火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(補遺2)

●  残された3台

はなしは前後してしまうのですが、ここで新軽井沢・上州三原間部分廃止後に残留した機関車のおはなしをしなければなりません。


昭和35年4月の部分廃止時、草軽の機関車、つまりデキ12型は全部で12両ありました。それが一気に9両廃車となって、残りはたったの3両になってしまいます。

残ったデキ12型は、13・21・24でした。
この3両は、偶然全部形態の異なる機関車です。すなわち、13号が機械室非延長のオリジナル、21号は延長のフラット型、24号が延長のラウンド型でした。機械室側から見ればその差は一目瞭然で、遠くに写っている写真でも、何番か判断するのは容易です。さらに、13号はご周知のように、唯一運転室の窓が2枚(他は4枚)ですので、これまた判別は容易です。このようにマニア的に見れば、たいへん “有難い” 選別だったといえますが、では何故、この3両が “選ばれた” のでしょうか?。


このことはずっと気になっていて、関係者にお会いする度に聞いていました。それでも現在まで確かな証拠はないのですが、それら証言を総合すると、どうやら “たまたま”、というのが事実だったようです。

つまり、吾妻川にかかる鉄橋が台風による増水のため流失してしまった、昭和34年8月4日の昼頃に、たまたま上州三原よりも奥にいて、そこに取り残されてしまったのがこの3台、ということのようです。このはなしを裏付けるものとして、分断された反対側の末端、嬬恋駅からトレーラーに乗せられて、対岸の上州三原まで、“わざわざ” 陸送されたのは、電動客車モハ101のみだった、ということがわかっています。


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24号(手前)と21号(奥) この角度から見れば形態の違いは一目瞭然。
屋根のRも微妙に違う。
     万座温泉口  1962(昭和37)年3月30日 撮影:田中一水
 


鉄橋が流失した昭和34年8月から、全線廃止になる昭和37年1月までの2年ちょい、この3両は仲良く働きました。残されている写真を見ても、見事に平均して出てきます。

ところが、今おはなしをしている、“草軽の最終列車” というテーマになると、何故か13号だけが突出して目立っているのです。

昭和36年1月31日の営業最終日の、一応飾り付けをされた列車を引いたのは13号ですし、3月27日の記念式典に参列したのも13号、さらに、草津温泉まで運転された、本当の最終列車を引いたのもこの13号でした。そして、いうまでもなく、現在わたしたちが実際に見ることのできる唯一のデキ12型が、他でもないこの13号なのです。

これからおはなしいたしますが、この13号は3月27日に最終列車を引いたまま、草津温泉から戻りませんでしたので、線路撤去作業は、残された21号と24号、2両で行われました。そして終了後は人知れず消えていき、解体されてしまいました。


このように13号機関車は、ある意味 “強運” の持ち主だったのかもしれません。

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そしてこれが13号 。 蒸し暑い真夏の午後の上州三原。
           1961(昭和36)年8月4日 撮影:田中一水


ただ、わたし個人的な好みを言わせて頂けば、どうもあの “正面2枚窓” の表情というのが魅力的でありません。また、番号の車体表記も他の機関車が全てローマン体なのに、この13号だけは何故か無味乾燥な丸ゴシック体です。そんな唯一の “変形機” ではあるのですが、わたしは他の番号(15とか17、その次に24)の方が好きです。 (つづく)

〈鉄道青年〉 


草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(3)

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上州三原            1962(昭和37)年3月27日 撮影:花上嘉成


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1962327日(1)

 
大雪に見舞われた鉄道運行終了の日からほぼ2ヶ月、1962(昭和37)年3月27(火曜日)、上州三原駅に於いて、“草軽電車謝恩会” が盛大にとり行われました。

これは草軽電鉄全線の廃止を記念してのセレモニーで、多くのマニアによってこの日の模様は記録されています。

しかし、です。

そのように今でも広く知られ、写真も多く残されているこの式典ですが、こと車両、列車の動き、という面を知りたいと思うと、そこには実は多くの謎があるのです。


まず、この日の上州三原駅の様子をみてみましょう。

信濃毎日新聞、4月30日の臨場感あふれる記事を一部引用します。タイトルは、
『 “蛍の光” に送られて  さようなら、草軽電車』です。


『~ 長い間大きな恩恵に浴した軽井沢、長野原、草津、嬬恋の4町村はここに「草軽電車謝恩会」を開くことになり、27日午前11時20分から上州三原駅構内で関係諸機関200名が参列して盛大に開催された。

まず司会者側佐藤軽井沢町長、桜井武長野原町長、黒岩為五郎嬬恋村長、山本護草津町長らが立って思い出と感謝の言葉を述べ、司会者から高木時雄草軽社長に感謝状と記念品が贈られた。(中略)

会場である駅ホームには、今日を限りの“かぶとむし電車”が角をつけた機関車に2両の客車を連結し、万国旗と美しいモールで全身を飾っていた。午後0時10分、50年間の功績を讃える同電鉄の機関車と生活をともにして来たベテラン運転士、丸山利一郎さんと車掌の山口純夫さん、深井三原駅長に対し花束が贈呈され会場は拍手にどよめいた。

かくて今を最後、名残の電車運転は午後0時20分、数百名の投げる5色のテープとともに静かに動き出した。これと同時に地元嬬恋村、東、西両中学生の奏でる “蛍の光” のブラスバンドに送られて電車は再び動かざる車庫に重々しい姿を淋しく消して行った。(中略)

草津町はこの機関車と客貨車各1両を同電鉄から寄贈を受け、永遠に保存、その功績を讃えることにした…。』


大雪に見舞われた1月31日の鉄道運行終了の日からほぼ2ヶ月、この日はたいへんによく晴れわたり、記事のような盛大な式典は、平日にも関わらず駆けつけたマニアはもとより、職員、地元の人々の心にも草軽の記憶を大きく残したのでした。

余談ですが、軌道の撤去作業が始まるこの翌日から、天候は再び悪化して数日間は雪に見舞われました。


○ 謎1:“お別れ電車” はどこまで行ったか

先述の新聞の記事では、お別れの電車は、“0時20分に発車…”、と記述されています。

このデキ13、ホハ32、ホハ30、の編成の列車は多く記録が残されています。ただ問題は、これがそのまま終点草津温泉まで行ったのか、ということです。

わたしは長いこと、この編成が “草軽の最終列車” だと疑っていませんでした。しかし、ある時不自然なことに気付いたのです。それは、最後に運転された列車とこの列車では、“編成が違う” のです。

そのことは後におはなしします。


さて、新聞に記述された、午後0時20分に上州三原を出た列車ですが、残された写真から判断して、これはとなりの東三原まで行って、そのまま上州三原まで戻ってきたものです。このことは先の丸山運転士の証言がとれています。つまり、11時20分に始まった記念式典の行事として、列席した来賓を乗せて東三原までの700mを往復したのです。

東三原といえばスイッチバックで有名なところなのですが、果たしてこの列車がスイッチバックを登ったかどうかはわかりません。1枚も写真を見たことがないので、恐らくはスイッチバックの手前までしか行かなかったのでしょう。

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東三原を登る “お別れ” 列車 デキ13、ホハ32、ホハ30
                1962(昭和37)年3月27日 撮影:花上嘉成 


○ 謎2:もう1本運転された知られざる列車

はなしは前後するのですが、1月31日からこの日、3月27日までの、“空白の” 2ヶ月のことを思い出してください。

1月31日、そしてこの3月27日とも機関車に乗っていた運転士、丸山利一郎さんの証言から、この2ヶ月間、全線を通じて電車の運行はなかった、のだそうです。つまり線路をはじめ、各施設は文字通り雪に埋もれていたわけです。架線に通電すれば走れるとはいえ、もともと充分に手入れはされていない線路です。そこに列車がいきなり走る、というのは、ちょっと納得がいきません。

その疑問に答えるヒントとなる写真が、現在東武博物館の館長である花上嘉成さんによって撮影されています。

花上-6
      東三原・上州三原   1962(昭和37)年3月27日 撮影:花上嘉成


24号機関車が “チト” 1両を引いて、東三原からの急勾配を下ってきます。ぱっと見、別になんともない草軽の列車写真、ともいえますが、実はこれが “空白の2ヶ月” の後、最初に運転された列車だと思われるのです。

つまり、最後の記念列車を終点草津温泉まで通すために、あらかじめ全線の “下見” をしてきたのがこの列車だったのではないか、ということです。その部分の証言は得られておらず、また時系列的に列車の順序がわかるネガを見たこともないので、あくまでもこれは “推測” です。しかし、式典中の上州三原構内には、どの写真を見ても24号機関車の姿は見られません。

また、不思議なことですが、“草軽の最終日に運転されたもう1本の列車” の可能性が高いにも関わらず、少なくともわたしは他に写真を見たことがありません。




こうして、“最後の” 乗車も大盛況のうちに終わり、13号機関車と客車2両の編成は上州三原まで帰ってきました。

お客をおろした列車は、一旦引き上げて側線に入りました。来賓達は皆帰っていき、地元の人々も三々五々家に帰りました。盛り上がっていたマニアたちも帰りのバスの時間があり、多くはそのまま帰っていきました。

上州三原駅構内は急に静かになってしまいました。
そして式典が終わるのを待ってくれていたかのように、にわかに空には雲が広がり、時々小雪がちらちらと舞うような天気になりました。3月末とはいえ、一旦日が陰ると急激に気温は下がります。構内を見渡しても、もう何人もマニアの姿はみられません。

やがて、停車していた13号機関車には再び丸山運転士が乗り込み、入替えが始まりました。機関車、客車の飾り付けはそのままに、ホハ30をはずして代わりに無蓋貨車ホト115をつなげた機関車、貨車、客車、の編成が静かにホームに横付けされました。

この列車こそ、本当に最後の列車、再びこの場所にもどってはこない、草軽の最終列車だったのです。 (つづく)

〈鉄道青年〉 


草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー (補遺)

1962131日。

この日、大雪の中に大幅に運行が乱れ、そのまま列車の運行を終えたところまでをおはなししました。
その後、2ヶ月たった3月27日に廃止の記念式典が行われるのは、比較的知られたはなしなのですが、考えてみると、この空白の2ヶ月というのはすごく不自然です。なぜ、運行を止めた日、あるいはその翌日にそれを行わなかったのでしょうか。細かいことかもしれませんが、わたしはずっと気になっていました。


それを裏付ける明確な資料、証言はまだ得ておりませんが、恐らくは1月31日の時点での記念式典の予定はなかった、と思います。

根拠としては、鉄道の廃止に先立ち、草軽電鉄の高木時雄社長の名前での廃止挨拶文を、新聞折込のかたちで沿線住民に伝えた、ということがひとつ。

もう一つは、2月4日になって、廃止記念式典の “打ち合わせ” が、草津温泉の大東館で行われた、という資料を見かけたからです。


しかしいずれにしても、この “空白の” 2ヶ月間を説明することはできません。また、3月27日の式典では、列車を全線に運転しています。それは、鉄道関係の職員がまだ “待機” していた、ということに他なりません。もちろん会社側は、労働組合側との約束で、退職する社員の再就職先あっせんを行っていました。鉄道関係の職員は最終的に25名、そのうち17名が退職、残り8名が草軽内の自動車部門に転換されたそうです。しかしわたしの知る限り、3月27日に残っていた電車運転士は退職組の方でした。

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“昭和37年1月31日” の日付で、新聞折込みで沿線に配られた挨拶状。
(提供:草軽交通株式会社)
 


もうひとつ、

この記事の最初で、昭和35年の軽井沢方部分廃止後は、“貨物列車の運転もなく…”、と書いたのですが、驚くべきことに、最後のダイヤ改正である昭和36年10月1日のものを見ても、1往復の貨物列車の設定が残っているのです。
事実、草軽には最後まで4軸貨車・ボギー貨車が複数在籍していましたし、終点の草津温泉駅に貨車が留置されている写真も見たことがあります。


しかし、草軽の貨物輸送の柱であった精製硫黄の輸送も既になく、貨車を用意しなければならないほど大きな荷物が出てきたときには、草軽の基本である “混合” にすればいいわけです。また、部分廃止後の “貨物列車” の写真は1枚も見たことがありません。このことからも、やはり “貨物列車の運転もなく…” の表現は、恐らく間違ってはいない、と考えています。 (つづく)

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昭和36年10月1日改正の列車ダイヤ(一部)。8:00ちょうどに上州三原を出て、
9:17に草津温泉着。もどりは10:10発で上州三原着11:21のスジが貨物列車の設定。
(提供:草軽交通株式会社)

〈鉄道青年〉
 

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