火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(7)

草軽の全線廃止から3年が経ちました。

高度経済成長の波の中、東海道新幹線が開通し熱狂のうちにオリンピックも終了、誰もが豊かで明るい近代国家、日本の未来を夢見たこの時代。かつて草軽の線路が結んだ軽井沢と草津温泉も、レジャーブームの中に盛況を極め、ここを訪れる観光客のうなぎのぼりの数は毎年更新されていきました。

草津温泉の中心である湯畑、ここからは各方面へのバスが発着します。いつでもたいへんに賑わい、湯けむりと硫黄の匂いに湯治客は草津に来たことを実感したのでした。この湯畑から長野原方面への国道をしばらく歩いた、もう街外れといってもよい、運動茶屋と呼ばれる地区の高台。ここにはかつての軽便鉄道の駅がありました。

駅の施設はもう解体されてしまいましたが、そこにはまだいくつかの車両が泥にまみれたあわれな姿で置かれていて、かろうじて草軽電鉄の記憶を残していたのでした。しかしそこは、車の往来する国道からは少し高い位置にあったので、人目につくことはほとんどありません。ごくまれに訪れる一部のマニアの他には、もうすっかり忘れ去られてしまったかのような寂しい存在だったのです。

そんな頃、救いの手を差し出したのが軽井沢町でした。

残されていた、機関車・貨車・客車のうち、機関車だけを引き取って保存する、ということになったのです。

広報かるいざわ

広報 “かるいざわ” の記事(昭和40年3月1日)
“軽井沢と草津の間を蛇行運転…”、という表現が言い得ていておかしい。


しかし思い出して下さい。

昭和37年3月27日、草軽の最終列車として上州三原から草津温泉まで運転された編成は、“草津町に寄贈された”、ものだったはずです。しかし上記の記事では、“草軽電鉄から寄贈を受けることになり…”、とあります。
わたしは、この放置されていた車両が軽井沢町に保存されることになったいきさつが気になって、軽井沢、草津両町に問い合わせをしたことがあります。これに対して、特に草津町ではOBの方にまではなしを通して頂いたのですが、残念ながらこの時の具体的なやりとりを知る方はおりませんでした。

ただ、草軽のOBでデキに乗っていた方が以前語っていたこととして、
“あれは、草津で保存するつもりだったのだけど、町の方針が変わってそのままにされてしまった。草軽側としてはこのまま解体するのはしのびなく、軽井沢町に打診したところ、では機関車だけ引き取りましょう…、ということになった。”
というはなしを聞いたことがあります。おそらくこれは、その方のイメージが半分、といった証言なのですが、一定の真理を示しているのではないでしょうか。

ともあれ、ここでも13号機関車は強運をみせ、軽井沢に運ばれ保存されることになったのです。
残された、貨車ホト115及び客車ホハ32は残念ながら解体されてしまったと思われます。今となれば、誰もが“編成ごと残しておけばよかったのに…”と考えるでしょう。しかしこの当時のはなし、草軽電鉄の象徴であるデキ12型が1台でも残された、というのはまさに奇跡的なことだったといえます。それは、この時代に廃止された他の鉄道の車両のことを考えればわかると思います。
ただ、ホハ30型のうち保存の予定だったホハ32だけが解体され、他の仲間の3両が駿遠線に移って晩年まで働いた、ということは何とも皮肉なことでした。


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 軽井沢町立社会体育館(中軽井沢)に移り保存されたNo.13
                1966 (昭和41) 年8月19日  撮影:風間克美


軽井沢町では、町立社会体育館という施設の敷地に置かれました。
ここは軽井沢と中軽井沢の間の国道18号沿い、現在の軽井沢中学校のあたりでした。写真を見ると保存当初は屋根もなく、小さな立て看板ひとつで本当にぽつんと置かれている、という雰囲気です。保存に際しては塗装がなされました(赤っぽい白、と記憶)が、社紋と番号は塗りつぶされてしまいました。
草津での放置時代の姿に比べて、ヘッドライトが失われています。しかしその他は、窓ガラスがないという程度で、状態は悪くありませんでした。その後、運転室側のカプラーがもぎ取られたかのように無くなるのですが、保存当初はまだちゃんと付いていました。

わたしがこの保存された13号機関車のことを知り、軽井沢を訪ねるのはこのちょうど10年後、1975(昭和50)年8月のことでした。(そのはなしはこちら

(つづく) 

〈鉄道青年〉 

ホハ10のことなど(コメントに替えさせて頂きます)

前々回の記事に対して、ホハ10様よりホハ10型客車についてのご教示を頂きました。
(※ アンダーバー部分をクリックするとその記事にいきます) 

これは、わたしにとりましてもたいへん驚きの内容でしたので、この記事で返信と替えさせて頂きたいと思います。


まずホハ10様よりのコメントを引用させて頂きます。

『以前模型を作った時に、吾妻川の鉄橋流失後に軽井沢側にホハ12が陸送されていたのではないか、と考えていました。きっかけはホハ12がS34~35にかけて、方向が変わっているのに気付いたからです…』 (URLを参照下さい

というものでした。

早速上記URLを拝見させて頂けば、そこには3両存在したホハ10型の細かい形態分類の解説、そしてそれに基づいた的確かつ重圧なOナローの模型が紹介されています。

わたしはこのホハ10型が3両あった、ということはもちろん知っていましたが、“ちょっとずつ、細かいところで形態の差がある…”、程度の認識しかありませんでしたので、とてもショックを受けました。そしてその解説を頭に入れて、再び写真に目を通してみました。そこに明らかになったこと…。

3両あるホハ10型のうちの、“No.10” の写真というのが他の2両(No.11・12)に比べて極端に少ない、ということでした。その理由はわかりません。他の2両よりも早く廃車になったか、あるいは運用からはずされていたのか…、という考えも浮かんだのですが、昭和35年3月撮影の運用中の写真がありましたので、説得力がありません。

そして、ホハ10様の解説の通り、このNo.10の客室窓の窓枠が “日” の形(他2両は “口” 形)になっているのを初めて認識したのです。それによって、プレスアイゼンバーン “草軽電電気鉄道” に出ていた、東武時代の塗色で “3” のナンバーを付けている車両が、まさにこのNo.10 なのだ、ということを知りました。

さらに、ということは、わたしが今までNo.11と思い込んでいた廃車体も、実は  No.10 だったのだ、ということにもなるのです。

このようにして次々に明らかになる事実に、わたしは本当に息苦しくなってきてしまうほどでした。


⚫︎ 次に、ご指摘の “車両の向き” のこと。

これまで、ホト・コワフのボギー貨車、及びホハ21型を除く全客車は、車掌が扱うハンドブレーキ側を軽井沢に向けていた、と漠然と考えていました。しかしホハ10型には、その目印となるハンドブレーキのギアハウスが車外に露出していません。ですので正直なところ、“どっちが前か”、という問題は考えたこともありませんでした。

この件も頭に入れて、再度改めてNo.12の写真を見てみました。
確かにホハ10様のご指摘の通り、上州三原側から帰って来た際に、向きが逆になっているのですね。前出、プレスアイゼンバーン “草軽電電気鉄道” 119ページの写真と、ここに出てくる写真を比べて明らかになりました。
鉄橋流失後、上州三原側に “閉じ込められていた” 時期に草津側を向けていた “口・田”の妻面が、軽井沢方に戻ってからは、軽井沢側を向いています。(反対側は田・田)
(※ “消えた轍”の写真の日付は間違いで、正しくは昭和35年3月30日です。)

なぜこのような現象が起こったのか、理由はもはや明らかにならないとは思いますが、前述の車両の頻繁な移動など、部分廃止前後の様々な混乱した状況によるものなのかもしれません。


ホハ10様、ご教示本当に有難うございました。


⚫︎ ホハ33

さて、“吾妻川を越えた車両たち”の中の、昭和35年1月の様子を表した中で、ホハ30型の4両全てが上州三原側に移った、ということを書いたのですが、ここで訂正させて頂きます。

記事では上州三原駅構内に3両のホハ30型が写っている写真をあげ、左に写っているホハ30を1両引いた下り列車が、となりの万座温泉口駅で、“同じホハ30を付けた列車と交換した”、解説に書いたのですが、実はこれが遠目の写真で、車両No.は全く見えない写真なのです。ただ、ホハ30型の独特の妻面には間違いないと思い、そのように判断したのです。
しかしこの時期、鉄橋流失で取り残された、ホハ30と同じ顔をしたホハ23がまだ軽井沢側に戻っていない可能性に気づいてしまいました。ですので、そこに写っているのは実はホハ23かもしれません。

ホハ30型、No.30・31・32の3両は写真を確認しているので間違いはないと思うのですが残るNo.33だけは、このように “不明” ということで、△を付けさせて下さい。

また、昭和34年9月から昭和35年4月までの間に、上州三原・草津温泉間で撮影されたホハ33の写真をご存知の方がおられましたら、是非ご教示頂ければ幸いです。


⚫︎ 吾妻川鉄橋流失時の様子

同じ記事で、“鉄橋が流された時刻は不明…”、と書いたのですが、その後地元の方から証言を得ることができました。

実際に橋が流されたのは、8月14日、15~16時くらいだった、ということです。

何日も続いた豪雨により、吾妻川の水位は橋の高さに届くほどでした。多量の泥を含んだ茶色の濁流は、上流から多くの倒木を運んできます。恐ろしい勢いと轟音の中、それらが橋脚に容赦なくぶつかる音が鈍く響きます。
“もう橋はダメかもしれない…”、そこで見ていた人々は皆そう思わざるを得ませんでした。やがて、真ん中の橋脚がゆっくりと傾き始めました。それはまるでスローモーションの映像を見るかのように、ゆっくり、ゆっくりと倒れていきます。そのその前後の橋桁も引っ張られる格好で次第に傾いていきました。
不安げに見守る住民たちが、驚きとも悲鳴ともつかない声をあげる中、やがて橋桁とそれに続いて橋脚は静かに水没していきました。
鉄橋が水没した後も、レールはまだ繋がっていて、三原とは対岸の嬬恋側のレールは枕木ごと引っ張られていきました。やがてそれも断ち切られ、レールごと濁流に飲まれていった…、のだそうです。


⚫︎ 東三原の軌道跡

以前、まさひろ様より東三原のスイッチバックでの下段の線路はどこまで入っていたか、という問題提起を頂きました。これにつきましても地元の方から証言が得られましたので、ここに報告させて頂きます。証言によれば、

『線路が終わっていた(折り返していた)のは、現在の嬬恋ランドリーの前で間違いありません。廃線後、線路敷きを埋めるということはありませんでした…。』

ということです。
また、この部分には監視要員のための小屋が建っており、上州三原駅とは電話で結ばれ、冬季用のヒーターも備わっていた、ということです。

〈鉄道青年〉 

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー(6)

1962(昭和37)年3月27日に最終列車を運行し、翌日から始まった線路の撤去作業は、4月初めには草津温泉・万座温泉口の区間を完了しました。次に、残された上州三原・万座温泉口駅間の撤去が開始されますが、これも5月7日に完了し、10日には残ったすべての作業が終わりました。

作業の基地となった万座温泉口駅の広い構内には、外されたレール、倒された架線柱が山のように積まれ、最後まで活躍した21号・24号機関車、チト59・60、ト21はそれらに埋もれるようにして、構内の隅に留置されました。

構内からは、遮るもののなにもない広大な浅間高原の広がりと、流麗な浅間山の姿がなんら変わることなく見えています。すっかり夏めいた日差しの中、吹き抜けていく風は爽やかで、草木を揺らすさわさわという音だけが聞こえていました。


線路を撤去されたばかりの沿線には、掘り出された枕木が所々積まれていて、まだ生々しい軌道跡の光景を見せています。しかし、確実に “片付け” は進んで、次の冬が来る前には万座温泉口駅構内のレールはほとんど整理されていて、車両たちも恐らくはその場で解体され、どこかに運ばれていきました。

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撤去作業終了後の万座温泉口駅跡     
                 1962 (昭和37) 年8月12日 撮影:田中一水
 


冬がきて、草軽電鉄の廃止から1年が過ぎました。

廃止の日の最終列車として草津温泉まで運転された、13号機関車・ホト115・ホハ32はどうなっていたのでしょう。

それらはなんら変わらずそこに置いてありました。

編成が横付けされたホーム、駅舎もまだそのまま残されています。廃止の日に施されたモールなどの装飾はとっくに失われていましたが、車両も特に損傷もなくきれいなままでした。ただ、廃止になった鉄道の駅にやってくる人はもういません。草津温泉の賑やかさに反して、その場所はまるで時が止まったかのような空間でした。

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廃止1年後の終点草津温泉駅     1963 (昭和38) 年2月8日 撮影:田中一水
 



雪が溶けまた雪が降り、その雪が雨になり、火山灰地の地面をぬかるませる春がやってきます。花が散って梅雨が終わり夏になれば、標高1300mの高原はストレートな日差しの下、大地は生命感満ち溢れる季節を迎えます。空は高く、朝晩が次第に冷え込んでくる秋、落葉松の林は次第に色付き、厳しい冬の季節がまたやってきます。

草軽廃止から2年の月日が流れても、車両たちは変わらずそこにありました。


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廃止後2年。駅舎は解体され車両は次第に荒廃していく。
                  1964 (昭和39) 年1月8日 撮影:田中一水
 


すでに駅舎は解体され、ホームの屋根も外され支柱だけが空しく建っています。全く手入れをされず、草津高原の厳しい環境の中で雨ざらしになっていた13号機関車は、次第に荒廃していきました。窓ガラスはほとんど失い、すぐ横を走る未舗装の道路を走るバスやダンプは容赦なく泥水をあびせます。“保存” のためにここまでやってきたのに、それとはかけはなれた惨めな状態でした。
いよいよオリンピックの開催を控え、古びて時代遅れのきたないものは容赦なく切り捨てられていったこの時代、もはや忘れ去られた鉄道の車両など、誰も気にとめるものではありませんでした。せっかく残した草軽電鉄の車両も、もうこのまま人知れずスクラップになってしまってしまうのでしょうか…。  (つづく)

〈鉄道青年〉
 



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