草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

田端久道が残した1948年の光景(4)

〈国境平の少年〉

わたしはこの少年に、勝手に “ヒロシ君” という名前を付けました。
このヒロシ君がこの時6歳だったとすれば、彼は現在76歳、ということになります。
 

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国境平        1948 (昭和23) 年8月31日  撮影:田端久道:以下同じ
 

最初にこれらの写真を見せていただいたとき、ヒロシ君は撮影者である田端久道さんのご子息だと思ったのですが、違うそうです。単に、草津温泉から軽井沢へ帰る草軽電鉄の電車で一緒になっただけのことだったようです。
でも、その割には写真が多いので、あるいは年齢を超えて(?) 意気投合して友達になった、のかもしれませんね。

さて、田端さんとヒロシ君は、前回ご紹介した草津温泉駅での写真に写っているどれかの列車に乗って、新軽井沢へ向かいました。
この日も天気はよく、北軽井沢、スイッチバックの二度上を過ぎて、明るい晩夏の高原の急坂を順調に登っていきます。
そして停車したのはサミットの国境平駅。文字通り、群馬県と長野県の県境地点にあるこの駅までくれば、あとは軽井沢へ向けての下り坂、およそ1時間の行程です。
車内は結構混んでいて、座れない乗客もいたのですが、停車した客車の中は静かで、皆声を低くして話しています。何人かはホームへ降りて行って周囲の景色を楽しんでいました。列車はなかなか発車しません。
そのうちに、どうやらこの先で列車が脱線したので発車ができない、ということが伝わってきました。列車はここで足止めをくらってしまったようなのです。
でもここは何もない山の中。そういわれてもどうすることもできず、乗客は皆おとなしく待っていました。
そんな時、“時間もあるし写真でも撮ろうよ…”、と田端さんはヒロシ君をつれてホームに降りました…。

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ここではわたしたちも、草軽に乗った70年前の日本人の気持ちになって(イメージして)このなすすべもない時間を楽しんでみたいものです。
まず、事故に見舞われたのは、ヒロシ君たちが乗った列車ではなさそうです。恐らくはこの先で、対向する下りか、先行する貨物列車かが、何らかの支障を起こしたのでしょう。そして、国境平で停車している、ということは、ひとつ先の長日向(ながひなた)までのどこかが現場だったと思われます。

ヒロシ君たちが乗ってきた客車はホハ30型です。
始発の草津温泉では付いていなかった貨車はワフ9型(この車両のはなしはこちら)で、ナンバーは“11”と読めます。オープンデッキの2軸有蓋車です。
この貨車の妻面に、この前に付いているべき機関車の影が見当たらないことから、この写真が撮影された時、それは付いていなかったのではないでしょうか。恐らくですが、この先に脱線した列車があったとすれば、機関車だけで救援に向かった、ということが考えられます。
駅で待っている乗客は、機関車の付いていない列車がこの先動くことは考えられないので、ひたすら待っているしかなかたのでしょう。

別の写真には、1匹のかわいいヤギが写っていました。
駅で飼っていたものでしょうか。列車が動かず人がたくさんいるものだから、嬉しくて走り回っていたのかもしれません。静かな高原風景の中に、のどかな鳴き声が聞こえていたのでしょう。

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 国境平駅のヤギ、ユキちゃん。

さて、ようやく救援にいった機関車が帰ってきて現場の様子がわかりました。

思ったよりも状況は悪く、復旧の見込みはしばらく立ちそうもありません。“申し訳ないが、となりの長日向まで歩いていってほしい”、と駅長は言いました。
待ちくたびれた乗客はみな、“やれやれ” と、仕方なく荷物を持って線路上を歩きはじめました。
途中、脱線した列車の横を通りましたが、1両の貨車が完全に脱線して傾いていますし、その部分の線路は外れて倒れてしまっています。これでは復旧には時間がかかるでしょう。


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 国境平・長日向


貨車の横を歩いていく人の一番後は、先ほど国境平でスナップした女性でしょう。その前にはけなげに歩いていくヒロシ君のが見えます。赤ん坊を背負っているのはお母さんでしょうか。
一方、列車のスタッフといえば、もうなすすべもなく救援を待つしかない、といったお手上げの雰囲気ですね。傾いた側に座っている人がいますが、危なくはないのでしょうか?。
脱線した貨車はコワフ100型、その前につながっているのはコワフ30型(この車両のはなしはこちら)、共に有蓋ボギー貨車です。

この後、田端さんとヒロシ君は、国鉄軽井沢駅前で撮った写真がありましたので、無事に新軽井沢まで帰ることができたのでしょう。


1948 (昭和23) 年夏の草津温泉への旅行はこれで終わりです。
記録のあまり残されていない時代の光景ですので、それだけでも充分に貴重ではありますが、知識の上でしかないこの時代、そこに生きた日本人の、人それぞれ苦労は抱えながらも、明るく生きていた姿を感じて、わたしは何か元気をもらったような気がしました。
これらはマニアが撮影した電車の写真、では決してないのですが、どれも心に焼き付けておきたい宝物のような光景です。 

最後にこの写真を見せて頂き、紹介することを快諾して頂いた、ご子息の田端秀行さんに心からの感謝を申し上げます。  (おわり) 

〈鉄道青年〉 (協力:田端秀行)

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田端久道が残した1948年の光景(3)

〈草津女子〉
8月29日に草津入りした田端久道さんは、2日後の31日、来た時と同じく草軽電鉄に乗って軽井沢へ戻っています。
今回はその帰京の朝、電車に乗るまでに田端さんが草津温泉駅でスナップされた写真をお目にかけましょう。
 

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草軽電鉄  草津温泉駅  1948 (昭和23) 年8月31日 撮影:田端久道(以下全て)

 

ここに写っている方々と、田端さんの関係はわかりませんが、田端秀行さんの説明によれば、乗客か付近の人かはわかりませんが、恐らくは地元の人たちをスナップしたものではないか、ということです。

それにしても、モデルになった人達の表情のよさといったらありません。
どういうわけか、少し歳を重ねた女性がほとんどですが、カメラを向けられてちょっと照れている表情など、まるで少女のように初々しいではありませんか。
そしてこの人達の表情が、撮影者である田端さんのおおらかな人柄をなによりも語っています。

最初に揚げた写真でもわかりますが、この時の田端さんは、白のスーツに白い帽子、たいへんおしゃれな避暑地スタイルです。ここに写っている人達の格好と比べると、それはある意味この時代の社会の階層を示すようにも感じられます。
しかし、そんなことは一切気にしない田端さんの姿勢とともに、これらの写真からは、長い戦争の時代を耐えた地方の一般庶民の、よくはわからないけどきっとこれから新しい時代がはじまるのだ、という希望の明るさを感じずにはいられません。

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写っている車両の解説も少しはしましょう(させてください)。
まず、撮影者の田端さんが写っている写真(再掲)。

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これはいうまでもなく、新駅での撮影で、移転後まだ4年ほどしか経っていないので、設備はまだばりっとしています。扉もない、大きく開いた駅本屋の中は待合室のようですが、後年ここの部分は便所になっています。

右に写っているのは電動客車モハ102です。戦時中に5両が製造されたモハ100型は、この時点では全車がまだ売却されずに草軽に揃っていました。当時の塗色は “くすんだグリーンにくすんだ黄色” 、だったということです。戸袋部分の窓は、依然板張りのままですね。

この当時の時刻表をまだ見たことがないので、これが臨時なのか定期なのかは不明ですが、電動客車が、終点の草津温泉まで入っていた、という証拠の写真になります。
奥のホームにはデキがホハ30型と共に停車しています。このデキは、パンタのやぐらの形状から、昭和9年以降に増備されたグループ(21~24)のうちの1両と判断できます。

写真の中には、電動客車が入っていた線に、デキの列車が入っているものもあります。先の電動客車の写真とは、残念ながらその前後関係は不明なのですが、この列車の到着を待って、奥の線の列車が発車したのかもしれません。
機関車は19号で、すでに抵抗器を増設して、機械室が延長されている晩年と同じ姿です。
それにしても、ホーム上の台車に積まれた手荷物の多さには驚きます。一体これをどこに積んでいったのでしょうね。
またほとんどの写真で、“なんか楽しそうなことやってるなあ…” と、ホームから羨ましそうにカメラの方を見ている駅員の姿も微笑ましいです。


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この写真の中央部分を拡大したものがこれです。そこには5〜6才とおぼしき一人の少年が写っていました。
次回、この少年が主人公です。  (つづく)

〈鉄道青年〉 (協力:田端秀行)

田端久道が残した1948年の光景(2)

田端久道さんが草津温泉へと旅行したのは、昭和23年8月29日から31日のことでした。29日に信越線の列車で軽井沢へ行き、そのまま草軽電鉄に乗り換えて草津入りしています。帰りは31日で、来た通りに草軽電鉄で軽井沢まで戻っています。


今回は、その初日に草津まで向かう車窓をお目にかけましょう。
写真はぜひ拡大して、隅々までご覧ください。
 

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信越線  下り列車    松井田  1948 (昭和23) 年8月29日  撮影:田端久道


信越線の下り列車です。
松井田のスイッチバックの待避線に(恐らく)推進で入線する光景です。
客車は木造のナハ22000系でしょうか。勢いよく安全弁から蒸気を吹き上げているのは、テンダーの形状からD51型だと思われます。
ここを発車すれば、次はアブト式電気機関車の待ち受ける横川、その構内の直前まで続く25パーミルの勾配を登りつめます。


〈スイッチバックの大空〉

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東三原             1948 (昭和23) 年8月29日  撮影:田端久道


田端さんが新軽井沢から乗った草軽電鉄の下り列車が、上州三原を発車して東三原のスイッチバックにさしかかります。

ここは軽井沢からおよそ40キロの地点です。吾妻川の河岸段丘の下に広がった三原の町は標高が770m、ここから標高1300mの終点、草津温泉へ向けて再び厳しい登り勾配が始まります。上州三原の前後で、このスイッチバックによって大きく高度を稼ぐ様子が、写真からもわかるのではないでしょうか。
これは、そのスイッチバックの2段目を登り、進行方向が正位に戻って3段目を草津に向けて登っていく車窓です。進行方向は画面奥。

2人の乗客が進行方向の逆を見ていますが、ここは今までスイッチバックで登ってきた線路が一望できる地点なので、その光景に目を奪われているのでしょう。
そして、同じように下方をみていた撮影者の田端さんは、ふと体の向きを変えて進行方向に目をやりました。するとそこには思わず声を上げてしまいそうな大きな雲が広がっていました。晩夏とはいえまだ空は夏の色、そこに浮かぶ大きな真っ白な雲、あまりにも広く高い高原の大空に、シャッターを押さずにはいられなかったのでしょう。


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 東三原             1948 (昭和23) 年8月29日  撮影:田端久道

そして、これが上の写真で2人の乗客が見ていた、“登ってきた線路” の光景のはずです。上記の推測が正しければ、恐らくネガのコマはこちらの方が先だったのだと思われます。
右下に登ってきた線路が見えています。上州三原のひとつ手前の嬬恋駅からの線路は対岸の河岸段丘の縁を走っていました。それを辿っていくと吾妻川にかかった鉄橋が見えます。上州三原の駅は、これを渡ったすぐのところがでした。
ご子息の田端秀行さんの確認によれば、右端の線路の上に見える小屋は現存しているそうです。


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 東三原・湯窪          1948 (昭和23) 年8月29日  撮影:田端久道

これは東三原のスイッチバックを通過した列車が、三原の町はずれでほぼ180度のカーブで進行方向を変える直前、下方をみた光景です。
青々とした夏の田園風景の中、動いているものは、国道を砂ぼこりを上げながら走っていく1台のトラックのみ。
そして、たった1区間で稼いだ高度差を実感してください。

画面右上には、まだ吾妻川の鉄橋が小さくなって見えています。2年後、この橋は台風による増水で流失してしまう、という惨事に見舞われることになります。その被害の大きさに会社側は鉄道の廃止を決意するのですが、ご周知の通り廃線はこの12年後です。この時草軽は鉄橋を復旧させています。



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湯窪・石津平(後の万座温泉口)  1948 (昭和23) 年8月29日 撮影:田端久道

東三原のスイッチバックをクリヤーした下り列車が次に停車するのは、吾妻鉱山からの索道がきている湯窪(ゆくぼ)という停車場でした。そしてこの駅を発車した先には、地元では “湯窪の大カーブ” と呼ばれていた、左方向にほぼ180度進行方向を変える急カーブがありました。この写真はそのカーブのアウト側、時間をかけて登ってきた三原方面を見下ろした光景です。
ただ、わたしも最初そう感じたのですが、この写真は今まで見た写真のように劇的な印象を受けない、どちらかといえば単に浅間山を撮った写真なのかな、という雰囲気ではないですか?

この写真については、田端秀行さんとかなり深く検証をしました。
そしてここでは、田端久道さんが何故ここでこの写真を撮ったのか、そのヒントになる別の写真を皆様に紹介しないわけにはいかないのです。


〈竹中泰彦さんの “湯窪の大カーブ”〉

竹中さんは、その写真集、“私鉄の風景” の中でも印象的な草軽の写真を残してくれているだけでなく、昨年わたしの主催した写真展、“草軽高原を往く ー北軽井沢・草軽電鉄の時代ー” でも、その作品をメインで展示させて頂いた方です。

そして、この写真もおそらく未発表なものだと思うのですが、草軽電鉄が最終的に廃止される直前の昭和37年1月に撮影された、“湯窪の大カーブ” からの展望です。コマは2枚ありました。

ゆくぼ2

ゆくぼ1
 湯窪・万座温泉口          1962 (昭和37) 年1月 撮影:竹中泰彦

いかがでしょう、1枚目は田端さんとほぼ同じカットですが、ややカメラを右に振った感じです。でも、やはりなんとなく “ぱっとしない” 風景写真に見えませんか?。

ところが、これは実は連続したカットなのです。
ネガと違い、デジタル化されたデータがランダムに並んでいる中、不覚にもわたしはずいぶん後までそのことに気づくことがありませんでした。
そして2枚をつなげてみたのがこのカットです。

つなぎ
 
この2枚をつなげた光景がPCの画面上に現れたとき、わたしは絶句しました。そして次の瞬間、胸の奥から熱いものがこみ上がってくるのを抑えることができなかったのです。

もはや解説を入れるのもヤボだとは思うのですがあえて解説を入れれば、左端に見えるカーブを描く築堤は2年前に廃止になった区間の線路跡で、山に隠れたあたりが嬬恋駅でした。線路は河岸段丘の縁を浅間山の方向に延びていきます。浅間山のピークの右下方向に見えるのが三原の町、繰り返しになりますが、線路はここで吾妻川の対岸に渡ります。手前の山の上にいくつか建物がありますが、東三原のスイッチバックはこの反対側の三原寄りにありました。中央部分に線路のように見えるのはバス道路で、写真のつなぎ目のやや右でそれと交差して右方向に登っていくのが草軽の線路です。
この部分は、田端さんの撮影された写真と全く変わっていないことがわかると思います。

つまりこの地点からは、雄大な浅間高原の広がりのなか、草軽の駅の実に5区間(小代・嬬恋・上州三原・東三原・湯窪・万座温泉口)が、つなげた1枚の写真に写り込んでいるのです。

どうでしょう、自分の乗っている電車の車窓にいきなりこんな光景が広がって、しかも手にカメラを持っていたとしたら、これはもう反射的にシャッターを押してしまうのではないでしょうか。
ただ、みなさまも経験があると思いますが、いかに素晴らしいと思った光景でも、写真にしてしまうと、その時感じた感動が全然伝わらない、ということも多いです。
14年前に同じポイントで撮影した田端さんも、この区間で一番心を動かされた光景であるにもかかわらず、現像されたネガを見て、あるいは大層残念な気持ちになられたのかもしれません。


70年前の日本、ある夏の日、草軽電鉄の車窓に展開した浅間高原の光景。それを、お二人の写真からイメージして、さらにそれを “色付き” にして頂きたい、と心から思うのです。
(つづく)

〈鉄道青年〉 (協力:田端秀行)


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