哲舟の呑む喰う浸かる、歴史に憩う

※歴史をはじめ、史跡・酒場・温泉めぐりの話題などをゆるりと綴っております。リンクはフリーですが、無断転載はご遠慮ください。

2012年01月

家康の遺体はどっちに? 日光か、久能山か。

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静岡の駿河区にある、久能山東照宮へ、初めて上って来た。
標高216mの小山にある、徳川家康(東照大権現)を祭神とする神社だ。
東照宮といえば、世界遺産の日光(栃木)が有名だが、
こちらこそ、家康が最初に埋葬された「元祖」東照宮である。ちなみに国宝でもある。

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長い長い石段を登り、社殿をめざす。
日本平からロープウェイで行けば5分で山上へ着くが、それではまったく味気ない。
まあ、ロープウェイからの眺めも良いのだろうが、
1159段の石段を上って行ってこそ、価値があるというものだ。
何より、ここは家康が治めるまでは、武田信玄が築いた山城があった場所。

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とはいえ、上を見れば、階段が互い違いにぐんぐん延びており、なかなかに昇りがいがある。
山城時代はもっと険しい道だったに違いないが、江戸時代の人が
昇りやすい階段に整えてくれたんだろうな、と考え、息を弾ませながら歩を進める。
健常者であれば、心地よく汗ばむ程度で、20分もかからずに登れるだろう。

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途中で下山してくる、小学生の団体とすれ違う。
境内には中学生の集団もいたので、近隣の遠足か修学旅行のコースになっているのだろう。
それでも、日光に比べれば静かなほうだ。今まで上ってきた階段越しに駿河湾を眺めて一息。
天気が悪かったせいもあり、海の映りがよくなくて申し訳なし。

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ようやく、神社へたどり着いた。境内には楼門、鐘楼、神楽殿、社殿、博物館などがある。
それほど広くはないが、どれも見ごたえのある建物ばかりが並んでいる。
博物館は小さいが、歴代将軍の遺品や書状など豊富に展示され、実に素晴らしかった。
先にも書いたが、いつも団体客でにぎわっている日光よりも、静かでいい。

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境内には、山本勘介(勘助)が掘ったといわれる「勘介井戸」もあった。
勘介は、信玄の駿河侵攻のときには死んでいたはずなので信憑性はともかく、なかなか面白い。
(上図、クリックで拡大できます)

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静岡は、ガンダムをはじめとするプラモデル発祥の地ということで、
ガンプラまで展示されていた(笑)。金色の大型のものは「家康ガンダム」で、
鎧をかたどったものらしい。そういえば、去年は東静岡のガンプラ工場に行ったな。

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社殿は国宝。定期的に建て替えられるので、建物自体はさほど古くないが、
いわゆる「権現造り」が踏襲され、400年前と変わらぬ姿である。

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そして、本殿からさらに進んだ最奥部にあるのが、神廟。家康の墓だ。
日光や、東京の増上寺などで、将軍墓所として馴染みの宝塔が建っている。

埋葬当初は、小さな祠が建てられただけだったようだが、
家康を崇拝していた三代将軍の家光が、高さ5.5m、周囲8mの立派な墓所にした。
昔は、何びとも立ち入ることの許されない「聖域」だったことだろう。

ちなみに、家康の遺命に従い、西向きに建てられている。
理由は大体、察しはついていたものの、
折良く神職の禰宜(ねぎ)さんがいらしたので尋ねてみた。

西を向いているのは、西国の京(天皇)を見守る目的、
あるいは、西国の大名(毛利や島津、いわゆる薩長)に睨みをきかせるため。
また、「東照大権現」というぐらいだから、東から昇って世を照らす
太陽のような存在でありたいとの思いが込められているのではないか、とのことだった。

そして、一番知りたいことも聞いてみた。それは、
「家康の遺体はここにあるのか」ということ。
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で
75年の生涯を終え、遺言によってこの久能山に埋葬された。
武田信玄を尊敬していた家康は、生前からこの山を気に入っていたのだろう。

よく知られている話では、家康の遺体は、
一周忌後の元和3年(1617年)、下野国日光に改葬されたと伝わっている。
それは家康が「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること」と遺言しているからだ。

これを信じるなら、家康の遺体は久能山にはなく、日光に移されたことになるし、
歴史の教科書とか、多くの文献や資料にも、そのように記載されている。
だがしかし、久能山では「家康の遺体は今もここにある」と昔から主張している。
禰宜さんに尋ねたところ、やはり「家康公はここに眠っています」とのお答えだった。

それはどういうことか。ちょっと、家康の遺言をよく見てほしい。
注意して見れば・・・「勧請せよ」(分祀せよ)と言っているだけで、
「改葬せよ」とは、一言も書かれていないではないか。

つまり、久能山の主張では、日光へは「死後まもなく切り取られた遺髪とか、
墓の周りの土が移されたのではないか」、というのだ。

現代ならば、分骨という方法も考えられるが、それは火葬の場合に可能であって
土葬された場合は棺を開けて遺体から切り離す作業が必要となる。
家康以下、歴代の将軍はみな土葬されている。
(将軍家の人間で火葬されたのは、2代・秀忠夫人のお江だけ)

当時の人がそうした真似をするだろうか。だから、分骨ということは考えにくい。
よって、家康の遺体は日光ではなく、久能山に眠ったままという可能性は高いといえる。

しかし、一方では改葬の記録も残っている。
家康の遺体が納められた霊柩は、「東照大権現」の名付け親でもある
大僧正・天海の指揮によって、3月15日に久能山を発し、
三島(16・17日)、小田原(18・19日)、中原(20日)、府中(21-22日)、
仙波(23-26日)、忍(27日)、佐野(28日)、鹿沼(29-4月3日)という経路で運ばれ、
4月4日に日光山の座禅院に到着。現在の墓所に納められ、木製の宝塔が建てられた。
このとき、「天海自ら、鍬を執って改葬の事を行った」ともいわれている。

日本各地にある東照宮のうち、とくに埼玉の川越にある仙波東照宮などは
家康の霊柩が4日間逗留したことで、昔から厚く崇敬を受けている。
この霊柩は、実は遺体ではなく、遺髪が納められただけ、
あるいは、魂のみ(空っぽ)の棺であったということだろうか・・・。

ただ逆に、もし日光東照宮の禰宜に先ほどと同じことを聞いたら
「家康公の遺体は、ここ(日光)にあります」と答えるに違いない。

結局、真相は「どちらかの墓所を発掘でもしなければ分からない」、というしかない。
しかし、久能山も日光も、どちらも今まで発掘調査などされたことはなく、
御霊の眠る「聖域」なだけに、今後も行われる可能性は、ほぼ無いといえる。
たとえば、米沢にある上杉謙信の墓所も同様にこの先、調査はされないだろう。

2代・秀忠などが眠る増上寺は、昭和33年の改装の際に発掘調査されたが、
あれは、戦後に増上寺の土地が縮小されることに伴うものであって、
異例中の異例ということなのだろう。

学術的な見方では、真相を知るチャンスが極めて低いのは残念ではあるが・・・
一方では偉人たちに、このまま安らかに眠っていて欲しいという思いも、もちろんある。
とはいえ、完全に白旗をあげたくはないので、この先も探ってみようとは思う。

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駿府は、いちごの産地。久能山を下りたところにいちご畑が広がっていて、
もうすぐ訪れる、いちご狩りのシーズンはかなりの賑わいとなる。
シーズン前の平日、この日はとても静かであった。

民家の軒先で、いちごやジャムが無人販売されていた。200円也。
清水駅行きのバスの中でさっそくつまんでみた。
甘酸っぱさに、登山の疲れも吹き飛んだ。

三島駅ホームの立ち食いそば屋。

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東海道本線の旅の途中、三島駅にて列車の待ち合わせ。
ホームの上の立ち食いそばの匂いにつられてフラフラと・・・。

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小田原駅などもそうなのだが、東日本の駅そばの店は、JRの直営である
「あじさい」系列の店一辺倒で、すっかり味気なくなったが、
東海では違うようだ。「桃中軒」という沼津の駅弁屋が経営しているらしい。
さほど腹は減っていなくとも、出汁のにおいを嗅いだだけで手繰りたくなる。蕎麦の魔力だ。

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かけそば250円。ズズッとツユをすする。
ひんやりしたホームの空気にさらされている身に、ツユの熱さが有難く沁みる。
かけそばなのに、鳴門とネギがたっぷり入っているのが嬉しいではないか。
麺は不揃いの太めのもので、コシの弱いグニャッとした歯ざわりだが、それがいい。

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元気のよいおばちゃんに、御馳走様と告げ、
「ありがとうございました」の声に見送られて次の列車へ乗り込む。
列車待ちの間にこそ、立ち食い屋は重宝といえる。

日野を歩き倒し、土方歳三ら新選組隊士の子孫にお会いしてきた。

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西東京、日野市にある「高幡不動尊」(金剛寺)。
まるで霧でもかかったように、本堂の周りには線香の煙が立ち、
駅前から境内まで、大勢の参拝客でにぎわっていた。
5月の新選組まつりの時も賑わうが、ほぼ普通の参拝客だけで
この人出は、さすがに正月の日曜といえる。

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日野といえば、この人。新選組副長、土方歳三の出身地。
境内を見守るように建つ銅像は等身大サイズで、とても迫力を感じさせる。
ここから、北へ歩いて20分ほどのところに、彼の誕生地・土方邸がある。
取材も兼ねての日野散策へ。

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土方が住んでいた旧家は、長年の風雪によって老朽化し、平成2年に建替えられ
現在の土方邸は、柱などごく一部分を残して、ご覧のように奇麗な民家となっている。

この邸内の一室を土方の遺品や書状などを展示する資料館として、
毎月第1・第3日曜に公開しているため、月に2回、日野の街には、
それを目当てに、多くの新選組ファンが訪れる。

土方歳三は妻子を持たなかったために直系の子孫はいないが、
歳三の兄・喜六の血脈が続いており、彼から数えて5代目にあたる
土方祐さんがいらっしゃったのだが、この資料館の公開直前の平成4年に逝去され、
その妻・土方陽子さんが館長をつとめておられる。

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そして、こちらは陽子さんの娘で、6代目にあたる土方愛さん。
お台場の「歴メン」イベントなどでお顔はよく拝見していたが、
直接ご挨拶させていただいたのは、今回が初めて。

やはり、歳三の面影をくっきり宿しておられるように見える。
開館日で多くのお客さんが訪れるお忙しい中、丁寧に取材に対応してくださった。

土方家といえば、歳三が行商していた「石田散薬」という薬がある。
現在は製造中止となっているが、昭和後期の頃に、まだ販売されていると思って
訪ねてきたお婆さんがいた、などという裏話を話してくださった。
基本的には小売ではなく、得意先の店などに卸していたのだそうだ。

お若く見えるが、二児の母で、2人の息子さんは
第二・第三の土方歳三をめざして剣の修行中、
・・・ということはなく、今のところは、サッカーに熱を入れておられるらしい。
ともあれ、7代8代と、末長く歳三の偉業を後世に語り継いでいってほしいと願う。

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こちらは、新選組を物心両面、とくに資金面で支えたスポンサーともいえる存在の
佐藤彦五郎の子孫が運営されている、「佐藤彦五郎 新選組資料館」。
やはり、第1・第3日曜にオープンする。

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写真の人は佐藤福子さんで、彦五郎から数えて直系の4代目。
彦五郎は、土方歳三の姉を娶った人で、もともと歳三の従兄でもあったから、
歳三は実の兄のように彼を慕い、すぐそばにあった屋敷や剣術道場によく通っていた。
京都へ行ってからも、土方は頻繁に彦五郎に手紙を出し、現存するものも多い。

ここにも貴重な資料が展示されているが、まだまだ整理しきれないほどの資料が
いくつもの段ボールに詰まったままだそうで、
今後も貴重な遺品がいくつも発見されるに違いない。

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佐藤邸のすぐ裏にある、日野宿本陣。都内に現存する唯一の本陣という貴重な文化遺産だ。
幕末期は、当地の名主でもあった佐藤彦五郎の住まいで、
敷地内には彦五郎が開いた「佐藤道場」があった。

ここに近藤勇が、調布の自宅から剣術の出張指導に訪れ、滞在中に
土方歳三、沖田総司、井上源三郎たちと出会い、そして激しい稽古に励んだ。
後に甲陽鎮撫隊として甲府へ赴くときに立ち寄り、休息した場所でもある。

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内部は蕎麦屋として使用されていた時期もあったが、現在は市が管理し一般公開している。
土方から託された写真や遺品を日野に届けた市村鉄之助が、一時期住んでいた部屋も現存し
幕末以来の佇まいを今に伝える、非常に見ごたえのある建物だ。

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こちらは、「源さん」の愛称で知られ、新選組の六番隊隊長をつとめた井上源三郎邸。
当時の建物はないが、蔵を改装し「井上源三郎 資料館」として、
やはり第1・3日曜に公開している。

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館長は、井上雅雄さん。井上源三郎の5代目子孫だ。
源三郎は、映画やドラマでは近藤や土方の影に隠れ、
あまり目立つ存在に描かれないが、天然理心流免許皆伝の腕前を持つ達人で、
近藤勇のボディガードのような役割をしていた。

また、兄・松五郎は千人同心を務めていたことから、かなりの格を持った家で、
その肩書きが、新選組にとって大きな助けになったという。

新選組は、正式な武士だけの集まりではなかったし、
初期は単なる浪人集団などと、軽く見られることも多かったようだから、
その点でも、確かな肩書をもった松五郎、源三郎兄弟の存在は多大だった。

井上雅雄さんは、去年のお台場の「歴メン」で
近藤勇の剣の系統を継ぐ宮川清蔵さんとともに見事な剣術実演を披露してくれたように
天然理心流の剣術を後世に残そうとがんばっておられる。
月に2回、第2・第4日曜に稽古を行っており、門人を募集しているという。詳しくはこちら

他にも色々な場所を観たので、かなり歩いた。歩数計を見たら、約2万歩。
かつて、土方や沖田が闊歩した日野の町を歩き、子孫の方々にお会いして・・・
幕末人の偉大な足跡、そのDNAは平成の世にも
着実に受け継がれているのだということを、改めて感じることができた。

そうそう、新選組といえば、1月27日(金)に浅草で
歴メンイベント「土方歳三のすべて Vol.2」が開催されるそうだ。
うーん、しかし残念ながら、私は今回所用のため参加できそうにない。
ご興味ある方はぜひ!

勝海舟が生まれた町、両国の泥鰌屋にて柳川丼を食す。

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先日、NHKの「ブラタモリ」でも取り上げられていたが、東京・両国は実に魅力的な街といえる。
とくに南口。まず駅から徒歩7~8分のところにあるのが、
かの有名な「忠臣蔵」討ち入りの舞台・吉良上野介邸の跡。

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そして、そのすぐ近くの両国公園の片隅に、ポツンと立派な碑が建っている。
「勝海舟生誕之地」と刻まれているとおり、あの海舟が生まれた男谷屋敷があった場所だ。

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住所は両国4-25。海舟は、勝小吉の長男として生まれ、7歳までの幼少期をここで過ごした。
その後、墨田区内を転々とし、23~24歳のころから赤坂に落ち着いたという。
ちなみに、墓は晩年に別荘を構えていた大田区・洗足池の畔にある。

公園では、海舟の存在も江戸無血開城の偉業も知らぬであろう子供ら、
その母親(ママ友?)らが、あるいは遊び、あるいは立ち話に花を咲かせている。

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頃は昼下がり。泥鰌(どじょう)でも食して帰ろうかと、両国橋のたもとにある、
「桔梗家」へ立ち寄る。

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昭和8年創業、江戸というには無理があるが、昭和の面影を残す名店。
両国らしく、店内には力士の手形を押した色紙が飾られている。
ランチタイムは、柳川丼とうな丼を1000円で提供している。
本来は夜にでも訪れて、酒とともに泥鰌鍋をじっくり味わいたいところだが。

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柳川丼。井戸水で活けられた泥鰌を使った贅沢な一盛り。
一般的には骨抜きのほうが食べやすいが、
私は「丸」と呼ばれる骨が残った状態のほうが好きだ。
当然、この店もどちらかを選ぶことができる。

軟らかく煮てあるので、骨ごとでも食べやすく、ホクホクとして程よい噛み応え。
ご飯と卵との絡み具合も良きここちで満足。さすがに老舗。丁寧な仕事をする店だ。
ただ、飯の量は年配層が多いためか、やや少なめかな?
うなぎも旨そうだったので、今度はうな丼も食してみたい。

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両国といえば、ちゃんこ鍋の店が多いことで有名だが、ごく普通の焼き鳥屋、居酒屋など、
多彩にそろい、あらゆるニーズに応えてくれる街といえる。
「楽蜀坊」、「三国志」など、三国志好きとしてはちょっとニヤリとさせられるような
ネーミングの店もあって(名前だけかもしれないが)、再訪が楽しみになった。
 

佐久間象山を斬った男、河上彦斎の墓は東京・池上本門寺にあり。

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すっかり間があいてしまった。なんだか、初詣ネタもいい加減にしろ…といわれそうだが、
まだ松の内であるから、今のうちに書いておくことにしよう。
大田区にある、池上本門寺へ詣でる。

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この寺は、日蓮宗の大本山で、いわずとしれた加藤清正ゆかりの寺だ。
清正が寄進した96段の石段を上がる。石段脇ではいつも通り茶虎のネコが昼寝中。

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屋台が建ち並ぶ境内に入り、
大堂にて参拝を済ませたのち、周辺に広がる墓地を散策する。

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前田利家の側室・寿福院(千代)の層塔があった。
利家の四男で、加賀の3代目藩主・利常の母。
墓は北陸能登にあるが、江戸で亡くなったため、ここ本門寺で荼毘に付されたという。

本門寺境内には、日蓮宗を篤く信仰した加藤清正の供養塔のほか、
その側室で加藤家2代藩主・忠広の生母、正応院の供養塔もあるほか、
日蓮、狩野探幽など、歴史上名だたる人物の墓があることでも知られている。

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加藤清正との縁からか、「熊本県人合葬墓地」もあり、
その囲いの中にあるのが、幕末の剣豪・河上彦斎の墓。
河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後藩士で、あの「佐久間象山を斬った男」である。

墓石に「碑」とあるように前面のものは慰霊碑で、奥にチラッと見えているのが墓のようだ。
暗殺者であり、刺客と呼ばれる彦斎だが、1864年に京都で佐久間象山を斬殺したあと、
その人物の偉大さを知って愕然とし、以後は暗殺稼業をやめたといわれている。

碑の裏面には、同郷の徳富蘇峰による彦斎の賛美文が刻まれている。
さすがに、象山を暗殺したことは書いていなかった(笑)。

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今回は、寺の西側にある紀州徳川家の墓地も訪ねてみた。
鬱蒼とした林の中に巨大な宝塔が並ぶ。
増上寺や寛永寺にある徳川家墓所に匹敵、いやそれ以上に立派かもしれない。

ここに埋葬されているのは、徳川家康の側室・お万の方(養珠院)や、
徳川頼宣の妻・八十姫(やそひめ)など、江戸藩邸で没した女性たちだ。
頼宣は家康の十男にあたり、お万の方から生まれた紀州徳川家の藩祖である。

八十姫(遥林院)は加藤清正の娘で、頼宣に嫁いで紀州藩の繁栄に身を捧げた。
お万の方は、御三家のうちの2つの藩祖の母という「偉業」をもつ一方、
日蓮宗を熱心に信奉したことで、その子らにも強い影響を与えたという。

みな、日蓮宗の総本山・池上本門寺に縁が深かったため、
紀州にも分祀されているが、ここに骨を埋めたものらしい。
紀州徳川家の栄華の面影が、江戸の片隅で静かにたゆたう。

境内中心部には正月の参拝客があふれているが、ここまで来る人は、ほぼ皆無。
私ぐらいなものだ(笑)。

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日蓮さんの像が見守る境内は、本当にだだっぴろくて、
そのうえ案内板もほとんど無いので、1回や2回では、なかなか全部回り切れない…。
このほかにも、勝海舟と西郷隆盛が江戸城無血開城の前日に会見した庭園(松濤園)や
徳川秀忠の乳母、大姥局が寄進した五重塔など…

本門寺やその周辺にはまだまだ、たくさんの史跡が点在しているため、
また機会あるごとに紹介していこうと思う。
 

増上寺へ初詣。皇女和宮さんの茶室の屋根に、猫が三匹。

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東京タワーのすぐ下にある、増上寺へ初詣。
正月2日のよく晴れた朝、10時頃だと、まだ人の姿もまばらで
露店や猿回しの屋台も11時ごろからなので、この時間だと落ち着いて参拝できる。

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本堂へお参りをした後、右手にある安国殿にも詣でる。
ここに、徳川家康ゆかりの秘仏・黒本尊が祀られているからだ。

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去年に続き、今年も黒本尊にちなんだ黒色の「勝守り」を購入。家康の勝ち運にあやかるべく。

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去年の大河ドラマの名残か、「お江守」も売られていた。
女性向けの色使いはなかなか美しいのではないだろうか。買わなかったけど(笑)。

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増上寺といえば、右手奥にある徳川将軍家の霊廟があることで有名だが、
普段は非公開のこの霊廟が、昨年春から今月末まで特別公開されている。
この奥には2代・秀忠をはじめ、 6代・家宣、7代・家継、9代・家重、
12代・家慶、14代・家茂の6人の将軍と、お江の方、皇女・和宮らの奥方や子女が埋葬されている。
(以前に訪れた参拝のときの様子はこちら

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特別公開中ということだし、久しぶりに将軍様方のお墓へ手を合わせようか…
と思ったら、なんとこんなプレハブの受付が出来ていて「拝観料500円」とあるではないか。
年数回の公開日は無料なのだが、特別公開とのことで有料らしい。
500円ぐらいどうってことはないが、なんか馬鹿馬鹿しくなって、拝観はやめておいた。

去年の大河ドラマの影響で、「秀忠と江の墓所を観たい」という声が増えたのだろう。
それで特別公開に踏み切ったのは素晴らしいと思うが、個人的には2回見ているし、
年に数回、無料で公開していながら拝観料をとるのは、いかがなものか…。
ほとんど目にすることのできない寛永寺の墓所になら、金を払ってでもお参りしたいが…。
(寛永寺には4代・家綱、5代・綱吉、8代・吉宗、10代・家治、11代・家斉、13代・家定)

ただ、帰ってきてからよく調べると、拝観料を支払うと記念品として
昔の霊廟や墓所の絵葉書などがもらえるらしいので
やっぱり観ておくべきだったか。期日(1月31日)までに、時間があれば再訪しよう。

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お江ばかりではなく、増上寺は皇女和宮(14代家茂夫人)ゆかりの寺でもある。
本堂の左奥に少し入った所には、和宮が使ったとされる茶室「貞恭庵」が残されている。
もともとは、今プリンスホテルが建っている北側の敷地に、
和宮の墓とともにあったと思われるが、昭和55年に現在地へ移築・改修されたものだ。

初詣の客も、ほとんどここまでは入って来ない。静かな空間だ。
普段は内部は非公開のため、垣根越しにこうして眺めることしか出来ないが、
月に一度、茶会が開かれているらしい。中にも入れるのだし、近々ぜひ参加してみたい。

茶室の屋根の上では、3匹の猫がのんびりと日向ぼっこをしていた。
招き猫のように、福福とした顔をしていて縁起がいい。いや、
それとも、皇女ゆかりの茶室の屋根から「下界」の我々を見下ろしていたのか(笑)。

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