火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

浅間模型、はじめます!

プレート

わたしの手元にこのようなプレートがあります。
25才のとき、銀座の伊東屋で製作したものです。

当時わたしは、大学は出たものの、教員を目指しては挫折して、デザイナーを目指しては挫折して、エディターとかになったものの、その仕事の過酷さに、逃げるようにしてやめてしまったり…、と、とにかく全く地に足がついていない生活を送っていました。そのくせ、真っ当に社会人としての地盤を堅実に固めて、自信をと誇りを持って生活している自分と同年代の人たちに、激しい劣等感を持っていたのです。
このように、その頃のわたしの生活は矛盾に満ちた、正に体のよいPU太郎でしかなかったのです。

こんな生活をいつまでもしているわけにないかない…。
わたしにも少しは向上心があったとみえて、その後一応 “ちゃんとした会社” に就職して真面目に働こう、と考えたのでした。
そして、そこで頂いた初めての夏のボーナスで、このプレートを作ったのです。
そこは、別に鉄道模型と関係のある仕事だったわけでは全然ないのです。では何故、このようなものを作ろうと考えたのでしょうか。
当時の気持ちを一生懸命思い出してみれば、それはようするに、“夢を忘れないように” ということだったのだと思います。

この当時から模型の工作はしていましたし、もちろん “就職先” として、その世界も視野にはいれていました。でも現実はそれほど甘くはなかったのですね。
それに、“鉄道模型屋(メーカー)を始める” などというには、それこそ億単位の資金と、業界の強力なコネを構築していなけばならない、と当時は信じていて、そのようなこと到底自分には敵わない、関係を持ちたくても全く無関係な世界だ、と諦めていたのです。
でも趣味で工作は続けていても、せめてそんな気持ちだけは忘れずにいたい、なんてカッコつけて言えばそうなのですが、優柔不断な生き方に戻ってしまいそうな時の “戒め” のつもりでもあったのです。
だから、作ったことを忘れないように、たとえ高額ではあっても、伊東屋で作ることに意味があった、というわけです。

屋号の “浅間模型” ですが、これはもうこれしかありませんでした。特に理由はありません。
軽井沢、という言葉がありますが、バブル景気絶頂のこの時期、当の軽井沢にはいくつものタレントショップが立ち並んで、不自然極まりない雰囲気でした。草軽電鉄が存在した浅間高原、軽井沢に憧れたいたわたしとしては、そこは到底親しめる街並みではなかったのです。
でもやはり、“草軽” の名称の片方を担った地名であることには変わりありません。そこに入れる地名は軽井沢しかなかったのです。


さて、それから早いものでもう30年が経ってしました。
54才の現在、模型関係のイベント等に参加させて頂くようになり、若い頃は色々な意味で “エラい人たちの世界” だった鉄道模型の世界も、気分的に少しづつ親しみのあるものにかわってきました。そして思い出したのが、件のプレートでした。

それまで特に思い出すことのなかったものでしたが、探したらすぐに出てきました。やはり無意識のうちにずっと手元に置いておいたようです。
それを見ながら、“ダメもとでいいから、ちょっとやってみよう…“、という危険な考えがむくむくと大きくなったのでした。
そういえば、このブログの最初の回を見返してみれば、草軽の模型のことを書いているのですね。

幸い、城東電軌の鵜藤様の全面的な協力とアドバイスを得ることができ、現在製品を開発中です。
自分がこれまで感じてきた、“こうすればもっとつくりやすいのに…”、“こうすればもっと雰囲気がよくなるのに…”、といった経験と想いを込めています。

では、何がでてくるのか!?
次回発表いたします。


〈鉄道青年〉 


ホヘ19(4)

病客車 ホヘ19は、貨車コワフ43の改造で、昭和2年10月に竣工しました。
この特殊用途の客車が、一体どのような形態をしていたか…、

本当に幸いなことに、戦前草軽で残した “車両竣工図表” (のマニアによるトレース)にその記述があります。簡単な図面ではありますが、これが現在に至るまで、この客車を知りうる唯一の公式の資料になっています。

ホヘ
 草津電気鉄道  ホヘ19型                     作図:川村きよし


図面は、そこから川村きよしさんにおこしていただきました。これにより、一層具体的にその姿をイメージすることができます。
種車が貨車だけあって、全体が客車としては無骨な雰囲気です。車体中央に設置された大型の1枚引き戸は車体表面よりもかなり奥まっていて、一層その雰囲気を強くしています。
登場したのが電化後の昭和2年なので、屋根にはランプ入れは見られませんが、明治・大正の雰囲気を強く残す、トルベード型ベンチレータが並んだ四角い3個の箱は健在です。
自重5トン、定員20名の室内は図のように、ベンチ状の長椅子が配置され、ベッドの役割も果たしていたのではないでしょうか。
片側に6個並んだ窓は小型で、それぞれにはカーテンが付いていた、ということです。

車内
            “車両竣工図表”  草津電気鉄道 / 奥野 利夫 トレース より


運行は、これまでのおはなしで述べた通りなのですが、果たして実際はどうだったのか、本当に新軽井沢と草津温泉駅には行っていなかったのか、プラン通り月6回運転されたのかなど、もはや証言を得る手段はなく、真実が明らかになることもないのでしょう。

ただ、その在籍期間はそれほど長くはありませんでした。竣工してから8年目、昭和10年12月31日に廃車になっています。
他の車両に比べて、使用頻度は低かったに違いないですし、前述の通り鶴溜では専用の車庫を用意していたのですから、それほど早くは痛まないとも思われます。あるいは、そこにはなんらかの社会的な雰囲気、背景があったのかもしれません。


昭和13年6月12日付の“停車場設備変更届” には、次のような記述が見られます。
曰く、
“本停車場(鶴溜)構内の病客車庫は、永年の使用によって腐朽甚だしく、これ以上置いておくことができません。よって、これを撤去した上で配線の一部を取り外して、新軽井沢停車場の客車庫線に充当したいと思います。”

廃車となったホヘ19は、どうなったのでしょうか?。
これがまた改造を受けて、貨車にもどっているのです。前回コワフ30のところでもおはなししたように、この形式からは、すでに3台が無蓋貨車に改造されて、ホト80~82となっていました。ホヘ19は、昭和14年4月30日の竣工で、連番の “ホト83” となったのです。

このホト80型 ホト83が、いつ廃車になったのかは残念ながら資料を見たことがなく不明です。
写真も1枚も残されてはいません。わたしの予想ですが、戦時中まで使用された後に、他の大型貨車の大量増備の中で使用中止となって、そのまま廃車になったのではないでしょうか。

こうして、貨車として生まれ病客車となり、さらに貨車にもどる、という数奇な運命を辿った1台の車両は、その存在を顧みられることもなく、歴史の闇の中に埋もれてしまったのでした。

関田さん1
                            絵はがき所蔵:関田克孝
最後にこの写真をご紹介しましょう。
これは終点草津温泉駅の光景です。バラストの様子などから、大正15年の開業直後の様子と思われます。背後の機関車ごと格納できる、背の高い車庫の造りも興味深いです。機関車もまた、中津川発電所工事軌道からやってきて間もない、“原型”の姿です。乗務員の扉は、後の引き戸とは違って開き戸です。開いた状態で固定できるようになっていて、そこにも番号の表記が表されていたことが明らかになります。
しかしそのようなことよりも、さらにわたしの心を熱くするのは機関車の後ろに連結された貨車の姿です。この当時の絵はがきにしては、珍しく車両番号が明瞭に確認できます。そこに表記された番号は、そう、“コワフ43”。

関田さん2
 
コワフ43は、昭和2年にホヘ19に改造されたのですから、本当にこれはその直前の姿、ということになります。そして、前述の通り、後年ホヘ19から改造されたホト83の写真も確認されていません。つまり、この絵はがきの中のコワフ43が、この記事の主題である、“ハンセン氏病患者輸送用客車” ホヘ19型に関する車両の、残された本当に唯一の写真、ということになるのです。                                                    (おわり)

〈鉄道青年〉 


ホヘ19(3)

ハンセン氏病患者輸送用専用客車、ホヘ19型が製作されたいきさつは、前回までおはなしいたしましたので、実際これはどのような車両だったのか、をみていきましょう。
まず 19、という数字ですが、1924(大正13)年の形式改定により、ホロハ10からホハニ18までが在籍していたので、1両だけ特別な番号とはせずにその連番としています。
ちなみに、病客車を示す形式表記の “へ” ですが、疾病の “ぺ” とか、負傷した兵隊の “へ” とか、HELPの “へ” など、諸説あるそうです。

これは新車として製造されたわけではなく、コワフ30型(コワフ43)という有蓋ボギー貨車からの改造でした。
改造工事は “原田製作所”、という工場でされています。これは、既存のホハニ17・18(ワールド工芸の製品で有名)が、同じ工場でやはり貨車から改造されている実績があったためではないでしょうか。
昭和2年8月4日に認可申請、同年10月31日に竣工届が出されています。

認可申請の理由書には、
“草津町の一部の悪性皮膚病患者(癩病)の輸送のために、草津町と群馬県当局者間の協定に伴い、病車を以って毎年11月1日より翌年4月30日までの6ヶ月間において、毎月1・6に1回運転することに決定されたので、これに使用する病車が必要です。”

とあり、併せてこの“病車”を留置する鶴溜駅構内の設計変更の認可申請もなされています。
“病客車製作に伴い、その格納庫及び待合室、消毒係員詰所の設備を鶴溜停車場内の空地を利用して建設したいと思います。この地点は沓掛方面からの便も多く、病者の乗車には最も好適地につき、ここに建設することが内定しました。”

草軽が現役時の写真を見るとわかるのですが、廃線になるまで鶴溜駅構内はスイッチバックのような線路配置になっていました。これは、急坂の途中に駅を設置するため、という本来の目的のためではなさそうで、上記の文書の通り、ホヘ19型を留置していた側線の名残りだったのではないでしょうか。



さて、ホヘ19は有蓋ボギー貨車、コワフ30型を改造した車両です。
しかし、このコワフ30型という貨車はどういうわけか、 “草軽電気鉄道”(プレスアイゼンバーン:1981)をはじめ、これまでほとんど解説されたことがありません。古い記事の断片的な紹介も間違っている記述があるので、ホヘ19のおはなしの前に、まず種車となったコワフ30型とはどのような車両だったのか、をみてみたいと思います。

● コワフ30
日本車輌製、7t 積 有蓋ボギー貨車。
旧番コワフ1~12の12両が、草軽がまだ電化する前の1923(大正12)年12月に竣工しました。その後、1925(大正14)年5月の認可で13・14が増備され、全部で14両が揃いました。地方の軽便鉄道でありながら、このように多くの大型貨車を増備した理由は、言うまでもなく吾妻川電力株式会社による沿線の発電所建設工事の資材運搬のためでした。

解放

図面の通り、最初は車掌室は設けられておらず、片側がオープンデッキの形態でした。
ただこれだと、“ワフ9”のところでおはなししたように、浅間高原の厳しい気候の中に、車掌は乗務中絶えず外気に吹きさらされることになります。夏季はまだいいとしても厳冬期になれば、それは大げさでなく命に関わる問題となりました。
そこで、竣工から間もない大正14年の暮れになって最初の12両に、1年後の大正15年の暮れには増備の2両にも密閉型の車掌室設置され、14両全てにこの改造がなされました。

密閉
                         図面:川村きよし(2枚共)

またこの間、大正13年には在籍車両の全面的な形式改定が行われ、コワフ1~14は、新形式コワフ30~43となりました。
車掌室設置後は図面のような姿になったわけですが、こういってはなんですが、特に特徴のある車両ではありませんね。

このうち、昭和2年にコワフ43が本題であるホヘ19に改造されたのをはじめ、昭和10年代初頭には、コワフ38・37・30が、それぞれ無蓋車ホト80・81・82に改造されています。
これらがどの時期に廃車になったのかはわかっていないのですが、少なくとも昭和20年代後半までには全車とも廃車になっているようです。
 

コワフ30
廃車後、新軽井沢駅構内で倉庫として使用されたコワフ30型(番号不詳)
            新軽井沢  1961(昭和36) 年8月  撮影:田中一水


戦後まで働いた、とはいえ早い時期に消えてしまった車両なので、残されている写真は本当に少ないです。ただ廃車後、(恐らく)4両が台車を外されて新軽井沢駅構内に倉庫として利用されていました。そして草軽が廃止になった後も、これだけはかなり後まで残っていたようです。                   (つづく)

〈鉄道青年〉 

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