
静岡の駿河区にある、久能山東照宮へ、初めて上って来た。
標高216mの小山にある、徳川家康(東照大権現)を祭神とする神社だ。
東照宮といえば、世界遺産の日光(栃木)が有名だが、
こちらこそ、家康が最初に埋葬された「元祖」東照宮である。ちなみに国宝でもある。

長い長い石段を登り、社殿をめざす。
日本平からロープウェイで行けば5分で山上へ着くが、それではまったく味気ない。
まあ、ロープウェイからの眺めも良いのだろうが、
1159段の石段を上って行ってこそ、価値があるというものだ。
何より、ここは家康が治めるまでは、武田信玄が築いた山城があった場所。


とはいえ、上を見れば、階段が互い違いにぐんぐん延びており、なかなかに昇りがいがある。
山城時代はもっと険しい道だったに違いないが、江戸時代の人が
昇りやすい階段に整えてくれたんだろうな、と考え、息を弾ませながら歩を進める。
健常者であれば、心地よく汗ばむ程度で、20分もかからずに登れるだろう。

途中で下山してくる、小学生の団体とすれ違う。
境内には中学生の集団もいたので、近隣の遠足か修学旅行のコースになっているのだろう。
それでも、日光に比べれば静かなほうだ。今まで上ってきた階段越しに駿河湾を眺めて一息。
天気が悪かったせいもあり、海の映りがよくなくて申し訳なし。

ようやく、神社へたどり着いた。境内には楼門、鐘楼、神楽殿、社殿、博物館などがある。
それほど広くはないが、どれも見ごたえのある建物ばかりが並んでいる。
博物館は小さいが、歴代将軍の遺品や書状など豊富に展示され、実に素晴らしかった。
先にも書いたが、いつも団体客でにぎわっている日光よりも、静かでいい。

境内には、山本勘介(勘助)が掘ったといわれる「勘介井戸」もあった。
勘介は、信玄の駿河侵攻のときには死んでいたはずなので信憑性はともかく、なかなか面白い。
(上図、クリックで拡大できます)

静岡は、ガンダムをはじめとするプラモデル発祥の地ということで、
ガンプラまで展示されていた(笑)。金色の大型のものは「家康ガンダム」で、
鎧をかたどったものらしい。そういえば、去年は東静岡のガンプラ工場に行ったな。

社殿は国宝。定期的に建て替えられるので、建物自体はさほど古くないが、
いわゆる「権現造り」が踏襲され、400年前と変わらぬ姿である。

そして、本殿からさらに進んだ最奥部にあるのが、神廟。家康の墓だ。
日光や、東京の増上寺などで、将軍墓所として馴染みの宝塔が建っている。
埋葬当初は、小さな祠が建てられただけだったようだが、
家康を崇拝していた三代将軍の家光が、高さ5.5m、周囲8mの立派な墓所にした。
昔は、何びとも立ち入ることの許されない「聖域」だったことだろう。
ちなみに、家康の遺命に従い、西向きに建てられている。
理由は大体、察しはついていたものの、
折良く神職の禰宜(ねぎ)さんがいらしたので尋ねてみた。
西を向いているのは、西国の京(天皇)を見守る目的、
あるいは、西国の大名(毛利や島津、いわゆる薩長)に睨みをきかせるため。
また、「東照大権現」というぐらいだから、東から昇って世を照らす
太陽のような存在でありたいとの思いが込められているのではないか、とのことだった。
そして、一番知りたいことも聞いてみた。それは、
「家康の遺体はここにあるのか」ということ。
家康は元和2年4月17日(1616年6月1日)に駿府城で
75年の生涯を終え、遺言によってこの久能山に埋葬された。
武田信玄を尊敬していた家康は、生前からこの山を気に入っていたのだろう。
よく知られている話では、家康の遺体は、
一周忌後の元和3年(1617年)、下野国日光に改葬されたと伝わっている。
それは家康が「遺体は久能山に納め、一周忌が過ぎたならば、
日光山に小さな堂を建てて勧請し、神として祀ること」と遺言しているからだ。
これを信じるなら、家康の遺体は久能山にはなく、日光に移されたことになるし、
歴史の教科書とか、多くの文献や資料にも、そのように記載されている。
だがしかし、久能山では「家康の遺体は今もここにある」と昔から主張している。
禰宜さんに尋ねたところ、やはり「家康公はここに眠っています」とのお答えだった。
それはどういうことか。ちょっと、家康の遺言をよく見てほしい。
注意して見れば・・・「勧請せよ」(分祀せよ)と言っているだけで、
「改葬せよ」とは、一言も書かれていないではないか。
つまり、久能山の主張では、日光へは「死後まもなく切り取られた遺髪とか、
墓の周りの土が移されたのではないか」、というのだ。
現代ならば、分骨という方法も考えられるが、それは火葬の場合に可能であって
土葬された場合は棺を開けて遺体から切り離す作業が必要となる。
家康以下、歴代の将軍はみな土葬されている。
(将軍家の人間で火葬されたのは、2代・秀忠夫人のお江だけ)
当時の人がそうした真似をするだろうか。だから、分骨ということは考えにくい。
よって、家康の遺体は日光ではなく、久能山に眠ったままという可能性は高いといえる。
しかし、一方では改葬の記録も残っている。
家康の遺体が納められた霊柩は、「東照大権現」の名付け親でもある
大僧正・天海の指揮によって、3月15日に久能山を発し、
三島(16・17日)、小田原(18・19日)、中原(20日)、府中(21-22日)、
仙波(23-26日)、忍(27日)、佐野(28日)、鹿沼(29-4月3日)という経路で運ばれ、
4月4日に日光山の座禅院に到着。現在の墓所に納められ、木製の宝塔が建てられた。
このとき、「天海自ら、鍬を執って改葬の事を行った」ともいわれている。
日本各地にある東照宮のうち、とくに埼玉の川越にある仙波東照宮などは
家康の霊柩が4日間逗留したことで、昔から厚く崇敬を受けている。
この霊柩は、実は遺体ではなく、遺髪が納められただけ、
あるいは、魂のみ(空っぽ)の棺であったということだろうか・・・。
ただ逆に、もし日光東照宮の禰宜に先ほどと同じことを聞いたら
「家康公の遺体は、ここ(日光)にあります」と答えるに違いない。
結局、真相は「どちらかの墓所を発掘でもしなければ分からない」、というしかない。
しかし、久能山も日光も、どちらも今まで発掘調査などされたことはなく、
御霊の眠る「聖域」なだけに、今後も行われる可能性は、ほぼ無いといえる。
たとえば、米沢にある上杉謙信の墓所も同様にこの先、調査はされないだろう。
2代・秀忠などが眠る増上寺は、昭和33年の改装の際に発掘調査されたが、
あれは、戦後に増上寺の土地が縮小されることに伴うものであって、
異例中の異例ということなのだろう。
学術的な見方では、真相を知るチャンスが極めて低いのは残念ではあるが・・・
一方では偉人たちに、このまま安らかに眠っていて欲しいという思いも、もちろんある。
とはいえ、完全に白旗をあげたくはないので、この先も探ってみようとは思う。

駿府は、いちごの産地。久能山を下りたところにいちご畑が広がっていて、
もうすぐ訪れる、いちご狩りのシーズンはかなりの賑わいとなる。
シーズン前の平日、この日はとても静かであった。
民家の軒先で、いちごやジャムが無人販売されていた。200円也。
清水駅行きのバスの中でさっそくつまんでみた。
甘酸っぱさに、登山の疲れも吹き飛んだ。