西洋音楽の基礎となる音律の元を考え出した者としてピタゴラスの名前が最初に出てくる。
7はピタゴラスにとって整数だから、これによって7音階が生み出された。
もちろんピタゴラスの音律は独自ではなく根源的なもので、中国を始め様々な所で似たような考え方が発生している。
ピタゴラス数学の特徴的なことは1+1=1、2+3=1のように何をあわせても1になる。
円を基盤にした考え方である。しいて近いのは分数だ。
数はなんでも1から分ける発想になる。

でもピタゴラスと鍛冶屋のエピソードは解りやすい。
ピタゴラスが鍛冶屋の前を通ると、その日は特幾つもの鉄を打つ音が何とも美しい響きで互いに共鳴しあっていた。
ふとそれぞれの重さを量ってみると、一番重いのを(仮に)12kgとしよう。一番軽いのが6kg、次に8kg、9kgというふうに 割り切れる数だったという。
つまり1:1/2:2/3:3/4という具合だったという。
12kgの鉄を今の「ド」と仮定すれば、「ド、ファ、ソ、ド」の音が響いていたことになる。 つまりここで言う質量=振動数が2回に1回、3回、または4回に1回と比較的すぐに出会うことを、今で言うと「ハモる」という事なのだ。振動数が近くても微妙にずれているのを「唸る」と言う。 Sinpuku_2
ピタゴラスの鍛冶屋の話は実際にあった事かどうかは解らないが(こんな偶然に出会う確率はロト並だと思われるので)、ピタゴラスはそこから2/3(完全5度)と4/3(完全4度)を掛けあわせていって、以下のように音階を作っていった。
いわゆる五度圏というものである。
2/3を永遠に掛けあわせても良いのだが、鍵盤からあまり遠退いてしまうとわかりにくいので、なるべく近い音域の間の繰り返しにするためである。 Pita5_2
最初の7音だけ使うと(この場合はト長調であるが)、いわゆるドレミファソラシのよく耳にする西洋基本音階となる。
これをさらに12音を繰り返してみると上記のようになり、平均率の鍵盤だと最後はシの#つまりオクターブ上のドになるはずだが、分数で計算してみるとそれは1/2にはならず、最初のドの音とはずれていることになる。
これは音階の不思議というよりは数というものの仕組みによるものだ。
式はこうだ。 2/3×4/3×2/3×4/3×2/3×4/3×2/3×4/3×2/3×4/3×2/3×4/3=110/223 

つまりオクターブである1/2より3/110 高くなっている。
この誤差をピタゴラスコンマと呼ばれている。

元々、オクターブと完全5度、完全4度の関係というものは分数の中でしかなく、素数同士がお互いに無関係なことに等しい(専門家ではないのでこういう言い方が正しいのかどうか)。
まるでそれは円周率がどんな分数とも関係ないことに類似している。

ピタゴラスより2000年以上経ったA.C.1500年以降、現代にもっとも耳なじみのハモり=4/5(長3度)5/6(短3度)が多用されることになるが、この3度の関係(例えばドとミ)、とピタゴラスの5度圏と一致しない。
3do_2
この4/5、5/6の完全3度(!?)は自然倍音という一つの音の振動の中にかすかに聞こえている響きなのである。
これは一つの音の中に振動数が1/2,1/3.1/4,1/5,1/6.1/7,..........という成分が必然的に含まれることから、たとえピタゴラス音階に無くともこの響きを無視することは出来ないのである。
声や楽器によってはこの倍音の響きが確認できることも多い。 Baion_2
中性ヨーロッパでは3度が不協和音といわれていたのは、この時代はピタゴラス調律が中心だったからに他ならない。
時代とともに西欧は音階の中に4/5、5/6の完全3度を取り入れて新しい音階を作る。
この3度のあり方をどう組み込むかで、様々な調律法が生まれ、また多くの論争が生まれた。

アラビアは最初からこの3度の問題で論争を回避するために、3度でハモらない宣言をして中立3度というものを考え出した。
(このあたりのことを説明できる音楽の先生もあまり多くはないだろう。それは多くの先生はピアノ中心で、本当の意味で多様な調律をした経験が少ないから、観念でしかそのあたりを理解できないところにある。)

世界では音階の数を限る5音音階や6音階、オクターブを4度ととらえるテトラコルドの考え、インドでは22音の音階、民族に対してそれぞれの音階がある。
でも多くの元になっているのは2/3(完全5度)と4/3(完全4度)の積み重ねを元にしているのは確かである。
おそらく高度な文明を持った宇宙人が奏でる音楽は、手法的には全く違った音楽であろうが、音階の考え方に関してはあまりかけ離れた考えはないような気がする。
音である以上、自然倍音が存在したり、ハモりが存在したりする。
そこから生まれてくる音楽の響きは日本と西洋、アラビアの音階の距離ほどでもないかもしれない。
同様に宇宙人の中でも地球人同様、数の矛盾のため音階に対する考え方が分かれたりするであろう。

つまりあらゆるものが納得して、オールマイティの調律法というものは存在しない。
現代に近づくにつれてそんな中であまり多くの人が近似値で納得しやすいのが平均率だ。
これは古代中国にもそれに近いものがあったらしい。
バロック時代に生まれたなどと色々言われているが、ここでちょっと考えてほしい。
僕の考えだと、ピタゴラスはマギに音楽を習っているから、その音階の思考法は弦楽器の指版のポジションを元に考えていると思う。
これがピタゴラスのフレット(の様なもの)を張った弦だとすれば、何か見えてこないか。
僕は単純に間にフレットをその間に置いてみたくなる。そしたら自然と12平均率に近いものができあがる。
少しイメージの発達した人であれば、この楽器に7音音階を置いた時点で、時を経ないでここに音を置いてみたくなるだろう。
ピタゴラスがいくら7に趣を置いたとて、ここに置いたらどんな音楽が出来るかはやってみたくなるだろう。
Fret_3
さらに不均等な部分を調整してフレットの幅を均等に増やしていく方法を見つけるだろう。
つまり弦楽器で音階を作ったときに、程なく平均率は発見されているのである。
だからこそ自然発生的なものと考えて良いと思う。

これを使いこなすのは確かにバロック時代まで待たなければ、音楽的な欲求が着いてこないことになるが、平均率はもうすでに存在していたことは間違いないと思う。
実際に16世紀終わり〜17世紀初頭のジョン・ダウランドのリュート音楽も、ほとんど平均率に近かったと思わざるを得ない。
同じリュート曲集で調号が♭4つから♯3つ位まで混在する。
バッハは鍵盤中心だからそこをもっと踏み込めたわけで、音楽は素晴らしいと思うけれど、平均率すべてで作った意味に対してはせいぜい数え歌を作る程度のことに過ぎないことだと思う。
逆な意味で、いわゆる現代音楽の行き詰まりは、新しい調律法を生み出さず、12平均率を基盤にその間の1/4音やさらなる分割を考える程度で、そうでなければ伝統的な別の民族の文化をその中に取り入れているだけの、借り物の音理論で構成しているだけに過ぎない。
新しい音階の可能な、出来れば新しい音色の楽器を作り、コンサート会場ではない新しい空間、その奏者は西欧のクラシックの奏法を学んだだけでは得られないような音楽がこれからの時代の音楽なのではないのだろうか。