言わないが、実はチュニジアは北アフリカのムスリム国家の中では、最も穏健で開明的という考え方がある。

もっと身も蓋もない言い方をすれば、同地域のアラブ国の中では最も野蛮的ではない、ということである。 

だからという訳でもないだろうが、革命後の混乱も過ぎて平和になったという情報も耳に入った。

 一方、 チュニジア国内を自由勝手に動き回るのは危険だ、という意見もまたあった。

 一見平穏に思えるがやはりジャスミン革命の影響は大きい。また革命はまだ進行中であり、いつ何が起こってもおかしくない政情不安は続いている、というのである。

イタリアの旅行社などは彼ら独自のバカンス・ツアーを盛んに売り出していて、それには結構多くの客が付いている。

要するに自由気ままな旅は良くないが、彼らが管理運営する領域内に留まっていれば問題はない、ということらしかった。

思い切ってそのツアーに乗ってみることにした。

そうでもしないと、いつまで経ってもアラブの国々への立ち寄りができない、というほんの少しの焦燥感もあった。

結論を先に言うと、チュニジアは平穏だった。

ところどころに自動小銃で武装した警察官(軍警察?)が立っていたことを別にすれば、とても革命が進行している国のようには感じられなかった。

また機関銃で武装した警察や軍が街中に立っていたりするのは、欧州や南米でも良く見られる光景だからほとんど気にならなかった。



にわか旅



今日、これからプーリア州のガルガーノへ移動する。車で。

 

ガルガーノはイタリア半島のかかとの反対側(北)にあるコブのような小半島。

 

あるいはブーツの足首の裏にあたる附近。

 

1週間の「短い」バカンス。海際のバンガロー・コテージで過ごす。

 

毎年6月、最低でも2週間は休むが、今年は忙しくて無理。

 

さんざん迷って、なんとか1週間取れた。でも仕事が残ったのでPCを持って行く。

 

普通は絶対にそういうことはしない。休みにはPCも休み。

 

ま、持って行けば必ず使いたくなるから、気が向けばブログも更新するかもしれない。

 

と、そういう風に流れ勝ちだから、休みにはきっぱりとPCとおさらばするのだけれど。

 

行き先をガルガーノに決定するまでに、トルコのアンタルヤにするかギリシャのコルフ島かとさんざん迷った。

 

結局、時間切れでうまく旅程が立てられず、イタリア国内のガルガーノへ。

 

ツー訳で、

 

ガルガーノから顔出しできない場合は、7月に会いましょう。

 

チャオ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!


9月に会いましょうⅡ



明日8月22日から夏休み。シチリア島へ。友人夫婦と妻と4人で。フェリー以外は全行程車の旅。

 

考えてみると、「友人という他人」を交えて3日以上の旅をするのは、若い時代を含めて人生で初めての体験である。

 

また、シチリア島を純粋に「休み」で訪れるのも、今回が初めて。

 

初めてづくしの旅。

 

まず夫婦共にローマ出身の友人宅(実家)まで車で8~9時間の移動。

 

そこで2晩世話になって、ナポリ近くのサレルノへ。

 

そこからフェリーでシチリア島、メッシーナへ。

 

友人のフェルーカ漁師アレーナ一家と旧交を温めた後、

→<~「フェルーカ」挽歌~

 

観光地のタオルミナ、さらにアルキメデスの故郷シラクーザを経て、歴史遺産に満ちたアグリジェントへ。そこでは兄弟同然の付き合いがある友人のニコラの世話になる。

 

最後はトラパニ県を経てパレルモ。

 

パレルモでは当然、親友のサルバトーレとシルビアの世話になるが、2人とも我われがシチリア島に入った時点ですぐに会いに行くと息巻いているから、へたをすると漁師のアレーナ一族とも一緒に会うことになりかねない。

→<サルバトーレ&シルビア

 

しかし、それではあまりにも「出来事」が多過ぎて逆に印象が薄くなってしまうことが普通だ。もったいないから今回は流しておいて、近いうちに皆で会うイベントを企画しよう、と電話で話して納得してもらった。

 

それやこれやで。

 

それでは。

 

皆さん。

 

ぜひ、

 

9月に会いましょう!!!!

→<9月に会いましょう


ポポロの海 ③



チカのビーチに入ると、先ず管理人小屋につづいて着替用のキャビンが並んでいる。シャワーやトイレも同じ場所だ。その先の砂浜にパラソルが2列に渡って整然と立てられていて、さらにその先にビーチテントの列が6列ある。

 

テントは赤と青の縞模様が鮮やかな帯状の化繊布である。等間隔に立てられたたくさんの支柱の上にぴんと張り渡されているが、それぞれの長さは100メートルにも及ぶために絶えず海風をはらんで、ぱたぱたと小気味のいい音を立てる。

 

テントの下には、折りたたみ式の色違いの寝椅子が、2脚ないしは3脚で1組になってずらりと並べられている。1つのテントの下には合計50組もの椅子がある、1つ1つのパラソルの下にも最低2脚の椅子があるから、合計するとチカのビーチでは、1000人前後の人々が日陰の椅子に座ったり寝そべったりして、1日を過ごすことができる計算になる。

 

最前列のテントの前から波打際までの砂浜が、チカ家の管理外にあるいわゆる公共空間である。公共空間は、言うまでもなく
300キロメートルの海岸線のビーチの全体にある。そこでは散歩をしても日光浴をしても誰にも文句を言われない。ただし、大きな音を立てたり、ボール遊びをしたり、要するに他人の迷惑になるような行為をしてはいけないことになってる。

 

そんな決まりを守る気のある人間は一人もいない。

 

ミラノ訛(なまり)の言葉でまくし立てる10人ほどの若者のグループは、トランクの大きさほどもあろうかというオーディオ機器の音量を思いっきり大きくして、早くからディスコパーティーを開いている。

 

子供たちは、見て見ぬふりをする親や大人たちの態度に気をよくして、ありったけの声でわめきながら鬼ごっこをする。そのうちの一人が波打ち際を散歩中の老夫婦に体当たりを喰らわせる。かと思うと、日光浴をしているトップレスの女性の背中を思いっきり踏みつけて、隣の男の上にもんどり打って倒れる者がある。他の二人は、車座になってトランプをしている人々の間を突っ切って向こう側に逃げこむ。

 

ボール遊びをする者も多い。サッカーボールやビーチテニスの玉が右に左に飛び交って、男のサングラスをはたき落とし、金髪女性のビキニの尻を盛大に打ちつける。罵声と悲鳴と子供らの嬌声が間断なくつづく。

 

ビーチには物売りも多い。

 

「ココ・ベッロー! ココ、ベッロー!」と叫ぶのはココ(椰子の実)売りの若者だ。細かく割った椰子の実の入ったカゴを右手に、左手には水入れのバケツを持って、彼らは砂浜を行ったり来たりする。しばらく歩いて両手の荷物を砂に置き、バケツの水を手ですくってカゴの中のココに振りかける。そうしておけば、ココは取り立てのようにいつもつやつやして見える。歩いても立ち停まっても彼らは「ココ・ベッロー!ココ・ベッロー!」、と一番鶏の雄叫びみたいな声を競い合う。

 

クロワッサンに似た手作りのパンケーキを売り歩く女もいれば、蜂密をまぶして焼いた手作りのフルーツを売るキャンディ屋もいる。「ジェラート~、ジェラート~」と間のびした声を出して歩くのはアイスクリーム売りだ。手作りと称するテーブルクロスを両肩に山のようにかついで売り歩く男もいる。

 

明らかにアフリカ産と分かる女物のエキゾティックな装飾品を、箱に入れて売り歩く黒人もいる。生まれて間もないライオンの子を腕に抱いて、いっしょに記念撮影はどうか、と海水浴客にたずね歩くナポリ人もいる。ライオンの子は明らかに密輸入したものだ。

 

物売りの中で一番にぎやかなのはハワイ屋である。アロハシャツに椰子の葉の腰巻きを着て、頭には花輪をつけ、胸には真っ赤なレイと日本製の大型カメラをぶら下げて正装したハワイ屋は、バナナの葉で作ったジャングルの模型をリヤカーに積んで、「ハワイの記念写真はいかが~!」と日がな一日ビーチをねり歩く。

 

客がつくとハワイ屋は、小道具の花輪とレイと腰巻きをリヤカーから取り出して相手に着せ、さらにウクレレを片手に握らせる。ワイキキの海に見立てたアドリア海とジャングルのセットをバックに、ハワイ屋はカメラを構えて「はい、チーズ」と客に愛嬌を振りまく。ばか気たセットにはけっこう人が群がる。

 

ビーチの殷賑(いんしん)を耐え難い騒音の集積と見るか、開放的な活力と受け留めるかによって、リチョーネの海のバカンスは天と地ほども違うものになる。

ここはポポロ(大衆)の海だ。しかもイタリアのポポロの海である。彼らに静けさを要求するのは、日曜日には教会で神に祈れ、と日本人に要求するくらいに無駄だし不当なことだ。

 

憤然と立ち上がって若者や子供らを叱りつけ、ビーチに秩序を植えつけようとするドイツ人がたまにいる。しかし、イタリア人は馬耳東風に聞き流す。ドイツ人の言う秩序が、一歩間違えばヒトラーやムッソリーニのそれになりかねないことを大衆は良く知っている。


第2次大戦が終わって長い時間が過ぎた夏のバカンスにおいてさえ、ヨーロッパ人は戦争の記憶を頑固に胸の片隅にしまいこんでいる。大衆の知恵とはおそらくそういうものなのだろう。

 

ドイツ人のような勇気はなく、かといってイタリア人のように騒々しい寛大さも持ち合わせない僕は、1人そっと立ち上がって「カルロのバー」に行く。喉も渇いているが喧噪に少し疲れてきたから、冷えたビールでも飲んで一休みしたくなったのだ。

 

バカンスで疲れるというのは変な話だけれども、来る日も来る日もビーチで同じシーンがつづくと僕は日ごとに疲れていく。公共空間の騒ぎや売り子の押しつけがましい掛け声もそうだが、ビーチテントの下で隣り合った人々と付き合わなければならないわずらわしさが、僕をどっと疲れさせる。

 

付き合いというのはおしゃべりのことである。昼食の為に「マリネラ」に戻る2、3時間の休憩をはさんで、ビーチでは朝から夕方までぺちゃくちゃしゃべりまくっていなければならない。おしゃべりには男も女も関係がない。が、僕はイタリア語があまり話せない風を装って、ぺちゃくちゃはできるだけイタリア人の妻にまかせ、寝椅子に寝転がって人々の繰り言を黙りがちに聞いている、という形がほとんどだ。

 

しかしおしゃべりというのは、しゃべっている当人たちは好きでやっているからいいものの、無理やりにそれを聞かされている側は極端に疲れて行くものなのだ。

 

そんな訳で、少し長めに取るバカンスが終わりに近づく頃には、僕は1日のほぼ半分くらいを「カルロのバー」で過ごしたりすることにもなる。

 

僕は誰とも口を聴かずに「カルロのバー」で生ビールを飲みながらビーチでの付き合いの疲れを癒やす。飲むのはたいていドイツ製の「ワイスビア」。

 

ほんのりとビールの酔いが回るころ、ようやく僕の中にバカンスの大きな喜びが湧き上がってくる・・じわり、じわりと・・

 


ポポロの海 ②



僕らが行くのは、ベニスから南に200キロほど下った海沿いにある、リチョーネという町である。リチョーネは、今でこそアドリア海岸でも有数のリゾート地として知られているが、つい最近まで誰も目を向けることさえなかった鄙(ひな)びた漁村に過ぎなかった。

 ところがイタリアにリゾートブームが訪れると同時に、ボローニャやフィレンツェなどの都会に近い立地条件が幸いして、他の沿岸添いの村や町に先んじて急速に発展したのである。

僕らが逗留するのは、海から300メートルほど離れた場所にあるペンシオーネ「マリネラ」である。ペンシオーネは宿泊と食事をセットにして提供する施設で、ホテルよりもはるかに割安だから人気が高い。たとえば日本の旅館よりも気が張らず、ペンションよりも規模が大きくてホテル並の施設がある、というのがイタリアのペンシオーネの特長である。

「マリネラ」では、僕らはいつもアパート形式の部屋を借りることにしていた。居間を兼ねた大きめの寝室が一つと子供用のそれが一つ、さらにバスルームと小さな台所とベランダが付いている。しかし台所の入口には引き戸式の白いシャッターがかかっていて、僕らは使うことができない。それは10月から翌年の5月までの間に部屋を借りる人だけが使用することになっている。

つまりその期間中に部屋を借りる人は、自炊することが許されていて、「マリネラ」のレストランで食事をする必要がない。台所には料理と食事に必要な全ての用具はもちろん、冷蔵庫やコーヒーメーカー等も備わっているから、飲食の一切は自部屋で済ませることができるのである。 そうした設備は2、3日の休暇を過ごす場合には無意味かもしれないが、滞在が長ければ長いほど経済的には有利になる。

ヨーロッパの6月から9月はバカンスの最盛期である。「マリネラ」はその間は一つ一つの部屋の台所を閉め切って、宿泊客に飲食のサービスを強制して稼ぐ。こういう言い方をすると余り聞こえはよくないが、ペンシオーネというのは、宿泊と飲食をセットにして客に提供することで彼らの売り上げを伸ばすと同時に、一人一人のバカンス客の出費を少なくすることにも成功している。そういう訳だから、台所が使えなくても誰も文句は言わないのである。

毎朝8時から9時の間に「マリネラ」の食堂で朝食を済ませて、僕と妻と子供二人は海に向かう。砂利の敷かれた「マリネラ」の前庭を突っ切って行くと、門の両側にレバノン松の大木が枝を広げて影を落としている。下を通るとひんやりとした空気が感じられるほどの濃い大きな影である。

そこを抜けて外に出ると、バカンス用の賃貸アパートやホテルやペンシオーネや別荘などがひしめいているフラテロ通りがある。通りにはそれらの建物から吐き出された人々が、僕らと同じようにビーチに向かって思い思いに行進している。

色とりどりのバスタオルや帽子や海水パンツや浮き袋やビーチボールやビキニなどが、歩く人々にまとわりついて、肥大症の蝶のように中空を舞いながらアドリア海を目指す。

フラテロ通りは真っ直ぐに海に向かっていて、ビーチの手前で海岸通りと交差する。

海岸通りには陸側だけに建物が連なっている。レストランやカフェやバールやブティックと並んで、リチョーネの高級ホテルもほとんどこの通りにある。目の前の通りの片側がそのまま砂浜につづいている絶好の立地だからだ。

フラテロ通りと海岸通りの角には、歩道の一部を占拠して営業している「カルロのバー」がある。鉢植の木や草花をいきれる程にたくさん並べて歩道に囲いを作り、その中に水色のクロスにおおわれたテーブルが配置されている。テーブルクロスに限らず、椅子も灰皿も花瓶も店の表の装飾も何もかも、そこでは全てが水色に統一されていて、見るだけでも涼しい気分になる。

リチョーネのバーやカフェやレストランは、かならず独自のシンボルカラーやデザインを決めて店を飾りたてている。「カルロのバー」だけが例外というわけではない。大衆向けの、いわば二流のリゾート地と言ってもいいリチョーネの街だが、一つ一つの店の飾り付けは抜群にセンスがいい。陳腐な言い方だが、そういうところはやっぱりイタリア的だ。

通りすがりに見ると、「カルロのバー」の囲いの中には既に2組のドイツ人のグループがやって来て、ビールの大ジョッキをテーブルに並べて談笑している。

店の奥のカウンターの前にも水着姿の人々がたむろしている。それはビーチに降りる前に、エスプレッソコーヒーとクロワッサンで朝食を済ませようとするイタリア人たちだ。

カウンターの向こう側には、店の主人のカルロと奥さんのアンナが忙しく立ち働いている。

僕はビーチでの日光浴に飽きると、ひんぱんに海岸通りを横切って、「カルロのバー」に行って冷たいビールを飲む。そのせいでカルロと奥さんのアンナとは、僕はけっこう親しく口をきく間柄になっている。

あと2時間もすれば、僕は今日もカラカラに喉をかわかせて、美味いビールを求めてこの店に立ち寄るはずである。そのときには僕は、妻と子供たちのために冷たい飲み物とアイスクリームも買い求めてビーチに戻る。

海岸通りを突っ切って、僕らはチカのビーチに出る。チカというのは、ビーチの一区画を管理している一家の名前である。チカ家はリチョーネの町に権利金を支払って、ビーチの決められた場所にトイレやシャワーやパラソルやビーチテントなどの設備を作る。バカンス客は、チカ家からそれを借りてビーチでの一日を過ごす、という仕組みである。

イタリア・アドリア海の長い砂浜は、どこもおよそ百メートル単位の長さに区画されて、その一つ一つがチカのビーチと同じ形で整備され管理されている。

[~のビーチ]と名付けられた一つ一つの区画の設備は、「カルロのバー」と同様にそれぞれが個性的な色とデザインで統一されて存在を主張している。

ところがたとえば海の上や空から全体を眺めると、不思議なことに一つ一つがお互いに引き立て合いながらしかもきちんと調和しているという、これ又イタリア的としか言いようのない景色に変貌してしまうのである。

 



ポポロの海  ①



ベニスの南からアンコーナという町に至る、約300キロメートルのアドリア海沿岸地帯は、イタリアというよりも、おそらくヨーロッパ最大の夏のリゾート地と見なしていいと思う。

ヨーロッパで最大、というくらいだから、もちろんそこはいわゆる高級リゾート地ではない。

地元イタリアと、ドイツを中心とする北欧各国のふつうの人々、つまりサラリーマンやビルの守衛や郵便配達夫や学校の教師やデパートの店員や八百屋の主人夫婦や年金生活の老人・・・・、といった大衆(ポポロ)がどっと押し寄せて、夏のバカンスを楽しむ典型的な大衆リゾート地である。

しかしそこの一帯は、大衆リゾート地とはいうものの、ありとあらゆる施設が完璧に整備された、その意味では一級のリゾート地でもある。

日本の九十九里浜を連想させる(もちろんそれよりははるかに長い)広い砂浜海岸には、色とりどりのビーチテントやバンガローやパラソルや着替え用のキャビンが、びっしりと並んでどこまでもつづいている。

椅子や寝椅子をそろえたそれらの施設は、一定の間隔で区分けされていて、区分けされた一つ一つのグループが同一色に統一されているから見た目が実に美しい。

もっと具体的に言えば、ルキノ・ビスコンティ監督の古典的な名作「ベニスに死す」の中の砂浜のシーンが、300キロメートルにもわたってえんえんと続いていると考えればいい。

あの映画の中で美少年が砂浜に遊ぶとき、パラソルやバンガローと共に色あざやかな細長い布を屋根に張り渡しただけのビーチテントも登場する。

軽く風をはらんで小刻みにゆれるテントとそれを支える細い木柱の色合いは、誰にも真似のできないイタリア人独特の色彩感覚とデザイン感覚をさりげなく、しかも十二分に示していたと思う。

かつて一部の金持ちのためだけに存在したあの映画の世界が、今ではアドリア海沿岸の全域に広がっている。この現象は高級リゾート地が俗化したということではなく、ふつうの人々がそういう海で遊べるほどヨーロッパ社会が成熟した、と考えるほうが正しいように思える。

あの映画が一世を風靡した頃のヨーロッパの大衆は、たとえば今の日本人と同様に、何週間も仕事を休んで遊びほうける、ということはまずできなかったのである。

ビーチで遊ぶ膨大な数のバカンス客を迎える宿泊施設は、5ツ星のグランドホテルからキャンプ場のテントに至るまで、ありとあらゆるクラスのものがそろい、それに伴ってレストランやカフェやバーやスポーツセンターやヨットハーバーやルナパークやショッピングセンター等々の施設も自然に充実していく。

古都ベニスの海岸から派生したアドリア海のリゾート地は、そうやってイタリア最大の規模になりやがてヨーロッパでも最もにぎやかな夏の歓楽地になった。

子供が小さかった頃、僕ら一家はまだ人出の多くない6月を選んで、良くそこにバカンスに出掛けた。

6月なら人出が少ない分ホテルやビーチ施設の料金が安く、しかも梅雨のないイタリアの海はもうすっかり夏になっている。その上にこの国の6月は夏時間の真っ最中だから、日は長くて夜は涼しい。6月というのは、イタリアではバカンスを過ごすにはとてもいい季節なのである。

ただし人出が少ないとはいうものの、それは最盛期の7月と8月に比較しての話で、6月のイタリアのリゾート地はどこもかなりのにぎわいを見せる。6月から学校が休みに入る子供たちとその母親族と、最盛期の混雑を避けて早めの休暇に入る人々がどっとくり出すからである。

仕事が休めない父親を家に残して、子供と母親が先にバカンスに出かけるのは、イタリアでは極めてありふれた光景である。

家族を先にバカンスにやって、父親は週末だけせっせとそこに通うという訳である。僕はそれを勝手に「通勤バカンス」と呼んでいる<9月に会いましょう>。

6月のアドリア海沿岸には、イタリア人に加えて、ドイツ人をはじめとする北欧系の人々の数も多い。彼らは早期休暇に入る地元の人々と同じように、人出がピークになる7月と8月を意図的に避けて、夏の初めに長い休暇を取って南下してくるのである。

6月のイタリアの海でバカンスを過ごすのは、前述したように経済的な面を含めていいことずくめだ。それを見のがす手はない。いかにも合理的な国民にふさわしく、彼らは時間差出勤ならぬ、時間差休暇の制度を整えて、うまくそれを利用するようになった。

僕はイタリア人でもなく、ドイツ人でもなく、母親でもないのに、家族を引き連れてせっせと6月の海に出かけた。ないないずくめのついでに、まっとうな勤め人でもない、という僕の仕事事情があるからそういう芸当ができた。

ただ正確に言うと、実体は僕も週末だけ休暇中の家族の元に通う「通勤バカンス」者に近い部分もあった。それでも、フリーランスのテレビディレクターという立場上、割合に時間の融通がきくから、勤め人の「通勤バカンス者」よりも多く休むことができていたと思う。

僕は普段から休みに向けて人の3倍も4倍も仕事をこなす気で頑張ってきた。僕の仕事哲学は、当時も今も完全に「休むために仕事をこなす」ことだ。

それは少し功を奏して、不安定な職業ながら、いや、おそらく不安定な職業だからこそ、僕は長期の休暇を取ることにはかなり成功してきたように思う。

フリーランスの職業の場合「仕事をこなしてから休む」のでは、いつまで経っても思うような休みは取れない。「休むために仕事をこなす」ことが重要だ。

そして「休むために仕事をこなす」場合は、常にしゃかりきになって仕事をしまくっていなければならない。

組織に縛られずに自由に生きていくとは、必ず「組織人の労働量を凌駕する仕事をこなし続けること」と僕は自分の経験からはっきりと学んだのである。





9月に会いましょう



イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というのが多くなる。

 

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

 

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

 

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

 

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別である。

 

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

 

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通う、いわゆる「通勤バカンス」と僕が勝手に呼んでいる時間を過ごす人々の姿もよく見かける。そしてそんな男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取るのは言うまでもない。

 

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。が、実は大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の夏休みを取るのが普通である。

 

それは法律で決まっている最低限の夏期休暇の日数で、たとえば僕がつい最近まで経営していた番組制作会社のような、個人事務所に毛が生えただけのささやかな会社でも、スタッフには最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担である。

 

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は感じる。

人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものである。夏休みがほとんど無いか、あっても数日程度の多くの日本のサラリーマンの皆さんを見るたびに、僕はそういう思いをさらに強くする。

 

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

 

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

 

そうすると、どんな仕事でも相手があって成り立っているものだから、普通の期間に休みを取る人々は、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の能率ががくんと落ちる。仕事量が減ることで、やる気もなくなって半分休み状態になることもしばしばである。

 

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

 

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけである。

 

ロンドン、東京、ニューヨークと仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものである。

 

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ない日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ僕は感じる。とういうことは、イタリア的に休みまくるのはいいことなのではないか、とつくづく考えるようになったのである。

 



※閑話休題


僕の今年の夏の休暇は8月20日以降の予定。行き先はシチリア島。

その前に明後日から地中海沿岸リサーチ旅+義務旅+3日間の休み。それなのでこのブログもしばらく開店休業です。

営業再開予定の7月アタマにまたお会いしましょう。


チャオ~~~~~~~   ~~~~~~~~~!
  

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