哲坊の呑む喰う浸かる、歴史に憩う

哲坊こと物書きの上永哲矢が歴史・史跡巡り、飲み食い、温泉などの話題を
ゆるりと綴っております。無断転載ご遠慮ください。

龍馬が南品川(立会川)の海岸で、黒船を見た日のこと

歴史上の偉人がたどった道をあるき、その距離感を体感する、
「ある一日をあるく会」の、第2回目をおこなった。

この会は、仕事仲間で歴史好きの同志でもある岡部敬史さんと、
今年1年、少し変わった視点で史跡を歩いてみようと計画したイベント。
前回は、勝海舟の自宅(赤坂)から、西郷隆盛と会見した薩摩藩蔵屋敷(田町)までを歩いた。

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さて今回は、どこを歩いたのかというと、京浜急行線の立会川駅。
品川駅から南へ約10分、各駅停車で5駅いったところにある小さなこの駅周辺は、
知る人ぞ知る、あの坂本龍馬ゆかりの街なのだ。大河ドラマ「龍馬伝」の放映当時、
本編のあとの「龍馬伝紀行」でも少し紹介されたので、覚えている人もいるだろう。

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まず、立会川駅から西へ向かい、国道15号を横断して、少し北へ。
すると、国道沿いに建つ浜川小学校のグラウンド沿いに1本の看板がポツンとある。
ここは、土佐藩の下屋敷跡。若き日の龍馬が訪れた場所だ。
安政の大獄のさい、山内容堂が蟄居させられたのもここ。

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いまの浜川中学校を中心とする、周辺の約1万6,800坪という
広大な敷地に、かつて土佐藩の下屋敷が建っていた。看板にその範囲が記してある。
すぐ隣には薩摩藩の下屋敷もあったそうだ。

龍馬は1853年(嘉永6年)の4月に江戸へ剣術修行に来ていたが、
その2ヶ月後の6月に、ペリーの黒船が浦賀へ来航して江戸は大騒ぎとなり、
異国人の上陸、攻撃を恐れた幕府は諸大名に沿岸の警備を命じる。

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当時、築地にあった土佐藩の屋敷(中屋敷か上屋敷)にいた龍馬も、
同じく江戸へ来ていた土佐藩士とともに召集を受けて、
この品川の土佐下屋敷へ赴任。ここから、湾岸の浜川台場に通ったのである。
ここを起点に龍馬がたどった道をなぞるべく、歩数計をセットして、いざ出発。

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いったん立会川駅へ戻り、そのまま勝島運河方面へ向かう。
立会川の流れにそって、駅前の商店街を東の海のほうへと向かう形になる。

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駅の東側の公園には、2mあまりの龍馬銅像が、デンと立っている。
以前は「しょぼい」といわれていたが、今は違う。ブロンズ製のなかなか立派なものである。
実際、この像が建ったのは2004年のことで、当初は高知市から寄贈された
プラスチック製のものだったが、2010年に今のものに建て替えられたのだという。

この地に龍馬が訪れたのは20歳のときで、この像も
「20歳の龍馬」をイメージして造られたらしい。故郷の土佐を遠く離れた品川に、
こんな立派な像が建っているのだから、龍馬本人も墓の下で喜んでいるのではなかろうか。

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立会川駅前の商店街には、のどかな雰囲気というか、古い店が多い。
「龍馬の町」ということで、色々な店が龍馬にちなんだ食べ物を出している。
写真のように浜川砲台にちなんだ「砲台そば」とか、「龍馬ラーメン」という具合だ。

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さらに川に沿って勝島運河へ向かう途中、旧東海道に出る。
そこに架かっているのが、浜川橋。かつて「涙橋」と呼ばれた橋だ。(地図
この先の大森海岸の近くに、鈴ヶ森刑場跡がある。

鈴ヶ森刑場は江戸時代に丸橋忠弥、八百屋お七など多くの罪人とされる人々が
処刑された場所で、罪人たちはこの橋を通り、刑場へ連行されていった。
見送りの者はここまでついてくることが許されたため、
遺族らがここで涙ながらに見送ったことから、「涙橋」の名前がついたのだという。

今回は鈴ヶ森刑場までは足を延ばさなかったので、くわしくは別の機会に紹介したい。
罪人たちは日本橋の小伝馬町の牢屋敷に収容されていたのだと思うから、
ずいぶんな距離を曳かれてきたんだねえ、という話を、感慨深く岡部さんとした。

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涙橋のところで東へ折れると、ほどなくして勝島運河へ出る。
すると、見えてきたのは黒船と龍馬のデフォルメされたイラスト。
ここには、土佐藩の抱え屋敷という小さな建物があり、浜川台場が築かれた場所だ。
今は運河の向こうは埋め立てられて陸地となっているが、かつてここから先が海だった。
地図

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ここに台場があったとはっきり分かったのは、実は結構最近のことだ。
2004年に、台場の石垣に使われたと思われる石が発掘されたからである。
これらがその一部。それ以来、立会川は龍馬の町として知られるようになったのだ。

龍馬は、ペリーが1度目に来航した嘉永6年(1853)の6月と、
2度目に来航した嘉永7年(1854)1月の2度、ここに派遣されてきたようだ。

ペリーは最初の来航のときは1週間ほどで香港へ引き返したが、
2度目のときは1月中旬から6月1日まで、約半年も日本に滞在した。
最初の来航のとき、龍馬がどのぐらいの期間品川にいたのか分からないが、
ペリーがいったん香港へ引き返した後の12月、佐久間象山の塾へ入門。
象山の門下には、勝海舟や吉田松陰もいた。

そこで砲術を学んだが、年が明けてすぐペリーが再来航したため、
再び立会川へ召集されて来ている。そのときには浜川台場ができており、
そこで沿岸警備にあたったという。

2度目の来航時、ペリー艦隊は羽田沖にまで入ってきて、
この浜川台場から1.6kmのところまで迫る。
そして1月下旬、ワシントン初代大統領の誕生祝いと称し、120発もの空砲を撃ったという。
日本人への脅しの意味もあったのだろう。おそらくは龍馬もこれを見ていたはずだ。

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小説やドラマでは、龍馬は黒船を浦賀まで見に行ったように描かれているが、
はたして本当に浦賀まで行ったかどうか…。
じっさいに龍馬が黒船を目にしたのは、この2度目の来航時、品川沖のことだったと思われる。
龍馬は撤退命令が出る2月末までの約1ヶ月、立会川に滞在。

先ほどの土佐藩下屋敷からこの浜川台場との間を幾度も行き来したはずだ。
このときの龍馬は、まだ多くの日本人と同様、攘夷思想しかなく、
父親にあてた手紙には「戦になったら異国人の首を打ち取って帰国します」と記している。

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下屋敷からここまでの歩数は、ちょっと寄り道含めて1155歩。
直線距離にして400mぐらいだから、そんなものだろう。
前回にくらべ、今回はプチ散策という感じではあった。ということで、
「20歳の坂本龍馬が品川の海岸を歩いて黒船を見たとき」の歩行距離は1155歩と判明。

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台場跡からそのまま運河沿いを歩くと、屋形船や漁船などが停泊していて、
龍馬が見ていたであろう、当時の海岸を彷彿とさせる景色を目にすることができる。
黒船来航時の緊迫した、あるいはお祭り騒ぎだった様子に思いをめぐらせるのも面白い。

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旧東海道に戻り、北へ。鮫洲方面へと歩を進める。

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さすが東海道、えんえんと商店街がつづき、ときどき古い民家も目にすることができ、
眺めているとほんの一瞬、江戸時代へとトリップさせてくれるようだ。

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京急鮫洲駅の西、大井公園のはずれにあるのが、土佐15代藩主・山内容堂の墓。(地図
「鯨海酔侯(げいかいすいこう)」と称されたほどの酒好きだったので、
それがたたってか、数え46歳という若さで、脳溢血でこの世を去ったのは明治5年のこと。

晩年は土佐ではなく江戸の橋場(東京都台東区)の別荘に住んでいたのに、
墓がこんなところにあるのも面白い。土佐藩下屋敷の敷地からも少し離れている。
一説には、この場所からの海の眺めを気に入っていたからだとされる。
さすがは土佐の殿様。墓も大層立派で、まるで神社のような敷地の中にある。
墓の形もユニークだ。
見学時間が9時~17時に限定され、それ以外は門が閉まってしまうので注意されたし。

容堂の墓を拝んで、今回の歩き会を締めくくりとし、
その後は大井町まで歩き、うまい焼酎を飲んでから解散した。
なお、「ある1日をあるく会」は月に1回程度を予定。
そのうち別ブログにまとめる予定で、只今準備中です。
 
※京急の公式サイトでも立会川の情報あり
http://www.keikyu.co.jp/webtrain/tachiaigawa/feature/index.html

レキシズルバーの第2回『三国志ナイト』で数寄に語る。

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今週水曜は、レキシズルバーにて、友人の伏竜舎さん主催・第2回「三国志ナイト」が行われた。
この日は、限定のカクテル「美周郎」「兀突骨」「酒池肉林(董卓)」「桃園結義」も提供された。
とくに「兀突骨」は酒ばかり混ざっている傑作で、後で飲んだのだが胃袋にガツンときた。

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そして、張飛ビールが「三国志フェス」以来の復活を遂げた。
フェスのときはあっという間に売り切れた「幻のビール」である。
もちろん、ラベルは伏竜舎さんの切り絵。

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さすがに三国志ナイト。通常の夜よりも大勢、続々とお客さんが押し寄せ、
新人バーテン(といっても元々金曜のバーテンもしていた人)のケンちゃん、
お馴染みのしおんちゃんも大忙しの模様。
これは別の日に撮った写真で、手前のカクテルは「立花宗茂」。

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1Fのカウンター席は、すぐに定員オーバーになるため、
そういうときは、渡部社長が時々開放してくれる3Fの事務所へ移動して呑むわけだが、
この日は、21時から、ここで「数寄語り」が行われることで、お客さんほぼ全員で大移動。
現在、レキシズルバーでは、お客さんが15分ほど自分が好きな題材を語るという
「数寄語り」というイベントが行われているのだが、人が大勢入れる3Fで行われることが多い。

通常は1夜に1本だけだが、「三国志ナイト」ということで
この日は特別にダブル・ヘッダーとして、2本行われた。
1本目は、このイベントの発起人・伏竜舎さん。
2本目は不肖哲坊が語らせていただくことにあいなった。
今回、伏竜舎さんがオファーをくれて、快くやらせてもらったのだが、
こういう貴重な発表の場をいただけるのは実に有難い。

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伏竜舎さんのテーマは「日本における三国志好きの歴史」。
「なぜ日本人は三国志が好きなのか」をキーワードに、
三国志(正史)が伝わった奈良時代の8世紀から、
三国志演義が流行った江戸時代をへて、現在へいたるまでを語った。
さすがはミスター三国志、おなじみとなった漢服を着こなしての登場だ。

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途中少し難しい話もあったが、やはり昭和に入り、吉川英治や
横山光輝の作品が登場するとお客さんの反応もよく、かなりの盛り上がりを見せていた。

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プレッシャーのかかる中、21時半から私の出番。
漢服はさすがに持っていないので、拳法着をまとってやってみた。
テーマは「三国時代の食と酒」。もちろん、ボードは手書き。手づくり。

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正史ほか、他の歴史書に書かれている三国志の時代の酒にまつわるエピソードや
当時の食文化を解説したわけだが、まぁ、クドクドと説明するより、
実際の録画映像をアップしていただけているので、
詳しく知りたい方はそちらをご覧いただきたい。

http://www.ustream.tv/recorded/20460179
4:00~伏竜舎氏、29:00~哲坊が語ってます。
※入場曲は伏竜舎さん選曲。 自分は直前まで何が流れるのか知らなかったのだが、
お客さんも乗ってくれて、いいサプライズだった(笑)。

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そして〆の言葉は、曹操のこれ。
最後はみんなで三国志の英雄たちに感謝を込めて、
乾杯をして、しめくくらせていただいた。
15分という時間は短い。少しオーバーして、2人とも20分ほど喋っていたが、
何人かのお客さんから「もっと長く聴きたかった」と言ってもらえて感無量。
やや語り切れていない部分はあったし、うまく伝えられたか気にもかかるが
まあ、酒の席ということでお許し願いたい。

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終了後、渡部社長が登場。簡単に感想を聞かれ、答えて大役を終える。
40人近いギャラリーを前に語るのは、
みんな熱心に聴いてくれることもあって気分が良かった。
数寄語りは好評につき、この先5月までビッシリ予定が決まっているそうで、
私も聴ける時は聴きに行きたいと思う。

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早川女将と。伏竜舎さんが、被り物のせいで余計にでかい(笑)。
そして、私は顔がでかい。いいイベントだった!
友人の三国志好き・歴史好きもたくさん見に来てくれた。
御来場いただいた方、歴バースタッフの方、ありがとうございました。

イベント中の写真提供/【歴士】唄い人 さん、taecoooさん
 

沖縄へ行ってきた。久高島、勝連城など…雑感。

ツイッターなどの軽い書き込みツールがあると、
すっかりそれに依存し、ブログの間隔が、ついあいてしまう。
もう少し、頑張らねば・・・。

今月初め、4日間ほど沖縄へ行ってきた。
この時期の沖縄といえば、プロ野球のキャンプが行われているので、
過去にも書いたように、その取材で行くことが多かったのだが、
今回は全く別件の仕事で、偶然にも、有難くも実現したのであった。
那覇空港へ着いたときの気温は14度と、沖縄にしては意外に涼しかった。

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早春の沖縄は気候が不安定で、急に寒くなったり暑くなったりする。
それでも、このような海の蒼さを見ると、やっぱり独特の感動を覚える。

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到着当日は、もう夕方だったので、取材チームみんなで
那覇市内の沖縄料理店で、地元料理に舌鼓を打ち親交を深める。
仕上げには、美栄橋駅近くの沖縄そば屋「大福そば」にてシメ。
これを喰わねば、沖縄に来た気がしない。
東京では余り喰いたいと思わないんだが、不思議。

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翌朝は、那覇から南東にある、知念岬から高速船で久高島へ!

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神が住む島といわれるこの島は、沖縄の人にとっては聖地である。
ジブリアニメに出てきそうな風景ばかりであった。
直径8キロの島だから、レンタサイクルを借り、めぐってみたのだが
島内には、「ウタキ」と呼ばれる、いまだ人の立入りを禁じる
神聖な区域もあって、神妙な気持ちになった。

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その夜は、那覇市内の料理店「琉球料理乃 山本彩香」へ。


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琉球王朝が中国の使者に供したと伝わる、
宮廷料理が再現されたものを頂いた。珍味なり。
饗応用で、珍味に類するものだから、おせちみたいな感覚かな。
オーナー山本さんの蘊蓄に耳を傾けつつ、
自慢の「豆腐よう」も味わい、泡盛がすすんだ。


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ちょっとした城(グスク)めぐりもできた。南城市にある、玉城城(たまぐすくじょう)跡。
沖縄の城は、日本の城とは目的を異にするもので、かなり雰囲気の違う趣がある。
ここは、城跡というには小さく、祭祀施設のようだった。


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うるま市にある、勝連城(かつれんグスク)跡。ここは大きい。

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首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群として
世界文化遺産にも登録されている。沖縄の世界遺産の城では
もっとも建築年代が古いとか。築城年は13~14世紀。
沖縄のグスクは、歴史的史料が少ないため、不明な点も多いのだが、
この石垣の構造の美しさには、惚れ惚れしてしまう。

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本州の城でいえば本丸に相当する、一の郭からの眺め。
標高約100mの高台から見下ろす沖縄の風景も格別だ。
沖縄の城では、過去に今帰仁城、中城城、首里城の3城を訪れているが、
いずれも見ごたえ十分だった。

ただ、21世紀に入り、世界遺産になってから、どの城も
余分な木が切り倒されたり、道も歩きやすく綺麗に整備されている模様。
地元のカメラマンに昔の写真を本で見せてもらったのだが、
昔のままのほうが趣があって良かった気もする。
まあ、観光客が大勢来るほうが、地元としては盛りあがって良いのかもしれないが。


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夜は、「上原正吉の店」へ。ここは島唄ライブの生演奏を楽しみながら飲むことができる。
地元では有名な店で、以前は泊にあったようだが、
最近になって国際通りへ移転してきたのだとか。

こういう民謡酒場は、今までいかにも観光客向けという雰囲気もあるため、
どちらかというと避けていたのだが、入ってみたら面白いのなんの。
琉球の唄、踊り、文化に直接親しみながら飲む泡盛はまた格別だった。
沖縄らしく、最後は客も参加してみんなで踊るのも沖縄らしい。

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正吉さんの孫娘で、平成23年の「ミス泡盛」である上原唯さんと(笑)。
彼女の唄う「涙そうそう」に、じっと聞き惚れてしまった。

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那覇の体験施設で、シーサーを製作してみた。なかなか立派にできた。
粘度をこねるのも久々だし、もっと大変なのかと思っていたが、先生の指導が上手なので
プラモデルを作る感覚で楽しむことができた。焼き上がりは1ヶ月後。楽しみ。

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琉球村にて、三線(さんしん)を教えてくれたおじさん。

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もっと、いろいろ書きたいこともあるのだが、今回はこの辺りにしておこう。
最終日、空港のA&Wにて、ルートビアを飲みつつ悪あがき。
お代わり(無料)を頼むと、ピッチャーで注ぎにくるルートビア。
ビアだけどアルコール0%の不思議な飲み物。しかも甘いので、
今回も半分しか飲めなかった。ハンバーガーは機内へ持ち込んで喰った。

羽田に着いてみて、東京の寒さに身を震わせる。
結局、20度ぐらいまで上がったので、温度は15度。
帰ってくるとこの温度差が堪えるのだ。
歴史は変えられないが、沖縄は日本ではなくて外国・・・。
琉球国だと思う。あの気候、独特な文化の素晴らしさは、
日本の枠に入れてしまうのは勿体ない。

駆け込みで鑑賞、映画「三国志英傑伝 関羽」

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まもなく公開が終わってしまうので、いささか慌てて
大森の映画館にて「三国志英傑伝 関羽」を観てきた。
http://www.sangokushi-kanu.com/

なんと、客は自分一人という状況で、
そんな劇場貸切は初体験だったのだが、嬉しくもあり寂しくあり・・・。

貸切という状況は、実はどこに座ればいいか逆に迷うものだな(笑)。
いくら平日の午前中とはいえ、人気の無さに涙(笑)。
で、内容も、個人的には微妙だったかな。


(以下ネタばれ)

関羽は、世界中で有名な偉人であって、
誰でも知っているし、人物像が物凄く固定されている分、
実はかなり「扱いづらい素材」なんだろうなあ、と改めて理解した。

おそらくは、既存のイメージをどれだけ覆せるか、
監督として挑戦のしどころで、相当な意気込みでもって制作したのだろうが
個人的には「ちょっと狙い過ぎ」で失敗したような気がする。

この映画の主役の関羽は、背が小さくて髭も短い。
意図的なのか、役者ありきで作られたのかもしれないが、
曹操と並んで映っているときも、明らかに曹操よりも小さい。

それが既存のイメージに囚われず、良かったという人もいるだろうが、
自分としてはそこは最低限保っていて欲しい部分でもあったので
主役の関羽に最後まで感情移入できないまま、終わってしまった。

これが、たとえば趙雲あたりだと、
そこまで人物像が確定していないから、いじりやすいのだと思う。
そういう意味で、2009年のアンディ・ラウが趙雲を演じた「三国志」は、
映画の出来も、本当に素晴らしかっただけに、
あれを上回るような出来をどこかで期待してしまっていたかもしれない。

話としても、「関羽千里行」の部分だけだから、
大きな盛り上がりもないままに終わった印象。

三国志という壮大な物語を映画化するのに、
その一部分にスポットを当てる方法は正解だと思うが・・・。
張遼とか、魅力ある人物が活躍するわけでもなく
夏侯惇とか張飛が出てくるでもなく、
最後にラスボス的な存在をぶった斬るでもなく、
爽快さも無情感も得られず、消化不良だった。

その代わり、原典では一撃で斬られるはずの
五関の主将たちがみんな強かったのは良かった気もする。
とくに、あんなに強い孔秀は初めてみた(笑)。

いっそ、献帝もあんな中途半端にせず、董卓キャラにするとか、
滅茶苦茶強くて悪い奴にでもすれば良かったのに。

筋書きも、恋愛が絡んできたり、微妙なひねり具合で難しい。
三国志知らない人には、サッパリ分からん話なんじゃなかろうか。
アクションのカット割りも、妙に懲りすぎていて、好みではなかったかな。

まあ、三国志好きなら観ておいたほうがいいとは思うし、
色々と感想なども話せたら面白いので、是非観てほしい。
これからも、三国志を題材にした映画が制作されて欲しいし。

主演のドニー・イェンは、個人的には好きな役者で、
最近では、ブルース・リーの師の生涯を描いた
主演作「イップ・マン」「葉問」がよかった。
あれは2作とも、演技・演武が素晴らしい出来で、とても面白かったのだが・・・
今回の「関羽」は、ちょっとミスキャストだったと感じた次第。


比較する意味で、三国志映画・個人的10点評。

アンディ・ラウ版(趙雲)「三国志」・・・・9点
レッドクリフ part1・・・・・・・8点
レッドクリフ part2・・・・・・・4点
三国志英傑伝 関羽・・・・・5点
 

赤坂の勝海舟邸から、田町の薩摩屋敷跡まで歩いてみた。

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ここは、東京の港区赤坂6-10-39。
幕末・維新の英雄、勝海舟が1859年から明治元年にあたる1868年まで住んだ旧邸跡だ。
マンションに隣接したお洒落なレストランの脇に、碑だけが1本ぽつんとある。
一説に、幕末当時に海舟を刺殺しようとして、あの坂本龍馬が訪れたのもここ。

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ここから田町の、とある場所まで、歩いてみることにした。
歴史に詳しい人なら田町、あるいは三田といえば、それだけでもうお分かりだろう。
西郷隆盛と会見した、あの薩摩藩の蔵屋敷跡である。

ことしは、ふと思いたって、歴史好き同志であり仕事仲間の岡部敬史さんと一緒に、
「歴史にまつわる点と点」を、歩くことで線で結んでみようというか、
先人たちの歩んだ距離感を体感してみようか、と考えた次第なのである。
歩数計をセットして、いざ出発。

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ただ目的地へ歩くだけではつまらないから、その途中にあるいくつかのスポットへ
寄り道しながら行ってみることに。まずは、海舟邸のすぐ裏にある、氷川神社。

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ここは勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟の「幕末三舟」が書いた掛軸が
保存されているなど、海舟ゆかりの神社として有名だ。 
おそらく、西郷との会見の日にも、海舟は立ち寄って
写真の男性のように、神前に手を合わせたのではないだろうか。
氷川神社は全国各地にあるが、埼玉県の大宮に鎮座する氷川神社が本社という。

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六本木、一ノ橋を経由して、赤羽橋まで来た。東京タワーがよく見える。
海舟の回想では、当日は馬に乗っていて、従者を一人連れていただけで、
このあたりで銃撃に遭い、鉄砲玉が肩をかすめたなんてことも言っている。
下を流れる古川の流れも、今はすっかり濁って、ただ自動車ばかりが通りを掠め走っていく。

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一ノ橋あたりでの歩数は、このぐらい。1時間弱経過。
一ノ橋、中ノ橋は、歴史上なかなか興味深いところなのだが、それはまた後日記そう。


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せっかく芝まで来たので、増上寺の徳川将軍家墓所にお参りしていくことにした。

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初詣のときは墓所の中に入らなかったのだが、
1月末で特別公開が終了するため、次にお参りできるのは少し先になりそうだから。
幕末当時、増上寺は今の3倍ほどの敷地を持ち、徳川家の墓もこのように
窮屈にひとまとめにはされていなかったが・・・。

あの日、江戸の町を官軍に明け渡すことを許すにあたり、
海舟も一番西側にあった秀忠や、亡くなったばかりの14代・家茂の墓に向けて、
しばし頭を垂れたかもしれない・・・。
当時は存命だった和宮も、今は家茂の隣に並んで眠っている。

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そのまま南下して、第一京浜を渡ると、ありました。江戸開城の記念碑!
慶応4年(1868)3月14日、幕府の代表 勝海舟が江戸100万市民を
戦火から救うため、西郷南州(隆盛)と会見して江戸無血開城を決めた
薩摩藩の蔵屋敷跡があった場所。ついに到着。住所は、港区芝5丁目33−8。

今は、巨大な三菱モータースのビルと化している。
この向こうには、JR山手線の線路が通っているが、幕末当時はそこがもう海だった。
この蔵屋敷で荷揚げした物を、少し北側にあった薩摩藩上屋敷に運んでいたという。

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歩数もしっかり1万歩超え。時間にして、3時間弱が経過。
まっすぐ来れば1万は超えないが、色々寄り道をしたこともあって、結構歩きがいがあった。
海舟は馬に乗っていたというが、こうして自分の足で歩くことによって、
彼が歩んだ「距離感」を肌で感じることができるというものだ。

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西郷隆盛、勝海舟会見の様子を伝えるレリーフ。
ドラマや映画ではドラマチックに見せるために、
こうして2人きりで話したように描かれるが、実際は数人ずつで話し合われた。

また、会見の場所もここばかりではなく、この田町の薩摩藩邸で会見する前に、
愛宕神社へ2人でのぼって、江戸の町を見下ろしたとの逸話があったり、
後日、江戸開城の前日には、池上本門寺(大田区)でも会見したという記録があり、
あくまで、ここは「会見場所のひとつ」に過ぎない。

それらの記録は、どこまでが正しいのか分からないが、少なくともこの日は、
海舟邸から薩摩屋敷までの距離を歩いて記憶することができた。

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田町駅前の地下の飲食店街、エンゼルにある「そば処 謙徳」で打ち上げ。
寒いので、お燗が早く飲みたかったのだが、ちょうどいいところに店があった。

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入ってみると、意外や意外といっては失礼だが、この店は単なる蕎麦屋ではなく、
馬刺し、その他刺身に煮魚、焼き鳥、つまみ系に酒の種類もすこぶる充実していて、
実に酒飲みの心をわしづかみにしてくれる店だった。
(食べログの評価は昼飯ばかりなので、ちっともアテにならない)

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しかも、「薩摩揚げ」まで! GOAL地点の薩摩屋敷跡に立ち寄った後だけに、
なんて思っていたら・・・

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東京の地酒、「江戸開城」と「江」などという、タイムリーなものが置いてあるではないか。
東京・芝の酒蔵(若松屋)が造っているそうだ。江は飲まなかったのだが、
江戸開城は濁り酒で酸味があり、芳香な風味がして旨いので
歴史好き、酒好きに超絶おすすめしたい酒だ。

偉業を達した海舟に感謝しながら、気持ち良く杯を傾け、心地よい疲労感にひたった。
海舟は、西郷との会見の日の夜は、うまい酒が飲めたのだろうか。
岡部さんとは、この散策を「或る一日を歩く会」と題して、
これからもいろいろな人物が過ごした一日にスポットをあて、定期的に歩いてみる予定だ。

家康の遺体はどっちに? 日光か、久能山か。

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静岡の駿河区にある、久能山東照宮へ、初めて上って来た。
標高216mの小山にある、徳川家康(東照大権現)を祭神とする神社だ。
東照宮といえば、世界遺産の日光(栃木)が有名だが、
こちらこそ、家康が最初に埋葬された「元祖」東照宮である。ちなみに国宝でもある。

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長い長い石段を登り、社殿をめざす。
日本平からロープウェイで行けば5分で山上へ着くが、それではまったく味気ない。
まあ、ロープウェイからの眺めも良いのだろうが、
1159段の石段を上って行ってこそ、価値があるというものだ。
何より、ここは家康が治めるまでは、武田信玄が築いた山城があった場所。

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とはいえ、上を見れば、階段が互い違いにぐんぐん延びており、なかなかに昇りがいがある。
山城時代はもっと険しい道だったに違いないが、江戸時代の人が
昇りやすい階段に整えてくれたんだろうな、と考え、息を弾ませながら歩を進める。
健常者であれば、心地よく汗ばむ程度で、20分もかからずに登れるだろう。

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途中で下山してくる、小学生の団体とすれ違う。
境内には中学生の集団もいたので、近隣の遠足か修学旅行のコースになっているのだろう。
それでも、日光に比べれば静かなほうだ。今まで上ってきた階段越しに駿河湾を眺めて一息。
天気が悪かったせいもあり、海の映りがよくなくて申し訳なし。

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ようやく、神社へたどり着いた。境内には楼門、鐘楼、神楽殿、社殿、博物館などがある。
それほど広くはないが、どれも見ごたえのある建物ばかりが並んでいる。
博物館は小さいが、歴代将軍の遺品や書状など豊富に展示され、実に素晴らしかった。
先にも書いたが、いつも団体客でにぎわっている日光よりも、静かでいい。

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境内には、山本勘介(勘助)が掘ったといわれる「勘介井戸」もあった。
勘介は、信玄の駿河侵攻のときには死んでいたはずなので信憑性はともかく、なかなか面白い。
(上図、クリックで拡大できます)

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静岡は、ガンダムをはじめとするプラモデル発祥の地ということで、
ガンプラまで展示されていた(笑)。金色の大型のものは「家康ガンダム」で、
鎧をかたどったものらしい。そういえば、去年は東静岡のガンプラ工場に行ったな。

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社殿は国宝。定期的に建て替えられるので、建物自体はさほど古くないが、
いわゆる「権現造り」が踏襲され、400年前と変わらぬ姿である。

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そして、本殿からさらに進んだ最奥部にあるのが、神廟。家康の墓だ。
日光や、東京の増上寺などで、将軍墓所として馴染みの宝塔が建っている。

埋葬当初は、小さな祠が建てられただけだったようだが、
家康を崇拝していた三代将軍の家光が、高さ5.5m、周囲8mの立派な墓所にした。
昔は、何びとも立ち入ることの許されない「聖域」だったことだろう。

ちなみに、家康の遺命に従い、西向きに建てられている。
理由は大体、察しはついていたものの、
折良く神職の禰宜(ねぎ)さんがいらしたので尋ねてみた。

西を向いているのは、西国の京(天皇)を見守る目的、
あるいは、西国の大名(毛利や島津、いわゆる薩長)に睨みをきかせるため。
また、「東照大権現」というぐらいだから、東から昇って世を照らす
太陽のような存在でありたいとの思いが込められているのではないか、とのことだった。

そして、一番知りたいことも聞いてみた。それは、
「家康の遺体はここにあるのか」ということ。
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で
75年の生涯を終え、遺言によってこの久能山に埋葬された。
武田信玄を尊敬していた家康は、生前からこの山を気に入っていたのだろう。

よく知られている話では、家康の遺体は、
一周忌後の元和3年(1617年)、下野国日光に改葬されたと伝わっている。
それは家康が「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること」と遺言しているからだ。

これを信じるなら、家康の遺体は久能山にはなく、日光に移されたことになるし、
歴史の教科書とか、多くの文献や資料にも、そのように記載されている。
だがしかし、久能山では「家康の遺体は今もここにある」と昔から主張している。
禰宜さんに尋ねたところ、やはり「家康公はここに眠っています」とのお答えだった。

それはどういうことか。ちょっと、家康の遺言をよく見てほしい。
注意して見れば・・・「勧請せよ」(分祀せよ)と言っているだけで、
「改葬せよ」とは、一言も書かれていないではないか。

つまり、久能山の主張では、日光へは「死後まもなく切り取られた遺髪とか、
墓の周りの土が移されたのではないか」、というのだ。

現代ならば、分骨という方法も考えられるが、それは火葬の場合に可能であって
土葬された場合は棺を開けて遺体から切り離す作業が必要となる。
家康以下、歴代の将軍はみな土葬されている。
(将軍家の人間で火葬されたのは、2代・秀忠夫人のお江だけ)

当時の人がそうした真似をするだろうか。だから、分骨ということは考えにくい。
よって、家康の遺体は日光ではなく、久能山に眠ったままという可能性は高いといえる。

しかし、一方では改葬の記録も残っている。
家康の遺体が納められた霊柩は、「東照大権現」の名付け親でもある
大僧正・天海の指揮によって、3月15日に久能山を発し、
三島(16・17日)、小田原(18・19日)、中原(20日)、府中(21-22日)、
仙波(23-26日)、忍(27日)、佐野(28日)、鹿沼(29-4月3日)という経路で運ばれ、
4月4日に日光山の座禅院に到着。現在の墓所に納められ、木製の宝塔が建てられた。
このとき、「天海自ら、鍬を執って改葬の事を行った」ともいわれている。

日本各地にある東照宮のうち、とくに埼玉の川越にある仙波東照宮などは
家康の霊柩が4日間逗留したことで、昔から厚く崇敬を受けている。
この霊柩は、実は遺体ではなく、遺髪が納められただけ、
あるいは、魂のみ(空っぽ)の棺であったということだろうか・・・。

ただ逆に、もし日光東照宮の禰宜に先ほどと同じことを聞いたら
「家康公の遺体は、ここ(日光)にあります」と答えるに違いない。

結局、真相は「どちらかの墓所を発掘でもしなければ分からない」、というしかない。
しかし、久能山も日光も、どちらも今まで発掘調査などされたことはなく、
御霊の眠る「聖域」なだけに、今後も行われる可能性は、ほぼ無いといえる。
たとえば、米沢にある上杉謙信の墓所も同様にこの先、調査はされないだろう。

2代・秀忠などが眠る増上寺は、昭和33年の改装の際に発掘調査されたが、
あれは、戦後に増上寺の土地が縮小されることに伴うものであって、
異例中の異例ということなのだろう。

学術的な見方では、真相を知るチャンスが極めて低いのは残念ではあるが・・・
一方では偉人たちに、このまま安らかに眠っていて欲しいという思いも、もちろんある。
とはいえ、完全に白旗をあげたくはないので、この先も探ってみようとは思う。

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駿府は、いちごの産地。久能山を下りたところにいちご畑が広がっていて、
もうすぐ訪れる、いちご狩りのシーズンはかなりの賑わいとなる。
シーズン前の平日、この日はとても静かであった。

民家の軒先で、いちごやジャムが無人販売されていた。200円也。
清水駅行きのバスの中でさっそくつまんでみた。
甘酸っぱさに、登山の疲れも吹き飛んだ。

三島駅ホームの立ち食いそば屋。

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東海道本線の旅の途中、三島駅にて列車の待ち合わせ。
ホームの上の立ち食いそばの匂いにつられてフラフラと・・・。

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小田原駅などもそうなのだが、東日本の駅そばの店は、JRの直営である
「あじさい」系列の店一辺倒で、すっかり味気なくなったが、
東海では違うようだ。「桃中軒」という沼津の駅弁屋が経営しているらしい。
さほど腹は減っていなくとも、出汁のにおいを嗅いだだけで手繰りたくなる。蕎麦の魔力だ。

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かけそば250円。ズズッとツユをすする。
ひんやりしたホームの空気にさらされている身に、ツユの熱さが有難く沁みる。
かけそばなのに、鳴門とネギがたっぷり入っているのが嬉しいではないか。
麺は不揃いの太めのもので、コシの弱いグニャッとした歯ざわりだが、それがいい。

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元気のよいおばちゃんに、御馳走様と告げ、
「ありがとうございました」の声に見送られて次の列車へ乗り込む。
列車待ちの間にこそ、立ち食い屋は重宝といえる。

日野を歩き倒し、土方歳三ら新選組隊士の子孫にお会いしてきた。

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西東京、日野市にある「高幡不動尊」(金剛寺)。
まるで霧でもかかったように、本堂の周りには線香の煙が立ち、
駅前から境内まで、大勢の参拝客でにぎわっていた。
5月の新選組まつりの時も賑わうが、ほぼ普通の参拝客だけで
この人出は、さすがに正月の日曜といえる。

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日野といえば、この人。新選組副長、土方歳三の出身地。
境内を見守るように建つ銅像は等身大サイズで、とても迫力を感じさせる。
ここから、北へ歩いて20分ほどのところに、彼の誕生地・土方邸がある。
取材も兼ねての日野散策へ。

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土方が住んでいた旧家は、長年の風雪によって老朽化し、平成2年に建替えられ
現在の土方邸は、柱などごく一部分を残して、ご覧のように奇麗な民家となっている。

この邸内の一室を土方の遺品や書状などを展示する資料館として、
毎月第1・第3日曜に公開しているため、月に2回、日野の街には、
それを目当てに、多くの新選組ファンが訪れる。

土方歳三は妻子を持たなかったために直系の子孫はいないが、
歳三の兄・喜六の血脈が続いており、彼から数えて5代目にあたる
土方祐さんがいらっしゃったのだが、この資料館の公開直前の平成4年に逝去され、
その妻・土方陽子さんが館長をつとめておられる。

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そして、こちらは陽子さんの娘で、6代目にあたる土方愛(まなみ)さん。
お台場の「歴メン」イベントなどでお顔はよく拝見していたが、
直接ご挨拶させていただいたのは、今回が初めて。

やはり、歳三の面影をくっきり宿しておられるように見える。
開館日で多くのお客さんが訪れるお忙しい中、丁寧に取材に対応してくださった。

土方家といえば、歳三が行商していた「石田散薬」という薬がある。
現在は製造中止となっているが、昭和後期の頃に、まだ販売されていると思って
訪ねてきたお婆さんがいた、などという裏話を話してくださった。
基本的には小売ではなく、得意先の店などに卸していたのだそうだ。

お若く見えるが、二児の母で、2人の息子さんは
第二・第三の土方歳三をめざして剣の修行中、
・・・ということはなく、今のところは、サッカーに熱を入れておられるらしい。
ともあれ、7代8代と、末長く歳三の偉業を後世に語り継いでいってほしいと願う。

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こちらは、新選組を物心両面、とくに資金面で支えたスポンサーともいえる存在の
佐藤彦五郎の子孫が運営されている、「佐藤彦五郎 新選組資料館」。
やはり、第1・第3日曜にオープンする。

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写真の人は佐藤福子さんで、彦五郎から数えて直系の4代目。
彦五郎は、土方歳三の姉を娶った人で、もともと歳三の従兄でもあったから、
歳三は実の兄のように彼を慕い、すぐそばにあった屋敷や剣術道場によく通っていた。
京都へ行ってからも、土方は頻繁に彦五郎に手紙を出し、現存するものも多い。

ここにも貴重な資料が展示されているが、まだまだ整理しきれないほどの資料が
いくつもの段ボールに詰まったままだそうで、
今後も貴重な遺品がいくつも発見されるに違いない。

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佐藤邸のすぐ裏にある、日野宿本陣。都内に現存する唯一の本陣という貴重な文化遺産だ。
幕末期は、当地の名主でもあった佐藤彦五郎の住まいで、
敷地内には彦五郎が開いた「佐藤道場」があった。

ここに近藤勇が、調布の自宅から剣術の出張指導に訪れ、滞在中に
土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちと出会い、そして激しい稽古に励んだ。
後に甲陽鎮撫隊として甲府へ赴くときに立ち寄り、休息した場所でもある。

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内部は蕎麦屋として使用されていた時期もあったが、現在は市が管理し一般公開している。
土方から託された写真や遺品を日野に届けた市村鉄之助が、一時期住んでいた部屋も現存し
幕末以来の佇まいを今に伝える、非常に見ごたえのある建物だ。

120115 (6)
こちらは、「源さん」の愛称で知られ、新選組の六番隊隊長をつとめた井上源三郎邸。
当時の建物はないが、蔵を改装し「井上源三郎 資料館」として、
やはり第1・3日曜に公開している。

120115 (1)
館長は、井上雅雄さん。井上源三郎の5代目子孫だ。
源三郎は、映画やドラマでは近藤や土方の影に隠れ、
あまり目立つ存在に描かれないが、天然理心流免許皆伝の腕前を持つ達人で、
近藤勇のボディガードのような役割をしていた。

また、兄・松五郎は千人同心を務めていたことから、かなりの格を持った家で、
その肩書きが、新選組にとって大きな助けになったという。

新選組は、正式な武士だけの集まりではなかったし、
初期は単なる浪人集団などと、軽く見られることも多かったようだから、
その点でも、確かな肩書をもった松五郎、源三郎兄弟の存在は多大だった。

井上雅雄さんは、去年のお台場の「歴メン」で
近藤勇の剣の系統を継ぐ宮川清蔵さんとともに見事な剣術実演を披露してくれたように
天然理心流の剣術を後世に残そうとがんばっておられる。
月に2回、第2・第4日曜に稽古を行っており、門人を募集しているという。詳しくはこちら

他にも色々な場所を観たので、かなり歩いた。歩数計を見たら、約2万歩。
かつて、土方や沖田が闊歩した日野の町を歩き、子孫の方々にお会いして・・・
幕末人の偉大な足跡、そのDNAは平成の世にも
着実に受け継がれているのだということを、改めて感じることができた。

そうそう、新選組といえば、1月27日(金)に浅草で
歴メンイベント「土方歳三のすべて Vol.2」が開催されるそうだ。
うーん、しかし残念ながら、私は今回所用のため参加できそうにない。
ご興味ある方はぜひ!
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