草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

昭和35年4月24日

栗平 最終日
下り11列車       栗平  1960(昭和35)年4月24日  撮影:宮松丈夫

この写真、前回と同じくやはりヤフオクで入手した写真です。サービス版より少し小さいくらいのモノクロプリントでしたが、幸いそれほど高額にはなりませんでした。

 ⚫︎  昭和35年4月24日
今回は、この写真に写っている列車のこと、及びそれに付随する細かいこと、を考察してみたいと思います。

まず撮影された場所ですが、背後の風景や石積みのホームなど、間違いなく栗平(くりだいら:北軽井沢のひとつ軽井沢よりの駅)です。撮影者も表記はありませんでしたが、恐らくは宮松丈夫さんの写真だと思われます。そして写っている列車は、草津温泉行き直通の下りの最終である11列車です。
さらに、日付は昭和35年4月24日、草軽電鉄の新軽井沢・上州三原間が部分廃止になる日の撮影です。

つまりここに写っている20号機関車に引かれた11レは、草軽電鉄、新軽井沢・上州三原(嬬恋)間を走った最後の下り列車、なのです。


⚫︎ 
栗平 18:35(その1)
何故そう言い切れるのか、を解説しましょう。
まずはこの写真。

 鉄ピク 60.4
 草軽の部分廃止を伝える記事
           鉄道ピクトリアル 1960年6月号より

これは、草軽電鉄軽井沢方の部分廃止を伝える、“鉄道ピクトリアル” 1960年6月号の記事です。
撮影者は宮松丈夫さん、場所は栗平。キャプションにある通り下りの最終列車、11レで、駅に進入してくるところでしょう。11レの栗平発車は18:35です。4月の後半ですから、日もだいぶ伸びていて、空にはかろうじて明るさが残っています。宮松さんは列車の進入をフラッシュバルブを焚いて撮影し、停車後にホームに戻り、もう一発焚いてこの写真を撮影されたのではないでしょうか。

フラッシュバルブの強烈な光に浮かび上がった車両・施設の様子はどれもが疲弊していて、最終日だというのに何らの装飾もない光景と相まって、懐かしさや残念な気持ちを通り越して、何だか鬼気迫るものを感じるのはわたしだけでしょうか。
 

新軽井沢駅最後の記念写真
新軽井沢での記念写真                提供:草軽交通(株)

次にこの写真。
軽井沢方部分廃止については、当日が日曜日であったに関わらず、訪れたマニアはほとんどいなかったようです。また写真がないことに加えて、線路撤去作業も含めた公式な記録もほとんどなく、その実態は謎が多いのが実情なのです。
そんな中にあって、これは新軽井沢発17:00の下り最終、11レの発車を前に撮影された、駅員・乗務員・事務員による最終日の“オフィシャルな”写真で、本当に貴重なものです。背後には地元の方とおぼしき人も写っているので、それなりに最終日の盛り上がりはあったのでしょう。

さて、人物の後ろに写っている列車をみてみましょう。機関車の後はやたらでかい荷物を積んだ貨車、客車はホハ30型がついた編成です。これを最初の写真と比べてみれば、同じ列車であることがわかると思います。
ちなみに、わたしはこれが何番のデキか、ずっと気になっていたのですが、20番だったことが証明されました。

⚫︎  小代駅ではその時…
手元に1枚の古びた書類(複写したもの)があります。

これは小代 (こよ) 駅の運転日報、日付は昭和35年4月24日です。
当時この小代駅の駅長をされていた金井 実さん(軽井沢在住)がお手元に保管しているものを見せて頂きました。金井さんは、この部分廃止の日を境に鉄道部門を離れた方で、最終日の記念として大切に保管されていたものです。

小代駅運転報告
昭和35年4月24日、小代駅の運転日報             提供:金井 実
 

これを見ると、当たり前のことではありますが、最後の日ではあっても旅客(混合)は設定されている全ての列車が走っています。
1〜12の番号で6往復設定されているのが、新軽井沢・草津温泉直通の旅客(混合)列車です。
この表から、下り列車全てに4~10分の遅延が出ているのに対して、上り列車は全て定時に運行されていたことがわかります。これは、この当時吾妻川の鉄橋が流失したことによって、軽井沢側列車は嬬恋駅(小代の次)までの運転となり、そこから上州三原までは連絡バスで結ばれていました。つまり、上り列車はとなりの嬬恋駅が“始発”になっていたからでしょう。

写真の11レも5分の遅れを出しながらも19:12 に無事小代を発車しています。上り新軽井沢行きの最終12レは18:20、既に定時で発車していますので、この11レが本当に最後に見送った列車となりました。そして、次の嬬恋に到着して乗客が連絡バスに乗り換えた時点で(定時だと 19:20) 、新軽井沢・上州三原(嬬恋)間の下り列車の運行は全て終了となりました。

金井さんの奥様による、その時の証言があります。
“新聞社の人がきて、最後の列車を見送る場面の写真が撮りたいから、列車に向かって手を振ってほしい…”、というリクエストがあったのだそうです。たとえ “やらせ” であっても、その時の写真が残されているのならば、是非見てみたいものです。

⚫︎  栗平 18:35(その2)
 さて、旅客(混合)列車に対して、貨物列車の運行はどうだったでしょうか。

最初の写真にもどりましょう。
下り列車の対向には16号機関車が単機で停車しています。これは何の列車なのでしょう?。
もちろん単なる “機関車の回送” ではあるのですが、これを考察することによって、この謎の多い分廃止の日の様子が、ある程度わかってくるのです。

小代駅の運転日報を見てみると、列車番号2桁代の定期列車は全て“運休”になっていることがわかります。ちなみに、廃止間近な日付の写真を見ると、貨車をつけた混合列車のものは少ないので、この時点より以前から、貨物列車の運行はなかったのかもしれません。
そんな中にあって、上り列車の一番下に “502” という列車があり、運行されていたことがわかります。
この列車番号はダイヤ上には見当たりませんので、なんらかの “臨貨” だったのでしょうが、正確なことはわかりません。
いずれにしても、この “臨502レ” は27分の遅れをもって、夕闇迫る空の下、17:50に小代を発車しています。
そして、小代から北軽井沢を通って、栗平まではおよそ40分の行程、18:30前後には栗平に到着します。

そう思って再び最初の写真を見てみましょう。この下り11レの栗平発車は前述の通り18:35です。つまり、11レが栗平で対向しているのが他でもない、この臨502レだったのです。
草軽電鉄、新軽井沢・嬬恋間に、廃止前最後に運転された貨物列車、それは16号機関車の単機回送だった、ということがこの写真から証明されました。

⚫︎  この積荷は何?
もうひとつ、どうでもよいことかもしれませんが、触れさせて下さい。

それは写真に見える、貨車に積まれた巨大な2段ベッドのようなものは何なのか!?、ということです。

部分廃止の日の下り最終列車のシンボル、ともいえるこの積荷のことは、結構前から気になっていました。
そしてこれに対しても、上記の金井さんが明確な答えをくれました。
これは、“焼砂の貯蔵棚” なのだそうです。
つまり、線路上に撒く滑り止め用の砂のことで、この棚の上で乾燥させて、使用する際はそこから取り出して車両に積んでいた、のだそうです。

新軽井沢にあった車両整備工場は、廃止によって上州三原に移転しました。そのために、廃止当日まで使用した上で、最後の荷物として上州三原まで運ばれたのでしょう。
これがどのようなものだったか、簡単な図解を示します。

焼砂箱

⚫︎  上り最終12レ
一方、もうひとつの“最終列車”である、上り12レのことにも触れておきましょう。

この日の12レを運転したのは 井上 勇さん、という運転士でした。
12レの新軽井沢到着は 20:26、列車がホームに無事入ってくると、駅長をはじめ、多くの職員が拍手をもって出迎えてくれたのだそうです。
この列車の新軽井沢到着をもって、草軽電鉄 新軽井沢・上州三原間のすべての列車の運行は終了しました。(井上 勇さんのおはなしはこちらこちら


昭和37年1月、草軽が全廃になる際には、たいへん多くのマニアの方が訪れて、記録を残してくれました。またその後の撤去作業も、田中一水さんをはじめ、熱心な方々によって記録されています。
それに対して、軽井沢方に関しては、前述の通り、ほとんど記録が残されていないのです。
しかし、パズルのピースのように断片的に残された写真や資料から、その日、その時期の動きを推測できるのはありがたいことですし、何より楽しいことです。

〈鉄道青年〉 

※  これから本業の多忙期となりますので、しばらく更新はお休みいたします。
  みなさま、どうぞお忘れなきよう!。 

15:00  鶴溜にて

先日、ヤフオクにて1枚の写真を入手しました。
この写真がそれですが、原盤は35㎜のカラーポジです。経年を考えればよい状態にあるといえるのですが、その分えらく高額になっちゃいました(!)。
そんな感じで、せっかく縁あってわたしのところにきた素晴らしい写真ですので、是非みなさまにもお目にかけることにしましょう。

撮影された方は不詳ですが、マウントにはしっかり撮影データが書いてありました。
昭和34年8月30日  鶴溜 15:00 晴。

鶴溜 S34.8.30(修正3)
 鶴溜(つるだまり)   昭和34(1959)年8月30日  撮影者不詳

⚫︎
8月30日
ご周知の通り、草軽の軽井沢方部分廃止を最終的に決定するきっかけになったのが、吾妻川にかかる上州三原の鉄橋が台風による増水によって流失してしまったことでした。それは昭和34年8月14日の出来事です。つまり、この日付は事故から半月、まだその恐怖の記憶も生々しい時のもの、ということになります(鉄橋の流失のことはこちらをご覧ください)。
台風の被害はこれにとどまらず、軽井沢のバス車庫の全壊、路盤の流失、架線柱の倒壊等、甚大なものでした。
『草軽あのころ』広田尚敬(鉄道写真 1998:ネコパブリッシング)では、事後直後に1週間をおいて2度訪ねた記事があるのですが、8月26日の段階でも、まだ小瀬温泉までしか再開できていなかったようです。ですのでこの写真の時も、恐らくまだ流失した鉄橋手前の嬬恋までは復旧していなかった、と推測されます。

ところが、この写真をいくら見ていても、そんな緊迫した雰囲気は全く伝わってきません。
この時点で、その存続がすでに命脈尽きた、といえる鉄道でしたが、晩夏の夏の午後の強い日差しに浮かんだ構内は、静かで長閑な空気です。

撮影データを見るまでもなく、これは鶴溜駅の光景です。
画面奥が新軽井沢方向。撮影者の後ろにホームと駅舎がありました。電車が停まっているのはスイッチバックになった待避線です。写真に見える転轍機の、まさに隣に40パーミルを示す勾配標がありますね。草軽の厳しい線形を物語っています。
背後の山は離山(はなれやま)、軽井沢はこの山の左手奥方向です。登ってくる線路はこの山の手前の裾野を180以上のカーブで回り込んできて、画面奥に写っている地点に至ります。(このあたりの線形についてはこちらをご覧ください)

1957 夏季時刻表
昭和34年  夏季時刻表

⚫︎
鶴溜  15:00
ここに、ちょうどこの写真の時期の、昭和34年夏季時刻表がありますのでお目にかけましょう。
草軽では、毎年7月15日から8月31日まで、夏季ダイヤを実施していました。通常ダイヤと異なる点は、三笠・鶴溜・北軽井沢までのそれぞれ区間運転を実施して、さらに、新軽・旧軽間のシャトル運転も増便されています。
それらの臨時列車は主に、当時2台草軽に残っていた電動客車(モハ100型)によって運用されていました。普段は旧軽井沢までの短い区間を行ったり来たりの、ぱっとしない運用に甘んじた電動客車も、この時期ばかりはデキの引く列車に伍して、高原風景の中を遠征していたのでした。

さて、そのようなおはなしを頭に、この写真をもう一度見てみましょう。
ここからちょっと想像力を働かせれば、夏の午後の鶴溜駅の、生き生きとした光景をイメージすることもできるでしょう。
もちろん前述の通り、台風被害によって、列車の運行はまだ乱れていた時期だったかもしれません。
しかし、ここではこの時刻表通りの運行を念頭において、考察をしてみたいと思います。

まず、写真に写っているモハ102、
駅のホームではなく、客扱いを終えて退避線に入っていますので、いうまでもなく鶴溜折り返しの列車、ということになります。
時刻表を見て下さい。新軽井沢発14:28、鶴溜着14:47の列車がありますので、撮影データからも、これは間違いなくこの運用に入った電車です。
新軽井沢から6㎞強、駅にして3区間、三笠からは急勾配とカーブの連続です。ここを20分足らずで走ってしまうのですから、これはなかなかのスピードです。
そして到着後、わざわざ退避線に入れている、ということから、この後何らかの列車が来る、という状況がわかります。そして単に下り列車が来る、というだけだったら、モハ102はそのまま上りホームにつけておけばよいので、上り線を空ける必要があったわけです。これはひょっとして列車交換があるのかもしれません。

そう思って、もう一度時刻表を見てみましょう。
ありますね。
15:04の上り、及び15:05の下り草津温泉行 混合9レがここ鶴溜で交換することがわかります。
そして前者の上り新軽井沢行 (臨時306レ)は、よく見ると北軽井沢が始発です。これは夏季ダイヤ中、やはりモハ100型によって運転された、いわゆる “北軽往復” 運用でした。
つまり15時過ぎ、鶴溜駅では2両のモハ100型とデキの引く混合の、3本の列車が顔をあわせていました。

写真のモハ102による鶴溜往復の鶴溜発車は15:30になっていますが、さらに発車までに、時刻表にはない列車がもう1本やってくるのです。
上記の列車交換の後、退避線に入っていた写真のモハ102は上りホームへ移動して、果たしていたのかどうかはわかりませんが、お客を乗せます。そこに、離山の大オメガカーブをフランジを軋ませながら登ってくるのが、新軽井沢を15時過ぎに発車する貨物63レでした。
この63レの鶴溜発車は15:27でしたので、この列車との行き違いをもって、新軽井沢へと戻っていくのです。

まとめてみましょう。
写真の電車が鶴溜に到着するのが14:47。15時過ぎにはそこで2本の列車が交換、さらに20分ほどして、下りの貨物が対向します。つまり、このおよそ周囲に人気のない山間の駅で、わずか40分ほどの間に、軽便の列車が4本行き交うわけです。



8月も終わり、高原に吹く風はすでに秋の気配を運んでいます。
電車が出て行った後、駅はまた静けさに包まれて、夏も終わりとはいえ夕方の強い斜光線に照らされた山々の風景は、次第に秋色に染まっていくようでした…。

いやぁ! 草軽って、ホンっとにいいもんですね…。
そしてこんな風に、好き勝手に語ることができる幸せをつくづく噛み締めます。

〈鉄道青年〉 

田端久道が残した1948年の光景(4)

〈国境平の少年〉

わたしはこの少年に、勝手に “ヒロシ君” という名前を付けました。
このヒロシ君がこの時6歳だったとすれば、彼は現在76歳、ということになります。
 

P8041373使用
国境平        1948 (昭和23) 年8月31日  撮影:田端久道:以下同じ
 

最初にこれらの写真を見せていただいたとき、ヒロシ君は撮影者である田端久道さんのご子息だと思ったのですが、違うそうです。単に、草津温泉から軽井沢へ帰る草軽電鉄の電車で一緒になっただけのことだったようです。
でも、その割には写真が多いので、あるいは年齢を超えて(?) 意気投合して友達になった、のかもしれませんね。

さて、田端さんとヒロシ君は、前回ご紹介した草津温泉駅での写真に写っているどれかの列車に乗って、新軽井沢へ向かいました。
この日も天気はよく、北軽井沢、スイッチバックの二度上を過ぎて、明るい晩夏の高原の急坂を順調に登っていきます。
そして停車したのはサミットの国境平駅。文字通り、群馬県と長野県の県境地点にあるこの駅までくれば、あとは軽井沢へ向けての下り坂、およそ1時間の行程です。
車内は結構混んでいて、座れない乗客もいたのですが、停車した客車の中は静かで、皆声を低くして話しています。何人かはホームへ降りて行って周囲の景色を楽しんでいました。列車はなかなか発車しません。
そのうちに、どうやらこの先で列車が脱線したので発車ができない、ということが伝わってきました。列車はここで足止めをくらってしまったようなのです。
でもここは何もない山の中。そういわれてもどうすることもできず、乗客は皆おとなしく待っていました。
そんな時、“時間もあるし写真でも撮ろうよ…”、と田端さんはヒロシ君をつれてホームに降りました…。

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ここではわたしたちも、草軽に乗った70年前の日本人の気持ちになって(イメージして)このなすすべもない時間を楽しんでみたいものです。
まず、事故に見舞われたのは、ヒロシ君たちが乗った列車ではなさそうです。恐らくはこの先で、対向する下りか、先行する貨物列車かが、何らかの支障を起こしたのでしょう。そして、国境平で停車している、ということは、ひとつ先の長日向(ながひなた)までのどこかが現場だったと思われます。

ヒロシ君たちが乗ってきた客車はホハ30型です。
始発の草津温泉では付いていなかった貨車はワフ9型(この車両のはなしはこちら)で、ナンバーは“11”と読めます。オープンデッキの2軸有蓋車です。
この貨車の妻面に、この前に付いているべき機関車の影が見当たらないことから、この写真が撮影された時、それは付いていなかったのではないでしょうか。恐らくですが、この先に脱線した列車があったとすれば、機関車だけで救援に向かった、ということが考えられます。
駅で待っている乗客は、機関車の付いていない列車がこの先動くことは考えられないので、ひたすら待っているしかなかたのでしょう。

別の写真には、1匹のかわいいヤギが写っていました。
駅で飼っていたものでしょうか。列車が動かず人がたくさんいるものだから、嬉しくて走り回っていたのかもしれません。静かな高原風景の中に、のどかな鳴き声が聞こえていたのでしょう。

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 国境平駅のヤギ、ユキちゃん。

さて、ようやく救援にいった機関車が帰ってきて現場の様子がわかりました。

思ったよりも状況は悪く、復旧の見込みはしばらく立ちそうもありません。“申し訳ないが、となりの長日向まで歩いていってほしい”、と駅長は言いました。
待ちくたびれた乗客はみな、“やれやれ” と、仕方なく荷物を持って線路上を歩きはじめました。
途中、脱線した列車の横を通りましたが、1両の貨車が完全に脱線して傾いていますし、その部分の線路は外れて倒れてしまっています。これでは復旧には時間がかかるでしょう。


P8041386使用
 国境平・長日向


貨車の横を歩いていく人の一番後は、先ほど国境平でスナップした女性でしょう。その前にはけなげに歩いていくヒロシ君のが見えます。赤ん坊を背負っているのはお母さんでしょうか。
一方、列車のスタッフといえば、もうなすすべもなく救援を待つしかない、といったお手上げの雰囲気ですね。傾いた側に座っている人がいますが、危なくはないのでしょうか?。
脱線した貨車はコワフ100型、その前につながっているのはコワフ30型(この車両のはなしはこちら)、共に有蓋ボギー貨車です。

この後、田端さんとヒロシ君は、国鉄軽井沢駅前で撮った写真がありましたので、無事に新軽井沢まで帰ることができたのでしょう。


1948 (昭和23) 年夏の草津温泉への旅行はこれで終わりです。
記録のあまり残されていない時代の光景ですので、それだけでも充分に貴重ではありますが、知識の上でしかないこの時代、そこに生きた日本人の、人それぞれ苦労は抱えながらも、明るく生きていた姿を感じて、わたしは何か元気をもらったような気がしました。
これらはマニアが撮影した電車の写真、では決してないのですが、どれも心に焼き付けておきたい宝物のような光景です。 

最後にこの写真を見せて頂き、紹介することを快諾して頂いた、ご子息の田端秀行さんに心からの感謝を申し上げます。  (おわり) 

〈鉄道青年〉 (協力:田端秀行)

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