草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

浅間模型 Oナロー デキ12、企画中!

P5082138

模型のおはなしになりますが、浅間模型ブランドで、Oナロー(1/48:16.5ミリゲージ)の草軽電鉄デキ12型を企画しております。
軽便鉄道のマニアならば、もちろん知らない人はいないであろう、伝説の鉄道車両です。さらにはわたし自身、激しい思い入れのあるアイテムですので、“見た目の印象” には気を使っております。
草軽デキは全部で14両が存在しましたが、そのうちわたしが最も好きな、15号・17号をプロトタイプにしましています。
また動力は、スケールの車輪径15.5ミリ、軸間31ミリのものを新規で製作しました。

ここにあげる写真は一応 “試作品” ですが、ご覧のとおりパーツもまだ揃っておらず、修正する箇所も多いです。
やらなければいけないことは山積みですが、なんとか来年中の発売を目指しております。

35-18(使用)
デキ12型(No.17)  新軽井沢  昭和33年1月 撮影:高井薫平


さて、人形町・綿商会館にて、今年も軽便祭が開催されます。(9/29)

今回、城東電軌さまのご好意により、ブースにこの見本を展示いたします。
ご来場の折には、ぜひブースにお立ち寄りいただき、実物を見ていただければ幸いでございます。

また、わたし(小林)は上の階、Oナローモジュール倶楽部(ONMC)のコーナーにおりますので、声をかけて下さい。

〈鉄道青年〉 

ふたつの “旧軽井沢駅”(3)

“旧軽井沢交差点” の北側にあった初代旧軽井沢停車場は、その立地が悪く、乗客数も伸び悩んでいました。そこで大正14年、町の中心地である交差点南側の地点に、付属の臨時停留場を設置したい、と認可申請したものの、いくつかの問題を指摘されて、一旦はその申請を取り下げた、というところまでおはなしをしました。 

今回はその続きです。

ふみきり
旧軽井沢踏切
高原の空の下、旧軽井沢(2代目:旧 旧道)駅を発車した下り列車が三笠へ向かう。                                       
1959(昭和34年)  撮影:田部井康修

● 旧道停留場

もちろん草軽側は、これで諦めたわけではありませんでした。
夏期に軽井沢を訪れる避暑客の、乗合自動車利用への流出がさらに深刻化するに及んで、最初の申請から6年後の昭和6年5月、ほぼ同じ内容の認可申請を行います。
ただこの時は前回に失敗した表現をやめて、“新規で” 夏季停留場を設置したい”、というリクエストをもってアプローチしています。
さらに前述の、監督官庁から指摘された設置予定地の勾配についての問題については、

“できる限り調査をして、勾配の緩和を試算したのですが、どうしても多額の費用が必要になります。これではせっかくの停留場新設も、意味がないことになってしまいます。つきましては、当社とこの土地の事情を十分お汲みいただき、この勾配の位置に停留所を新設することの認可を何卒お願いいたします…”

と、ある意味開き直っています。

そして細かい事情はわかりませんが、結果としてこの翌月に認可がおりることになります。
(草津電気鉄道 旧道夏期臨時停留場新設の件:鉄道省文書 草軽電気鉄道 巻6・自昭和2年 至昭和7年)

これによって昭和6年、旧軽井沢交差点南側(新軽井沢側)に新規に設置されたのが、後に “2代目 旧軽井沢駅” となる “舊道”(以下旧道)停留場でした。ただこれは、通年の使用ではなく、前回の申請の時と同じ、夏季のみ5ヶ月間ということで認可が下りています。

改めて確認しておきますが、この段階ではまだ旧道はあくまでも “停留場” であり、“停車場” である旧軽井沢の方がメインであることには変わりがありませんでした。
ちなみに、この旧道という名称ですが、国鉄軽井沢駅前を通る国道18号を“新道”として、それに対する旧中山道の“旧道”、という意味です。             (下記、年代ごとの変遷を参照)


● 絵はがきに記録された舊道(旧道)
停留所

うどうき
“軽井沢旧道停留所白樺電車通行の景” (絵はがき)     提供:白土貞夫

ここで、取っておきの写真をお目にかけましょう。
この記事のために、白土貞夫さんからご提供を受けたものです。写っているのは旧道 “停留場です。
絵はがきにのタイトルは、“軽井沢旧道停留所白樺電車通行の景”。
撮影時期は客車の形状から、昭和10年代初頭だと思われます。
停車中の列車は草軽唯一の凸型機デキ50(旧番21)に引かれた、遊覧納涼客車 “あさま1” です(機関車についてこれらの客車について)。

六角形をした優雅な電話ボックス、2色に塗装されたモルタル造りのこれまたモダンな駅舎、そして避暑地軽井沢を象徴する開放的な客車、右端に見える “白樺展望電車運転” の看板…、そこに写っている全てが、戦前のよき時代の軽井沢の雰囲気、空気を現在に伝える、素晴らしい写真です。

そしてなによりも、“旧軽井沢” と改称される前の時代、つまり、“うどうき” (旧道)の駅名標を示しているこの駅の写真を、わたしは知る限り他に見たことがありません。つまり “旧道停留場” の、本当に唯一の記録(かもしれない)としても貴重この上ない写真です。

あと、今回のおはなしとは関係がないのですが、道路に降りる階段部分に設置された手すり、これ、どこかで見たことありませんか?(覚えのない方はこちら

あさまきっぷ 1
納涼電車乗車券
青地に、客車と浅間山のイラストが赤で印刷された美しい切符。
乗車区間は、旧道と旧軽井沢が一緒の扱いになっている。
          『改札口』 第6号  平成18年1月 東横乗車券研究会

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こちらもイラスト入りの遊覧記念切符。 やはり旧道と旧軽井沢がペアになっている。                                提供:加部様

● 初代駅の廃止、そして “移転”
ともあれこの結果、元からある旧軽井沢停車場と、そこから120m離れた場所にできた旧道停留場と、ほぼ同じエリアの中に二つの駅が存在する状況が生まれたのです。

前述しましたが、この “旧軽井沢交差点” をはさむ形で “駅” がふたつ存在した時代は、草軽にとって、戦前のもっともよい時期に他なりませんでした。自社の乗合自動車との競争を理由とする、列車のスピードアップ、増便、納涼客車の運転、華やかな宣伝など、戦争に突入していくまでの時代の、まさに “古きよき”時代だったのだと思います

1939
戦前の観光案内地図(軽井沢交通案内 軽井沢町観光課:1939)
旧軽井沢と旧道が両方表記されている。 


さて、新設された旧道停留所は、申請理由に書かれていた通り利用客で賑わい、繁栄していきました。そして当然の結果として、相対的に旧軽井沢停車場は凋落の一途を辿ることになります。
さらには前回確認した蒸気機関車の廃止、それに伴う給水設備の不用化が、駅移転のおそらく決定的な理由になったのだと思います。
 

全景
旧軽井沢(2代目:旧 旧道)駅
左手奥に通じるのが旧軽銀座。駅舎と踏切 、そして旧軽銀座との位置関係と当時の光景を、現在でも明確に知ることができる、大変貴重な写真。
                   1960(昭和35)年3月 撮影:竹中泰彦 

道の駅
上の写真の60年後の光景。
右手は草軽直営の “駅舎旧軽井沢”、左は旧軽銀座。
                   2019(令和元)年8月 撮影:小林隆則


 室内

本邦初公開!
旧軽井沢駅舎の内部を見る。 右手のブースは売店になっていたようだ。出札口はその奥になる。改札は画面左手。
                    1959(昭和34年)  撮影:田部井康修
     


草軽側のモーションは続きます。
旧道停留場を夏季のみでなく通年の営業にしたい、という認可申請を、早くも翌年の昭和7年5月に申請して、翌月に認可を得ています。
旧軽井沢停車場は既に見切って、地域の駅は旧道停留場の方へ集約したい、という草軽側の思惑はみえみえでした。これはあるいは開通前からの図り事だったのかもしれませんが、それは想像の域を出ません。

それを裏付けるように、8年後の昭和15年8月、旧道停留場の停車場への昇格、そして旧軽井沢停車場の廃止を認可申請することになります。この認可にはちょっと時間がかかって、翌年の昭和16年10月になって認可がおりました。

草軽側はその同日、停車場名称であるを“旧道”を、“旧軽井沢”とする認可申請を提出し、翌年昭和17年2月に認可がおりました。

このことによりついに、 “旧軽井沢駅の移転” が完了したのです。大正4年の開通から実に27年の歳月をかけた事業になりました。

そして新設された(新)旧軽井沢停車場は、鉄道の廃止まで町の中心として存在しました。そして現在でもその場所は、“駅舎旧軽井沢” となって、地元の人をはじめ、毎年ここを訪れる避暑客からも親しまれ、時代を超えた賑わいをみせる場所になっていることは皆様周知の通りです。


変遷 1

変遷 2

以上で、戦前に2箇所存在した、草軽電鉄旧軽井沢駅のおはなしは終わりです。

現在では地元の方すら、その事実を知る人は少なくなっています。
みなさまも、旧軽井沢の賑いの中に実際にいってみたり、あるいは映像で見かけた時などは、はるか昔の日本、太平洋戦争の緒戦の戦勝に沸く空気の中で、高原の駅が人知れず廃止され、その名前すら奪われて寂しく消えていった、という事実をちょっとでも思い出していただければ幸いです。              (おわり)

〈鉄道青年〉


 




ふたつの “旧軽井沢駅”(2)

田部井2
旧軽井沢駅(2代目)に停車中の下り列車。
列車から降りた乗客が三々五々線路上を歩いていく。手前から3人目の男性の先に
踏切が見える。その先は現在“三笠通り”になっている部分。
           旧軽井沢  1957(昭和32)年6月 撮影:田部井康修


前回は、初代旧軽井沢停車場について、せっかく立派な駅を設置したにも関わらず、立地的な利用客の不便を理由に、旧軽井沢交差点の反対側(南側)に乗降場を新設したい、という認可申請を出したところまでおはなししました。
この後、“駅移転” という大きなプロジェクトを前に、草軽側と監督官庁側との駆け引きが続くことになるのですが、そのはなしに入る前に、くどいようですが、最初に設置された旧軽井沢停車場は、どこにあったのか、そして “どうしてそこだったのか”、ということに触れておかなければなりません。

ずかい
住宅地図(ゼンリン)より


後藤不動産  旧軽駐車場
もちろん、前回ご紹介した昭和初期の地図の表記から、大体の場所、つまり現在の町営駐車場と、三笠通りを挟んで反対側にある後藤不動産の駐車場、その辺り一帯がかつての旧軽井沢停車場だった、という予想はできました。しかし、それは所詮 “イメージ” に過ぎません。どうにかもっと確実に立証ができないものか、実は最初の記事を書いている最中から考えていました。

そこでわたしは、“軽井沢の土地” のことですから、土地の方に聞くのが早いと判断して、真っ先に草軽交通(株)の遠藤社長様にその旨をストレートに打診してみました。
遠藤社長はご多忙の中でしたが興味を示していただき、社内の資料の中から、以下の重要な情報をご提供いただきました。
 

● 大字軽井沢561番地
旧軽井沢停車場:
本屋、付属建物 木造亜茅葺平家2棟 20.50坪 地番561番地
(大正年間 営業報告)

ここに出てくる “長野県北佐久郡軽井沢町大字軽井沢561番地”、
現在の住宅地図でこの地番を探してみると、そこはまさに後藤不動産駐車場の一角です。
また、これとは別の証言で、“町営駐車場(地図参照)のあたりには、草軽の社宅があった…”、というものもあり、この場所一帯が草軽の敷地であったことがわかりました。 

これらのことから、初代の旧軽井沢停車場の所在地はほぼ立証できたではないでしょうか。(上記の地図参照)

それでは実際に、どのあたりに軌道が通っていて、駅舎はどこにあったのか?、気になるところではありますが、それは残念ながら想像するしかありません。
ただ、遠藤社長は。併せてたいへん重要な情報を教えてくれました。
それは、“小川” の存在です…。

竹中旧軽
 旧軽井沢駅(2代目)に停車中の電動客車モハ102。
画面奥が下り(三笠)方面、現在の“三笠通り”。初代旧軽井沢停車場は、踏切を越えて100mほどの場所だった。写真の電動客車は 、夏季以外、新軽井沢と旧軽井沢の区間運転専用に使用された。
           旧軽井沢   1960(昭和35)年3月 撮影:竹中泰彦 


現状1
かつての踏切部分から三笠通りに向かった光景。右方向が旧軽銀座。
画面中程、大きな木が見える部分が初代停車場があった、後藤不動産駐車場。
                  2019 (
令和元)年7月 撮影:小林隆則


三笠通 1980
 1980年当時の “三笠通り”。上の写真とほぼ同じ位置からの撮影。
これはこれで時代を感じる光景だ。道路正面の2階建てが現存している。 
               1980(昭和55)年1月  撮影:小林隆則 

 敷地を流れる小川

上記の地図上でも、“561”の表記のすぐ横に小川(用水路)の表記が認められます。しかし、その場所に行ってみても、それは川と認識できる様子ではなく、ほとんど “どぶ” と同じような佇まいで、上にはフタがしてあるために、余程興味があって探さない限り、まず気づくことはないと思います。
では、なんでこのような小川がそれほど重要なのでしょうか?
いや、それはもはや重要を通り越して、停車場移転そのものの理由に関わる、といっても過言ではないのです。

 蒸気機関車

前置きはそのくらいにして、
理由は、“蒸気機関車” の存在です。
言うまでもなく、草津軽便鉄道として開業した草軽は、大正13年の電化まで、11両の蒸気機関車によって運行されていました。電化後もすぐに全廃されることはなく、昭和に入ってからも何年間かは電気機関車と併用されていたようです。

それでは、蒸気機関車の運転にまず必要なものとはなんでしょう、それは石炭と水、です。
このうち “水” をどこから得るか、火山灰台地の、ある意味不毛な土地である軽井沢を走る草軽にとって、それは他の鉄道にはない特殊な事情であるとともに、死活問題ですらありました。
事実、新軽井沢には、始発駅にして鉄道の中枢であるにも関わらず、驚くべきことに給水設備がなかった(設置できなかった)のです。

なんとか沿線近くで水を引けるところはないか…、このような理由から注目されたのが、先の561番地に流れる小川だった、というわけです。
つまり、絶えず水を必要とする蒸気機関車の運行を考えた場合、駅を設置する場所はもう “そこしかなかった”、ということになるのです。
この初代旧軽井沢停車場で給水を受ける機関車の写真が残されています。

《軽井沢町立図書館デジタルアーカイブ》 (← クリック)

ここに写っているのは、雨宮製作所製15トンの No.7か8です。大正9~11年に新車で導入された機関車です。

この機関車を記録した写真は非常に少なく、わたしの知る限り絵はがきの写真にも出てきません。その意味でもたいへん貴重な写真です。
愛宕山をバックに、爽やかな夏の高原風景の中、煙のにおいすら感じられるような素敵な写真です。
タイトルの通り機関車の背後には、大きな樽型の給水設備が2基見えています。

ただ落ち着いて考えれば、営業列車から機関車を外していちいち給水して、それが終わったらようやく発車…、というやり方は、素人が考えてもたいへん時間がかかっていたのではないでしょうか。事実、正にその理由によって、ようやく新軽井沢に給水設備が設置されるのですが、それは電化後の大正14年になってからのはなしでした。

以上のことから、初代の旧軽井沢停車場がこの場所(軽井沢561番地)に設置された、本当の理由がれ明らかになりました。
しかしそうはいっても、前回の記事で書いた、そこが “乗客にとって不便な場所だった”、ということはまぎれもない事実であり、草軽にとってみては頭のいたい問題であったに違いありません。
そして、これからそのおはなしをするのですが、その移転の契機となる理由、これもまた蒸気機関車の存在だったのです。

現状2
初代旧軽井沢停車場の場所。現在 後藤不動産の駐車場になっている。
画面奥は旧軽井沢交差点。


現状3
同じ敷地を三笠方面に向かって見る。
白い3階建ての背後は愛宕山。これと同じ角度の蒸機時代の写真が残されている。

現状4
前回の記事でご紹介した映画、“路上の霊魂” 作中で、少年が駅を出て歩いていくのは、赤い看板の美容室のあたりではないだろうか。
             2019(令和元)年7月  撮影:小林隆則(3枚共)

 

もうひとつ、遠藤社長から教えていただいたのは、

“旧軽井沢の給水器は動力の変更の後、用がなくなったため自然に朽ちてしまいました。ですので、今後新たに記入する必要もなくなりました…”
(鉄道財産目録変更届 昭和7年)

という内容の一文です。
これの意味することは、もはや説明の必要もないでしょう。

(初代)旧軽井沢駅の給水設備はもう使用しない、要するに蒸気機関車そのものの廃止により、給水設備があったために、“仕方なく” 不便な立地の場所で駅業務を続けなければならない理由、そのものがなくなった、ということに他なりません。

そして、草軽にとっての悲願が叶って、旧軽井沢交差点南側の場所に停留所を設置するのが昭和6年です。
蒸気動力の全面的な廃止と停留所の新設、この一見直接関係のないふたつの事柄の、年代的な見事なまでの符合は、今回みてきたように、“水” が直接の大きな理由だったことが明らかになったと思います。そしてそれは高原鉄道草軽の持つ特殊な背景、あたかも “光と影”、というべき面も露わにする事実なのではないでしょうか。

                            (つづく)

⦅協力:草軽電交通(株) 遠藤 孝社長様⦆


〈鉄道青年〉


 
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