草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

お知らせ

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2023年7月、プレスアイゼンバーンから、“忘れ得ぬ鉄道情景2“ という本が出版されました。
ここにわたしの名前での草軽電鉄の記事を、30ページにわたって掲載して頂きました。


今から10年ほど前になります。
上記 “忘れ得ぬ鉄道情景“ の1が出版されました。
これは、1960〜70年代に活躍し、当時の多くのマニアに計り知れない影響を与えた、けむりプロのメンバーのひとり、杉行夫さんが全面的にプロデュースした内容のものです。
内容は極めて趣味性が高く、またそれぞれが深く掘り下げられた記事によって構成された、ある意味今の世情には迎合しない、妥協のない硬派な本でした。
これをお持ちの方も、恐らくわたしと同じ感想なのではないでしょうか。

さてこの本の出版後すぐに、その “2“ の製作にかかる、ということを杉さんより伺いました。さらに、それにあたってわたしに、“草軽の記事を書かないか“、というお誘いをいただいたのです。
先輩方の写真が残した珠玉の作品を、自ら構成して記事を作れる、わたしにとってはまさに夢のようなおはなしだったのでした。

それからというもの、わたしは張り切っていくつも構成を考えては、そんな作業ができる幸せを噛み締めていたのです。
しかし残念ながら諸事情により出版は遅れ、いつしか10年の月日が経ち、わたし自身ももう本が出ることはないのではないか、と諦めて、さらにはそのおはなしのこすら忘れてしまっていた、というのが正直なところでした。

それが突然今年になって、杉さんの尽力が実っていよいよ出版される、ということを伺ったのです。
正直、そのページ構成もあまり覚えていなかったところでしたので、そのおはなしにはたいへん驚いてしまいました。
慌てて見返しましたが、やはり、現在の60才という年齢と当時40代の自分の、ある意味 “完成度“ は違っていて、また、構成に関しても当時色々とあったことを思い出したりして、不満な部分も正直あったのですが、やはり本当に出版される、という事実は重く、いっそ10年前の自分を肯定してやるのもアリかな、という考えで、素直に喜ぶ気持ちになれたのです。

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この度、送られてきた本を見て、まさかの巻頭記事になっていて再度驚きました。
ページをめくっていけば、自分の拙い文章などほとんど意味を持たないような珠玉の作品の数々が、これでもか、というほどに繰り返されていきます。しばし、第三者のような気持ちで盛り上がって見てしましました。
これは決して自画自賛するものではありません。
自分が感じている草軽電鉄への憧れが、所先輩方が残してくれた写真を通じて皆さまに伝われば、たいへん僭越なことなのですが、とても嬉しいことで、この趣味を持ち続けてきてよかった、と思うのです。

またこの間、残念なことですが、写真を提供して頂いた方の中には亡くなられた方もおられ、その意味でもこのようなカタチで記事になったことは追悼になったのではないでしょうか。


正直高い本で、あまり売っている店も多くはありませんが、見る機会がある方はぜひ見て頂ければ幸いなことです。

以上、繰り返しますが、僭越ながらご報告でした。


〈鉄道青年〉

23号機の謎(2)

前回は、23号機関車が軽井沢方の部分廃止直前に、何らかの理由で違う番号のデキと “入れ替わっていたのではないか“、というおはなしをしました。

● “18号機“ の写真
それでは一体何番のデキが、その23 (偽) とされてしまったのでしょうか。この疑問に対する重要な記録がこの写真です。

23廃車
廃車後の “18号機“   新軽井沢             撮影:宮松丈夫
                   “草軽電気鉄道“(プレスアイゼンバーン:1980)より

プレスアイゼンバーン、“草軽電気鉄道“ に掲載されている写真で、ご記憶に残っている方もいらっしゃると思います。わたしにとってもそれは、あまりにも昔から見ていた写真でした。何故もっと前に疑問を持って見なかったのか…、自分の観察眼の甘さに怒りすら覚えました。

写真のキャプションもにあるように、写っているのはデキ12形 No18 です。既に先輪も外されパンタグラフももげてしまった、解体寸前の悲壮な姿です。
でもちょっと待って下さい、この車体、機械室が延長されていて、ボンネットに積んであるカバーがラウンド型(正面から見た時ふくらんでいる)です。この形態を末期まで持っていたのは、前回の記事で書いたとおり、22~24号機の3両のみでした。正面窓上の手すりの有無も含めて、少なくとも18号機はこの形態ではなかったことは、残された記録を見れば明らかです。

そう思ってこの写真をもう一度よく見ると、車体の番号表記の10の桁の部分を描き直した跡が生々しく残っています。そしてとなりの1の桁、そこが仮に “3“ だったとして、離れている部分を “ちょちょっと“ 描き足して繋げてしまったとすれば…。

この写真の存在から、23 (偽)は、元の18号機だった、と断定してもよいと思われます。

● その理由は?

その理由は?、と聞かれたとしても、残念ながらいつものことですが疑問のままなのです。
ただ、この問題をを考えるヒントになる資料が手元にありました。
それは、昭和35年4月の軽井沢方部分廃止後、残存する上州三原・草津温泉間に残す車両を具体的に予定した、『残置車両及記号番号表』です。
残置車両表1
          『残置車両及記号番号表』 提供:宮田道一

文字通り、1960 (昭和35) 年4月の部分廃止後、継続して使用する予定の車両一覧です(※)。一番上の、“電気機関車“ の部分を拡大してみましょう。そこにはデキ23号機も入っていたことがわかります。

残置車両2

ただ、ここで思い出して頂きたいのが、部分廃止後、草津温泉側の残存区間に実際に残されたデキ12形は、13・21・24の3両で、そこには23は入っていなかった、という事実です。
この3両(13・21・24)が残された理由は、恐らく吾妻川の鉄橋流失時に上州三原よりも奥に、“たまたま“ いた 3両だったからでした。(詳細は “吾妻川を渡った車両たち“ 参照)
この表にでてくる23:つまり23(偽:元18)が何故残らなかったのか、その理由は今となっては明らかにすることはおそらく不可能でしょう。

● 憶 測
でも、最後にわたし自身の憶測ですが、その経緯をイメージしてみたいと思います。

・草軽では、部分廃止にあたり、上記表の通り残存させる車両・番号をあらかじめ決めていた。
・機関車については、既に3両が上州三原側にいるので、追加で1両を残したいと考えた。
・番号の選定にあたっては、なるべく全般検査の期間が長いものを選んだ。それが23号機だった。
・しかし、23号機はどこかに致命的なダメージを持っており、残存させるのは無理があった。
・そこで、全般検査までの期間は短くても、状態の良い車体を物色した。ここで18号機が選ばれる。
・元からあった23号機は、それがバレないように、車体の表記を “18“ に描き換えて、さっさと廃車にしてしまった。
・元18号機は “23“ となり活躍を始める。
・こうしてせっかくでっちあげた 23(偽) だったが、実際の小規模な運用に機関車4両は必要なし、と判断され、部分廃止とともに、残存することなく廃車・解体された。

という流れは説得力ないでしょうか…、
あるいは、これまでその写真を見たことがないだけで、23(偽)は吾妻川を渡って、実際に一定期間使用された、ということも完全に否定はできないのですが。

以上、およそどうでもよいおはなしでしたが、お付き合いいただきありがとうございました。

● 18号機のホンモノのこと
最後に、23(偽) にされてしまったホンモノの18号機のことについて少し触れていきましょう。
草軽に存在したデキ12形の中でも、何故かこの18号機は残された写真がたいへん少ないのです。
本来とは違う名前になってしまったことのみが、このように大々的に(?) 採り上げるだけでは浮かばれません。
ここに、18号機の素晴らし写真をご紹介しましょう。

No.18 新軽井沢-1
18号機牽引の下り草津温泉行  
デキ18 + コワフ109 + ホハ15  新軽井沢   1956 (昭和31) 年 9月
                 撮影不詳(所蔵:小林隆則)
  上記、“草軽電気鉄道“(プレスアイゼンバーン)掲載の写真とは別のテイク

晩秋の高原の空は澄み渡り、吹く風は既に秋のにおいを運んでいました。午後の草津温泉行き混合が明るく開放的な新軽井沢駅を発車、旧軽井沢にむけて加速していきます。
機関車の窓、客車の窓、そして貨車の扉までもが全開にされ、乗客もみな、過ぎていく夏の高原風景を思い出に残しているようです…。
そんな空気の奥行までもが伝わってくるこの1枚は、残された18号機の最高の記録だと思うのです。

〈鉄道青年〉

※  たいへん興味深く貴重な記録。本題のデキ23号機を含めて、実際にはこれほどの車両が残ることはなかった。

23号機の謎(1)

わたし自身も以前から疑問に思っていたことで、読者の方からも質問も頂いていたので、タイトルにもある “謎“ のことを調べてみました。
とはいっても、謎はいつもの通り “謎“ のままなのですが、新たに明らかになった事実もありますので、2回に分けておはなししてみたいと思います

23号1
デキ23号機牽引の上り混合列車  旧軽井沢  1959 (昭和34) 年  夏 
                        撮影:高井薫平
● デキ23
ご周知の通り、草軽デキ12形は、大正13年の電化時から昭和14年までの長い期間に渡り、14両が導入されました。この23号機は、その昭和14年になって増備された最終グループ(22~24)の中の1台で(※)、それまでのデキ12形とは一見してわかる形状の違いがありました。すなわち、改良型のパンタグラフが装備、抵抗器の増設により機械室が延長されケーシングがオーバーハングしている、機械室のカバーがラウンド型になったということです。
パンタグラフは後に一般型の変えられますが、機械室カバーのラウンド型(正面から見た時に丸く膨らんでいる形状)は大変大きな特徴で、およそ草軽デキに興味のある人であれば知らない人はいないだろう、と言えるほど有名な形態だったのです。

● 謎の発端
まず、この 23号機の一体何が謎なのか、ということからおはなししなければなりません。
この画像をまず見てください。

23号機 ビデオ
DVD  “鉄路の轍 1  草軽電鉄“ より

これは、DVD “鉄路の轍1  草軽電鉄“ の最初のシーンです。
1960 (昭和35) 年4月24日の新軽井沢・上州三原間部分廃止、その当日か直前の画像だと思われます。
場所は三笠・旧軽井沢間、現在でも線路敷がそのまま道路になっている落葉松の並木路です。列車は上り混合で、通過後、見送る子供たちが手を振りながら列車の跡を追っていきます。
画面には、“23番機関車“ というテロップが出ており、確かに“23“ のナンバーが表記された機関車が通過していきます。
ただ、“おや?“、と思ったのはこの機関車、前述のように機械室部分の延長がなく、カバーもフラットなようです。それだけでなく、全体の雰囲気からどう見ても、上の写真と同じ機関車には見えないのです。

●  2台の23号機

嬬恋 23号機
“デキ23“  嬬恋               所蔵:小林隆則

何かの間違いに違いない…、目の錯覚だろう、など考えるのですが、手元にある写真のなかに、“そういう機関車があった証拠“、を見つけてしまいました。
1959 (昭和34) 年8月14日の、吾妻川鉄橋流失事故(記事はこちら)で分断され、軽井沢側の終点となっていた嬬恋駅での “23号機“ の写真です。
この写真を見れば、冒頭の混合を引いた機関車とは全くの別物、ということがさらに理解できると思います。

つまり、この23号機をめぐる謎というのは、軽井沢側が部分廃止となる直前に、他の機関車と “すり替わっていた“、ということなのです。

● では、何番と入れ替わった?

おはなしをわかりやすくするために、以下オリジナルの23号機を “23 (真)“、形態の異なるものを “23 (偽)“、と呼ぶことにします。

この 23(真) が記録されたおそらく末期のものが、“鉄道写真1998“(広田尚敬:ネコ・パブリッシング)の中の記事、“草軽あのころ“ に出てくる同機の写真です。
見事なまでに曲がってしまったパンタグラフを、2人の職員が途方に暮れながら眺めている光景で、撮影時期は、“(吾妻川の鉄橋が流失した)台風の通過した5日目“、と文章にあるので、1959 (昭和34) 年8月19か20日のことでしょう。つまり、翌年春の部分廃止の半年前には、間違いなく23 (真) は存在していたことになります。

そしてこの直後、何らかの理由で 23 (真) は消されてしまい、代わりに 23 (偽) が “23“ として(おそらくは)部分廃止まで存在するのです。

この事実を受け入れるとすると、当然、じゃあ 23 (偽) は、元何番のデキだったのだろうか…、という疑問が生じます。
機械室が延長されていないデキは、この当時、12・15~18・20の 6両 (※) が存在していました。そのうちのどれかが 23 (偽) となるのですが、これについては最近になって、ようやく証拠を見つけることができました。次回はそのおはなしです。 (続く)

(※)
昭和10年に増備された21号機(後に凸型へ改造される個体)、及びそれに続いた22号機(後に21に改番)も、これと同じ形状だったと思われる。ただし戦後の記録では21号機の機械室はフラットになっている。

13号機も存在していたが、これは2枚窓の変形機だったので、そうではないアリバイがある。

〈鉄道青年〉
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