火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

本年もよろしくお願いいたします

さとこ2017

あけましておめでとうございます。

昨年中も拙ブログにお付合いいただき、 感謝いたします。
例年のように11・12月は繁忙期のため、更新が 滞ってしまいました。
何を書こうか、まだあまり考えていないのですが、取り敢えず、またさと市さんのイラストから始めてみたいと思います。
今年はちょっと趣向を変えて、電動客車のイラストを依頼しました。
どの写真を元にしたか、おわかりになる方も多いとは思いますが、ぱっと見て草軽電鉄だと判断できるのは、本当にさすがだと思います。今年も素敵なイラストを頂きました。 

おはなしが どのように “飛ぶ” かわかりませんが、また1年どうぞよろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 

ご報告

899

このブログで製作過程を報告させて頂いたOナローのモジュール、“落葉松沢駅” を、今月号のTMS(2016.12:No.899)に掲載して頂きました。

過去2回ももちろん嬉しかったのですが、今回は特別に嬉しい気がします。それはきっと、自分なりにあれこれと考えて、手を抜くところは手を抜いて、こだわる部分にはこだわって、そこを走る車両の姿をイメージしながら、最初のベース製作の段階から、最後に浅間高原に持ち込んでの撮影に至るまで、初心を貫くことができた、ということかもしれません。それがTMSという晴れ舞台で発表することができたのですから、まさに趣味冥利に尽きる、というものです。また、そのことを謙遜することなく、自分への自信にしたいとも思います。
でもまた同じもモノができるか、と言われればそんな自信もとたんに揺らいでしまうのですが、これからも “こだわり” を忘れず、かといって思いつめず、マイペースでやっていこうと思います。

ともあれ、みなさまどうぞ今後ともよろしくお願いいたします。

〈鉄道青年〉 

デキ50の写真

'38-8-13 新軽井沢-1
デキ50・あさま1   新軽井沢 1938 (昭和13) 年8月13日  撮影:荒井文治


奇跡ともいえる写真を入手しました。

昭和13年に撮影された、草軽の凸形電機デキ50の、なんと “ガラス乾板” です。
でも、デキ50が白樺電車を引いているこの写真は、わたしは初めて見るものではありません。わたしの知る限り、“鉄道ピクトリアル” 1960年8月号の草軽の記事に載っていたのと、プレスアイゼンバーンの単行本、“草軽電気鉄道” にも載っていました。
写真の撮影者は、かの荒井文治さんです。

ただそれらを見ればわかるのですが、両方とも小さい扱いだったり、ちょっと不鮮明な写真で、とても8㎝×10㎝の乾板からの画像には見えませんでした。つまりわたしは、この写真に関しては、ずっと長いことそのクオリティでしかイメージしてこなかったわけです。
そもそもわたしはガラス乾板というものを、もちろん知ってはいましたが、それは知識としてのみのはなしで、実際に手にするのは初めてです。ですので問題は、どのようにしてこれを “反転” した画像にするか、でした。
とっくに銀塩の引き伸ばし機は捨ててしまったし、スキャンする方法もわかりません。幸い、このことを宮松慶夫さんにおはなししたところ、快くデジタル化を引き受けて頂き、ここに日の目をみることができました。

スキャン 1
 鉄道ピクトリアル  1960 (昭和35) 年8月号の記事より


撮影は1938 (昭和13)年8月13日。
2016年の現在、78年の時を超えた最新のデジタル技術によって、モニター上に再び像を結んだデキ50の画像に、わたしは瞠目しました。
ガラス乾板の写真の緻密さは、岩崎・渡辺コレクションの写真を例に出すまでもなく、現在の写真とは良し悪しの問題ではなく、全く別次元の画像です。
具体的にいうと、客車の窓辺に腰をかけた男が着ている半被の襟の文字、その後ろで居眠りをしている和服の女、洋風のお洒落なランプシェード…、それらが鮮明に読み取れるのです。
いや、大事なのはそんな部分ではありません。わたしが一番打たれたのは、その “奥行き” というか、“空気感” のような空間の広がり、でした。じっと見ていると78年前の夏の軽井沢の風や、ちょっと油のにおい、そして樹々のにおいが混ざったその場の空気までが伝わってくるような気すらしたのです。

先に述べましたようにこの写真は、今までわたしの中でずっと不鮮明なままの存在だったのが、一瞬にして想像もしなかった高い次元の、ピュアでハートフルなイメージを持つ、大切な画像として認識され直したのでした。


写っている車両の解説もしなければなりません。
機関車はもちろん有名な凸電デキ50。この機関車は、僚機と同じL型だったNo.21を改造の上、昭和10年3月25日に竣工したものです。竣工時の名前は改造前と同じNo.21。これが、No.22~24の竣工にあわせて昭和12年6月、デキ50型 No.50、に改番されました。そして、背後には名前を譲った新番21が見えています。ちなみに写真からもわかる通り、No.21~24は、“改良型” パンタを乗せていました。さらにいえば、パンタと重なって見える火の見櫓は廃止時にも存在しており、写真の位置を特定する際のランドマークになっているものです。
客車もまた、言うまでもない “白樺電車” の あさま です。   これは2両あったうちの “1” の方ですね。左奥に見えるのは、西尾鉄道からきたホハ21型のうち、No.22の方です。まだデッキ部分の改造がなされる前の、オープンデッキの姿です。

車両の手入れは行き届き、機関車には砲金製の番号と社紋が燦然と輝いています。サンマーカーが定期で運行され、他の車両の増備も続いていた、草軽電鉄(草津電気鉄道)戦前のもっとも良き時代を記録した1枚だと思います。


色々な意味で、“このようななもの” が、何故オークションに流れたのかはよくわからないのですが、なんでも、翌朝に出す予定だったゴミ袋の中から “救出” されたもの、ということです。
わたしの手元にきたのも何かの縁だと思います。決して自分の所有物とは思わず、草軽を知る人のための資料として、わたしが “お預かりする” もの、と考えております。

〈鉄道青年〉 

※  年末の繁忙期に入りますので、ブログは年末までお休みを頂きます。
   皆さま、どうぞお忘れなきよう! 

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