草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

デキ図鑑(8) No.20

● No.20
形態:一般型
草軽デビュー:1924(大正13)年
部分廃止後の残存:なし
写真のレア度:☆

20カラー
デキ20・ホト・ホハ15    北軽井沢  1960 (昭和35) 年3月
            撮影:黒岩  謙 提供:北軽井沢観光協会
カラーで記録されたデキ20。北軽井沢に停車中の上り新軽井沢行き。
乗務員は車軸にグリスを塗っているのだろうか。この写真の続きのカットは北軽井沢
のテレホンカードになった。

● 最初に先輪を付けてもらったデキ?
前回のNo.19でもおはなししましたが(こちら)、草軽(草津電気鉄道)が1924 (大正13) 年に電化した際に用意されたデキ12形電気機関車は、まず No.12〜17までの6両でした。続いて間もなく3両が加わりNo.18〜20となります。この都合9両がこの後10年以上にわたって活躍した初期のメンバーでした。つまり、今回おはなしするデキ20は、初期の草軽でのラストナンバー機でした。(初期のデキについてはこちら
形態は機械室(ボンネット)延長のないごく普通の (?) 一般型。

でもひとつだけ、資料上にこの機関車の名前をみつけることができます。
それは、昭和7年6月に監督官庁に提出された、電気機関車設計変更の認可申請 (※) です。これはデキに “リーディングトラック“ として、車体に先従輪を追加する工事の申請でした。
これに対する鉄道省側からの返答は、

そんな聞いたこともない改造は感心できない。でもそこまで言うなら、試験的に1両だけ認めてあげよう。残りの機関車にかってに工事しちゃだめだよ…

といった主旨のものでした。
ここに出てくる “試験的な1両“ が、このデキ20なのです。そしてこの後、わずか数ヶ月をおいて、

先従輪を付けた効果は絶大なので、何卒残りの機関車への施工もどうか認めてください…

と申請しています。
ここからわかるのは、草軽デキの、あの特徴的で模型化に苦労を強いられる先従輪を付けた姿は、この時期に改造が始まった、ということです。
(※)  鉄道省文書 草津電気鉄道 巻6


高井さん20
デキ20・ト・コワフ100形・ホハ21形
       吾妻・小代 1958 (昭和33) 年2月 撮影:高井薫平
晴れていた空が一変、突然の吹雪の中40パーミルを駆けおりる下り混合列車。


● なぜか写真の多いNo.20
このデキ20、なぜか残された写真が多いのです。
1960 (昭和35) 年4月の新軽井沢・上州三原間部分廃止で廃車となるのですが、その時期までの写真としてはダントツ、といって構わないほど多いのです。もちろん他の番号の機関車よりも特別多く運用についていた、ということはありませんでしたので、これは不思議なことです。あるいは、これもこの機関車の持った “運“ なのかもしれません。
みなさまもそう思ってお手元の文献を見てみてください。そこことに気づかれると思います。
そんなわけで、写真のレア度は星ひとつです。

ともあれ、わたしたちが思い浮かべる数多ある草軽の名シーンは、このデキ20が登場するものが多い、ということです。

そして、このデキ20専属の運転士は、このブログでもかつてご紹介した井上  勇さん(こちら)だったとお聞きしています。

みやた20
デキ20   新軽井沢  1959(昭和34)年7月  撮影:宮田道一
この有名な名シーンにもデキ20が登場する。ホハ10・ホハ30を引いた下り列車が
新軽井沢で発車の時間を待つ。


最後に、この記事に合わせるように、友人のモデラーがOナローでこのデキ20を製作してくれました。引いているのはもちろん浅間模型製のホハ15形ですよ!
(製作:杠 泰郎)
6360

〈鉄道青年〉

アサヒカメラに載った草軽


先日ヤフオクで、草軽の写真が出ている写真雑誌、 “アサヒカメラ“ の古い号が出ていていました。幸い入手できたので、早速みなさまに公開したいと思います。

使用
                 “アサヒカメラ“ 1959年 3月号より


これは、“アサヒカメラ“ 1959 (昭和34) 年 3月号。草軽の全線廃止のおよそ3年前の出版になります。
タイトルは、“ローカル線“ で、Branch Line Series とありますので、他にどこが出ていたのかも気になるところですね。
さて、この “エレガントなローカル線“ と紹介されている草軽のカラー写真ですが、カラーなのがちょっともったいないくらい寒々としていて、色彩の少ない季節の撮影です。

● これはどこ?
曇りの日なので浅間山の位置がわかりません。
でも、機関車の上あたりに谷の反対側にも線路続いていることがわかります。このような線形は何箇所かあるのですが、かすかに背後に見えている山並などから、草津温泉・谷所(やとこ)間の “一の沢“ といわれるカーブの手前だと思われます。
(このあたりの線形についてはこちらもご参照ください。)

草津付近


スクリーンショット 2025-01-17 16.56.11
                    国土地理院  地形図より

● 一の沢
まずはこの地形図をご覧ください。
(下の図は、赤枠部分の拡大です)

草軽の線路跡はほぼ道として生きていて、赤い矢印でそれを示していますので、たどってみてください。
地図上方の草津温泉駅を出て、わずかな市街地を抜けると、いきなり草軽らしいワインディングの連続になることがわかると思います。
事実、この区間は数ある草軽の名シーンの中でも、最もドラマティックな展開を見せる区間なのですが、反面遮るものもない雪の深いところで、開通以来冬季の運行は厳しさを伴ったようです。

“一の沢“ は地図で見る通り、文字通り列車が最初にかかるオメガカーブになります。
ちなみに、このブログでも何度もご紹介させて頂いている田中一水さん(こちら)の名作、“草津  みそら高原にて“も、ほぼ同じポイントでの撮影です。

IMGP6039
その場所には素敵なモニュメントが設置されている
         
IMGP6036
写真の列車はおそらくこのあたり。

IMGP6037
ふり返れば、道は “一の沢“ のオメガカーブ跡へと続く。
          2014 (平成26) 年4月   撮影:小林隆則

● 車 両
写っている車両のことももちろん気になりますね。
デキのナンバーですが、わかりにくいですがキャブに “4“が見えるようです。機械室(ボンネット)は R の付いたラウンド型なので、これは 24号のデキ、ということがわかります。
客車は番号はわかりませんが、半鋼製車ホハ30形、草軽の最後まで使用されたものです。モノトーンの風景の中、シートの赤がやたらと目立っている気がします。

前述の通り季節は早春、とはいえ、海抜1,000mの高原では、まだ吹いてくる風は身を切るほど冷たいもので、空からはちらちらと雪が舞うこともあったに違いありません。でも、モノ好きな人(?)がボンネットに乗っています。
ただ、この人の様子を見ればわかると思うのですが、決して居心地がよさそうには見えません。むしろバランスをとるのに苦労している感じです。映画カルメン故郷に帰る(こちら)のシーンでもそうですが、あくまで “草軽“ のイメージとして、ここに人が乗っている光景が思い浮かぶかもしれません。でも、つかまるところも足をかけるとこも無いデキのボンネット、特にこの24号機のようなラウンド型は絶対に座りにくいし、危険ですらあると思います。

撮影データをみると、シャッタースピードは1/30。動画を見ればわかるのですが、草軽のスピードは決して遅くはありません。ましてやこの40パーミルの下り勾配ですので、この列車がもしも走行中だとすれば、1/30 では動体ブレを起こすはずです。

つまり、この列車が通常の営業列車かどうかはわかりませんが、眺めのよいところに一旦停車して、演出として人物にボンネットに乗ってもらった、ということではないかと推察します。

とはいえ、貴重な草軽のカラー写真。特にアサヒカメラという名門写真雑誌ですので、印刷も当時の最高のものであったと思います。わたし達マニアにとっても正に宝の1枚ですね。ここから取るに足りない細かいことを色々と考えるのも幸せな時間です。

● 映画でも登場するシーン
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映画 『ここに泉あり』(1955年 独立映画)より

最後に、この同じ場所の画像をもうひとつ思い出しましたので、ここにあげてみましょう。
映画 『ここに泉あり』(1955年 独立映画:解説はこちら)の、本当に最後にちょこっと登場する草軽のシーンです。
ここは草津温泉からも近い、手頃な “お立ち台“ だったのかもしれません。

〈鉄道青年〉


里田保枝さん ーわたしのバタフライエフェクトー

人生の中では、気にも止めないほんの小さな出来ごとが、その後の生き様に大きな影響を与えることになる、いわばひとりひとりの “バタフライエフェクト“ というものが間違いなくあるのではないでしょうか。

わたしにとってのそれは、
たまたまそこにいたおばさんに道を聞いたから…
ということことでした。

前回の元運転士、宮崎登喜雄さんのおはなしの続きとして、今回はある女性の思い出をおはなししましょう。
高校3年生のGWに、念願だった草軽の線路跡を踏破したときのことです。

● 1980年5月 上州三原駅跡
上州三原は、北軽井沢から一気に下ってきた線路が、吾妻川を渡って再び草津温泉へと登っていく、という谷間のような街です。
ここは北軽井沢・草津温泉と並ぶ沿線の要衝でしたが、そこを流れる吾妻川の鉄橋が台風による増水で流失したために、1960(昭和35)年の部分廃止後、残存区間の始発駅となりました。

その日は小代駅跡近くのユースホステルに泊まりました。翌日もいい天気で、そこから気分良く一気に上州三原駅跡まで下っていきました。
吾妻川の河原にはまだ鉄橋のピアがそのまま放置されていて、同じく(現在も)残っている対岸のコンクリート製の基礎から、駅があった位置は一目瞭然でした。
当時の写真と比べながら確認をした後、さっさと先へ進もうとしたのですが、旧駅構内を出たところで道は三叉路になっていて、少しの間どうしたものか考えていた時です。
そこで立ち話をしていたおばさんがいたので、線路跡はどこだったのか、一応聞いてみたのです。

里田さん使用
里田保枝さん

● 里田保枝さん
当時のご年齢を考えれば、“おばさん“ というのは失礼だったかもしれないのですが、高校生からみればそのくらいの年齢差を感じたのも事実です。
“草鉄(そうてつ:地元の人はそう呼んでいた)はあっち行ってたんだけど…“
そう言って彼女は、わたしの持っていた写真のコピーに目をとめるや、
“あら懐かしいじゃない!“ といっては熱心にそれを見ています。
わたしが軽井沢から線路跡を歩いてここまで来た、ということをおはなしすると、“あらまー!“ と目を丸くしてひとしきり感心した後、
“まあいらしゃい“ といっては、ほぼ強引に目の前の自宅に招いてくれ、これでもか、と言うほどの食事を与えてくれたのです。
たまたま通りかかった変な子供にご飯をくれる、そんな懐の大きなその方こそ、今回ご紹介させて頂く里田保枝さんです。
同じ嬬恋村の、違う集落から三原に嫁いできたのですが、そのお宅は上州三原の駅構内、草軽方面の踏切に隣接してありました。“里田文具店“ という文具・事務機を扱うお店で、鉄道が現役だった当時、そこを走る電車は毎日目にする、生活とともにある光景でした。
ちなみに、里田文具店の向かいに現存する半鐘塔は、草軽の現役当時からそこにあり、廃線跡をしのぶランドマークとなっています。

DSC06814

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三原の4叉路に残る、鉄道時代からの半鐘塔。
線路は構内を出てすぐの踏切を通って、左の道を東三原へと登っていた。


● はじめて見る写真
里田さんは、わたしの草軽への強い想いをよく理解していただき、それを感心して聞いてくれました。そしてそこに1枚の写真を出してきてくれたのです。それは手札版の小さなモノクロ写真でした。上州三原駅に停車するデキ24が写っています。
奥の線路が吾妻川にかかる部分で途切れているので、昭和35年か36年夏の写真でしょう。

里田さん 写真使用
デキ24      1960か61年 夏  上州三原  所蔵:小林隆則
発車の時間はまだだいぶ先…、といった雰囲気の長閑な夏のひととき。


確かに現在の感覚にすれば、特に珍しい情景でも車両でもありません。
しかし一目見て、わたしは手が震えました、大きな声もあげてしまったかもしれません。
何度も繰り返しますが、当時写真を含めてほとんど情報がなかった草軽ですので、これまでに見てきた写真はどれもが光り輝く宝石のように貴重に感じていたものでした。ただ、それらは雑誌というマスメディアに載った、“印刷物“でした。
ところがどうでしょう。今目の前にあるこの写真は、印刷物ではない生の写真です、。当たり前ですがはじめて見る写真です。極論すれば、他のマニアは絶対に見てはいない、自分だけのオリジナルの写真を見つけた、そんな気すら気がしたのです。それがどれほど嬉しく、天に昇るような気分だったかは、言葉では伝わらないと思います。

さらには、
“草鉄(そうてつ)のことを知りたければ、運転士していた人がいるから、今から行ってはなしを聞けばいいよ…“、と、返事も待たずに電話で連絡を取っていただいたのです。
そこから前回の、元運転士、宮崎登喜夫さんのおはなしに続くのです。

● ブランク
こうした若い頃の草軽熱も、その後情報を得ていった内外の鉄道や車両に心が移っていったり、また社会人になり結婚して子供ができて…、という変化の中で、心の奥に封印されてしまっていった…、というこは前回もおはなししました。
きっかけは2011年の東日本大震災でした。その信じ難い惨状を見て、凡人が人生の中でできることなど限られている、あるいはなにもできることなんかないかもしれない、そんな気分になったのです。でももしもそうだったら、(家族を除いて)自分にとっていちばん大切なものとは何だろう…、と考えた時、本当に久々でしたが、三原の里田保枝さんに連絡をとる、という行動に出るまで時間はかかりませんでした。

里田さんはわたしのことをよく覚えていてくれていました。そして “草軽のことを知りたい“、というわたしのリクエストもすぐに理解して、その後何人もの元関係者との橋渡しをして頂きました。
もちろん、それが可能になったのは、里田さんの人柄、懐の大きさによるところが大きかったと思います。わたしがとうもろこしが好きだ、といえば、毎年嬬恋産のとうもろこしを送ってくれました。

そんな、わたしにとっての大きな財産のような里田さんでしたが、ある年からとうもろこしと年賀状が来なくなりました。体をこわされて入院をした…、というところまではなしを聞きましたが、そのご連絡がとれていません。

自分では決して見ることのできなかった草軽電鉄でしたが、多くの関係者からおはなしを伺い、写真を見せていただき、自分の中でリアルなイメージとなって惹かれているのは、高校生の時、三原の三叉路でそこにいたおばさんにたまたま道を聞いたから…、というおはなしでした。

〈鉄道青年〉
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