草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

15:00  鶴溜にて

先日、ヤフオクにて1枚の写真を入手しました。
この写真がそれですが、原盤は35㎜のカラーポジです。経年を考えればよい状態にあるといえるのですが、その分えらく高額になっちゃいました(!)。
そんな感じで、せっかく縁あってわたしのところにきた素晴らしい写真ですので、是非みなさまにもお目にかけることにしましょう。

撮影された方は不詳ですが、マウントにはしっかり撮影データが書いてありました。
昭和34年8月30日  鶴溜 15:00 晴。

鶴溜 S34.8.30(修正3)
 鶴溜(つるだまり)   昭和34(1959)年8月30日  撮影者不詳

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8月30日
ご周知の通り、草軽の軽井沢方部分廃止を最終的に決定するきっかけになったのが、吾妻川にかかる上州三原の鉄橋が台風による増水によって流失してしまったことでした。それは昭和34年8月14日の出来事です。つまり、この日付は事故から半月、まだその恐怖の記憶も生々しい時のもの、ということになります(鉄橋の流失のことはこちらをご覧ください)。
台風の被害はこれにとどまらず、軽井沢のバス車庫の全壊、路盤の流失、架線柱の倒壊等、甚大なものでした。
『草軽あのころ』広田尚敬(鉄道写真 1998:ネコパブリッシング)では、事後直後に1週間をおいて2度訪ねた記事があるのですが、8月26日の段階でも、まだ小瀬温泉までしか再開できていなかったようです。ですのでこの写真の時も、恐らくまだ流失した鉄橋手前の嬬恋までは復旧していなかった、と推測されます。

ところが、この写真をいくら見ていても、そんな緊迫した雰囲気は全く伝わってきません。
この時点で、その存続がすでに命脈尽きた、といえる鉄道でしたが、晩夏の夏の午後の強い日差しに浮かんだ構内は、静かで長閑な空気です。

撮影データを見るまでもなく、これは鶴溜駅の光景です。
画面奥が新軽井沢方向。撮影者の後ろにホームと駅舎がありました。電車が停まっているのはスイッチバックになった待避線です。写真に見える転轍機の、まさに隣に40パーミルを示す勾配標がありますね。草軽の厳しい線形を物語っています。
背後の山は離山(はなれやま)、軽井沢はこの山の左手奥方向です。登ってくる線路はこの山の手前の裾野を180以上のカーブで回り込んできて、画面奥に写っている地点に至ります。(このあたりの線形についてはこちらをご覧ください)

1957 夏季時刻表
昭和34年  夏季時刻表

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鶴溜  15:00
ここに、ちょうどこの写真の時期の、昭和34年夏季時刻表がありますのでお目にかけましょう。
草軽では、毎年7月15日から8月31日まで、夏季ダイヤを実施していました。通常ダイヤと異なる点は、三笠・鶴溜・北軽井沢までのそれぞれ区間運転を実施して、さらに、新軽・旧軽間のシャトル運転も増便されています。
それらの臨時列車は主に、当時2台草軽に残っていた電動客車(モハ100型)によって運用されていました。普段は旧軽井沢までの短い区間を行ったり来たりの、ぱっとしない運用に甘んじた電動客車も、この時期ばかりはデキの引く列車に伍して、高原風景の中を遠征していたのでした。

さて、そのようなおはなしを頭に、この写真をもう一度見てみましょう。
ここからちょっと想像力を働かせれば、夏の午後の鶴溜駅の、生き生きとした光景をイメージすることもできるでしょう。
もちろん前述の通り、台風被害によって、列車の運行はまだ乱れていた時期だったかもしれません。
しかし、ここではこの時刻表通りの運行を念頭において、考察をしてみたいと思います。

まず、写真に写っているモハ102、
駅のホームではなく、客扱いを終えて退避線に入っていますので、いうまでもなく鶴溜折り返しの列車、ということになります。
時刻表を見て下さい。新軽井沢発14:28、鶴溜着14:47の列車がありますので、撮影データからも、これは間違いなくこの運用に入った電車です。
新軽井沢から6㎞強、駅にして3区間、三笠からは急勾配とカーブの連続です。ここを20分足らずで走ってしまうのですから、これはなかなかのスピードです。
そして到着後、わざわざ退避線に入れている、ということから、この後何らかの列車が来る、という状況がわかります。そして単に下り列車が来る、というだけだったら、モハ102はそのまま上りホームにつけておけばよいので、上り線を空ける必要があったわけです。これはひょっとして列車交換があるのかもしれません。

そう思って、もう一度時刻表を見てみましょう。
ありますね。
15:04の上り、及び15:05の下り草津温泉行 混合9レがここ鶴溜で交換することがわかります。
そして前者の上り新軽井沢行 (臨時306レ)は、よく見ると北軽井沢が始発です。これは夏季ダイヤ中、やはりモハ100型によって運転された、いわゆる “北軽往復” 運用でした。
つまり15時過ぎ、鶴溜駅では2両のモハ100型とデキの引く混合の、3本の列車が顔をあわせていました。

写真のモハ102による鶴溜往復の鶴溜発車は15:30になっていますが、さらに発車までに、時刻表にはない列車がもう1本やってくるのです。
上記の列車交換の後、退避線に入っていた写真のモハ102は上りホームへ移動して、果たしていたのかどうかはわかりませんが、お客を乗せます。そこに、離山の大オメガカーブをフランジを軋ませながら登ってくるのが、新軽井沢を15時過ぎに発車する貨物63レでした。
この63レの鶴溜発車は15:27でしたので、この列車との行き違いをもって、新軽井沢へと戻っていくのです。

まとめてみましょう。
写真の電車が鶴溜に到着するのが14:47。15時過ぎにはそこで2本の列車が交換、さらに20分ほどして、下りの貨物が対向します。つまり、このおよそ周囲に人気のない山間の駅で、わずか40分ほどの間に、軽便の列車が4本行き交うわけです。



8月も終わり、高原に吹く風はすでに秋の気配を運んでいます。
電車が出て行った後、駅はまた静けさに包まれて、夏も終わりとはいえ夕方の強い斜光線に照らされた山々の風景は、次第に秋色に染まっていくようでした…。

いやぁ! 草軽って、ホンっとにいいもんですね…。
そしてこんな風に、好き勝手に語ることができる幸せをつくづく噛み締めます。

〈鉄道青年〉 

田端久道が残した1948年の光景(4)

〈国境平の少年〉

わたしはこの少年に、勝手に “ヒロシ君” という名前を付けました。
このヒロシ君がこの時6歳だったとすれば、彼は現在76歳、ということになります。
 

P8041373使用
国境平        1948 (昭和23) 年8月31日  撮影:田端久道:以下同じ
 

最初にこれらの写真を見せていただいたとき、ヒロシ君は撮影者である田端久道さんのご子息だと思ったのですが、違うそうです。単に、草津温泉から軽井沢へ帰る草軽電鉄の電車で一緒になっただけのことだったようです。
でも、その割には写真が多いので、あるいは年齢を超えて(?) 意気投合して友達になった、のかもしれませんね。

さて、田端さんとヒロシ君は、前回ご紹介した草津温泉駅での写真に写っているどれかの列車に乗って、新軽井沢へ向かいました。
この日も天気はよく、北軽井沢、スイッチバックの二度上を過ぎて、明るい晩夏の高原の急坂を順調に登っていきます。
そして停車したのはサミットの国境平駅。文字通り、群馬県と長野県の県境地点にあるこの駅までくれば、あとは軽井沢へ向けての下り坂、およそ1時間の行程です。
車内は結構混んでいて、座れない乗客もいたのですが、停車した客車の中は静かで、皆声を低くして話しています。何人かはホームへ降りて行って周囲の景色を楽しんでいました。列車はなかなか発車しません。
そのうちに、どうやらこの先で列車が脱線したので発車ができない、ということが伝わってきました。列車はここで足止めをくらってしまったようなのです。
でもここは何もない山の中。そういわれてもどうすることもできず、乗客は皆おとなしく待っていました。
そんな時、“時間もあるし写真でも撮ろうよ…”、と田端さんはヒロシ君をつれてホームに降りました…。

P8041387使用

P8041376使用

ここではわたしたちも、草軽に乗った70年前の日本人の気持ちになって(イメージして)このなすすべもない時間を楽しんでみたいものです。
まず、事故に見舞われたのは、ヒロシ君たちが乗った列車ではなさそうです。恐らくはこの先で、対向する下りか、先行する貨物列車かが、何らかの支障を起こしたのでしょう。そして、国境平で停車している、ということは、ひとつ先の長日向(ながひなた)までのどこかが現場だったと思われます。

ヒロシ君たちが乗ってきた客車はホハ30型です。
始発の草津温泉では付いていなかった貨車はワフ9型(この車両のはなしはこちら)で、ナンバーは“11”と読めます。オープンデッキの2軸有蓋車です。
この貨車の妻面に、この前に付いているべき機関車の影が見当たらないことから、この写真が撮影された時、それは付いていなかったのではないでしょうか。恐らくですが、この先に脱線した列車があったとすれば、機関車だけで救援に向かった、ということが考えられます。
駅で待っている乗客は、機関車の付いていない列車がこの先動くことは考えられないので、ひたすら待っているしかなかたのでしょう。

別の写真には、1匹のかわいいヤギが写っていました。
駅で飼っていたものでしょうか。列車が動かず人がたくさんいるものだから、嬉しくて走り回っていたのかもしれません。静かな高原風景の中に、のどかな鳴き声が聞こえていたのでしょう。

image001
 国境平駅のヤギ、ユキちゃん。

さて、ようやく救援にいった機関車が帰ってきて現場の様子がわかりました。

思ったよりも状況は悪く、復旧の見込みはしばらく立ちそうもありません。“申し訳ないが、となりの長日向まで歩いていってほしい”、と駅長は言いました。
待ちくたびれた乗客はみな、“やれやれ” と、仕方なく荷物を持って線路上を歩きはじめました。
途中、脱線した列車の横を通りましたが、1両の貨車が完全に脱線して傾いていますし、その部分の線路は外れて倒れてしまっています。これでは復旧には時間がかかるでしょう。


P8041386使用
 国境平・長日向


貨車の横を歩いていく人の一番後は、先ほど国境平でスナップした女性でしょう。その前にはけなげに歩いていくヒロシ君のが見えます。赤ん坊を背負っているのはお母さんでしょうか。
一方、列車のスタッフといえば、もうなすすべもなく救援を待つしかない、といったお手上げの雰囲気ですね。傾いた側に座っている人がいますが、危なくはないのでしょうか?。
脱線した貨車はコワフ100型、その前につながっているのはコワフ30型(この車両のはなしはこちら)、共に有蓋ボギー貨車です。

この後、田端さんとヒロシ君は、国鉄軽井沢駅前で撮った写真がありましたので、無事に新軽井沢まで帰ることができたのでしょう。


1948 (昭和23) 年夏の草津温泉への旅行はこれで終わりです。
記録のあまり残されていない時代の光景ですので、それだけでも充分に貴重ではありますが、知識の上でしかないこの時代、そこに生きた日本人の、人それぞれ苦労は抱えながらも、明るく生きていた姿を感じて、わたしは何か元気をもらったような気がしました。
これらはマニアが撮影した電車の写真、では決してないのですが、どれも心に焼き付けておきたい宝物のような光景です。 

最後にこの写真を見せて頂き、紹介することを快諾して頂いた、ご子息の田端秀行さんに心からの感謝を申し上げます。  (おわり) 

〈鉄道青年〉 (協力:田端秀行)

20180530 kusakaru-3 mini
 

田端久道が残した1948年の光景(3)

〈草津女子〉
8月29日に草津入りした田端久道さんは、2日後の31日、来た時と同じく草軽電鉄に乗って軽井沢へ戻っています。
今回はその帰京の朝、電車に乗るまでに田端さんが草津温泉駅でスナップされた写真をお目にかけましょう。
 

P8041389(使用-1)
草軽電鉄  草津温泉駅  1948 (昭和23) 年8月31日 撮影:田端久道(以下全て)

 

ここに写っている方々と、田端さんの関係はわかりませんが、田端秀行さんの説明によれば、乗客か付近の人かはわかりませんが、恐らくは地元の人たちをスナップしたものではないか、ということです。

それにしても、モデルになった人達の表情のよさといったらありません。
どういうわけか、少し歳を重ねた女性がほとんどですが、カメラを向けられてちょっと照れている表情など、まるで少女のように初々しいではありませんか。
そしてこの人達の表情が、撮影者である田端さんのおおらかな人柄をなによりも語っています。

最初に揚げた写真でもわかりますが、この時の田端さんは、白のスーツに白い帽子、たいへんおしゃれな避暑地スタイルです。ここに写っている人達の格好と比べると、それはある意味この時代の社会の階層を示すようにも感じられます。
しかし、そんなことは一切気にしない田端さんの姿勢とともに、これらの写真からは、長い戦争の時代を耐えた地方の一般庶民の、よくはわからないけどきっとこれから新しい時代がはじまるのだ、という希望の明るさを感じずにはいられません。

P8041369(使用)

P8041366(使用)

P8041367(使用)

P8041368(使用)

P8041375(使用)



写っている車両の解説も少しはしましょう(させてください)。
まず、撮影者の田端さんが写っている写真(再掲)。

P8041363(使用)
 
これはいうまでもなく、新駅での撮影で、移転後まだ4年ほどしか経っていないので、設備はまだばりっとしています。扉もない、大きく開いた駅本屋の中は待合室のようですが、後年ここの部分は便所になっています。

右に写っているのは電動客車モハ102です。戦時中に5両が製造されたモハ100型は、この時点では全車がまだ売却されずに草軽に揃っていました。当時の塗色は “くすんだグリーンにくすんだ黄色” 、だったということです。戸袋部分の窓は、依然板張りのままですね。

この当時の時刻表をまだ見たことがないので、これが臨時なのか定期なのかは不明ですが、電動客車が、終点の草津温泉まで入っていた、という証拠の写真になります。
奥のホームにはデキがホハ30型と共に停車しています。このデキは、パンタのやぐらの形状から、昭和9年以降に増備されたグループ(21~24)のうちの1両と判断できます。

写真の中には、電動客車が入っていた線に、デキの列車が入っているものもあります。先の電動客車の写真とは、残念ながらその前後関係は不明なのですが、この列車の到着を待って、奥の線の列車が発車したのかもしれません。
機関車は19号で、すでに抵抗器を増設して、機械室が延長されている晩年と同じ姿です。
それにしても、ホーム上の台車に積まれた手荷物の多さには驚きます。一体これをどこに積んでいったのでしょうね。
またほとんどの写真で、“なんか楽しそうなことやってるなあ…” と、ホームから羨ましそうにカメラの方を見ている駅員の姿も微笑ましいです。


P8041363(少年)
この写真の中央部分を拡大したものがこれです。そこには5〜6才とおぼしき一人の少年が写っていました。
次回、この少年が主人公です。  (つづく)

〈鉄道青年〉 (協力:田端秀行)

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