草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

デキ図鑑(10) No.22・23・24

らうんどのコピー

● No.22・23・24
形態:ラウンド型
草軽デビュー:1937 (昭和12 ) 年
部分廃止後の残存:No.24 のみ
写真のレア度:No.22 ☆☆
       No.23 ☆☆☆☆
       No.24 ☆☆☆☆☆
※ デキ24は、部分廃止後も残存したため、末期での記録は多いが、
それ以前の写真はなぜか非常に少ない。


これまでデキ21までの11両のことを見てきましたが、今回の3両は、その導入時期・形態がほぼ同じなので、1度に解説してみたいと思います。

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デキ24(手前)とデキ21(奥) その形状の違いがよくわかる。
廃止後の線路撤去作業                    
 万座温泉口  1962 (昭和37) 年 3月 30日  撮影:田中一水


● 草軽に最後に入った3両のデキ
前回までの “デキ図鑑“ で見てきた通り、1923(大正13)年の電化時に用意された9両(デキ12~20)の後には、デキ21(新番)および凸型のデキ50(旧番デキ21)が増備されました。(“デキ図鑑9No.21“参照)
そして 1937(昭和12)年になって、さらに3両(デキ22〜24)が増備されて、ここに14両のデキ12形が全て揃うことになります。(※)

※『車両増備の件:昭和12年10月23日』(鉄道省文書 『草軽電鉄』巻8 )
昭和12年2月3日認可、同年4月1日竣工の「デキサ」21号電気機関車と同一設計の車両を予備として3両増備致したく〜

また、これによると、

中古機関車(1両) ¥ 3,000 × 3
改造費用(1両)¥ 1,600× 3
だったそうです。

『草軽電気鉄道』(プレスアイゼンバーン:1981)の記述では、デキ22と23が先に入って、最後の1両としてデキ24が草軽入りした〜、という記述になっているが、ここでは手元にある資料を参考とした。
どちらが正しいのかは不明。


正確に言えば、デキ21も最初はこの3両と同じ形状を持っていた。しかし戦時中から戦後早い時期にボンネットがフラットになっている。末期にマニアによって多く記録されたのはこの姿である。


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デキ23 上りの混合列車を引く     1958 (昭和33) 年8月
               旧軽井沢   撮影:高井薫平

● 最新型の美しい電気機関車
これら “新型“ のデキは、それまでのものとは大きく形態が異なっていました。
まず一番目立つ部分としては、機械室のカバー(ボンネット)が台枠の前端を超えて延長されたオーバーハングのカタチとなり、さらに全体が丸みを帯びた形状となりました。
それまでの、デキ20までの機関車(除 デキ19)が、前からみた時に機械室部分が丸見えだったところに、規則的な小穴を開けた立派なカバーが付けられて、洗練された形状になったわけです。そしてこの時代、草軽にとっては戦前の一番よい時代の増備だっただけあって、車体には砲金製の社紋とナンバーが付けられ、ピカピカに磨き上げられたは、末期の疲弊した姿とは別物のように
“しゃんとした“美しい機関車だったのです。

ではこの形状になった理由ですが、これもまた残念ながらよくわかりません。
抵抗器の増設、などといわれるのですが、これが具合のよいものだったならば、他の機関車もそのように改造されたはずだし、実際にこの機関車に乗務していた方に聞いても、“覚えてない、よくわからない“  とのことでした。
また参考までに、関係があるかどうかもわかりませんが、『鐵道財團目録変更届』(昭和14年7月)、という資料の中で

電気機関車サイドキャビン
22~23
ジャックスバーナー油差共他器具一才
電動機の容量17キロワット2台〜

という記述があります。

おそらくは、この戦前最後の日本がよかった時代、流行として多くの鉄道車両に表現され た “モダニズム“ を、草軽でも目指した車両だったのではなかったでしょうか。


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一般型 (デキ15) と並ぶデキ24  パンタグラフの形状の違いがわかる。なんとなく “顔つき“ も違って見える。
                 新軽井沢  撮影:隅野誠一

● パンタグラフも違っていた
さらに、屋根上に目をやれば、そこには新型のパンタグラフが乗っています。
これは、同じ頃に一般型(デキ21)を改造した凸型機、デキ50が乗せていたパンタグラフを縦に伸ばした、シーソーの部分がかなり高いところにある形状でした。(※)
しかしこの新型パンタ、あまり評判がよくなかったようで、後に3両ともシーソー部分の低い、一般型のものに装替されています。
いつ取り替えられたか、残された写真を見ると、デキ22は割と早いうちに替えられていていますが、デキ23・24はかなり後までこのままでした。特にデキ24は、部分廃止の前年、1958(昭和33)になっても、このパンタを乗せています。

せっかくの新型パンタでしたが、その形状に対して、“あまりカッコいいものではない“、と思うのはわたしだけではないと思います。乗せ替えた “旧型“ パンタも、“廃車発生品“、というものは特になかったはずなので、わざわざ新製してまであつらえたことは、マニアとしては幸いだったと思います。

※ 部品取りができたとしたら、昭和20年代に運用から外れたと思われるデキ14、1両しかない。(詳しくはこちら


そして、この3台は他のデキ12形と共に戦前・戦中、そして戦後の草軽に活躍しました。
1960 (昭和35) 年 4月の、新軽井沢、上州三原間の部分廃止の際に、デキ22と23は廃車となりましたが(※)、デキ24だけは残存して、上州三原・草津温泉間に束の間の活躍をみせ、その姿は多くのマニアのカメラに記録されています。そして、2両残ったもう1両であるデキ21と共に、廃線後の線路撤去作業の、本当の最後の日まで稼働したデキ12形になりました。

※ 部分廃止の直前には、デキ18が廃車にしたデキ23を名乗っていた。(詳しくはこちら


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デキ22  上り 新軽井沢行混合列車   1960 (昭和35) 年1月
        二度上     撮影:宮松丈夫(提供:宮松慶夫)

● どうやって見分ける?
このデキ22〜24の3両ですが、それぞれどこをみて “何番のデキ“ と判断できるでしょうか?。
もちろん車体には番号の表記はありました。ただ、末期のあまり手入れのよくない車体からはその判別は難しく、ちょっと離れてしまえば到底わかりません。
ひとつ視点があるとすれば、機械室(ボンネット)先端の、電源ケーブル用のコンセント部分の欠き取りが、3両でそれぞれ違うようです。みなさまも写真を見て確認してください。

● 最後にちょっとした謎
以前から気になっていたことなのですが、
大正時代に最初に電化してから、次の機関車の増備までには10年以上のタイムラグがあります。では、それまで、それらの機関車は、単純に “どこに置いてあったのか?“ ということです。
後に草軽デキ12形となる、アメリカ・ジェフリー製の10トン電気機関車は、信越電力(後の東京電力)中津川第一発電所建設工事のために、22両輸入されたそうです。(“中津川第一発電所建設工事軌道(1)参照)“。
昭和11年の機関車認可申請では、
(“車両設計ノ件“:昭和11年9月7日/鉄道省文書『草軽電気鉄道』 巻8)

東京電燈(旧信越電力)所属の電気機関車を譲受くるもの〜

という記述があるので、少なくともどこかのブローカーに流れたものを購入した、ということではなさそうです。
ということは、信越電力では工事が終わって、第1陣として9両の機関車を草軽入りさせた後の、残りの13両を長い間どこかに大切に保管していた、ということなのでしょうか。
あるいは、同じ会社の別件の大規模工事に、再度使用されていた、ということなのでしょうか…。

草軽へ送られた、都合14両の残りである8両の消息と共に、残念ながら(いつものことながら)全て疑問のままです。


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1962 (昭和37) 年 5月6日  線路撤去作業最終日のデキ24
             万座温泉口   撮影:田中一水

〈鉄道青年〉




小串鉱山の風景

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● 標高 1,650メートルの鉱山
かつて草軽電鉄の沿線、特に上州三原から終点の草津温泉までのルートには硫黄鉱山が点在していて、各駅にはそれぞれの経営する鉱山会社からの索道が導かれていました。
山奥の精錬所で精製された硫黄は、この索道によって草軽の駅まで運ばれて、そこからは草軽の貨車に積み替えられて、軽井沢へと輸送されました。

このブログのタイトルにもなっている、“レモンイエロー“ は、まさにこの硫黄の色のことで、浅間山に見守られた山麓を往く、草軽の列車のイメージそのものなのです。

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さて、今回写真をご紹介するのは、小串(おぐし)鉱山という、かつて群馬県嬬恋村に存在した硫黄鉱山跡です。
群馬と長野の県境にあり、その場所は毛無峠と呼ばれる標高1,650mの山中です。
近代的な採掘としては、昭和初期に始められ、全盛期にはこの厳しい山岳の環境下に、作業員とその家族、2,000人以上が生活をしていて、学校や映画館もある大きな街が形成されていたのだそうです。

閉山は1971年。
かつての大鉱山は、今ではそんな繁栄が信じられないほど自然にかえり、熊笹の茂る荒涼とした斜面に立ついくつかの索道の支柱がその存在を示しているに過ぎません。

しかし、草軽電鉄のことを語るこのブログでご紹介をしながら、実はこの小串鉱山で生産された硫黄は、草軽ではなく長野県側の高山村を経由して、長野電鉄の須坂へと運ばれていました。ですので、直接草軽とは関係がないのです。
ただ、索道の遺構がほぼ完璧に残されているこの光景は、かつて白根山系の山岳地帯に多く存在した硫黄鉱山の雰囲気を、リアルに今に伝えている貴重な光景と思い、ここに取り上げた次第です。


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● 映画  “ここに泉あり“
この画像は、かつて当ブログでもご紹介した映画、“ここに泉あり“(こちら)の一場面です。
後に群馬交響楽団となる高崎の市民オーケストラが、苦しい経営と生活の中、群馬県各地へと出張の演奏を行なっている様子を、このような山奥まで苦労してやってきていた…、ということを表現するシーンになっています。設定ではここは吾妻鉱山として紹介されていますが、本当であれば画像の索道は草軽電鉄の湯窪(ゆくぼ)駅まで運ばれて、貨車に積み替えられていました。

草軽が輸送した代表的な物資である精製硫黄、にも関わらずその生産プロセス・輸送に関しては資料も少なく、映像もほとんど残されていません。そのような意味でも、映画のシーンに登場する索道の情景は貴重なものだと思います。


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独立プロ映画   “ここに泉あり“ (1955)より


草軽の貨車、ホトやコワフによって運ばれ精製硫黄、それらが人里を遠く離れた山岳地帯の鉱山から延々と運ばれてきていた…、そんな光景を想えば草軽の情景も、また一層魅力的に見えるのではないでしょうか。

〈鉄道青年〉

デキ図鑑(9) No.21

1962.1.14(2)-1
デキ21 上州三原行 上り列車
東三原のスイッチバックを推進で下る。転轍は車掌の森住さん。
塞いでいるのは草津への国道。
     東三原   1962 (昭和37) 年1月  撮影:田中一水

● No.21
形態:フラット型(運転室窓4枚)
草軽デビュー:1935(昭和10)年
部分廃止後の残存:あり
写真のレア度:☆☆☆☆ (※)

※ 部分廃止以前が基準


草軽デキ12形 No.21(以下デキ21)は、昭和35年の部分廃止後も残存し、また全線廃線後の線路撤去作業にも最後まで従事した機関車だったので、(部分廃止後に限って)は多くの記録が残されています。(5)
それらの写真を見ればすぐにわかる通り、機械室(ボンネット)が延長され先端部分もケーシングされた、デキ図鑑の分類でいう “フラット型“ です。
この “フラット型“ は、このデキ21の他にはデキ19(こちら)があるのみのレアな形態の機関車です。

そしてこのデキ21、複合的な謎を持った機関車でもあります。以下みていきましょう。

うらっとのコピー

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デキ21  
延長されたフラットなボンネットがよくわかる角度。
廃線後の撤去作業列車。倒したポールが山積みになっている。
      谷 所   1962 (昭和37) 年 4月  撮影:田中一水


● 謎1 デキ21はたくさんあった!?
まずこのデキ21、その番号を名乗る機関車が2両いた、という事実があります。
といのは、写真で見慣れたこの L型のデキ21の他、草軽に興味のある方ならば間違いなくご存知であろう有名は凸型機、あれもデキ21(→ デキ50)だったのです。(こちら

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デキ50(← デキ21)・あさま1
デキ21から改番後のデキ50。後ろには番号を譲った(2代目)デキ21が見える。
   新軽井沢  1938 (昭和13) 年8月13日   撮影:荒井文治


これまで見てきた通り、デキ12形の草軽入りは1924 (大正13) 年で、その時点では 12~20 の9両が用意されました。
それから10年以上たった 1934 (昭和 9) 年になって、機関車不足を理由に “同形の機関車1両を増備したい“  旨の認可申請が出されます。(1)
ここで増備された機関車は、それまでのラストナンバーである 20 に続く連番で、当然 21 となりました。
そして、その竣工から間もなく車体を大改造され (2)、あの有名な凸型の姿になるのです。

ところが、これに続くデキ22を増備するにあたって、監督官庁より形式称号(記号)についてのクレームがつきました。曰く、

〜 デキ21に続く番号をつけるのは不適切、使用中のデキ21は別の形式に変えて、デキ22として申請している増備分をデキ21にしなさい…(3)

なにが不適切なのか、その記述はないのですが、やはりその形状が全く違うことを指摘している、と考えるのが自然だと思います。
この勧告を受け、凸型デキ21はデキ50に改番、新規で増備されたものが2代目のデキ21となりました。

ここまでをまとめてみましょう。

● まず、(初代) デキ21が通常のL型で竣工
● すぐにデキ21のまま凸型に改造 → デキ50に改番
● デキ22として申請した後続の増備機が
 (2代目) デキ21になる

つまり、“デキ21“ の番号を付けた違う車体の機関車が3種類あった、ということになるのです。

● 謎2 その形状

『草軽電気鉄道』(プレスアイゼンバーン 1981)、26ページに掲載されている、新軽井沢での L型のデキ21の写真があります。
これが上記の分類でいう、最初のデキ21なのか、それとも2代目なのかは、撮影年が不明なので残念ながらわかりません。
ただ、ここにに写っている姿は後の“フラット型“ではなく、ボンネットの丸い “ラウンド型“ になっています。
また、パンタグラフもデキ20までのものとはかなり形状の異なる、ヤグラの高いものがついています。
昭和10年代になって増備された他の3両(22~24)の戦前の写真を見ると、全部この “ラウンド型“ であることが確認できます。

そして、戦時中までデキ21が “ラウンド型“ だったことは、この写真が証拠になります。
(この写真が撮られたいきさつについてはこちら

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戦時中のデキ21 
      草津温泉 1942 (昭和17) 年 6月  撮影:加藤 湊


しかし、わたしたちがよく知るように、デキ21は “フラット型“ です。
どうして同じ機関車なのにカタチが違うのでしょう?

最初、車体の振替えなど考えたのですが、やはり単純に後からの改造だと思われます。
つまり、この部分に何らかのダメージを受け、修復が必要になっとき、 “ラウンド型“ に戻すのが面倒で、デキ19の例もあることですし、手間をかけずにフラットにした…、ということではないでしょうか。
その証拠、というほどでもないのですが、晩年のデキ21のボンネット延長部分を正面から見ると、“ラウンド型“ 時代と左右に付いたヒンジの位置は変わらないもの、天板をつなぐ部分に生々しい継ぎ足しの跡を確認できます。

ついでながら、(この記事) でも書いたのですが、かの映画 “カルメン故郷に帰る“ の最後のシーンで登場するのがこのデキ21です。昭和20年代半ばの撮影ですが、残念ながら撮影の角度だとボンネットの形状が確認できません。
そちらでもデキ21のことを画像をと共に紹介していますので、合わせてご覧ください。

1962.1.14(2)-4
デキ21・ホハ30形  下り草津温泉行き、発車前のひととき
部分廃止後も残ったデキ21、運転室側から見ると他のデキと区別が
つきにくい。
    上州三原   1962 (昭和37) 年1月  撮影:田中一水



● 個人的な思い込み
最後に、昔から個人的に感じていた疑問を書かせて下さい。
上記のように、

草軽電鉄デキ21は竣工後まもなく凸型に改造された…

実は、どうしてもここに割り切れないものを感じてしまうのです。
もっといってしまえば、

このデキ21は、本当に最初は L型だったのだろうか…

つまり、最初から既に凸型として竣工したのではないか?、ということなのです。
その根拠としては、

● 普通に考えて、竣工間もないぴかぴかの機関車に対して、このような “魔改造“ を施すものでしょうか?。(2)
やはり、古くなった機関車をレストアの意味も込めて実験的に改造を行う、と考えるのが自然だと思います。
実際にこの機関車は草軽では評判が悪く、三笠までの平坦線で夏季納涼客車を引くなどの活躍をしたものの、戦後すぐに栃尾鉄道に売却されています。

● また、この後に続くデキ22の認可申請・認可・竣工の流れがこのデキ21改造の時期とほとんど重なっていること。 (4)

● 先述の『草軽電気鉄道』に掲載されている、L型のデキ21の写真で確認できるヤグラの高い新型パンタグラフは、この後に増備される3両(22~24)にも装備されています。これは凸型のデキ50のものが最初にあって、それを設計流用したものではないだろうか、ということ。



全部で都合14両が存在した草軽デキ12形の中では、デキ14(こちら)に次いで語りにくいのがこのデキ21でした。しかし “デキ図鑑“ を続ける以上、避けて通るわけにはいかず、私が知ることと感じていることを、疑問の進行形ながら書いてみました。


〈鉄道青年〉


(1)  『車両増備認可申請所』 昭和9年10月 
鉄道省文書 地方鉄道 草津電気鉄道 巻7

(2)  竣工の後、いつ凸型への改造がなされたか、の具体的な資料は見たことがない。ただ、電気機関車設計変更の認可申請があり、これが凸型改造のことを指しているとすれば、デキ21は竣工から2年足らずで改造を受けたことになる。
『電気機関車設計変更ノ件』 昭和12年4月申請  
鉄道省文書 地方鉄道 草津電気鉄道 巻8

(3) 『車輛竣工の件 回答』 昭和12年6月  
鉄道省文書 地方鉄道 草津電気鉄道 巻8

(4) 昭和11年9月 認可申請/同12年2月 認可/同12年6月 竣工 
鉄道省文書 地方鉄道 草津電気鉄道 巻8

(5) その代わり、部分廃止以前の記録は大変に少ない。だから写真のレア度は星4個。





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