極右を斬り、極左を撃つ

炎上はのぞむところだ。けれど、オ~イ沖縄!マジ今のままでいいんか~いイイイ!?



辺野古・広大な埋め立て区域600
辺野古埋め立て予定地域


僕は個人的には沖縄の独立を支持しない。だが米軍基地問題にからんで怒っている沖縄が、その解決のために独立に向けて立ち上がるなら、僕はそれを否定しない。否定しないどころか、もしも必要ならば、僕はここイタリアを引き払ってでも、故郷の島に移り住み闘いに参加しようと思う。それが僕の噓偽りのない気持ちである。

自分の真意を秘匿して書いた「中露北朝鮮お友達&独立沖縄論」は、僕のブログ上では何も問題はなかったが(無視されただけ?)、新聞に転載されたとたんにネトウヨ・バナナ勢力からのバッシングに遭ったらしい。同時に新聞記事のWEB版には多くの賛同「いいね」もまた寄せられているという。

先のエントリーに書いた通り、新聞は僕の真意を知りつつ記事を掲載した。従って彼らも独立沖縄には反対なのだろうと僕は推察している。もっとも記事タイトルの「“独立沖縄” 論が起きてもいい」を、敢えて「“沖縄独立” 論が起きてもいい」と書き直した編集担当記者の真意は、また別にあるのかもしれないけれど。

掲載紙は、地方紙らしく地元の民意に寄り添う報道を続けているガッツのあるメディアだ。中央権力に媚びて地元を無視する地方紙などクソの役にも立たない。新聞は「普通に」反権力の、地元を深く愛することで結局日本国も愛しているリベラル紙だ。だからバナナのネトウヨ・ヘイト系人種からは、反日・国賊・売国奴などと罵られるわけだ。

新聞はバナナ人種らからのバッシングを大いに浴びるべし、と僕は普段から応援している。それというのも弱体な地方紙が生き延びるためには、全国的な注目を浴びる必要があるからだ。彼らは反権力の報道姿勢を保つことで、権力寄りのネトウヨ・バナナ勢力から攻撃を受けて注目度が上がる。地方紙にとっては願ってもないことだ。

新聞を罵倒しているのは、何度でも言うが、世界から目をそむけたまま日本という狭い家に閉じこもって壁に向かって怨嗟を叫ぶ、偏狭な排外国粋主義者のバナナつまり『引きこもりの暴力愛好家』らである。彼らが叩く相手は相も変わらず中露韓北朝鮮。そこに地方紙を含むリベラル系のメディアが加えられる。

中露北朝鮮はそれぞれ一党独裁、変形独裁、純粋独裁の、従って反民主主義のゴロツキ国家である。そこには自由もなく言論は抑圧され国家が人民を監視する恐怖政治が堂々と行われている。彼らと手を組めば、弱体な沖縄はたちまち飲み込まれて、中国におけるチベット化する可能性がある。

そうなったら沖縄には今のような自由もなく、民主主義は夢のまた夢、言論の自由に至っては影も形もなくなる、という事態が考えられる。嫌中韓露北朝鮮また反沖縄のバナナ勢力を含む、全国の懐疑主義者が真っ先に指摘するのもそこのところだ。

また沖縄地元の知識人やオピニオンリ-ダーなども、国内では抑圧されながらも民主主義と言論の自由がある、中露北朝鮮と手を結べばたちまち独裁権力の圧政にさらされる、として言下に彼らとの提携を否定し拒否する者が多い。僕はもちろん彼らの不信と不安がよく理解できる。

だが、沖縄が置かれている状況は、ゴロツキ国家が人民に与える不都合にも匹敵する無残な現実のように見えないこともない。民意は徹底的に無視され、構造的な差別が横行し、ネトウヨ・ヘイト系差別主義者らの攻撃に恒常的にさらされている。民主主義国家日本の一県でありながら、中露北朝鮮体制下の社会の一員でもあるかのような差別を受けているのだ。

ならば、危険と苦難を覚悟で、日本を捨てて彼らと手を結ぶ可能性を沖縄の為政者は検討してみてもいいのではないか。少なくともそういう生き方もある、と中央権力機構にたて突きあわてさせるぐらいのガッツまた覚悟を持ってもいいのではないか、という僕の提案を含むさまざまな意見を満遍なく報道しているのがその地方紙である。

そうした報道姿勢と、民意を無視して辺野古新基地の建設を強行する施策に代表される、安倍政権への強い反発表明などが恨まれて、同紙は排外国粋主義者のバナナ・ネトウヨ勢力からの激しい攻撃を受けるのだ。偏向視点に凝り固まったバナナの目には、リベラル姿勢の新聞の報道は全て「偏向報道」に見えるのである。彼らは自らのその偏向に気づかない。だからいつまで経ってもネトウヨ・バナナのままなのだけれど。



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炎上はのぞむところだ。が、



バナナ持つサル着ぐるみ



ここに書いた記事の主旨が新聞に転載されたところ炎上したという知らせがあった。炎上とは見方を変えれば、記事が注目されたということだから望むところだ。炎上が怖くてはブログ記事など書いていられない。

ところが今回の炎上は、僕自身への非難というよりも記事を掲載した新聞への非難、という様相が強いということなので少し状況が違う。自分への攻撃なら無視するところだが、僕が原因の攻撃を他者が受けた、ということだから無視していられなくなった。

まずはっきりしておくが、僕は沖縄の独立には反対である。反対どころかそんな主張は笑止だとさえ考えている。また、中国、ロシア、北朝鮮は、それぞれ一党独裁、変形独裁、独裁そのものの、不自由で野蛮で人権無視の怖いゴロツキ国家だと思っている。

それならば、なぜ僕が沖縄独立の可能性を探り、且つそれらのゴロツキ国家を味方につけるべし、などと書いたのかというと、そのような屈辱的で苦しい手段まで編み出して突破口を探らない限り、安倍政権のひたすらの沖縄軽視、いや沖縄蔑視の施策が止むことはないと考えるからだ。

記事に書いた通り沖縄の選挙で米軍基地の辺野古移設ノーの民意が繰り返し出ても、さらに県民投票が同じ結果でも、安倍政権は態度を変えない。変えないどころか、民意をあざ笑うように基地用地作成のために土砂を海に投入する蛮行をくり返している。

それに対抗して沖縄県は何をするのかといえば、政権を糾弾する県民総決起大会の開催、というナントカの一つ覚えのような愚策を繰り出すばかりだ。いやそれ自体は重要なものだ。が、同じやり方を反復し続けることで、残念ながら効果がなくなり愚策と似た結果になる。

同じことの繰り返しでは中央権力は動かない。沖縄は彼らを驚かせ、あわてさせるぐらいの策を打たなければ何も変わらない、という思いからの提案が、僕の沖縄独立模索、中露北朝鮮お友達案だ。

荒唐無稽且つ売国的行為にさえ見えかねないそうした主張をすれば、国民の多くは怒って「勝手に独立しやがれ」と沖縄を突き放す可能性もある。その危険を見越した上で僕はあえて記事を書いた。現に僕のコラムが載った新聞に対しては、ネトウヨヘイト系の反沖縄勢力が口角泡を飛ばして反論をしているという。

ましてや沖縄の為政者らが僕の提案と同様の主張をすれば、事態は紛糾して現在は基地問題などで沖縄に親和的な思いを抱いている人々を失望させ、あまつさえ怒らせて沖縄離れ沖縄ヘイトの風潮が、ネトウヨ・ネットワークの殻を破って一般国民の間にも造成されるかもしれない。

だが、政権中枢はどうだろうか?日本とほぼ常に敵対している中露北朝鮮に沖縄が近づくと知れば、あるいは狼狽して態度を変えるかもしれない。沖縄の為政者は、政権を驚愕させるくらいの「何か」を打ち出さなければ、辺野古問題はこのままずるずると進んで、必ず安倍強権政府の思い通りになる、と僕は危惧する。

そこで、繰り返しになるが、辺野古問題の本質とそれへの対応、という意味もこめて中露北朝鮮さえ味方につけての“沖縄の独立”に言及してみた。独立とは、強い経済と軍隊によって得られる自由のことである。僕は沖縄県にそれが可能とは考えないし、たとえ可能でも沖縄の独立などこれっぽちも望まない。

飽くまでも沖縄「基地問題」を解決する糸口の一つとして、また沖縄への構造的差別に対抗するために、もっと具体的に言えば安倍晋三首相と周囲の権力中枢を慌てさせ、考えを変えさせるための作戦、戦略の一つ、として沖縄独立の“カードを切ってみる”手もあるのではないか、と沖縄地元の為政者に提案してみたかったのだ。

そんな重い提案をしながら、自らの沖縄独立論や中露北朝鮮お友達論は「ハッタリ」だと明かしてしまえば、提案の本気度の底が割れてしまう。だから僕は真意は伏せて、「沖縄の独立には反対の立場だが~」と言うだけにとどめて論を展開した。

さらに言えば、記事を載せた当の新聞もそのことは知っていた。なぜなら僕は寄稿するにあたって、コラムの担当者に記事の真の意味を説明しているからだ。僕は「沖縄独立」という言葉のあまりの重さを軽減する意味で、タイトルを「沖縄独立」ではなく『独立沖縄』としてくれとさえ要請した。

コラム担当記者(編集)には僕は正確に次のように言った:

「タイトルの“独立沖縄論が起きてもいい”に少しこだわりました。普通なら「沖縄独立」と言うべきだと思いますが、あえて「独立沖縄」としました。沖縄独立と言えば文字通り沖縄が政治的現実的に日本から独立する、という意味ですが「独立沖縄」とした場合には、思想的なまたは形而上学的な独立、あるいは精神的な自立、といったニュアンスがこもるように思います。私は沖縄の日本からの独立には真っ向から反対ですが、島の心情的な自立や独立には大いに賛成です。その意味合いをこめています。同時に沖縄の為政者は「沖縄の独立」というカードを辺野古問題打破に使うぐらいの肝を持つべきではないか、とも考えています」


だが担当者は、僕のその要請を無視して“独立沖縄”ではなく「“沖縄独立”論が起きてもいい」と敢えてタイトルを書き換えて記事を掲載した。編集担当の記者が、外部からの投稿記事を改善したつもりで、あるいは改善した振りで書き手の意思を無視し、自らの趣味や主張に合う表現に変えるのはよくあることだ。

古典的な新聞記者のいわば思い上がりに近い態度は、ネットが力を持った昨今も変わらない。多くの場合彼らは新聞に代表される紙媒体の失墜に気づかず、たとえ気づいてもそれを過小評価して、不都合な真実から目を逸らしていたい心理に強く捉えられていたりもする。

閑話休題

記事に対する批判が僕に向けられたものなら、僕は十中八九無視するか、記事の内容をそのまま前面に押し出して反論する。だが今回は批判の主な矛先が新聞社に向けられているとのことなので、内情を説明して庇いたいと考えた。違和感を抱かせる記者も少なくない新聞ではあるが、彼らが理不尽な批判にさらされても構わない、とは僕は考えない。

僕はブログ記事には、中露北朝鮮に加えてアメリカも沖縄の独立の後押しをする可能性がある、と示唆した。だがそれを新聞コラムに転載する際には、紙面の厳しい字数制限があるのでその部分は削除した。その事実も結果として、あたかも中露北朝鮮のみが沖縄の味方になる、というコンセプトを強調する形になった。

新聞を攻撃しているというネトウヨヘイト系のエセ愛国者らは、彼ら自身も黄色人種であることを忘れて、トランプ大統領に代表される「白人至上主義」者らとオトモダチのつもりでバナナ人間、つまり表が黄色で中身が白い滑稽な「白人」になってしまっている者がほとんどだ。

彼ら「黄色い白人」はまた、自らがアジア人であることも完全に失念して、中韓北朝鮮に代表される「アジアの国々と国民」への蔑視またヘイト感情に凝り固まり、何かというとこめかみに青筋を立てて隣国の人々を罵倒する。

アジアの3国にロシアを加えた国々には先にも述べたように、確かに問題が多い。だがネトウヨヘイト系の「反日」人種が蔑視しているのは、その国々の体制ではなく、国民だ。特に中韓北朝鮮の人々へのいわれのない優越感は、見ているこちらが「穴があれば入りたい」と感じるほどに恥ずかしく醜い。

僕は自らを「国際派の愛国者」と規定し、そう主張もしている者だ。その立場から見ると、ネトウヨヘイト系・排外差別主義者の国民や政治家また知識人などは、彼らが他者を攻撃するときに良く使う「反日」勢力そのものだ。

なぜなら彼らはアジア人でありながら白人目線でアジア人を見、そこから来る驕りでアジアと世界に迷惑をかけた過去も忘れて歴史を修正し無視しようと躍起になる。その態度は中韓北朝鮮はいうまでもなく世界の良識ある国々の反発も招く。そうやって日本国を貶めている彼らこそ「反日」勢力に他ならない。

そんな反日のバナナらが、主として中韓北朝鮮への蔑視感情とロシアへの反感から繰り出す罵詈雑言は、あまりにも陳腐で醜悪なために取り合うことさえ愚かしい。だが冒頭で述べたように僕の記事が原因で新聞が叩かれている、と知ったので自分の真意また見解をこうして披瀝しておくことにした。



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極右のロザリオ~黒い祈り



exorcistt salv 600


イタリアのポピュリズム(大衆迎合主義)政権の一翼を担う極右政党「同盟」は先月(5月26日投開票)行われた欧州議会選挙で予想通り躍進した

同党の党首で副首相のサルヴィーニ氏は、選挙運動中にロザリオをかざして演説を行なうなどしてローマ教皇の怒りを買った。

ロザリオはカトリック教会で聖母マリアへの祈りを唱える時に使う、小さな十字架がついたネックレスのような数珠。

サルヴィーニ氏は、連立政権内で特に難民・移民の排斥を主体にした人種差別的政策を推し進めてローマ教皇と対立している。

イエス・キリストを持ち出すまでもなく、ロザリオに象徴される聖母マリアが貧しい難民・移民を放逐したり、人種差別的な行為を容認するわけがない。

だから教皇を頂点とするバチカンは、聖母マリアの教えと相対するサルヴィーニ氏がロザリオをかざして選挙運動をしたことに不快感をあらわにしたのである。

イタリアは国民の約70%がカトリック教徒とされるが、印象としてはほぼ100%が同教の信者、というのが住んでみての実感だ。9割以上の国民がカトリック教徒という統計も実際に多い。

そこでサルヴィーニ氏は信仰を よりどころに票獲得を企てたが、逆に信仰のシンボル的存在であるローマ教皇の返り討ちに遭った、というふうである。

日本人にはなじみが薄いローマ教皇をわかりやすく語るために、僕は敢えて沖縄に絡めて、沖縄の読者向けに次のような趣旨の文章を書いたことがある。

《ローマ教皇はカトリック教最高位の聖職者である。宗教的存在としての教皇は世界中に12億人程度いるカトリック教徒の精神的支柱だ。同時に彼は政治的な存在でもある。

政治的存在としてのローマ教皇は、われわれの住むこの世界で最も大きな影響力を持つ権力者の1人だ。

ローマ教皇の存在が、遠い極東の島国日本の、さらに外れに当たる沖縄にも影響を与え得る例を一つだけ挙げてみたい。

2011年、アメリカで起きた同時多発テロ事件は、米軍基地の多い沖縄もテロの標的になる可能性が高い、という風評を呼んで観光業に大打撃を与えた。

あの事件はイスラム過激派による反米闘争の一環として決行されたが、その前にはイスラム教とキリスト教のいがみ合いという何世紀にも渡る対立があり、それは現在でも続いている。

つまりひとことで言えば、もしもキリスト教世界とイスラム教世界が親和的な関係であったならば、イスラム過激派のテロは存在せず沖縄の観光産業が打撃を蒙ることもなかった。

そしてローマ教皇はその気になれば、2大宗教の対立に終止符を打つことも、このままま継続させることもできるほどの力を持つ大きな存在なのである。》


“風が吹けば桶屋が儲かる”的な論法に聞こえるかもしれない。が、ローマ教皇はあらゆる国や地域が密接に結びついて狭くなった世界で、一大勢力を持つカトリック教会のトップなのだ。

カトリック教最高位の聖職者たるローマ教皇は非世襲の終身職。コンクラーヴェと呼ばれる枢機卿団の構成員たちの互選投票で選ばれる。

そうしたことからローマ教皇を敢えて日本に例えて言うならば、万世一系の天皇ではなく、一大限りの天皇あるいは選挙で選出される天皇、と形容することもできる。

同盟のサルヴィーニ党首は、国民の圧倒的多数を占めるカトリック教徒に向けて「ロザリオと共に進もう!」と叫ぶことで、あるいはローマ教皇に挑もうと考えているのかもしれない。

極右系の政治家にありがちな彼の思い上がったやり方は、日本の安倍晋三首相が平成の天皇に逆らい、さらに即位したばかりの新天皇を篭絡しようとして躍起になっている、とされる姿にも重なるようだ。

僕は政治家のそうした動きには少しも驚かない。彼らはそうすることで自らの政治目標を達成しようとする。そして政治目標の達成こそが政治家にとっての正義だ。僕はサルヴィーニさんも安倍さんも支持しないが、彼らの飽くなき野心には感心するばかりである。


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