同時投稿コラム

9月に会いましょう



パラソル&子供たち600


イタリアでは毎年6月にもなると、それほどひんぱんには会わない人同士の別れの挨拶として、「9月に会いましょう」というフレーズが多くなる。

夏のバカンス後にまたお会いしましょうね、という意味である。

さらに7月にもなると、しょっちゅう会っている人同士でも、この「9月に会いましょう」が別れの常套句、あるいは合言葉のようになる。

何が言いたいのかというと、イタリア人にとっては夏の長期休暇というのはそれほどに当然のことで、人々の日常の挨拶にも如実にあらわれるということである。

良く言われるように、長い人は1ヶ月の休みを取ることも珍しくない。もちろんそれ以上に長いバカンスを過ごす者もいる。休暇の長さは、人それぞれの仕事状況と経済状況によって、文字通り千差万別だ。

裕福な人々や幸運な道楽者のうちには、子供の学校の休みに合わせて、3ヶ月の休暇を取るようなトンデモ人間もいたりするが、さすがにそれはごく少数派。

それでも、子供の休みに合わせて、妻以下の家族が6月から8月の間は海や山のセカンドハウスに移住し、夫は都市部に残って通常通りに働きながら週末だけ家族の元に通うケースもよくある。

僕はそれを「通勤バカンス」と勝手に呼んでいるが、通勤バカンスを過ごす男たちも、もちろんどこかで長期の完全休暇を取ることはいうまでもない。

休むことに罪悪感を覚えるどころか、それを大いに賞賛し、鼓舞し、喜ぶ人々が住むこの国では、そんな風にさまざまなバカンス模様を見ることができる。

とはいうものの実は、大多数のイタリア国民、つまり一般の勤め人たちは、最低保証の年間5週間の有給休暇のうち、2週間の「夏休み」を取るのが普通だ。

それは法律で決まっている最低限の「夏期休暇の日数」で、たとえば僕がつい最近まで経営していた個人事務所に毛が生えただけのささやかな番組制作会社でも同じ。

会社はその規模には関係なくスタッフに最低2週間の有給休暇を与えなければならない。零細企業にとっては大変な負担だ。

しかし、それは働く人々にとってはとても大切なことだと僕は思う。人間は働くために生きているのではない。生きるために働くのである。

そして生きている限りは、人間らしい生き方をするべきであり、人間らしい生き方をするためには休暇は大いに必要なものだ。

イタリアでは2週間の夏の休みは、8月初めから同月の半ば頃までの間に取る人が圧倒的に多い。会社や工場などもこの期間は完全休業になる。

ところが、時間差休暇というものがあって、時間に融通のきく仕事を持っている人々の中には、多くの人の休暇が集中する8月の混乱期を避けて、バカンスを前倒しにしたり、逆に遅らせて出かける者も相当数いる。

そうすると、普通の期間に休みを取る人々は、休み前にも休みが明けてもクライアントがいなかったり、逆に自らがクライアントとなって仕事を出す相手がいなかったりする。

どんな仕事でも相手があってはじめて成り立つものだから、休暇前や休暇後に相方不在の状況に陥って、仕事の量が減り能率もがくんと落ちてしまう。

そこに長期休暇を取る人々の仕事の空白なども加わって、7月から8月末までのイタリアは、国中が総バカンス状態のようになってしまうのである。

だから6月にもなると、7月と8月を飛び越して、「9月に会いましょう」が人々の合言葉になるわけだ。イタリアがバカンス大国であるゆえんは、夏の間は仕事が回らないことを誰もが納得して、ゆるりと9月を待つところにある。

プロのテレビ屋としてロンドン、東京、ニューヨークに移り住んで仕事をした後にこの国に来た僕は、当初は仕事の能率の上がらないイタリアの夏の状況を怒りまくり、ののしりまくっていたものだ。

しかし今はまったく違う。これだけ休み、これだけのんびりしながらも、イタリアは一級の富裕国である。働く人々の長期休暇が極端に少ないたとえば日本などよりも、豊かさの質がはるかに上だとさえ感じる。

9月に会いましょう!と明るく声をかけあって、イタリア的に休みまくるのはやはり、誰がなんと言おうが、良いことなのだと思わずにはいられないのである。


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「フェルーカ」挽歌



加筆再録

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イタリア、シチリア島にちょうど今ごろの季節にはじまる「フェルーカ」と呼ばれる伝統的な漁がある。マグロやカジキを銛で突いて取るいわゆる”突きん棒”である。僕はかつてこの漁の模様を描いてNHKスペシャルのドキュメンタリー番組を作ったことがある。

”突きん棒”は世界中のどこにでもある漁法。。もちろん日本にもある。海面すれすれに浮遊している魚を銛で一突きにする原始的な漁だから、大昔に世界中の海で同時発生的に考案されたものなのだろう。
  
シチリア島の”突きん棒”は、古代ローマ帝国時代以前から存在した記録が残っている。この素朴な漁の伝統は以来、船や漁具に時代に沿った変化はあったものの、シチリア島の漁師たちによって、古代の息吹をかたくなに守る形がえんえんと受け継がれてきた。

「フェルーカ」とは、漁に使われる漁船の名前。総屯数二十トン程のふつうの漁船を改造して、高さ三十五メートルの鉄製のやぐらと、伸縮自在で長さが最大五十メートルにもなる同じく鉄製のブリッジを船首に取りつけた船。

フェルーカ船のやぐらとブリッジは、互いに均衡を保つように前者を支柱にして何十本ものワイヤーで結ばれて補強され、めったなことでは転ぷくしないような構造になっている。 
  
しかし船体よりもはるかに長い船首のブリッジと、天を突くようにそびえているやぐらは、航行中も停船時も波風でぐらぐらと揺れつづけていて、見る者を不安にする。
 
やぐらは遠くの獲物をいちはやく見つけるための見張り台。てっぺんには畳半畳分にも満たない広さの立ち台があって、常時3人から4人の漁師が海面に目をこらして獲物の姿を追う。船首の先に伸びているブリッジは、銛打ち用のものある。

銛の射手は、それを高く構えてブリッジの先端に立ちつくして、獲物が彼の足下に見えた瞬間に打ち込む。つまり彼は、本来の船首が魚に到達するはるか手前で銛をそれに突き立てることができるのである。

逃げ足の速い獲物に少しでも近く、素早く、しかも静かに近づこうとする、漁師たちの経験と知恵の結晶がやぐらとブリッジ。やぐら上の見張りとブリッジ先端の銛手のあうんの呼吸が漁の華である。

僕はこの不思議な船と漁を題材にドキュメンタリーを作ると決めた後、情報集めなどのリサーチを徹底するかたわら、何度もシチリア島に足をはこんで、漁師らに会い船に乗せてもらったりしながら準備をすすめた。
 
これで行ける、と感じて企画書を書いてNHKに提出し、OKが出た。そこまでに既に6年以上が過ぎていた。短く、かつ忙しい報道番組のロケや制作を続けながらの準備だから、僕の場合それぐらいの時間は普通にかかるのである。

番組の最大の売りは何と言ってもマグロ漁にあった。大きい物は400キロを越え、時には500キロにもなんなんとする本マグロを発見して船を寄せ、大揺れのブリッジをものともせずに射手が銛を打ち込む。

激痛で憤怒の塊と化した巨大魚が深海をめがけて疾駆する。船ごと海中に引きずり込みそうな暴力が炸裂して、銛綱の束が弾けるようにするすると海中に呑み込まれる。すると綱で固着された浮き代わりのドラム缶数本が、ピンポン玉よろしく中空を乱舞し海面にたたきつけられる。

マグロは銛を体に突き通されたまま必死に逃げる。獲物の強力な引きと習性を知り尽くした男たちが死にものぐるいで暴力に対抗し、絶妙な綱引きの技でじわじわと巨大魚を追い詰めて取り込んで行く・・・・。
 
僕がフェルーカ漁に魅せられて通ったそれまでの6年間に、幾度となく体験した勇壮なシーンを一つ一つ映像に刻み込めば、黙っていてもそれは面白い作品になるはずだったた。ところがロケ中に獲れるのはカジキだけだった。肝心の本マグロがまったく獲れないのである。

フェルーカ漁は毎年4月頃から準備が始まり5月に幕を開ける。そしてイタリア半島とシチリア島の間にあるメッシーナ海峡と、エオリア諸島近海を舞台に8月まで続く。
 
準備の模様から撮影を始め、次に海上での漁に移った。1ト月が経ち、2タ月が経ち・・・やがて漁の最盛期である7月に入った。ところがマグロが暴れる場面は一向に出現しない。狐につままれたような気分だった。

しかしそれは海や山などを相手にする自然物のドキュメンタリーではありふれた光景だ。魚や野生動物が相手だから、不漁続きで思ったような絵が撮れない、という事態がひんぱんに起こるのである。

僕はロケ期間を延長し、編集作業のためにどうしても自分が船に乗れない場合には、カメラマン以下のスタッフを張り付けて漁を追いつづけた。ロケ期間はそうやって最終的には5ヶ月近くにもなった。
 
しかし最後まで一匹のマグロも獲れずにとうとうその年のフェルーカ漁は終わってしまった。

僕は仕方なくカジキ漁を話の中心にすえて編集をして、一応作品を完成した。それは予定通り全国放映されたが、反響は「予想通り」いまいち、という感じで終わった。

フェルーカ漁とそれにまつわる人々のドラマは、ある程度うまく描かれているにもかかわらず、どこかインパクトに欠けて物足りないものがある、というのが人々の一致した印象であり意見だった。

僕はそうなった理由を誰よりも良く分かっていたが、もちろん一言も弁解をするわけにはいかなかった。たとえ何が起ころうと番組作りの世界では結果が全てである。

ロケ中の障害のために結果が出なかったならば、それはひとえにディレクターである僕の力量が足りなかったからだ。あらゆる障害を克服して結果を出すのが監督の仕事なのである。

そんなわけで僕は自らの無力をかみしめながら、忸怩たる思いでその仕事を切り上げなければならならなかった。

年ごとに先細りになっていくフェルーカ漁は、漁そのものの存続があやぶまれる程に漁獲量が落ちこんでいる。漁獲量がほぼゼロの年さえある。

観光客を乗船させ漁を体験してもらうことで収入を得て、ようやく漁船の維持費を稼ぐことも珍しくない。

それでも漁師たちはあきらめず、何とかして漁の伝統を次の世代に受け渡そうと必死になっている。しかし先行きは暗い。それでもなお彼らは海に出る。今日も。明日も。

勇壮で厳しく、同時にそこはかとなく哀感のただようフェルーカ漁のその後を、もう一度カメラで追ってみたい、と僕はロケ以来つづいている漁師たちとの友情を大切にしながら考えることも一再ではない。


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独立自尊こそ島の心意気



サルデーニャ島に関する8本目の論考。この稿をもってサルデーニャ島の話は“いったん”終わりにする。むろん、将来なにかがあればまた書く計画。そして将来なにもないわけがない、というのが僕の正直な気持ちだ。それだけ面白いのである。サルデーニャ島は。


目隠し絵風になびく600


イタリア・サルデーニャ島にのしかかかった政治的「植民地主義」は近世以降、重く厳しい現実を島民にもたらし続けた。

2017年7月、サルデーニャ独立運動家のサルヴァトーレ・メローニ氏(74歳)は、収監中の刑務所で2ヶ月間のハンガーストライキを実行し、最後は病院に運ばれたがそこで死亡した。

元長距離トラック運転手だったメローニ氏は2008年、サルデーニャの小さな離島マル・ディ・ヴェントゥレ(Mal di Ventre)島に上陸占拠して独立を宣言。マルエントゥ共和国と称し自らを大統領に指名した。それは彼がサルデーニャ島(州)全体の独立を目指して起こした行動だった。

だが2012年、メローニ氏は彼に賛同して島に移り住んだ5人と共に、脱税と環境破壊の罪で起訴される。またそれ以前の1980年、彼はリビアの独裁者ガダフィと組んで「違法にサルデーニャ独立を画策した」として9年間の禁固刑も受けていた。

過激、且つ多くの人々にとっては笑止千万、とさえ見えたメローニ氏の活動は実は、サルデーニャ島の置かれた特殊な状況に根ざしたもので、大半のサルデーニャ島民の心情を代弁する、と断言しても良いものだった。

サルデーニャ島は古代から中世にかけてアラブ人などの非西洋人勢力に多く統治された後、近世にはスペインのアラゴン王国に支配された。そして1720年、シチリア島と交換される形で、イタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国に譲り渡された。

サルデーニャを獲得したサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。国名こそサルデーニャ王国になったが、王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされた。

王国の領土の中心も現在のフランス南部とイタリア・ピエモンテという大陸の一部であり、首都もサヴォイア公国時代と変わらずピエモンテのトリノに置かれた。サルデーニャ王国の「サルデーニャ」とは、サヴォイア家がいわば戦利品を自慢する程度の意味合いで付けた名称に過ぎなかったのである。

1861年、大陸の領地とサルデニャ島を合わせて全体を「サルデーニャ王国」と称した前述のサヴォイァ家がイタリアを統一したため、サルデーニャ島は統一イタリア王国の一部となり、第2次大戦後の1948年には他の4州と共に「サルデーニャ特別自治州」となった。

統一イタリアの一部にはなったものの、サルデーニャ島は「依然として」サヴォイア家とその周辺やイタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

その証拠にイタリア統一運動の貢献者の一人であるジュゼッペ・マッツィーニ
(Giuseppe Mazzini)は、フランスがイタリア(半島)の統一を支持してくれるなら「喜んでサルデーニャをフランスに譲り渡す」とさえ公言し、その後のローマの中央政府もオーストリアなどに島を売り飛ばすことをしきりに且つ真剣に考えた。

[イタリアという4輪車]にとっては“5つ目の車輪”でしかなかったサルデーニャ島は、そうやってまたもや無視され、差別され、抑圧された。島にとってさらに悪いことには、第2次大戦後イタリア本土に民主主義がもたらされても、島はその恩恵に浴することなく植民地同様の扱いを受けた。

政治のみならず経済でもサルデーニャ島は差別された。イタリア共和国が奇跡の経済成長を成し遂げた60~70年代になっても、中央政府に軽視され或いは無視され、近代化の流れから取り残されて国内の最貧地域であり続けたのである。

そうした現実は、外部からの力に繰り返し翻弄されてきたサルデーニャ島民の心中に潜む不満の火に油を注ぎ、彼らが独立論者の主張に同調する気運を高めた。そうやって島には一時期、独立志向の心情が充満するようになった。

第2次大戦後のサルデーニャの独立運動は、主に「サルデーニャ行動党(Partito Sardo d’Azione)」と「サルデーニャ統一民主党(Unione Democratica Sarda)」が中心になって進められ、1984年の選挙では独立系の政党が躍進した。

だがその時代をピークに、サルデーニャ島の政党による独立運動は下火になる。その間隙をぬって台頭したのが‘一匹狼’的な独立運動家たちである。その最たる者が冒頭に言及したサルヴァトーレ・メローニ氏だった。

サルデーニャ島民は彼ら独自のアイデンティティー観とは別に、ローマの中央政府に対して多くの不満を抱き続けている。その一つが例えば、イタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊がサルデーニャ島に置かれている現実だ。また洪水のようにサルデーニャ島に進出する本土企業の存在や島の意思を無視したリゾート開発競争等も多くの島民をいらだたせる。

しかしながら現在のサルデーニャ島には、深刻な独立運動は起こっていない。不当な扱いを受けながらも、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。2015年には「イタリアから独立してスイスの一部になろう」と主張する人々の動きが、そのユニークな発想ゆえにあたかもジョークを楽しむように世界中の人々の注目を集めたぐらいだ。

イタリアには独立を主張する州や地域が数多くある。サルデーニャとシチリアの島嶼州を始めとする5つの特別州(※註1)は言うまでもなく、約160年前のイタリア統一まで都市国家や公国やローマ教皇国等として分離独立していた半島各地は、それぞれが強い独立志向を内に秘めている。

2014年3月にはヴェネト州で住民による独立の是非を問うインターネット投票が実施され、200万人が参加。その89%が独立賛成票だった。それは英国スコットランドの独立運動やスペイン・カタルーニャ州問題などに触発された動きだったが、似たような出来事はイタリアでは割とよく起こる。

イタリアは国家の中に地方があるのではなく、心理的にはそれぞれが独立している地方が寄り集まって統一国家を形成しているいわば連邦国家だ。サルデーニャ島(州)の独立志向もそのうちの一つという考え方もできるかもしれない。

ところが人口約160万人に過ぎないサルデーニャ島には、イタリアからの分離独立を求める政党が10以上も存在し、そのどれもがサルデーニャ島の文化や言葉また由緒などの全てがイタリア本土とは異なる、と訴えている。

例えそれではなくとも、有史以来サルデーニャ島が辿ってきた特殊な時間の流れを見れば、同地の独立志向の胸懐は、イタリア共和国の他の地方とはやはり一味も二味も違う、と言わなければならないように思うのである。

(※註1)シチリア、サルデーニャ、ヴァッレ・ダオスタ、トレンティーノ=アル ト・アディジェ、フリウリ=ヴェネイア・ジュリアの各州。イタリアには州が20あ り、そのうち15州が通常州、5州 が特別自治州である。特別自治州は通常州よりも大きな地方自治権を有している。



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死ぬまで生き抜く



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昨年11月、父が101歳で他界した。

また6月にはイタリア人の義母が92歳で亡くなった。

そうやって母に続いて逝った父を最後に、妻の両親を含む僕ら夫婦の日伊双方の親世代の人々がこの世から全ていなくなった。

それは寂しく感慨深い出来事である。

生きている親は身を挺(てい)して死に対する壁となって立ちはだかり、死から子供を守っている。

だから親が死ぬと子供はたちまち死の荒野に投げ出される。次に死ぬのはその子供なのである。

親の存在の有難さを象徴的に言ってみた。

だがそれは単なる象徴ではない。

先に死ぬべき親が「順番通り」に実際に逝ってしまうと、子供は次は自分の番であることを実感として明確に悟る。

僕自身が置かれた今の立場がまさにそれである。

だが人が、その場ですぐに死の実相を知覚するのかといえば、もちろんそんなことはない。

死はやがて訪れるものだが、生きているこの時は「死について語る」ことはできてもそれを実感することはあり得ない。

人は死を思い、あるいは死を感じつつ生きることはできない。

「死を意識した意識」は、すぐにそのことを忘れて生きることに夢中になる。

100歳の老人でも自分が死ぬことを常時考えながら生きたりはしない。

彼は生きることのみを考えつつ「今を生きている」のである。

晩年の父を観察して僕はそのことに確信を持った。
 
父はいつも生きることを楽しんでいた。

楽しむばかりではなく、生に執着し、死を恐れうろたえる様子さえ見せた。

潔(いさぎよ)さへの憧憬を心中ひそかに育んでいる僕は、時として違和感を覚えたくらいだ。

ともあれ、死について父と語り合うことはついになかったが、僕は人が「死ぬまで生き尽くす」存在であるらしいことを、父から教わったのである。



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沖縄もいっそのこと『さらなる苦労覚悟で』サルデーニャ島と共に独立するか~い?



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サルデーニャ島のテラコッタの屋根と沖縄の赤瓦の屋根はあまり似ていないかもしれないけれど・・


イタリアのサルデーニャ島は、一見すると「本土から遠く離れた明るいリゾート地」という沖縄と良く似たポジティブな一面を持つ。

それでいながらサルデーニャ島には、もっと深刻な部分でも沖縄との類似点が多い。

サルデーニャ島は、古代からアラブ人を含む多くの力に支配された後、18世紀にイタリア本土のピエモンテを本拠とするサヴォイア公国の支配下におかれた。

琉球王国と称したかつての沖縄が、本土の島津藩に支配された史実と「表面上」は同じなのである。

もっともサルデーニャ島は沖縄島(琉球王国)と違って独立国だったことは一度もないが。

サルデーニャ島を獲得したサヴオイア家のサヴォイア公国は、以後自らの領土を「サルデーニャ王国」と称した。

国名こそサルデーニャ王国になったものの、しかし、サルデーニャ王国の本拠地はイタリア本土のピエモンテであり、首都も現在のピエモンテ州都と同じトリノだった。

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加えて王国の一部であるサルデーニャ島民は、サヴォイア家を始めとする権力中枢からは2等国民と見なされた。


1861年、支配者のサヴォイァ家がイタリア統一を成し遂げたため、サルデーニャ島は自動的に統一イタリア王国の一部となった。

しかし「依然として」サルデーニャ島は、イタリア本土のエリート階級にとっては、異民族にも見える特殊なメンタリティーを持つ人々が住む、低人口の「どうでもよい」島であり続けた。

それは第2次大戦後イタリアが奇跡の経済成長を成し遂げた時代になっても変わらず、サルデーニャ島民の不満が募った。

結果、島には一時期イタリアからの独立を求める動きが活発化した。全体の
41%ものサルデーニャ島民が、イタリアからの独立に賛成、という統計さえある。

深刻な独立運動は現在は下火になったが、サルデーニャ島にはイタリア駐在NATO軍全体の60%にも当たる部隊が置かれ、イタリア本土との経済格差も大きいことなどが常に島民を苛立たせる。

不当な扱いを受けながらも深刻な独立運動が影を潜めているのは、イタリア本土由来の経済発展が島にも徐々にもたらされている現実があるからだ。

米軍基地の過重負担と中央権力及びメディアによる構造的差別に悩まされながらも、経済発展という目先の利益も無視できない沖縄のジレンマとうり二つなのである。


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ニラツナ・パスタ



ニラ大地の出産投稿済み




日本にある一般的な野菜の中でイタリアにはないもののひとつがニラである。僕はニラが好きなので仕方なく自分で育てることにした。

わが家はミラノ郊外のブドウ園に囲まれた田舎にあるので、菜園用の土地には事欠かない。

日本に帰った際にニラの種を買って戻って、指定された時期にそれを菜園にまいた。が、種は一切芽を出さなかった。
 
イタリアは日本よりも寒い国だから、と時期をずらしたりして試したが、やはり駄目だった。10年以上も前のことである。

いろいろ勉強してプランターで苗を育てるのはどうだろうかと気付いた。

次の帰国の際に故郷の沖縄からニラ苗を持ち込んでプランターに植えた。今度はかなり育った。かなりというのは日本ほど大きくは育たないからである。

成長すれば30~40センチはあるりっぱなニラの苗だったのだが、ここではせいぜい15~20センチ程度しかなく茎周りも細い。

しかし、野菜炒めやニラ玉子を作るには何の支障もないので、頻繁に利用している。

そればかりではない。ニラはニンニク代わりにも使える。特にパスタ料理には重宝する。

わが家ではツナ・スパゲティをよく作るが、そこではニンニクを使わずニラをみじん切りにして加える。ニンニクほどは匂わずしかもニンニクに近い風味が出る。

またニンニクとオリーブ油で作る有名なスパゲティ「アーリオ・オーリオ・ペペロンチーノ」にニラをみじん切りにして加えると、味が高まるばかりではなく、ニラの緑色が具にからまって映えて、彩(いろど)りがとても良くなる。
 
見た目が美しいとさらに味が良くなるのは人間心理の常だから、一石二鳥である。


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反EU 伊新政権の危うさ

過半数を制する政党がなかった3月4日の総選挙を受けて、イタリアの政治不安が続いている。支持率1位の五つ星運動と2位の同盟は、議席を合計すれば過半数に達することから連立政権樹立を目指してきた。

5月21日、両党は政権合意に達し首相候補として法学者のジュゼッペ・コンテ氏をマタレッラ大統領に推薦。ところがその直後にコンテ氏の学歴詐称問題が飛び出して、政権発足が再び頓挫しそうな状況に。 

大統領はもともと五つ星運動と同盟の連立政権には懐疑的な立場。両党は分かりやすく言えば左右のポピュリスト(大衆迎合主義)勢力。バラマキとも批判される政府歳出の大幅な拡大と「反EU(欧州連合)&反移民差別主義」をかかげて支持を伸ばしてきた。

増大する難民・移民への反感はイタリアのみならずEU各国に共通した現象。イタリアの特異な点は2010年に始まった欧州債務危機の後遺症からまだ回復していない点だ。EU圏内最大の約300兆円もの累積債務を抱えて呻吟している。

EUは借金を減らせ、緊縮財政を続けろ、とイタリアに強く迫っている。ところが五つ星運動と同盟は、EUと合意している財政緊縮策をほごにして政府支出を大幅に増やすと主張。マタレッラ大統領はそこに異議を唱えている。

彼は憲法の規定によって首相候補の認否権を持つため判断が注目されている。

財政赤字を解消するどころか、さらに借金を増やそうとする連立政権は船出をすれば即座にEUと対立するだろう。新政権は最悪の場合、英国に続いてEUからの離脱を要求するかもしれない。

それは自殺行為と形容しても過言ではない愚かな策だ。たとえ「反EU」を掲げ続けても、連立政権はEUとの対話を模索し決して離脱を考えるべきではない。


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地中海難民と沖縄米軍基地



群集路上マネキン無関心600picに拡大


地中海を渡ってイタリアに流入する難民・移民はとどまることを知らない。彼らの救助と救助後の面倒見に翻弄されているイタリアは、EU(欧州連合)の介入と手助けを必死に呼びかけているが、独仏をはじめとするEU各国は「イタリアに同情する」「イタリアを1人にはしない」「イタリアの痛みを分かち合う」などなど、口先ばかりの「連帯」を表明して実はほぼ無関心と言っても良い態度を貫いている。

それどころかEUの問題児のハンガリーは、同国のオルバン首相の名で「イタリアは難民排斥のために全ての港を閉鎖するべき」と呼びかけてこの国を非難した。それにはチェコ共和国、スロベニア、ポーランドの元共産主義国で今や難民・移民排斥の急先鋒の国々の代表が同調した。

イタリアには中東やアフリカからの難民・移民が押し寄せている。今年はその数は、7月末現在までに約10万人にのぼる。その数字は、海が静かな夏の間は確実に増え続けると見られている。それらの難民・移民の大半の「最終目的地」は、実は「ヨーロッパ全体」であってイタリアではない。イタリアにとどまろうとする者は少数なのだ。

つまりそれはEU各国はもちろん欧州全体の安全保障の問題である。ところがEU加盟国を始めとする欧州の大半の国と国民は、それをイタリアだけの問題とみなして、口先だけの連帯を唱えて無関心でいるのだ。それどころか先の東欧4カ国は、EUのメンバー国でありながらイタリアを避難するような声明を出すありさまである。

ハンガリーをはじめとする東欧の国々は、EUに参加はしたものの、いわゆる西側諸国に比べると経済的には弱者である。経済大国ドイツはもちろん、仏伊ほかの国々と比べても豊かさではかなわない。彼らが難民受け入れに反対するのは、経済的な負担を避けたいからである。それは理解できることだ。だがそれだけではない事情もある。

かつてソ連の庇護の下にあった東欧4カ国には、人種差別にあまり罪悪感を覚えない人々が多く住む、という説がある。そうした人々の大半は、第二次世界大戦中のドイツ人やオーストリア人などと同様にユダヤ人を虐殺したり、虐殺に手を貸したりなどしてナチスにぴたりと寄り添い協力した過去を持っている。いわゆるポグロムである。それにもかかわらず、戦後は共産主義世界に組み込まれて戦時の総括をしないままに日を過ごした。

やがてソビエト連邦が崩壊し、現在ではEU(欧州連合)の メンバー国にまでなる幸運を得ながら、先の対戦への総括がなかったために昔風の反ユダヤ主義やイスラムフォビア(嫌悪)やアジア・アフリカ差別などの心理を払拭できずにいる、というのである。もしもその説が正しいならば、難民問題は過去2千年に渡るユダヤ人迫害事案などを始めとする、欧州のもう一つの暗い歴史をあぶりだしていると言える。

ところで、難民・移民問題に関する欧州内の有りさまを見ながら、僕は何かに似ていると思い続けてきたが、イタリアに対するハンガリー主導の先日の4カ国の非難声明を見て、ようやくそれが何であるのかが分かった。要するにそれは辺野古および沖縄米軍基地を巡る日本国内の状況にそっくりなのである。

つまり日本全体の安全保障のための基地過重負担にあえぐ沖縄に、「同情」し「沖縄に寄り添い」「痛みを分かちたい」と口先ばかりの「連帯」を言う安倍政権と多くの日本国民は、欧州の大半の国とその国民に似ている。またイタリアを非難する東欧4カ国は、沖縄の反基地闘争は補助金や補償金が目当て、と誹謗中傷するネトウヨ・ヘイト系の人々に酷似している、と気づいたのである。

沖縄には同情するが、でも米軍基地は「NIMBY=Not In My Back Yard(私の裏庭には持ってこないで)」と願う人々の気持ちは理解できるものだ。欧州各国が難民の重責をイタリア一国に押し付けたがる気持ちもまた同じ。それは世界中のどこの地域のどんな事案にも当てはまる現象なのである。

だからといってその不条理を不条理のまま捨て置くのは許されない。日本国民と欧州各国は見て見ぬ振りをするのではなく、そろそろ沖縄とイタリアの負担軽減に向けて自らの身も削ることを考えるべきだ。その動きが出ないならば、沖縄とイタリアはさらに強くさらに声高に要求し闘い続けるべきだ。

なぜなら米軍基地は沖縄一県ではなく日本全体の安全保障の問題であり、地中海難民問題はイタリア一国ではなく欧州全体の同じく安全保障の問題だからである。沖縄とイタリアに生じた安全保障の綻(ほころ)びは、応力集中を引き起こしてそれぞれの地域の崩壊につながる可能性もあることに、人々はそろそろ気づくべきである。


麻薬大国 ~モディカ・クアンティタ~


大麻解禁

2014年9月20日、イタリア政府はこれまで禁止されていた大麻の栽培を軍施設に限って解禁すると発表した。欧米では、特に痛みの軽減に効果があるとし て医療用に大麻を使うケースが増えている。イタリアも例外ではなく2007年から医療用大麻の販売や使用が合法化された。

しかしイタリアにおける医療用の大麻は、それが普通に流通している「大麻先進国オランダ」からの輸入がほとんどで、しかも値段が高いために一般化していない。そこでイタリア政府は、医療向けの安い大麻を軍の厳しい管理のもとに生産する決定をした。

その数日後、まるで呼応するように、地中海の島嶼州サルデニアで82歳の麻薬密売人の女ステファニア・マルーが逮捕された。老女は数人の若い男を配下に置いて麻薬密売にいそしんでいて、1962年の初仕事以来50年以上に渡って麻薬を売ってきた猛者だった。

また昨年末にはローマでも80歳になる女密売人が逮捕された。彼女はローマ中心街の自宅窓から、通りを歩く客に麻薬を渡して素早く金を受け取る、という方法で薬物を売っていた。同女も長年に渡って麻薬の密売を続けてきた手練れである。

医療用大麻の生産を解禁したイタリア政府の動きは滑稽なほどに鈍かった。それはイタリアに麻薬が蔓延している状況と無縁ではない。中毒患者数を始めとするイタリアの麻薬事情は年々改善傾向にあるが、たとえ医療用とはいえ、それを解禁することが社会にもたらす心理的な影響を考慮して、イタリア政府は二の足を踏んでいたのだと考えられる。

大麻栽培を解禁した政府の動きと、それに前後して麻薬密売の罪で逮捕された2人の老女のエピソードは、実は直接に関連するものではない。しかし、あたかも政府発表に合わせるかのように老密売人2人が逮捕された事実は、僕にはイタリアの麻薬事情を端的に表す逸話のようにも見える。

麻薬汚染都市ミラノ

あまり言いたくないが、僕が長く仕事の拠点にしてきたミラノは実は、世界でも有数の麻薬汚染都市である。過去には「世界最悪の」という有難くない 烙印まで押されたことがある。人口10万人当たりの麻薬関連の死亡者数を比較検討したところ、ミラノが世界第1位に躍り出てしまったことがあるのだ。

そうした統計でワーストNO1に輝くのは米国のサンフランシスコと相場が決まっていた。ミラノはそこを抑えてトップになった。繰り返しになるが、イタ リアには麻薬が蔓延している。国中が麻薬にまみれているという現実が先ずあって、ミラノの問題が出てきた。それは決して偶然のでき事ではない。

イタリアに麻薬が蔓延している理由は、ごく単純に言ってしまえばイタリア社会が豊かだからである。米英独仏蘭などに代表される欧米の国々で麻薬がはびこっ ているのと同じ社会背景があって、イタリアにも麻薬が広がっていった。つまり「豊かさに付いてまわる負の遺産」がこの国の麻薬問題である。

ところがイタリアという国は、何事につけ人騒がせなところがあって、麻薬の場合にもまたまた他人とは違う独特のやり方というか、あり方というか、不可解な「イタリア的事情」をいかんなく発揮して、前述の国々とは異なる麻薬環境を国中に作り出してしまった。

モディカ・クアンティタ

イタリアの麻薬関連法には通称「モディカ・クアンティタ(小量保持)」というコンセプトがある。これは個人が使用する分と考えられる小量の麻薬(モディカ・クアンティタ)の所持を認めるというものである。つまり麻薬は、1人1人の個人の責任において、これを所持し使用する分にはお構いなしという規定だ。

かつてはイタリアの麻薬関連法も、薬物の量の大小に関わらずにそれの保持を厳しく規制していた。それが1970年代を境にモディカ・クアンティタのコンセプトが導入されて規制がゆるくなった。ただし、麻薬を大量に所持してこれを売る者
(売人)は、その生産者と同じく飽くまでも厳しい罰則の対象ではある。

モディカ・クアンティタ(小量保持)の「小量」には具体的な規定がない。いや、あることはあるのだが、すぐに内容が変わるなど厳格さに欠けるため、言葉の解釈をめぐって大きな混乱が起きる。麻薬所持で捕 まった売人が、個人使用の分量だと主張し、裁判の度に有罪になったり無罪になったりもする。

少量の麻薬保持は罪に問わないという法の在り方には、イタリア人得意の物の考え方が関わっている。即ち、麻薬を所持し使用することは個人の問題なのだから、これを他人(国)がとやかく言うべきではない、という立場である。それがモディカ・クアンティタの原則というか基本的な哲学である。

モディカ・クアンティタの廃止・・・?

言葉を変えればそれは、厳罰主義を嫌うイタリア国民の強い意志の表明でもある。少量の麻薬保持を容認する態度の根っこには、人間は罪深い存在であり、間違いを犯すものであり、従って許されるべき存在であるというキリスト教的な死生観がある。

モディカ・クアンティタのコンセプトの根源は宗教的である分これを否定したり、矯正、改削することが難しい。加えてそこには、マリファナやハシシなどのいわゆる「軽い麻薬」を、酒や煙草よりも健康被害の少ない嗜好品、と見なす欧米社会の通念に近い考え方もあるからなおさらである。

2014年現在、イタリアの麻薬法は少量保持も禁止、という立場を取っている。しかしながら依然として罰則はゆるく、初犯の場合にはお構いなし。再犯やそれ以降でも運転免許証やパスポートが一時的に停止される場合もある、という程度である。 モディカ・クアンティタの精神を良しとする社会風土は、法の規定にはお構いなく歴然として存在する。

モディカ・クアンティタという厄介な考え方のおかげで、イタリアの麻薬環境は半ば野放し状態になった、という風に僕は考えている。そうしたイタリアの社会状況の中で、多くの麻薬患者は言うまでもなく、麻薬から最も遠いところにいると見える前述の2人の老婆のような者まで密売人になった。

麻薬はそうやってイタリアの日常茶飯の出来事の一つになって行った。
                        
                       (つづく・随時)

マフィアの亡霊



加筆再録



僕はイタリア・シチリア島にたくさんの友人がいて、ロケ撮影やリサーチなどの仕事のほかにプライベートでも良く島を訪ねる。シチリアにはドキュメンタリー にしたい題材が多いが、一番魅力的なテーマはなんと言ってもマフィアである。しかし僕がこれまでにシチリア島で取材したドキュメンタリーも、また今後ロケ をするチャン スをうかがっている作品も、今のところマフィアとは直接には関係がない。

それでいながら僕は、シチリアで何かの作品を制作することは、どこかで既にマフィアを描くことにつながっていると考えている。なぜならマフィアとはシチリア島そのものだからである。シチリアの島民の全てがマフィアと関わっているという意味ではもちろんない。

それどころか彼らは犯罪の被害者であり、誰よりも強くマフィアの撲滅を願っている人々である。しかし島民は、恐怖と誇りという2つの感情の鎖で心をがんじがらめに縛りつけられているために、結果としてマフィアに協力してしまう行動を取ることさえある。
 
マフィアにはオメルタ(沈黙)という鉄の掟がある。組織のことについては外部の人間には何もしゃべってはならない。裏切り者は本人はもちろんその家族や親 戚、果ては必要ならば友人知己まで抹殺してしまう、というすさまじいルールである。オメルタは長い間に村や町や地域を巻き込んで、最終的にはシチリア島全 体の掟になってしまった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことをしゃべりたがらない。しゃべれば報復されるからだ。報復とは死である。人々を恐怖のどん底に落とし入れる方法で、マフィアはオメルタをシチリア島全体の掟にすることに成功した。
 
しかし、恐怖を与えるだけでは、マフィアはおそらくシチリアの社会にこれだけ深くオメルタの掟を植えつけて行くことはできなかった。シチリア島民が持って いる シチリア人としての強い誇りが、不幸なことにマフィアへの恐怖とうまく重なり合って、オメルタはいつの間にか抜き差しならない枷(かせ)となって人々にの しかかっていったのである。

シチリア人は独立志向の強いイタリアの各地方の住民の中でも、最も強く彼らのアイデンティティーを意識している人々である。四方を海に囲まれた島国の人間というのは共同体意識が強く、常に内と外を分けて考える性癖が身についているのは周知の事実である。

それは時代が進み近代化の波が押し寄せる過程で薄れていくものだが、シチリア島にはその波がゆっくりとした速度でしか寄せてこなかった。そのためにシチリア島には、イタリアの中でも前近代的な側面を最も強く持つ社会が今も残ることになった。
 
そうしたことに加えてシチリア島は、紀元前のギリシャ植民地時代以来、ローマ帝国、アラブ、ノルマン、フランス、スペイン、等と 次々に異国に征服されてきた。外の力に支配されつづけたシチリア人は、その反動でますます彼ら同志の結束を強め、かたくなになり、シチリアの血を意識して それが彼らの誇りになった。

シチリアの血を強烈に意識する彼らのその誇りは、犯罪のカタマリである秘密結社のマフィアでさえ受け入れてしまう。いや、むしろそれをかばって、称賛する心根まで育ててしまう。なぜならば、マフィアもシチリアで生まれシチリアの地で育った、シチリアの一部だからである。

かくしてシチリア人はマフィアの報復を恐れて沈黙し、同時にシチリア人としての誇りからマフィアに連帯意識を感じて沈黙するという、巨大な落とし穴にはまってしまった。

1861年にイタリアは統一された。 この出来事は異民族の支配下にあったシチリアの立場を良くするどころか、むしろ人々の疎外感を強める結果になった。統一はイタリア北部の主導で成されて、 北部の発展だけに寄与する体制だとシチリア人は感じたのである。事実統一後のイタリア国家は、現在でも北部と南部の経済格差が激しい国情である。

シチリアの島民は、統一が異民族の支配からの脱却などではなく、新たな異民族つまりイタリア北部人によるシチリア島の征服である、とはっきりと悟った。以 来彼らはシチリアの一部であるマフィアに対する連帯意識をさらに強めて、北部がローマを隠れみのにくり出してくるマフィア撲滅を目的にした国家権力、つま り警察には一切協力しない方向に傾いていった。

シチリアの人々はマフィアについては誰も本当のことを語らない。従って警察もなかなかマフィアのシッポをつかむことができない。マフィアの構成員と考えら れる犯罪者を捕らえても、目撃者や被害者をはじめとする周囲の人々が沈黙を守るために、決定的な証拠が不足してしまうのである。

マフィアを一掃できないのは、イタリアの官憲がだらしないからだと良く聞く。それにも一面の真実がある。しかし、シチリア島のおよそ500万人の住民が官憲に対して敵意に近い感情を持ち、結果としてマフィアをかばう図式があることも、また事実なのである。

そうした現実は、イタリア人を含むシチリア島以外の世界中の人々が、島や島人をマフィアそのものと見なしてしまう態度になって彼らにはね返り、シチリアの 人々をさらにかたくなにしていく。かたくなになって、彼らはマフィアに関してはなお一層口をつぐんでしまい、マフィアはいよいよそれに助けられる、という 悪循環にあえいでいるのがシチリア島の状況である。

マフィアはシチリア島の現実だが、島民を含む世界中の人々の恐怖心と嫌悪と怒りによって拡大解釈され、とめどもなく膨れあがって、ついには制御のきかなくなったいわば亡霊のような側面がある。

僕は冒頭で、マフィアとはシチリア島そのものである、と言った。それはシチリアの置かれた特殊な環境と歴史と、それによって規定されゆがめられて行ったシチ リアの人々の心のあり方を象徴的に言ったものである。シチリアの人々を何かにつけてマフィアそのもののように見なす風潮には、僕は加担しない。
 
もう一度冒頭の自分の言葉にこだわって言えば、マフィアとはシチリア島そのものであるが、シチリア島やシチリアの人々は断じてマフィアそのものではない。 島民が全てマフィアの構成員でもあるかのように考えるのは、シチリア島にはマフィアは存在しない、と主張するのと同じくらいにバカ気たことである。



イタリア史上最年少首相はもしかして年若い老人?



イタリア史上最年少、39歳のマッテオ・レンツィ首相が誕生した。カリスマ的な男は弱冠34歳でフィレンツェ市長になり、昨年は38歳でイタリア最大政党民主党の党首に選ばれた。

レンツィ氏には国政経験はないものの、最近は全国的な人気も高まって、政治腐敗と財政危機に苦しむイタリア共和国の救世主になるのも時間の問題と見られていた。

僕自身も氏にずい分と注目し期待を膨らませてきた。またこの若き政治家への期待をそこかしこで結構熱く語ったり書いたりもしてきた。期待通り、彼は今イタリアのトップになろうとしている。僕は大いに満足するはずなのに、どうしても手放しでは喜べない気分でいる。

それというのも、レンツィ氏が政権を手中にした一連の動きになんとしても違和感を覚えてしまうのだ。「革命」と表現するのは言い過ぎだろうが、イタリア政界に大きな変革をもたらしてくれるであろう男にしては、政権を獲得した手法がひどく古臭くて気持ちに引っかかる。

レンツィ氏は、昨年4月に発足したばかりの同じ民主党主導のレッタ内閣を、政治経済改革の進行が遅いとして激しく責め立てて崩壊させ、党友のエンリコ・レッタ首相を辞任に追い込んだ。

その後、ナポリターノ大統領からの首班指名を受けて各党と協議を進めて来たが、その過程では多くの醜聞にまみれた天敵のベルルスコーニ元首相とも会って、選挙制度改革案 について合意を取りつけたりしている。

そうした動きを大胆として評価する声もあるが、僕はどうも腑に落ちない。もちろん駆け引きも重要な政治手腕だ。でもそれは時と場所を間違うと因循姑息に見えかねない。そして、レンツィ氏の一連の行動は、残念ながら僕には策動とも呼びたくなるような行為にさえ見える。

レンツィ氏が政権に至る形は僕の中のイメージでは次のようなものだった。

彼は近い将来満を持して総選挙に打って出る。氏は高い人気と実力で有権者の心を鷲づかみにして、民主党が地すべり的な大勝利を収める。僕は別に民主党の支持者でもなんでもないが、同党が選挙に勝つことが、レンツィ氏の政権樹立につながる。だからそう期待してきたのだ。

選挙後に晴れて首相に就任する彼は、国民の熱い支持を背景に一気に政治改革を断行。また経済、雇用、社会保障その他の多くの懸案にも大ナタを振るい、守旧派を一掃してイタリア共和国をよみがえらせる…。

イタリア政界に彗星のごとく現れたレンツィ氏には、十分にそんな能力と運と哲学と知略が備わっているように見える。なのに彼が選んだのは、密室政治と非難されても仕方のない「選挙を経ない」政権樹立の道だった。

イタリアは曲がりなりにも民主主義国家である。国民の圧倒的な支持と負託がなくてはこの国の根深い構造的問題は解決できない。

根深い構造的問題の一つが政治である。そしてイタリアの政治の根本問題とは、ひとことで言えば「合意できない」国政ということである。多くの政党が乱立してそれぞれが勝手なことを言い合って紛糾するのが、イタリアの国会である。

なぜそうなるか。それはイタリア共和国が徹底した多様性重視の国だからだ。

古代ローマ帝国が崩壊した後、イタリア半島には多くの都市国家が乱立して繁栄した。国々の独立自尊の精神は、統一国家が成立した1861年以降も色濃く残って、今日でも多様性が最重視される。それは国家が一枚岩になって政治を遂行する際の大きな障害になる。多様性という言わばイタリア共和国のもっとも輝やかしい部分が、政治的にはこの国の最重篤な欠陥となるのだ。

だからこそこの国には、選挙で一番多くの支持を得た政党が、たとえ過半数に満たなくても「過半数に見合う勝利を得た」という形にして政権を担う、という法律が導入された。いわば総選挙におけるボーナス制度だ。昨年2月の総選挙で、過半数に満たない得票しかなかった民主党が、政権党となってレッタ内閣が発足したのもその制度のおかげである。

イタリアでは上下両院ともに比例代表制で、有権者が支持する候補者に直接投票できない。それは問題だとする意見が根強い。また前述の選挙結果ボーナス制度も、昨年12月に最高裁で憲法違反という判決が出ている。問題だらけなのだ。

だからといって、気軽にその制度を無くしてしまえば、小政党やグループや個人の主張と要求と論戦が頻発して収拾がつかなくなる。今でも激しい喧嘩や言い合いや誹謗中傷合戦が、さらにエスカレートするのが目に見えている。つまり政権の運営はおろか、政権の樹立さえ困難な状況が慢性的に続く可能性さえあるのだ。

現下のイタリアの政治状況では、そうした閉塞をただちに打破するおそらく最善の方法は一つ。若いカリスマ的なリーダーのレンツィ氏が、選挙に打って出て圧倒的多数で勝利を収めることである。国民的人気を持つ強い指導者が、一気に中央突破を図る以外には解決の道はないように見える。

そしてレンツィ氏には十分にその可能性があった。「あった」と過去形で言うのは、今回彼が朋友のレッタ首相を追い落として自らが組閣する道を画策したことで、せっかくの可能性をつぶしてしまったのではないか、と危惧するからである。今あわてて頂点に立つよりも、もうしばらく我慢して国民的要望が燃え上がるのを待つべきだったのではないか。そのときに選挙に打って出て大勝すれば理想的だったのではないか、と。


好意的に考えれば、レンツィ氏が総選挙を要求しなかった、あるいはできなかったのは、選挙制度が違憲、という最高裁判断に不安を覚えたからかも知れない。だが、それだからこそ、そのことを争点の一つに総選挙に持ち込んで勝利して、ひと息に選挙制度を改革することができた、という考え方もある。

今の状況ではレンツィ政権には強い支持基盤がない。彼が引きずり倒したレッタ前政権同様、党外に協力者を求めて連立政権を打ち立てるしかないし、また実際にそうなった。つまり、政権基盤はレッタ内閣とほぼ同じなのである。そしてレンツィ氏が改革の遅滞を指弾したレッタ前政権はまさに、主として連立政権内の守旧派及び抵抗勢力によって行く手を阻まれ続けたのだ。その同じ障害を彼はどのようにして手なずけ克服して行くのだろうか。

レンツィ新首相の若さとカリスマ性が求心力を発揮して、奇跡が生まれる可能性ももちろん大いにある。だが僕には、選挙で民意を問わずに成立したレンツィ政権が、果たして魑魅魍魎の跋扈するイタリア国会をまとめ、説得し、納得させて一大改革を成し遂げられるのか、疑問も残るのだ。やり方が拙速に過ぎたような気がしてならないのである。

僕はイタリア政界の変革を心から待ち望んでいる。「レンツィ氏はもしかすると年若い老人なのではないか」という、にわかに沸き起こった自分の中の不安が杞憂(きゆう)であることを願いつつ、新政権の行方を注意深く見詰めて行こうと思う。


ネルソン・マンデラ;キング牧師の夢を実現した英雄 逝く


南アフリカのネルソン・マンデラ元大統領の訃報が、世界中を駆け巡っています。95歳でした。

周知の通りマンデラ元大統領は、南アフリカの悪名高いアパルトヘイト・人種隔離政策に立ち向かい、それの撤廃を求める激しい闘争の中で27年間に渡って投獄されました。獄中からも黒人解放を訴え続け、1990年に釈放。翌年、アフリカ民族会議(ANC)議長に選ばれました。そして1993年ノーベル平和賞を受賞。1994年には同国初の黒人大統領に就任したのでした。

今年2013年は、あるいは黒人解放運動の節目の年として歴史に大きく刻印されるかも知れません。というのも本年は、公民権運動の指導者キング牧師が「I have a dream」演説を行なってからちょうど50年の節目であり、同時にそれを積極的に支持したケネディ大統領がダラスで暗殺されてからやはり半世紀の銘記年でもあります。

 また今年4月に開催されたローマ教皇選出会議・コンクラーベでは、当選には至らなかったものの、ガーナ出身の黒人司教ピーター・タークソン卿が、多くの支持者を集めるという出来事もありました。

 黒人のタークソン卿がカトリック教会の最高位聖職者、つまりローマ教皇の座に就くことは、アメリカ合衆国に史上初めて黒人の大統領が誕生したことよりももっと大きな意味を持つ、歴史の輝かしいターニングポイントになるところでした。なぜならオバマ大統領はアメリカ一国の指導者に過ぎませんが、教皇は世界各国にまたがる12億人のカトリック教徒の精神的支柱となる存在だからです。

 南アフリカで虐げられてきた黒人のために、そして世界中の抑圧された人々のために、ひいては人類全体の進歩のためでもある闘争を戦い抜いた偉大な人物が、また一人亡くなったのは悲しいことです。しかし、元大統領が世界の人種差別運動の節目の年に他界した事実は、今後も繰り返し思い出され話題になって、さらに深く歴史に刻まれて行く事も意味しますから、偶然とはいえ何かの因縁も感じます。

 マンデラ元大統領は、南アフリカの人種差別に敢然と立ち向かったのですが、それは脈絡もなく始まったのではなく、米国における黒人解放運動と深く連動していました。

 公民権運動に代表される米国の人種差別反対運動は、1862年のリンカーンによる奴隷解放宣言から1955年のローザ・パークスの抵抗を経て、キング牧師による50年前の「I have a dream」演説のうねりを介し、ついには2009年、アメリカ初の黒人大統領の誕生という大きな歴史の転換を迎えました。

 そうした米国での歴史変革の波は、南アフリカの反アパルトヘイト運動にも強い影響を与え、南アフリカの鳴動は翻ってアメリカにも力添えをする、というグローバルな人種差別反対運動の奔流となって今日に至っています。

 マンデラ元大統領の歩みをざっと見てみますと、ちょうどキング牧師のワシントン大行進の頃、反アパルトヘイト運動の闘士だった彼は国家反逆罪で逮捕。その後、27年間に渡って収監されますが、獄中でも決して怯まずに闘争を続けました。

 彼が戦いを続けられたのは、米国での絶え間ない反人種差別運動とそれを支持する国際世論が、同時に南アフリカの人道無視政策を非難し獄中のマンデラ氏を一貫して支援したからです。

 ネルソン・マンデラは1990年に釈放され、前述したように94年には黒人初の大統領に就任。それに合わせて、彼の釈放の前後から段階的に撤廃されてきた南アフリカのアパルトヘイトも、ついに完全撤廃されました。

 世界に大きなインパクトを与えた南アフリカの変化は、米国内の人種差別反対運動にも連動し、それを鼓舞し、さらに勢いを与えて、ついに2009年1月、ネルソン・マンデラを人生の師でありお手本だと公言するバラック・オバマが、黒人初の米国大統領に上り詰めたのでした。

 そうした世界変革のうねりは、われわれの住むこの世界が差別や偏見の克服へ向けて一歩また一歩と確実に前進していることの証に他なりません。

 半世紀前に「I have a dream」と格調高く訴えて世界中を熱狂させたキング牧師の夢を、完成に向けて確実に前進させたマンデラ元大統領の偉大な足跡を偲びつつ、ほぼ無力に等しい全くの微力ながら、そこへ向けて自分も「何かできないか」と問い続けて行きたいと思います。

 

 


「I have a dream」:JFKとキング牧師と世界の共通夢



1963年11月22日、ケネディ米大統領が暗殺されてから今日でちょうど半世紀です。

JFK暗殺の約3ヵ月前、1963年8月28日には、公民権運動の指導者キング牧師が歴史的な「I have a dream」演説を行ないました。

キング牧師のDreamとはまた、公民権運動を積極的に支持し人種差別に反対したケネディ大統領の夢でもありました。2人は同床異夢ならぬ同床同夢の関係にあったと言っても良いでしょう。

アメリカ合衆国は地球上でもっとも人種差別が少ない国です。

皮肉や言葉の遊びではありません。

奇をてらおうとしているのでもありません。

日本で生まれ、ロンドンに学び、ニューヨークに住んでアメリカ人と共に仕事をし、さらにイタリアから多くの国々を巡った、僕自身の実体験から導き出した結論です。

米国の人種差別が世界で一番ひどいように見えるのは、米国民が人種差別と激しく闘っているからです。問題を隠さずに話し合い、悩み、解決しようと努力をしているからです。

断固として差別に立ち向かう彼らの姿は、日々ニュースになって世界中を駆け巡って目立つために、あたかも米国が人種差別の巣窟のように見えます。

そうではなく、自由と平等と機会の均等を求めて人種差別と闘い続け、絶えず前進しているのがアメリカという国です。

長い苦しい闘争の末に勝ち取った、米国の進歩と希望の象徴が、黒人のバラック・オバマ大統領の誕生であることは言うまでもありません。

米国より先に奴隷制度を廃した英国を始めとする欧州諸国には、黒人首脳が誕生する気配すらありません。

僕の住むここイタリアに至っては、2013年現在、史上初の黒人閣僚へのあからさまな人種差別言動が問題になる有り様です。

わが日本では、外見もほとんど違わず文化習慣も近い在日韓国・朝鮮人さえ差別します。しかも差別がない振りさえします。今後、世界中からの移民が増えた時、いかなる差別社会が生まれるのか、考えただけでもぞっとします。

黒人の公民権運動に代表される米国の人種差別反対運動は、リンカーンによる奴隷解放からローザ・パークスの抵抗を経て、マルコムXに受け継がれ、キング牧師による「I have a dream」演説のうねりを介して、ついにはアメリカ初の黒人大統領の誕生という大きな歴史の転換を迎えました。

そこには差別される側の黒人に寄り添う、差別する側の多くの白人がいました。その代表の一人が、第35代合衆国大統領ジョン・F・ケネディでした。

黒人のオバマ大統領誕生までの道程では、南アフリカの人種隔離政策の撤廃と、ネルソン・マンデラ大統領の誕生という瞠目するべき出来事もありました。そうした世界の「事件」もまた、米国での黒人解放運動の影響無くしては起こり得なかったことであり、南アフリカでの変化は翻って米国の動きに追い風を送る、という相乗効果がありました。

それらの一連の歴史変革の波は、今年4月に開催されたローマ教皇選出会議にも届き、当選には至らなかったものの、ガーナ出身の黒人司教ピーター・タークソン卿が、多くの支持者を集めるという出来事ももたらしました。

世界12億人の信者を抱えるバチカンは、保守の牙城の中の牙城とも呼べる存在ですが、そこにも確実に歴史変遷の動きは到達していて、教皇の地位に史上初めてヨーロッパ人以外の人間が就くという事件がありました。それが南米出身のフランチェスコ教皇です。有色人種の教皇の誕生も間近いことでしょう。

希望の国アメリカは、人種差別も不平等も格差も依然として多い、今現在のアメリカが素晴らしいのではない。米国の開放された良識ある人々が、こうでありたいと願い、それに向かって前進しようとする「理想のアメリカ」が素晴らしいのです。

キング牧師は「理想のアメリカ」を表現し、訴え、追及した勇者でした。

ケネディ大統領は、「理想のアメリカ」を彷彿とさせる若き英雄でした。

その若き英雄の死から50年の節目に、亡き大統領令嬢のキャロラインさんが駐日大使として赴任したことを、深い感慨と共に見つめているのは僕だけでしょうか。

パク・クネ韓国大統領への公開状 


パク・クネ大統領閣下

先日、あなたは欧州訪問の一環として英国を訪問し、早速BBC放送のインタビューを受けました。私はBBC国際放送の割と熱心な視聴者で、たまたま同放送の定時ニュースを見ていたところ、あなたのインタビュー映像が流れたのです。あなたはその中で「日本が歴史認識を変えない限り首脳会談をする意味はない。特に従軍慰安婦問題は最大のネックだ」と従来の主張を展開しました。

私は衛星放送画面を見ながら暗澹とした気分になりました。あなたが糾弾する日本の過誤に罪悪感を覚えたからではありません。慰安婦となってしまった女性の皆さんに同情したからでもありません。私個人に関する限り、それらについては既に深く陳謝する気持でいますし、わが国は2度と過去の間違いを繰り返すべきではない。そのためには一刻も早く前大戦を総括して、過去を洗いざらい明らかにして真の再出発をするべきだ、と考えまたそう主張している者です。

私がそこで暗澹としたのは、あなたが狙っているらしい「国際世論に訴えて日本を貶める作戦」がまた一つ功を奏している明確な現実に対してです。まるで駄々っ子のように第三国で日本の悪口を言うあなたの姿に、英国政府首脳や良識ある国民はあるいは呆れているかもしれない。しかし、英国の一般大衆は日本を攻撃するあなたを通して、わが国への反感を募らせたことは間違いない。すぐに強い反感を抱くことは無くても、日本への警戒心がむくりと頭をもたげるのが目に見えるようでした。

私は1980年代に英国に留学した経験がありますが、表向きは日本や日本人に対して好意的な感情を持っている英国人でも、前大戦時のわが国に対しては強い疑念と不信感を持っていることが分りました。田舎町のパブで、実際に日本軍と戦った経験のある老人から「私は日本と日本人が嫌いだ。凶暴で野卑で油断がならない」と静かな口調で言われて衝撃を受けたこともあります。

 貴国民や中国人に始まって、アジアの多くの国民も軍国主義日本に冒涜された過去を持っています。アジアの国々の中にはわが国の過去を許し、友好的な関係を築いているところもありますが、彼らとて日本が再び過去の狂気に陥って、近隣国民に横暴を働く可能性がゼロではないことを知らないわけではありません。そして欧米諸国の場合は、胸中に秘めている「過去形の日本」への警戒心はさらに強い。大人である彼らはそれをおおっぴらに口にしないだけです。

 戦後一貫して築いてきた「平和国家日本」「平和主義者日本人」のイメージは、わが国の経済大成と共に欧米諸国民に好意的に見なされ、あまつさえ賞賛されて来ました。しかしごく最近になって、ナショナリストと見なされる安倍首相と周辺への警戒感から、そのイメージにたちまち疑問符がついて、特にインテリ階級の人々の日本への印象が曇り始めています。あなたはそうした空気が拡散しつつあるヨーロッパで、実にタイミングよくわが国を攻撃したのでした。

 あなたの日本貶め作戦はうまく運んでいます。いわゆる知日派の知識人やアジア通のインテリなどを別にすれば、国際世論に大きな影響力を持つ欧米の大衆は東アジアの情勢などほとんど知らず、また興味もありません。ですから、あなたのようにポピュリスト的に日本批判を展開するととても簡単に影響を受けます。多くの人々がそうやって「日本悪者」意識を薄っすらと抱きます。その感情は世界中の人々が「漠然と」覚えている軍国主義時代の日本の悪のイメージに易々と重なって、「日本悪者」意識がさらに強調されていきます。

 あなたに対抗する手っ取り早い方法は、わが国の首相が世界に赴いてあなたの主張がブラフである、とあなたがやったような仕方で論駁することです。ところが残念ながらそれは逆効果になることが目に見えています。なぜなら安倍首相は欧米各国からナショナリストというレッテルを厚く貼られている存在です。つまり軍国主義の巨悪に繋がる思想信条を持った指導者と見られているのです。彼が欧米諸国に出向いてあなたの主張に反論しても、人々にまともに受け入れられることは難しく、それどころか強い反発を受ける可能性が高い。

 慰安婦問題について、恐らく首相自身が信じているままに「軍の強制関与を示す証拠はない」などと主張しようものなら、欧米の世論は一斉にブーイングを投げかけるに違いない。なぜなら欧米の世論(またそれに強く影響される国際世論)が信じているのは、あるいは信じたがっているのは、軍関与の証拠の有無などでは断じてなく、彼らが思い描くところの、あの悪鬼のような旧日本軍なら『やりかねない』という彼らの中のイメージ、あるいは漠然とした知識、又はぼんやりとした恐怖の方だからです。

 あなたの対日強硬姿勢の根幹を成しているのは、歴史認識でも竹島でもなく、まさに従軍慰安婦問題なのだろう、と私は推測しています。従軍慰安婦はそれが日本軍にまつわる存在であろうとなかろうと、女性にとっての最大の侮辱の一つです。だからこそあなたは韓国国民として、また大統領として、そして何よりも女性として、従軍慰安婦となって屈辱の人生を過ごした同胞女性のために、心底からの怒りを表明しているのでしょう。

 もしかするとあなたは、人類の歴史の中で連綿と続いてきた男尊女卑、女性蔑視、あるいは女性差別の風潮の最たるものが慰安婦だと考えているのかもしれません。そのことで憤激しているあなたは、日本との関係改善という「取るに足らない些事」のために、今さら上げた拳を下ろすわけにはいかない。そうやってあなたは頑なな態度で慰安婦問題を言い立てている。それは世界世論を味方に付けるうまいやり方です。女性は言うまでもなく、世界中の良識ある男たちも人類の歪んだ女性差別の歴史を恥じ、これを改善するのが道だと捉えて努力を続けています。だから皆あなたの側に付きやすいのです。

 多くの人々の努力の甲斐もあって、女性差別の環境は近年大きく改善されてきました。日本同様に女性軽視の雰囲気が強い韓国において、あなたが貴国初の女性大統領に選出された素晴らしい出来事も、世界の多くの女性やフェミニストたちがこれまでに戦ってきた成果の一つであることは、ここで改めて指摘するまでもありません。

 あなたは大統領就任直後に訪問したアメリカでも、今回の欧州訪問でも異例の大歓迎を受けました。欧米諸国のあなたへの好意は、あなたが女性であることへの特別の温情と敬愛と期待と喜びからも来ています。あなたは各国のその普遍的な友誼をうまく利用して、日本叩きを実行しました。そしてそれは成功しました。

 大統領閣下、そうなのです。あなたは国際世論に訴えて日本を貶める作戦にもう十分に勝利しました。女性差別という大局的なテーマを、従軍慰安婦を旗印にして闘い、わが国を生贄にして攻勢をかけ、糾弾し、やがて成功を収めました。国際世論は日本の過去の古傷を思い出して疑心暗鬼に陥っています。私たち日本国民はあなたの攻撃によって十分に辱めを受けました。広告宣伝合戦はあなたの圧倒的な勝利です。

 大きな戦果を収めたあなたは、これからは日本との対話を模索する行動を取るべきです。聞くところによると貴国内にもあなたの対日強硬路線に危機感を抱き始めた勢力があるといいます。それはあなたの行き過ぎた対日批判が曲がり角に差し掛かっていることを示唆しています。

 私たち日本人は過去に多くの過ちを犯し、現在も多くの失敗や問題を抱えています。しかし、あなたは認めたくないでしょうが、わが国はまた世界から賞賛され、友誼を示され、その独特の文化と精神を高く評価されている国でもあります。あなたにまるで取るに足らぬ国でもあるかのように軽侮されるいわれはありません。

 あなたは一国の大統領として隣国に尊敬の念を示すべきです。それは日韓の間に懸案が山積している現実とはまったく別次元の、国家元首としての節義であり、人としての道理です。

 あなたの対日強硬姿勢は、貴国内で親日と見られないための偽装、という見方も日本にはあります。しかしさすがにあなたの常軌を逸した日本攻撃の激しさに、そうした楽観的な見方は影を潜めて、国民の間に緊張感が走っています。あなたの反日感情は半端ではないと人々は考え出したのです。それは同時にわが国内に反韓国、嫌韓国感情が一気に高まることをも意味しました。なにしろ日本国内には貴国との関係改善などしなくても良い、韓国など無視してしまえ、という強硬な意見も台頭しつつあります。それはとても残念なことですし悲しい出来事です。それどころか危険でさえある。

 日韓が戦火を交える、という図はきっと荒唐無稽なものでしょう。しかし、わが国と貴国は、少し大げさに言えば精神的にほとんど戦争状態にある、と言ってもおかしくないほどの仲違いに陥っています。この状況こそ荒唐無稽です。これは中国とわが国の関係にも言えることですが、日韓の我々は隣同士であり、歴史的また文化的にも多くの共通項を持つかけがえのないパートナーです。これ以上いがみ合うのは良くありません。

 繰り返します。日本バッシング戦で大成功を収めたあなたは、今度はぜひ日本との関係修復を目指すべきです。あなたの嫌いなわが国の安倍総理は、対話の扉を大きく開けて待っていると公言しています。彼はナショナリストです。あなたはそのことが気に入らないとおっしゃるかもしれませんが、私からみるとあなたもかなり強情なナショナリストです。そう言えばお二方は良く似ていますね。どちらも国のトップに登り詰めた人物を父と祖父に持ち、いかにも世襲政治家らしい温和な容貌をしていますが、中身は一本筋の通った相当のくせ者同士。もっともくせ者でもなければ一国のリーダーは務まらないとは思いますが。

 私はナショナリストとは一線を画すると自負する者ですが、対話に応じる能力と意志がある限り、いかなるナショナリストも尊重します。右や左や保守や革新などという政治的レッテルに、あまり意味があるとは思えないのです。それは各自の持つ思想信条や哲学の違いのことですから、お互いがそのことを認め合って、その上で文明人らしく対話をし、議論をすればいいのです。民主主義社会に於ける政治的レッテルは、議論をし易くするための道具に過ぎない、とさえ私は考えています。

 議論をしない者は蛮人と同じです。対話ができず、自らの主張ばかりをわめきたて、従って相手への尊敬心などひとかけらも抱けない。彼らはわめき散らしてやがて武器を手に取り、ついには戦争への道を突き進みます。それは左右の思想信条とは関係ありません。彼らはただひたすらの極論者であり過激派であるだけです。過激派には右も左もありません。彼らはそっくり同じなのです。あなたがそんな極端思想の持ち主ではないことを心から祈っています。

 

 敬具


ペルー旅 ~エピローグ:奇譚~

加筆再録


3週間のペルー旅では、撮影を兼ねた道行の最後に遊びでマチュピチュを訪ねた。マチュピチュがペルー旅行の最終訪問地だったのだが、そこまでの日々は結構波乱万丈だった。

怖い体験

あまりの恐怖のために一瞬で頭髪が真っ白になるとか、一夜にして白髪になってしまうとかの話がある。

フランス革命時にギロチンの露と消えたマリー・アントワネットの白髪伝説。エドガー・アラン・ポーの小説「メールシュトレームに呑まれて」の漁師のそれ。

また巷間でも、恐怖体験や強いストレスによって、多くの人々の頭髪が白くなった、という話をよく耳にする。

僕はペルー旅行中にそれに近い体験をした。旅の間に白髪がぐんと増えたのだ。

しかし、黒髪がいきなり白髪に変わってしまうことは科学的にはありえない、というのが世の中の常識である。

髪の毛の色は、皮膚の深部にある色素細胞の中で作られるメラニン色素によって決定され、一度その色を帯びて育った黒髪や、その他の色の健康な髪は変色しない。白く変色するとすれば、新しく生えてくる髪だけである。

簡単に言えば科学的にはそういう説明ができる。

でも僕はペルーを旅した3週間の間に、白髪だらけの男になった。知命を過ぎたオヤジだから、頭に白髪が繁っていても別におかしくはない。

ところが僕はペルー訪問までは、年齢の割に白髪の少ない男だったのだ。年相応に髪の毛は薄くはなったが、僕は同世代の男の中では明らかに白髪が少なく、自分と同じオヤジ年代の友人らがやっかむほどだった。

最初に白髪の急激な増え方に気づいたのは、自分が写っている写真を見た時だった。え?と思った。まるで白髪の中に髪がある、とでもいう感じで頭が真っ白に見えた。

ビデオカメラを回している僕のその姿を写真に撮ったのは同行していた友人である。妻がたまたま僕のスチールカメラを友人に渡して、彼はそれでパチリパチリとシャッターを押してくれていたのだった。

その後、スチールカメラは僕の手に戻され、旅が終わってビデオ映像と共に写真素材も整理していた僕は、そこでスチールカメラに収められた自分の姿を見たのである。

死も友達旅

僕はペルー入国以来ずっとひどく怖い思いをしながら旅を続け、恐怖心を紛らわすためにも懸命に ビデオカメラを回している、というふうだった。

恐怖の全ては、目もくらむような深い谷底を見下ろしながら、車が車体幅ぎりぎりの隘路を走行し続けることから来ていた。

もっとも強い恐怖は旅の半ば過ぎに襲った。標高3100メートルのサンルイスから標高2500メートルのハンガスへ向かう途中の、海抜ほぼ5000メートルの峠越え。その日は夕方出発して、峠に差し掛かる頃には日が暮れてすっかり暗闇になった。しかも標高が高くなるにつれて天気がくずれて行き、ついには雪が降り出した。

運転手は70歳の元警察官。割とゆっくりのスピードで行くのはいいが、急峻な難路を青息吐息という感じで車が登る姿に、高所恐怖症の気がある僕のみならず、同乗者の全員が息を呑むという様子で緊張していた。

車窓真下には今にも泥道を踏み外しそうな車輪。そのさらに下には少なく見積もっても1000メートルはあるだろう谷の暗い落ち込みが口を開けている。車がカーブに差し掛かるごとに崖の落下がライトに照らし出される。時どき後方から登り来る車のライトにも浮かび上がる。目じりでそれを追うたびに僕は気を失いそうである。

間もなく峠を登り切ろうとしたとき、車はカーブを登攀(とはん)しきれず停車した。一呼吸おいてずるずると後退する。万事休す、と思った。車内が一瞬にして凍りついた。誰もが死を覚悟した。

その時運転手がギアを入れ替えた。車がぐっとこらえて踏みとどまり、すぐに前進登攀を始めた。そうやって僕らは全員が死の淵から生還した。

一瞬、あるいは一夜にして白髪になった、という極端な例ではないが、ペルー滞在中のそうした恐怖体験の連続の果てに、僕の髪の毛は確かにとても白くなった。少なくともぐんと白髪が増えたように見えた。

繰り返しになるが、髪の毛が瞬時に白髪に変わることはない。

しかし、恐怖や強いストレスが原因で血流が極端に悪くなると、皮膚の末端まで十分な栄養が行き渡らなくなってしまい、毛髪皮質細胞が弱くなることがある。

すると毛髪の中の空気の含有量が増えて、1本1本の色が銀色っぽく変化する。その銀色が光の反射の具合いで真っ白に見える、ということは起こり得るらしい。

それもまた科学的な説明。

僕の髪の毛はそれと同じ原因か、あるいは何日間かの強いストレスと恐怖体験によって、一瞬にではないが徐々に変化して白くなったのだと思う。

それは、朝起きたら黒髪が真っ白になっていた、というような極端な変化ではなかったので、同行していた妻や友人夫婦もすぐには気づかなかった。そのために僕自身を含む一行は後になって、高山の晴天の陽光に照らし出されて白く輝いている写真の中の僕の髪を見ておどろく、といういきさつになったものらしい。

ハゲよりカッコいい白髪

その白髪は、ペルー旅行から大分時間が経ったいま、それほど目立たなくなり、それどころか消えかけているようにさえ見える。しかしきっとそれは、僕自身が白髪に慣れたせいなのではないか、とも思う。

近頃鏡をのぞいて目立つのは、白髪よりもむしろハゲの兆候。そしてハゲてしまえば白髪も黒髪もなくなる訳で、僕にとってはそちらの方がよっぽど悲劇的である(笑)。

僕はハゲの家系なので将来の悲劇に向けての覚悟はできているつもりだが、悲劇はできるだけ遅く来てくれるに越したことはない(歪笑・凍笑・硬笑・苦笑・震笑)。

ともあれ今のところは、ペルーの恐怖体験で一気にハゲにならなくて良かった、と心から思う。短い時間で髪が白髪に変わるのはドラマチックだが、髪がバサリと落ちて一度にハゲてしまうのは、なぜかただの滑稽譚にしか聞こえないから。

言い訳
科学を信じたい僕にとっては、ここに書いたことは与太話めいてもいて気が引けたが、実際に自分の身に起こったことなので記録しておくことにした。信じるか信じないかは読む人の勝手、ということで・・

ペルー旅 ~マチュピチュ:その美~


 

加筆再録


 


昨年の今頃、仕事半分遊び半分で南米のぺルーを旅しました。


クスコ経由マチュピチュまで

ペルーにはアンデス山脈、アマゾン川、ナスカの地上絵、マチュピチュ等々、魅惑的な観光スポットが数多くあります。前回の旅では標高約5000メートルの 峠越え3回を含む、3700メートル付近の高山地帯を主に移動しました。目がくらむほどに深い渓谷を車窓真下に見る、死と隣り合わせの険しい道のりや、観光客の行かない高山地帯の村や人々の暮らしは、全てが鮮烈で且つ面白いものでした。


多くの恐怖体験を含む猛烈過激な旅を続けたあと、世 界遺産マチュピチュを訪ねました。そ
れは仕事抜きの純粋に観光を楽しむ道行でした。マチュピチュのあるクスコ県行きの飛行機が発着するのは首都リマのホルヘ・チャベス国際空港。ペルー入国後は立ち寄ることがなかった首都に回って、そこから空路南のクスコへ向かいました。


クスコ県の県都クスコは、標高3600メートルにある人口30万人の街。かつてのインカ帝国の首都です。クスコは1530年代にフランシスコ・ピサロ率いるスペイン人征服者によって占領破壊されました。

スペイン人はその後、破壊したインカの建物跡の土台や壁などを利用してスペイン風の建築物を多く建立します。そうやってインカの建築技術とスペインの工法 が融合しました。二つの文明文化が一体化して造形された市街は美しく、その歴史的意義も評価されてクスコは世界遺産に指定されています。

クスコ郊外のサクサイワマン遺跡などを見て回ったあと、車でオリャンタイタンボに至りました。オリャンタイタンボにもインカの遺跡が多く残っています。いずこも心踊る山並み、街並み、風景、そして雰囲気。それらを堪能して、列車でいよいよマチュピチュへ。

インカの失われた都市

マチュピチュ遺跡は、列車の終点アグエスカリエンテ駅のあるマチュピチュ村からバスでさらに30分登った、アンデス山脈中にあります。

山頂の尾根の広がりに構築された街は、周囲を自身よりもさらに高い険しい峰々に囲まれています。熱帯雨林が鬱蒼と繁るそれらの山々にはひんぱんに雲が湧 き、霞がかかり、風雨が生成されて、天空都市あるいは失われたインカ都市などとも呼ばれる、マチュピチュにも押し寄せては視界をさえぎります。

僕がそこを訪ねた日の朝も、マチュピチュには深い霧が立ち込めていました。麓から見上げれば雲そのものに見えるであろう濃霧は、やがて雨に変わり、しばら くしてそれは止みましたが、遺跡は立ち込める霧の中から姿をあらわしたりまた隠れたりして、茫々として静謐、かつ神秘的な形貌を片時も絶えることなく見せてくれました。

マチュピチュの標高は2300メートルから2400メートルほど。それまで標高約5000メートルもの峠越えを3回に渡って体験し、平均3700メートル 付近の高地を移動し続けてきた僕にとっては、天空都市はいわば「低地」のようなものでした。インカ帝国の首都だった近郊のクスコと比較しても、マチュピチュは1000メートル以上も低い土地に作られているのです。

ところがそこは、これまで経験してきたどの山地の集落や遺跡よりも、はるかな高みに位置するような印象を与えました。遺跡が崖に囲まれた山頂の尾根に広がり、外縁にはアンデス山脈の高峰がぐるりと聳えている地形が、そんな不思議な錯覚をもたらすものらしい。

マチュピチュはまた、自らが乗る山と、附近の山々に繁茂する原生林に視界を阻まれているため、麓からはうかがい知れない秘密の地形の中にあります。文字通 りの秘境です。遺跡の古色蒼然とした建物群が、手つかずの熱帯山岳に護られるようにしてうずくまっている様子は、神秘的で荘厳。あたかも昔日の生気をあたりに発散してい るかのようです。同時にそこには、悲壮と形容しても過言ではない強い哀感も漂っています。

遺跡の美とはなにか


古い町並や建造物などが人の心を打つのは、それがただ単に古かったり、巨大だったり、珍しかったりするからではありません。それが「人にとって必要なもの」だったからです。

必要だから人はそれらの建造物を壊さずに大切に守り、残し、修復し、あるいは改装したりして使い続けました。そして人間にとって必要なものとは、多くの場 合機能的であり、便利であり、役立つものであり、かつ丈夫なものでした。そして使い続けられるうちにそれらの物には人の気がこもり、物はただの物ではなくなって、精神的な何かがこもった「もの」へと変貌し、一つの真理となってわれわれの心をはげしく揺さぶります。

精神的な何か、とは言うまでもなく、歴史と呼ばれ伝統と形容される時間と空間の凝縮体です。つまり使われ続けたことから来る入魂にも似た人々の息吹のよう なもの。それを感じてわれわれは感動するのです。淘汰されずに生きのびたものが歴史遺産であり、歴史の美とは、必要に駆られて「人間が残すと決めたもの」の具象であり、また抽象に他なりません。

マチュピチュの遺跡はインカの人々が必要としたものです。必要だったから彼らはそれを作り上げたのでした。しかしそれはわずか100年後には遺棄されまし た。つまり、今われわれの目の前にあるマチュピチュの建物群は、その後も常に人々に必要とされて保護され、維持され、使用されてきたものではない。それどころか用済みとなって打ち捨てられたものなのです。

もしもマチュピチュにインカの人々が住み続けていたならば、スペイン人征服者らは必ずそこにも到達し、他のインカの領地同様に占領して破壊し尽くしていた でしょう。マチュピチュは「捨てられたからこそ生き残った」という歴史の不条理を体現している異様な場所でもあるのです。

マチュピチュを覆っている強い哀愁はその不条理がもたらすものに違いない。必要とされなかったにも関わらず残存し、スペイン人征服者によって破壊し尽くさ れたであろう宿命からも逃れて、マチュピチュ遺跡は、何層にもわたって積み重なり封印されたインカびとの悲劇の残滓と共に、熱帯の深山幽谷にひっそりと横たわっています。

そうした尋常ではないマチュピチュの歴史が、目前に展開される厳粛な景色と重なり合って思い出されるとき、われわれは困惑し、魅了され、圧倒的なおどろきの世界へと迷い込んでは、深甚な感動の中に立ち尽くして、ただ飽きないのです。


 


すっかり軍国主義復活と見られている日本


米ニュース週刊誌「TIME」の最新号(2013年10月7日付)が“JAPAN RISING”というタイトルで日本特集記事を組んでいます。僕はこの雑誌を30年近く定期購読しているのですが、ここ数年は毎週配達されて来る号をざっと見流して、10冊中8~9冊はそのまま屑篭に投げ入れています。ネットからの情報がいろいろあるので、ほとんど読むべき目新しい記事がないのです。それなら購読を止めればいいのですが、長期購読契約なので一冊当たりの価格が店頭で買うよりも大幅に安いことと、ネットでは得られない上質の特集記事が時どき掲載されるので、捨てきれずに購読を続けています。

今回の日本特集もその上質の特集記事の部類に入ります。
「TIME」ネット版の無料サイトを覗いてみましたが、同記事はまだ掲載されていないようですので、ここで紹介がてら少し自分の考えを述べてみることにしました。

あらかじめ言っておきますが記事の内容には新奇なものはありません。海外メディアではむしろ言い古されたことばかりです。ではなぜ記事が上質なのかと言いますと、それがバランスの取れた中身になっているからです。同時にそれは世界のメディアが(従って世界の多くの人々が)今の日本をどう見ているか、の目安になります。日本国内にいると見えにくいものが、外から見ると鮮明になることが良くありますが、この記事に書かれている内容は、日本を外から眺めていることが多い僕のような人間にとっては、周りの人々(外国人)が発散してくる空気感と共に肌身にひしひしと迫る実感をもたらします。

表紙の記事タイトル“JAPAN RISING”は恐らくRISINGSUNまたは SUNRISINGを意識した書き方で、ピンと来る人はすぐに旭日旗を連想すると思います。また自衛隊戦闘機パイロットの写真に重ねた見開きページのタイトルは “帰ってきたサムライ”。どこから見ても、ある意味では陳腐な「右傾化する日本」を強調した(したい)報告であることが分ります。中身も同様ですので僕のこの記事のタイトルも「すっかり軍国主義復活と見られている日本」としてみました。


前置きが長くなりましたが、記事では安倍首相がタカ派と規定され、国内での憲法9条改正論議の高まり、軍備の増強、中韓との摩擦、東南アジア諸国との蜜月、米国との微妙な関係、自衛隊の誇り、尖閣を抱える沖縄の中国と自衛隊そのものへの不安など、日本と日本を取り巻く軍事的また政治的状況が正しい分析と共に紹介されています。

安倍首相がタカ派、又はナショナリストとして規定されるのは、欧米のメディアではほぼ常識と言っても良い捉え方ですが、インタビューコメントが挿入されている森本前防衛大臣や石破自民党幹事長などの保守層にとっては、もしかするとあまり耳障りの良い言葉ではないのかも知れません。

しかし、安倍首相はどこから見てもナショナリストであり、ナショナリストであること自体には何の問題もないと思います。ナショナリスト、つまり右派がいるから左派もいます。大事な点は立場を鮮明にして堂々と自らを主張し、友好国のアメリカや今やほとんど敵対国とさえ言える中国や韓国などとも十分に対話をして行くことだと思います。タカ派の宰相とは言え、安倍さんはまさか中国や韓国と戦争をしようとは思っていないでしょうから。

このまま行くと右寄りに傾きつつある日本の国論がどんどん右に曲がり続けて行く、という危険は常にある訳ですが、前大戦の総括を未だにしていないとはいえ、わが国の世論が戦前のように好戦的な方向に突っ走るとは僕には思えません。またこの「TIME」の議論も、安倍さんを始めとする日本の保守派の右傾化とその危険性をはっきりと指摘しながらも、わが国が戦前・戦中の狂気に陥りかねない、とまでは考えていないように読み取れます。それでも、
「米国の政策立案者たちは安倍首相にこれ以上の強硬姿勢は歓迎しませんよ」
と明確にシグナルを送っている、と書き足すことも又忘れません。

加えて「アジアでは比較的歓迎されているアメリカとは違い、日本は同地に多大な害を及ぼした70年前の軍国主義のレガシー(負の遺産、後遺症)を引きずっていて、近隣諸国の幾つかに疎まれている。それというのもドイツ人とは異なって、日本の政治家達は戦争時の日本の罪悪に関して曖昧な態度を取り、これを隠蔽しようとしたりさえするからだ。同時に軍国主義日本の最も大きな犠牲者である中国と韓国の指導者たちは、大衆の日本への憎しみをさらに焚き付けて、これを政治的に利用しようとする」とやはり日中韓3国を公平に評してもいます。

記事はさらに
「日本は世界5番目の軍事費を有し、靖国、慰安婦、集団的自衛権、などの懸案事項を内包しながら中国の軍備拡大に対抗する形でさらに軍事費を増やしつつあり、航空母艦にも似た海自の護衛艦“いずも”も就航させた。日本がそうやって軍事強化路線を推し進める中で、自衛隊員は過去とは全く違う国民の熱い視線を感じている。国民の彼らを見る好意的な目は、2011年の大震災の際の彼らの働きに対する感謝の念とも関係している。

例えば尖閣に近い沖縄の宮古島レーダー基地に勤務する自衛官は、国防の最前線にいるという実感と共に身震いするような誇りを感じている。しかし、沖縄の住民は自衛官と旧日本軍を重ねて見ていて、軍隊への不安も感じている。沖縄は先の大戦で地上戦を経験した。住民はその際旧日本軍が彼らを守ってくれなかったという深い絶望と怒りからまだ回復していない。彼らは中国への恐怖と同時に自らの国の軍隊への不安も感じている」

沖縄の住民の心理分析も的を射ています。自衛隊員は、未だ旧日本軍の亡霊に苦しめられている島々の住民に、彼らの誠実をきっちりと示す努力を怠ってはならないと思います。東日本大震災の際、彼らがほとんど自己犠牲に近いめざましい活動を提供して住民に深い真情を示したように。それは大戦で傷ついた沖縄の人々に対する、軍隊(自衛隊)の義務だと言っても良いのではないでしょうか。軍隊は地域住民を守らないという、人々の歴史経験の巨大な傷を癒やさない限り、沖縄はいつまで経っても自国軍、つまり自衛隊への疑惑を捨て切ることができないのではないか、と僕は感じます。もっともそれは平和時の話であって、もしも他国との戦争になれば議論はまた別の様相を呈することになる訳ですが・・・

「TIME」の記事はできる限り客観的であろうとしながら、結局安倍首相以下の日本のタカ派への警戒心を隠そうとはしません。そして最も重要なことは、その見方が国際世論の大勢であるという厳然たる事実です。僕がこの記事を書いているのもまさにそのことを指摘したいからに他なりません。現在の東アジアの情勢では日本が少しばかり右に傾くのは仕方のないことかもしれません。いや、むしろそれが当たり前でしょう。しかし、世界はそんな風には見ないのです。

一例を示してそれを説明します。戦後一貫して築いてきた平和愛好国家としての日本のポジティブなイメージは、2011年の東日本大震災の巨大な不幸を経てピークに達しました。世界の大半の人々は、大震災の混乱の中で見せた日本人の自己犠牲の精神や折り目正しさや正直や連帯意識に感動し、強く賞賛しました。それは日本と日本人への評価が最高潮に達した瞬間でした。その賞賛のほとんどは安倍首相の最近の従軍慰安婦発言や歴史認識問題で吹き飛んでしまいました。中国や韓国に限らず、軍国主義時代の日本と、それを明確に総括していない「もう一つの日本」に対する世界の多くの人々の警戒心は、少しも緩んではいないのです。日本の、特に保守系の政治家は、そのことを常に肝に銘じておくべきです。

「TIME」の記事は「軍隊にまつわる日本」への世界の心情を代表している訳ですが、同時に記事は
「驚いたことに、それでも安倍首相のタカ派的スタンスはアジアで支持もされている。例えばインドやミャンマーは中国よりも日本の方が経済パートナーとして信頼できると感じ、かつて旧日本軍の軍靴に踏みにじられたフィリピンや、インドネシア、マレーシアでは、国民の80%が日本をポジティブに見なしている」
とここでも又きちんとフォローしています。

さらに印象深いのは、元フィリピン国立防衛大学の学長クラリータ・カルロス氏が中韓両国、特に中国がかつて日本に侵略された歴史事実を楯にそれにこだわり続けることに対して、
「中国は過去の出来事を執拗に蒸し返して日本を攻め続けるばかりで発展性がない。それを言うならアジアの我々は皆、旧日本軍の被害を受けた。我々はそのことを忘れてはいない。だが我々は、許すこともまた知っている」
と、安倍首相を始めとする保守派の皆さんが泣いて喜びそうな意見もきちんと書き込んでいます。

それらは日本人の誰にとっても有り難いコメントだと思いますが、意見を手前味噌的にのみ捉えてはならないとも考えます。フィリピンが南沙諸島の領有権を巡って中国と対立している事実を持ち出すまでもなく、それらの国々は皆、中国と何らかの形での係争事案を抱えています。従って「敵の敵は友人」的なスタンスで日本に対している部分もある、とも考えられます。従って我々は、彼らの好意は好意としてありがたく受け留めつつ、その好意に甘え過ぎて、日本がかつてそれらの国々にも迷惑をかけたことがある、という歴史事実を決して忘れることがないよう自戒する必要もあるのではないでしょうか。

ベルルスコーニに引導を渡した男



イタリア最高裁で脱税の有罪確定判決を言い渡されたベルルスコーニ元首相は、国会で上院議員資格剥奪審議にかけられ、それはほぼ確実に採択されて彼は上院議員の地位から転がり落ちると見られている。

 彼にとってそれは耐え難い屈辱であるばかりではなく、ほぼ20年に渡って行使してきた巨大な政治的影響力の終焉を意味し、少女買春容疑に始まる多くの裁判案件や自身のビジネス王国の活動にもネガティブに作用することが確実な出来事である。

 そこで、保身と私利私欲に狂った元首相は、自らが党首を務めるPDL(自由国民)党を介して、彼の上院議員追放決議で政権連立相手の民主党が賛成票を投じないように、と同党のレッタ首相に激しい揺さぶりをかけ続けてきた。そしてついにPDLの5閣僚を辞任させて連立政権を崩壊させようと試みた。

 ヌスットタケダケシイ、と形容されても仕方のない信じがたい行動である。イタリアファンである僕は、彼の一連の動きが功を奏して、元首相がゾンビのように復活復権することを危惧していた。もしそうなれば、イタリア共和国の民度がひどく低いという証明になる、とさえ本気で考えていた。

 だが幸いその暴挙に対しては、PDL内部から造反者が出た。それも想像以上に多くの反乱者が。

 思い上がりを厳しく突かれたベルルスコーニ元首相は、あわてて暴論を撤回し、あまつさえレッタ首相支持を言明した。そうやって彼の権威は今度こそ確実に失墜し、PDLは分裂の危機に陥った。彼の議員資格剥奪決議への動きも加速を始めた。

 PDLは言うまでもなく、イタリア保守派全体の専制君主、と形容しても過言ではないベルルスコーニ氏の狼藉に真っ向から立ちはだかったのは、レッタ政権の副首相兼内務大臣であるアンジェリーノ・アルファーノPDL幹事長である。

 42歳のアルファーノ氏は早くからベルルスコーニ氏の後継者と目されてきた。第三次ベルルスコーニ内閣ではイタリア憲政史上最年少の37歳で法務大臣に就任。今年成立した民主党のレッタ政権では副首相兼内相という重要ポストに就いた。

 ベルルスコーニ氏は、自身より35歳若い彼を息子同様の存在と公言して可愛がり、取り立てた。同時に元首相はアルファーニ氏を「優秀だがリーダーとしては何かが足りない」と軽侮したりもしている。それでもアルファーニ氏はベルルスコーニ元首相への忠誠を変えず、反対勢力からは彼の腰ぎんちゃくだと揶揄されたりもした。

 そのアルファーニ氏が今回の政変ではレッタ内閣を支持する、と言明してボスの元首相に敢然と立ち向かい、それを機にPDL内の不満分子が結束してベルルスコーニ党首に反旗を翻した。元首相は形勢が圧倒的に不利であることを察して、さっさと主張を曲げて自身もレッタ内閣を支持する、と表明。彼の完璧な敗北が明るみになった。

 男を挙げたアルファーノPDL幹事長は、イタリア歴代首相の中で3番目に若いレッタ首相よりもさらに年下に当たる。将来は確実にイタリア政界を背負って立つ器と見られている38歳のレンツィ・フィレンツェ市長と共に、一気にレッタ後の首相候補とさえ目される存在になった。

 イタリアの政治改革は喫緊の重要課題である。元首相を筆頭に老人がのさばっているこの国の政界では、改革は思うように進まず、それが恒常的な政治不安の温床の一つになっている。30~40歳代の若い政治家の台頭は、膠着したイタリア政界に確実に風穴を開ける、と期待したい。

 アルファーノ氏はシチリア島出身。そのため悪意ある北部イタリア人からは「マフィア」、と陳腐な陰口を叩かれたりもする。だが実はそれには根拠もある。

 1996年、彼は地元シチリア島でマフィアの家族の結婚式に出席したとして、ローマの新聞に糾弾された。彼はそれを否定し、後にはそれがマフィア一家の結婚式だとは知らずに出席した、と弁明。一度否定した事実やその後の苦しい言い訳が祟って、特に北部イタリア人からは色眼鏡で見られることが多くなった。

 僕自身も彼にはあまり好感を持ってこなかった。だがそれは、イタリア北部人がシチリア人に持つ「シチリア人は皆マフィア」的な偏見に影響されたからではない。

 シチリア人=マフィアという偏見は、イタリア人のみならず世界中の多くの人々の心中にも宿っていると考えられるが、それは言わば「シチリア島にはマフィアは存在しない」と主張することと同程度の荒唐無稽な思い込みである。シチリア島にはマフィアの悪が確実に存在する。そしてシチリア島の住民はそのマフィアの最も大きな被害者であり、誰よりも強くその根絶を願っている人々なのである。

 僕がアルファーノ氏をほとんど疑惑にも近い思いを抱いて見てきたのは、彼がベルルスコーニ氏のタイコ持ち的存在である事実に全く好感が持てなかったからである。特に近年は、ベルルスコーニ内閣の重要ポストや党の幹事長などの地位を利して、ボスのデタラメな行跡を庇うようにも見えて、彼の政治家としての存在に疑義の念を抱くことが多かった。

 今回のアルファーノ氏の毅然とした態度で僕の見方は180度変わった。国家の危機を逆手に取って、自らの権益を守ろうとした元首相の陋劣な動きに、はっきりとノーを突きつけて危機を回避した。すばらしいことだった。

 アルファーノ氏の動きは「恩を仇で返す」ようなもので受け入れ難い、という見方もきっとあるだろう。シチリア島人らしく古風かつ律儀な面を持つアルファーノ氏にも、恐らく葛藤があったに違いない。事実彼は元首相に反旗を翻す際「私は常にあなたと行動を共にします。しかし、あなたの今の過激な考えには賛成できない」と諌めてからレッタ首相を支持する、と公言した。恩は恩、邪は邪と明確に弁別したのである。そこに、清濁併せ呑む度量を持つ政治家の資質を垣間見るのは僕だけだろうか。

 僕は彼の若さと、シチリア人としての律儀な哲学や、モラルや、節操に大いに期待したい気分になっている。彼が今後イタリア政界でさらに活躍を続けていけば、それはきっと一部のイタリア人が執拗に抱き続ける「シチリア人=マフィア」、という不当な先入観を打ち負かす一助にもなるだろうから。

 

 


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