火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

わたしの好きな軌道跡(2) 鶴溜 その2

P1010078
 鶴溜駅上り方の築堤を走る電化記念列車        エハガキ所蔵:小林隆則

⚫︎ 永遠の鶴溜
先日、わたしの好きな軌道跡 (2) 鶴溜 その1” として、鶴溜駅下り方のストレート区間のことをおはなししました。そこは、掲載の写真はもとより、蒸気機関車の時代からの撮影ポイントとして、廃線まで何度も登場する草軽随一の“お立ち台”でした。
ところが、同じ鶴溜周辺にあって、そこと同等か、あるいはそれ以上に写真が残されたポイントがあったのです。
今回は鶴溜編その2、“永遠の鶴溜”として、その場所と駅周辺の写真を見てみたいと思います。
 

P1010090
 鶴溜駅                                  1957(昭和32)年  撮影:田部井康修

まずはこの写真。
昭和32年に撮影された鶴溜駅の様子です。バックにそびえるのは言うまでもなく離山、軽井沢はこの山の左奥になります。線路は奥が上り方、手前が下り方です。轍の残る道路は、旧軽井沢・沓掛(中軽井沢)方面から登ってきて星野温泉へ下りていく、このあたりのメインとなる道です。
それにしても、この広々として、荒涼としていて、奥行きの深い光景には心打たれます。不毛な浅間高原の荒野を貫いた、草軽のささやかな存在感がそのまま説明されてしまっているような光景です。
ちなみに、写真からも容易に想像がつくように、ここ鶴溜駅には水がきていませんでした。駅員の生活用水は専用の水タンクが貨車に積まれて運ばれていたのです。
それにしても、軽井沢・沓掛からそう遠くはない場所だというのに、水も無く、およそ人気が感じられないこのような場所で、いくら仕事とはいえ毎日暮らした駅員と家族は、何を思ってこの風景を見ていたのでしょうか。
 

DSC07073 2
鶴溜駅跡                 2017(平成29)年8月  小林隆則

そして、現在の鶴溜駅跡。
道路が軌道跡で、奥が軽井沢方です。樹木が茂ってしまい見ることはできませんが、この向こうには離山が大きくそびえています。
上記昭和32年の光景から想像をつけることは非常に困難なことですが、間違いなくここが同じ場所なのです。

鶴溜という場所は、不気味なくらいに道が入り組んでいて、現地へ行っても軌道跡や駅のあった場所を確認することはちょっと難しい作業です。
ただ、そんな鶴溜駅周辺にあって一部分だけ、そこに行くだけで明確に軌道のあった場所がわかるところがあります。それはまた他のどこよりも、草軽の線路の雰囲気が残っている場所、といっても過言ではありません。


鶴溜付近 tizu-2

地図をご覧ください。
前回と同じものですが、駅の北側、軽井沢方に見えるカーブがその場所です。
見ればわかる通り、180度以上のターンを見せる、営業鉄道にあるまじき美しくも極端な急カーブです。

さて、冒頭に揚げた人工着色のエハガキは、ここで撮影された電化開業の記念列車、と言われています。最近ヤフオクで入手しました。(ここに写っている車両の “謎解き” は こちら

軽井沢に向かう上り列車が、鶴溜を出て、このカーブを進行しています。バックには浅間山、そして先の写真の通り、前方には離山。風景を遮るもののないこの開放的な築堤は、まさ高原鉄道草軽にあっても、最も劇的な車窓が展開する場所ではなかったでしょうか。

全体
 鶴溜駅上り方の築堤を走る下り列車          エハガキ所蔵:小林隆則

この写真は、電化前、雨宮製の蒸気機関車に引かれた吾妻行き下り列車が同じ場所を進行する様を記録したものです。
頭の中で写真を鮮明にして色をつけていけば、なんとものどかで魅力的で、大正のこの時代に向けて、切ないほどの想いが湧き上がってきます。
つまり、大正13年の電化前、開業の頃からここは、浅間山をバックに “東洋唯一の高原鉄道、登る山道四千尺” のイメージそのままの光景が展開する場所として、多くの写真が残さていたのです。

ところがです、
昭和に入り、戦後となり、草軽が廃止になるその時期まで、この場所の写真がないのです。
カーブの内側から撮影したものはいくつか見たことがあるのですが、これら大正期に撮影された、築堤を見上げる構図の写真が全く見当たらないのです。
樹木が大きくなってしまって、昔の展望が得られなくなってしまったのか。あるいは反対側の樹木が大きくなり、浅間山が見えなくなってしまったか、そのどちらかかもしれません。ただ草軽が現役だった当時は、この鶴溜前後は、どこからでもたいへん大きく浅間山を見ることができたはずなのですが、今となってはわかりません。

ひとつヒントになる写真があります。

スキャン 4-2
 三笠・鶴溜 下り列車    
        1957(昭和32)年6月9日 撮影:小田 守(提供:宮田寛之)

件のカーブをクリヤーして、鶴溜駅への短いストレートを進行する客車2両の下り列車です。背後は離山で、山野に響くフランジの軋みが聞こえてきそうな光景です。
カーブは客車のすぐ後ろあたりから始まります
これを見ると、確かに大正時代よりかは樹木が大きくなっています。ですのでここでアングルを探すよりも、ちょっと先へいけば、前回の記事のポイントに容易に行けることですし、無理にここに拘る必要もなかったのでしょう。

DSC07087 2
 鶴溜駅付近の軌道跡            2017(平成29)年8月  小林隆則

最後に、このカーブの現在の様子です。濃厚な鉄道の雰囲気が、写真からも伝わると思います。
三笠方から鶴溜駅方を見た光景で、冒頭のエハガキで電機列車が走っている、正に同じポイントだと思われます。

鶴溜、という場所に足を踏み込むと、そこは何だか時間の止まったような、部外者が立ち入り難いような、ちょっと不思議で閉鎖的な感覚を覚えるのはわたしだけでしょうか。
あるいはそのような場所だからこそ、入り組んだ道の中から軌道の跡を探し出して、そこを辿ってたどり着く、このいにしえの大カーブに言葉を失うほどの、“鉄道の記憶”を感じるのかもしれません。

IMG_5586 2
付近で営業していた唯一の商店 “鶴溜売店”
見にくいが看板の下の方に、“こばやし” と書いてある。なんか嬉しい。
                     2015(平成27)年6月  小林隆則

〈鉄道青年〉 


デキ13号 リニューアル

DSC07670

ことし初めての記事は、HOTな話題としてJR軽井沢駅北口に保存されている、唯一現存する草軽電鉄の車両である、デキ12型 No.13(以下デキ13号)のはなしから始めましょう。

以前、“草軽の最終列車” という記事の最後で、このデキ13号に関しての“謎”のおはなしをしました(こちら)。そこでは部分廃止時に12両あったデキ12型のうち、何故か同機のみが正面窓が2枚になっていました。しかしこれは、少なくとも1957(昭和32)年5月までは、僚機と同じ4枚窓だったこと、そしてその車番表記も、晩年の安っぽい丸ゴシック体ではなく、他と同じ立派なローマン体で表記されていた、ということを明らかにしました。
ただ、どうしてこのデキ13号のみがそうなってしまったのか?、については今のところ証言を得ることができず、憶測しかできない、という状況なのです。

はなしは変わりますが、昨年秋、JR軽井沢駅に隣接している “軽井沢駅舎記念館”が、しなの鉄道(旧JR信越線)の軽井沢駅舎として利用されることになりました。その整備は結構大規模な工事になったようで、駅舎本体のみならず、その周辺の物品も対象になる、と聞ききました。 そうなると当然真っ先に、正にそこに置かれているデキ13号がどうなるのかが気になるところです。
昨年秋、9月といえば、北軽井沢で写真展 “草軽高原を往く” が開催されていた時期で、そこでも多くの方から、“軽井沢のデキ13号はどうなるのか?” ということが話題に上りました。
唯一残された草軽の車両ですから、まさか撤去されてしまうことはないのではないか、というおはなしをしたのですが、憶測していても仕方ない、と思って直接軽井沢町教育委員会に問い合わせてみました。
そこで頂いた回答は、“現在工事中の軽井沢駅前に保存されている旧草軽電鉄の機関車は、敷地の施設の工事に合わせて、町の予算が下りたことから、東部小学校のED42型機関車とともに塗り替えることになった”、というものでした。
つまり、駅舎の改築に合わせて、“きれいにする”、ということだったので、ひとまず安心をしました。

さてこのデキ13号、以前の記事(こちら)でおはなししましたが、1965 (昭和40) 年に正式に保存されることになった時は、車体は薄い赤茶色に塗装され、車番その他の表記は省略されました。何でその色になったか、実際の理由はわかりませんが、恐らくは数年に及ぶ長い放置期間のうちに、もとの色がわからなくなってしまうくらいすっかり車体は錆び付いてしまい、全体が赤っぽくなっていたので、それに近い色にした…、ということと推測しています。
次に、これがリペイントされるのは10数年たった1977 (昭和52) 年頃です。
この時は何故か、全体が白に近いグレー、になりました。そして車番や社紋の表記も、また省略されました。何故この色にしたのか、理由は不明です。ただ、ディティールの写真を撮る時には写りのよい塗装ではあったのですが…。
次のリペイントは、1985 (昭和60) 年頃のことでした。
この時、車体はブラックで塗装されました。車番と社紋もここで復活するのですが、車番のレタリングは現役の時のものとはちょっと違いましたし、何よりも “ゴールド” での表記だったので、残念でしたが印象が少し異なるものになってしまいました。さらに、どういうわけか先輪のみが赤っぽく塗装されていて、これも実際とは異なる部分でした。
2000 (平成12) 年、長野新幹線開業に伴う軽井沢駅リニューアルに合わせて、軽井沢駅前に移転された時にもリペイントされたようですが、この時も塗装と表記は前回と変わらないものでした。

こうして、最後にお色直しが行われてから既に20年近い年月が流れました。最近では黒かった車体もすっかり色あせてグレーに近い色になってしまい、車体表記も消えかかっているなどあまりよい状態とはいえず、見るたびに残念な思いを重ねていました。

そこに今回のリペイントのはなしです。
わたしは、全く僭越なことだとは思ったのですが、“元の色、車体表記に戻してやりたい”、ということを考えたのです。ただ、そのことは以前から希望として持っていたことではあり、今回のおはなしは “またと無いチャンス”、だと思ったわけです。
つまり、車体はしっかりとした黒、車番・社紋はゴールドではなく白。その表記も考証に基づいたレタリングで行う、ということです。
ただ、この “考証に基づいたレタリング”、というのがちょっと問題でした。先の記事でも書いた通り、同機の晩年は僚機とは異なる簡単な丸ゴシック体の表記になっていて、残されている現役時の姿も、ほとんど全てがその表記の姿なのです。もしも、現役引退時の最終的な姿を再現するとすれば、この簡単で味気ない表記が “考証” ということになってしまいます。
しかし、あの草軽独特のローマン体での表記の方が写真を見ても格段に立派です。そして実際にそれは、廃止の5年前、1957(昭和32)年まではデキ13号の車体にもなされていたことがわかっています。
繰り返しになりますが、かけがえのない、現在唯一残された、“強運の機関車” デキ13号には是非その表記の姿に戻ってもらいたい、と草軽を愛好するものとして考えました。

わたしは、リペイントのおはなしを伺ってから直ちに、“証拠” としての調査のレポート、写真からおこしたレタリングのデータ、そしてそれに対する強い想い、をまとめて軽井沢町の教育委員会宛にお送りしたのです。
担当して頂いたのは、生涯学習課文化振興係の島田さんという方でした。
わたしのはなしがこの島田さんに伝わったのは、本当に幸運なことでした。 “マニアのたわごと” で片付けられてしまっても仕方ない内容を真摯に聞いて頂き、そして何度かの打ち合わせの後、わたしの希望通りのペイントがなされることになりました。

かくして、軽井沢町教育委員会の皆さまの大いなる理解とご協力によって、2018年1月の現在、JR軽井沢駅前に置かれた旧草軽電鉄、デキ13号機関車は写真のような姿になりました。これは、同機が正式に保存された昭和40年以降、初めて “正しい色と表記” に戻ったもの、といえるものではないでしょうか。
みなさまも、軽井沢へ出かけることがございましたら、是非ともこの姿を見て頂きたいと思います。


DSC07671


〈鉄道青年〉 
 


あけましておめでとうございます

スキャン 1-1

みなさま、
昨年も拙ブログを見て頂き心より感謝いたします。

“いったい何を書けばよいのだろう…”、という気持ちで恐る恐る始めたこのブログですが、実に今年で6年目に入ります。しかもまだまだ書きたいことがある、というありがたい状態です。
ただ時間も使用できる写真も限られてれいる中で、個々のはなしが脈絡なくなっていってしまうのが弱点だとも思っております。
まあせめて今年も、恒例のイラストレーターさと市さんの手による素敵なイラストから始めましょう。
さと市さんは、“電車を後ろから描いたのは初めてだ…”、とおっしゃっていましたがそう言われてみると、そうかもしれません。


本年もどうぞよろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 


記事検索
アクセスカウンター