あばら日記

トーキョー生まれ、トーキョー育ちの大学生。 地元をやっとすきだと思えました。

トーキョー生まれ、トーキョー育ちの大学生。3姉弟の長女です。 フィリピンに留学していたことがあります。

トランプ大統領による、リビアなど7か国の国籍を持つ人たちの入国禁止が大きな話題になっていますね。
現在(2017年2月9日現在)、この措置に対してシアトルの連邦裁判所は
一時的な入国禁止の差し止めを全国的に命令し、現在は司法省が上訴しています。

また、それに加えて1月25日にはロサンゼルスやワシントンなどの
サンクチュアリ・シティに対して連邦資金を交付しないで、
不法移民を拘束し国外退去させるように命じた大統領令に署名した。
トランプ大統領、不法移民を保護する「サンクチュアリ・シティ」に宣戦布告。しかし反撃は始まっている

では、ここで触れられているサンクチュアリ・シティとはどのようなものなのでしょうか。

サンクチュアリ・シティを直訳すると聖域都市。
大都市に多く、移民に比較的寛容な政策をとっていることが多いのが特徴。
不法滞在者が黙認されて、働いたり暮らしていけることが許されています。
実際にどんなことを行っているのかというと、
警察が容疑者の不法滞在歴を調べることができなかったり、 
不法移民の収容や不法滞在が疑われる移民の釈放期日以降の拘束の禁止
という決まりがあるところが多いです。
更に、不法滞在移民にもかかわらず、
医療が受けられたり、学校へ行くことも可能であったりと
地域によってもちろん様々な政策を行っていますが
まさに、聖域であることには変わらないようです。
12の州とコロンビアでは、不法滞在者でも運転免許が取れるようになっています。

この、サンクチュアリ・シティは決まった定義はありません。
ですが、サンクチュアリ・シティのベースとなるものは
もともとは1980年代に連邦政府が難民認定を出し渋ったときに、
中南米からの不法滞在者たちを協会がかくまったことから始まっています。
それ以降、厳しく取り締まりを行う政府に対して、
マイノリティである犯罪を起こしていない移民たちに対しての保護が始まったのが
現在のサンクチュアリ・シティなのです。
(ソース:What are sanctuary cities, and can they be defunded?(英語)

では、なぜ彼らは聖域都市で黙認されているのでしょうか。
もちろん、寛容さをしめすということも一つの要因としてあるかとは思いますが、
見逃せないのはサンクチュアリ・シティにとって彼らが貴重な労働力となることです。

タクシーの運転手などの比較的低賃金とされる職場には、
移民の人々が数多く働いています。
その人たちはもはや、経済活動において欠かすことのできない存在です。
ですから、サンクチュアリ・シティもおいそれと移民を追い出すことは不可能なのです。

しかし、連邦交付金のカットはサンクチュアリ・シティにとっても痛いものです。
ニューヨークだけでも、$10.4億の損失が生まれるとの計算も出ています。
(ソース:What are sanctury cities?

交付金を取るか、はたまた移民たちの生活を守るか、
アメリカの大都市は今岐路に立たされています。

トランプ政権から目を離すことはできそうにありません。

おしまい。 

 




Evernoteが便利でよく使っている。

自分がおもしろいと思った記事や好きだなと思った言葉を
そのまま保存したり、画像だったらスクリーンショットを撮って
クラウド上の保存ができるこのサービスを随分便利だと思って使ってきた。

例えば、ほぼ日の今日のダーリンなんかはすきでほとんど毎日読んでいるんだけど
アーカイブされずにどんどん更新されてしまう。
ところが、このEvernoteを使うと自分のノートブックに保存して
(このノートブックというのもなかなかワクワクする仕組みだ)
好きな時に見返すことができるのだ。

ブックマークと違い、ページではなくページのコンテンツをまるっと保存する。
しかもクラウド上にあるから、プランを選べばほぼ無尽蔵にページを保存できる。
ブックマークが多すぎてわけわからなくなる、みたいなこともないわけだ。
そんな便利さを私はとても楽しんで使ってきた。

でも、気が付いてしまったんだ私は。
Evernoteを使っているうちに、
どんどん、自分の「すき」がデフレしているということに。

Evernoteを使う前は、これいいなと思った言葉を見かけたら
メモを書いたり、なるべく覚えておこうと自分の中で反芻してみたり
と、覚えるためにいろいろな努力をした。
そうして自分の中にたまった言葉は自分の骨に染みるのが
早いような気がした。

でも、今はすきだな、と思う前の段階、
おや、これは私がすきそうな文章だな、というような
好きの一歩手前で保存をしてしまっている。

そして、何事もなかったかのように
好きかもしれない文字の連なりを次から次へと消費している。

そうなると、自分の中での好きがあいまい化してくる。
私を形作る好きの構成要素が、すこしずつぼやけてくる。
なんで、私これをいいと思ったんだっけ。
そう疑問に感じてしまうようなものは、
私が好きなものといえるのだろうか。

と、いうわけで、今年は私の中の好きの輪郭を取り戻すため、
Evernoteのウェブクリッパーを使いすぎないようにしたいと思う。

好きのデフレを防ぎ、
私の中に流れ、貯まり、私の骨になる好きを、
特に大切にしていきたいと思う。

いつか結果をここにかけたらいいな。

それでは。 

会社訪問がえりの長い電車の中での暇つぶしに。
と、 電車の中で読み切れそうな薄い文庫本を手に取ったのがきっかけ。


不自由だと気が付いた瞬間に、私たちは自由になれる。
そんな風な気持ちになることのできる物語でした。

まず、目につくのは主人公きりこが「ぶす」だということ。
しかも、このぶすという言葉は全編を通して太字で書かれ続けます。

全編を通してきりこは賢く強い女性であり続けますが、私が好きなのは
きりこが自分の容姿と、自分の性格、それまでの私をすべて含んで自分なのだと気が付くシーンです。

大事なのは、きりこが自分にとって、外見である自分の体のこともきちんと「自分」の中に
含めているところです。

物語の序盤、中盤と徹底的にきりこがかわいくない、ぶすだということを
読者も、本の世界の中の人も共通認識として持っている中で、
きりこが「人間外見じゃない、中身だ」と言ってしまうのが物語の骨子になるのだとしたら、
それはすごく簡単なことなんだと思うんですよね。

「だってぶすなんだから、外見あきらめて中身を頑張るしかないじゃん。」
そんな天からの声、というか私の心が聞こえてきそうになります。

わたしだけでなく、外見よりも中身。中身こそが大事なんだということばは随所で見られるかと思います。
でも、それも本当か?

一生付き合っていくこの外見は大事じゃないのか?
死ぬまで一緒に生きていく私のこの体は私ではないのか?
じゃあ私って何なんだ。

そう考えたときに、人から見られている自分の表層を外して話を進めるのはかなり難しい。

表情や振る舞いや行動を通して自分は自分を表現するし、
逆に相手のことも見た目に現れたものを通して判断しているし。
ひとの美しさに見とれることあるわけで。

人に限らずとも、おいしそうなカップ麺を中身なんて知らないまま買ってしまうこともあるわけですし。
そのまま、そのカップ麺を好きになるかどうかは、それこそ中身を知らなければわからないけれど、
入り口として見た目っていろいろなところで大切にされている。

そんな風に自分を表すものの一つとして、カギとなるような見た目が
本当に要らないものだと、言えるのだろうか。

「中身こそが大事で、見た目なんてどうだっていいんだ。」

繰り返しますが、たぶんそのことばは、外見が良ければ中身はなんだっていいといってしまうことと
同じくらい簡単なことなのだと思います。

外見至上主義じゃない。でも、中身だけが本当の自分かというとそれも違う。

外見を笑われ続けたきりこがたどり着いた答えは、中身も外見も
そしてこれまでのきりこが歩いてきたきりこの人生すべてが
きりこだということです。 

外見を笑われて、人と会えなくなってしまった自分がいかに外見にとらわれていたかをしります。
それは、自分の不自由さに気が付く瞬間でもありました。

そこからは、もう選べるんですよね。
不自由だと気が付いたからこそ、そのうえでじゃあ自分がどうしたいのかということが見えてくる。
そのうえで選び抜いた決定は、自由そのものです。
化粧しようがしまいが、見た目に合う服を着ようが着まいが、もうそれは自由に基づいた選択なわけです。

逃げ恥最終回の百合ちゃんも、自分に自分で呪いをかけないでと言及していました。
私たちの周りに山ほどある呪いの言葉に私たちは知らないうちにとらえられて、がんじがらめになってしまう。

でも、呪いの正体に、自分が自分に課していた不自由さに気が付いたら
そこからはもう自分が何をしたい人間かを選べる。
大事なのは、それらに気が付いた後に自分で選んでつかんだ自由なのではないかな。

二つの物語からそんなことを考えました。



 

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