火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

ホヘ19(3)

ハンセン氏病患者輸送用専用客車、ホヘ19型が製作されたいきさつは、前回までおはなしいたしましたので、実際これはどのような車両だったのか、をみていきましょう。
まず 19、という数字ですが、1924(大正13)年の形式改定により、ホロハ10からホハニ18までが在籍していたので、1両だけ特別な番号とはせずにその連番としています。
ちなみに、病客車を示す形式表記の “へ” ですが、疾病の “ぺ” とか、負傷した兵隊の “へ” とか、HELPの “へ” など、諸説あるそうです。

これは新車として製造されたわけではなく、コワフ30型(コワフ43)という有蓋ボギー貨車からの改造でした。
改造工事は “原田製作所”、という工場でされています。これは、既存のホハニ17・18(ワールド工芸の製品で有名)が、同じ工場でやはり貨車から改造されている実績があったためではないでしょうか。
昭和2年8月4日に認可申請、同年10月31日に竣工届が出されています。

認可申請の理由書には、
“草津町の一部の悪性皮膚病患者(癩病)の輸送のために、草津町と群馬県当局者間の協定に伴い、病車を以って毎年11月1日より翌年4月30日までの6ヶ月間において、毎月1・6に1回運転することに決定されたので、これに使用する病車が必要です。”

とあり、併せてこの“病車”を留置する鶴溜駅構内の設計変更の認可申請もなされています。
“病客車製作に伴い、その格納庫及び待合室、消毒係員詰所の設備を鶴溜停車場内の空地を利用して建設したいと思います。この地点は沓掛方面からの便も多く、病者の乗車には最も好適地につき、ここに建設することが内定しました。”

草軽が現役時の写真を見るとわかるのですが、廃線になるまで鶴溜駅構内はスイッチバックのような線路配置になっていました。これは、急坂の途中に駅を設置するため、という本来の目的のためではなさそうで、上記の文書の通り、ホヘ19型を留置していた側線の名残りだったのではないでしょうか。



さて、ホヘ19は有蓋ボギー貨車、コワフ30型を改造した車両です。
しかし、このコワフ30型という貨車はどういうわけか、 “草軽電気鉄道”(プレスアイゼンバーン:1981)をはじめ、これまでほとんど解説されたことがありません。古い記事の断片的な紹介も間違っている記述があるので、ホヘ19のおはなしの前に、まず種車となったコワフ30型とはどのような車両だったのか、をみてみたいと思います。

● コワフ30
日本車輌製、7t 積 有蓋ボギー貨車。
旧番コワフ1~12の12両が、草軽がまだ電化する前の1923(大正12)年12月に竣工しました。その後、1925(大正14)年5月の認可で13・14が増備され、全部で14両が揃いました。地方の軽便鉄道でありながら、このように多くの大型貨車を増備した理由は、言うまでもなく吾妻川電力株式会社による沿線の発電所建設工事の資材運搬のためでした。

解放

図面の通り、最初は車掌室は設けられておらず、片側がオープンデッキの形態でした。
ただこれだと、“ワフ9”のところでおはなししたように、浅間高原の厳しい気候の中に、車掌は乗務中絶えず外気に吹きさらされることになります。夏季はまだいいとしても厳冬期になれば、それは大げさでなく命に関わる問題となりました。
そこで、竣工から間もない大正14年の暮れになって最初の12両に、1年後の大正15年の暮れには増備の2両にも密閉型の車掌室設置され、14両全てにこの改造がなされました。

密閉
                         図面:川村きよし(2枚共)

またこの間、大正13年には在籍車両の全面的な形式改定が行われ、コワフ1~14は、新形式コワフ30~43となりました。
車掌室設置後は図面のような姿になったわけですが、こういってはなんですが、特に特徴のある車両ではありませんね。

このうち、昭和2年にコワフ43が本題であるホヘ19に改造されたのをはじめ、昭和10年代初頭には、コワフ38・37・30が、それぞれ無蓋車ホト80・81・82に改造されています。
これらがどの時期に廃車になったのかはわかっていないのですが、少なくとも昭和20年代後半までには全車とも廃車になっているようです。
 

コワフ30
廃車後、新軽井沢駅構内で倉庫として使用されたコワフ30型(番号不詳)
            新軽井沢  1961(昭和36) 年8月  撮影:田中一水


戦後まで働いた、とはいえ早い時期に消えてしまった車両なので、残されている写真は本当に少ないです。ただ廃車後、(恐らく)4両が台車を外されて新軽井沢駅構内に倉庫として利用されていました。そして草軽が廃止になった後も、これだけはかなり後まで残っていたようです。                   (つづく)

〈鉄道青年〉 

ホヘ19(2)

11
昭和2年の草軽の様子。 新軽井沢
(写真と記事の関連はありません。客車も一般の客車です。“原型のデキ” より再録)


〈電車事件〉
ハンセン氏病患者輸送用客車、ホヘ19型が製造される背景には、実は直接の原因となった出来事がありました。
わたしも今回調べてみるまで全く知らなかったのですが、それは “電車事件” といわれる、大正15年に起きた湯之澤の人々たちによる、草軽の乗車拒否に対する抗議集会でした。
“風雪の紋 ー栗生楽泉園患者50年史ー” (栗生楽泉園入所者自治会:1982)に、その生々しい記録がありますので、それを要約してここに引用してみたいと思います。


以前から、患者の乗車を頑なに認めなかった草軽側に対して、何度となく乗車許可の陳情を行ってきた湯之澤の患者達でしたが、草軽側は全く聞く耳を持ちませんでした。しかし抗議の声は、患者のみにとどまらず、前回書いたような患者たちが置かれた悲惨な状況を見過ごせなかった健常者の有力者も巻き込んで、群馬県庁に陳情を行うまでに大きな動きとなっていったのでした。
草軽側も事態がそこまでに及び、ようやく “症状の軽い患者の限って、特別の温情をもって乗車を許可する”、という公約をせざるを得なかったのでした。

一方大正15年9月、永年の悲願かなって草津電鉄は終点草津温泉までの電化全通を完成させました。これによって、草津へのアクセスは格段に改善され、訪れる湯治客の増加も大いに期待されました。しかし、そうなってみると今度は、湯之澤ではない健常者の居住区の人たちが、草津温泉のイメージダウンを恐れて患者の乗車に反対するようになるのです。
当時の草軽の社長 河村隆實は、もともと患者の乗車に否定的な考えを持つ人物でしたので、このような沿線の空気に力を得て、先の公約を全く守ることがなかったばかりか、いよいよ徹底的に乗車拒否をするようになってしまうのです。

このような中、湯之澤の患者たちも黙っていたわけではありませんでした。昭和2年5月には、住民大会が開かれ、“このように無辜の患者が苦渋を強いられる状況は、今や命を賭けても断固として解決しなければならない”、といった強硬な意見が多数を占めることになります。そして、住民たちは代表団を選出して、当時東京にあった草軽本社の河村社長に、“患者専用客車” の設置を直接談判するために上京することになるのです。
しかし、代表団の中には健常者も含まれていて、抗議の温度差があったことも事実でした。河村は、そんな抗議側が必ずしも一枚岩ではない、という雰囲気を敏感に感じ取って、あくまでも強硬な姿勢を崩さず、“患者専用客車など、経営上なんらメリットを認められない”、と代表団を追い返してしまいます。

草軽側のこうした対応が伝わるや、湯之澤は一気に憤怒の空気に包まれました。そして上京した代表団が草津に帰ってくる時に合わせて、住民全員による抗議集会が決行されることになるのです。

その当日、地区の半鐘は打ち鳴らされ、おびただしい怒りに燃えた住民たちは隊列を組んで、抗議のシュプレヒコールを叫びながら、草津の街を練り歩いたのでした。

そして患者輸送問題が、このような手のつけがたいほどに大きくなってしまった事態を深刻に受け止めた県警察本部が、ついに湯之澤の住民と草軽側との仲介、調停に乗り出すことになるのです。
そして、
● 患者輸送用の自動車を1台、群馬県から湯之澤側に貸与する。
● 草津電鉄は、降雪のため自動車通行不能となる冬季に限り、患者専用の車両を運行する。
という2点を条件に結ばれた協定により、ようやくこの問題は一応の鎮静をみたのでした。


〈冬季のみ運行する患者専用の車両〉

言うまでもなく、ここに結ばれる協定から誕生したのが本題のホヘ19型です。
しかし、合わせて提示された運行の条件は、以下のようなものだったのです。
曰く、
● 厳冬期の11月から4月までの間、毎月1と6の付く日の深夜に一往復運転する。
● 運行は、鶴溜(つるだまり)と谷所(やとこ)とする。
● 運賃は、行き(谷所行)が5人分、帰り(軽井沢行)が10人分、とする。

ひとつひとつ見ていきましょう。

“1と6の付く日” は、月のうち6回あります。つまりホヘ19型は月6回運転された、ということになります。また、“深夜” とは、当然終電から始発までの間、ということでしょう。患者は一般人の目に触れる昼の間は乗れなかったのです。
問題はネットのないこの時代、このような細かな運行条件を、果たして前もって知り得たのだろうか、ということです。もしも知らずにやってきた場合、最悪5日間も足止めをくらうことになってしまいます。
月に数回、終電が終わった真夜中、かすかに聞こえてくる電車の音を、沿線の住民はどのような気持ちで聞いていたのでしょうか…。

鶴溜は、始発の新軽井沢から3つ目の駅。後に別荘地として開発されるのですが、この当時はおよそ人里離れた山の中で、駅というよりも信号場のような存在でした。
ホヘ19が配備されたとはいえ、患者は軽井沢からは乗せてもらえず、この寂しい山の中の駅まで歩いていくしかなかったのです。沓掛(現JR中軽井沢駅)からは比較的近い場所だったのですが、そこを普通に歩くのはあくまでも当時の健常の人にとってのはなしです。わたしも実際に自転車で鶴溜を目指したことがあるのですが、あまりに急な坂が延々と続く道に挫折をしたことがあります。
そして、“谷所までの運転”。
谷所とは、終点草津温泉のひとつ手前の駅です。乗るときも始発から乗せてもらえなかった患者は、終点までも乗せてもらえることができず、ひとつ手前で降ろされてしまうのです。ここから草津温泉までは、5㎞以上の距離があります。前述のように、真夜中にここまでやってきた列車から降ろされ、真っ暗な線路上を不自由な足で歩かざるを得なかったのです。

最後の運賃のはなし。
これはあまりにもひどい、としか言いようのない条件です。
いくら “特別列車” だからといって、通常の5倍、帰りにいたっては実に10倍の運賃を請求されていた、というのです。


このように、草軽側の “温情” で運転されることになったホヘ19だったのですが、その乗車の条件は患者にとっては非常に厳しいものだった、ということを心に留めておく必要があります。                        (つづく)


〈鉄道青年〉 




ホヘ19(1)

草軽電鉄(草津電気鉄道)には、ホヘ19” という客車が存在していました。
これはその形式通りの病客車で、草津にある療養施設までハンセン氏病患者を輸送するための特殊な車両でした。
両数はただ1両のみ。戦前には廃車になってしまっています。

“そういう客車が存在していた”、という事実は比較的有名です。しかし、実車の写真は現在のところ1枚も確認されておらず、それがどのような形態だったのか、またどのように運用されていたのかは、ほぼ全くわかってはいません。
ただ草軽電鉄の車両を語る時、その沿線の特殊な事情をも含めて、ホヘ19型のことは避けては通れません。そして同時に、この客車を取り巻いた時代背景のことにも目を向けないわけにはいきません。

あらかじめおことわりしておきますが、この文章は、上記のように謎に包まれたこの ホヘ19” の存在を、現在得られている資料からできる限り明らかにしようとする性格のものです。この中でハンセン氏病について触れることもありますが、その時代背景として認識しておく必要があるために書くものです。ハンセン氏病とその患者の存在、社会的な意義・批判を語ることは、全く趣旨とするところではありません。

また草軽は 周知の通り、草津軽便鉄道・草津電気鉄道・草軽電気鉄道、と会社名称を変更していて、ホヘ19が在籍したのは草津電気鉄道の時代でした。この文章の中ではそのことをいちいちお断りせず、“草軽” と統一して表記します。


谷所(カラー)
電化全通直後の草軽(草津電気鉄道) 谷所      絵葉書(所蔵:小林隆則)

〈草津温泉〉
草軽の終点は言うまでもなく草津温泉です。
この白根山の懐、草津温泉は、温泉としてのネームバリューとしては、全国トップクラスの存在といって間違いないのではないでしょうか。中世以前より湯治場として栄え、なんでも江戸時代の“温泉番付” においては第1位、だったそうです。
この草津温泉は、“お医者様でも草津の湯でも…”、と歌われる通り、万病をカバーする効能が認められているのですが、主には皮膚病・神経痛などに強い効能があるといわれています。
温泉、というものは、現在でこそ日常生活を離れての安らぎを求めて行くもの、という性格がイメージされるのですが、古来より温泉療法という言葉がある通り、本来は病気治療のためにそこへ行って滞在する、というものでした。
前述の通り、草津温泉は皮膚病への効能が有名となり、病気を抱えた多くの人々が草津を目指してやってきたのです。


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昭和初期の草津湯之澤集落 (栗生楽泉園ホームページより)

〈ハンセン氏病と栗生楽泉園〉

こうして皮膚病を患って草津にやってきた中には、多くの “らい病” といわれたハンセン氏病の患者がいました。
明治時代初期まで、彼らは一般の湯治客と一緒に温泉につかり、一緒の宿で過ごしていました。しかし、正しい知識が伝わることなく、“不治の病” として忌み嫌われたハンセン氏病患者の存在について、天下の草津温泉の評判に傷がつくことをおそれた町では、草津の町はずれの“湯之澤” という地域にこうしたハンセン氏病患者を隔離することになります。それでも、患者達は、未開の荒れ地を力を合わせて切り開き、苦労しながら自分たちの街を作っていきました。隔離、とはいうものの、湯之澤は草津町の行政区画で、住民は納税その他国民の義務を果たし、また権利を与えられていました。あたかもそこは、患者たちにとってのユートピアのようになっていったのでた。
しかし、平和な時間は長くは続きませんでした。

評判を聞き、藁をもすがる思いで、患者は全国から草津を目指してやってくるのです。当然患者の人口は増え、その居住地も広がっていきました。
昭和になる頃には、ほとんど本来の町とつながってしまい、患者とその他の人々の生活の境界も曖昧になってしまうようになります。住民の数が増えることにより、様々な争い、トラブルが生じるようになります。
また、昭和初期の日本は、低迷した社会の中で次第に軍国主義が台頭してくる時期になります。そのような空気の中で、異端のものを排除しようとする空気がじわじわと広がっていき、ハンセン氏病患者も、“国辱” “非国民” のレッテルを貼られていってしまうのです。

昭和6年に制定された “癩予防法” など、ハンセン氏病患者の徹底した隔離を求める声が広がる中、草津には、ハンセン氏病療養施設、国立栗生楽泉園(くりうらくせんえん)が開設されます。これは、肥大化した上記の湯之澤地区の患者を全員そこに移住させ、旧湯之澤地区は抹消しよう、とする動きでした。

この部分のおはなしは、到底限られたスペースのみで語れるものではありません。興味のある方は別の文献に当たって頂くとして、ともかく、昭和17年までに湯之澤の患者たちは、すべて栗生楽泉園に移住したのでした。

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栗生楽泉園 (同園ホームページより)


〈草津を目指すハンセン氏病患者〉

長野原線(現JR吾妻線)がまだ存在しない当時、草津へのメインルートは、軽井沢から草軽に乗って行く、というものでした。ちなみに、悲願かなって草軽が新軽井沢・草津温泉間55.5㎞を電化全通させたのは、大正15年9月のことです。
当然、草津の栗生楽泉園を目指すハンセン氏病患者たちも、そのルートに乗るしかありませんでした。
また、すでに入園している患者も、正月などに外出許可を得て、家族の待つ郷里に帰省することも多く、やはり草軽に乗る必要がありました。
しかし、患者たちの証言をみると、草軽に “乗せてもらう” のは、非常に困難なことだったようです。せっかく軽井沢までやってきても、お金はあるのに電車に乗せてもらえない。それどころか、ほとんど人間としての扱いを受けることができず、そこでプライドや尊厳を踏みにじられるのです。
お金のあるものは、法外な料金を請求する闇の運輸業者に頼むこともあるのですが、ほとんどの患者は軽井沢から草津まで歩いた、のだそうです。 軽井沢から草津です。線路をずっと歩いていっても55.5㎞の距離があります。患者にとってこの行程は、まさに地獄の道のりに違いないものでした。

若く健常な人間にとっても、この距離を歩くのは容易いことではありません。病気を抱えた人たちにとって、それはいかほどの遠さだったでしょう。しかも、スニーカーやトレッキングシューズを履いていたわけではありません。藁の草履か、よくて下駄履きです。それは50㎞以上の距離をもつわけがありません。
ハンセン氏病は、抹消の神経が侵される病気でもあり、手足の感覚が薄く、体に傷がついてもそのまま歩いてしまいます。そのために傷を悪化させ、足を切断することになったり、最悪死に至ることもあった、ということです。
厳冬期は最悪、このようにして行倒れた悲惨な患者の遺体が線路際に見られらたそうです。また、雪の中に延々と続く血痕を見て、あまりにも気の毒に思った乗務員の中には、貨物列車などを停止して便乗させる人もいたのだそうです。

このような扱いに対して、患者側は再三にわたり草軽に対して乗車許可を求める請願を出しました。
昭和2年になって、草軽側は患者輸送専用の客車を用意することになるのですが、ここに至るまで、またその後も、露骨な差別が無くなることはありませんでした。


病客車ホヘ19型登場の背景には、このように凄惨なまでの現実があった、ということを忘れてはなりません。                      (つづく)

〈鉄道青年〉 

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