草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

屋根がない(再)

〈おことわり〉
今回のおはなしは、以前一度書いたことのある内容です。
ただ、最近になってその時のネガをスキャンして、当時のことが思い出されて自分で感激してしまったことから、それらの写真と共に、もう一度記事にさせていただきます。

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 設置されていた三角屋根が撤去され、パンタの向こうには浅間山が表れた。
この機関車にはやはり浅間山がよく似合う。
           2000 (平成12) 年1月29日  撮影:小林隆則(以下同)



2000年、それは今から21年も前のはなし。

日本にもまだまだ元気があった時代、“ミレニアム” とかで、それなりに世の中も盛り上がっていました。
その2年前には長野で冬期オリンピックが開催され、それに合わせて長野まで新幹線が開通しました。その長野まで “2時間かからない” という早さに、わたしはそれまでのどの新幹線の出現よりもリアルに驚愕したもです。

しかし個人的には、オリンピックに合わせて生まれた長男が1才になり、妻のお腹には次の子供がいました。そんな、人生の中でも大きく責任がのしかかってくる年代と生活の中、さすがに趣味を楽しむ余裕などはなく、模型工作も全くしていない、という日々だったのです。

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しかし妻も安定期に入り、そんな自分たちへのご褒美の気持ちもあって、冬の軽井沢に行って1泊しよう、というはなしになりました。
それは、“軽井沢に行きたい”、ということよりも、“いつかは万平ホテルに泊まってみたい” という願いを叶えるためでもあったのです。

1894(明治27)年に開業した万平ホテルは、避暑地軽井沢を代表する宿泊施設であり、古くからの軽井沢のはなしの中には必ずその名前が出てきます。
初めて泊った万平ホテルは、部屋こそ新しくなっているものの、充分にその歴史を感じることができる格調高い建物でした。

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さて、はなしはそこから帰ってくるときのことです。

現在はJR軽井沢駅前に保存されているデキ12形 No.13は、その時はまだ中軽井沢近くの、軽井沢中央公民館の前に置かれていました。
それまでも、軽井沢に来たときやそこを通る時は、保存されているデキを無視することができず、いつでもちょろっと寄っては存在を確認していました。

そしてその日も、もう夕方近い時間ではありましたが、いつものように家族を乗せてその場所まで行ってみました。ところが着いてみてたいへん驚いてしまいました。前回来たときとは状況が大きく変わっていたのです。
それは、“屋根がなくなっている″  ということでした。

いや、それまでかかっていた窮屈な三角屋根がないのもそうなのですが、周囲がすっかり掘り返されて、デキのみがそこにぽつんと置かれている、という状況だったのです。
もう何度も見ている機関車でしたが、明るい冬の日差しに照らされた姿は魅力的で、そんな想定外の状況に、わたしは声を上げて喜んでしまいました。

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では何故このような状況だったかといえば、この機関車はこの後、軽井沢駅前に近く完成する予定の、“軽井沢駅舎記念館” へ移転されることになっていたからです。
そのような理由ですので、わたしが見ることができたこんな状態も、おそらく数日間のできごとだったのではないでしょうか。

真冬の高原の風はたいへん冷たく、あたりはしんと静まりかえっていました。折りからの夕陽にくっきりと照らされた浅間山とそれを背景にして佇む草軽デキ。そんな幸福な光景に、自分は本当にこの機関車が好きなのだなあ、と忘れかけていた草軽への想いを再認識したのです。そしてなんだか明日からまた生きていく元気をもらった気すらしたのでした。

〈鉄道青年〉

丸山利一郎 ー草軽最後の運転士ー

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上り列車乗務の丸山利一郎運転士       1962 (昭和37) 年1月14日 撮影:田中一水

丸山利一郎(まるやまりいちろう:大6~平26)さんは、草軽の運転士として本当に最後の時までデキのハンドルを握った方でした。

ご出身は草軽の地元である三原で、1934 (昭和9)年、18才の時に霜田亀四郎さん(亀四郎さんがどのような方だったかはこちらの紹介で草軽(草津電気鉄道)に入りました。
当時の草軽はこの時代、他の鉄道でも同様だったと思いますが、その地域の職場としては花形で、給料もよく、ステイタスも高いものでした。しかし反面、まだ蒸機時代からのたたき上げの先輩たちの中で、もまれることも多かったようです。

そんな中、丸山さんは駅夫から始まり、駅務係、車掌となりました。そして兵役を終え、鉄道の仕事に戻ったとたん、中国との戦争が始まり、再び招集され戦地へと送られます。
その後一度除隊されたものの、さらにもう一度招集を受けたそうなのですが、終戦時は幸い内地勤務だったため、除隊後は直ちに草軽に復職、運転士として戦後の草軽の輸送を支えていくことになります。

草軽では、乗務員は在住の地域により、″軽井沢組″、″三原組″、″草津組″、と別れており、基本的に乗務運用が、それぞれの駅で終わるようなローテーションが組まれていたそうです。
この中で ″三原組″ だった丸山さんは、朝 8:04 に上州三原を出る貨物72列車で新軽井沢へ行き、昼間は新軽井沢・旧軽井沢間の電動客車(モハ100形)によるシャトル便を運転し、夕方の湯窪行き貨物63列車で上州三原に戻ってくる、という乗務パターンが多かったそうです。

余談ですが、草軽の夏季ダイヤ(7/15 〜 8/31)で設定される、北軽井沢往復臨時便(いわゆる″北軽行き″)の運用にも、この ″三原組″ の乗務員が入ることが多かったそうです。これは先述のモハ100形によって運行されましたが、デキの倍はあろうかという車高と、草軽では唯一のエアブレーキを装備した車両ということで、運転の勝手がずいぶん違ったそうです。
そして、ここで車掌としてペアを組むのは、同じ ″三原組″ の金井 実さんという方でしたが、この金井 実さんについてはいずれ記事を改めてご紹介したいと思います。

また当時草軽では、″機関車担当制″ という制度があって、基本的に運転士は自分の担当する番号の機関車に乗っていました。
丸山さんはデキ12形トップナンバーの12号が担当でした。つまり、朝一番の上り貨物72レは丸山さん運転の場合、必ず12号機が引いてくる、ということになります。(もちろん例外はあったでしょうが…)

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丸山運転士の上り貨物列車が12号機に引かれて北軽井沢に到着。
引いている貨車はコワフ30形。    撮影:黒岩 謙 (提供:北軽井沢観光協会)


1960 (昭和35) 年4月の新軽井沢・上州三原間部分廃止により、残存する上州三原・草津温泉間(17.6Km) の営業には、運転士は3名のみしか残りませんでした。
丸山さんはここに含まれていました。あとは井上 勇さん(井上 勇さんのことはこちらと、もう一人の方は残念ながら、現在のところお名前も含めて消息は掴めていません。

部分廃止後、列車は6往復の旅客列車と、一応1往復の貨物列車が設定されました。しかし、主要な輸送物資だった精製硫黄もトラック輸送に代わられ、貨物列車の運転はほぼ無かったようです。
また、ダイヤ改正の度に旅客も本数が減らされ、最後の1961 (昭和36) 年10月改正では、ついに4往復のみの運行になってしまいました。

そして、現在もなんら変わらないマニアの性で、いよいよ終わり、というこの時期になって草軽の最後の姿をカメラに収めようと、多くのマニアがこの地を訪れるようになります。
そして、その多くの方の口から語られたのは、丸山さんの人柄とその温かさだったのです。
丸山さんは、″せっかく来てきてくれたのだから…″ と、撮影への協力を惜しみませんでした。中には丸山さんのご自宅に泊めてもらって撮影をした、という方もいたほどです。

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営業最終日の下り1レに乗務する丸山運転士。
機関車に付いている帯状のものはカラーテープ。 スノウプラウにも注目。
       上州三原 1962(昭和37)年1月31日  写真提供:丸山利一郎

1962 (昭和37) 年1月31日、草軽最終営業日、上州三原発の1番列車は丸山さんの運転でした。この日定時運行が困難なほどのは大雪に見舞われてしまいます。(この日の運転の詳細はこちらをぜひご覧ください)

さらに、この日から 2ヶ月たった3月27日、正式な廃線記念式典が上州三原駅で盛大に行われます。ここではピカピカに磨かれた13号機により、東三原までの招待客を乗せたデモ運転が行われます。
そしてその日の午後、本当に最後の草津温泉行きの列車が同じ13号機の牽引で運転されるのですが、これらの列車を運転したのも全て丸山利一郎さんだったのです。

先に、部分廃止後に草軽に残った運転士は3名、と書いたのですが、このうちの井上 勇さんは草軽に残りました。それでは、最後の列車の運転をした丸山さんはどうしたかというと、草軽を退社し、万座温泉の温泉宿の会計として招かれ、鉄道とは全く別の分野へ進むことになります。

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上州三原駅での記念式典前の記念撮影
右から二人目が丸山運転士、以下 森住さん (車掌)・山口純夫さん (車掌)・黒岩常夫さん
(電気)・松永 努さん・深井謙吉さん(上州三原駅長)
          上州三原 1962(昭和37)年3月27日  写真提供:丸山利一郎

こうして、多くのマニア、地元民に惜しまれながら廃線となった草軽でしたが、まだ大きな仕事が残されていました。それは言うまでもなく、″施設の撤去″ です。
そしてこの仕事には、草軽での最後の仕事として丸山さんが従事することになりました。
他の運転士はすでに異動してしまったので、ここから全線撤去までの約2ヶ月間、草津温泉に保存のために留置された13号を除いた、21・24号の2台の機関車の運転を一手に引き受け、撤去の工事列車の運転士として活躍されたのです。

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軌道撤去工事列車を運転する丸山運転士
       湯窪・万座温泉口間  1962(昭和37)年5月6日 撮影:田中一水

撤去は、スイッチバックのあった万座温泉口駅をベースとして、まず草津側から始まり、最後に上州三原から万座温泉口に向かって行われました。
この軌道撤去の様子を最も克明に記録されたのが、本ブログで何度もお名前を出している田中一水(たなかかずみ)さんでした。田中さんもすでに故人となられているのですが、生前はやはり丸山さんにお世話になったことをしきりに話され、なんとかもう一度お会いしたい、と言いながら残念ながらそれは実現しませんでした。

このように。現在私たちが感動してやまない草軽の印象的な作品、名作の数々は、この丸山利一郎さんの存在なくしては生まれなかった、といっても過言ではないかもしれません。

草軽の廃止から50年たった2012 (平成24) 年、三原在住の知り合いからのご紹介で、わたしは初めて丸山さんとお会いしました。
すでに90才をゆうに越えられており、お元気ではあったのですが、耳が悪く、また少し記憶も曖昧になっているところもありました。それでも、わたしが行くたびにたいへん喜んで下さり、写真を見て頂きながらの質問には精一杯記憶を辿られ、細かい情景を思い出していただきました。

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丸山利一郎さん、妻きみさん、鉄道青年 (小林)
                    三原にて  2012(平成24)年6月10日

そして、この丸山さんと、同じくお元気だった奥様の存在が、決して接することのできない愛する草軽の情景とわたしとを結びつけてくれる、かけがえのない存在であるような気すらしていたのです。
多くの職員から ″りーちゃん″ と呼ばれて、訪れるマニアからも慕われた丸山利一郎さん。そんな方にお会いできてはなしをお聞きすることができたのは、まさに草軽趣味冥利に尽きることでした。

訃報は突然でした。
それまでお元気で散歩をされていたのが、坂道で転倒して頭を打ち、そのまま意識が戻らなかったのだそうです。
2014 (平成26) 年4月のこと。享年97歳。
お墓は、先日記事にした東三原のスイッチバックから少し上った、三原の町を見下ろす、浅間山もよく見える明るい斜面にあります。

そして遺影にはわたしが撮影した写真を使っていただきました。

〈鉄道青年〉

湯沢駅・新鎌駅、そして…

● 湯沢駅の写真
草軽電鉄に “湯沢” という駅がありました。

これは栗平と北軽井沢の間に存在した夏季のみの臨時停留所で、1960(昭和35)年の廃線まで存在していました。そしてこれはまた、謎の多い草軽のいくつかの臨時駅の記録の中では、唯一間違いなく存在した駅でもありました。※1

時刻表にも表記されており、草軽が好きな人であれば、少なくともその名前だけは聞いたことがあるでしょう。
ただこの駅に関しては、ひとつ大きな問題があります。それは “写真がない” のです。

ご周知の通り、北軽井沢周辺は沿線の中でも。浅間山が最大きく美しく背景となる部分です。
当然記録された写真も多く、皆様の記憶に残る名作もあることでしょう。
湯沢駅はそんなエリア内にありながら、少なくともわたしはずっと1枚の写真も見たことがなく、その実在すら疑っていたほどでした。

ところが、2017年秋に北軽井沢にて開催した写真展の準備の中、宮松丈夫さんの写真の中に、1枚見慣れぬ駅の写真があったのです。それがこの写真…

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草軽電鉄 湯沢駅  1960(昭和35) 年1月6日 撮影:宮松丈夫(提供:宮松慶夫)

これは湯沢駅を記録した、わたしが知る限りたった1枚の写真、たいへんに貴重なものであると思います。


● 草軽の別荘開発
そもそも、湯沢駅は大正14年2月に設置の認可申請が提出されています。※2
この年代、草軽(草津電気鉄道)は、この前年に電化されたもののまだ全通はしておらず、吾妻川手前の嬬恋が終点でした。草津を目指す線路の建設、吾妻川による電源開発、そして地蔵川地区(北軽井沢)の別荘開発など、草軽は精力的に事業を発展させていく勢いの中にありました。
そのことを示す1枚の地図があります。タイトルは “吾妻別荘地平面図”。
大正14年頃の発行といわれ、現在北軽井沢の “ふるさと館” で展示されているものです。
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『吾妻別荘地平面図』(草津電気鉄道:大正14年頃)   提供:北軽井沢観光協会

ただこれは、あくまでも“計画図”であって、実際とは異なるものです。

草軽の線路を中心として、別荘地がかなり具体的な内容で表記されていますが、我々マニアにとってはその駅の数の多さです。
この中で、実際に存在している(していた)駅は、栗平・湯澤(湯沢)・地蔵川(後の北軽井沢)・吾妻、の4駅です。そのうち、湯沢はこの段階でまだ開業はしていないので、実際には3駅、ということになります。


この一大プロジェクトに際し、大正14年2月、草軽は、湯沢・新鎌のふたつの夏季臨時停留場設置の認可申請を提出しています。(ちなみに同じとき軽井沢側でも、旧軽井沢駅の臨時乗降場設置の申請を出しています。)

残念なことにこの時ふたつの駅は開設には至りませんでした。
湯澤に関してのその理由は不明ですが、一方の新鎌に対しては、やはりここでも地形と急勾配にケチがついたようです。
ただその後、1927(昭和2)年、栗平側(南側)に法政大学村が開設されたことにより、そのアクセスのために再度湯沢駅の設置が(場所をわずかに変えて)1934 (昭和9)7月、申請されています。 そして何故か、実際の開業届けの提出は、その2年後の昭和11年までずれ込んだようです ※3。 ともあれ、この図の中にある予定駅のひとつだった湯沢はめでたく開業をしたわけです。


● 湯沢駅のイメージ
写真に目を戻してみましょう。
この湯沢駅、なにか他の駅と雰囲気が違う気がしませんか?。
それは他の駅が全て交換可能の設備を有していたのに対して、単線のまま、だからでしょう。
ホーム、小屋、など草軽の雰囲気を示しつつも、そのことだけで違う鉄道の駅に見えてしまうのはわたしだけでしょうか。

細かいことなのですが、違和感はもうひとつあります。
それは線路にバラストがある、ということ。
草軽の全てではないのですが、これほどしっかりバラストの敷かれた線路はたいへん珍しく、ある意味 “草軽らしく” ありません。開業が新しいためでしょうか、その理由はわかりません。

“夏季臨時停留場” ですので、通年使用ではなかったものと思われます。
草軽での“夏季ダイヤ”は、毎年7月15日から8月31日まで実施され、通常の直通混合列車の他に、旧軽井沢シャトルの増便、鶴溜・北軽井沢便が設定されました。これらの多くには電動客車モハ100形が充当され、この時ばかりは地味なこの車両も、国境を越えて北軽井沢まで足を伸ばしていました。それらの列車や電車が、この湯沢駅で停車して、賑やかに客扱いをしていたのでしょう。

この湯沢駅のあった場所は現在でもよくわかります。
北軽井沢から続く県道上の軌道跡が、そこから分かれて別荘地内へと入っていく部分です。そこは正に法政大学村への入り口で、道路もわかりやすくカーブしています。先出の大正時代の計画図からも、その位置がイメージできます。

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湯沢駅跡 1枚目は最初の写真と同じ方向。2枚目は逆方向(北軽井沢方)を見る。 
                  2017 (平成29) 年 6月 撮影:小林隆則


● 新鎌駅はどうなった?
はなしは変わって、遂に開業をみなかった一方の予定駅、“新鎌” とは、どの辺りだったのでしょう。

地図から細かい位置はわかりませんが、北軽井沢と吾妻の間、おそらく現在、北軽自動車工業がある裏手あたりだと思われます。ここは地蔵側を渡る少し手前で、比較的明確に軌道時期がわかる部分です。近くには “パンカーラ” というレストランがあります。
この推測が正しいとすれば、確かに認可申請の際、“やるんならスイッチバックにしなさい” などと監督官庁から指摘されたのがよく理解できる、とんでもない勾配の途中にあります。
この周辺はまた、音楽村などがある北軽井沢の中心からはかなり離れた(下がった)別荘の区画で、開発は中心地よりも遅れたので、駅の設置も後回しになってしまった、ということなのでしょうか。

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新鎌駅設置予定地付近の光景、草津方行を見る。 築堤状の軌道敷が左奥に向かって延びる。北軽井沢・吾妻間。       2017 (平成29) 年 9月 撮影:小林隆則


最後にもうひとつ、

上記の別荘予定地図をよく見ると、一番上の方に “小菅” という駅の表記があることに気づきます。
しかしこの “小菅駅”、わたしはまだその設置に関する認可申請の書類や伝聞を知りません。
草軽側でもそのエリアの開発はあきらめたのかどうか。北軽井沢とはいえ、ここまで離れてしまうと別荘地としての魅力をアピールできなかったのでしょうか。事実、現在でもこの辺りは小菅川の谷間のような場所で、高台に出るにはかなり歩かなければなりません。

〈鉄道青年〉 


※1
臨時停留所から正規の停車場へ昇格した駅は多いものの、停留所のまま最後まで存在した駅はここのみ。

※2
鉄道省文書 地方鉄道 草津電気鉄道 別冊 自大正9年至大正15年

※3 
日本鉄道旅行地図帳 関東1 新潮社2008

高原をゆく草津軽便・電気鉄道雑記 宮田憲誠 鉄道資料168 2021
(この記事では、北軽井沢駅の位置の変遷など、草軽に関わる深い考察がなされ、未発表の貴重な写真も多く掲載されています。


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