火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

吾妻川を越えた車両たち(草軽の最終列車:補遺3)

先日『補遺2:残された3両』に対して、まさひろ様より質問を頂きました。

頂いた質問の内容は、
 

『分離されてしまった上州三原への陸送なのですが、ホハ30については、34年の災害時にすべてが草津側へ残っていたとは考えにくいとも思うのですが、ホハ30についても一部陸送はあったのでしょうか?』 

ということでした。

調べてみると、これに関してわたしの著しい勘違いが明らかになりましたので、13号機関車のおはなしの途中ではありますが、今回は一回お休みをして、このご質問の内容を推論してみたいと思います。


それではまずこのおはなしに入る前に、草軽電鉄の息の根を止めた、昭和34年8月14日の台風7号とはどのようなものだったのかを再確認しておきましょう


 台風7号(国際名:Georgia

8月10日に発生した熱帯低気圧が、12日になって硫黄島の南東500㎞の地点で台風になったものです。時速50㎞の速度を保ち、発達しながら北上を続け、14日午前6時30分、静岡県の富士川河口付近に上陸します。
上陸後は猛烈な暴風雨をともなって北西へと向かいました。これは山梨・長野・新潟を通過して本州を横断するルートで、草軽電鉄の沿線はもろに進路と重なってしまっていました。
この時の長野市の記録では、中心気圧980ミリバール、最大瞬間風速26.4mに達してました。

さらにこれに先立つ8月12日、長野・群馬県下は前線活動による大雨に見舞われ、すでに河川はかなり増水した状況だったのです。そこに台風7号による豪雨(山間部では7~800㎜に達したそうです)が重なり、吾妻川をはじめ、県下の河川は未曾有の氾濫となってしまいました。

草軽が被ったこの台風の被害は、この吾妻川鉄橋流失が有名ですが、他にも軽井沢のバス車庫の全壊、沿線の路盤流失、架線柱の倒壊など、甚大なものでした。

また、このおよそ一ヶ月後の9月26日、台風7号の被害と恐怖もまだ生々しいうちに、“伊勢湾台風” として有名な、超大型の台風15号が再び日本列島を襲うのです。

14-2
昭和34年8月14日   吾妻川橋梁流失直後の惨状。 
                      写真提供:草軽交通(株)


 これまでのわたしのイメージ

それでは、草軽の吾妻川の鉄橋は、8月14日の何時ころに流失してしまったのでしょうか?。

残念ながら、これに関する正確な証言、記述は見ていません。

手元にひとつだけ、これに関する個人の記述があります。新宿区在住の添田さん、という方が、このブログで何度もご紹介している田中一水(かずみ)さんに宛てた葉書です。一部引用してみます。


『 …… 去る夏休みに一人旅に出かけまして、草津より軽井沢に抜け昇仙峡を巡って、と計画していました。丁度、旧軽井沢の教会に泊まっていたその晩台風に会い、夜が明けてみれば草軽電鉄の鉄橋が流されてしまい、その日より事実上の廃止となってしまったわけですから、草軽電鉄最後の日に私は草津より終点まで乗ったということになり、思い出深い旅になりました。……』


つまりこの手紙を書いた方は、8月13日に草津温泉から新軽井沢まで全線を乗っているのです。

14日の台風の軽井沢通過は10:00頃だと思われますが、手紙の内容から判断すれば、その時刻にはすでに鉄橋は流されてしまっていた、ということでしょうか。またこの方が、13日のどの列車に乗ったのかはわかりませんが、“教会に泊った…”、ということですので、そんなには遅い時間ではないはずです。直通の上り最終混合12レの新軽井沢着は20:24ですので、遅くともその1本前の混合10レ(新軽井沢着18:18)に乗ったのではないでしょうか。

また台風来襲の前日でもあり、鉄道側でも充分にそれに対応していたと思われますので、あるいはこれより早い時刻から全線で運行を中止していたのかもしれませんが、現在のところわかってはいません。


さて、もう一方の終点、草津温泉側の列車、つまり鉄橋流失によって取り残されてしまうことになる列車の運行はどうでしょう。

13日の最終までダイヤ通りに運転されていた、と仮定してのはなしです。

まず、直通の混合9レが18:16に草津に到着します。次に最終の混合11レが20:39に到着。この2本は折り返さず終点草津温泉での駐泊となります。

一方、湯窪(上州三原のひとつ先)どまりの貨物65レが湯窪に18:56に到着します。この列車はその日のうちに上州三原まで下り、翌日の1番の貨物として軽井沢へ向かいます。


ダイヤ通りですと以上の3本の列車が、14日朝の時点で上州三原より奥、つまり吾妻川よりも奥にいた、ということになります。

このことは、機関車が3両、客車が2両、貨車が数両、がそこに取り残された、という説に一定の説得力を持たせたと思います。事実恥ずかしながら、今までわたしもそれを疑ったことはありませんでした。


 さて現実は…

この度のまさひろ様からのご質問を受け、“確かにそれはおかしい…”、とようやく思ったのです。そして手元にある写真をひとつ残らず、時系列的に確認してみました。そこからは、全く考えてみなかった事実が浮かび上がったのです。

このことは、言葉で述べても恐らくイメージし難いと思われるので、以下簡単な表にまとめてみました。(貨車のことを含めるとはなしが複雑になってしまうので、ここでは客車だけを示します)


35-1
①  昭和34年12月~昭和35年1月

吾妻川の鉄橋を失った5ヶ月後の状況です。

草津側には、デキ12型が3台と4両の客車、そして分断された区間を陸送され、吾妻川を越えて運ばれたモハ100型No.101が確認されます。この時期ではホハ30型はNo.32が1両のみ草津側にいます。そして、時期的にみても恐らくこの内容が、本当に “取り残された” 車両たちだったのではないでしょうか。(注:1)  また3台のデキ12型は、廃止までこのままの内容だったので、これもまた “取り残された3台”  と判断してよいのではないでしょうか。
(※ 『レイル』№20 の記事で、昭和34年12月に訪ねた湯口 徹さんがこのことを確認しています)


35-3
 
②  昭和35年3月

それから3ヶ月後、新軽井沢・上州三原(線路は嬬恋まで)部分廃止のひと月前です。

廃止直前で、たくさんのマニアが訪れた時期でもあるのですが、多くの人は廃止区間である軽井沢方で撮影しましたので、この時期の草津方の写真は大変少ないのが残念です。

ここでは驚くべき移動がみられます。

すなわち、ホハ10型・23型という旧式の車両を全て軽井沢方に送り、一番新しい半鋼製車ホハ30型の4両全てを草津側に送っているのです。そしてこのことは、以前わたしが書いた、“電動客車モハ101のみが、吾妻川を渡って陸送された”、ということを真っ向から否定する事実です。モハ101が陸送されたことは、もちろん間違いないのですが、それに加えて3両のホハ30(30・31・33)もまた、吾妻川を渡っていたのです。さらにそのひきかえとして、2両のホハ10型とホハ23型が、逆に吾妻川を越えて嬬恋側に送られていたのです。

花上-22
昭和35年1月の上州三原駅構内 
手前はモハ101、そして3両のホハ30型が写っている。一番左は草津温泉行の下り列車だが、この列車が途中駅の万座温泉口で交換する上り列車にもホハ30型が付いている。つまりこの時期、4両のホハ30型が草津方に集まっていたという証拠の写真。
       上州三原  1960(昭和35)年1月31日 撮影:花上嘉成 


36-7
 
③  昭和36年7月

軽井沢方の廃止から1年半、前線の廃止まで半年になった時期です。

機関車3台と客車2両で細々と営業を続けていました。廃止となった嬬恋側には、旧嬬恋駅構内に、モハ102とホハ31・ホハ33の3両(+貨車ト29)が留置されていました。

ここから明らかになる事実は、せっかく吾妻川を越えて陸送した2両の客車(31・33)を再び反対側まで陸送している点です。嬬恋駅に留置されたこの3両は、電動車が栃尾電鉄、客車が静岡鉄道駿遠線に売却されるのですが、なぜ川の反対側まで運ばなければならなかったのか、これも謎です。

30 (3)-1
嬬恋駅跡に留置された車両  ト29・ホハ33・ホハ31・ホト112
2両のホハの間にモハ102が置かれていたが、この時点で既に栃尾に送られている          1962(昭和37)年3月30日   撮影:田中一水

          
              

 まとめ

吾妻川鉄橋の流失から全線廃止までの2年3ヶ月、多くの車両が吾妻川を越えて行き来していたことがわかりました。部分廃止後は、“機関車3台と客車2両(それと数両の貨車)で営業していた”、という先入観を持ち続けていたために、今回の問題はわたしにとっても大変な驚きでした。


このような “思い込み” は、古いことを調べる上で、最も避けなければならないことです。そもそも、資料の収集、読み込み、人間関係、どれひとつとっても私のような門外漢が手を出す分野ではないのかもしれません。その道の専門家が目にすることがあれば、恐らくは噴飯ものに違いありません。

しかし、“好きだからもっと知りたい”、という気持ちは真実です。数少ない手持ちのピースから全体の絵を想像していく過程で、もしかしたらぴったり当てはまるピースをお持ちの方がいらっしゃるかもしれない、もしもそういう方がいらしたら、恥もなにもなくお願いをしてそのピースを分けて頂く、また誤った認識を訂正して頂く。それによってより事実に近づけるのではないか、という淡い期待(下心)を持って、わたしはこのブログをやっております。

最後にまさひろ様、今回のことを考察する機会を与えて頂き、感謝いたします


〈鉄道青年〉







草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(5)

1962(昭和37)年3月28日(水曜日)
 

草軽廃止記念式典が執り行われた翌日です。

前日の午後、保存のための列車が上州三原から終点草津温泉まで走ったおはなしを前回いたしました。ただ鉄道は廃止になったものの、まだ最後の大仕事が終わっていません。それは、全線の線路撤去作業です。


廃止の翌日から早速作業は始まりました。

線路撤去の段取りは、途中の万座温泉口駅をベースとして、まず終点(草津温泉)方から始めていきます。草津温泉・万座温泉口間の撤去が終わった後、今度は上州三原から万座温泉口に向かって作業を進めて、最後は万座温泉口構内の撤去で終り、というものでした。

この時点で、稼動していた機関車は3台、というおはなしもいたしましたが、この中でNo.13は、最終列車を引いたまま終点に取り残されたかたちになりましたので、残った2両、No.21と24が線路撤去の作業に使用されました。


29-2

29-1

29-6
廃止2日目の草津温泉駅と13号機関車。
線路は客車のすぐ後で撤去されて、架線や架線柱ももうない。 
           草津温泉  1962(昭和37)年3月29日 撮影:田中一水


 廃止翌日、つまり撤去作業初日の模様は、DVD『桑原曻一コレクション1“草軽電鉄” 』に記録されています。

この日も前日に引き続き天気は良かったようです。

この映像を見ると、どうも作業を始める前に、前日の最終列車の編成を撮影のために手前に出しているようなのです。恐らくはそこに集まったマニアのリクエストだと思うのですが、作業のために架線は通電されているとはいえ、なんとも余裕のあるはなしですね。

やがて21号機関車が、大勢の作業員を乗せた “チト” 2両を引いて上州三原から上ってきました。いよいよ線路撤去が始まります。まず一番奥のレール、つまりホームに置かれた列車の最後尾のホハ32の台車が乗っている、そのひとつ上州三原寄りのものが外されます。これによって、13号機関車と貨車・客車は、“本線” と分断されてしまいました。上記の映像では、線路の撤去をはじめ、トロリー線の分断、架線柱の切断、横倒しなど、生々しいまでの作業の様子を記録しています。


29-4

29 (2)-4
21号機関車・チト50型(59・60)による撤去作業列車。
        草津温泉・谷所  1962(昭和37)年3月29日 撮影:田中一水
 


作業の進捗により、撤去の “現場” は、次第に草津温泉駅から遠ざかっていきました。

作業2日目からは再び天気はくずれ、海抜1300mの高原は小雪の舞う凍えるような寒々とした光景になりました。

13号機関車が留置されている草津温泉駅ホームからは、しばらくはけたたましい作業の騒音が聞こえていましたが、次第にそれは小さくなっていって、やがて聞こえなくなりました。


線路撤去作業は5月に終わり、草軽の線路は嬬恋の高原風景の中から永遠に消えました。高原の木々がようやく芽吹き、吹き抜ける風も初夏の気配を運んでくるそんな季節。終点に取り残された13号機関車はどうなったのでしょうか?

それはなんの変わりもなく、“そのまま” 、だったのです。  (つづく)

〈鉄道青年〉 

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(4)

⚫ 1962年3月27日(2

廃止記念の記念行事も無事終わり、人影もまばらになってしまった上州三原駅。

晴天だった空は雲に覆われ、小雪が舞う寒々しい天気になっていました。

そんな頃、丸山運転士は再び機関車に乗り込み、入替作業がはじまります。そして、13号機関車に組成された混合列車が、推進で1番線ホームに入ってきました。

それは昼の列車と比べると、機関車は同じ13号でしたが、2両付いていた客車のうちホハ30をはずして、かわりに無蓋貨車ホト115をつけた、No.13、ホト115、ホハ32の編成になっていました。

それを見守るマニアは何人かいたものの、昼の式典のときに比べればたいへん静かで、“ひっそりと”、という言葉が似合うような雰囲気でした。

この列車こそが、大正4年の開業以来、浅間高原、草津高原に活躍し、多くの物資を運んで、沿線の人々に計り知れない富と文化をもたらした、草軽電鉄の最後の列車となったのです。

そして、これは再び上州三原に戻ってくることのない、文字通りの最終片道列車でした。 

では、なぜ草軽の最終列車は、そのような運行になったのでしょうか?

この記事の最初に引用した、新聞記事を思い起出してみて下さい。

そこには最後の部分で、『~ 草津町は、この機関車と客貨車各1両を同電鉄から寄贈を受け、永遠に保存、その功績を讃えることにした…』という記述があります。

つまりこれは、列車ごと保存されるために、上州三原から草津温泉に向かった列車だったのです。

花上-7
草津温泉行き最後の列車    
            上州三原  1962(昭和37)年3月27日 撮影:花上嘉成

これは、その列車を記録した数少ない写真のうちの1枚です。
人物の視線からみて、推進でホームに入るシーンだと判断できます。ご覧のとおり、マニアの姿はまばらです。構内に目をやれば、一番左に21号、となりに24号が見えます。つまりここには残存している3両のデキ12型が全て写っているのです。13号は発車してしまえばそのまま戻ってこないので、これは3両が揃った最後の場面、ということになります。ちなみに中線の24号は、先述した “もう1本運転された列車” の花上さんの写真に写っている編成そのままです。これは式典中にはこの場所に写っていないので、やはり式典が始まる前に先行(恐らくは草津温泉まで)して、式典終了後にもどってきたもの、と推測ができます。
また、24号のとなりの線には、はずされたホハ30の姿もあります。

 ◯ 謎3:写真がない

草軽廃線の日に運転された列車をめぐっての謎、その一番大きなものが、実はこの最終列車のことなのです。

一体何が謎なのか?、
それは、古き良き浅間高原の思い出として多くの人々の心に生き、現在でもますます美しく語られる草軽電鉄の、仮にもその草軽の最終列車であるにも関わらず、写真を含めてほとんど記録が残されていないのです。

これを読んで頂いている方で、草軽に興味をお持ちの方であれば、この廃止記念式典のことは写真などのイメージをお持ちのことと思います。ただ恐らくそれは、これまで書いてきたように、記念式典で運転された、客車2両の編成のものだと思います。機関車・貨車・客車の編成で午後に運転された、草津温泉への最終列車の写真はあまり見たことがないのではないでしょうか。

わたしも、この列車の写真は、上記花上さんのものの他に、下のレコードの写真、沿線での関係者によって撮影された記念写真など、数枚しか見たことがありません

レコードジャケット2

これは、1973(昭和48)年に発行された、草軽電鉄五拾年誌の付録となっていたレコードのカバー写真です。1962年3月27日の最後の列車をとらえた写真の中では最高のものです。撮影場所は上州三原・万座温泉口間。撮影者の表記はありませんが、レコードの監修に加藤いづみ、という名前が見えます。この方は“鉄道ファン”1962年4月号に草軽の記事を書いている人なので、この加藤いずみさん撮影、という線が濃厚と思われます。またこの “お立ち台” では、どうやら列車を停車させて、撮影タイムを設けていたフシがあります。下の記念写真は恐らくこの時のものと思われます。
(ちなみにレコードの内容は、以前ご紹介した東芝レコード “消えゆく草軽電鉄” と同じです)

丸山-13
上州三原・万座温泉口間での記念撮影     写真提供:丸山利一郎

丸山-19
万座温泉口・草津前口間の今井川橋梁
何故かパンタを下げている   写真提供:丸山利一郎

 そもそも、この列車の運転ことは、当日に集まったマニアにはアナウンスされていたかどうか、それも疑問です。何故なら、もしも運行が知らされていたとすれば、平日にわざわざ休みをとって遠路出かけてくる程の熱心なマニアが、これから最後の列車が終点まで入る、という時に、“帰りが遅くなる” という程度の理由で、果たして帰ってしまうものでしょうか。たとえ翌日の仕事に支障をきたすことになっても、列車を追いかけて、最後のを記録したい、と考える方が自然ではないでしょうか。

ですので恐らく、当日参加したマニアの多くは、この列車の運転を知らないまま帰ってしまったのだと思われるのです。


この最終列車の上州三原発車の時間、これもよくわかっていません。

残されている写真を見ると、沿線何箇所かで列車を停止させて、記念写真を撮っているようです。つまり、写真を撮れる程の明るさがあって、さらには、マニアが帰ってしまうくらい間が空いていて、なおかつ3月末、という季節を考えれば、15:30頃に発車したのではないか、という推測ができます。

しかし、終点草津温泉には何時ころに到着したのか。この問題は、もはやミステリーですらあるのです。

最後の列車が終点の駅に無事到着するのです。そこでは、乗務員への花束贈呈などがある、とイメージする方が自然ではないでしょうか。あるいは10歩譲って、“記念式典はも終わっている”、という理由があったのかもしれません。それにしてもマニアの手によるもの、職員の記念写真、あるいは草津町の記録として、写真くらいは残っていてもよさそうなものです。そう、この最終列車の草津温泉到着の様子を記録した写真を、少なくともわたしは全く見たことがないのです。


ともかく、このように様々な謎は残るものの、1962(昭和37)年3月27日夕刻、13号機関車に引かれたホト115、ホハ32の列車は、上州三原を発車して、間違いなく終点の草津温泉に到着しました。

それをもって、草軽電鉄鉄道線の使命は終焉を迎えました。

そして翌日からは、早速線路撤去の作業が始まるのです。  (つづく)


※ 追伸
草軽の廃止記念式典が行われた、昭和37年3月27日に出かけられた方がいらっしゃいましたら、記憶にある範囲でこの日の様子を教えて頂けませんでしょうか?。また、“この日に行った人を知っている” いう方がいらしたら、お会いしたときにちょっと話題を振って、聞いて頂くことなどはできませんでしょうか?。皆様にご協力を仰ぎたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 


記事検索
アクセスカウンター