草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

金井 実さん

● 悲しいお便り
先日軽井沢より1通のお便りが、カットしたレール・通票のタマ、書籍などと共にわたしの元に届きました。
これは今回ご紹介させて頂く、軽井沢在住の金井 実さんのご息女様よりお送り頂いたものでした。

お便りには、父親の体調不良に伴う施設への入所、そして、これまでのわたしとのご縁を感謝して頂く内容が綴られ、最後には “父の大切な思い出にお付き合い頂いたこと、心より感謝いたします“、と結ばれていました。
ご本人がまだお亡くなりになってはいないのに、このようなお便りを受け取るということは、既に通常のコミュニケーションが取れる状態ではないのでしょう、正に “遺品“ のようなカタチで、突然お送り頂いた品々を見ながら、わたしはただ呆然としてしまい、心にぽっかりと穴が空いてしまったような大きな喪失感を感じたのでした。

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金井 実さん 奥さま         2015年 9月 ご自宅にて
金井さんが手にしているものは通票のタマ

● 金井 実さん
金井実さんは、昭和6年のお生まれ、三原のご出身でした。
戦後まもない昭和23年に草軽へ入社。草津前口駅の駅夫から始まり、上州三原駅・北軽井沢駅勤務、そして “三原組“ の車掌として列車に乗務し、鉄道時代の最後は小代(こよ)駅の駅長を勤められました。鉄道廃止後は、バス部門の現場に移り、草津中央駅を任せられるなど、まさに退職まで草軽の現場最前線に身を置かれた方だったのです。


そんな金井さんに、わたしが初めてお会いする機会を得たのは2015年夏のことでした。
その頃、わたしはツテを頼って、なんとかまだおはなしを伺える草軽のOBの方を探していたのですが、時はすでに遅かった、と言ってよかったかもしれません。それまでお会いできた方はもちろんみなさま草軽へで仕事をしてきたことに誇りを忘れず、こちらの図々しい質問にもたいへん喜んで当時を思い出して頂き、可能な限りのことをお答え頂きました。しかしご高齢であることは事実で、わたしが知りたい細かいディティールの部分など、記憶が飛んでしまわれていると感じることも少なくありませんでした。

そんな折、このブログを読んでご連絡を頂いた方がおり、その方のご紹介の、さらに人づてといったカタチでお会いできたのが金井さんでした。最初に軽井沢のお家にお邪魔をした時、わたしは挨拶もそこそこに草軽のおはなしを振りました。それに対して帰ってくるお答えの、その細かく具体的なことに、まずわたしは心から驚いてしまったのです。
そして、そのような方がまだお元気でいらっしゃる、ということに、舞い上がってしまうほどの喜びを感じたのでした。
それ以来、機会を見つけては、お聞きしたい質問をまとめて、軽井沢のお家へお邪魔をさせて頂きました。
金井さんの奥様もまたお元気で、いつも一緒におはなしにお付き合いを頂きました。鉄道員の妻として、永年生活を支えてきた思い出もまた、たいへんにリアルで興味深いものだったのです。

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小代駅長時代の金井さん(左)             
             1960 (昭和35) 年3月 撮影:竹中泰彦

● リアルなおはなし
とにかく金井さんの記憶力は驚くほどで、多方面への深い知識に裏打ちされたおはなしはリアルでした。
鉄道勤務時代の、勤務内容から車両のおはなしはもとより、どこそこの駅長が買っていたウサギの名前は何とかで…、といった内容から硫黄精製のことまで、とにかくお聞きするおはなしは多岐に渡りました。
わたしがこのブログで、今まで書いてきた草軽の勤務、車両・乗務員の運用など、実に多くの部分が、金井さんの証言に基づいています。

しかし、コロナ禍の世の中になってからは、お宅を訪ねることもできなくなってしましました。
それでも知りたいことが次々に出てくることに変わりはなかったので、それ以後はお手紙でのやりとりになりました。
そこでも、毎回、“とにかく昔のことで記憶も曖昧ですが…“、で始まるご返信は正確でよどみがなく、時には目をみはるような図まで添えて解説をして頂きました。


冒頭に述べたお便りをお送り頂いたご息女様は、わたしが2017年に北軽井沢駅舎で開催した写真展、“草軽高原を往く“、のパンフレットで写真を掲載した、三輪車で遊ぶ女の子、その方です。
まだお手元で保管されている方はぜひ確認して下さい。その写真展に、ご家族皆さまで写真展に来て頂いたのも大きな喜びでした。


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映画『ここに泉あり』(中央映画:1955)のロケ現場での金井 実さん(一番左)。その右は運転士、丸山利一郎さん
そしてデキに腰をかけているのは、オーケストラマネージャー、井田亀夫役の小林桂樹。
草津温泉・谷所間、“一の沢“でのロケ。  写真提供:丸山利一郎



コロナ禍は多くの人の心に暗い影を残し、それを蝕んでいきました。
わたしにはほとんどわからなかったのですが、冒頭で述べたお便りには、既にその頃より容体が不安定になっていた、ということが書かれていました。今になって、そのような中でもわたしの質問に必死に記憶を辿って頂いていたことを考えると、目頭が熱くなるのです。

これから、金井実さんに伺ったこと、見せて頂いたもの、このブログで少しづつご紹介をしていければ、と考えています。    (つづく)

〈鉄道青年〉

ホハ15

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17号機に引かれた ト2・ホハ15 の上り混合列車、たいへん好ましい編成である。
甲高いフランジの軋みが聞こえてくるようなシーン     小瀬温泉・鶴溜  
         1960 (昭和35) 年 3月  撮影:宮松丈夫(提供:宮松慶夫)

● ホハ15形 客車
みなさまが草軽の写真を見る際、恐らくはデキ12形機関車に引かれた、貨車・客車、の混交列車の形態と雰囲気から、“くさかる“ のイメージを持つのではないでしょうか。それはまた、貨車をつけていない客車1両の編成、あるいはデキの単機回送だけでも、立派な草軽の雰囲気になってしまいます。
つまり無意識のうちに、あくまでも “くさかる“ を印章付ける主役はデキ12形機関車で、引かれている方は、単に “編成“ という概念・認識しか持っていない、とうのが正直なところではないでしょうか。かく言うわたしもそのことは認めます。

これは、草軽の客車や貨車が、軽便鉄道としては大型で、(車掌室付きのL型貨車などを除けば)特に特徴ある形態の車両ではなかった、ということがあると思います。また、それらの塗色も、茶色や黒一色で、しかも末期はかなり汚れており、ひとことで言ってしまえば、たいへん “地味“ だったことが大きかったと思います。

しかしよく写真を見て、引かれている貨車や客車の写真もよく見れば、似ているようだけど、ちょっと違っていて、カッコのよいもの、そうでないもの、さまざまな雰囲気を感じることができ、興味深さを抱かずにはいられないはずです。
今回は、そんな中からホハ15形、という客車のはなしをしてみましょう。

まずは宮松丈夫様撮影の形式写真をご覧ください。
上の写真が軽井沢方、下が草津方を向いています。一部の窓に見える鉄格子は、そこが荷物室であることを示しています。
単純な箱型のように見えますが、車体各部の表情は結構“ 凝って“ いることに気付かれると思います。

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ホハ15  新軽井沢  1960 (昭和35) 年 3月  
               撮影:宮松丈夫(提供:宮松慶夫)

● 国鉄軽便線からきた客車
この客車は大正3年、汽車製造東京支店で製作されました。もともとは、国鉄狭軌軽便線だった、北海道の湧別線(現石北本線の一部:有名な常紋越えを含む区間)で “ケフホハ301・302“ として(※) 使用されていました。(湧別線と草軽の関係はこちら)まもなく同線が1067ミリに改軌されると、2両が草軽へやってきてホハ1・2となります(大正9年9月10日認可)。ちなみに、草軽では “ホロハ“ や “ホハニ“ はありましたが、“ホハ“ が頭についたのはこの客車が初めてでした。そして、この2両は大正15年の形式改訂で、ホハ15形(15・16)となるのです。
※ 鉄道省文書  草軽電気鉄道 巻4(自大正9年〜14年)

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草津軽便鉄道 ホハ1形図面
 鉄道省文書  草軽電気鉄道 巻4(自大正9年〜14年)

その草軽へやってきたばかりの姿、つまりホハ1形時代の図面をお目にかけましょう。これはおそらくは初公開だと思います。

この図面からまず気がつくのは、車体がオープンデッキであり、末期の姿とはずいぶん違っていた、ということです。
実際にそれがどんな雰囲気だったか、というと、幸い写真が1枚残されています。
再掲になるのですが、有名な絵はがきで、1926 (大正15) 年の草津温泉方面の電化開業記念列車、と言われています。これを見ると上記図面の客車が2両連結されていることがわかると思いますし、デッキはオープンで、そこに車掌が立っていることも確認できます。
ちなみに、牽引するデキにはまだ先輪が装備されていません。

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ホハ1、及び2で編成された下り列車   東三原・石津間 1926 (大正15) 年
                                                                  電化開業記念列車(絵葉書より)

● ある謎
その後この客車は、戦争中の昭和18年になって、日本鉄道自動車で完全な箱型の車体に改造され、写真の姿となるのです。
実は、ここで一つの謎が生じるのですが、それは ホハ15と16、2両ともこの改造を受けたのか、ということです。
思い出していただきたいのは、以前記事にもした昭和17年に東三原で起きたある悲惨な事故のことです。
この事故によって、破損した客車がどれだったのかを明確に示す資料は見たことがないのですが、
その他の車両が “無くなっていない“ ことと、ホハ16の廃車が 昭和21年 (※) ということを考えると、やはり、事故廃車となったのは2両のうちの1両、ホハ16だったのではないか、とわたしは考えます。
つまり、ホハ15が日本鉄道自動車で改造されるのが昭和18年のことで、件の事故が起きたのが昭和17年、ということを考えると時期的に、改造を受けたのは15、1両のみだったのではないでしょうか。

※草軽での車両竣工図付属の経歴より


● デキ12形に一番似合う(と思う)客車
残された1両、ホハ15は改造後、写真の通り原型を留めないほどの姿に変貌をしました。
しかしこの姿、好みもあるとは思いますが、わたし個人的には、あまたある草軽の客車の中では最もスタイリッシュで、デキ12形に似合う好ましいカタチになったと思います。
たいへん小型な車体ですが、結構堂々とした雰囲気を醸し出していますし、そここここに大正の雰囲気を残している、味わい深い雰囲気の車両になったと思います。
車体は前後非対称で、軽井沢方は独立した荷物室になっていて車掌室も兼ねていました。こちら側から乗車する時は、仕切りのドアを開けて客室に入りました。

兄弟車だったホハ16は全く記録も残らないまま、先に廃車となってしまいましたが、このホハ15は1960 (昭和35) 年 4月の新軽井沢・上州三原間部分廃止まで在籍して、他の客車と共に活躍し、多くのマニアよってその姿が記録されたのです。

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20号機・ホハ15 下り3レ  北軽井沢・吾妻
           1960 (昭和35) 年4月   撮影:竹中泰彦

● ホハ15形、最高の姿…
最後に、わたしが草軽の写真の中で昔から今に至るまで、最も心打たれる2枚の写真のうちの1枚。
竹中泰彦さん撮影による、北軽井沢での有名な写真を掲載いたします。
廃止間近のせいか貨車の連結のない、客車1両のシンプルな編成ですが、20号機関車が引いているのが
他でもない、このホハ15形です。
自身を含め、鉄道自体の廃止を前に記録された、この客車にとっても生涯最高の写真ではないでしょうか。

そして、この写真のイメージから、以前からOナローでぜひ作ってみたいと思っていた模型を、今回浅間模型で製作してみました。


〈鉄道青年〉




ホヘ19(補遺)

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                    フィギュア製作:舘野 浩

月刊 “鉄道模型趣味“ 主催のアニバサリー・チャレンジにて、わたしのエントリーした記事、“ある貨車の生涯 ー草軽ホヘ19のはなしー“ が、奨励書を頂きました。

これは、以前このブログでも記事にしたことのある、昭和初期の草軽に存在したハンセン病患者専用客車について、その実車のこと、及び残された図面からOナローで製作した模型を通して明らかにする、という内容です。

ただ、“アニバーサリー・チャレンジ“ の応募の趣旨が、“多年の努力によって醸成され、今後の鉄道模型・鉄道趣味の発展に資するもの…“、ということでしたから、最初は自分には関係のいないことだと考えていました。しかし、この後半部分はよくわからないとしても、前半部分については、少しは思い当たることがあるのではないか、と考え直し、テーマとして選んだのが、上記の内容でした。

● ホヘ19とは?
詳しくは、ぜひ以前の記事(こちら)を見て頂きたたいと思いますが、改めて簡単にホヘ19形客車のことを解説いたします。

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             草津電気鉄道 ホヘ19形(浅間模型製品)

ホヘ19形客車は、草津にあるハンセン病施設への患者輸送用専用客車として、昭和2年に竣工しました。ただ、完全な新車ではなく、それまで使用されていた有蓋貨車(コワフ30形:コワフ43)を改造したものでした。
しかしこの客車、(現在のところ)写真が1枚も残されていないのです。どのような形態をしていたのか、またどのように運用されていたのか、わかる資料もほとんど残されていません。ただ、たった1枚のみ、簡易ではありますが寸法の入った竣工図面があり、大体のイメージが持てるのはたいへん幸運なことでした。
廃車となるのは昭和10年、しかしその後、再び貨車に改造され、無蓋貨車ホト80(ホト83)となるのです。
このように、3度にわたりその姿をかえるという数奇な運命を辿りながら、残された写真もなく、人知れず歴史の闇に消えていってしまった車両だったのです。

ちなみに、2017年にわたしの主催するガレージキットメーカー、“浅間模型“ の最初の製品がこのホヘ19形でした(こちら)。逆にいえば、この客車の模型が作りたくて、浅間模型を立ち上げた、といってもよいかもしれません。

記事では、この製品化した模型を中心として、改造前のコワフ43、そして改造後のホト83をプラ板から製作しました。これらもまた、奇跡的に見ることができた(簡単な)図面から工作が可能となったものでした。
ここではそれらの写真をお目にかけましょう。

● 感 謝
今回の受賞、今まで特に注目されることもなく思い込みで少しづつ取り組んできたことを評価して頂きました。これは身の回りのことに追われる慌ただしい毎日の中で、本当に嬉しいことで素直に喜びたいと思います。

また草軽をテーマにされ、見事にグランプリを獲得された田中康彦さんの、“1949年  北軽井沢駅界隈(蘇る記憶のために)“は、実はこのブログを通じて、以前画像を見せて頂く機会がありました。その時は、自分では絶対に表現できない世界観に驚愕すると共に、このような作品、及びそれを創り出せる方がいる、ということに大きな喜びを感じました。
受賞は当然の結果だと思います。わたしにとってもたいへん嬉しいことです。この場を借りて祝意を申し上げたいと思います。


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            ホヘ19 の元車、コワフ30形(コワフ43)

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コワフ43を運用した、Koppel機牽引の混合列車。
電化後もしばらくは蒸気機関車が併用されていた。

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ホヘ19 廃車後、再度貨車に改造されホト83となる。

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ホト83を運用した戦時中〜敗戦直後の混合列車。
この時期、客車・電車の一部は画像の塗色をされていた。

〈鉄道青年〉

※  この記事は、あくまでも鉄道趣味の観点、車両への愛情から、これまで詳しく語られてこなかった車両の詳細にアプローチをするもので、それ以外の目的はありません。また、わたしがこのような活動をしていることは、関係施設にもおはなしをしております。
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