Tessey Ueno's blog

古楽系弦楽器を演奏する上野哲生のブログ。 近況や音楽の話だけでなく、政治や趣味の話題まで、極めて個人的なブログ。

上野哲生:PROFILE
プサルテリー、サントゥール、リュート、サズ、など、様々な古楽系(中東系)撥弦楽器を得意とする。ロバの音楽座、カテリーナ古楽合奏団の主要メンバー。
個人のレーベルMAGI RecordからCD、楽器の音も聴けます。
​毎年趣味で作っている家族の動画年賀もご覧下さい!

東京新聞、夕刊ではありますが、一面トップに7月12日の早稲田での乱入ライブの事が取上げられました。申込抽選会は終ってしまいましたが、ライブ配信では観ることが出来ます(有料)。
山下洋輔乱入ライブ早稲田


改めてこの初期メンバーの凄さを教えられたのはBS231(放送大学)の「日本人にとってジャズとは何か」で山下トリオの初期メンバー(サックスは坂田明さんですが)でトリオのジャズスタイルを解剖していく番組がありました。この番組の面白いところは、確かに日本人は西洋の様々な音楽をやっていますが、山下トリオが「普通のジャズをやっていてもしょうが無い、如何に自由に自分たちにしか出来ない音楽をやっていくか」と言うことを模索していく過程をそれぞれのメンバーが解説していきます。
坂田さんはそれまでジャズのスタンダートを吹いたこともない様なキャリアで、自分にしか出来ない、これなら出来るという事を山下さんに「それで良いのだ」とバカボンのパパのように認められ、森山さんも全く自分にしか出来ないようなリズム分割をやったり、他のバンドでは到底認められないような技を「それで良いのだ」と認め、世界の何処にもないスタイルを生みだした。これが世界進出できる日本人のジャズに他ならないでしょう。
番組ではもう80近い3人のレジェンドが生み出す音は、1969年に箱根のロックフェスティバルではじめて聞いた時を彷彿させる、(それは年齢を重ねて当時と同じパワーでは無いにしても)本物はここにあるんだという事を証明するかの如く、心揺さぶられるものがありました。
番組の放送の方は何度か再放送していますが、明日6/11(土)21:00〜と21:45〜の2回にわたって再放送します。

日本は本当に西洋の様々な音楽を取入れていますが、自分たちの形にすると言うことはどういう事なのか、そう言った意味でもとても興味深い番組です。
早稲田での6/12 のライブは申込は締切りましたが、配信では観ることが可能です。
新聞記事にもありますが、当時のライブには田原総一朗まで関わっていたんですね。面白い時代でした。

護るものは家族だとして、熊が襲ってきたら身の回りの何か棒のようなもので戦うだろう。
銃を持った強盗が襲ってきたら、どうすれば危害を加えないか説得に尽力するだろう。
爆弾を投下する戦闘機が襲ってきたら、被害を最小限に抑えられる場所に逃げるだろう。
アメリカではこう言う時のために銃を持つ。
熊なら何とかやっつけられるかも知れない。
強盗は銃撃戦になればさらに家族を危険にさらすだろう。
戦闘機は銃ではどうにもならない。銃を持っていればかえって標的になる。
銃を持つなら相手より数段上のクラスの装備をしていないと平和な家庭は維持できない。相手が高性能の武器を持ってくるなら、常にその数段階上を行かなくては安心できないだろう。
そうやって世界最高水準の武器を持つ事が大事になってくる。武器を買うためマイホームに費やす何倍もの対価を払っていく。誰よりも高性能の武器を持っていれば舐められる事はない。ヤクザのバックボーンをちらつかせるのと同じで、気持が良いほど相手を威圧出来るだろう。
そうやっていくうちに、相手もそれを凌ぐ高性能で威力のドデカい武器を作る。こちらの武器を無力化するようなものも出来てくるかも知れない。さらに優れた高い武器を買わないと追いつかない。こうなってくると何が家庭の幸せなのか解らない。武器の借金に追われ、安全を金で買う事はキリが無い。結局力のあるヤッチャンにもう少し金のかからない方法で護ってもらう方法しかなくなる。リスクは高そうだが。
きっと国はそうやって作られていったのではないか?
国が武器を持つなら一番パワフルな武器を選ぶのが良いに決っている。核兵器を持つ事だ。お互いが使っちゃ行けない核を持つ事で、平和になれるというのが今の保有国の考え方だ。でも戦争になったら掟も何もなくなるのは今回の出来事でもよく解る。核は使っちゃあいけないというルールはどこにもない。ガードしているのは自国と世界の世論だけだ。
今、日本国民の多くはウクライナ情勢を踏まえて、憲法を変え防衛費を増やし先制攻撃も視野に入れる事に理解を示し始めている。やるなら防衛費を総生産の5割まで増強しなければ世界一強い国にならないだろう。ロシアどころかアメリカだって引くだろう。
もちろん国民の食料は全て配給制にするくらい統制をとらされるだろう。そこまで安全に保険をかけた国は本当に幸せなのかという問題だ。
僕が思うに、今防衛費をいくら増やしても、増えた分だけ相手の脅威であり、戦闘になる確率はあがると思う。先制攻撃をすれば遺恨が残り、結局いつ来るか解らない攻撃を前に安寧は訪れない。防衛費をどうのこうのと言う前に話合いの場を設ける事が先ではないのか?北朝鮮だって現政権に一度も政府は話合いの場を設けようとはしない。兵器の後ろ盾がないと交渉は出来ないのか?単にヘタレなのか?
独裁政治の国だって、民主主義国家だって、交渉の場を設けて、お互い仲良くする事だって出来るだろう。
確かに僕のは綺麗事だ。だけどその交渉の場を作る事にミサイル一台分以上のお金をかけているのか?ミサイル一台打てばそれで戦意を削ぐならまだしも、結局それで解決にはならない。相手が打ち返せばそれで地獄の始りだ。
結局相手の気持を考えず、武器を持ったり威嚇したり、煽るような事をすれば戦争になる。
今回のウクライナ侵攻がそれだ。結局ウクライナがNATOに入る事がどれだけロシアにとって嫌なことだか、解っていながらそれをやるから今回の事態になったと思う。国同士はそれぞれ自由な選択権があるわけだが、考え方が違っても話合いで共存できる方法はいくらでもあったろうに、ここまでこじれてしまうとお互い後戻りできない。
先制攻撃ではなく、いかに戦闘回避に持っていくか、話合い一つ出来なければそれはとても危険な状態になる。常に取引と落しどころを踏まえて交渉していかなければ、こんな前時代的な戦争は起らなかったろうに。
今回の戦争で誰も得をしないし、幸せになれない。儲るのは武器を渡しているアメリカで、兵器の見本市を現場で実践している。とにかく如何に戦争を回避して行くかが平和に幸せになれる方法で、武器をちらつかせながらの交渉はヤクザの抗争と同じで、結果血と血で洗う状態になるだろう。
もっとも安倍晋三を始め今の与党の多くが参加する日本会議は「主権在民」「基本的人権」「平和主義」を憲法から無くす考えがあるようだ。この辺りの方々はなかなか隣の国と仲良くやっていこうとする発想はなさそうだ。
僕個人の感覚ではもし交渉に失敗し、理不尽にも国を奪われる事態になっても、命あっての物種だと思っている。人一人の価値は国や地球よりも大きい。たとえ住慣れた土地を奪われるような事態があっても、誇りを奪われる事があっても(嫌だけど)、個人一人が生き延びる事がより良い未来の可能性を高めてくれるのではと思う。

三島由紀夫氏は生前、NHKのインタビューの中で「人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」つまり「死ぬのも何かのためにということ、これが大義だ」「戦時中、自分が死ぬことを覚悟していた頃は、とても幸福だった」とまで言っています。

 

僕は自分が音楽を作ったり演奏したりする事を「聴いてくれる人たちのために」「聴いてくれる子どもたちのために」と、以前はそんな大義をたてて音楽家をやっていました。でもそれが本当にそう思っているのか、疑問に思えてくるのです。

本当に誰もが喜んでくれるものを提供するなら、現代の主流や流行りに合わせて何かを作る。それが人のためと言えるでしょう。でもどうもそのような道を歩んでいない。

 

そもそも音楽にどれだけ世の中を変える力があるのか、東北の震災やウクライナ侵攻のような災害級の事があると、三島氏のように何か決死の覚悟で行動で示したいという欲求に駆られる事があります。

実際に世界の紛争、世界の饑餓,難民への支援、被災地への救済、音楽家である自分がそんなことを少しでも支援し救おうとしても無理があり、挫折感を覚えるばかりで、誤魔化して生きるしかなありません。

僕が何で音楽をやっているかと言えば、正直に言えばそんなことを忘れられるからなのです。

自分の音楽で「人の喜ぶ顔が見たい」と良く言ってしまいますが、本当は人の喜ぶ顔を観た自分が喜んで満足したいのです。人に音楽で何かを伝えたいと思うのは人のためではなく、人に伝わった事で自分の喜びになるからです。それは人とおしゃべりをして楽しい事と同じだと思います。

もっと言えば、自分というリスナーを満足させたいから音楽を作っているのです。

僕の場合、あくまで「自分のために」究極の安らぎを求めて音楽をやっているのです。

 

三島由紀夫の場合、いくら本を書いてもそれが人にちゃんと伝わっていない、人のために書いているのに人の役に立っていないという感覚が強かったのではと思います。

これだけ本を沢山書いた三島氏が自分のために本を書く事には満足感を得られていないと思うのです。

「自分のためだけに死んでいけるほど強くない」

実はが盾の会を作って腹を切って「日本を護れ!」と人のために立上がった事以上に、三島氏がどれだけ文学で人を救っているか、人のために役立っているか、それを確信できないほど「強くなかった」と思わざるを得ません。

 

話しの角度を少し変えます。

不登校や自殺の子が出てくる原因はもちろん虐めもありますが、政治や社会や周りを見渡すと、まともな神経だったら現代に生きるのは嫌になってしまいます。

でも僕が音楽のように全てを忘れられる魔法のツールを持てているように、それぞれの子どもたちに役立つアイテムがあるのは間違えないのです。

子どもたちの間に流行るアニメなどで転生ものが多いのは、現実から離れて冒険者になったり、架空の王国を救ったり、非現実の中で人のために生きたり、死を恐れず何かに向っていったりする話しが主流です。だからこそアニメで救われたという人が京アニの事務所に涙を流してお花を手向けに来る。自分の親族すら滅多にお墓参りに行かないような人たちがです。

 

言い方を変えれば、感受性の高い人間はもの凄いアーティストになるか、何もしない人になるか、どちらかなのです。

マルセル・デュシャンも30代で何も作品を作らなくなり、チェスばかりして余生を過しました。川端康成も書かなくなり、自殺してしまいました。自分を誤魔化せない人はそんな感じだと思います。

「人のために」と思わなければ、芸術家も何もしなくなって酒ばっかり食らっているでしょう。格闘家はトレーニングをサボるようになるでしょう。それほど人間は弱いと三島由紀夫は言いたかったのかも知れません。

 

現代の日本で、人のために死ねるのは「ヤクザ」の世界に生きる人たちくらいでしょう。自衛隊だって人のために死ねるような組織には出来ていません。

人間というのは自分のためだけに生きて、自分のためだけに死んでいけるほど強くない」

いや、僕は自分のためだけに生きぬけば、自分のためだけに強くあろうとすれば、個の可能性を充分に求め続ければ、簡単に死に至る事は出来ない事だと思います。

思えば、この世に生まれると言う事だけでも、一回の受精の何億分の一の確立で生を受けたわけですから、まして宇宙の始りの事から未来の事までを想像できる人間という動物に生まれる確率だけでも、とんでもない分母の桁数となるでしょう。その人間が生を受けている時間なんてあっという間です。その潜在能力の可能性を考えたら、人のために生きるなんて言っている場合ではないような気もします。

 

僕は人のために優しい心になれる事は良いと思います。生きるためには支え合っていかなければ生きてはいけないから。衝動的に身を挺して盾になってしまう事はあるでしょう。でも自ら人のために命を捨てる事は無いと思います。それは同様に「誇り」「伝統」「国」を大切に思う心はあっても、命を張る事は無いと思っています。

あえて自分のために生きるという事は大変なパワーが要る事だと思います。現実に生きるために色んな事をしなくてはならないし、「人のため」と考える事はとても簡単な結論だと思ってしまいます。ただし自分のためとは何でも自由で我儘を通す事とは意味が違います。

 

「自分のため」とはとても孤独な世界です。

谷川俊太郎さんの場合は「20億光年の孤独」という、最初から「孤独」をテーマにし、孤独だからこそ万有引力のようにひかれ合う人の心を説いています。

「一人が歌を歌い出すと 声はこだまする・・・・・・自分で考え自分で始める(幸小学校校歌より)」

谷川さんは「さあみんなで何かを成そう」ではなく、個から始りそれが引かれ合って人間社会を成していく、つまり自分のために一生懸命何かをやる事が人を巻きこんでいく、僕はそんな解釈をします。

 

そうは言っても音楽を作る以上、相手の琴線に触れて欲しい、伝わって欲しい、それが諸刃のように交錯しているのも事実なのです。

NHKアニメ「ふしぎ駄菓子屋 銭天堂」の音楽でサントゥール、プサルテリー、リュート、サズ、など様々な楽器で演奏していますが(作曲は未知瑠さん)、まさにこの作品のふしぎ怪しい世界観の音楽を、これらの楽器が影で支えているという事がわかる映像が、「東映アニメーション」のYouTubeにアップされました。


 
銭天堂のアニメは2020年の6月に始り、今年で3年目に突入します。その間原作が全国学校図書館協議会・選定図書。2022年、第3回「小学生がえらぶ!“こどもの本”総選挙」で第1位を獲るなど、話題騒然でした。
 
この映像は2月の終りに収録しましたが、CDにもなり、今回で3回目の録音です。コロナ禍でもあり、他のミュージシャンとまったく顔を合せなかったのですが、他にも面白楽器の強者が揃っているなあと思いました。
放送時間が変更になり、NHK Eテレにて 4月8日より毎週金曜 午後6:40からの放送です  

「麦と空」ウクライナと何も知らないロシア兵のために by Tessey Ueno


2011年に福島の事を想い作った「レクイエム」という曲(MAG RECORD-002)を、今回「ウクライナと何も知らないロシア兵」のためにリミックスし再構成しました。
とにかくこの戦争は誰が得をするわけでもない、誰も幸せにならない、世界中の誰も良い思いをしない。「プライド」と「誇り」という実態のないものが得をするだけで、焦土と悲しみだけが残っていく。
僅かな確率の中やっと得られた人の命は、誰もが平穏と幸せを得られる権利がある。
やがてやって来るであろう地球の大惨事の為に、人と人は理解し合い協力し合い、、無駄な争いでエネルギーを消費すべきではない。
人間はもう少し進歩し、進化したと思っていたのだが・・・。
動画はStoryblocksから、画像はShutterstockから購入したものです。限りある素材と予算の中での編集作業なので、充分に表現が伝わるかが心配です。
リュート、プサルテリー、タール、ザルブ、ヴィオラ・ダ・ガンバ、リコーダー、その他、作曲:上野哲生
歌:上野律子

2月26日

結局、邪悪なゴーレムから身を守るには仲間が必要だが、ウクライナ君には助けに来る仲間がいない。
勇者がいなければゴーレムを倒せないが、勇者とは結局地球を破壊してしまうほどの強大な武器を持つものだったりする。
元々世界警察を名乗っていた勇者は今は最新鋭の武器を与えはするものの、直接助けには行かない。
結局、脅威には脅威で対抗するしかないのか?そんな図式に何も出来ない自分等に嫌気が差したりする。
自分がスーパーマンのようなヒーローになって、ゴーレムを一掃してしまえばそれで解決か?
この手の喧嘩は絶対に仕掛ける方が悪いのだが、どうもこの戦争は一筋縄ではいかない気がする。
勇者からもらった武器でゴーレムも結構やられているらしいが、もしウクライナ君が勝とうものなら手を汚さない勇者が儲るように出来ている。
何がどうなっても全てがすっきりしない。自分等の身に迫ったとしたら、どういう行動をすれば正解なのだろう?
とにかく、威信や金儲けが人命より大事なんて事はあってはならない。民を守るために国というシステムを作ったのでは無いのか?

+++++++++++++++++++++

国、って厄介ですね。
国ってヤクザの組織の様なもので、威信という舐められたらあかんという体裁がある。間違った判断で妥協すれば政権も命も失いかねない。
道を曲げないという意味ではウクライナもロシアも同じで、落しどころをさっさと見つければ良いのに頑として曲げない。要するに政府の意地で一般市民や兵隊の命が危険にさらされているようなもんだと思います。
これが台湾と中国の関係にも同じ様な事が起ってもどこを落しどころにするのか、人ごととはとても思えません。
 
 +++++++++++++++++++++

3月6日
確かロード・オブ・ザ・リングで、ある国が圧倒的な敵の武力に屈しようとしていたとき、「戦うべきだ、誇りにかけて」的な決意で結局戦い、結果的には勝利したという曖昧な記憶がある。
僕はそれを観たとき、結局追詰められたら戦うのか、誇りを捨てて奴隷になるのか、相手が圧倒的な暴力で来るときは戦争も免れないのではと、ただそうやっていては戦争はなくならないのだろうと思った。
今回はNATOに入りたがったウクライナの主張に端を発している。ロシアからしてみればNATOの包囲網が脅威だった事は確かだろう。
もちろん独立した国の主権を奪うのはとんでもない事だ。これは身近な台湾と中国の関係と似ている(僕等の子どもの頃は中華民国の名が地図に載っていたのを覚えている)。でも結局力には力で対抗するしか無いのか?
国家というのはヤクザのノリと同じで、舐められたらあかんと言う事で威信にかけて絶対に主張を曲げない。
それはロシアだけで無くウクライナも同じだ。お互いの歩み寄りや落しどころを徹底的に整理すれば良いのに威信が許さない。高いみかじめ料(税金)を払っているのに、それによって何よりも護られるべき人命が失われるのはおかしな話しだ。
結局、ロシアの核の脅しまで出て来て、安倍晋三が「核共有を議論すべき」まで言出す始末(議論する事は構わないけれど安倍さんが言うと結論ありきでしょう)。ウクライナも最後まで戦うと言う事が本当に自国のため、世界の安定のためになるのか、考えて欲しい。
僕等はウクライナに支援しても、結局武器を買うお金になるのではと思ってしまうのだが・・・。

 +++++++++++++++++++++
スクリーンショット 2022-03-12 5.01.12

3月11日

毎年毎年毎年毎年、この時期が来ると8月6日9日の事よりも更に深いため息が出る。
福島の廃炉の事だ。
別に3月11日近辺のみだけでなくその事を考えている時があるが、廃炉の報道によって重くのしかかる。未だに原子力の廃棄物の処分場すら決っておらず、未だに処理水の問題を住民が納得しているわけでもなく、未だに廃炉の方法も方向性も決っていない。
11年間、時が止ったように何も新たな策が出てくるわけではない。ただただ壊したものを修復する面倒な作業が何世代も先まで残されている。地道にコツコツ進めていく作業では解決しない。人類は未来に向ってもっと新しい可能性を求めて羽ばたいて行こうとしていても、この修復作業が残されているため何年も晴れた気分になれない。
こんなリスキーで面倒な原発を再稼働し、更に原発を増設しなくてはカーボンニュートラルの時代に対応できないなんて言う政治家が日本の中枢に陣取っている。
また「日本の安全を守れない」と核シェアリングを推奨する政治家も中枢に多い。
毎年毎年毎年毎年、うんざりするほど廃炉までの道のりの長さを伝えられ、それでも原子力に頼ろうとする感覚が理解できない。僕も随分日本を守ろうとする政治家のグループの主張を覗いたり少しでも歩み寄れるところがあるのか探ってもみたが、そこに群がる理解者たちが自分たちと違う意見の者に対するヘイトの嵐に唖然とするばかりだ。
原子力を完全にコントロール出来ると言う事は、少なくとも下水を完備していないトイレのような状態で言える事ではない。廃棄物を魔法でお米に変えたり、廃炉が20年くらいで更地になって人が住める状態になって健康被害も起きない。そんなレベルで初めてコントロールできたと言えるんだろう。「福島の原発は完全にコントロール出来ている」なんて言ってオリンピック候補地を勝取った人も居たなあ。
兎にも角にも原子力が日本を守るものなのか、日本を焦土にするものなのか、僕の中では答えは明白だ。
「そんな綺麗事を言っている場合ではない」と言われても、いままで汚しに汚して来たわけだから綺麗事にしたい。宿題は夏休みのうちに終らせた方が良い。
防御ばかり固めても相手に脅威を与えてるだけだ。今を生延びるためにも多少苦しくても、自然な人間の状態に成長したい。

+++++++++++++++++++++

原発の危険性は出来た頃から充分に言われていたし、解っていた事なのに、文明の進化と共に安全に導いてくれるのではと確かに他人事で済ましてしまった僕等全員の責任でもあります。
脱炭素にしても80年代からずっと言われ続けていたのに、今になっていきなり規制が激しくなり、航空機はあまり言われないのに、ガソリン車どころか暖炉で薪を燃やす事も牛を飼う事も憚るようになってきている。エネルギーも燃やせば殆どが有害なゴミを出すものだし、もっと早くから人間の生き方の指針を示していくべきだったと思います。
人間の生活の中で物理的にここまでは使って良いけれどこれ以上はダメとか、後に後に色々駄目出しがあるから社会も混乱を来すわけだと思います。
まあその場限りの展望で、専門家がいくら注意しても10m以上の津波は来ないとか高をくくって、安全性を出来るだけ安い方に安い方に仕向けた結果が福島の事故なのだから。政府や東電の所為じゃあないにしても、人間の後回しにする方向性は同じだったのかも知れませんね。

 
 +++++++++++++++++++++

3月20日

数日前の夜中、今まで計画停電すら対象外だった我が家が、久々に停電した。
とっさにテレビをつけたが反応がない。リモコンの所為だ。電池を替えなきゃと思った。こんな時だから何時風呂に入れなくなるかも知れないと思った。だが風呂のスイッチを入れても入らない。電気が無ければお湯も出なくなるのだが。いずれも停電してるんだから電気が通らないと復活できないことをイメージしながらも訳のわからない行動と考えが巡る。落着いていてもパニックになっている。
その時はこのまな永遠に解放されないのではと思うのだが、実際には2時間の出来事だった。
あのような規模の地震があると、ほんの僅かな時間だがこの世の終りを意識してしまう。何とも不甲斐ないような話しだが、きっと今の生を受ける前の、ひょっとしたら恐竜の時代の隕石が落ちてくる記憶なのか、もしくはどこかの星で経験した肥大化した太陽が惑星を呑込む地獄図の恐怖なのか、心の奥底に潜む何かを引っ張り出されるような気がする。
これが冒険者であれば一瞬先がどうなるか解らない状況を楽しめるのかも知れないが、ドラマの世界じゃあないんで、命がなくなってしまえばそれを楽しむ事も出来ない。
そんな一歩先が真っ暗な闇の世界をウクライナは味わっている。これは自然災害では無く、人間と人間が意志で防ぐことの可能な生き死の喧嘩をしている。やめようという意志があればやめれるのに、やめない。
やめない限り再び襲ってくることが確実だから自然災害よりタチが悪い。
2時間の停電で狼狽える我々の生活とは違った、そこは地獄そのものだと思う。
悪魔のプーチンは論外だが、ゼレンスキーも人命より誇りの方が大事なようだ。そんなに命をかけてまで国というものは護らなければならないのか?
僕はたまたま日本に生れた。日本は素晴しい国だが、これが中国であってもハンガリーであっても、アフリカの一種族であっても、もし自分のやりたい事が阻害されたり、迫害されたりしないのであればそれはそれで良いと思う。
住めば都。生れ育ったナショナリズムはあるかも知れないが、同じ地球人としてそれは何処でも同じだと思う。
つくづく思うのは、国という存在は「王道」ではなくシマを護るヤクザのような存在の集りでしかない。護られるべき民は威信と国益の前には簡単に犠牲になる。ヤクザというものの特技は死ぬ事が出来る。そんな中に一般の民がつき合わされて何になる?
武器や核にお金を使わなくて済むなら、どれだけ飢えた人たちを救えるのだろうか?
結局どこかが貧乏で居られるからどこかが富むという図式を世界が強引に肯定するなら、それはそれで戦わなければならない事だとおもってしまうのだが。 

+++++++++++++++++++++ 

考えても考えても、道理しか出てこないです。直面しないとまだまだ想像の世界のままです。
そのうち日本も似たような状態になるのかも知れません。そうなったとき、自分はどうする事を支持し、どんな行動をとるのか、恐らく今の建前と矛盾だらけになります。
音楽でも詩でも絵画でもあらゆる表現方法を駆使して、違う人間同士でもいかに一人一人が尊いものかと理解しあえる事を信じるしかないような気がします。

感染者が一千人を越える勢いの沖縄に来たと言うだけで、色んな人からやたら心配の声をかけられる。
もちろんこちらも十分に感染には気をつけてはいるが、何か報道の一方的なやり方に悪意すら感じる事がある。
オミクロン株は従来の変異株ほど肺を容易に感染させないとの結果も出ている。
米カリフォルニア大学サンフランシスコ校の免疫学者モニカ・ガンディー氏は「われわれは今や全く異なるフェーズにある」と分析。「コロナウイルスは常にあり続けるだろうが、この変異株で非常に多くの人が免疫を持つようになることでパンデミックが沈静化すると私は期待している」と述べているらしい。 
そんな話が出る中でも報道は重傷者の数は一切報じず、感染者の数のみ記録更新で増えた増えたとあおり立て、発行部数や視聴率を増やしている。
今の新型コロナを結核やSARSと同じ第2種からインフルエンザレベルの第5種の感染症にダウングレードしようという案が随分前からある。それで医療のひっ迫や保健所の過重労働を解消できるだろう。でも厚生労働省は頑なにダウングレードはしない。それは分科会と特に医師会からの圧力が凄いと聞いている。
実際にこの煽りの恐怖と経済的困窮で何万人もの自殺者が出ている。それは明らかに感染して死亡する人の数より遙かに多い。鬱病もかなり増えている。
インフルエンザと比べても、新型コロナの場合、肺炎で亡くなった人など何でもかんでも感染で死んだ事になり、合併症があっても全てコロナの所為になってしまうので、同じ様な方法で統計を取ると毎年のインフルエンザとさして変らないだろう(病気の原因は統計では計りにくい)。
とにかくこのまま非人間的な生活が続けば、人間は人間性の損失が加速するだろう。感染に殆どかからない子どもたちはおしゃべりもおふざけも禁止され、コミュニケーションのとれない子どもたちばかり増えるだろう。
野放しに全てが安全だとも僕は言っていない。何が安全で、何を心配するか、もう少し色んな角度でものを観ないととんでもない事になる気がする。
たとえば飲食店が安全対策店は9時以降、対策をしてない店は8時以降営業しちゃダメってなんの効果があるのか常識的に考えておかしいと思わないのか?問題はその規則に従わない者は周りからパッシングを受けることになる。あなたは非国民だと!
長い前置きとなってしまった。ロバの沖縄公演はお客さんの顔を見る限り大成功だったんだと確信する。沖縄の反応は本当に思った以上に良い反応をしてくれる。世界フェスなのでそのうち配信もあるらしい。舞台道具を空輸するなど何かと大がかりで手間のかかる公演だったが、何とか無事に完了して帰ることが出来た。7日に前日の雪の凍結が祟り、羽田のP5駐車場から第一ターミナルまで4キロ程度の道程が大渋滞となり2時間かかったという尾ひれ以外は。
 
271650252_4754521577963555_9105392243951106373_n
沖縄料理は大好きだが、今回ばかりはさすがの僕も一人でひっそりとしたところを選んだ。万が一感染でもしたら公演自体がパーになるからだ。新変異株が如何にたいした事は無いと言えど、既に個人の問題では無い。
 
蔓延防止を決定したその日は沖縄最後の夜だったが、中心街からはかなり離れた石嶺食堂に行った。昔から離れた場所にあるためよほど決意を持って行かないと疲れてしまう。最近は歩いて10分くらいのとこ子にモノレールの駅も出来て、タクシーの世話にはならずに済む。
271559624_4754522007963512_5016102371927457059_n
271648321_4754525767963136_4595063419403886901_n
 
と言う理由は建前で、あくまでも僕はこの店の料理と雰囲気が沖縄で一番好きなのだ。特に焼きテビチとソーキ焼は同じ味はどこにもない。何を食べても美味しいが、一人なので何を頼むべきか本当に迷う。焼きテビチはハーフサイズもあるが、更にその半分を頼んだりして身体のことも考えた。
271543637_4754524914629888_8520435253522267507_n
271561777_4754524634629916_6668309684892044609_n
 
ここには僕の大好きな「菊乃露」の古酒も置いている。いつもは安価で旨い「菊乃露ブラウン」だが少しだけ奮発した。この宮古島の泡盛は僕に幸せを感じさせてくれる。三日間の疲れを全て浄化してくれるようだ。
さすがに沖縄県が蔓防を決定したせいか、お客さんは普段以上に少ない。
271650451_4754525311296515_554135276860410956_n
お婆さんが一人先客で沖縄そばを食べに来ていただけで、すぐに僕一人となった。静かに沖縄民謡が流れるだけで、風もゆるやかに吹いて(その日は気温20度くらいで窓も開いている)、国際通りの喧騒や基地問題からもかけ離れた昔ながらの沖縄があるようだ。
この人里離れたお店でも、当然ながら時短営業されられる。女将さんも「いつまでつづくんかねえ」と嘆いていた。
東京でもコロナ禍で、僕の好きな店が何軒か無くなった。お年寄や疾患のある人は本当に気をつけなければならないけれど、いきすぎた規制、報道、偏見は人から大事なものをどんどん奪っていくような気がしてならない。

作曲を担当した、宇都宮のファンファンミュージカル第10回記念公演で2022年1月8日(18:30開演)9日(13:30開演)、初演予定のミュージカル「招待状」チラシです。
コロナで延期に次ぐ延期でようやく年明けに公演となりました。
ファンファンミュージカルは2009年の「夢を信じて」2018年の「アンピュイの贈りもの」と3本目の作品です。
 
この作品は昨年の5月に初演の予定でしたが、コロナで延びて延びてようやく公演にこぎ着けました。
266929459_4652961848119529_1514634266335502444_n
今回はロックやジャズの要素も多く、久々にこういったジャンルの曲を幾つも作りました。それなりに良い曲が作れたと思っています。

下記はミュージカル「招待状」の練習風景を録画録音した、プロモーションビデオです。 
背景も何もない練習会場での据置き映像です。歌の録音は改めて録って映像に被せました。
 

大谷翔平選手が投打二刀流で今年のアメリカでのMVPを獲得した。これは確かに今までの球界の常識からすればとんでもない出来事である。僕は日本にいる頃から素晴しい体格(特に腰)を持った大谷に注目していたし、日本ハム対広島戦でネクストバッタサークルに大谷を立たせただけでプレッシャーで相手投手に四球で押出し決勝点を与えてしまうような、ただならぬ存在感に将来を期待していた。
260922904_4600163710066010_5185819657046306256_n 
でも僕に言わせると大谷は二刀流だから凄いのではない。打っては凄くて、投げては凄い、走っても凄い、それぞれが一流なのであり、全てが揃っているから凄いのでは無い。
元々野球は投げて守って打って走る多元的なスポーツだ。打者もどんなに打撃が良くても守備が下手だと、打点以上に失点が多くなるだろう。そういうスポーツだと思っている。ある時からそれが専門業に分れ、投手は打てなくても良く、打者も守備が悪ければDH等という制度が出来て、より専門色の強いゲームになってしまった。
音楽でも同じだ。元々パフォーマーとは演奏して歌って、そのレパートリーを作詞して作曲して、演技もして振りも付ければ手品もやる。それが元々の音楽家のスタイルだった。でも近代は演奏家、作曲家などと専門化してそれぞれ分れて担当する事が当り前のようになっている。
何でも「専門家」とか「一筋」「一途」と言うと、誰もが一様に納得する。それはそれでカッコイイのだが、それに対して「専門バカ」という面もある。(星飛雄馬などの梶原一騎の主人公を思い浮べてしまうのだが)
例えばレオナルド・ダ・ビンチを始めとする西欧ルネサンス時代の偉人たちは、科学者であり、哲学者であり、発明家であり、芸術家でもあった。単にそれは専門化していないと言うより、例えば一人の女性ならそれを科学的哲学的美術的視点、あらゆる角度からそれを観て表そうとする。それはそんな特別な事では無く、小説家や映画作家だったらSF的心理学的世界のあらゆる事から素材を見つけようとするだろう。それはいくら文章が上手くたって成立つものではない。ありとあらゆるものを取込み専門家並の知識を身に付け、それを掛合わせてドラマが新しい命を持って面白い小節というものが成立する。
あえて自分の事で例えれば、僕はプサルテリー奏者であり、サズ、リュート、サントゥールと、たまに太鼓を叩き歌も歌う。何が専門なんだか自分でもよく解らない。作・編曲家でもあり、たまに作詞もする。PCを使った録音技術も持っている。時間とお金があれば映像作品を手がけてもみたい。全てが素人的で何の専門家でも無い。でも自分は音楽家、またはパフォーマーであり、それら全てを利用し表現する人間なのだ。(と、自分を肯定してしまったが、その所為か僕はどの分野からも一流とは認められていない)
大谷も一人の野球人であり、彼の強靱な腰と野球センスそのものが素晴しいバッティング、素晴しいピッチング、素晴しい走塁を生む。そしてそのマナーの良さ、謙虚さなど尾ひれが付いているようだが、それら全てが彼の哲学であり科学であり、生きる姿なのだ。何度も言うが二刀流だから凄いのでは無い。個としての野球全てを見渡し、生き方を見つめ、その彼のセンスが全てを形作っているのだ。
「専門バカ」についてひとつ言っておきたい事がある。感染症の専門家委員会は、感染さえ防げればあとはどうなろうと構わない、どうも世の中の他が見えてないような気がする。だいたいなんで分科会なんて言葉が出てくるのかと思ってしまう。
お年寄は気をつけなければならないが、これだけ無症状者が多く重傷者が少ないのに(10代以下は殆ど死亡者は出ていない)、インフルエンザより恐ろしい感染症ランクに留めっぱなしで、子どもたちは喧嘩もじゃれ合うことも出来ず、人間性すら失った世代になるだろう。職を失い命を絶つ若者も多い。
異論も多いかもしれないが、専門家たちは少なくとも感染症だけで無く全ての病理学からの視点を持つべきで、感染対策の社会への影響、心理、現象を細部までシュミレーションしなければならない。社会がどういった方向に向っていくのが良いのか?さらにどうなれば人間は幸せになれるのか?そう言った事を複合的に考えられる能力が今は必要とされる。
省庁の縦割社会にしてもそうだ。それぞれの省庁が専門家ぶって横の繋がりを考えないから全てに遅れを取る。
「論語と算盤」では無いが、世の中が専門外の要素を結びつけて新たな芽を生み出す幅広い視野が必要とされる時代なのではないのか?

Lost Things(忘れてきたもの) Composition & Psaltery by Testy Ueno
Psaltery solo の曲です。 最近、身近な人が何人か亡くなり、その人たちが生きているうちに何か忘れてきたもの、やり残したこと、どんな思いで人生の終末を迎えたのかそんなことをずっと考えていて、そんなイメージを音にしてみました。
画像はUnsplashというfree image サイトから老人の写真をランダムに無作為に集めて流してみました。画像と音が合うかも知れませんし、合わないかも知れません。合わないと思えば、音楽だけ聴いてください。

 

↑このページのトップヘ