ぶじゃねん通信-イタリア・ピエモンテから-

イタリアピエモンテ州の山村で暮らしながら、イタリアの食のポータルサイト「Il Golosario(イル・ゴロザリオ)」への寄稿コラムの日本語版やイタリアの暮らす中での悲喜こもごもをつづります。

(原題 Nutrire il Cuore : una storia zen)
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/nutrire-il-cuore-una-storia-zen-motoko-iwasaki

4


 午前3時半にあわせた目覚ましが鳴るずっと前に床を離れ、布団を片付けていると僧が小鐘を鳴らしながら伽藍のどこかを足早に駆けて行くのが遠くで聞こえていた。

 ここは京都の北、100kmあまりの山深くにある大本山永平寺。1244年に道元禅師によって開かれた曹洞宗で坐禅修行の根源となる道場11月の終わり、境内のあちらこちらの木々で例年より半月遅れの紅葉が盛りを迎えていた。一晩の参籠をした翌朝、渡り階段に出ると未だ真っ暗な境内を包む冷気が私の足元にもまとわりついてきた。この本山の麓にある小さな村で私は生まれ育った。伽藍を形作る檜の滑らからな木肌から放たれる気高き森の香りに気が引き締まる思いと同時に深い懐かしさを感じる。

 迷路のように無限に続く階段を上り詰めた法堂で朝の勤行『朝課』が始まった。『聖観世音菩薩』が安置された中央から左右両翼に大きく広がる畳の間で、永平寺での修行を志しその門を敲いた若い雲水を中心に百人を優に超える僧侶が一同に会し唱える経は、低音で幾重にも折りたたまれ、後方で見守る私たちの背筋を震えさせその大建築の万丈に立ち上っていく。

読経が営まれる間に行われる額を床に擦り付けるまでの深い礼拝、僧侶たちに順に手渡されていく経典、それを開いてから再び閉じるまでの無数の作法を若い雲水たちが一寸の無駄もない動きで間違いなく執り行っていく。そこには慣れなど微塵も認められない。

僧の一人ひとりが集中力を欠かさない事で一つの壮大な儀式が完成し、そこに始めて宿る精神性を見た。自分の手足は寒さで少し凍えていたが心に精気を感じる。荘厳だ。外に出ると空が白みかけていた。


 その数日前、この永平寺の典座(一切の料理を取り仕切る台所の長)の指導の下に用意された膳に向う幸運に恵まれた。人参の煮物一枚を箸に取り口に含む。繊細な面取りのされた一切れは、滑らかに煮あがっていてするりと口に滑り込む。

この野菜独特の甘みやえぐみの中から人の手で加えられた砂糖のほんのりした甘さ、醤油の塩気が広がり、噛む毎に求めていたものを満たすように体が吸収していく。茄子はそのほろ苦さが敢えて強く引き出され、白米も余分な水分が残らない絶妙の炊き加減。

いつの間にかごく単純な方法で料理されたはずの料理の前に座って一品一品の本質と対峙させられていた。
私の正面に座って神妙に正座し同じものを口にしていた夫のクラウディオがゆっくり顔を上げて言った。
 「ここに用意されたものには、たまたまこの味になったというものが一つも無い!」
あの人参の一切れは、今この法堂で一挙手一投足に集中する雲水らの勤行と全く同じだった。

 永平寺の開祖、道元禅師は24歳で真の仏法を求めて中国に渡った。それまで人を導くには仏祖の語録や先人の教えを深く学ぶことが必要と信じていた。
ところが中国の高僧らは彼に借りものの言葉で果たして人を導けるのかと逃げ隠れの許されない単純な言葉を用いて明確に問い、彼の考えを根底から覆す。

正にその一番目が、中国への上陸許可を待つ船上でのある老典座との出会いだった。明日は自分が料理を作らねばならないからと道元の招きを断る老典座。

『老僧ならば食事の世話などせずに坐禅や経典を読むほうがいいのではないか』という道元禅師に典座は大声で笑い『貴方は修行の何たるかも本当の文字の意味もわかっていない』といった。
道元は、仏法を求める心が真に強かったからこそこの典座のシンプルな言葉の裏にある厳格な問いを見逃さず謙虚に汲み取った。

長年にわたる中国での修行の中で『典座の修行も坐禅や経典と同じくらい尊い。仏道修行はそうした現実生活の営みの中にある』と気づき、後年『典座教訓』をはじめとする書物で『食』についての作法や心構えを示した。


 雲水らの日頃の食事は私たちが口にできたような多彩なものではなく、玄米のお粥、沢庵や梅干などの常備野菜のほかに一菜というきわめて質素なものだが、いずれを用意するときも一切手は抜かない。永平寺の日課が午前
3時半に始まるなら典座寮の料理担当の起床は1時半。朝の勤行後の食事を用意するところから三好良久典座老師が直接手を下し確認が始まる。
 典座老師にお話を伺う約束になっていた私たちを案内してくださった伝道部の秋田修孝講師が言う。
「私たちにとって典座老師は典座教訓そのものなのです。」
 永平寺の台所『大庫院』の奥から白い割烹着姿で小さな三好典座老師が小走りに現れた。どこか落ち着いた場所で話しましょうと場所を探しているうちに庫院の入り口で厨房で立ち働く雲水らを横目に立ち話を始まってしまった。

 「若い者はね、最初は良いところを見せようと無駄な工夫をするもんです。1時間でたとえ100種の料理を作ることができてもそれはどれも美味しくない。ところがあるべき料理法で1時間コトコト煮たらその一品が美味しい。その美味さが理解できたときに初めて彼らに料理への愛情が生まれ、一心不乱に一つの作業に集中できるようになる。私も昔は言われました『説明が必要なものを作るのではあかん』と。」

 クラウディオが一流の料理人の料理と永平寺の精進料理の違いは何かと尋ねる。
 「料理人はある一品を作るために必要な素材を集め趣向を凝らし料理します。雲水は、ともすれば同じ野菜を毎日食べ続けることがある。ですから飽きが来ないように季節感だけでなく今日は風が強い、湿度があるといった日々の細かな変化すらも嗅ぎ分けて工夫をして料理する。そして今ここで料理できる幸せ、食べる人の笑顔を願って料理する。これを「喜心」といいます。
 それでね、私らが料理するものを食べることで他の修行僧らが安心を得て坐禅や他の修行に打ち込めるようにしてあげる。明日も頑張ろうと思ってもらう。つまり母親が子供に料理を作るときと同じやね。」
 はっとした。小学校の頃から見よう見真似で包丁を握ってきた私だが、人の喜ぶ顔が見たいと思ってもそんな思いに至ったことが無かった。典座老師が私たちにわかり易い言葉で伝えてくれたこの心を『老心』という。
 「そして最後に『大心』、大山のごとく大海のごとく偏りのない広い心で奢らず手を抜かない不動の心。この三つの心で料理されたものが精進料理なのです。確かに私たちは動物性たんぱく質や香りの強い食材は使いません。が、何よりも大切なのは、まず食材の命、そして作る人の命、最後に食べる人の命を重んじるということなんです。」こうして作られた料理を食べる者は、それまでの労に感謝し、その食事で命をつないでいることを確認し、仏道を成し人々の救済を願う。

 三好典座老師はさらりと言った。
「私らにとってね、料理とするというのはコミュニケーションなんですわ。」

 あの一切れの人参、一杯の白飯に自然に私たちが向き合わされたのも当然だったと言わねばならない。ちょうどクリスマスを迎える時期に私の生まれ故郷にある永平寺の典座老師へのインタビューを思いついた時、正直、日本に置き去りしにしてきてしまった過去と自分をつなぎたいという個人的な願いもあった。
だが、あの大庫院の入り口に立って良く知っていたはずの永平寺の伽藍で日夜実践される道元の教えとその厳しい修行に長年打ち込んだからこそ得られる典座老師の大きな人間性に改めて触れたとき、その奥に壮大に広がる精神世界を垣間見て足がすくんだ。

 クラウディオがいたずらっぽい笑みで最後に典座老師にイタリア語版『典座教訓』に為書きをお願いしますというと『私が書くの?』と驚かれたもののいそいそと別室に消えていった。

『須らく道心を運らし、時に随って改変し、大衆をして受用安楽ならしむべし・大本山永平寺 典座 三好良久』
美しく几帳面に書き連ねた厳しい言葉の文字には老師の大きな慈愛が滲んでいた。

                                                  12月22日『Il Golosario』 掲載


 




久々に投稿いたします。

今年1月に始まったイタリアの食の評論家パオロ・マッソブリオさんとのコラボレーションもそろそろ1年が過ぎようとしています。今回は、この10月に伺った山梨県にあるワイナリー『Beau Paysage』のワイン生産者、岡本英史さんへのインタビューです。気に入っていただけるといいのですが、、、では、どうぞ。



足りないものがあるとするならば (原題 Quello che manca.)』


http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/un-grande-vino-giapponese


 晩秋の陽光が山里のログハウスのガラス戸越しに差し込んで、私たちをなんとなく暖めてくれていた。何日か前、私たちは刺すほどに乾いた冷気の流れる山村に居た。

私たちの住むアルプスの麓ではあまり珍しくない。ただ、その時私たちがいたのは日本のアルプスの麓だった。


「普段何を飲まれれていますか?どんなことに興味が話してみてください?」
それまで彼を質問攻めにしていた私たちに今度は岡本さんが聞いてきた。

BEAU PAYSAGE』のEISHI OKAMOTO、現在、日本のヴィニャイヨーロ(自分でブドウを栽培するワイン生産者)の中でシンボル的な生産者。


 全ては5年前、東京でそれと知られた焼き鳥屋(鶏肉の串焼き専門店)で飲までせてもらった彼のジェルドネに始まる。

クラウディオとの日本旅行の途中で国産ワインをいくつか試したものの心に残るものに出会えないでいたが、彼のシェルドネの奥深さと活力にイタリアやフランスのワインを含めてもそれまで感じたことの全く無い衝撃を覚え、以後ずっと彼に会ってみたいと願ってきた。

が、その瞬間、イタリアへの帰国を12時間後に控えていたからか、山梨の谷間にあるその静かな空間で彼と向き合っていることが不思議に思えてならなかった。


 クラウディオが、僕たちは様々なワインを飲むが特に食事とワインの組み合わせを楽しむのが好きだと答えると、シャルドネを既に知っているようだからとピノ・ブランの栓を切ってくれた。

グラスに注がれる深い黄金色を見て長期に醸されているのが見て取れる。ところが、個性的で力強い味わいを想像しながら口に含み、その柔らかさとエレガンスに驚嘆した。

『こんなワイン飲んだことない!』というと、彼に私たちを引き合わせる労をとってくれた近しい友人が楽しそうに言った。


「岡本さんのワインを飲むと多くの人が一様に『この品種のこんなワイン飲んだことがない』といいます。それぞれの品種のもつ特徴についての概念が覆されるでしょう?」


醸しはこのワインの特徴のほんの一部として味の中にバランスを持って存在し、ともするとこのタイプのワインにありがちな濁りも一切無い。フルーティーさ、穏やかさの中にみなぎる活力がある。このワインには命が宿っていると強く感じた。


彼自身も確認するかのようにゆっくりと岡本さんが口を開く、
「白ワインはそのほとんどが果汁のみで表現する製法を用いていますが、それは歴史的には浅く、本来は白ワインも果皮も種も含めた果実全体で表現をするべきものなんです。」
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->
<!--[endif]-->

 岡本英史さん45歳。20年前、大学の農学部で生物学の研究をしていたころ、アルバイト先のイタリアン・レストランでワインに魅了された。

まだあまり知名度のない日本産ワインを東京で売ることを仕事にしたいと、時間を見つけては日本のワイン産地として有名なこの山梨に同僚たちと出かけて来て生産者を訪ねるようになった。

だが、そこで彼が目にしたものは当たり前に思っていたフランスやイタリアでのワインに対するのとは『全く違った事が行われている』という現実だったと言う。

彼のこの表現に、当時の日本人の知らぬが故の安易なワイン作りとその事への彼の落胆振りが想像できた。

(例えば日本では未だ補糖が許されている。)そこではワインは『単なる飲み物』でしかなかった。だったら自分で作るしかない。

 


 岡本さんは99年から山梨県でブドウ栽培を始めているが、選んだ場所は勝沼のようなワイン生産で知られた地域ではなく『Beau Paysage』の名にふさわしい谷間に棚田の広がる津金だった。

現在、2haほどの畑でシャルドネ、ピノ・ブラン、ピノ・グリーそしてソヴィニョン・ブランの4種の白ブドウ品種とメルロ、ピノ・ノワール、カベルネ・ソヴィニョン、カベルネ・フランと同じく4種の赤ブドウ品種を栽培。

年平均で12000から15000本程度のワインを生産しているが、土地を購入したときには「ここではブドウは育ちませんよ」と言われたそうだ。

畑では不耕起、不施肥、醸造は自然発酵で、亜硫酸は『ワインを殺してしまい真のテロワール表現できなくなる』と一切添加していない。

Beau Paysage』のワインを世に知らしめたのは日本では栽培が困難とされてきたピノ・ノワールだった。

2002年の初収穫であまりに収量が少なくメルロに混ぜるしかないといわれ、ならばと全て手作業で醸造を行ったした。そうして作られたピノ・ノワールの温かみと柔らかさに彼自身も驚き、その後、赤ワインの醸造は全てこの方法で行っている。

彼のピノ・ノワールはそのルビー色の中に奥ゆかしくもエレガントな居住まいを保ち、飲む人の心を揺り動かし、彼の実力をはっきりと認識させてくれる。

だが、この土地に適した品種をまだ探している試験段階でしかないという。彼の後、100年後ぐらいに誰かが本当に適した品種が見つけてくれればそれでも良いくらいに思っていると笑った。実際、今年に入ってネッビオーロも植えている。


「大切なのはぶどうです。ぶどうはその土地をそのまま写し取ったものでなくてはならない。ワインを飲むということはその土地の自然と触れ合うことであり、意識的、無意識的に人も自然の一部であることを確認する行為と考えます。」



 岡本さんが語る声は細く気をつけて耳を傾けないと聞き逃してしまいそうなくらいだが、その言葉には自分の『もの作り』への明確な認識が感じられるだけでなく、朗らかさがある。

どことなく土の中から這い出してきたコオロギか何かの昆虫に地面の下の世界を語ってもらっているような楽しさがある。
 

 彼はイタリアに来たことがない。20年以上前にフランスを旅したことがあるきりだ。ヨーロッパの生産者との交流はあっても僅か。

なのに彼が自然に身につけたワイン生産へのアプローチは、リーノ・マーガ、テオバルド・カッペッラーノ、ジュゼッペ・リナルディやサルヴォ・フォーティといった私たちの良く知るイタリアの偉大なワインの造り手たちのそれと同じなのだ。

土とブドウに真摯に向き合おうとする人が出す答えは共通して不必要なものをどんどん取り捨てつつ自然に沿うしかないということか!?この疑問に岡本さんは迷うことなくこう答えた。


「実は私には師と呼ぶべき麻井先生という人がいたのですが2002年に亡くなりました。彼が僕に残してくれた言葉があります。

『日本のワイン作り足りないものは気候でもなく、技術や知識でもない。足りないのは思想です。自分の心の教科書を破りなさい。そして、自分の頭で考えなさい。』」


 島国日本は、太古から稲作や仏教に始まる新たな外の文化に触れる度に無垢な心で驚愕し自国の文化に調和をもって取り入れてきた。

だが、グローバル化が人の手を離れたところで加速する一方の現代、私は海外に暮らす日本人として、海外からの新しさを礼賛するあまり日本のこれまでの伝統文化が廃れるのではないかという複雑な思いをずっと募らせてきた。

今回、岡本さんに会ってみて日本の伝統や農業が抱える問題は、この千年来の国民性にあるのではなく、もっと別のところにあるのだと思い知らされた。
<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->

<!--[endif]-->

 「今、ボトリング作業をしているのですが、最後に見て行かれますか?」
小さいが塵一つ無い作業場に入ると2リットル入りのひしゃくで青年がワインをタンクからゆっくりゆっくり桶に移していた。

岡本さんは亜硫酸を添加したくないがためにワインへの空気による衝撃を最小限にしようとポンプを使わない。

チューブからボトル内に落ちるワインの雫は壁面を伝って静かに納まっていく。一滴もこぼさぬようボトル交換のタイミングを無言で待つスタッフ。

これだけは日本人にしか考え出せない究極の作業方法だ。彼は除梗も全て手で行っている。彼がやろうとしているのはまるで泉に沸きだす水を両手に掬い取るがことく、ぶどうを介し、まるごとの自然を私たちの口元に運んで来て流し込んでくれるようなものだ。


 別れ際、「今度はこの辺りに泊まったら良い、もっと色々話ができるから」と彼が微笑んだ。イタリアと日本はまだまだ話し合うべきことが山ほどある。


 12月9日 www.ilgolosario.it 掲載


<!--[if !supportLineBreakNewLine]-->
<!--[endif]-->

 5月24日日曜日     、ミラノ博日本館で行われた山口県のイベントに参加して来ました。色々なご縁で山口の皆さんがミラノにお出でになる前から動きを追わせて頂いていたので気持ち的にも共にに歩いた気になっていた私。そんなことからイタリア人のこの素敵な取り組みを良く知って欲しいと思い『イル・ゴロザリオ』の記事にも取り上げさせていただきました。

 ご参考までにタイトルの『ザ・グレート・ビューティー』とは私の大好きなイタリアの映画監督パオロ・ソッレンティーノが昨年アカデミー外国語映画賞を受賞した作品の英語名のタイトル。(イタリア語は『La Grande Bellezza』)現代のイタリアの混沌としてカラフルかつ退廃的な部分を皮肉たっぷりに鮮やかに切り取った映画です。

では、いつものように日本語訳で紹介させていただきます。


The Great Beauty
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/great-beauty

 

『味の良さに加えて見た目の美しさ、この2つで日本語でいうOMOTENASHIをする、つまり人をもてなす、これが日本料理の原点であると私は信じとります!』
ともすればキッチンに隠れてしまいそうなほど小さな体からふり絞るように日本料理人は観客に向かって訴えるとフグの身に包丁をいれた。

 ヨーロッパで初めて猛毒を持つ魚フグを食べさせてもらえるという半ば興味本位で詰めかけたイタリア人を前にしても、数十年をかけて磨かれた腕を持つ料理人の眼差しはびくともしない。食感を楽しむために透けるほど薄く切られたふぐの刺身を、観客らの死の危険を冒して食するドキドキとは全く無関係のところで、鶴や菊の形に美しくお皿に盛っていく、その妙技にはその『おもてなし』の心が込められていた。

 これは524日、ミラノ・エキスポ2015の日本館で企画された山口県のイベントの一コマだ。人口150万人の本州最西端の県が地域の良さをPRすべくミラノに乗り込んできた。


 ちょうどイタリアという国が生まれたのと同じころ、日本でもリソルジメントに似た動きが起こっていた。アメリカのペリー提督から開国を迫られたのを引き金に侍の時代が終わろうとしていた日本で、この山口(当時の長州)はイギリス、オランダ、フランス、アメリカを相手に戦争を起こし、また西洋の威力を思い知ると海外から積極的に知識を得ようと懸命になった。幕府を倒して将軍から権力を天皇に奉還させ、日本に新しい時代を築いた藩の一つでもあった。

山口はそんな利発で勇気あった人たちの末裔の地だ。腰には刀こそ差していないが、いずれも一本の強い芯を持った人たちがミラノにやってきた。そんな誇り高き人たちだからこそ日頃から自分たちが大事にしてきた魚、寿司そして日本酒をイタリアの人たちに差し出すその手にもまなざしにも優しさと穏やかさがこもっていた。

 

『ヨーロッパで山口を紹介するのは今回が初めてです。私たちはこれまで、山口の良さを発信することに発ち遅れていたと思います。私たちの地域は三方を海に囲まれ、様々な自然の特色を持ち、良いものが沢山ある県です。それをもっと知ってもらいたい』42歳と若さあふれる村岡嗣政知事はこう語る。

彼こそ真っ直ぐで、選ぶ言葉も完璧すぎるくらいだが、特産の岩国寿司の話になると『あれは本当は足で踏むんですよ。』と、楽しそうに足で踏む真似をして見せた。その時の笑顔に彼の郷土の料理に対する抵抗し難い愛着をみた。

山口と言えば、私の3月の寄稿で紹介した新谷酒造という小さな蔵元がある。今回、新谷義直さんは来ていないが、実は大切な酒を生産者仲間である岩崎喜一郎さんに託していた。彼が2ヵ月以上も不眠不休で作ったビエッラ産イタリア米による日本酒だ。


 その名も『Il Sake』イタリア米の粒が日本のものの倍ほども大きく倍の時間と労力を要して作らなければならなかったが、4月に絞り、瓶詰されることになり、ならばちょうどエキスポに持って来られると、イタリアと山口を結ぶ食のシンボルとして会場で紹介されることになった。

作った自分が紹介できないもどかしさを感じる新谷さんを見かね、岩崎さんが紹介役をかってでた。岩崎さん自身の作る貴重な酒『長陽福娘』も含め山口の代表的なお酒のボトルが並ぶ中、彼はこの小さなボトルについて紹介する。

実は、このプロジェクトには私も2011年の震災直後から関わっていた。日本酒をイタリアで醸造することから良い日本酒をヨーロッパで普及させようという企画だが、道は今もまだまだ険しい。それでも、ビエッラの有志のおかげもあり、今回の試験醸造の運びとなった。

 口に運ぶと、すっきりした辛口で後味に複雑な深みがあった。イタリア料理にも間違いなく合う。日本で醸されたがテロワールはイタリアだった。その味わいを噛みしめていると山口の人が後ろから私の肩をぽんとたたき『色々な偶然の積み重ねでこうなったけど、ほら、ここにまたストーリーが生まれたね。』と笑って言った。涙が出た。
 
 

現代のイタリア人なら普通にできてしまうことだが、日本人にとって自分の地域や生産物を海外で紹介することは偉業だ。つい最近まで自分たちの日常的な生産物が世界に通用する優れた生産品だとは夢にも思っていなかったこと、そして言葉の問題もあるだろう。

 それが今回、こうしてエキスポ参加という偉業を成し遂げたいと彼らが思ったのはそれがイタリアだったからだ。

 歴史、芸術があり、魅力にあふれ、ダビンチやミケランジェロを生んだ国イタリアだからだ。パオロ・ソッレンティーノが映画『ザ・グレート・ビューティー』で皮肉と苦みをもって描いたような現代のイタリアの全ては理解できなくてもその混沌とした魅力に惹かれ、イタリアに挑んでみたいと夢見てしまう。

 硬い木箱から幾重にも多彩な色を織りなす岩国寿司を取りだす瞬間、フグを口にする瞬間のイタリア人の驚きの顔を想像し胸をときめかせるから老練の料理人も自分の息子ほども年の離れた知事を頼って一緒に飛行機に乗ったし、イタリアと山口をもっと近づけたいと皆が思ったから『
Il Sake』も他の優れた日本酒たちの旅の仲間に加えた。

Expo 2015に開催地に選ばれ、『食』がテーマとなった時から既にイタリアは勝利への切符を手にしていた。経済大国でも、貧しい上に戦渦に巻き込まているような国でも『食』は人の生存の根源に関わる。

 どんな国にも『食』ついて語るべきことがある。日本のように多くの資材を投じ、地方の食の豊かさを訴えようと出かけてくる国もあれば、ボリビアのように、標高の高い彼ら国で命綱のように大事な乾燥芋だけをほそぼそと展示しているところもある。ここは世界の縮図だ。



 イタリアが開催国としての威信をかけて作ったパビリオン・ゼロは人の目を奪う美しさだが、同時に決して土のにおいを忘れていないことに驚いた。山口の人ひとたちも憧れ挑んでみたい相手としてのイタリアの『The Great Beauty』がここに形になって表れていた。

 イタリアではこのエキスポに賛否両論あったことは知っている。

 が、イタリアという国を愛しているなら考えてみてほしい、もしこのエキスポが失敗に終わっていたらイタリアにとってそれは何を意味していたか、そして山口の人たちのように懸命な努力でエキスポに臨んだ人たちや飢えに苦しむ小さな国からかすかな望みをもってやってきた人たちの思いを。

イタリアの食の分野で活躍する人たちが、この本を読んだらどう思うだろう!? 今、イタリアで修業中の日本の若い料理人さんのことももっと知って欲しい! そんなワクワクする気持ちでこの原稿を書き始めました。

読むのと書評を特にイタリア人に向けて書くのは全く違うことですね。イタリア人に子の本について知ってもらいたいことはもっともっとありましたが、最終的に削って削って、いったいこの本の何を知ってもらいたいのか、、、一番苦戦したものになりましたが、とっても楽しい作業となりました。 井川直子氏はじめご協力を頂いた皆さんに感謝しつつ日本語バージョンをこちらに掲載します。 

----------------------------------------------------------------------------------------------------

               『シェフをつづけるということ』

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/fare-lo-chef


   

日本で一冊の本が出版された。-シェフを『つづける』ということ(ミシマ社)-ジャーナリスト 井川直子が2002年からイタリアで修行する日本人料理人達を取材、その後の10年あまりを追ったルポルタージュだ。

今の日本は「イタリア帰り」の料理人が『うじゃうじゃ』いる飽和状態。多くの犠牲を払いイタリアで修行し、成果を挙げて帰国しても料理人としてのポストは確約されていない。『イタリアに修行に来でも人とは違う経験、自分でなければ出来ない料理、つまり自分の『核』となるもの見つからないと彼らは帰れない。』と彼女はいう。
が、その『核』を持ち帰れたからと言って順風満帆の料理人人生が待っているわけではない。

この本の15人の登場人物の一人 堀江純一郎氏は、イタリアで9年間も修行し、最後はアクイテルメにあるレストラン『ピステルナ』のシェフとして日本人初のミシュランの星を獲得した。睡眠時間一日2,3時間、休日も一ヶ月に1、2日という激務を全うして得た大きな勝利だった。だがイタリアで修行中は日本での貯蓄実績が残らないため、堀江氏のような高い実績を持つ料理人でも帰国後に銀行からの融資を受けることは困難で、自分の築きあげた世界を東京で実現するためには出資者を探さねばならず、実に2年の歳月を要し、さらにその2年後、様々な問題でそのレストランを去らなければならなかった。

泊義人氏は、カナーレのレストラン『アッ・レノテカ』でイタリア修行時代を締めくくり帰国。高級レストランの副料理長として迎え入れられたが、料理長と彼に反発する部下達の間で氏自身が『まるでピストルを突きつけられているような』と表現する苦悩の日々を送り、間もなくその店を去った。

また、家族や自身の健康問題で大きな転機に直面する人たちもいた。一体彼らはどうやってその場その場の困難を乗り越えたり大切な選択をしていったのか?次々に登場するシェフ達の難しい岐路にドキドキながらページを繰る。

イタリアにも幾度となく足を運び、彼らが働く厨房を訪ね、井川氏はその場、その時の彼らの生の声を聞いた。本場を体感していた彼ら、そして帰国後の節目節目の彼らの本音を鋭い感性で掴み取り、それを誇張せず、咀嚼せず、最も適当な言葉にして吐き出す。だからこそこの本には読み進むごとに見えてくる人の姿がある。

堀江氏は、東京を離れ京都よりさらに古き都『奈良』の武家屋敷に舞台を移し新たなスタートを切った。アクイテルメの『ピステルナ』は14世紀の建物を改装したものだったこと、イタリアで自分の好きなレストランは大都市の店より小さな町や村の店だったことを思い出したと井川氏にいう。ゲストが小旅行として、奈良を楽しみ、建物と食事を味わい、帰ってからまた思い出す。そういうレストランを作りたい、と。太古の都に最高の食材を集めてきてイタリアンを極める彼のレストラン、その名も『イ・ルンガ』は健全な進化を続けている。

泊氏は北京に渡った。当初務めた日本人のためのレストランで成功はしたものの、それでは『北京で一番の店』と言えないと、活気ある地区で大半が中国人客というレストラン『キッチン・イゴッソ』に移り、トマトをお湯と洗剤で洗い、給仕の仕方も知らなかった中国人スタッフを育て、ボロニェーゼやミラノ風カツレツなどまだイタリアンを紹介するレベルのメニューを要求される中で質の高さを追及する。ビジネス展開つなげるべく新たなステップを踏み始めた。が、この間の困難の中で一度だけ、日本ではなくイタリアに帰りたいと思ったことがあると井川氏に漏らす。イベントで日本を訪れた師ダヴィデ・パルーダと再会した瞬間、ただ料理と向き合えばいいストレスのない生活が眼の前に蘇ったと。

宮根正人氏は、バローロのロカンダ・ネル・ボルゴ・アンティーコでスーシェフを務め上げ帰国し最初から自分はピエモンテで行くと決めていたという。生真面目な性格で、ロンバルディアでは言葉や人間関係で苦労していた彼を愛情を持って育ててくれたオーナーシェフのマッシモ氏との出会いで初めて宮根氏はイタリアで自分の本領を発揮できるようになった。
が、日本での共同経営者は広い客層を得たいと、店の名は宮根氏の願いどおり『オストゥ(ピエモンテーゼでオステリアの意)』でもメニューはイタリア料理全般を求められ苦悩する。そこでクレアティーヴァとピエモンテ料理の二つの軸を用意。中にはフィナツィエラなどディープな料理もメニューに忍ばせた。

4年後、オストゥは宮根氏の単独経営となり、いよいよピエモンテ料理の店となりミシュランで一つ星を獲得するまでになるが『大切なことは続けていくこと。そのためには力を抜くことも大切とイタリアで学んだ』という。彼がスーシェフになった後、その責任感から体を壊したときにマッシモ氏から教わった、と。

井川氏は、この料理人にとって困難な時代にシェフになれた人に共通するのは『つづけた』るという動詞を重きをおいて使っていることという。
さらに、この本を読み終えてみて、彼らが大きな岐路で『つづける』道を選ぶときその多くがイタリアでつかんだ自分の原点に立ち戻っているように思う。料理の技術や経験をはるかに超える大事な何かを。

近年、自分の国に将来を見出せず海外に出て行くイタリアの若者達を多く見かけるが、正直、とても残念だ。どこの国にいっても多かれ少なかれこの本にあるような苦労が待っている。が、つづける術を気質のまったく違う日本人がイタリア人から学べたのなら、イタリアはまだまだ若い世代に伝えられることがあるように思う。

私は宮根氏の東京のお店でアニョロッティ・デル・プリンを食べたことがある。口に入れてはっとした。詰め物になったそれぞれの肉の味が噛み分けられ、それでいてそれらが一つになった味の力を感じさせる。驚きの中で、東京の小さな公園脇のレストランにいた私の目の前にランゲの広大なブドウ畑が広がった。

2015年4月16日掲載


今回は復活祭のころにちょうどできる野草にまつわる個人的なエピソードです。受洗からちょうど一年。色々な思いとこれまえ応援をして下さった周囲のみなさんに感謝の気持ちも込めて書きました。

では 
復活祭の野草摘み
http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/erbe-selvatiche-Pasqua


もう時期が終わってしまっていた。荒くなった息を整えながら落胆のため息が一緒にもれる。『ふきのとう』は花が開いてしまったら毒性が強くなって食べられない。が、地表からにょっきり現れた芽は食べられ、そのほろ苦さをてんぷらに封じ込めて口に入れれば春の訪れをいつもと違う方法で感じられるはずだった。
 

気を取り直して今来た野道を引き返す。人里から少し離れたこの辺りに住む婦人とすれ違う。普段はあまり他人との付き合いを得意としない人だが、すれ違い際に笑って挨拶をしてくれた。

左手に『牛たたき』を握り、右手にはさみの入ったナイロン袋を持つ自分の姿に思い当たって私自身も苦笑した。昨年は長雨や仕事で足を運ぶことの出来なかったこの野道に、すみれ、アネモネ、ひな菊からプリモラまで思いつくだけの花がいっせいに咲きそろっていた。

野道をそれ、急勾配を『牛たたき』にすがってって下る。下りきったところにある牧草地には小川が静かに流れていた。今度はお目当てのクレソンもヴァレリアーナものびのびと茂り、誰もまだ手をつけられずにあった。根を残してはさみで刈り取る。

クレソンの切り口からはピリッと青い香りが広がる。硬くないかという心配からヴァレリアーナを一本手折ってみる。案外柔らかくしなりパリッと簡単に折れ、甘ったるい香りがかすかに鼻に届いた。


私がイタリアに住み出した時、嫁として家族になるかもしれない私に、グイドもエドヴィリアも、日本で何をしていたか、なぜイタリアに来たかなどと一度も聞くことはなかった。慣れない生活や言葉の問題に苦悶する私をみると

『さあ、車にのった!わしらはどこに行くのか知らんがの、車の方がちゃーんとしっとって止まるべきところで止まってくれるんじゃ。』

そういって牧草地につれていってくれた。昨日はタラッサコやアチェトーザ、今日はクレソン、明日はヴァレリアーナといった具合に、3人で毎日、野原を這い蹲って黙々とタラッサコを削ぎ、小川の石にしがみついて黙々とクレソンを刈り取った。家に戻り摘んできた野草をテーブルに広げ、お喋りしながらゴミなどを取っているうちに一日が過ぎていく。



百貨店でイッセイミヤケのシャツを買い、ネットでコンサートを予約、若狭牛を焼くのにちょうどいいワインを探し、雑誌でみたあのアロマオイルを買って試してみる。仕事があり、自分で稼いだお金で自分で選んで物が買える東京での生活はなんと楽しかったことか。

ところがここでは野原に通う一週間、現金を引き出し忘れ、週始めに財布にあった
5千リラ札が気がつくと週の終わりにそのまま残っているのを見て驚いたのは一度や二度ではない。だが、そこに何の不足も感じていなかった。

クレソンもヴァレリアーナもそしてふきのとうも、春の野草の多くはその効能に体に蓄積された老廃物を荒い流す浄化作用がある。が、私の場合、浄化してもらったのは体だけではなかった。東京から背負ってきたものを野原に全部ぶちまけて代わりに私は『土』がもつエネルギーを感じていた。そこからイタリアの生活が始まった。


1週間5千リラというマジカルな生活を今では繰り返せないが、春の最初の満月から数えて次の日曜日、つまり復活祭の日を間近に控えたこの時期には必ず野草が盛りを迎え、暇さえあれば今日のように外に出る。

クレソンとヴァレリアーナに茹で卵を加えたサラダは復活祭のラム・ローストの付け合せには欠かせないが、グイドもエドヴィリアも年とともに膝が痛むようになり一緒には来られなくなった。二人のためにも倍の量をと欲張って摘む。夢中になって教会の鐘の音も耳に入らなかったらしい。

帰り道、予定の時間になっても帰らぬ私を心配してグイドが昼寝を切り上げ車で探しに出たのに遭遇した。私と見るとにやりと笑い、あごでしゃくって車に乗れと合図する。

『家まで100メートルもないよ』

『いいから、乗れ』

家についたら、またテーブルに野草を大きく広げ、作業が始まる。歩いて帰れるけどグイドの車に乗る。


それでは皆さん、Buona Pasqua!

2015年4月2日掲載

 

 

 









 

 

 

今回は、仲良しのお肉屋さんバローロのサンドローネ一家を紹介します。『イタリア好き』のイベント企画『イタリアマンマのフェスタ』の第1回で日本におじゃましているのでご存知の方もおられるかもしれませんが、とっても明るい仲の良い家族です。 

娘のマルティは今、赤ちゃんがお腹に、、、一家の喜びもひとしお!
では、、、   


    

カウンターの向こう側:サンドローネ精肉店

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/barolo-sandrone

バローロにあるこの小さな精肉店のことを私は知らなかった。彼らのスペシャリティがタヤリンとアニョロッティ・デル・プリンであることも、ノヴェッロのアグリツーリズモのお上さんが勧めてくれた。『絶品だから』と、、、

Tボーン、サーロイン、筋肉、ショーケースにはこれらはあっても全ては並べていない。少しずつ冷蔵室から出してくる仔牛肉、活き活きと赤く引き締まった肉の塊たち。丸ごと一羽の平飼いの鶏、サルシッチャ、プロシュット、バター、卵、米、乾燥きのこ。

ムラッツァーノチーズは羊の乳量が減り牛乳で代用する時期は扱わないし、最高級オリーブオイルとしてリグーリアのディーノ・アッボのものを並べているのを見れば、生活に必要なものを少量ずつでもしっかり厳選しておいている店だとわかる。

サンドローネ一家の店は懐が深い。
店に入ると挨拶もそこそこに『行きな。皆いるから』といつものように店主のフランコと息子のアンドレアが促してくれる。店の一番奥の明るい工房をのぞき、卵35個で練り上げたパスタからタヤリンを奥さんのマリアグラッツィアが切り出しているのに声をかける。

トゥルッ、トゥルッ、トゥルッ、、、ルオテッリーナ(回転式のラヴィオリカッター)で娘のマルティナがラヴィオリを切り分けている。限られたスペースでも無駄の無い動きでランゲの2大パスタを生み出していく姿にしばし見入る。


レシピを尋ねるとマリアグラッツィアがラヴィオリの詰め物の材料をあれこれ思い出すままに数え挙げながら生のラビオリをひょいと手渡してくれる。

一つ口に入れて噛みしめ材料を確認していると『生じゃだめでしょ!』といつの間にか茹で上がったばかりのラビオリを盛った皿が手に渡されていた。『ほら、パルミジャーノ。』


とにかく仕事が早い。隠し持つ秘伝のレシピはないが、この小さな工房で何トンもの粉と卵をこね、何百万のラビオリを切り続けてきた腕が彼らにはある。


サンドローネ一家には曇りがない。一家の皆が朗らかに人に接している。どんな家族でも日々の暮らしには心配事もあるだろうが顔にはださない。

この店は『Have』つまり彼らにとって、その日の糧を得る手段であるのと同時に訪れる人に何かプラスアルファーを与える『Give』の空間になっている。

村のイベントになれば店先でトリッパを大なべで煮込み、ボッリートを茹でる。ここは足を踏み入れた者を素顔のランゲにリンクさせてくれる場だ。



サンドローネ・ワールドにどっぷり浸り立ち話しているうちに1時間でもあっという間に過ぎてしまうというのは私だけではない。バローロ周辺の住人もいれば、車を飛ばしてやってくる人もいる。

キヤンパリーノ(現ピエモンテ州知事)は私たちと同じようにふらりとこの店の奥に入って来て立ち話をしラヴィオリを包んでもらうとトリノに帰っていった。

フランスの映画俳優ジェラルド・デパルデューは、フランコだけが店番をしていた日に現れ、てんてこ舞いの彼を見かねてアニョロッティ作りを手伝い嬉しそうに帰っていった。




一日に一体何人の観光客がこの店の前を通るだろう。

手にはワインボトルの2,3本入った箱を下げ、牛や豚などの家畜を愛しい図柄にしたこの肉屋の看板に目を留め、店内をガラス越しになんだか楽しげにお喋りする人達の姿を見ても、洗練された部分のランゲを満喫したいツーリストは少し行儀が良過ぎて、宝の眠る洞窟の扉が軽やかに開け放たれていることに気がつかない。



一度、東京でクリニックを経営する夫婦をこの精肉店に案内した。豊かな暮しぶりで世界中を歩いた人たちだがやっぱりマリアグラツィアとマルティナのパスタ作りの手際に目を奪われていた。

マルティナが婦人のほうに試してみるか?とルイテッリーナを手渡す。恐る恐る切り始めた彼女。端から順に切り進むうちこう言った。

『ああ、こぉれは楽しい!!これは私、大好きだわ!』


2015年3月19日掲載

2013年8月、大切に思っていたリーザおばさんが亡くなりました。お葬式の日、仕事である日本の取材クルーと出かけねばならず、葬儀には参列したものの、おばさんが亡くなったことをどう受け入れていいか考えるだけでもめまいがして、これから仕事に出かけるという心境には到底なれなかったのを今でも覚えています。

原始人に、「他人に迷惑はかけられないから今はおばさんの事ははなかったことにしておけ」といわれました。それを強く思いすぎたせいでしょうか、私の中でそれからずっとリーザおばさんはこの世のどこかにいることになり、心の中で清算がつけないままでした。

今回、『Il Golosario』へのこの寄稿を機会に一つの区切りがついたように思います。掲載にご協力を頂いた『料理通信社』取材班の皆さんに心から感謝します。 

では、、、

  

『ザ・ミラクル・バター』

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/miracle-butter

 陽に晒されてざらついた表面の入り口の扉を押して中に入るとキッチンとを結ぶもう一つのドアにはめ込まれた小窓からは、リーザが暖炉の前で大きな背中をこちらに向け、小枝をくべているのが見えた。

低めにとった窓から差し込む夕方の弱い光だけではこのキッチンの棚のコーヒー缶、四角い目覚まし時計、ストーブの上におかれた寸胴鍋、ベンチの上で押し潰されたクッションも、真ん中に置かれたテーブルの上の花柄のプラスチック製のテーブルクロスも明るく照らすには不十分だった。

薄暗く、さらに全てが暖炉の煙で煤けていても、きちんと片付いて一筋の埃もないキッチン。
 中に入るとリーザが振り返って私を見るなり怒鳴った。
「ビンを洗剤で洗ったね、嫌な匂いが残ってた。ダメじゃないか!牛乳の汚れは酢と塩で取るんだ。」
 私がリーザに怒られたのは後にも先にもこの時の一度きりだった。
「まあ座りな。」


そう言うと、彼女も椅子を引いて座る。肩を縮めて謝り、私も座るといつものたわいもないお喋りが始める。ここからは目覚ましの針の動きは何の意味も持たなくなる。


 標高1000mにある山腹にある1700年代後半にナポレオンの時代フランスから落ち伸びがトラッピスト修道士が住んでいた建造物。

その廃屋を改造して牛を飼い暮らしていた一家の娘として牛舎で生れ落ちた彼女。70才を大きく越えたリーザは何でも知っていた。

子牛の胃でカッリョ(チーズの凝固剤)を作ることも、豚の脂肪を煮て石鹸を作ることも、アルニカから打ち身に効くクリームを作ることも。雲の動き、風の向きを見ると先人の諺を持ち出して天気を占った。地域のあらゆるハーブを配合して10種類以上のリキュールをカンティーナに作り置き、尋ねてくる人にちょっともったいぶりながら振舞っていた。


 そして、何といってもバター。肥沃なこの地域の草だけを食べて牛が出す乳の脂肪を撹拌するだけのシンプルなバターが、なんともいえないミルクの味わいを持ち、コクのある生ハムやアンチョビと一緒に口の中に入れるとその存在はさらに何倍にも膨らんだ。


 『ミラクル・バター』とは彼女を初めてたずねた日本のジャーナリストがつけた名前だ。深いコクがあるのに舌に嫌な脂っこさを残さず溶けるていくのは、150年ほどと酪農文化が浅く、工場生産が一般的な日本の国民にとってまさにミラクルだった。

 テクノロジーを用いずとも、ごまかしの通用しない自然を相手に暮らせる人は強い。彼女はそのことを知っていたし、その強さを信じていたから怖いものがなかった。村から出ることがほとんどなくても、世界を放浪しつくして彼女の農家にたどり着く私たち日本人との間に垣根を一切つくることがなかった。


 2005年末、日本で新しく、質の高い食の情報誌を目指す雑誌『料理通信』が生まれると知り、自分の住む地域のPRを日本でするには活字にしてもらうことが大切と考えた私は、地域の協力でこの雑誌社の取材クルーを招聘した。

彼女を通してこの地域のマルガリの人たちの暮らしを見てもらいたいと思った。日本人は古いものと手入れを怠っただけの物との見分けがすぐにできる。彼女のキッチンに入れば、そこが暮らしのワンダーランドだとすぐにわかる。 

 クルーの責任者がこの地域での5日間の取材を終えた記者発表で最初にこう言った。
『マルガリの人たちはあなた達の宝ですね。』
 そこに集まった地域の有識者たちから一瞬戸惑いの空気が沸きあがった。『世界遺産もある。世界を代表する工業製品もある。マルガリの人たちの素晴らしさは自分たちが一番良く知っている。だが、それが何よりも世界へのアピールになるというのか?』そんな戸惑い。


 その数年後、同じ人たちを前に同じことを言った人がいる。スローフード協会会長のカルロ・ペロリーニだ。この地域のバターがスローフードのプレシディオに指定されたのはそれから数年後のことだ。

 陽も暮れ、ビンにつめてもらった搾りたての牛乳を腕に抱えて野道を引き返す。母親のぬくもりと同じ牛乳の暖かさは不思議なことに簡単に冷めたりしない。満天の星の下を足早に家もどってからも、牛乳のぬくもりも、リキュールをなめながらリーザとのお喋りを楽しみながら得ていた暖炉の薪のぬくもりもまだ暫く残っていた。


 リーザはもういない。
リーザが紹介された『料理通信』ゼロ号の奥付には、いたずらっぽいリーザの顔がアラン・デュカスと相対して掲載されていた。
 
 


 

 

『il Golosario(イル・ゴロザリオ)』への寄稿第2回の日本語訳です。今回は日本食文化の代表『お寿司』について。色々小さな誤解を含んだままスターダムに駆け上ったこの料理に纏わる笑いのエピソードを交えて今一度イタリアで紹介してみたいと思いました。

ちょうどあるイタリアンのシェフが日本の寿司(Sushi)は『Noiosi(つまらない)、俺の創作Susci」は最高!』と全国紙2ページを割いて語っていたのを読んだ頃で、反論したくなったものあります。日本のお寿司をお腹いっぱい食べた時のような満足感はありませんでしたが、彼のいうSusciも確かに創作性溢れる力作ではありましたが、、、。
では、Buona Lettura!

 

WAZAWAIof・す--

http://www.ilgolosario.it/assaggi-e-news/attualita/sushi#.VNHb
 

 イタリア語を話せない者が、イタリア人と友情を結びたいと考えるとき、料理に覚えがあったらそれは幸運だ。

 初めてピエモンテを訪れたとき、現地の友人達にすしを作って欲しいとせがまれて困った。イタリアで流行のいわゆる『にぎり寿司』は日本の家庭では作らない。すし職人はすし飯を炊けるまでに3年、握りに8年かかるといわれるプロの料理だ。

 なぜかは聞かないで欲しい。が、そのとき私の鞄の中には。ワサビも、醤油も、さらには最高のコシヒカリ米や大吟醸酒まで入っていた。
 私が生まれて初めて握ったすしは最低の見てくれだった。が、それを食べたイタリア人の一人がその後まもなく私を娶った。


 結婚式当日、3頭の大マグロが魚屋から贈られた。花嫁のはずの私自身で解体して結婚を祝ってくれた人100人に振舞った。準備が終わって会場に入ると、晴れの日に皆で味わおうと食べずにいたペコリーノ・ディ・フォッサ(トスカーナのテンダロッサのオーナー自らがガレージで熟成してくれたもの)もラルド・ディ・コロンナータ(あの小さな広場のタバコ屋で日本人で一番きれいと褒めてくれたおばあさんから買った)もただの一切れも残っていなかった。すしは良く知っている。イタリアの選び抜かれた食材の味は私だって試してみたかった。


 新婚旅行の道すがら、ある全国紙で働くジャーナリストの知り合いをブラッチャーノ湖畔(ローマ近郊)に訪ねた。彼は土産は要らないから大好きなすしを作って欲しいという。小さなアタッシュケースにワサビや他の材料のほかに今度は切れ味抜群に研がれた包丁も入れてピエモンテを後にした。一晩にすしを2回、計150貫作ったのはあのときが最初で最後。その後も友人を訪ねるたびに必ず寿司作り専用具を入れたケースを必ず持ち歩いている。

 リグーリアでは、マグロを手に入れられなくて苦労した。漁港をうろつき漁師さんたちと仲良くなり、徹夜の漁に出る船に隠れ乗りマグロを分けてもらうと、陸に上がって体に船の揺れが残る困難のなかマグロをさばいた。その漁師さんたちとは10年以上の付き合いになる心の友だ。


 当時、イタリア語を勉強はしていてもイタリア人同士の会話にところどころしか参加できなかった私にとって、食卓に上る自分の国の一皿に言葉にできない愛情を込めてコミュニケーションとするので精一杯だった。あれから15年が経った。

 『すし』はそもそも煮た米の中に魚の塩漬けを入れて発酵させた保存食だった。それが日本各地で形を変えてそれぞれの地域の『すし』になった。200年前、江戸と呼ばれていた東京で料理人が『すし』を粋に作って売り出したのが『握りずし』だ。素材をいじりすぎず、魚の鮮度、米の旨さを引き立て人を喜ばせるのがこの料理だ。始めは抵抗感があっても何度か食べるうちに他の料理にはない不思議な魅了でもう一つ食べたいと思わせる。シンプルに見えて熟練した料理人の腕が求められる料理であり、家庭料理ではない。そのためかこれなしには生きていけない料理『ソウルフード』は何かと聞かれて「すし」と応える日本人はあまりいない。私にとってもソウルフードは白いご飯に秋刀魚の塩焼きだ。


 15年前は、食で保守的なイタリア人女性に敬遠されることも多く、そんな時は自分自身が敬遠されたように落ち込んだものだった。だが今は、まさにその女性たちから「すし」作りを教わりたいといわれる。近頃は「すし」を握らなくても友達はどんどん増えている。が、すしを介して友情はもっと早く深く膨らんでいる。世界を一つにするのは音楽だけではない。美味しい料理だってそうだ。
 ナポリから東京にやってきたカメオ職人が日本の友人のために母親の味を思い出しながら作ってくれたボンゴレ・スパゲッティのトマトソースの味の深さは今も忘れることができない。


 長らく会っていなかったワイン生産者の友人からある日連絡があり、娘のクリスマスプレセントに私には無断だったが『幹子の作ったすし』と書いたカードをプレゼントしてしまった言われた。どうしてだか分からないが、くすぐったい嬉しさを感じた。


 私の父はほとんど笑うことのない怖い人だった。が、魚をさばくのを見せてくれ、名工の打った包丁を家を出る私に渡してくれたことには今も感謝している。
 

 

 
 
 
 

 


 
 。