「ある一日をあるく会」の、第2回目をおこなった。
この会は、仕事仲間で歴史好きの同志でもある岡部敬史さんと、
今年1年、少し変わった視点で史跡を歩いてみようと計画したイベント。
前回は、勝海舟の自宅(赤坂)から、西郷隆盛と会見した薩摩藩蔵屋敷(田町)までを歩いた。

さて今回は、どこを歩いたのかというと、京浜急行線の立会川駅。
品川駅から南へ約10分、各駅停車で5駅いったところにある小さなこの駅周辺は、
知る人ぞ知る、あの坂本龍馬ゆかりの街なのだ。大河ドラマ「龍馬伝」の放映当時、
本編のあとの「龍馬伝紀行」でも少し紹介されたので、覚えている人もいるだろう。

まず、立会川駅から西へ向かい、国道15号を横断して、少し北へ。
すると、国道沿いに建つ浜川小学校のグラウンド沿いに1本の看板がポツンとある。
ここは、土佐藩の下屋敷跡。若き日の龍馬が訪れた場所だ。
安政の大獄のさい、山内容堂が蟄居させられたのもここ。

いまの浜川中学校を中心とする、周辺の約1万6,800坪という
広大な敷地に、かつて土佐藩の下屋敷が建っていた。看板にその範囲が記してある。
すぐ隣には薩摩藩の下屋敷もあったそうだ。
龍馬は1853年(嘉永6年)の4月に江戸へ剣術修行に来ていたが、
その2ヶ月後の6月に、ペリーの黒船が浦賀へ来航して江戸は大騒ぎとなり、
異国人の上陸、攻撃を恐れた幕府は諸大名に沿岸の警備を命じる。

当時、築地にあった土佐藩の屋敷(中屋敷か上屋敷)にいた龍馬も、
同じく江戸へ来ていた土佐藩士とともに召集を受けて、
この品川の土佐下屋敷へ赴任。ここから、湾岸の浜川台場に通ったのである。
ここを起点に龍馬がたどった道をなぞるべく、歩数計をセットして、いざ出発。

いったん立会川駅へ戻り、そのまま勝島運河方面へ向かう。
立会川の流れにそって、駅前の商店街を東の海のほうへと向かう形になる。

駅の東側の公園には、2mあまりの龍馬銅像が、デンと立っている。
以前は「しょぼい」といわれていたが、今は違う。ブロンズ製のなかなか立派なものである。
実際、この像が建ったのは2004年のことで、当初は高知市から寄贈された
プラスチック製のものだったが、2010年に今のものに建て替えられたのだという。
この地に龍馬が訪れたのは20歳のときで、この像も
「20歳の龍馬」をイメージして造られたらしい。故郷の土佐を遠く離れた品川に、
こんな立派な像が建っているのだから、龍馬本人も墓の下で喜んでいるのではなかろうか。

立会川駅前の商店街には、のどかな雰囲気というか、古い店が多い。
「龍馬の町」ということで、色々な店が龍馬にちなんだ食べ物を出している。
写真のように浜川砲台にちなんだ「砲台そば」とか、「龍馬ラーメン」という具合だ。

さらに川に沿って勝島運河へ向かう途中、旧東海道に出る。
そこに架かっているのが、浜川橋。かつて「涙橋」と呼ばれた橋だ。(地図)
この先の大森海岸の近くに、鈴ヶ森刑場跡がある。
鈴ヶ森刑場は江戸時代に丸橋忠弥、八百屋お七など多くの罪人とされる人々が
処刑された場所で、罪人たちはこの橋を通り、刑場へ連行されていった。
見送りの者はここまでついてくることが許されたため、
遺族らがここで涙ながらに見送ったことから、「涙橋」の名前がついたのだという。
今回は鈴ヶ森刑場までは足を延ばさなかったので、くわしくは別の機会に紹介したい。
罪人たちは日本橋の小伝馬町の牢屋敷に収容されていたのだと思うから、
ずいぶんな距離を曳かれてきたんだねえ、という話を、感慨深く岡部さんとした。

涙橋のところで東へ折れると、ほどなくして勝島運河へ出る。
すると、見えてきたのは黒船と龍馬のデフォルメされたイラスト。
ここには、土佐藩の抱え屋敷という小さな建物があり、浜川台場が築かれた場所だ。
今は運河の向こうは埋め立てられて陸地となっているが、かつてここから先が海だった。
(地図)

ここに台場があったとはっきり分かったのは、実は結構最近のことだ。
2004年に、台場の石垣に使われたと思われる石が発掘されたからである。
これらがその一部。それ以来、立会川は龍馬の町として知られるようになったのだ。
龍馬は、ペリーが1度目に来航した嘉永6年(1853)の6月と、
2度目に来航した嘉永7年(1854)1月の2度、ここに派遣されてきたようだ。
ペリーは最初の来航のときは1週間ほどで香港へ引き返したが、
2度目のときは1月中旬から6月1日まで、約半年も日本に滞在した。
最初の来航のとき、龍馬がどのぐらいの期間品川にいたのか分からないが、
ペリーがいったん香港へ引き返した後の12月、佐久間象山の塾へ入門。
象山の門下には、勝海舟や吉田松陰もいた。
そこで砲術を学んだが、年が明けてすぐペリーが再来航したため、
再び立会川へ召集されて来ている。そのときには浜川台場ができており、
そこで沿岸警備にあたったという。
2度目の来航時、ペリー艦隊は羽田沖にまで入ってきて、
この浜川台場から1.6kmのところまで迫る。
そして1月下旬、ワシントン初代大統領の誕生祝いと称し、120発もの空砲を撃ったという。
日本人への脅しの意味もあったのだろう。おそらくは龍馬もこれを見ていたはずだ。

小説やドラマでは、龍馬は黒船を浦賀まで見に行ったように描かれているが、
はたして本当に浦賀まで行ったかどうか…。
じっさいに龍馬が黒船を目にしたのは、この2度目の来航時、品川沖のことだったと思われる。
龍馬は撤退命令が出る2月末までの約1ヶ月、立会川に滞在。
先ほどの土佐藩下屋敷からこの浜川台場との間を幾度も行き来したはずだ。
このときの龍馬は、まだ多くの日本人と同様、攘夷思想しかなく、
父親にあてた手紙には「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と記している。

下屋敷からここまでの歩数は、ちょっと寄り道含めて1155歩。
直線距離にして400mぐらいだから、そんなものだろう。
前回にくらべ、今回はプチ散策という感じではあった。ということで、
「20歳の坂本龍馬が品川の海岸を歩いて黒船を見たとき」の歩行距離は1155歩と判明。

台場跡からそのまま運河沿いを歩くと、屋形船や漁船などが停泊していて、
龍馬が見ていたであろう、当時の海岸を彷彿とさせる景色を目にすることができる。
黒船来航時の緊迫した、あるいはお祭り騒ぎだった様子に思いをめぐらせるのも面白い。

旧東海道に戻り、北へ。鮫洲方面へと歩を進める。

さすが東海道、えんえんと商店街がつづき、ときどき古い民家も目にすることができ、
眺めているとほんの一瞬、江戸時代へとトリップさせてくれるようだ。

京急鮫洲駅の西、大井公園のはずれにあるのが、土佐15代藩主・山内容堂の墓。(地図)
「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称されたほどの酒好きだったので、
それがたたってか、数え46歳という若さで、脳溢血でこの世を去ったのは明治5年のこと。
晩年は土佐ではなく江戸の橋場(東京都台東区)の別荘に住んでいたのに、
墓がこんなところにあるのも面白い。土佐藩下屋敷の敷地からも少し離れている。
一説には、この場所からの海の眺めを気に入っていたからだとされる。
さすがは土佐の殿様。墓も大層立派で、まるで神社のような敷地の中にある。
墓の形もユニークだ。
見学時間が9時~17時に限定され、それ以外は門が閉まってしまうので注意されたし。
容堂の墓を拝んで、今回の歩き会を締めくくりとし、
その後は大井町まで歩き、うまい焼酎を飲んでから解散した。
なお、「ある1日をあるく会」は月に1回程度を予定。
そのうち別ブログにまとめる予定で、只今準備中です。
※京急の公式サイトでも立会川の情報あり
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/tachiaigawa/feature/index.html


































































