火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

ご報告

899

このブログで製作過程を報告させて頂いたOナローのモジュール、“落葉松沢駅” を、今月号のTMS(2016.12:No.899)に掲載して頂きました。

過去2回ももちろん嬉しかったのですが、今回は特別に嬉しい気がします。それはきっと、自分なりにあれこれと考えて、手を抜くところは手を抜いて、こだわる部分にはこだわって、そこを走る車両の姿をイメージしながら、最初のベース製作の段階から、最後に浅間高原に持ち込んでの撮影に至るまで、初心を貫くことができた、ということかもしれません。それがTMSという晴れ舞台で発表することができたのですから、まさに趣味冥利に尽きる、というものです。また、そのことを謙遜することなく、自分への自信にしたいとも思います。
でもまた同じもモノができるか、と言われればそんな自信もとたんに揺らいでしまうのですが、これからも “こだわり” を忘れず、かといって思いつめず、マイペースでやっていこうと思います。

ともあれ、みなさまどうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 

デキ50の写真

'38-8-13 新軽井沢-1
デキ50・あさま1   新軽井沢 1938 (昭和13) 年8月13日  撮影:荒井文治


奇跡ともいえる写真を入手しました。

昭和13年に撮影された、草軽の凸形電機デキ50の、なんと “ガラス乾板” です。
でも、デキ50が白樺電車を引いているこの写真は、わたしは初めて見るものではありません。わたしの知る限り、“鉄道ピクトリアル” 1960年8月号の草軽の記事に載っていたのと、プレスアイゼンバーンの単行本、“草軽電気鉄道” にも載っていました。
写真の撮影者は、かの荒井文治さんです。

ただそれらを見ればわかるのですが、両方とも小さい扱いだったり、ちょっと不鮮明な写真で、とても8㎝×10㎝の乾板からの画像には見えませんでした。つまりわたしは、この写真に関しては、ずっと長いことそのクオリティでしかイメージしてこなかったわけです。
そもそもわたしはガラス乾板というものを、もちろん知ってはいましたが、それは知識としてのみのはなしで、実際に手にするのは初めてです。ですので問題は、どのようにしてこれを “反転” した画像にするか、でした。
とっくに銀塩の引き伸ばし機は捨ててしまったし、スキャンする方法もわかりません。幸い、このことを宮松慶夫さんにおはなししたところ、快くデジタル化を引き受けて頂き、ここに日の目をみることができました。

スキャン 1
 鉄道ピクトリアル  1960 (昭和35) 年8月号の記事より


撮影は1938 (昭和13)年8月13日。
2016年の現在、78年の時を超えた最新のデジタル技術によって、モニター上に再び像を結んだデキ50の画像に、わたしは瞠目しました。
ガラス乾板の写真の緻密さは、岩崎・渡辺コレクションの写真を例に出すまでもなく、現在の写真とは良し悪しの問題ではなく、全く別次元の画像です。
具体的にいうと、客車の窓辺に腰をかけた男が着ている半被の襟の文字、その後ろで居眠りをしている和服の女、洋風のお洒落なランプシェード…、それらが鮮明に読み取れるのです。
いや、大事なのはそんな部分ではありません。わたしが一番打たれたのは、その “奥行き” というか、“空気感” のような空間の広がり、でした。じっと見ていると78年前の夏の軽井沢の風や、ちょっと油のにおい、そして樹々のにおいが混ざったその場の空気までが伝わってくるような気すらしたのです。

先に述べましたようにこの写真は、今までわたしの中でずっと不鮮明なままの存在だったのが、一瞬にして想像もしなかった高い次元の、ピュアでハートフルなイメージを持つ、大切な画像として認識され直したのでした。


写っている車両の解説もしなければなりません。
機関車はもちろん有名な凸電デキ50。この機関車は、僚機と同じL型だったNo.21を改造の上、昭和10年3月25日に竣工したものです。竣工時の名前は改造前と同じNo.21。これが、No.22~24の竣工にあわせて昭和12年6月、デキ50型 No.50、に改番されました。そして、背後には名前を譲った新番21が見えています。ちなみに写真からもわかる通り、No.21~24は、“改良型” パンタを乗せていました。さらにいえば、パンタと重なって見える火の見櫓は廃止時にも存在しており、写真の位置を特定する際のランドマークになっているものです。
客車もまた、言うまでもない “白樺電車” の あさま です。   これは2両あったうちの “1” の方ですね。左奥に見えるのは、西尾鉄道からきたホハ21型のうち、No.22の方です。まだデッキ部分の改造がなされる前の、オープンデッキの姿です。

車両の手入れは行き届き、機関車には砲金製の番号と社紋が燦然と輝いています。サンマーカーが定期で運行され、他の車両の増備も続いていた、草軽電鉄(草津電気鉄道)戦前のもっとも良き時代を記録した1枚だと思います。


色々な意味で、“このようななもの” が、何故オークションに流れたのかはよくわからないのですが、なんでも、翌朝に出す予定だったゴミ袋の中から “救出” されたもの、ということです。
わたしの手元にきたのも何かの縁だと思います。決して自分の所有物とは思わず、草軽を知る人のための資料として、わたしが “お預かりする” もの、と考えております。

〈鉄道青年〉 

※  年末の繁忙期に入りますので、ブログは年末までお休みを頂きます。
   皆さま、どうぞお忘れなきよう! 

13号機関車の謎

先日、草軽電鉄デキ12型No.13についての記事を書きました。

確認しておけばこの13号機関車は、1960(昭和35)年の軽井沢方部分廃止後も残存し、全廃を間近にして多くのマニアのカメラに収まりました。実際を知らないわたしたちの世代にとっては、恐らく最も写真を見る機会の多い機関車のはずです。そして、それは現在でも彼地軽井沢に保存され、実車に接することができる、ある意味最も “馴染みある”デキ12型だと思います。

丸山-27
改めてNo.13の写真  恐らく谷所・草津温泉  三の谷
                               写真提供:丸山利一郎

しかしそんな13号機関車にも、実はちょっとした謎があるのです。
今回は、先の記事の“追伸”として、このことに触れておきたいと思います。

いうまでもなく、13号機関車の正面(及び背面)窓は2枚です。他の僚機が全て細い4枚窓なのに対して、ただ1台だけ顔が違うのです。これを、“変形機” という言葉で表してしまえば簡単なのですが、一体どんな理由があってそのようになったのでしょうか…。どうでもいいはなしかもしれませんが、こんな細かいことにも拘っておきましょう。

昭和28年に鶴溜で撮影されたNo.13らしき写真を見たことがあるのですが、その写真に写っている機関車は間違いなく4枚窓でした。それはあまり鮮明な写真ではなかったのですが、No.13の窓に関する問題を、自分の中で提起するのに充分なきっかけとなりました。

このNo.13、確かに先述の通り、写真は多く残こされています。しかしその写真はほとんどが部分廃止後、つまり昭和35年以降の姿で、そこから恐らくわたしを含めて、多くの方が “No.13はこのカタチ” と、刷り込まれているのだと思います。
ではこの機関車は、それ以前も同じカタチをしていたのでしょうか?。そう考えて部分廃止前の写真を探すのですが、どういうわけかあまり写真がないのです。ないわけではないのですが、他機に比べて著しく少ない。そんな少ない写真に飛びついて見ても、(残念ながら)みな2枚窓の姿だったのです。

ところが後日、以前より手元にあったある本を改めて見てみると、そこには驚愕の写真が出ていました。何故今までこれに気づかなかったのでしょう、自分の甘さに怒りを覚えたほどです。
 

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『発掘カラー写真 昭和30年代 鉄道原風景 東日本私鉄編』
          ウォーリー・ヒギンス/JTBパブリッシング より部分拡大


『発掘カラー写真 昭和30年代 鉄道原風景 東日本私鉄編』の草軽電鉄のページには、目が覚めるほどに鮮明なNo.13の写真が載っています。場所は草津前口、側線から硫黄満載の貨車をとってきて列車に連結する場面です。そしてここに写っている姿は、見間違うことなく4枚窓なのです。そしてさらによくみると、車体の番号表記も他機と同じローマン体でしっかりと描かれており、晩年(そして現在まで)の貧弱な書体とは違うのです。つまりこの写真が撮影された時点では、No.13は変形機でもなんでもなく、僚機と同じカッコをしていたのです。

撮影日時は1957(昭和32)年5月15日。わたしが知る限り、翌昭和33年の夏に撮影された写真をみると、既に2枚窓になっています。つまり、この1年間に何らかの理由によって、このような “大きな” 改造を受けた、ということが間違いないことになりました。

この当時、No.13を担当していたのは下谷米吉さん、という運転士でした。
そしてこの機関車には何故か、運転室内の草津に向かって右側の砂箱が撤去されています。そのような事実からも、これは運転士の下谷さんのリクエストによる “カスタマイズ” だったのでしょうか?。まあ、それは冗談としても、恐らくは窓部分の腐食が進んで雨漏りがひどくなった、そこで全般検査(あるいは普段か)の際に、下谷さんが工場側に、“これ、なんとかしてくれよ…”、とお願いをした。工場としては、もうすぐ鉄道自体が廃止になるという雰囲気だし、もうあまり手をかけたくない。でも直さないわけにはいかないので、ちょっと手を抜いて2枚窓で我慢してもらった…。
というようなことだったのではないでしょうか。先述の番号表記も同じような理由で書体を変えたのかもしれません。

今となっては、その真実はもはや知る術がありませんし、これはあくまでもわたしの想像です。
ただ、残された数枚の写真から、色々な方向に想像を巡らせるのも楽しいことです。みなさまも何か “こう思う”、ということがございましたら是非お聞かせ下さい。


〈鉄道青年〉


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