火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(4)

⚫ 1962年3月27日(2

廃止記念の記念行事も無事終わり、人影もまばらになってしまった上州三原駅。

晴天だった空は雲に覆われ、小雪が舞う寒々しい天気になっていました。

そんな頃、丸山運転士は再び機関車に乗り込み、入替作業がはじまります。そして、13号機関車に組成された混合列車が、推進で1番線ホームに入ってきました。

それは昼の列車と比べると、機関車は同じ13号でしたが、2両付いていた客車のうちホハ30をはずして、かわりに無蓋貨車ホト115をつけた、No.13、ホト115、ホハ32の編成になっていました。

それを見守るマニアは何人かいたものの、昼の式典のときに比べればたいへん静かで、“ひっそりと”、という言葉が似合うような雰囲気でした。

この列車こそが、大正4年の開業以来、浅間高原、草津高原に活躍し、多くの物資を運んで、沿線の人々に計り知れない富と文化をもたらした、草軽電鉄の最後の列車となったのです。

そして、これは再び上州三原に戻ってくることのない、文字通りの最終片道列車でした。 

では、なぜ草軽の最終列車は、そのような運行になったのでしょうか?

この記事の最初に引用した、新聞記事を思い起出してみて下さい。

そこには最後の部分で、『~ 草津町は、この機関車と客貨車各1両を同電鉄から寄贈を受け、永遠に保存、その功績を讃えることにした…』という記述があります。

つまりこれは、列車ごと保存されるために、上州三原から草津温泉に向かった列車だったのです。

花上-7
草津温泉行き最後の列車    
            上州三原  1962(昭和37)年3月27日 撮影:花上嘉成

これは、その列車を記録した数少ない写真のうちの1枚です。
人物の視線からみて、推進でホームに入るシーンだと判断できます。ご覧のとおり、マニアの姿はまばらです。構内に目をやれば、一番左に21号、となりに24号が見えます。つまりここには残存している3両のデキ12型が全て写っているのです。13号は発車してしまえばそのまま戻ってこないので、これは3両が揃った最後の場面、ということになります。ちなみに中線の24号は、先述した “もう1本運転された列車” の花上さんの写真に写っている編成そのままです。これは式典中にはこの場所に写っていないので、やはり式典が始まる前に先行(恐らくは草津温泉まで)して、式典終了後にもどってきたもの、と推測ができます。
また、24号のとなりの線には、はずされたホハ30の姿もあります。

 ◯ 謎3:写真がない

草軽廃線の日に運転された列車をめぐっての謎、その一番大きなものが、実はこの最終列車のことなのです。

一体何が謎なのか?、
それは、古き良き浅間高原の思い出として多くの人々の心に生き、現在でもますます美しく語られる草軽電鉄の、仮にもその草軽の最終列車であるにも関わらず、写真を含めてほとんど記録が残されていないのです。

これを読んで頂いている方で、草軽に興味をお持ちの方であれば、この廃止記念式典のことは写真などのイメージをお持ちのことと思います。ただ恐らくそれは、これまで書いてきたように、記念式典で運転された、客車2両の編成のものだと思います。機関車・貨車・客車の編成で午後に運転された、草津温泉への最終列車の写真はあまり見たことがないのではないでしょうか。

わたしも、この列車の写真は、上記花上さんのものの他に、下のレコードの写真、沿線での関係者によって撮影された記念写真など、数枚しか見たことがありません

レコードジャケット2

これは、1973(昭和48)年に発行された、草軽電鉄五拾年誌の付録となっていたレコードのカバー写真です。1962年3月27日の最後の列車をとらえた写真の中では最高のものです。撮影場所は上州三原・万座温泉口間。撮影者の表記はありませんが、レコードの監修に加藤いづみ、という名前が見えます。この方は“鉄道ファン”1962年4月号に草軽の記事を書いている人なので、この加藤いずみさん撮影、という線が濃厚と思われます。またこの “お立ち台” では、どうやら列車を停車させて、撮影タイムを設けていたフシがあります。下の記念写真は恐らくこの時のものと思われます。
(ちなみにレコードの内容は、以前ご紹介した東芝レコード “消えゆく草軽電鉄” と同じです)

丸山-13
上州三原・万座温泉口間での記念撮影     写真提供:丸山利一郎

丸山-19
万座温泉口・草津前口間の今井川橋梁
何故かパンタを下げている   写真提供:丸山利一郎

 そもそも、この列車の運転ことは、当日に集まったマニアにはアナウンスされていたかどうか、それも疑問です。何故なら、もしも運行が知らされていたとすれば、平日にわざわざ休みをとって遠路出かけてくる程の熱心なマニアが、これから最後の列車が終点まで入る、という時に、“帰りが遅くなる” という程度の理由で、果たして帰ってしまうものでしょうか。たとえ翌日の仕事に支障をきたすことになっても、列車を追いかけて、最後のを記録したい、と考える方が自然ではないでしょうか。

ですので恐らく、当日参加したマニアの多くは、この列車の運転を知らないまま帰ってしまったのだと思われるのです。


この最終列車の上州三原発車の時間、これもよくわかっていません。

残されている写真を見ると、沿線何箇所かで列車を停止させて、記念写真を撮っているようです。つまり、写真を撮れる程の明るさがあって、さらには、マニアが帰ってしまうくらい間が空いていて、なおかつ3月末、という季節を考えれば、15:30頃に発車したのではないか、という推測ができます。

しかし、終点草津温泉には何時ころに到着したのか。この問題は、もはやミステリーですらあるのです。

最後の列車が終点の駅に無事到着するのです。そこでは、乗務員への花束贈呈などがある、とイメージする方が自然ではないでしょうか。あるいは10歩譲って、“記念式典はも終わっている”、という理由があったのかもしれません。それにしてもマニアの手によるもの、職員の記念写真、あるいは草津町の記録として、写真くらいは残っていてもよさそうなものです。そう、この最終列車の草津温泉到着の様子を記録した写真を、少なくともわたしは全く見たことがないのです。


ともかく、このように様々な謎は残るものの、1962(昭和37)年3月27日夕刻、13号機関車に引かれたホト115、ホハ32の列車は、上州三原を発車して、間違いなく終点の草津温泉に到着しました。

それをもって、草軽電鉄鉄道線の使命は終焉を迎えました。

そして翌日からは、早速線路撤去の作業が始まるのです。  (つづく)


※ 追伸
草軽の廃止記念式典が行われた、昭和37年3月27日に出かけられた方がいらっしゃいましたら、記憶にある範囲でこの日の様子を教えて頂けませんでしょうか?。また、“この日に行った人を知っている” いう方がいらしたら、お会いしたときにちょっと話題を振って、聞いて頂くことなどはできませんでしょうか?。皆様にご協力を仰ぎたいと思います。何卒よろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 


ご報告です

IMG_1250

以前、このブログでもご紹介させて頂きましたOナローモジュール、“落葉松沢駅” が、TMS 39回レイアウトコンペに入賞させて頂きました。
印刷された写真を見ると、自分のものではないようです。
今後とも模型製作はもちろん、資料の収集、聞き込み他、細々とではありますが、続けていこうと思います。
みなさま、どうぞよろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(補遺2)

●  残された3台

はなしは前後してしまうのですが、ここで新軽井沢・上州三原間部分廃止後に残留した機関車のおはなしをしなければなりません。


昭和35年4月の部分廃止時、草軽の機関車、つまりデキ12型は全部で12両ありました。それが一気に9両廃車となって、残りはたったの3両になってしまいます。

残ったデキ12型は、13・21・24でした。
この3両は、偶然全部形態の異なる機関車です。すなわち、13号が機械室非延長のオリジナル、21号は延長のフラット型、24号が延長のラウンド型でした。機械室側から見ればその差は一目瞭然で、遠くに写っている写真でも、何番か判断するのは容易です。さらに、13号はご周知のように、唯一運転室の窓が2枚(他は4枚)ですので、これまた判別は容易です。このようにマニア的に見れば、たいへん “有難い” 選別だったといえますが、では何故、この3両が “選ばれた” のでしょうか?。


このことはずっと気になっていて、関係者にお会いする度に聞いていました。それでも現在まで確かな証拠はないのですが、それら証言を総合すると、どうやら “たまたま”、というのが事実だったようです。

つまり、吾妻川にかかる鉄橋が台風による増水のため流失してしまった、昭和34年8月4日の昼頃に、たまたま上州三原よりも奥にいて、そこに取り残されてしまったのがこの3台、ということのようです。このはなしを裏付けるものとして、分断された反対側の末端、嬬恋駅からトレーラーに乗せられて、対岸の上州三原まで、“わざわざ” 陸送されたのは、電動客車モハ101のみだった、ということがわかっています。


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24号(手前)と21号(奥) この角度から見れば形態の違いは一目瞭然。
屋根のRも微妙に違う。
     万座温泉口  1962(昭和37)年3月30日 撮影:田中一水
 


鉄橋が流失した昭和34年8月から、全線廃止になる昭和37年1月までの2年ちょい、この3両は仲良く働きました。残されている写真を見ても、見事に平均して出てきます。

ところが、今おはなしをしている、“草軽の最終列車” というテーマになると、何故か13号だけが突出して目立っているのです。

昭和36年1月31日の営業最終日の、一応飾り付けをされた列車を引いたのは13号ですし、3月27日の記念式典に参列したのも13号、さらに、草津温泉まで運転された、本当の最終列車を引いたのもこの13号でした。そして、いうまでもなく、現在わたしたちが実際に見ることのできる唯一のデキ12型が、他でもないこの13号なのです。

これからおはなしいたしますが、この13号は3月27日に最終列車を引いたまま、草津温泉から戻りませんでしたので、線路撤去作業は、残された21号と24号、2両で行われました。そして終了後は人知れず消えていき、解体されてしまいました。


このように13号機関車は、ある意味 “強運” の持ち主だったのかもしれません。

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そしてこれが13号 。 蒸し暑い真夏の午後の上州三原。
           1961(昭和36)年8月4日 撮影:田中一水


ただ、わたし個人的な好みを言わせて頂けば、どうもあの “正面2枚窓” の表情というのが魅力的でありません。また、番号の車体表記も他の機関車が全てローマン体なのに、この13号だけは何故か無味乾燥な丸ゴシック体です。そんな唯一の “変形機” ではあるのですが、わたしは他の番号(15とか17、その次に24)の方が好きです。 (つづく)

〈鉄道青年〉 


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