【テレビ屋】なかそね則のイタリア通信

方程式【もしかして(日本+イタリ ア)÷2=理想郷?】の解読法を探しています。

書きそびれている事ども

書きそびれている事ども 2021年7月30日

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コロナワクチンのおかげで例年通り6月に休暇に出ることができた。そこに4年に1度開催されるサッカー欧州選手権が重なった。サッカー好きの僕は試合のテレビ観戦と記事執筆で「休む暇」もない有り様だった。選手権はバカンス後も続き、ただでも面白いのにイタリアの活躍でますます愉快になった。今度は「仕事をする暇」もないほど喜んだ。選手権が終わり、東京ではオリンピックが始まった。オリンピックでは陸上を毎回よく見る。陸上以外では水泳と体操を少々見る、という程度だ。僕はオリンピックにはあまり魅力を感じない方だ。それでも陸上には興奮する。特に駆けっこが好きだ。

7月から9月のイタリアは国中がバカンスモードに入って仕事がうまく進まない。仕事には相手が必要だ。だからその期間中は、休暇ではない者までも「相手不足」で仕事が思うようには回転しないのである。加えて僕は7月-9月は本職以外の仕事でも多忙になる。イタリア北部のガルダ湖畔にある歴史的建造物の管理にかかずらう、という仕事外の大仕事があるのだ。

それやこれやで書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタが多くある。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。ブログの趣旨が時事ネタの速報ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けることだからだ。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした



マンチーニの変貌?

サッカーイタリア代表チームのロベルト・マンチーニ監督にはかつて、国際試合に弱く、「スタープレーヤー」なしでは勝てない、などの悪評がついて回った。クラブチームを優勝に導くものの、そこには必ず強力なスタープレーヤーがいる。そして彼はそれらの卓越した選手に頼る戦略を多用し重宝する。だがそのクラブチームは、欧州全体が相手のチャンピオンズリーグでは勝てない、と陰口をたたかれた。

だが彼は、2018年にイタリア代表チーム監督に就任して以来、スター選手不在のチームを改造し鍛え上げてきた。そして欧州選手権の予選を含む国際試合で不敗記録を作り、ついには欧州選手権そのものまで制した。そうやって彼について回った酷評を一気に吹き飛ばしてしまった。

彼は変貌したのか。あるいは単純に批評家らが判断ミスを犯していたのか。


殺人鬼を死刑にすることは正か邪か

もちろん邪である。

だが20114月、僕はこのブログに

「調べても勉強しても、考えても分からないことがある。そこで僕は、考え続けても分からないことや結論付けられないあらゆることに「今のところは」と枕詞をつけることにしている。というか、それが僕の主義であり原理原則である

と書き、続いて

「今のところ僕は、死刑制度に賛成」

と書いた

また20173月には

僕は今のところ、自分の復讐心を制御できないのではないか、と感じるのである。その一点を正直に認めるために、僕はどうしても死刑制度に反対、と主張することができない

とも書いた

そして直近の記事ではさらに

「死刑制度を否定するのは、論理的にも倫理的にも正しい世界の風潮である。僕は少しのわだかまりを感じつつもその流れを肯定する。

だが、そうではあるものの、そして殺人鬼の命も大切と捉えこれを更生させようとするノルウェーの人々のノーブルな精神に打たれはするものの、ほとんどが若者だった77人もの人々を惨殺した犯人が、あと11年で釈放されることにはやはり割り切れないものを感じる

と書き、

最後に

「(77人を虐殺したアンネシュ・ブレイビク には)終身刑も釈放のない絶対終身刑あるいは重無期刑を、と言いたいが、再びノルウェー国民の気高い心情を考慮して、更生を期待しての無期刑というのが妥当なところか」

と締めくくった

僕はそこでは少し卑怯な気持ちにとらわれていた。ノルウェー(そして世界の多くの国々)の制度に便乗して、あたかも僕自身がもはや完全に死刑反対論者でもあるかのように誤魔化したのだ。

だが僕は今も、理性では死刑制度に反対しながら、感情がどうしても100%そうだとは言えない、懐疑論者である。

いや、野蛮だ、未開だ、残酷だ、等々の批判を覚悟で言えば「消極的な死刑賛成論者」だと告白しよう。

「消極的な死刑賛成論者」の“消極的”とは何なのか。

特にノルウェーの殺人鬼アンネシュ・ブレイビクに絡めて論じようと思う。


東京五輪開幕式に露呈したいつもの日本の課題

五輪の開幕式の様子をやや否定的な気分でテレビ観戦した。思い入れの強いシークエンスの数々が、「例によって」空回りしていると感じた。その思いを書こうと決めてあれこれ考えていたら、英国のタイムズ紙 がえらく好意的な記事を発表した。他のメディアも概ね肯定的な評価だった。

それらを見、読んでいくうちに記事を書く気持ちが失せた。言うまでもないが批判的な視点は、逆のそれよりも鬱陶しい。ネットにあふれるショボイ、ダサイに始まる否定コメントに自分の見方の暗さが重なった。コロナ禍中のいわくつきの五輪とはいえ、もう始まったのだ。始まった以上はやはり成功してほしい。祝賀にケチをつけるのは控えようという気持ちになった。

ところが、時間とともにやはり書いておくべき、という考えが強くなってきた。

どのシークエンスの思い入れが強く、なぜ空回りをしているのかを書くのは、公に意見を開陳している者の義務でさえある、というふうに心が動いている。

開会式の速報や時論時評を書くのは僕の仕事ではない。それらに絡めた自らの根本の考え方や意見を記すのが僕のブログの趣旨なのだから、今さら遅い、などと引かずに近いうちに書こうと思う。


コロナ禍中のバカンスについて

コロナパンデミックが到来して初の本格的な休暇を、これまた初めてイタリア半島最南部のカラブリア州で過ごした。地中海に突き出た大陸の気候とイタリアの最貧州の趣について。

意外な出来事もあった。予期に反して、地中海域で僕が探索し続けているヤギ羊肉の絶品に出会ったのだ。秘境とも呼ぶべき山中にミステリアスな人々が住む集落があって、そこで育まれたレシピなのである。


白鵬の無残と照ノ富士の不安

大相撲は衛星放送を介して欠かさず観ている。白鵬は強い怪物横綱などではなく、異様悲壮な安い怪物男、という本性を7月場所で露わにした。

その白鵬に千秋楽で負けた照ノ富士は先行きが不安だ。白鵬の見苦しい動きに惑わされた軽さはそこだけのもので、横綱に昇進した先の頼りなさを暗示するものではないことを祈りたい。






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新型コロナのせいで書きそびれている事どもⅡ 2021年2月27日

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《コロナパンデミックが始まってこの方、それにまつわることばかりを書いてきた。今も書いている。この先も続きそうだ。書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したい。だが思うようにはいかない。時間と共に書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点でもある。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである》


管首相への違和感

衛星放送を介して日本とのリアルタイムで(ほぼ)毎日菅首相を目にする。むろんネット上でもひんぱんに見る。見るたびに気が重くなる。印象が悪い。あるいはイメージが暗い。イメージは火のないところに立つ煙のようなものだ。実態がない。従ってイメージだけで人を判断するのは危険だ。だが、また、「火のないところに煙は立たない」ともいう。だからそれは検証に値するコンセプトでもある。一般的に見てもそうである。ましてや菅首相は日本最強の権力者であり、海外に向けては「日本の顔」とも言うべき存在である。そこではイメージが重要だ。いや世界の人々にとってはほとんどの場合、他国の宰相はイメージだけが全て、という程度の存在だ。だから菅首相のイメージが悪いとか重い、というのは無視できないことなのである。彼はコロナ対策でははじめから迷走した。だが政策そのものには大きな間違いはないと僕は感じる。感染防止のための規制や対策が、遅れたりズレて修正が必要になったりするのは、問題の性質上仕方のないことだ。それは菅首相の咎ではない。しかし、彼はそれらの動きについて国民にしっかりと説明し、語り、納得させる義務がある。彼にはその能力が欠けている。為政者の最も重要な資質であるコミュニケーション力がない。ほぼ致命的、と形容してもかまわないほどに公の場での対話能力が欠落している。彼の見た目の印象が悪くイメージが暗いのもそれが原因だ。そこから派生した重大な出来事がことし1月26日、国会質疑で相手に対し「失礼だ。一生懸命やっている」 と答弁したことだろう。彼はそこでコミュニケーションをする代わりに、自らが国民の下僕であることを完全に忘れて居丈高になり、殻に閉じこもって対話を拒否している。そういう態度でも彼の内閣が存続できるのは、お上を無条件に畏怖する愚民が日本社会にまだ多く存在していることにもよる。だが最大の問題は、そうした国民を啓蒙するどころか、菅首相自身がムラ社会のボス程度の意識しかなく、後進的な悪しき風潮にさえ全く気づかないように見えるところにある。


ドラマ三昧


テレビ屋の僕は番組を作るだけではなく、元々「番組を見る」のが大好きな人間である。自分の専門であるドキュメンタリーや報道番組はいうまでもなく、ドラマやバラエティーも好きだ。ドキュメンタリーや報道番組は、イタリア語のみならず衛星放送で英語と日本語のものもひんぱんに見る。しかし、ドラマは最近は日本語のそれしか見ていない。理由は日本のそれが面白く、日伊英の3語での報道番組やドキュメンタリーに費やす時間を除けば、日本のドラマを見る時間ぐらいしか残っていない、ということである。スポーツ番組、特にサッカー中継にも興味があるのでいよいよ時間がない。バラエティー番組に至っては、ここ数年は全く目にしていない。ドラマは以前からよく見ているが、コロナ禍で外出がままならなくなった2020年はじめ以降は、ますますよく見るようになった。ロンドンを拠点にする日本語の衛星ペイテレビがNHK系列なので、NHKのドラマが圧倒的に多いが、民放のそれも少しは流れる。民放のドラマにもむろん面白いものがある。が、僕は昔からNHKの質の高いドラマが好きだから、ペイテレビの現況は好ましい。コロナ禍中に多くの面白いドラマを見た。思いつくままにここに記すと:

『ジコチョー』  『盤上の向日葵』 『サギデカ』 『ミストレス~女たちの秘密~』 『すぐ死ぬんだから』 『一億円のさようなら』 『ディア・ペイシェント~絆のカルテ~』 『路(ルウ)~台湾エクスプレス〜』 『70才、初めて産みましたセブンティウイザン』 『ノースライト』 『岸辺露伴は動かない』『ここは今から倫理です。』 『子連れ信兵衛 』など、など。

これらのほとんどは面白いドラマだったが、あえて3本を選べと言われたら、三田佳子が主演した『すぐ死ぬんだから』 『ミストレス~女たちの秘密~』『岸辺露伴は動かない』を挙げたい。『すぐ死ぬんだから』は死後離婚という面白い設定もさることながら三田佳子の演技がすばらしかった。共演した小松政夫が亡くなってしまったことも合わせて印象に残る。『ミストレス~女たちの秘密~』、『岸辺露伴は動かない』も目覚しい番組だった。先日終わった大河ドラマ『麒麟がくる』も良かった。大河ドラマは出だしの数週間で見るのを止めることが多いが、今回はコロナ巣ごもり需要とは関係なく最後まで面白く見た。山本周五郎「人情裏長屋」 が原作の 『子連れ信兵衛 』は駄作。それでも時々見てしまったのは、原作を良く知っているからだ。都合のいい設定や偶然が多く、とてもNHKのドラマとは思えないほどだった。原作に劣る作品としては『ノースライト』も同じ。現在進行中のドラマでは『カンパニー〜逆転のスワン〜』が愉快。『ここは今から倫理です。』 には考えさせられる。これらのドラマ一つひとつについての論評は時間があればぜひ書きたい。書くだけの価値があり書くべき要素も多くある。

イタリア式新聞事情

イタリアの新聞には顔写真が実によく載る。これは自我の発達した西洋の新聞、ということに加えて、「人」がそれも「人の顔」が大好きなイタリアの国民性が大きく影響している。先日イタリア最大の新聞「Corriere della sera」のブレッシャ県版が、僕を紹介する記事を書いてくれたが、丸々1ページを使い且つ何枚もの写真を伴って記事が作られていて、今さらながら驚いた。写真を多用する実例でもあるので、少しの新聞考とともに改めて書こうと思う。

マクロン大統領のワクチン発言の真意

先日、フランスのマクロン大統領が「先進国のワクチンの3~5%分を貧しい国に回そう」という趣旨の発言をして物議をかもした。フランスを含むEU自体のワクチン接種が遅滞している状況だから、マクロン大統領の主張は偽善愚劣に見える。そういう意味合いの批判も多かった。だが彼が言っているのは正論ではないかと思う。弱者には手を差しのべるべきとか、一国主義では将来のウイルスの再流入を防げない、などということは多くの人が頭では分かっている。だが今このときの自分の分のワクチンが足りないのだから、誰かとそれを分かち合うのはごめんだ、というのが再び多くの人の本音ではないか。しかし、自由主義世界がそうやってジコチューに固まっている間に、ロシアと中国がまたまたうまく立ち回って貧しい国々の支持を集めている。それをブロックしなければならない、というのがマクロン大統領の本心だろう。トランプ大統領がWHOは中国寄り、と叫んで脱退を宣告したのは、WHOと中国への一定のプレッシャー効果はあったが、アメリカが脱ければ長期的には結局中国がWHO内でさらに影響・支配を強めるのは必至だ。ワクチン外交もそれに似ている。大局的に言えばEU及び自由主義体制国が団結して中ロ&トランプ主義を抑え込もう、ということである。そうはっきり言えばいいのに、少し夜郎自大的傾向がなくもないマクロン大統領は、夜郎自大を隠したがる言動で墓穴を掘ることがよくある。

イタリア、コンテ前首相について

ことし1月26日、ジュゼッペ・コンテ首相が辞任し、2年半余りのコンテ時代が一旦終わった。あえて一旦、と言うのは、首相就任前までは大学教授だったコンテさんが、政治家に変身して再び宰相を目指すシナリオもあると考えるからである。コンテ首相は、世界初のそして世界最悪とも言えるイタリアの驚愕のコロナ地獄を、国民とともに乗り切った優れたリーダーとして歴史に刻まれるだろう。だが彼は、物議をかもすことも多い五つ星運動を拠り所にしているために、五つ星運動が目の敵にするいわゆる「体制側」の反感を買いやすい。「体制側」には既存の政党や政治家なども含まれる。僕は五つ星運動には違和感を抱き、同時に彼らが批判する既存のイタリアの古い政党や政治家やシステムにも大いにひっかかりを覚える者だ。だからというわけではないが、後者がジュゼッペ・コンテ氏の功績をできるだけ無視しようとする雰囲気があることに危機感さえ抱く。僕はコロナ地獄の底で、テレビを介して国民に静かに強く、且つ勇気ある言葉で語りかけ、語り続けるコンテ首相の姿を文字通り一日も欠かさずに見ていた。語るばかりではなく、彼はコロナ対策に果敢に取り組み実行し続けた。その姿は感動的だった。それを忘れつつある国民がいて、忘れさせようとする「体制側」の目論見もなくはないように感じる。


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新型コロナのせいで書きそびれている事ども   (2020年4月30日)



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2月初め以来、新型コロナウイルスにまつわる話ばかりを書いてきた。なにしろ突然イタリアが世界最悪のCovid19跋扈地となり、中でも僕の住まう村を含む北部ロンバルディア州が、正真正銘の感染爆心地となった。身の危険も感じつつそのことについて書き続けてきた。

イタリアは相変わらず苦境の中にいる。日本は「日本式のロックダウン」つまり緊急事態宣言の延長を決めた。新型ウイルスはそれ自体のおぞましさはさて置いて、良い意味でも悪い意味でもあらためて欧州と日本の根本的な違いにも気づかせてくれた。それを実感できるのは外国に住まう者の特権、というふうにも思う。

古来、祖国を出て外国をさまよう者には根無し草の悲哀というものが付きまとうものだが、僕の中にはそういう気分が全く生まれなかった。それは生活や境遇や生業などが原因で「無理やり」国を出なければならなかった人々と違って、僕が「すき好んで」外国に出奔した人間だからだろう。しかも英国、米国、ここイタリアと移り住んだ。その間には多くの国々も訪れた。

悲哀など感じる暇はなかった。今後もさらに多くの国や地域を旅するつもりでいたところに、新型コロナウイルスの惨禍がやってきた。人生はげに何があるかわからない。新型コロナはむろん憎むべき変災だが、それには人間の驕りへの懲罰、という意味合いが込められているようにも感じる。人間はコロナ禍を機に少しは謙虚になっていくのかもしれない。

そうなれば人類も捨てたものではない。世界中でたくさんの人がバタバタ倒れている今はまだ少し早く、敢えて口にすれば不謹慎のそしりを免れない、と感じつつもあえて言葉を選ばずに書いておきたい。つまり、もしも新型コロナウイルスのおかげで人間が「自然や和平や科学や道理の前に恭謙な存在」になるのなら、コロナ禍もまた悪くはないのかもしれない、と。

月9ドラマ「監察医 朝顔」

民放のドラマは欧州では数ヶ月~半年ほどの遅れで放映されることが多い。監察医の主人公と刑事の父親と夫に絡めて、東日本大震災で行方不明になった母親と、彼らが仕事で関わる「遺体」を輻輳させ深化させる手法のこのドラマも同じ。イタリアが新型コロナウイルス感染爆発の地獄に陥る直前に最終回が放映された。

途中の回では、行き倒れた老人と息子が意味深な親子関係だったらしいことを匂わせるエピソードを挿入しながら、結局ふたりの間の壮絶な(?)ドラマは描かれなかった。それはシリーズのまたドラマ構成上のあきらかな破綻だ。

「そこにある銃は発砲されなければならない」とするいわゆるチェーホフの銃は、ドラマ作りにおけるプロットの重要性を説く理論で、劇中に提示されるあらゆるものには意味がある、という本則を伏線のあり方にからめて語っている。言葉を変えれば「劇中に余計な要素を入れてはならない」ということ。「監察医 朝顔」の死んだ老人と息子のエピソードがまさにそれだ。

突然提示された行き倒れの老人と息子のエピソードは、そこに披露された以上必ずストーリーが展開され深化されて全体の中の必然にならなければならない。ところが一切そういうことは起きず、エピソードは無意味にそこに投げ出されて無意味に消えるのである。

最終回では津波に流された母親の死のトラウマを克服する朝顔が描かれる。それはいいのだが、夫の桑原があるいは事故で死ぬのか?と視聴者の気をひきつける展開を示唆しておきながら、何もなかったという安易なドラマ作りになっている。それもまた行き倒れの父親と息子の挿話と同じ粗略さでつまらない。

もう一つ重要な瑕疵に見えるコンテンツを指摘しておきたい。

朝顔の監察チームは、それぞれが医学のエキスパートだが、ドラマで重要な役割を負っている「死体」を常に「ご遺体」と呼ぶ。僕はそこにも強い違和感を覚えた。実際の監察医たちもそうなのだろうか?死体を遺体と呼ぶのは、死んだ人への尊称である。

「ご遺体」と呼ぶのはもっと真摯な言葉だ。特に日本には死者を貶めないという風習がある。悪人でも亡くなってしまえば仏であり敬意の対象だ。ほとんどの日本人はそれを肯定的にとらえる。だが死体を解剖して死の謎を解明する監察医は科学者だ。科学者は、科学する対象に対しては余計な感情移入をしないほうがいい。してはならない。それでなければ冷静な分析や考察や解析が雲る可能性がある。

「ご遺体」という言葉は、ドラマを観ている視聴者の心情に配慮してのフィクションだと思うが、余計な忖度だ。もしも実際の監察医らが、遺骸を常に「ご遺体」と呼んでいるようなら、僕はもっとさらに違和感を覚えるだろう。行過ぎた礼はマナーではなく、慇懃無礼という不実だ。


壇蜜のイスタンブール

壇蜜がトルコのイスタンブールを旅する紀行ドキュメンタリー『壇蜜 生と死の坩堝』 。壇蜜というタレントはとても興味深い。女性的という意味でもそうだが、知性的にもなにかがある、と感じさせる。遺体衛生保全士 であったり葬儀の仕事をしていた体験などが、艶っぽい外観と不思議に調和している気配があって面白い。

街の雰囲気も彼女の自然体の紀行報告も悪くなかった。僕も知っているイスタンブールの街が別の印象になって提示されていた。ベリーダンサーとの交流シーンでは、ひたすら性的なだけと見られがちなベリーダンスが、激しい体の動きによって人を楽しませることが主眼のショーだと訴える。

ベリーダンスの衣装に着替えて体当たりで取材をする壇蜜と、若く美しく且つ小さな子供の母親でもあるダンサーの言動に説得力があって、ベリーダンスへの見方が変わること請け合いのシークエンスになっていたように思う。

タイトルの「生と死の坩堝」にからむエピソードでは、しかし、イスラム教を特別視する姿勢が強すぎて違和感も覚えた。葬儀を取材したものだが、死者の親族の叔父が「死は終わりではなく、始まり」と語ったあとに、壇蜜が「死者に行かないでとすがる気持ちよりも、“逝くなら見送らなくちゃ”という気持ちのほうが強いように思う」と語るシーンは嘘っぽい。

彼らはわれわれ日本人と全く同じように死を悼み、恐れ、愛する者をなくした苦しみの中で、「行かないで!」と懇願しながらそこに立ち尽くしているだけだ。それ以下でもそれ以上でもない。イスラム教徒だけが、あるいはイスラム教の教義だけが、その普遍的な心情とは違う思想や哲学を宿している、と示唆するのは偏見や差別の温床になる可能性さえ秘めた危険な見方だ。


食の起源

NHKスペシャルの「食の起源」は、テーマも情報も眼目も構成もいいのに、TOKIOというあまり必要とは思えないナビゲーターを置いたおかげで、違和感のある仕上がりになった。

TOKIOのファンにはうれしい仕掛けだろうが、この手の番組にはナビゲーターやレポーターは不似合いだ。これは決してTOKIOが悪いという意味ではなく、ドキュメント内容以外の要素はNGという意味である。

ご飯(米)、塩、脂、酒、、美食、と取り上げられた素材を見るだけでも心躍るような構成。だが、せっかくの知的好奇心を満たす要素に、TOKIOのほとんど中身のないコメントや空騒ぎが織り込まれて、全てを台無しにしていると感じた。

タレントを使って視聴率を上げる腹積もりは分かるが、番組の質が落ちるばかりで感心しない。せめて彼らの喋りの中に新たな情報が含まれていればまだ我慢もできるが、文字通りのダベリ一色。むろんそれはディレクターを始めとする制作サイドの不手際だ。出演者は台本に沿って喋っている。

知的なテーマや、内容の濃い「構成もの」の質が悪い時に、タレントを添えてゲタをはかせるのは民放の番組の十八番だ。NHKは民放的「殷賑依存症」の番組作りをするようならあまり存在意義はない。それなら民放になれ、と言われても返す言葉がなくなるのではないか。


大相撲3月場所

史上初の無観客での興行。白鵬が、もはや優勝回数を数えるのさえつまらないほどの回数で、また優勝。場所後に朝乃山が大関昇進を果たした。だが、最近は栃ノ心、高安、豪栄道など、大関から陥落する力士が相次いでいて、申し訳ないが朝乃山にもあまり期待する気が起こらない。大関というのは昔はもっとずっと強かったようなイメージがあるが、それは子供時代の僕の錯覚だったのかもしれない。

観客のいない取り組みは初めのころこそ違和感があった。だが僕は割合と早い段階で慣れた。それは土俵上の申し合いが真剣勝負であるのがよくわかったからだ。若いころに元大関貴乃花の藤島部屋で真剣勝負のぶつかり稽古を見たことが、僕の大相撲への信頼の強い土台になっている。

大相撲に八百長があったのは事実だろうが、僕はそれが世論の猛烈な指弾に遭って矯正されたと信じている。なぜならテレビ画面から伝わってくるのは、僕が学生時代に間近で感じた力士たちの真剣で厳しい息遣いと、緊張と裂ぱくの気合が激突するガチンコ対決の凄みと同じ空気だったからだ。

だからといって大相撲を無観客で見続けたいとは思わない。大相撲の醍醐味はやはり、多くのファンの声援が飛ぶ会場での取り組みにこそある、と強く感じる。

新外来語の威力

僕が知る限り、日本語にはつい最近まで、疫学で「小規模の感染者集団」をあらわすクラスターという言葉はなかった。少なくとも「日常日本語」には見られなかった。それは新型コロナウイルス感染症対策に関する政府の専門家会議が初めに使って、たちまち一般化したものだ。

日本の専門家たちには知見が不足していた。そこで英語を持ち出して概念を表現した。お上のその決定を従順な大衆が受け入れた。地域封鎖や隔離や移動禁止などが合わさった「ロックダウン」、爆発的な感染流行を示す「オーバーシュート」という英語由来の外来語も全く同じである。

僕はそういう日本社会の大勢順応・迎合主義、つまり何事につけ主体的な意見を持たず、「赤信号、皆で渡れば怖くない」とばかりに大勢の後ろに回って、これに付き従う者や風潮や精神に強い違和感を覚える者だ。従って文章を書く際には、それらの言葉を用いないようにしようと抵抗を試みた。

ところが三つの言葉は、“即座に”という形容が過言ではないほどの速さで一般化した。感染者集団や隔離封鎖また感染爆発などという日本語よりも、伝達が早くコンセプトもよく理解される。そこで今では僕も、締まらない話ながら、そうした言葉をひんぱんに使うようになってしまった。

それは悪く言えば日本人の節操の無さ、良く言えば日本語ひいては日本文化の柔軟な精神を端的にあらわしている、というふうにも見えてとても面白いと感じる。




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書きそびれている事ども 2019年11月21日



人々サンマエルコ寺院前の水中を歩く600


《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。とはいうものの、これまでではそうやって記録しておいたテーマを改めてじっくりと考察し書き上げたものは少ない。次々と書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点である。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである。いつも、「いつか実際に書く」つもりでいるので。。。》



Brexitの命運

Brexitの行方をおそらく9割方決定するイギリス総選挙の動きを見守っている。EU信奉者で英国ファンの僕は、Brexitが反故になることを依然として期待しているが見通しは暗い。Brexitを主導したその名も「Brexit党」のナイジェル・ファラージ党首が、与党・保守党が議席を持つ300余の選挙区に立候補者を立てないと決めたからだ。これで保守党の優勢がますます固まり、選挙後にBrexitが実行される可能性が高まった。ナイジェル・ファラージ氏の政治手腕には驚かざるを得ない。相変わらず政治臭覚の鋭いハゲタカ・ポピュリストだ。それでも僕は、今月いっぱいで任期が切れるトゥスク欧州理事会議長(事実上のEU大統領)が、Brexit阻止を決して諦めてはならないと表明したことに賛同する。EUの結束と英国を含む欧州の若者たちのために。


沈むベニス

ベニスが例年よりも激しい水害に襲われている。11月12日、街の8割が浸水しサンマルコ広場は観測史上2番目となる187センチもの高潮に飲み込まれた。そんな折、沈み行くベニスの救世主にもなると考えられてきた巨大プロジェクト、可動式堤防の「モーゼ」が役立たずであることが判明。少なくとも100年は持つと考えられていた堤防は、製作途中の10年間で錆びついて稼動しないことが明らかになった。莫大な費用が露と消えた。僕は20年ほど前にこのプロジェクトを追いかけるドキュメンタリーを企画していろいろとリサーチしたが、いくら調べても確固とした姿が見えて来ず、数分の短い報道番組に仕上げただけで断念した経験がある。堤防そのもののあり方もそれを進める人々のあり方もよくわからない。よくわからないのに金だけは湯水のように注ぎ込まれた。イタリアらしいと切り捨てるのは簡単すぎて気が引ける。だが、やっぱり、いかにもイタリアらしい。。



ヤギ料理天国クレタ島

ギリシャ・クレタ島のシンボルはヤギである。ヤギはヤギでもこの島だけに生息するクリクリという野生のヤギがそれだ。クリクリは家畜化される前の野生ヤギの特徴を持っている。ヤギは1万1千年ほど前にトルコ、イラク、キプロスなどで家畜化され、その2千年後にクレタ島にも家畜法が伝わった。したがって野生のクリクリは、少なくとも1万1千年以上も前の、原始的な生態を保持している野生ヤギということになる。クレタ島そのものののシンボルになっているクリクリは、その姿が絵様にされて観光業や役場の文書などでエンブレムとして用いられている。クリクリは過去に乱獲されて激減。今は狩猟はもちろん食べることも厳禁だが、家畜化されたクリクリ種以外のヤギはむろん食料となる。そしてクレタ島には家畜のヤギが多い。羊も多い。当然ヤギ&羊肉料理もよく食べられてレシピも多彩だ。また味も抜群に良い。今後機会があれば2019年9月のクレタ島体験を中心にヤギ・羊肉料理を紹介してみたいと思う。



「老人を軽侮する老人」ベッペ・グリッロ


ポピュリスト政党「五つ星運動」の創始者ベッペ・グリッロ氏が、高齢者から選挙権を取り上げろ!とわめいて、高齢者はもちろん全ての年齢層のイタリア人から総スカンを食らった。高齢者は先がないのだから国の行く末を決める選挙に参加させる必要はない。それよりも未来のある若者に選挙権を与えろ。今は18歳から資格がある投票権を16歳にまで引き下げろ、と主張したのである。老人を侮辱するグリッロ氏自身は古希を超えた男。彼自身もりっぱな老人だろう。わめき、挑発するのがグリッロ氏のスタイルだが、若者に媚びただけにしか見えない愚かな主張は嘲笑するさえバカバカしい。それにしてもグリッロ氏の追従者たちは、いつでもどこでも「わめいて」いるように見えるこの男にウンザリすることはないのだろうか。あ、それがないから追従者と呼ばれるのか。。。



見つづけているぞ、大相撲


大相撲中継はイタリアでは朝昼晩の一日3回見ることができる。ロンドンに本拠があるJSTVの衛星放送だ。朝は日本とのライブ中継で、昼は録画再放送、夜は幕内の全取り組みの仕切り部分をカットして、勝負だけをダイジェストに見せる。僕は朝の生放送を録画しておいて、暇を見て(作って)全勝負を見る。今日12日目が終わった九州場所もしかり。好調の朝乃山が負けて、どうやら白鵬の優勝が見えてきたようだが、その白鵬の土俵態度が良くない。良くないのに皆が慣れてしまったのか誰も何も言わない。辛口解説が心地よい北の富士さんでさえも。(幸い空振りにはなるものの)倒れた相手をさらに殴る仕草、鼻や口をゆがめての示威行為、立ち合い前に使ったタオルを投げ捨てる態度、賞金を振り回す下品な振る舞い、など、など。時の経過とともに彼の所作は不穏になるばかりだ。せっかく日本国籍を取得して、引退後も大相撲界に残る覚悟を示しているのに、なぜ大横綱らしい立ち居振舞いができないのだろう。どっしりと構えたり蹲踞をしている彼の姿は、絵になるほどりっぱなのに。年を重ねるごとに行儀が悪くなるのは明らかに心の問題だ。誰か彼の心を素直な軌道に乗せてやらないと、せっかくの大横綱が晩節を汚す結果にもなりかねない。そうではなくとも、引退後の活躍はおぼつかないのではないか、とファンのひとりとして心配になる。



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書きそびれていることども2019年1月23日 


600則①



《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。とはいうものの、これまでではそうやって記録しておいたテーマを改めてじっくりと考察し書き上げたものは少ない。次々と書くべき題材が増えていくからだ。それは刻々と過ぎる時間と格闘するSNSでの表現の良さであり同時に欠点である。ともあれ時事ネタを速報するのが目的ではなく、それを観察し吟味して自らの考えを書き付けるのが僕のブログのあり方なので、『いつか書くべきテーマ』というのは自分の中ではそれなりに意味を持つのである。いつも、「いつか実際に書く」つもりでいるので。。。》

1.サルヴィーニ副首相と安倍首相は一卵性双生児
イタリアのマッテオ・サルヴィーニ副首相は日本の安倍晋三首相に似ている、とよく思う。2人の見た目はひどく違っている。サルヴィーニさんはネクタイ姿が全く似合わない、いわばワイルドな野獣。一方の安倍さんは育ちの良さがにじみ出た都会風の紳士である。でも2人の腹の中身は同じ。極論者は右も左も言動が酷似して区別がつかなくなるが、当事者たちは彼我は大いに違うと考えそう主張する。そのあたりはある意味で正直だ。サルヴィーニ同盟党首兼副首相は、そういう正直な政治家である。安倍首相にはその点での真率がない。そして怖いのは、彼自身が意識して腹の中身を隠すのではなく、首相自身の人となりが腹の中身を自然に消し去るふうに見える点だ。だが彼は、サルヴィーニ同盟党首兼副首相に酷似した危うい政治家である。

2.「ボヘミアン・ラプソディ」
昨年末、「ボヘミアン・ラプソディ」を観た。実はいろいろな場所でいろいろな人がいろいろなことをケンケンガクガク言ってることに触発されて映画館まで足を運んだ。結論を言えば、おおいに楽しんだ。映画の王道を行っていると思った。 「ボヘミアン・ラプソディ」は普通に優れたエンターテインメント映画だ。ただそれだけなのに、いろいろと理屈っぽい人たちがウンチクや分析や考察やダメ出しを、衒学的な表現を用いたり,なまはんかな知識を振り回したりして、あれこれとへ理屈を開陳しているのを面白がった。かなり前の話になるが、スーパーマン(1978年の映画)が世に出たとき、シチリア人の友人がバカバカしい映画で全くつまらんと憤慨したのを思い出した。「ボヘミアン・ラプソディ」を否定的に語る人々は僕のその友人に似ている。

3.台湾~不潔な楽園
台湾の魅力と不衛生力について。台湾は楽しい島だが不潔な印象も強い。彼我の衛生観念の相違はおそらく中国本土との比較にも当てはまることだろう。そう考えると僕は中国旅行への興味をすっかり殺がれてしまった。それでも台湾が好きなことに変わりはない。離島で生まれ育った僕には、島の文化やあり方や「島人」のメンタリティーが結構分かる、と自負している。それは台湾の場合も同じ、と感じる。

4.ノーベル賞文学の退屈は純文学の退屈と同じ。
カズオ・イシグロの作品は、初め数ページ読んで挫折。しかし、なぜ退屈かを見極めるために拷問を承知で読破することにし、本当に読破した。すると静謐な筆致が好ましいと分かった。執事という英国の文化に触れた喜びもあった。だがいわゆる純文学に属する文体とテーマと細部フェチの全体像は、やはりつまらない。ノーベル賞の作家に共通する退屈が満載である。つまり「特殊」な文学ジャンルに属する作品なのだ。その特殊な文学ジャンルのノーベル賞作家で、僕にとって唯一面白いのはガルシア・マルケスだけ。川端康成も大江健三郎もその観点で言えば実はつまらない。

5.「流転の海」完結をことほぐ
宮本輝の長編小説の完成は日本文学の金字塔とも形容されるべき偉業だと思う。骨太の人間ドラマを僕は楽しみつつ学びつつ読み続けてきた。多作の天才の一人である宮本輝は、カズオ・イシグロよりも優れた物書きだ。「ノーベル賞系」の作家ではないから、ノーベル賞をもらう可能性は非常に低いが、ノーベル賞が「優れた作家・作品に与えられる賞」と世の中に思い込まれていることを思えば、彼にもぜひその賞を授与してほしい、と思う。僕の宮本輝体験は芥川賞受賞作品の「蛍川」始まり、オムニバス長編「夢見通りの人々」のうちの“肉の鏡”によって決定的に重要になった。 流転の海はまだ6巻までしか読んでいない。食事の際おいしいものをよけておいて、「後で食べる喜び」をかみしめるように、最後の3巻のページを開かないまま眺めたり想像したりして楽しんでいる。

6.銃の重さ
銃を扱う訓練を始める計画である。1994年、イタリア、シチリア島で長期ロケをしていたとき、仕事の合い間をぬってカメラマンのマッシミリアーノ・Tの自宅に招待された。そこは偶然にも、反マフィア闘争の英雄パオロ・ボルセリーノ判事が1992年にマフィアに爆殺されたダメリオ通りにあった。そこでTが合法的に取得・登録済みだという拳銃を見せてくれた。護身用だという。実弾も装填されているそれを手に取ったとき、ずしりと重い感触がそのまま強い不安感に変わった。今にも暴発しそうなイヤな感触だった。僕は引き金に指を掛けた訳でもなくグリップさえ握らずに、銃を寝かせたまま全体を手の平に乗せて軽く包み込むように持っているだけである。怖い気分、イヤな感じはそのまま残った。それは僕の屈辱になった。人間が作った道具を僕はそれへの無知ゆえに激しく恐怖した。それが僕に屈辱感を与えた。武器に関わる恐怖心の実相は二つある。一つは武器と武器を持つ人間とが犯す事件やその可能性への恐怖。もう一つは武器そのものへに恐怖である。これは「知らない」ことから来る恐怖だ。僕はその恐怖を克服するために武器を勉強することにした。まず猟銃から始めた。猟をする気は毛頭ないが、素人には猟銃のほうが扱いやすい、という友人の軍警察官のアドバイスに従った。そうやって猟銃は平穏に扱えるようになった。これから拳銃の訓練を受ける予定である。恐怖の克服が第一義の理由だが、イタリアの特殊な家に住んでいる僕の私的な事情と、将来あり得るかもしれない状況に備える意味も、実はひそかに思っている。

7.イタリアでテロが起きない理由(わけ)
欧州ではイスラム過激派によるテロが相次いでいる。もしかすると収まったのかと見えていた2018年12月12日、フランスでイスラム過激派によるテロがまたもや起きた。容疑者は拳銃やナイフで通行人を襲い、2人が死亡10数人が重軽傷を負った。フランスでは2015年に130人が死亡するISのテロが発生するなど、繰り返しイスラム過激派の脅威にさらされている。英独ほかの欧州主要国なども同様だ。その中で執拗な襲撃予告を受けながらもイタリアは今のところテロを回避できている。意外に見えるかもしれないがそれはイタリア警察が有能であることの証である。イタリア警察はテロ防止を目指して熾烈な闘いを続けている。

8.お騒がせな五つ星運動?
イタリア連立政権の一翼を担うポピュリストの五つ星運動は、突飛な主張やキャンペーンを繰り広げて人心を騒がせると同時にそれを掌握するにも長けた政党である。五つ星運動所属でローマ史上初の女性市長、ヴィルジニア・ラッジ氏も自らの政党を代弁するような驚きの言動に事欠かない。その一つがヤギや羊やその他の動物を市内の公園や歴史的建造物の庭園に放牧して、草や木々の葉を食べさせて清掃させようという考え。財政難が続く永遠の都の台所を救い環境保護にも役立てる、と主張した。五つ星運動と犬猿の仲の前政権与党民主党は、ゴミをカモメに食べてもらうアイデアに続くラッジ市長の懲りない荒唐無稽な言動、と一笑に付すと同時に、彼女は次は蚊退治のためにヤモリの大群をローマに導入しようと言い出すに違いない、などと嘲笑している。でもカモメやヤモリはさておくとして、ヤギや羊に公共の施設の草を食べてもらう、というのは悪い考えではないかもしれない。。。



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書きそびれている事ども 2018年4月10日



サクランボ800
フランコ家のサクランボ(4月8日)


《書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした》

桜桃 (サクランボ)
ことしは3月17日、友人宅での花見の誘いを受けた。ところが予想に反して、その日の段階では北イタリアの桜はまったく咲かず。寒さに震える桜の堅い蕾たちを家の中から眺めつつ馳走にあずかった。10日後の3月27日、友人で大酒飲みのフランコと、ことし初のわが家でのガーデン飲み会。春爛漫とばかりに日差しはまぶしかったが、同時に「春は名のみの」で気温は低い。ビールを飲みつつサクランボまた桜の話に「花咲かせ」た。フランコの家の庭にはサクランボの木があって、毎年開花し実もつける。サクランボは白い花なので、ソメイヨシノに代表されるいわゆる桜の花の華やかさはない。僕は3年前に桜を庭に植えて、翌年に見事な花が咲いたが、夏の手入れが行き届かずあっという間に枯れてしまった。再び桜を植えたいが、また失敗するのもいやだし、桜のつもりでサクランボ(桜桃)を植えようかな、などとフランコに伝えた。桜の花の華やかさにはかなわないかもしれないが、サクランボの白い花も可憐で悪くはない。実のサクランボも収穫できて一石二鳥だし。。。などと考えている。それにしても桜の実が「桜桃」というのはどうも変だ。たとえば「桜実」などと書いてサクランボと読みたい気がしないでもない。もっともサクランボは桜ではないのだから、桜桃がよし、というとらえ方もあるのだろうけれど。

大相撲 春場所 
鶴竜優勝のつまらなさ。横綱の強いイメージがゼロ。しかし優勝インタビューの日本語の流暢さは相変わらずすばらしかった。引退した日馬富士が、現役横綱でありながら大学に通うものの、日本語のレベルが「昨日来日したばかりか?」と思わせるほどの拙さだったのと対照的。鶴竜も日馬富士も奥さんはモンゴル人。したがって2人が奥さんから日本語のレッスンを受けられない点は同じ。なのにひどい差が出る。もしかして日馬富士って頭が悪かったのかな・・?春場所最高の取り組みは9勝5敗同士で千秋楽にぶつかった栃ノ心VS逸ノ城戦。好調で強く重い逸ノ城をがっぷり四つから寄り切った栃ノ心。見ごたえがあった。栃ノ芯は10勝して初場所の14勝優勝と合わせて24勝。大関昇進の可能性が出てきた。大関昇進の基準は、直前3場所の合計勝利数が33勝以上。従って来場所9勝でも到達。しかし、9勝では心細い。せめて11勝ぐらいはしてほしい。そうなれば文句なしだろうが、10勝でも34勝になるから、相撲協会は昇進か否かをめぐって苦心するだろう。

習近平 永久独裁主席
ロシアのプーチン大統領が再選され、終身国家主席になりかねない習近平さんに並んで、さらなる強大独裁者に。2者択一(民主党VS共和党)の勝負で大統領になったトランプさんにも似ている。エジプトのシシさんも再選。また将来、総裁3選なら日本の安倍さんも同じ穴のムジナ。独裁の茶番劇が続く。

佐川証人喚問
佐川氏が「刑事訴追を受ける可能性がある」一辺倒の答弁で逃げおおせたのは、喚問をかわすことができる規定そのものの問題とともに、安倍一強がロシア・プーチン、中国・習近平独裁政権にも似た権力だから。中露の場合は国家がつまり秘密警察が上から押さえるが、日本の場合はそれと同時に下からの抑え、つまり国民による「忖度という名の警察」があるために不正の隠蔽はより強力なものになる。証人喚問は「刑事訴追を受ける可能性がある」の条項を外して、「司法は証人の証言に囚われずに独自に捜査をすすめなければならない」とした上で、証人にすべてを話すように決め付けるべきだ。それを利用して検察が証人を追及する危険は無くならないが、それは証人が「刑事訴追を受ける可能性がある」という伝家の宝刀の文言を盾にして逃げる危険と同じ程度の危険である。同じ危険ならば、国民により多くの利益を生む危険のほうを採用するべき。自民党の丸川珠代さんの「総理、総理夫人、麻生財務大臣の関与はなかったんですね」という出来合いの質問をすることに、微塵も羞恥を覚えない醜悪。いまさらながら、「TVタックル」時代の可愛さの化けの皮がはがれている、と感じた。仮面の凄味。

パスクア(復活祭)コヒツジ料理
子羊また子ヤギ食いにからませて、動物虐待やら菜食主義に移行しろやらの極論がよく聞かれる。動物を家畜にして量産できる態勢が確立しているのなら、それを食べても非難されるいわれはないのかもしれない。動物虐待(肉食)はNGだが生物虐待(菜食・ヴェジタリアン)はOKでは筋が通らない。食の対象としては、野生動物は基本的にNGだが家畜は基本的にOKとなるべきではないか。動物愛護家も菜食主義者もヌーディストもフェミニストも誰も彼も、主義主張を尊重しろと大いに叫ぶべきだが、菜食主義者が肉食者を、あるいはヌーディストが水着姿の人を糾弾するのは余計なお世話であり、あまり賛同してもらえないのではないだろうか。。。


ヤラ・ガンビラジオ


一週間ほど前、10月20日木曜日にブログの閲覧者が爆発的に増える「事件」がまた起きた。

その当日と2日前に投稿した記事のどちらかが読まれているのだろうと思った。

アクセス解析機能で調べてみたらどうも様子が違う。

ブログを訪問しているのは「ヤラ・ガンビラジオ」という検索ワードから導かれた人たちだと分かった。

ヤラ・ガンビラジオは僕の住ま居から近いベルガの少女だ。2010年に殺害された。

事件は驚くような経緯をたどって解決され、犯人は先日、ベルガモ重罪裁判所で終身刑を言い渡された。

死刑のないイタリアではもっとも重い刑罰である。

僕はそのことを書こうと思いつつ時間ばかりが過ぎた。

そこでいつものように「書きそびれていること」の一つとして2014年9月にブログで短く言及した。

どっと増えた閲覧者はその記事を訪ねているようだった。

どこかで誰かが「ヤラ・ガンビラジオ」について論及し、皆がそれについての情報を検索するパターンである。

以前にも、シリアのアサド大統領夫人アスマ・アサドについて書いた記事に閲覧者がどっと群がったことがあった。

それはNHKが7時のニュースで、アスマ・アサド夫人の名前に言及したからだ、と調べて分かった。

大手メディアの影響力はそんな具合に絶大である。

それに比べたらブログなんてほんとにささやかなものだ。

ましてや僕のブログのようにわずかな読者しかいない媒体なんて、悲しいという形容も悲しいほどの、無力な代物だ。

それでも僕はネットというすばらしい表現手段を大切にして、発信を続けようと思う。

理由は簡単だ。僕はその表現手段がたまらなく好きなのだ。

好きこそ物の上手なれ、という言葉もある。ずっと発信し続けていれば表現がうまくなり、なにかいいことも起こるかもしれない。

閑話休題

閲覧者にならって僕も「ヤラ・ガンビラジオ」と打ち込んで検索した。

しかし、僕のブログ記事以外にはこれといったものは見つからなかった。

アスマ・アサド夫人の時は日本の友人知己に問い合わせてNHKのニュースに行き着いたのだが、今回はそういう作業はしなかった。

ヤラ事件に関しては、ブログで数行触れただけできちんとしたものを書いていなかったからだ。

結局なぜ訪問者が増えたかは今もって分からない。

だけど、その不思議な出来事に触発されて「ヤラ・ガンビラジオ」事件について書きたくなった。

なにかと批判もされ反発も受ける政治絡みの記事を書くことに疲れたので、次のエントリーからはできればもっとも自分らしい「政治抜き」の話でいきたい。

でも、なにかと理不尽なことが多い政治については、やっぱりひとこと言いたくなる。

これは悪い癖だろうか、でももしかして、良い癖だろうか。。。。。

書きそびれている事ども2016・9・16日


《書こうと思いつつ流れてしまった時事ネタは多い。そこで、いつものように、できれば将来どこかで言及したいという意味も込めて、自分にとって引っかかる出来事の幾つかを列記しておくことにした》

オリンピックのこと
先月終了したリオ五輪に対してはイタリアは例によって“大いなるぬるい”盛り上がりを見せた。五輪に対するイタリア人の冷めた反応は今に始まったことではない。彼らは例えばサッカーのW杯や7月に終わったサッカー欧州選手権などでは、ちょっと大げさに言えば「国中が狂喜乱舞する」みたいな盛り上がりを見せる。が、オリンピックに際してはいつも冷静である。その理由については既に書いたのでここでは言及しない。日本の盛り上がり振りは民族主義の過剰な表出のようにも見えてどうかと思うが、イタリアの冷め過ぎた反応にもいつも少し違和感を覚える。やはり日本とイタリアの中間あたりの反応が一番しっくりくるような・・

葬られたリイナ本
マフィア史上最強の殺人鬼、とも形容されるボスの中の大ボス、トト・リイナの息子サルヴッチョことジュゼッペ・サルバトーレが、先頃本を出版した。ところがその内容がマフィア首魁の父親をたたえ、家族の結束や愛情を書き連ねたものだったので、世論が反発。不買運動が起こって本屋は彼の本を店頭に置かない事態に。著者のサルヴッチョを招いて報道番組に登場させたイタリア公共放送のRAIにも強い批判が集まった。批判精神ゼロの番組内容が視聴者の怒りを買ったのだ。サルヴッチョは自身も犯罪人。5年前に約9年の懲役刑を終えて社会復帰している。その男の書いた本が市場から締め出されたのは行き過ぎの感もあるが、批判精神の欠落したRAIのオチャラケ番組などは糾弾指弾されても仕方がないだろう。

イタリアからオリーブ油が消える?
サッカー欧州選手権まっただ中の7月はじめ、イタリア・プーリア州のサレント半島に滞在していた。プーリア州はイタリア最大のオリーブ油の故郷。総生産量の3割強を生み出す。ところが3年前、州内でも重要生産地であるサレント半島を中心にオリーブの木が枯れるピアス病が大流行。甚大な被害が出ている。 僕は以前、その近辺でオリーブを話の中心に据えたNHKの紀行番組を作った経験がある。各種要素を入れ込んだ内容だったが、その中でもっとも感動したのは何百年もの樹齢を誇るオリーブの大木や古木のたたずまいだった。今回プーリア州を訪ねてみると、かつて僕が感動した木々と同種の大木たちも多くが立ち枯れていた。深いショックを受けつつ僕はデジカメのシャッターを押し続けた。それからおよそ2ヶ月後の2016年9月現在、オリーブを痛めつけるピアス菌感染症は引き続き強い勢力で蔓延している。

ブルキニ狂想曲
フランスのリゾート地の首長がイスラム教徒の女性の水着「ブルキニ」の着用を禁止する、と発表して大きな議論を呼んだ。フランスは2011年、公共の場でのブルカを禁止する法律を定めた。そこには正教分離あるいは世俗主義を国是とするフランスの大義名分があった。宗教は個人的内面的なものであり、その自由は完全に保障される。同時に公共の場では宗教性は徹底して排除されなければならない。いわゆる「ライシテ」の考え方だ。その是非や好悪は別にして、公共の場で宗教の特殊性あるいは示威性をひけらかすことを禁じる姿勢は、フランスのひいては欧米社会の開明性を担保するものだった。だがブルキニの着用を禁止する条例にはそんな哲学など微塵もない。それは女性イスラム教徒への差別と抑圧以外の何ものでもない。田舎者の首長らはISのテロなどを糾弾する一環として条例を出したつもりなのだろうが、中身はISと同じ不寛容と憎悪が満載のトンデモ条例だった。幸いそれはフランス最高裁で否定されたけれど、余韻は今後も消えるどころか強く鳴り響き続けるだろう。なにしろ条例は地方裁判所ではいったん支持されたのだから。


書きそびれている事ども 



書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで、例によってそれぞれをここに短く書きとめておくことにした。


吼える伊レンツィ首相

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メルケル母ちゃんとその最愛の息子

イタリアの若きレンツィ首相が燃えている。あらゆる機会を捉えて、EUの政策に噛み付いているのだ。それはこんな感じ=《難民問題を含む多くの懸案をアンゲラとフランソワの2人が、2人だけで解決できるなら僕は大いにハッピーだ。でも事態はそんな風には動いていない。僕ちゃんも仲間に入れて、皆んなで問題解決にまい進しよう!》と。アンゲラとはドイツのメルケル首相、フランソワとはフランスのオランド大統領のことだ。先進国の中ではいつもミソっかすな扱いをされてきたイタリアは、スケベでド阿呆なベルルスコーニ元首相のおかげで、近年はさらに評判を落として影が薄い。レンツィ首相はそのことにも腹を立てているらしい。イタリアの地位向上に情熱を燃やす彼は、ジョーク好きらがメルケルさんと自分を並べて『メルケル母ちゃんとその最愛の息子』とからかうほど仲の良いドイツ首相にさえ、大いに文句を言い続けている。僕は放っておけばいいのに、と思う。イタリアが英独仏の真似をして何になる。1番なんか目指さなくていい。イタリアは2番手3番手4番手、それどころか8番手9番手くらいであまり責任も負わずに好き勝手にやっているほうが面白いし美しいしステキだ、と僕などは思うのだけれど・・

BMW・アウディvsランボルギーニ

スーパー・パトカーLamborghini 150pic
スーパー・パトカー“ランボルギーニ”

エンジンをパワーアップした黄色のアウディが、ミラノ-ベニス-東欧に至るA4高速道を疾駆しまくって問題になった。高速道路を逆走するなどの暴挙を冒す車両を警察はスーパーカーのランボルギーニで追跡。しかし捕まえられず暴走アウディは最後には炎上、黒焦げになった・・・というのは半ば嘘。というのも警察はランボルギーニは投入しておらず、アウディがどうやって炎上したのかも分かっていない。アウディはスイスナンバーの車で昨年12月にミラノマルペンサ空港で盗まれたもの。またイタリア警察は2台のランボルギーニを実際に所持していて、スーパーパトカーは時速350キロで走行できる。アウディはせいぜい時速250キロまでと見られているから、ランボルギーニで追えばあるいは捕まえられたかも。ところがこの話はそこでは終わらない。今度は黒のBMWが高速に入り込んでアウディと同じ横暴を始めたのだ。防犯カメラで捕らえられた犯人の正体は分からないが、アウディの時と同様にアルバニアなどの東ヨーロッパ出身者と見られている。BMWはパトカー(多分アルファロメオの改造パワーアップ版)に追い詰められ、犯人らはガードレールを超えて逃亡。残された車の中には拳銃や爆発物などと共に自動小銃のカラシニコフも残されていた。強盗団というのが警察の見立て。事件は前述した高速4号線の東部(僕もしょっちゅう走っている)で発生し続けている。次にはおそらく警察によるランボルギーニの投入もあるだろう。不謹慎ながらカーチェイスをちょっと見てみたい。

Affittopoli家賃をめぐるスキャンダル汚職都市
先日ローマでは、それぞれが500軒以上のマンションを所有する1657人のオーナーらが、一切税金を払っていないことが明らかになった。その中には
1243軒ものマンションを所有する脱税常習犯の女もいた。そのローマで今度は、ローマ市が所有するおびただしい数のマンションやビルで、タダかほとんどタダに近い家賃で長年住んでいる人々の存在が明らかになった。彼らはローマ市職員の友人や知人で、知り合いであることを理由に家賃をごまかしてもらう恩恵を受けていた。コロッセオや大統領府やトレビの泉などに近い一等地で、広いマンション一軒の家賃が月千円前後はまだ増しな方、ほとんど無料というケースが多々あり、ローマ市の家賃収入の損失は年間1億ユーロ(約130億円)は下らないだろうと試算されている。この事件は間もなくベニスやナポリなどの観光地にも飛び火した。おそらくイタリア全土で同様の無体が繰り広げられていると見られている。

IS並みに危険なエジプト独裁政権~英ケンブリッジ大学のイタリア人学生は誰に殺されたのか

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殺害されたケンブリッジ大学院生ジュリオ・レジェーニさん

英国ケンブリッジ大学の博士課程で学ぶイタリア人学生、ジュリオ・レジェーニさん(28)は、論文を書くために大学から送られてエジプトのカイロで同国の経済について研究していた。彼は2016年1月25日、家を出たまま行方が知れなくなった。その日はちょうど、30年に渡って同国を支配したムバラク独裁政権が、民衆の蜂起で倒れた5周年記念日に当たっていた。それから9日後、彼はカイロ市内の排水溝で遺体で発見された。レジェーニさんは博士論文を書くために同地の大学に在籍していたが、研究を続けながらイタリアの左翼系日刊紙「イル・マニフェスト」にも記事を書いていた。彼は行方不明になる直前エジプト労働組合に関する記事を同紙に書き送っていたが、それは偽名(ペンネーム)で書かれた。彼はそれを発表することで身の危険を感じたからだという。彼の殺害にその辺の事情がからんでいる、と多くの人々が考えている。レジェーニさんは記事の中でエジプトの軍政権の横暴を批判し、100名を超える労働組合員が集合して活発な抵抗集会を持った、と記した。彼らはエジプト革命が起きたタハリール広場で抗議デモを行う計画だ、などとも書いていた。アラブの春で独裁政権が倒れたものの、民主政権は再び軍政に変わってエジプトの民主化は夢物語になった。今はISと何も違わないほどの軍による圧政が続いている。イタリア人学生の殺害は軍政権によるものである可能性が高い。

琴奨菊はモンゴル人でもハワイ人でも誰でもいいノラ!
琴奨菊の優勝を機に、相撲などまったく見ないかほとんど見ないらしい人たちが、民族主義的ニュアンスがぷんぷん臭うコメントを開陳したりていて、相撲好きの僕はちょっと違和感を覚えている。琴奨菊の優勝は素晴らしいの一言につきた。彼が日本人力士だからではない。クンロク大関という蔑称も真っ青なくらいのつまらない大関だったのが、見事に「化けて」強く面白いパフォーマンスを見せてくれたからだ。大相撲はどこにでもあるスポーツではなく、日本独自の「スポーツ儀式」だから面白く楽しい。また土俵上で戦う力士の国籍はどこでもいい。力士が日本人だから面白いわけではない。飽くまでも力士が強いから面白いのである。大相撲の競技を語ることと大相撲界の変化、具体的に言えば国際化、を語ることは分けてなされるべきである。なぜなら競技においては強い力士と弱い力士がいるだけで、その力士がモンゴル人か日本人かアメリカ人かなんて関係がない。関係があると思っている人は、純粋に競技を楽しんでいるのではなく、政治の眼鏡をかけて土俵を見ているに過ぎない。つまり本当に相撲が好きな相撲ファンではないように思う。

カナダのンドランゲッタBOSSの禁欲生活

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殺害されたカナダの“ンドランゲッタ”ボス、ロッコ・ジート

カナダのトロントで87歳になるマフィアのボスが頭に銃弾を撃ち込まれて死亡した。正確に言えば、マフィアのボスではなく“ンドランゲッタ”のボスである。カナダのマスコミはイタリア以外の全ての国のマスコミと同様に ンドランゲッタをマフィアと呼んでいる。僕はそのことへの違和感と同時に、死んだボスが凶悪な犯罪者とは思えない質素で穏やかで全く目立たない生活をしていた、とほとんど感動にも近いニュアンスで報道されていることに、違和感を通り越して呆れた。凶悪犯が質素で目立たない生活スタイルを押し通すのは当たり前だ。逃亡犯と同じで彼ら犯罪者は人目を引かない言動を押し通す。そうやってたとえばシチリアのマフィアの大ボス、トト・リイナは20年以上も官憲を欺き続け、もう一人の大ボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノは43年間も誰にも見つからずに逃げ続けた。時には妻子さえ引き連れて。もっともそこには逃亡潜伏先がシチリア島の州都パレルモという特殊事情があった。


EUは壊れるのか
EU(欧州連合)内の人とモノの行き来を自由にしたシェンゲン協定が揺らいでいる。1990年発効したEUの真髄ともいえるこの協定のおかげで欧州統合は現実味を帯びたものになり、参加国も確実に増えて欧州は紆余曲折を経ながらも発展を続けてきた。ヨーロッパに押し寄せる中東難民が、旅券なしでの自由な往来を利してドイツなどの富裕国に集中し、パリ同時多発テロの実行犯らが難民にまぎれて欧州を横行するのではないかという不安が増大。そこにアフリカや中東からの移民と見られる男たちのドイツ・ケルンにおける昨年大みそかの集団性暴行事件なども加わって、EU参加国の中に協定への疑問が沸き起こった。シェンゲン協定は、「例外的な状況」下での参加国による国境での入国審査の再導入を認めている。この例外規定を利用して、最近ドイツ、オーストリア、フランス、デンマーク、スウェーデン、さらにEU非加盟ながら協定には参加しているノルウェーが、半年の期限付きで入国審査を再導入した。それは5月に期限を迎えるが、2年間に限って延長するかどうかが議論されている。入国審査の再導入とは、EUが高らかに謳い上げてきた欧州の一体性という基本理念の放棄を意味する。欧州は一体化することで自由と繁栄を謳歌できる。その原動力であり象徴でもあるのがシェンゲン協定である。欧州は今まさにそのシェンゲンの栄光が雲散霧消しかねい危機に見舞われている。

イタリアの燃える夏2015

ルノー溶ける車150pic
イタリアの暑さで溶け出したとされるルノー車

昨年の7月は過去4000年間で最も暑い7月だったと、アメリカの海洋大気庁が正式に発表した。計器などによる観測データは過去およそ130年分しか存在しない。なのになぜ日本なら縄文時代にまで遡る過去の7月の気温が分かるかというと、木の年輪や珊瑚や氷河等の氷の核などを調べることで、さまざまなデータから確認が取れたのである。ここイタリアももちろんチョー猛暑な7月だった。そんな折、あまりの暑さのためにイタリアでは車が溶けた、と称して車の塗装がぐちゃぐちゃに溶ける様子を撮影した映像がネットに流れた。いくら暑くても車が溶けるなんてありえない。それは明らかにガセネタだった。その証拠に動画は間もなく削除された。写真は今も残っているようだ。そのことについては僕はfacebookでもちらと言及した。異常な暑さにからませたそのガセネタ(と思う)はネットにおける典型的な危険の一つと僕には見えるので、当時そのことについて書き始めた。が、ばたばたしているうちに時間が経ち季節が移って時機を逃してしまった。でも一度きちんと書いておきたいと思う。危険情報のうちでも、思い違いを起こさせる類の嘘、という程度のあまり罪のない危険情報だが、そんな危険がネットにはあふれているのでやはり気をつけるべきだと強く思うのだ。





書きそびれていることども:2015年10月14日

書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。

過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。

いつまでも死なない老人はいかに生きるべきか
敬老の日に老義母(ほぼ90歳)は「今の老人は誰も死なない。いつまでも死なない老人を敬うな」と発言して僕をう~むとうならせてくれた。老人問題は、日本とイタリアを含む先進国の全てが抱える、国の根幹にかかわる深刻な事案だ。同時にそれは哲学の問題でもある。

いつまでも死なない老人はいつまでセックスをするべきか
つい先日、イタリア、ナポリ近くのサレルノ県スカファーティで、84歳の女性が88歳の夫と離婚したいと表明した。その理由は夫とのセックスに不満だから、というものだった。もっと正確に言うと、セックスの回数が少な過ぎるという主張である。それってニュースにしなければならないほど奇妙なことなのだろうか。

沖縄県の翁長知事の国連スピーチの是非
彼はなぜ尋常ではない手段に出たのだろうか。そもそも彼の手法は本当に尋常ではないのだろうか。国連演説(2分間という短いものだが意義は大きい)に続いて、知事は辺野古の埋め立て承認取り消しも発表した。沖縄の基地問題は佳境に入った。僕は翁長知事を支持する。

欧州大陸から見るサッチャーの賜物
僕は2年前、サッチャー元英国首相の死に際し「イギリスはサッチャーの賜物」と題して、欧州とは距離を置く英国について書いた。EUの一員でありながら、難民問題で欧州とは違うスタンスを取る今の英国を「欧州大陸から眺めるサッチャーの賜物」という視点で分析。

大航海(時代)を呼んだ大西洋の風 
初夏に訪ねたスペイン・アンダルシアでは、セビリア、コルドバ、グラナダ等をじっくりと見て、太陽海岸で遊び、ジブラルタルを訪ねた後に大西洋沿岸に常時吹き付ける強風を体験した。

その風こそ、アトランティス伝説を生んだ、地中海と大西洋を劇的に隔てる荒海の暴風である。コロンブスはその風を捉えて猛る海に乗り出しアメリカにたどり着いた。大航海時代の先陣を切ったのが、さらに強い風の吹くポルトガルの勇者たちだったのは恐らく偶然ではない。

など。

など。


アンダルシア&「イスラム国」を書きかけていたのに・・



【アンダルシアに「イスラム国」を重ねて見れば】というタイトルで、今のところの
「イスラム国」への思いを書いて前に進もうとあがいている。

あがいているのは、「イスラム国」とイスラム教とアラブ系移民の総体が、極めてネガティブなイメージで自分の中に形成されているからである。

「イスラム国」は悪であり破壊されるべきだ、というのが僕の考えである。だがイスラム教とアラブ系移民はそれとは別だ、というのもまた僕の思いである。

従って3者がすべてネガティブに見えるのは、「イスラム国」の負のイメージに引きづられてのことに違いないと考え、その証拠をけんめいに探しつづけている。

それが僕の「あがき」の正体である。

書けないので、日記的に軽く書き流せることどもを少し書いたりしていた。

しかし、ふっ切れた。

今のままの思いをいったんそのまま書いてこうと決めてPCを開いたところ、作家の百田尚樹氏が沖縄の新聞をつぶせ、と言ったという記事がそこかしこのサイトで大きく取り上げられていた。

面白いので、まずそのことについて書くことにした。

アンダルシア&「イスラム国」は普遍的(特に時間軸が)だが、百田氏のエピソードは明らかに辺野古にからむもので、その意味では普遍的ながら、同時にエピソードである分すぐに立ち消えそうにも見える。

なので、僕も「今」議論に参入することにして、「イスラム国」とアンダルシアの話はその後に回すことにする。

時事問題とそれ以外のテーマの書き方で僕はずっと悩んでいる。

僕は時事問題に対応して素早く記事を書くことが中々できない。新聞記者ではないのだからそれでいい、と自分に言い聞かせつつも、ブログという日記風媒体が好きでそれを利用しているな身としては、忸怩たる思いがいつもするのも事実。

プロのテレビ屋としては僕は、時事問題を「報道番組」、また普遍的なテーマを
「ドキュメンタリー」として制作してきた。

なので、ドキュメンタリー監督である僕は、書くときも「ドキュメンタリー」のつもりで時事問題を掘り下げる、「テーマ中心主義」で書き進めようとは思っている。

でも、しかし、やっぱ時事問題にも報道的にテキパキと対応できたらいいな、というのも本音・・かな。


アンダルシアにみる歴史の「たられば」



スペイン・アンダルシアを旅して、思うことが多々ある。

それらのことを書こうとし、書きつつあるのだが、中々書き進むことができない。

言ってみれば、一行書いては数時間立ち止まる、というふうである。

考え、検証するべきことが多すぎる。

特に、アラブ文明と欧州文明の相克と調和。

両者は相克あるいは反発しているだけのように見えるが、実は調和し切磋琢磨した部分も多い。

そうした歴史事実の証拠や証明がアンダルシアには満ちあふれている。

僕は以前「《ヨーロッパとは何か》と問うとき、それはギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教を根源に持つ壮大な歴史文明、という答え方ができる」と書いた。

それは基本的には間違いがないと思うが、実はそこには見たい者だけに見える歴史の大きな「たら、れば」も隠されている。

歴史考察に「たら、れば」は禁物、というのは周知の道理である。だがそれは歴史学者向けの戒めであって、歴史好きや空想好きが勝手に想像して遊ぶ分には何の問題もない。

僕も歴史学者ではないので勝手に想像の中で遊んでみたりする。

ヨーロッパの心髄であるギリシャ文明と古代ローマ帝国とキリスト教のうち、キリスト教が抜け落ちて、そこにイスラム教が据えられていたら現在の世界はどうなっていただろうか。

しかもそれは僕の勝手な虚構イメージではなく、歴史的に大いにあり得たことなのである。

新説や異説をあえて無視して、従来からある分かりやすい仕分けに基づいて話をすすめれば、西ローマ帝国が滅亡した後ヨーロッパはいわゆる暗黒の中世に入ってあらゆるものが沈滞した。

沈滞が言い過ぎなら、少なくとも文化・文明知に大きな進展はなかった。

それは15世紀半ばの東ローマ帝国滅亡まで続く。

キリスト教の厳しい戒律支配の下で、ヨーロッパはギリシャ及び古代ローマ文化文明の否定と破壊を進めた。

そうやって欧州はおよそ1000年にも渡って渋滞する。

中世ヨーロッパの鬱積を尻目に、アラブ世界は大発展を遂げる。

ヨーロッパが立ち往生していたまっただ中の8世紀頃から、アラブ世界は欧州とは逆に古代ギリシャを中心とする知の遺産をアラビア語に翻訳し貪欲に取り込んで行った。

それはイスラム文化の発展に大いに寄与した。そうやってアラブ世界は当時、ヨーロッパをはるかに凌駕する科学や医学や建築工学等々の技術を確立した。

そうした知の遺産はルネッサンスで目覚めたヨーロッパに引き継がれ、イスラム世界の衰退が訪れた。

ヨーロッパ優勢の歴史は続き、やがて産業革命が起こって欧州文明の優位性はゆるぎなないものとなって、現在に至っている。

アラブ世界とヨーロッパの地位が逆転した頃、もしもボタンの掛け違いがあったなら、アラブの優勢は続き、われわれは今頃イスラム教が司るアラブ文明の大いなる恩恵にあずかっていた。

われわれが今、大いに西洋文明の恩恵にあずかっているように・・・

というような妄想にもひたりつつ、「イスラム国」にも留意しつつ、アンダルシアについて少し書いていくつもりでいる。


~さて、それはともかく。いずれにしても。である~ 


先月、イタリア政府は軍の管理の下で医療用大麻の栽培を進めると決めた。

それに関連してイタリアの麻薬汚染状況についてブログ記事を書き出したが、一向に進まず書き止まっている。

僕は90年代の半ばにイタリアの麻薬問題を取り上げたドキュメンタリーを作ったことがある。その作品はテレビ局によってずたずたにされ、改編され、報道番組として細切れに電波に乗った。

僕は怒りまくったが、編集権を含む全ての権利は金を出したテレビ局にあったので、どうすることもできなかった。その局とは以後一切付き合わないと決め、その通りになった。

ブログが書けないのはしかし、苦い記憶のせいではもちろんない。

当時僕はスタッフを総動員して麻薬関連の事実を徹底的に調べ上げた。自分でも足を使いコネを使い無いアタマを使って懸命に勉強した。真剣に番組制作に向かい合うときは常にそうであるように。

そうして力を尽くした事案は、番組終了と同時に僕の興味の対象外に去ってしまうことがある。調べ尽くし、格闘し尽くした内容が激烈だったりすると、しばらくそのことを忘れたくなるのだ。

イタリアの麻薬問題がまさにそうである。

それでも記事を書くと決めた以上、今の情報を集め確認し自分なりに検証しなければならない。

その作業に手間取っている。だから短いブログ記事に過ぎないのに中々書き終えることができない。気分が重い。

などと愚痴をこぼしている暇があったら記事を書けばいいのに、と自分に言い聞かせながらこうして愚痴三昧の駄文を書くのは、もしかして気分転換にならないかとの思いから・・




書きそびれている事ども

書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしている時事ネタは多い。僕にとってはそれらは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題もできれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。

ベルルスコーニ
少女買春疑惑で意外にも無罪になった元首相。裁判はまだ続くが鼻息は荒い。相変わらず悪運も強く、離婚した妻に支払った慰謝料の3割に当たる約50億円が、支払い過ぎと裁判所に認められて返還された。慰謝料は別居中の3年間分の金額。全体では年約34億円X生涯という途方もない金額。元首相は一括払いを望んでいて元妻側と交渉中らしい。

堕船長スケッティーノ

豪華客船コンコルディア号を遭難させた上、真っ先に船から逃げ出したトンデモ船長フランチェスコ・スケッティーノが、ローマ大学でなんと危機管理とはなんぞや、なんてテーマで講演をした。呼ぶほうも呼ぶほうだが、のこのこと出かけて行くスケッティーノ元船長も相当のKY鉄面皮だ。それよりもあれだけの事件を起こした男が、裁判進行中に自由に動き回っているのは、どういうことなのだろう。イタリアの仕組みは時々良く分からない。

ヤラ事件
13歳の少女ヤラ・ガンビラジオが強姦目的だった男に殺害された。多くの人々の人生をむちゃくちゃにした複雑怪奇な人間模様が次々に明るみになる中、犯人(DNA鑑定では100%犯人とされる)のマッシモジュゼッペ・ボセッティは犯行を否定したまま収監されている。

殺害された少女の下着とレギングに付着していた血液からDNA鑑定がなされ、それは15年も前に死んだ男の息子のものと分かった。しかし彼の実の息子たちは事件とは関係がないことが証明された。男が不倫によって産ませた息子がいるのではないか、という推測から警察による母親探しが始まった。無謀にも見えた捜索は奇跡的に功を奏して犯人に行き着いた。推理小説もマッ青のとてつもないドラマは今も進行中。

トト・リイナの暴力
1993年に逮捕・収監されているトト・リイナが、最近獄中で知人の囚人に語ったとされる内容がリークされて、新聞などで堂々と記事にされている。そこで彼は現在のマフィアのボスと見なされている逃亡潜伏中のマッテオ・メッシーナ・デナーロについて語る。いわく「奴は金儲けのことばかり考えて国家への挑戦を忘れている。死ぬべきだ」。また反マファイ活動の急先鋒であるチョッティ神父についても「奴はマフィア以上にマフィアだ。殺してやる」などと語っているとされる。

当局が獄中のリイナを監視し盗聴もしているであろうことは当たり前として、その内容を外にリークするのは何が狙いなのだろうか。トト・リイナは獄中にあってもマフィア組織を牛耳っていると人々に信じさせるため?そうすることでリイナへの恐怖心を新たに植え付け、かつ同時にマッテオ・メッシーナデナーロの威を削ぐため?あるいは単純にボスのマッテオ・メッシーナ・デナーロの逮捕が近いことを知らせる前触れ?マフィアの大物の逮捕が近づくと、 逮捕されるべき男に関する不思議な話題が突然出現するケースが多いのだ。

以前シチリア島の中心都市パレルモで、メッシーナ・デナーロ の顔を建物の壁に描いた落書きが出現して大きなニュースになった。壁の 似顔絵はメッシーナ・デナーロの逮捕が近いことの現われなのではないか、と僕はその時に密かに思ったが、何事もなくそのまま時間が過ぎて彼の行方は杳として知れない。そして、今またリイナの口を通して彼の話題が表に出た・今度こそもしかすると・・・

フランシスコ教皇に伸びる魔手?
フランシスコ教皇暗殺計画の噂が絶えない。バチカンの改革に熱心な教皇は、クーリア(バチカン内の保守官僚組織)に怨まれて暗殺されかねない、という話は以前からあったが、ここへきて中東の過激派組織「イスラム国」による脅威が現実化している。イスラム国は元々キリスト教徒への憎悪を隠そうともしなかったが、フランシスコ教皇が「イスラム国に対する国際社会の戦いは合法的」と武力行使を容認する趣旨の発言をしたために、テロリストの激しい反発を買うことになった。

イスラム国はイラクなどで訓練を積ませた欧州出身のメンバーをイタリアに送って、教皇の暗殺を画策しているとされる。イスラム国には、アラブ系移民を中心とする多くの欧州人の若者が参加している。彼らはそれぞれの母国に戻って、ヨーロッパ内でのテロ工作に従事する計画だという。教皇暗殺もその一環だと言われている。不穏な空気が欧州を包み始めている。

書きそびれている事ども




書こうと思いつつ優先順位が理由でまだ書けず、あるいは他の事案で忙しくて執筆そのものができずに後回しにしているネタは多い。それは「書きそびれた」過去形のテーマではなく、現在進行形の事柄である。過去形のトピックも現在進行形の話題も、できれば将来どこかで掘り下げて言及したいと思う。その意味合いで例によってここに箇条書きにしておくことにした。

大相撲:
5月場所(夏場所)の6日目、琴欧州親方がNHKの大相撲中継の解説者として放送席に座った。それには現役を引退したばかりの彼への慰労の意味合いもあっただろう。ヨーロッパ人初の大関、そしてヨーロッパ人初の親方へ、という経歴への物珍しさもあっただろう。また、NHKとしては彼に解説者としての資質があるかどうかを試す意味合いもあっただろう。あるいは解説者としての資質ありと見抜いていて、実際に力量を測ろうとしたのかもしれない。

結論を先に言うと、琴欧州は僕がいつも感じてきたように、人柄が良くて謙虚で礼儀正しいりっぱな元大関だった。そして解説者としても間違いなくうまくやっていけると思った。現在のNHKの大相撲中継の解説者は、北の富士勝昭さんが最上、貴乃花親方が最低、という図式だが、琴欧州親方は既に中の上くらいの力量があると僕は感じている。

そうこうしているうちに、横綱白鵬の「妻への愛」を貫く美談が飛び出して世間を騒がせている。このエピソードも琴欧州親方誕生のトピックスと同系列の、大相撲界の変化の一端である。妻や家族を愛する男は普遍的である。日本人、アフリカ人、モンゴル人、欧米人、中国人etcは関係がない。だが、それを「表現する仕方」はそれぞれの国であるいは文化圏で異なる。日本人とは違う表現習慣を持つ白鵬は、彼の身内に脈打っているモンゴル風の表現法に素直に従って、妻への愛を公に告知した。それは日本人なら少々躊躇するやり方である。

日本人には照れがあり、慎みを欠くのではないかと葛藤する内心、即ち「ためらい」がある。白鵬がなんなく実行した方法は、実は欧米的な感情表現に極めて近い。これはモンゴルの文化が欧米に追従したり阿(おもね)ったりしているのではなく、大陸的という意味で欧米文化に近いものがあって、愛情表現もそのうちの一つということなのだろう。彼らは欧米人のようにすぐにハグをするし、抱きしめて頬にキスし合う挨拶も普通に行う。大相撲界は彼らの影響を受けながら、そうやって少しづつ「開放的な道筋」を辿る方向に舵を切っている。

マフィア:
イタリアには三大犯罪組織がある。どれも北イタリアとの経済格差が大きい南部に根拠があり、北から順にナポリのカモラ、本土最南端カラブリア州のンドランゲッタ、そしてシチリア島のマフィアである。これにプーリア州のサクラ・コロナ・ウニタや第五のマフィアなどとも形容されるシチリア・マフィアの傍系スティッダなどが加わる。またローマをベースにするバンダ・デッラ・マリアーナもあるが、これは自然消滅したという説もある。

最近、どちらかというとマフィアの影が薄い。つまりメディアでの露出度が大幅に減っている。そこにはEU(欧州連合)の有形無形の圧力が影響している、と僕は考えている。ところがごく最近は、第三の勢力と見えたカラブリアのンドランゲッタの活動(メディア露出度)が増えている。摘発や締め付けやEUをバックにした当局の圧力などを警戒して、息を潜めているらしい2大組織とは対照的だ。怖いもの知らず、というところか。多分そういうことなのだと思うが、ンドランゲッタがマフィアやカモラを抑えて、イタリアの犯罪組織地図を塗り替えつつある、という可能性も皆無ではない。

電子書籍:
先日、海外居住者だけに提供されるサービスを利用して、生まれて初めてインターネットで雑誌を買った。文藝春秋と週刊文春。一つ一つの記事の魅力のなさにおどろく。値段が高い。記事1本1本を買える仕組みを作るべき。アゴラ、yahoo個人、ブロゴス等は基本的にそういう仕組みになっている。もちろん課金されるかどうかの違いはあるが。僕は電子書籍の登場を心待ちにしている。電子書籍は今でもネットで買えるらしいが、新たに端末が必要とか、買える本の数が(種類が)圧倒的に少ないとか、魅力を全く感じない。1年に1~2度帰国する度に大量に本を買い込む、という古くから続いている習慣はまだ捨てられない。

靖国参拝:
僕は先ごろ亡くなった島倉千代子の「東京だよおっかさん」を聞く度に泣かされる。この歌とそっくり同じ僕自身の体験、つまり東京での学生時代に行った母と2人での靖国神社参拝を思い出して、実際に涙にくれるのだ。ぼくの靖国とは、母の記憶である。沖縄の母。「天皇」のひと言で今も直立不動になる沖縄の父。軍国の申し子。父には沖縄を切り捨てた昭和天皇への怨みはないのだろうか。天皇問題の大局と局所の立場。靖国を摩文仁の丘(沖縄戦跡国定公園)に移す法的、思想的、感情的観点の是非について。


握り寿司賛歌:
昨年のクリスマスイブに、これも生まれて初めて握り寿司に挑戦した。ほとんどタブーの世界だった握り寿司。言霊の縛りや型の縛りと同じ、なんだか分からないあるいは無用な日本的な縛りに縛られていただけだったと覚醒。不惑とか年相応etcの縛りも同じ。

サッカー:
夜でもサングラスの本田の革命的愉快。でも本業のサッカーでの不振。彼を持ち上げ過ぎるほど持ち上げた責任を取って、謝罪記事を書こうと思いつつ時間が過ぎて、もはやワールドカップ。そこで本領を発揮して目覚しい活躍を見せてくれれば状況は変わるだろう。が、僕が彼を持ち上げすぎた事実は変わらない。ただし、僕は意識的に持ち上げ記事を書いた。読み方によっては、マラドーナやバッジョに匹敵するような印象さえ与えかねないことを承知で書いたのだ。つまり言霊。口にすれば実際に起こるかも、という言霊信仰に少し乗ってみたのだ。本当にそう意識して。


書きそびれた事ども(2014年1月)



《書こうと思いつつ流れてしまった時事ネタは多い。そこで、いつものように、できれば将来どこかで言及したいという意味も込めて、自分にとって引っかかる出来事の幾つかを列記しておくことにした》

 

サッカー

 

いわずと知れたセリエA10人目の日本人選手、本田圭佑の可能性について。セリエAで実績といえるほどの活躍をした選手は、中田英寿、中村俊輔、森本貴幸、長友佑都の4人だ。パイオニアの三浦知良を含むその他の選手は何の実績も残さないままイタリアを去った。活躍した、また活躍中の四人の中で突出しているのは、中田英寿の存在だが、僕は本田圭佑はあるいは中田を越えるのではないか、越えてほしいと密かに期待している。

 

ベルルスコーニ


脱税で有罪判決を受けている彼は、刑務所に入る代わりに社会奉仕活動をするはずが、未だに大きな顔で自由を謳歌している。一体なぜ?理由はミラノ監視裁判所(il tribunale di sorveglianza di Milanoが時期と服役の形を決定するため(社会奉仕か自宅軟禁か)。また彼と似た罪状の者が列を作って裁判所の決定を待っているため、元首相の番が中々回ってこない。そこには多分、彼の刑の執行を遅らせようと暗躍する関係者の存在もあるのではないか、と僕は個人的には考えている。

 

バチカン


もしかするとフランチェスコ(フランシスコ)教皇は、偉大なヨハネ・パウロ2世をも越えるカトリック教会の金字塔的存在になるのではないか、という僕の期待と敬愛の根拠のあれこれ。僕はキリスト教徒ではないが、ローマ教皇には一方ならぬ関心と敬意を抱いて動向を見つめている。


現教皇はバチカンの改革に本気で取り組んでいて、保守反動のクーリア(バチカン内の官僚組織)が暗殺計画を練っているという物騒な噂さえある。

 

大ヨハネ・パウロ2世の力で前進した、世界12億人もの信者の心の拠り所であるバチカンは、ベネディクト16世時代に後退あるいは停滞し、いまフランチェスコ教皇によって再び希望の光を見出したように見える。そうであってほしい。


マフィア


現在のマフィアのトップはマッテオ・メッシーナ・デナーロと見られている。ほぼ20年に渡って逃亡潜伏している彼の行方と、服役中のトト・リイナが「マフィアの仕事はイタリア本土ではなく、シチリア島内のみで行なわれるべき」と発言した奇怪な動きの間には、何らかの関連性があるのかどうか。

 

数年前、シチリア島の中心都市パレルモで、メッシーナ・デナーロの顔を建物の壁に描いた落書きが出現して大きなニュースになった。マフィアの大物の逮捕前には、リーク情報のような話題が突然出現するケースが多い。壁の似顔絵はメッシーナ・デナーロの逮捕が近いことの現われかと見えたが、そのまま時間が過ぎて彼の行方は杳として知れない。刑務所の中のトト・リイナは、もしかして彼がどこにいるのか知っている?

 

イタリアから見る靖国参拝、名護市長選挙、イルカ漁など、など


安倍総理の靖国参拝とケネディ大使のイルカ漁ツイッターは、同じ穴のムジナ的行為。どちらも視野狭窄から来るKYアクションだ。安倍参拝は中韓にケンカをふっかけているようなもので、今回はなんと友好国のアメリカまで怒らせてしまった。まさにKYそのもの。一方、イルカの追い込み漁を糾弾したケネディ大使のツイッターも、一体なぜ今?という大きな疑問が残る。こちらも自らの価値観だけを絶対視した呆れたKY行為だ。

 

振興策と称して大金で票を買おうとした政府自民党に逆らって、普天間基地の辺野古移設にNOを突きつけた名護市民の意思は、金よりも貧しさの中の誇りを選んだ沖縄県民の総意と見るべきである。本土はもうこれ以上安全保障で沖縄にたかり続けることは許されない。基地問題の歪みの原因の一つは、日本国民のほとんどが「安全(保障)をただだと思っている」ところにある。世界から見たらそら怖ろしい幼稚性だ。ほとんど愚民に近い。

 

安全保障をただだと思っているから多くの国民が、沖縄にたかりつつ逆に島が本土に金をたかっている、と鉄面皮で下卑た非難をする。沖縄県民がもはや差別だとさえ口にする基地の過重負担と、それを見て見ぬ振りをする国民の存在は、日本国の品位を深く貶めている。日本国民はもうそろそろ偽善の仮面をかなぐり捨てて、沖縄の基地問題に真摯に向き合うべきである。なぜなら基地は安全保障の問題であり、安全保障は全ての国民の問題なのだから。

 

 

忙中の記・2013・1・26



ペルーの話。

 

さらなるホモセクシュアルの話題。

 

イタリア総選挙+財政危機。

 

日本のアベノミクス。

アベノミクスを危惧する欧米の専門家たちの見解。

アベノミクスへの僕のさらなる疑問。

でも期待も。

などなどなどに加えて、

 

イタリアの時事、たとえば収監されているマフィアのボス、ベルナルド・プロヴェンツァーノの話。

 

日本女性の名前「かおり」を使って売春宿を経営する腐れ中国人マフィアの話・・・などなど。

 

書くことがいっぱいあるのに時間がなくて書けない。

 

 

なぜ時間がないかというと。

 

本来の自分の仕事に加えて、イタリア財政危機にまつわる妻の実家の伯爵家の税金納めの処理や心配や実務や喧嘩(?)で
1日のうち23時間程が過ぎてしまうから。

 

でも、そうしてばかりもいられないので、今日の午後あたりから何か書き始めようと思う。

 

まずはやっぱりぺルーの話かな。

 

たぶん・・

 


忙中の記



異常気象とまで言われた暑い旱魃の夏のあと、再び異常な降雨と洪水をへて、イタリアは「普通に」冬になった。

 

日ごとに寒さが厳しくなっていく。

11月18日、日曜日。

木の下の白いポツン・・



カテリーナ2012年11月18日 004


カテリーナも寒さに参ったよう。


 カテリーナ2012年11月18日 018①


ブドウ園から庭先に入り込んで一日中じっとしていた。


カテリーナ2012年11月18日 022眠り

 

寒さがさらに厳しくなれば、人もメディアもまたまた「異常気象」と言い出すだろう。

 

ペルーの話の続き、同性愛者の話の続き、などを書きたいが例によって時間がない。

 

ペルーで撮影したビデオの編集が終わり次第書くつもりだが・・

 

写真はこうやって文章を端折るときに便利だ(笑)。

 

ペルーの写真がたくさんあるが、ブログに貼り付けようかどうか迷っている。

 

文章を書きたくないときに貼り付ければいいか(笑)・・などと考えつつ。

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