人間はそれぞれの顔が違うように価値観が違い、美意識が違い、趣味が違う。
大事なものも違えば、正しいと思う事も、悪と思う事もそれぞれ違う。
いろんななにかが居るのが人間界で、生物界で、宇宙であり、全てである。
特に人間は地球の中では生物の中の最大の勢力となっている。
ものを作る事の出来る人間は、その思考が別々のの個性を生む事になる。
その一人一人の考え方は一様ではなく、それぞれが違っていてそれは良い。
それでも人間はすでに集団で生きるように出来ている。
トラブルが起きれば助け合ったり、周辺が協力して暮らしを楽にし、生きる上での楽しみをもたらす。
問題は、誰かが良かれと思ってやる事は、別の誰かにとって耐えられない事がある。
価値観が違い、美意識が違い、趣味が違うことは、自分と同じ人間と思えない場合がある。
ある時、部族の長が全体をとり仕切り、全ての行動を束縛したり規制したりするようになった。
様々な個人の意見よりも部族全体としての利益を大事にするようになる。
長になる方が自分の考えで他を服従させる事が可能となり、長になるために力を競う事となる。
やがていくつかの部族をまとめた中での長が暴力で決まり、国が出来る。 別の国をまるごと征服すれば、奴隷や束縛が可能となり、別の人間の思考や行動の自由を奪っていく。
力のあるものの価値観や美意識がその世界を覆い尽くし、ひとつに纏まってしまう事がある。 強大な暴力があれば、その他の価値観を持つものは粛正してしまえば良いからだ。
スターリン、ヒトラー、毛沢東、ポルポトなどを思い出せばよい。
それで争いがなくなるだろうが、人としての個性は一部の者しか生かされない。
下の者は生き甲斐はなく、上に立つ者は常に下からの脅威に怯える。
人間はもっと知恵を使えば争わなくなる。
女を取り合う以上の争いがなければ、多くの人は結構幸せな生活を送る事が出来る。
その知恵は宗教的なものでも良いのだが、特定の宗教では結局価値観が違い、美意識が違う。
それはちょっとした我慢と見識によって可能になる。
それは山のようにどんと構え、川の流れのように身を任せ、全てを受け入れられる心だ。
僕だって嫌いなものがいっぱいある。
暴力団だって、オームのような狂信宗教だってあまり交わりたくない。
しかし、それらをわずかでも受け入れる心がなければ、結局は強制的に排除するか、争うかしかない。
我々は昨年、とても哲学的に、宗教的にも大きな経験をした。
昨年の津波での被災地のように、全てが壊れてしまえば否が応でもひとところに身ひとつで非難しなければならない。
そのときはあなたはヤクザだから、泥棒だから、原発推進派だから、金正日だから、と差別する事は出来ない。
全てを受け入れなければならない。
我々はあの教訓からその環境をイメージ出来る。
少しの我慢で大きな心を得る事が出来る事を。 あとはどう共存するか、知恵と難しさを伴うだろうが、争ったり殺し合ったりする事とその遺恨による後始末よりは大変な事ではないだろう。
こんな感覚を神も教団も持たない教義または哲学として人の心に宿れば、多くの人にいくらか幸せな生活がやって来るのではないかと思うのだが・・・どうだろうか?
大事なものも違えば、正しいと思う事も、悪と思う事もそれぞれ違う。
いろんななにかが居るのが人間界で、生物界で、宇宙であり、全てである。
特に人間は地球の中では生物の中の最大の勢力となっている。
ものを作る事の出来る人間は、その思考が別々のの個性を生む事になる。
その一人一人の考え方は一様ではなく、それぞれが違っていてそれは良い。
それでも人間はすでに集団で生きるように出来ている。
トラブルが起きれば助け合ったり、周辺が協力して暮らしを楽にし、生きる上での楽しみをもたらす。
問題は、誰かが良かれと思ってやる事は、別の誰かにとって耐えられない事がある。
価値観が違い、美意識が違い、趣味が違うことは、自分と同じ人間と思えない場合がある。
ある時、部族の長が全体をとり仕切り、全ての行動を束縛したり規制したりするようになった。
様々な個人の意見よりも部族全体としての利益を大事にするようになる。
長になる方が自分の考えで他を服従させる事が可能となり、長になるために力を競う事となる。
やがていくつかの部族をまとめた中での長が暴力で決まり、国が出来る。 別の国をまるごと征服すれば、奴隷や束縛が可能となり、別の人間の思考や行動の自由を奪っていく。
力のあるものの価値観や美意識がその世界を覆い尽くし、ひとつに纏まってしまう事がある。 強大な暴力があれば、その他の価値観を持つものは粛正してしまえば良いからだ。
スターリン、ヒトラー、毛沢東、ポルポトなどを思い出せばよい。
それで争いがなくなるだろうが、人としての個性は一部の者しか生かされない。
下の者は生き甲斐はなく、上に立つ者は常に下からの脅威に怯える。
人間はもっと知恵を使えば争わなくなる。
女を取り合う以上の争いがなければ、多くの人は結構幸せな生活を送る事が出来る。
その知恵は宗教的なものでも良いのだが、特定の宗教では結局価値観が違い、美意識が違う。
それはちょっとした我慢と見識によって可能になる。
それは山のようにどんと構え、川の流れのように身を任せ、全てを受け入れられる心だ。
僕だって嫌いなものがいっぱいある。
暴力団だって、オームのような狂信宗教だってあまり交わりたくない。
しかし、それらをわずかでも受け入れる心がなければ、結局は強制的に排除するか、争うかしかない。
我々は昨年、とても哲学的に、宗教的にも大きな経験をした。
昨年の津波での被災地のように、全てが壊れてしまえば否が応でもひとところに身ひとつで非難しなければならない。
そのときはあなたはヤクザだから、泥棒だから、原発推進派だから、金正日だから、と差別する事は出来ない。
全てを受け入れなければならない。
我々はあの教訓からその環境をイメージ出来る。
少しの我慢で大きな心を得る事が出来る事を。 あとはどう共存するか、知恵と難しさを伴うだろうが、争ったり殺し合ったりする事とその遺恨による後始末よりは大変な事ではないだろう。
こんな感覚を神も教団も持たない教義または哲学として人の心に宿れば、多くの人にいくらか幸せな生活がやって来るのではないかと思うのだが・・・どうだろうか?