日本の子どもの学力が落ちている。
様々な調査方法があるから一概に言えないだろうが、大方の見方がバブル経済時期のゲーム機の氾濫以降、ゆとり教育以降、それを軸に落ちたと考えられている。

もちろん学力など人生の中でどれだけ役に立っているかは疑問な所もある。
それ以上にお金を儲ける力、国を繁栄させる力、面白いものを発明する力、人生を楽しくする力、そんな力があれば学力など入らない。

それ以前の事で、今の若者の一部は物を知らない事がカッコイイかのようである。
本も読まなければ、栃木県の県庁が何処だろうが、大化の改新がなんなのか、そんな事でいちいち驚いたり感動なんかしていられない。
人間が生きていく上ではあまり重要な事ではないかも知れない。

ではなぜ学問、学力が必要か?
福沢諭吉は有名な「人の上に人を造らず・・」の言葉に続いて「人間世界ヲ見渡スニ、カシコキ人アリ、オロカナル人アリ、貧シキモアリ、富メルモアリ・・・」この差は学問を学ぶ人と学ばない人との差だという。
しかしながらこの考え方だけだと、勉強をすれば賢くてお金持ちになれるという事のために頑張るという図式になる。
もちろん貧しい家庭では学問を学ぶことすら危うい場合があるし、人のため、家族のために辛抱我慢の動力だけで勉強するには、もしその者との別れなどがあって目的を無くしてしまった時、もうどうでもいいやとなる可能性が高い。

働く事と勉強する事は相反部分があると思う。多くの労働は繰り返しの作業が多い。
広告企画者の様なクリエイティブな仕事であっても、紙面や画面を飛び出す事、例えばいきなり微生物の研究を専門的にする事はほとんど無い。
もちろん労働の中でも毎日少しづつ違った工夫をして変化させていくのは、生産力を高めるため必要な事だろうが・・・。

そのような日常世界から飛び出た興味・・・今この書いている紙はどうやって作られるのだろう、テレビはなぜ映るのだろう、人はなぜ争うのだろう、生命は何で生きるのだろう、宇宙の果てはどうなっているのだろう、なぜ存在するのだろう。そんな思考と発見の世界が学問だと思う。
これは決して書物を読むだけではない。
身の回りを見つめるだけでも面白いように発見の連続となる。
つまり毎日、昨日までになかった発見をするだけでそこから連想ゲームのように世界が巡る。
疑問が疑問を呼ぶ。
この意味での学問は毎日毎日が違った思考の世界に遊べるところが楽しい。
吉田松陰は死罪が決まってからも牢の中で学問をしたという。
「死ぬのに何を勉強するのか?」と問われたりする。
こうなると学問は誰のためでもない、自分の中に知りたい事があり、疑問があり、それを解決したい欲求があるからこそ学問をする。
そこには毎日違った発見があり、またそこから疑問が生まれ、まだ体験した事もないようなとてつもない世界へ飛んでいく事も出来る。
毎日同じような食事を取り、特定のジャンルのカラオケを歌い、限られたゲームを毎日のようにやる。いつも同じような仲間と同じような話題を繰り返し、お決まりのテレビ番組を観て毎日を変わりなく寛ぐ。
それはストレス解消や気晴らしとして良いのだが、たった一度の人生の中において毎日が変化がないとすれば、人間としての優れた能力を身につけた者としてとてつもなくもったいない気がする。

自分の事で言えば、小さな事で良いから毎日一つだけ何か発見をしたい。
それも心躍るような発見を。
それはテレビだろうと、舞台だろうと、書物だろうと、漫画だろうと、インターネットだろうと何でも良い。
街中でも自然の中でも、観て聴いて触って嗅いで味わって、何か新しい発見があればよい。

どんなものでも良い。違った疑問や発見が出来る材料であればよい。
それがもし発見につながるならその内容以上に面白い事であり、それに出会えるチャンスは多ければ多いほど豊かで楽しい人生だと思っている。
お金がなくたって一つの図書館に行けば、恐らく一生出会えないほどの量の発見との出会いが待っている。
「知識ばかりで頭でっかち」とよく言うが、知識はあるに越した事はない。
ただし発見のない、知識の持ち腐れになっている場合はそういわれても仕方がない。
知識が多ければ自分なりの考えや発見を生み出せる可能性が高まる。
異国の言葉を学ぶだけで自分の想像もしない不思議な文化を体験する事も可能だ。
歴史の年号まで覚えなくとも良いが、ある程度の絶対時間を把握したほうが物事の因果関係を知ることが出来、歴史上の思わぬ仮説や実像が浮かんでくる事がある。

結局、ゆとり教育だろうが、詰め込み教育だろうが、やらされている勉強ほどつまらない物はない。
π=3などと決めつけられたのを鵜呑みにしないで、自分の円周率を勝手に公理として作ったって良いわけだ。
聖徳太子の渡来人説でも構わない。
荒唐無稽大いに結構。
毎日が新たな発見の連続。
ただし、リアリティを持たすためには調べなければならない事が山ほどある。

学校の先生でも、親でも、近所の叔父さんでも良い。
そんな知識と発見の面白さを身をもって伝えられる人がいれば、いろんな能力に秀でた次の世代が出てくるのになあ。