久しぶりの更新です。
7月下旬から8月中旬まで仕事が忙しくて、先週末からようやく夏休みを取ることができました。
現在は京都の実家へ帰省してます。
ところで、最近は携帯ゲーム「国盗り」「コロプラ」はほとんど放置状態で
今は「発見!ニッポン城めぐり」という位置ゲーにハマってます。
簡単にいえば、全国3000城スタンプラリーです。
3000城といえば多いように思われるかもしれませんが、国内に存在していた城の数は古代から幕末まで含めると4万〜5万と云われていますので、これでもほんの一部なんですよね。
シロリストとしての目標は、まずは「日本100名城制覇」ですが、
もちろん100名城選外の城も併行して巡っていきたいと考えてます。
今回は京都府長岡京市の勝龍寺城の紹介です。
勝龍寺城といっても多くの方はご存知ないかもしれませんが、実は歴史上においていろんな場面に登場する城なんです。
南北朝時代の1339(歴応2)年に北朝方の細川頼春(戦国末期に城主となる細川藤孝の先祖)が築いたとされますが確証はなく、実際には1457(康生3)年に山城国守護・畠山義就が置いた郡代役所が城郭に発展したと考えられています。
戦国時代末期には、室町幕府13代将軍足利義輝の暗殺に関わった三好三人衆の一人、岩成友通の属城となっていましたが、1568(永禄11)年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、約5万の軍勢で攻めて降伏・開城させた後は、山城西岡一帯(現在の長岡京市・向日市)を与えられた細川藤孝(幽斎)の居城となります。
細川藤孝によって、方形単郭館から二重の堀と枡形虎口を持つ堅固な城へと改修されました。
本丸には安土城よりも先行して「殿主」が築かれたと伝わります。
織田信長が安土城天主の試作品として、この勝龍寺城と近江坂本城に殿主(天守)を造らせたと云われています。
1578(天正6)年8月、細川藤孝の長男・忠興に明智光秀の三女・玉が輿入れしました。
この明智玉が有名な細川ガラシャです。
忠興・ガラシャ夫妻は勝龍寺城で新婚時代を過ごしました。
1580年に細川藤孝は丹後・宮津城に移り、京都所司代・村井貞勝配下の矢部善七郎 と猪子兵助が城代となりますが、1582年に本能寺の変が起こり、村井貞勝も討死、明智光秀の属城となりました。
中国大返しで戻ってきた羽柴秀吉との山崎合戦(天王山の戦い)で敗走した光秀は勝龍寺城に一旦退却するも籠城は無理と考え、北門から脱出して近江坂本城を目指しますが、小栗栖で落武者狩りに遭って絶命します。
その翌日、秀吉は勝龍寺城に入城し体勢を整えて、明智の残党征伐を行いました。
一方、光秀の協力要請を断った縁戚の細川藤孝は剃髪して幽斎と号し、田辺(舞鶴)城に隠居、忠興に家督を譲りました。
「逆臣の娘」となったガラシャは丹後味土野に幽閉されますが、1584(天正12)年に秀吉の取り成しで大坂の細川屋敷に戻りました。
その後、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦直前に西軍の人質となることを拒否、キリシタンは自殺が禁じられている為、家臣に槍で突かせて命を絶ちました。
勝龍寺城はその後一旦荒廃しますが、江戸時代の1633(寛永10)年に永井直清が山城長岡藩主となり、城の修築を行います。しかし1649(慶安2)年に直清が摂津高槻藩へ転封となり、完全に廃城されました。
京都の城といえば、二条城や伏見城が有名ですが、勝龍寺城も歴史上のターニングポイントに登場する城郭の一つです。
現在は「勝竜寺公園」として整備され、模擬櫓(管理棟)や模擬隅櫓、土塀等が建てられています。
建物の遺構はありませんが、土塁や堀が往事の姿を偲ばせてくれます。
7月下旬から8月中旬まで仕事が忙しくて、先週末からようやく夏休みを取ることができました。
現在は京都の実家へ帰省してます。
ところで、最近は携帯ゲーム「国盗り」「コロプラ」はほとんど放置状態で
今は「発見!ニッポン城めぐり」という位置ゲーにハマってます。
簡単にいえば、全国3000城スタンプラリーです。
3000城といえば多いように思われるかもしれませんが、国内に存在していた城の数は古代から幕末まで含めると4万〜5万と云われていますので、これでもほんの一部なんですよね。
シロリストとしての目標は、まずは「日本100名城制覇」ですが、
もちろん100名城選外の城も併行して巡っていきたいと考えてます。
今回は京都府長岡京市の勝龍寺城の紹介です。
勝龍寺城といっても多くの方はご存知ないかもしれませんが、実は歴史上においていろんな場面に登場する城なんです。
南北朝時代の1339(歴応2)年に北朝方の細川頼春(戦国末期に城主となる細川藤孝の先祖)が築いたとされますが確証はなく、実際には1457(康生3)年に山城国守護・畠山義就が置いた郡代役所が城郭に発展したと考えられています。
戦国時代末期には、室町幕府13代将軍足利義輝の暗殺に関わった三好三人衆の一人、岩成友通の属城となっていましたが、1568(永禄11)年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛した際、約5万の軍勢で攻めて降伏・開城させた後は、山城西岡一帯(現在の長岡京市・向日市)を与えられた細川藤孝(幽斎)の居城となります。
細川藤孝によって、方形単郭館から二重の堀と枡形虎口を持つ堅固な城へと改修されました。
本丸には安土城よりも先行して「殿主」が築かれたと伝わります。
織田信長が安土城天主の試作品として、この勝龍寺城と近江坂本城に殿主(天守)を造らせたと云われています。
1578(天正6)年8月、細川藤孝の長男・忠興に明智光秀の三女・玉が輿入れしました。
この明智玉が有名な細川ガラシャです。
忠興・ガラシャ夫妻は勝龍寺城で新婚時代を過ごしました。
1580年に細川藤孝は丹後・宮津城に移り、京都所司代・村井貞勝配下の矢部善七郎 と猪子兵助が城代となりますが、1582年に本能寺の変が起こり、村井貞勝も討死、明智光秀の属城となりました。
中国大返しで戻ってきた羽柴秀吉との山崎合戦(天王山の戦い)で敗走した光秀は勝龍寺城に一旦退却するも籠城は無理と考え、北門から脱出して近江坂本城を目指しますが、小栗栖で落武者狩りに遭って絶命します。
その翌日、秀吉は勝龍寺城に入城し体勢を整えて、明智の残党征伐を行いました。
一方、光秀の協力要請を断った縁戚の細川藤孝は剃髪して幽斎と号し、田辺(舞鶴)城に隠居、忠興に家督を譲りました。
「逆臣の娘」となったガラシャは丹後味土野に幽閉されますが、1584(天正12)年に秀吉の取り成しで大坂の細川屋敷に戻りました。
その後、1600(慶長5)年の関ヶ原合戦直前に西軍の人質となることを拒否、キリシタンは自殺が禁じられている為、家臣に槍で突かせて命を絶ちました。
勝龍寺城はその後一旦荒廃しますが、江戸時代の1633(寛永10)年に永井直清が山城長岡藩主となり、城の修築を行います。しかし1649(慶安2)年に直清が摂津高槻藩へ転封となり、完全に廃城されました。
京都の城といえば、二条城や伏見城が有名ですが、勝龍寺城も歴史上のターニングポイントに登場する城郭の一つです。
現在は「勝竜寺公園」として整備され、模擬櫓(管理棟)や模擬隅櫓、土塀等が建てられています。
建物の遺構はありませんが、土塁や堀が往事の姿を偲ばせてくれます。