草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

幸せな1日の記憶

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保存デキ13  軽井沢町立社会体育館(現在の軽井沢中学校付近の敷地)
                     1975(昭和50)年8月 撮影:小林隆則 以下同

● 手元に戻ったネガ
今回は、以前にも一度書いたことがあるのですが、軽井沢に現在も保存されている草軽デキNo13に出会った時のおはなしです。
というのは、その時に撮影した写真のネガが長い間(40年以上)行方不明で、そのために前回使用した写真もプリントからのものでした。それが最近になって、奇跡的に手元に戻ってきました。
それはあたかも “タイムカプセル” のようで、目を通せばその時の記憶がありありと甦ります。そんな嬉しさから、写真をもとにその幸せな1日の記憶を辿ってみたいと思います。

鉄ファン 65.11-1
 
草軽デキの保存を知った “鉄道ファン” の記事。(1965年11月号)

このデキ12形、No.13 がここに保存されることになったいきさつは、この記事をご覧ください。


● 1975年 12才 夏休み
それはわたしが中学1年生、12才の夏休みのはなし。
時に1975(昭和50)年8月、今から45年前のことになります。
わたしが草軽に心惹かれていったその頃のおはなしは、ぜひこちらをご覧下さい。

“けむりプロ” の記事などによって、深く心に刺さってしまった草軽電鉄のイメージ。しかしいくら憧れようと、そこには絶対に覆せない子供でもわかる現実、すなわち草軽電鉄はもうない—、草軽電鉄はもう存在しない— 、草軽電鉄はもう見ることはできない— 、草軽電鉄はもう 写真を撮ることもできない— 、を前にして、やるせない思考はいつも行き場を失ってしまっていたのでした。

そんな葛藤の日々の中、たまたま古い鉄道ファンの記事によって、草軽デキが保存され、現存している(だろう)ことを知るのです。その喜びといったら、もう何も手につかず、頭の中はそのことでいっぱいになってしまう程に、その頃のわたしにとって、世界観がかわってしまう程の大きな出来事だったのです。

さて、そうはいっても、軽井沢、という場所は子供が日帰りで行ってくるにはちょっと遠すぎる場所でした。さらに切符代も小遣いの金額でフォローするには厳しいものがありました。
せっかく得た素晴らしい情報を前に、なす術はなかったのでしょうか?
でも、やがてチャンスは巡ってくるのです。
それは、父親の実家が長野県の飯山だったことから、車でのお盆の帰省の帰りに、自分だけ別行動で鉄道で帰る、ということの承認を親から得ることができたのです。そう、軽井沢へ行けるのです!
確かにまだ12才の子供にとって、長野(飯山)から列車を乗り継いで東京に帰る、ということは結構な冒険、ともいえたかもしれません。もちろん、そんなひとりでの長距離移動は初めてのことでした。ですので列車の選択からはじまる全てのプランを考えるとき、ほとんど情報がないにもかかわらず、とにかくもうわくわくして、夏休みが本当に待ちきれない思いだったのです。

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長野駅で見かけた181系 “あずさ”
“なんで長野駅にあずさが…”、となにか珍しいものを見つけた気になっていた…。


● 初めての高原
当日、
初めての軽井沢へ行くために選んだ列車は、迷うことなく長野発 8:06の普通322レになりました。牽引するのはもちろんEF62。

長野駅に着いた飯山線からの乗り換えで目にした、すでにホームに入っていた旧型客車の重圧な連なり、乗り込んだ時のあの独特のにおい…、これらはなんと非日常的な旅情、そしてこれから始まる自由な1日への期待と喜びを感じさせる光景でしょう。
現在のマニアが、このような体験ができないことを、気の毒に思えるほどです。

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浅間高原へのアプローチを順調に駆け上がるEF62の上り322レ

わたしを乗せた322レは 、篠ノ井・屋代・ 戸倉・上田… と、順調に進んで、小諸からはいよいよ軽井沢に向けての連続25パーミルの登りにかかります。
天気はよく、解放したデッキのドアからの風は次第に爽やかなものになっていきます。青空と夏の白い雲がまぶしいまでのコントラストを作り、カーブを曲がる度に大きくなっていく浅間の流麗な姿は、軽井沢、すなわち草軽の走った地が近づいていることを感じさせたのです。
ちなみに、当時の時刻表をみて驚いたのですが、現在であれば20分もあれば着いてしまう長野・軽井沢間を、この322レは実に2時間半かけて走っていたのですね。

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10:27 定時で軽井沢に到着、補機EF63を連結する。停車時間は7分

さて、軽井沢までやってきたものの、保存デキに関して把握していた情報は、先述の記事の中にある、“中軽井沢駅近くの公園”、ということだけでした。
記憶では、中軽井沢で列車を下りた気がしていたのですが、ネガでは軽井沢でのEF63の連結を撮っているので、軽井沢まで行ってそこから歩いたのは間違いないようです。
残念ながら、この時はまだ憧れの草軽がこの地のどこを走っていたのか、という知識も情報もありませんでした。でも、そんなことは特に問題でなく、とにかく “自分に意思で軽井沢にいる!”、という事実だけでもう充分だったのです。
国道からはずれて静かな細い道に入れば、それだけでちょっと気温が下がった気がします。予備知識なく現れた保存のED42に驚き、さらに舗装もされていない小道を辿っていけば、落葉松並木の向こうに古くて大きな別荘の建物が見え隠れし、ふと視界が開けてみれば、そこにはいきなり浅間山がどーんと見えたり…、思えばこの1日の体験がわたしの草軽への想いを、それまでのかなり漠然としたものから、具体的なカタチをもったイメージにしたのでしょう。
そして、やがてそんな気持ちは、“自分の足で草軽電鉄の通った道を歩いてみたい”、という強い意識へと昇華していったのでした。

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軽井沢駅前の賑い
道路は国葬18号。
駅前の側溝のフタにはラックレールが再利用されていた。横断歩道を渡った先が旧草軽電鉄新軽井沢駅があった場所。
右奥に見える木造倉庫は、国道18号を渡っていた草軽の積み込みホームにあったもので、この当時まだ現存していた。

● デキに会う
さて、目的だった保存のデキは、割とすぐに見つかりました。
それは国道から少し奥まった広々とした敷地の隅に、ぽつんと置かれていました。
盛り上がっていた気持ちは頂点になり、心ははもう舞い上がってしまうばかりです。
だって、写真を見て憧れ、かつて浅間高原の山野を走った “ホンモノ” のデキが目の前にあるのですよ!

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後から考えた、この時の重要な印象は、それが “イメージ通りの大きさだった”、ということでした。これはわたしにとっては非常に重要なことで、いくら憧れた車両でも、実際に接してイメージよりもかなり大きかったりすると、途端に想いは萎えてしまいます。(尾小屋鉄道が正にそうでした)

また、色の記憶は曖昧なのですが、機関車には表記の類は一切なく、全体が錆止め塗料が色あせたような白茶色だった気がします。
当然のことですが、当時まだこのデキが、“2枚窓だからNo13だ”、などという知識はありませんでした。

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場所は現在の軽井沢中学校あたりの敷地。国道からもよく見ていれば見えるところでした。写真でわかる通り、機関車にかぶせるような立派な屋根が着き、ゆったりとした敷地に余裕を持って置かれています。
この時点で用途廃止から13年、 運転室側のカプラーはすでに失われているものの、まだまだ各部がしっかりとした状態を保っていました。
その後、この機関車は、軽井沢中央公民館前に移され、さらにR軽井沢駅前に移動し、現在に至っているのは周知の通りです。

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45年前の、平和な夏の1日の記憶、出会うことができた機関車の姿と軽井沢という場所の空気、これらがわたしの草軽趣味の大ききっかけになっていることは間違いないようです。
手元に戻ったネガは、そんな宝物のような大切な時間をそのまま封印しているようでした。

〈鉄道青年〉 


浅間模型 デキ12形 完成!

●  デキの “顔”
みなさまは、いざ車両のカタチ、と言われたら何の数字を信じるでしょうか?。
恐らくは竣工図面が残されていたならば、その数字が“絶対的なもの”、と思われるのではないでしょうか。

それでは、この写真を見てみましょう。

すみの2両
 新軽井沢                      撮影:隅野誠一

新軽井沢駅構内で、2両のデキが顔を並べています。左は15号機、右がラストナンバーの24号機です。この2台。わたしにはどうしても同じ図面に基づいて製造されたようには見えません。
もちろん、電化当初(大正13年)に入った15号機と、それから14年も遅れて昭和12年に入った24号機ですから、少なからず違いはあって当然でしょう。また24号機には、同時に入った3両に装備された(あくまでも個人的な見解で)カッコの悪いパンタグラフが付いています。

ここで何が言いたいか、というと、同じ鉄道の同じ形式の機関車であっても、ちょっとづつ(なんとなく)その表情には違いがあり、それはあたかも、人間の顔に例えれば、双子や三つ子でも、見慣れるとちょっとした違いで認識ができる…、というレベルのはなしかもしれません。
軽便鉄道の “手作り車両” は言うに及ばず、厳密な図面に基づいて製造された国鉄車両にもいえると(わたしは)思っています。

以上のような考えから、浅間模型のデキ12形もやはり、その“表情”にはすごくこだわりました。
15号機や17号機が、なんとなく“貧相” な表情に見えるのに対して、12号機や16号機、20番台のものは“ふっくら”として見える気がします。
好みはあると思いますが、そんな中で個人的に好きなものは、最初にあげた15と17です。
ですので模型化にあたっては、この2両の“表情”になるように、またその特徴を強調するような設計としました。

ですので、製品はひとくくりに、“ショートデッキタイプ”、と書いてありますが、個人的には15・17号機のつもりで製作しております。そう書かなかったのは、いちいちそんな細かいこだわりを説明するのが面倒だったから…、です(失礼!)。  でも、ここだけではそう告白させて下さい。

で、どうでしょうか、先の写真に写っている15号機と少しは“似て”ないでしょうか?

正面 使用1

P6273447 使用
15号機関車の運転士は井出成次さん。

● “車 高”
あと、最後にもうひとつこだわったのは、その“車高”なのです。
模型を見て、“よくできてるんだけど、何だか印象が違うな…”、というようなことって、たまにありますよね。

それはよく言われることですが、実車と模型では、見る角度が全く異なる、ということも確かにあると思います。本当にスケールに近く製作しても、模型としてホンモノに “似た” ものになるかどうかは、人それぞれかもしれません。
でもわたしは、その大きな原因が “車高” である、ということに信念があります。

実車はどうあれ、本当にたった0.5ミリの差で全然イメージが変わる、と思うのですがいかがでしょうか?
ですので、テストショットでは、その “車高” を決めるために、動力を付ける高さにかなり悩んだのです。

P6273477 使用

P6273499 使用


 
解説したい“こだわり”はまだあるのですが、どうぞ写真からその雰囲気、言ってみれば、ちゃんと“草軽デキ12形になっているか”、ということを感じていただければ幸いです。
また、最後になってしましましたが、特徴的なカプラーをはじめ、ヘッドライト・コントローラのロストワックス原型は、西 裕之さんに製作をお願いしたものです。

以上のように、細かいところまでこだわってしまった内容ですので、当然コストはかかりました。でも、せっかくですので、なるべく多くの方に手にして頂きたい、と思い採算は度外視に近い値段設定になっています。

※  なお、塗装した完成見本の運転士のペイントは、原型製作の 舘野 浩さんの手によるもので、現車の魅力を大きく増しています。
作例はパンタグラフまわりを若干ディティールアップ しています。


P6273479 使用

P6273467 使用

〈鉄道青年〉

浅間模型 デキ12形 もうすぐ完成!(3)

● 正面窓
草軽デキを印象付けている重要なアイテムである正面窓、これもまた模型化にはやっかいな形状をしています。

最初、窓枠の可動式も考えたのですが、なにしろその部分の厚みが1ミリちょいしかなく、透明プラ板を貼らなければならないので、これは早々に諦めました。
そのかわり一体パーツにはせず、0.4ミリの洋白板を3枚重ねる方法としました。これによりたいへんシャープで立体感のある仕上がりになったと思います。


全しめ 使用 しよう

P5243402しよう
 

また、ここで是非やりたかった(拘りたかった)のは“運転士を乗せる”、といことでした。

実物の写真を見ると、夏場などは4枚の窓を全開にして、運転士は左手の肘を窓枠にかけて運転している様が見てとれます。この魅力的な状況を再現するために、正面窓はノーマルの全部閉めた状態のものの他に、“全開” の状態にでき、そのどちらかを選べる内容といたしました。

運転士本体も、舘野 浩さん原型によるロストワックスの製品を用意しました。(これのみは別売になります。)


全開 使用 しよう

P5233360 のしよう

 
さて、せっかく運転士が乗って、窓も全開(もちろん左右の出入口も開閉可)になるのですから、運転室内の機器も手を抜く、ましてやパーツを作らない、などということは考えられません。

機器の配置は各車によって異なるようですが、少ない資料の中からできる限り忠実な再現を目指しました。

正直にいえば、この部分の工作はたいへんに細かいパーツの組み合わせになります。しかし、窓を全部開けた開放的な運転室内に、ちらりと見える機器も魅力的ではないでしょうか。

中 使用jpg

P5233362しよう

〈鉄道青年〉
 

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