火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

草津温泉駅の謎(4)

さて、これまで草津温泉駅が移転している、という “証拠” を見てきたわけですが、恐らくこれを見て頂いている皆様のほとんどが持つであろう疑問に触れないわけにはいきません。それはいうまでもなく、

“いつ頃、どのような理由があって駅を移転さる必要があったのか”
ということです。

ところが、結論から先に言ってしまえば、ここまではなしを引っ張っておいたくせにそれがどうしてなのか全くわからないというのが真実なのです。
でもだからといって、ここではなしを終わらせることもできませんので、わたしなりの推測をおはなししてみたいと思います。

● いつ移転したのか?
これについての資料は当然探しています。
ただ、国立公文書館の鉄道文書は、どの鉄道も同じだとは思うのですが、戦時中、昭和18~20年くらいが見事に空白になっていますし、戦後のものも、駅の移転に関する記述は皆無でした。草軽側に残されている資料もみましたが、状況は同じです。草津町史にもあたってみたのですが、やはり記述はなし。それでも諦めきれず、草津町の教育委員会を通じてOBの方に聞いて頂いたのですが、移転のはなしを知っている人とは出会えませんでした。
戦前から草軽に乗務員として勤められていた方にも聞いたのですが、戦時中は出征されていたこともあって、明確な記憶を残されてはいませんでした。

ただ、この後に出しますが、昭和17年 6月の写真では、まだ旧駅のままです。

また、これ以前の記事の中に掲載させて頂いた写真でも、出征兵士の壮行の場面がありましたので、少なくとも太平洋戦争の時代までは旧駅だったことが証明できます。

そしてあるとき間違いなく、“それは戦時中のことでした”、という明確な証言を得ることができたのです。

それは、駅近くの沿線に現在でも居住されている方で、その当時小学校(国民学校)の高学年に在籍されていました。わたし達も同じですが、その年代は、学年、年度によって生活の基準が明確に分かれています。ですので、その年に起こった出来事は、学年の記憶と密接に結びついていて、結構正確な記憶となっているものです。
その方の記憶では、駅の移転は “昭和19年の夏から秋にかけてだったのではないか”、ということでした。
もちろん、個人の記憶を100%信じてしまうのは危険ですが、少なくとも戦争末期のその頃だった、という断定はできるのではないでしょうか。
事実戦後、昭和25年の写真を見ると、既に新駅に移転しています。

● 移転の目的
これもまた謎です。
上記の証言をして頂いた方にも聞いてみたのですが、さすがにそれはわからず、“温泉客の便を図ったのではないか”、とのことでした。

ただ、昭和19年という時代です。そのような“ゆるい”理由だけで、駅移転という大工事が行われるものでしょうか?。
それに、最初に揚げた、国土地理院1/5万地図の表記では、駅(旧駅)から直進して温泉街方面へ行ける道があります。その道の場所はたいへん急な、崖ともいってよい急坂でしたが、そこを通れば、新駅の場所から行くよりも、むしろ近道になっていると思われます。だからこの理由は説得力がありません。

下は、戦後すぐの昭和23年に米軍によって撮影された航空写真です。“残念ながら” 駅移転後の光景です。
でも、移転後間もないため、旧駅周辺にはまだ多くの建物があって、そこがかつての駅だった、ということが伝わってきます。これを見ても上記の “短絡路” が不鮮明ですが確認できますし、草軽の駅と草津の街の位置関係がよくわかると思います。

48.9 草津

草津1948-333
              国土地理院航空写真  1948.9

もうひとつ、関係がありそうなこととして、硫黄鉱山の休止があります。
草軽電鉄の湯窪から奥の各駅には、すべて硫黄鉱山からの索道が導かれていました。草津温泉駅にも、白根山の湯釜で採掘される硫黄鉱石を運ぶ索道(万座鉱業株式会社のもの?)が来ていて、前掲の出征兵士の写真にその一部が写っています。
戦時中、草軽沿線の各硫黄鉱山は、深刻な資材・作業員不足に見舞われていた上に、戦争末期には全国の硫黄鉱山のリストラを目的にした “硫黄鉱山整備令” が発令され、あらゆる保証と配給が打ち切られてしまうことになります。各鉱山はいずれも壊滅寸前までに疲弊してしまい、草津温泉に硫黄を運んでいたこの鉱山も、昭和19年についに休止されてしまうのです。(ただし戦後すぐに復活)

硫黄鉱山の採掘権は、戦前も戦後もかなり複雑に入り乱れ、そのオーナーを突き止めるのはなかなか難しい作業ではあるのですが、草軽側と鉱山側で、なんらかの思惑の違いがその時期に表現化した、ということはありえないでしょうか。
あと、戦時中、ということを考えると、戦争遂行のためのなんらかの戦略的理由から、軍部、行政側からの“命令”があった、というのはどうでしょうか?
しかしこれも、草津温泉という土地が都市部ではなく山奥の温泉地である、ということをことを考えるまでもなく、説得力がありません。
つまり、はなしは戻ってしまうのですが、今となっては、移転の理由を明らかにすることは困難なことだと思います。

● なぜ “移転” はあまり知られていないか
草軽電鉄、軽便鉄道に興味を持つみなさまならば、草軽については戦前からの写真もご覧になっていると思います。しかし、わたしと同じように、この草軽電鉄の終点である草津温泉駅が、ある時期に移転していた、ということに気付かなかった方も、中にはいらっしゃるのではないでしょうか。
その理由を考えてみましょう。
これは明確です。
旧駅も新駅も、なんか同じような光景だったからに他なりません。

加藤 湊  1942.6-2
草津温泉駅(旧駅)         1942(昭和17)年6月  撮影:加藤 湊

ここに、昭和17年6月に撮影された草津温泉駅の写真があります。この写真についての解説はこちらですので、合わせて是非ご覧ください。
これが旧駅である、という判断は、撮影者の立っている位置(新駅ではそこはもう崖)、ホームの向こうにも側線があって貨車が留置されている、ということ、そしてホームが石積みなど、いくつかの “証拠” があります。

これに比べて、こちらが新駅の写真です。
 1962.3.29-2
草津温泉駅(新駅:廃止から2日目) 1962(昭和37)3月29日 撮影:田中一水
 


花上-28
草津温泉駅(新駅) 
上の写真に比べると、ホーム屋根の延長がまだ長い。
            1960(昭和35)3月30日  撮影:花上嘉成

どちらも駅舎に対して直角のポジションでホームが設置されていることに加えて、写真から判断できるのは、恐らく間違いなく駅本屋、そしてホームの屋根もそのまま“移設”されています。そのことがまた、戦前と戦後の草津温泉駅の風景を同じようなものにしている理由なのだと思います。 (つづく)

〈鉄道青年〉 

草津温泉の謎(3)

旧駅3
          『思い出のアルバム・草軽電鉄』(郷土出版:1987)より

この写真、
わたしは初めて見たときからずっと、長い間これがどこの駅の写真なのかがわかりませんでした。
最初、吾妻鉱山からの索道が来ていた嬬恋駅か、とも考えたのですが、周辺の景色が全く違いますし、そもそも太平洋戦争中であれば、もう嬬恋駅には硫黄鉱山からの索道は入っていませんでした。(ただし戦争末期、上信鉱山からの索道が嬬恋駅まで来ていたらしいのですが、そのおはなしは別の機会にします。)
あと、多くの側線と広い構内をもつ駅といったらもう新軽井沢しかありませんが、いうまでもなく写真の状況はそこと矛盾します。 
そこまで考えてもまだ、全く不覚ながらわたしは 、これが “草津温泉駅かもしれない” ということに思い至らなかったのでした。

しかし、この写真を再度見てみましょう。

草津温泉駅-1 のコピー
           上州草津鉄道 草津温泉驛(絵ハガキ)  所蔵:小林隆則 


20年近い時間差のために、建物や索道が増えているものの、構内の線路配置を見れば上記の出征兵士を見送る駅が草津温泉の旧駅であることは、議論の余地がないほど明確です。
ところで余談になってしまうのですが、この2人の出征兵士を見送る写真、草津温泉旧駅の構内が明らかになるばかりではありません。客車(おそらくホハ30型)はツートンのカラーに塗装されています。右端に写ったホハ22もまだ西尾鉄道時代のままのオープンデッキで、車番の表記は車端です。そしてなによりも、構内をまたいで渡される索道施設がばっちりと記録されています。
草軽電鉄の上州三原・草津温泉駅の各駅は、上州三原を除いた全ての駅に硫黄鉱山からの索道が引かれていました。しかし、その様子を記録した写真はこれ以外は皆無なのです。

以上の写真から、草津温泉旧駅の構内図を描いてみました。
一部想像の部分はありますが、ほぼこれに近いと思われます。

 配線1

さて、これまで見てきましたように、草津温泉の旧駅はたいへんに広く立派なものでした。そのことを頭に置きながら。次に、新駅へと移転した後の様子を確認してみましょう。

 29 (2)-5
 草津温泉旧駅跡      1962(昭和37)年3月29日   撮影:田中一水

これは絵ハガキの写真の奥側、構内はずれの軌道の様子です。
軌道は直線ですが、枕木の様子から、かつてここにポイントが設置されていたことは明らかです。これは旧駅構内へ入る最初のポイントだった部分です。


29 (2)-4
 草津温泉旧駅跡         1962(昭和37)年3月29日   撮影:田中一水

新駅へ向かう軌道横には、旧駅のホームが撤去されずに残されていました 。
軌道の位置関係から、これが最初の写真の出征兵士の写真のホームだと想像できます。画面奥から新駅に向かって延びる軌道は、左へ大きくカーブをきるために、このあたりから右に向かってふくらんできていて、結果として旧ホームとは平行になっていません。


DSC06778 の使用
草津温泉旧駅跡           2016(平成28)年7月 撮影:小林隆則

これが現在のほぼ同じ位置です。
画面左隅に駅跡を示す石碑が建っています。

以上のことから、旧駅と新駅の位置関係を 図にしてみると、次のようになります。
(距離その他、正確な図ではありません。)
配線2
終点草津温泉に接近した列車は、旧駅の時代はそのまま直線でホームに入っていました。
新駅になってからは、赤線で示したように旧駅の施設を左に避けるカタチで通り過ぎ機回し線を通って大きく左にカーブして、ホームに至っていました。

ところで昔からよく言われていた謎として、  “終点草津温泉駅に着いた列車はどうやって機回ししていたか…?” 、ということがありました。
図をみれば一目瞭然だとは思いますが、軽井沢方から到着した列車は、そのまま後退して、スピードに乗ったところで客車(貨車)を突方します。機回し線上に客車(貨車)を停止させておいて、デキは 反対側に出て連結、そのまま後退してホームに入るという作業でした。
列車毎に繰り返されたこの作業、標高12,000mの高原地帯で、さらには写真でわかるように何も遮るもののないただ広い場所です。季節のよい時ならばいいのですが、厳冬期など、駅員・車掌はかなり辛い思いをしていたのではないでしょうか。    (つづく)

〈鉄道青年〉 


草津温泉駅の謎(2)

草津温泉旧駅の、残されている写真はそう多くはありません。
ただ、大正末から昭和初期にかけての絵葉書や工事の写真などに、その全体がイメージできるものが残されているのは大変にありがたいことです。
 

旧駅1
建設中の草津温泉駅  『思い出のアルバム・草軽電鉄』 (郷土出版:1987)より

この写真は、工事中の草津温泉駅をとらえたたいへん貴重なものです。
さえぎるものもない広々とした高原風景の中に、贅沢に土地を使ってレイアウトされていたことがわかります。
ちなみにこの写真が掲載されている『思い出のアルバム・草軽電鉄』は1987(昭和62)年、プレスアイゼンバーンの本の次に出た草軽電鉄の写真集で、軽便鉄道に関する情報が皆無に近かったこの時代、飛びつくようにして購入しました。
 

既営業区間である嬬恋から先は、まず大正15年 8月に草津前口まで、大正15年 9月には念願叶って 草津温泉まで、最初から電化開業をしています。とはいえ、当然建設工事にはこれまでの蒸気機関車が動員されました。この写真にも大日本軌道(雨宮)7t 機の5か6のどちらかが写っています。
余談ではありますが、上州三原・草津温泉間の蒸機列車の写真は見たことがありませんが、このように工事用ではあっても、あの素晴らしい光景の中を間違いなく走っていたのです。

関田さん1
開業間もない草津温泉駅の様子            絵はがき提供:関田勝孝

これは以前ご紹介した絵はがきですが、開業直後で軌道も施設も “ぴかぴか” な光景です。幅の広い駅本屋の右手には、赤い屋根の待合室と接してモルタル造りに見えるモダンな建物が見えています。これは土産物や菓子、飲料などの売店でしょうか。またその手前には機関車を収納るためのものでしょう、かなり背の高い車庫が建っています。
これらの写真からも、この駅が誇り高き草津電気鉄道が目指した終点として、天下の草津温泉の玄関口として、どこに出しても恥ずかしくない、立派な設備の駅だったことが充分に伝わってきます。


旧駅2
戦時中の草津温泉旧駅    『思い出のアルバム・草軽電鉄』 (郷土出版:1987)

この写真は旧駅を横から記録した写真です。左方向が本線です。
移転後の新駅は、線路の横がすぐに崖になっていましたので、このアングルからの写真は撮れませんでした。機関車を前後に付けた混合列車が、余裕をもって停車できるホーム、屋根の長さがわかります。
撮影時期の記録はありませんが、ほとんど町をあげて、といってもよいほどの人数が動員されている出征兵士の壮行です。恐らくは太平洋戦争中の光景でしょう。ここから何人の若者が戦場へと送られるのかはわかりませんが、草軽の車窓に流れる故郷の景色を、彼らはどのような気持ちで眺めていたのかを思うと胸が締めつけられます。
 

29-5-2
草津温泉旧駅跡  1962 (昭和37) 年 3月 29日            撮影:田中一水

これは最初の写真から少し下がったポイントからの撮影で、廃線2日後の光景です。
ここだけ見ていると、何だか1枚目の写真の時代とそれほど変わらない雰囲気のように見えます。
機関車の先から線路は左にカーブして、三角屋根の小屋のさらに左に駅(新駅)がありました。旧駅部分のこの広大なスペースに、通っているのは線路が1本だけです。ちなみにトラックの横に機回し線が見えていますが、機回しをするときは、すべての列車がここまでやってきて、また戻っていたのです。


草津温泉1980-2
草津温泉旧駅跡  1980 (昭和55) 年 8月            撮影:小林隆則

これは廃止から18年たった昭和55年のほぼ同位置の光景です。
まだほとんど建物はなく、右奥の東急草津ホテルがひときわ大きく目立っています。
もちろんこの当時は、ここが駅の跡だったなどとは想像もしていませんでした。

DSC06776 の使用

 そして、これが現在(2017年)の光景。
右手の柵の中に駅跡の記念碑が建っています。わかりにくいですが、正面のオレンジ色の車の向こうに道路は続いていて、そこからは急な左カーブで新駅の跡へと続きます。
鉄道の廃止から56年、写真の通り余程予備知識を持っていかないと、そこがかつての草軽の駅だったということなど想像もつかない光景になってしまいまいました。ただ、湯畑付近の賑わいからは完全に切り離されたこの辺りは本当に静かで、ほとんど人通りもありません。住宅が増えたとはいえ、標高1200mの高原の風だけは昔と変わっていないのでしょう。   (つづく)

〈鉄道青年〉 


記事検索
アクセスカウンター