火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

草軽の最終列車 ー13号機関車のはなしー (1)

 1962年1月31日(1)


1962(昭和37)年1月31日 水曜日、草軽電鉄最後の日。
 

全線55.5㎞の線路のうち、その2/3以上の区間だった新軽井沢・上州三原間は2年前に既に廃線になっていました。他線との連絡も既になく、残された草津温泉までの約18㎞で文字通り細々と営業を続けていましたが、その残された区間も前年暮れに廃止の認可がおり、ついにこの日、草軽の線路は全て廃止されてしまうことになりました。
部分廃止になった時、それでも上下各6本設定されていた列車は、この頃には1日4往復に減便になっていました、貨物列車の運行も当然ありません。加えて前年7月には上州三原、草津温泉両終点と、スイッチバックのある万座温泉口を残して、他の駅はみんな無人になってしまいました。
車両、軌道、施設は全て古びて手入れも行き届かず、もはや誰の目にも草軽電鉄の廃線はまぬがれない状況でした。


丸山-22
 谷所に到着した下り1列車。13号機関車とホハ32。
丸山運転士(右)と車掌の今春さん。
提供:丸山利一郎 



その日、嬬恋村・草津町周辺の天気は荒れていました。
 前日からの雪は夜の間に降り積もって、朝になってからは一層その勢いを増しているようでした。

しかし長い歴史をもち、地域の発展に限りなく尽くした草軽電鉄の最後の日です。上州三原駅の山口助役を中心にして、下り始発列車である1列車の客車、ホハ32には5色のテープで飾り付けがなされ、車内にも紅白のテープが飾られました。そして窓には “さよなら草軽電鉄” の手書きの文字が見えています。降りしきる雪の中で、それらの原色の飾り付けは一層際立って見えていました。


平日の早朝、こんな天気にも関わらず、何人かのマニアが写真を撮っていましたし、記念に最後の乗車をしようとする地元の大人・子供もちらほらと見えます。熱心なマニアの人たちは、もう職員とすっかり顔なじみのようでした。

この列車を引いていくのは、正面に雪よけのスノウプラウを付けた13号機関車。運転士は丸山利一郎さん、車掌は今春(けさはる)さんです。

1列車草津温泉行きは、定刻だと上州三原発 7:05 です。一方、草津温泉発の上り始発、2列車上州三原行きの草津温泉発車は6:55。通常のダイヤであれば、2本の列車は途中の万座温泉口駅で交換して、それぞれの終点をめざします。しかしこの日の朝は、草津温泉駅でも積雪のため発車が遅れていました。この2列車に合わせるようにして発車を遅らせて待っていた丸山運転士の1列車でしたが、やがて上州三原駅に入ってきた連絡は、草津温泉駅からの救援要請だったのです。
 

前夜、最終の草津温泉行きを引いて21号機関車を運転していったのは井上 勇運転士でした。

上州三原と草津温泉では500m近い高度差があり、降雪量も三原側よりもずっと多いに違いありません。事実、草津温泉ではホームに留置してあった列車は、朝になってみるとほぼ雪に埋もれてしまっていました。ホームから進行方向に目をやれば、もはやフラットな雪原が広がるばかりで、どこに軌道があるのか全くわからない、という有様でした。

それでも井上運転士はなんとかならないものか、と機関車のみをはずして進路を開こうと努力を試みます。しかし駅を出てすぐに積もった雪にはばまれて進むことが困難になってしまいました。井上運転士の21号機関車にはスノウプラウも付いておらず、この雪の中で脱線でもしたらそれこそ大変です。ここにきて、草津温泉駅の高野駅長は上州三原に向けて救援要請をしたのでした。
 

上州三原ではその報せをうけ、既に発車準備が整い駅長の合図を待つばかりになっていた1列車をようやく発車させます。時刻は7時35分頃、定刻より30分の遅延発でした。電気機関車の運転室は、2人乗ればもう一杯になってしまうのですが、さらにこの日は除雪の作業員が数名乗り込んでぎゅうぎゅうになっていました。

上州三原駅構内を出ると、いきなり40パーミルの勾配が待っています。駅構内よりもずっと高く積もった雪をスノウプラウで押しのけて進みますが、スピードは一向に上がりません。家並みの中を進んでいきますが、この大雪の中、人影もほとんどありません。

やがて東三原のスイッチバックです、普段の3倍は時間がかかりました。そして当然のようにポイントは雪に埋もれています。まずはポイント部分を掘り出して、転轍が可能なまでに、入り込んだ雪を避けなければなりません。またスイッチバックですので、当然その作業は2回になります。作業員はもとより、運転士、車掌も混ざっての難儀な作業でした。東三原までの1㎞足らずの距離で、時刻はすでに1時間以上の遅れが出てしまっていました。そして非情な降雪は全く衰えることを知りません。
 

吹き溜まった雪に機関車は空転を繰り返しますが、ベテランの丸山運転士は砂を撒いてノッチを入れ変えて、ひとつひとつ焦らずにつき崩していきます。

旧湯窪貨物駅を通過して通称 “湯窪の大カーブ” と呼ばれる180度のターンをクリヤーすれば、もう間もなくスイッチバックの万座温泉口駅です。吹雪の中、雪まみれになってようやく到着した電車と職員に、霜田駅長は心からの労いの言葉をおくります。ここ万座温泉口駅は、先述のように最後まで上下列車が交換をする所でしたので、他の駅が無人化された後も、霜田さんはただ一人の駅員として残りました。

万座温泉口まで登ったものの、列車はまだ行程の1/3ほどしか進んでいません。そこで小休止をした草津温泉行き列車は再び吹雪の中を発車していきます。鮮やかな5色のテープもすぐに雪に霞んで見えなくなってしまいました。

ここからしばらく走れば、“仙之入” と呼ばれる丘陵地帯に出ます。そこはカーブも少なく勾配も比較的ゆるやかです。この区間だけは丸山さんはノッチをあげて、雪を蹴散らしながら快調に飛ばしていきました。次の草津前口駅は昨年無人駅になったところで、かつて精製硫黄の積み込みを行っていた頃の様子が全くウソのように静まり返り、雪の中に寂しい風景を見せています。しかしこれほど遅れているにも関わらず、辛抱強く待っていた乗客が乗ってきました。
 

終点草津温泉のひとつ手前、谷所(やとこ)に到着した時は、既に9時を回っていました。通常ダイヤで走れば7時50分頃には着いてしまう所です。谷所まで来てみると、いよいよ雪は深くなってきました。降雪は一段と強くなって、見ているうちにも雪が積もっていくのがわかるほどでした。

ここから終点の草津温泉までは、駅としてはひとつ先なだけでしたが、その行程は草軽全線の中でも最も厳しい線形をしている区間でした。積雪は一層深くなっているに違いありません。そこに客車を引いたまま進行していくのは、職員、乗客を危険にさらすことになります。

もはやここまで、ということになり、下り1列車草津温泉行きはここ谷所で運転打ち切りになります。そしてそのまま13号機関車だけを切り離し、 “救援1列車” として、草津温泉駅で雪の中に立ち往生している上り2列車を救出するべく、先行き全く状況のつかめないまま、吹雪の中を草津温泉へ向けて発車していきます。
時に午前9時30分を少し回った頃でした。 (つづく)


〈鉄道青年〉 

モハ100

電動車(絵葉書)

1枚のエハガキを手に入れました。

写っているのは草軽電鉄のモハ100型です。

 中くらいに有名な写真ですので、見たことがある方も多いと思います。

“電動車” というタイトルのついた、この写真に添えられたキャプションには、
 『大自然の息吹が ◯◯たる芳香を放つ 四千尺の高原を 電動車は夢の様に走る』

 とあります。何とも素敵で本当に夢のような光景ですね。

またエハガキにしては珍しく、“小林義治 撮影” と撮影者の名前が出ています。この小林義治という人、他にも高山植物の写真など撮影しているので、当時のネイチャーフォトグラファーだったのかもしれません。


さて、これはいつ頃撮影されたものでしょうか?。

車体の塗り分け、車番の表記、そして写真全体の雰囲気から、戦前に撮影された写真であることは間違いないと思います。

草軽モハ100型は、東洋工機の前身である日本鉄道自動車工業製、草軽初になる電動客車です。1941(昭和16)年5月に101~103の3両が竣工し、1944(昭和19)年になって、104・105の2両が増備されました。これといった特徴のない大人しいスタイルですが、雨宮タイプの足高な台車が一番の特徴です。


この写真に写っているのは、そのうちのNo.102のようです。この時代、番号は車体中央の社紋の下ではなく、左端下に表記されていました。

撮影場所は鶴溜・小瀬温泉間で、鶴溜を出ておよそ300mの地点のカーブです。
カーブの先は右正面に浅間山がどーんと見えるところで、写真にも裾野が写っています。映画 “山鳩” のタイトルに出てくるアウトカーブを行くデキ19の引く列車も、同じ場所の撮影でした。

まだ緑が芽吹く前の明るい高原風景は、おそらく5月のものです。そう考えると、これは竣工したばかりの電動車の試運転か、それに近い運行なのではないでしょうか。
 

ツートンに塗り分けられているのは、どのような色だったのでしょうか?。残念ながら、モハ100型の初期の塗色に関する記述を見たことがありません。ただ、ワールド工芸から出ていたこの電車の初期型が、マルーンとクリームに塗られてていたので、恐らくその色だったのでしょう。

ちなみに、色彩感覚の乏しい草軽でしたがこの後、戦時中から戦後すぐにかけて、”くすんだ緑色“と”白っぽい黄色“という塗り分けがなされていたようです。井笠鉄道の旧塗装を渋めにしたようなこの塗色は、イメージするにたいへん魅力的なのですが、昭和20年代半ばには茶色1色にもどされてしまいました。カラーで見ることができないのが非常に残念です。


ではなぜ草軽では、昭和16年という戦時体制になってから、電動客車の導入を考えたのでしょうか。

昭和15年の、監督局宛認可申請の文書を見てみましょう。
 

『現在運転中の旅客列車の多くは混合列車なので、速度も遅い上に停車時間も長く、旅客へのサービスに遺憾な点が多い。また、昨今重要鉱石の輸送量が激増しており、これら貨物の輸送も一層機敏に行わなければならない。電車の導入後は混合列車を廃止して、旅客輸送にこれをあてる。貨物輸送には電気機関車全てを投入して運転回数を増やす。これによって旅客へのサービスを向上し、併せて貨物の輸送力も増強する計画…。』


ここに出てくる“重要鉱石”とは、言うまでもなく、ほとんど硫黄鉱石のことを指しています。つまり草軽では、戦時輸送増強のために客貨分離を目論んだわけです。
 こうして導入されたモハ100型電車は、先述のように戦争終盤の昭和19年になって2両が増備されて全部で5両となりました。


それでは、果たして草軽の“客貨分離”は成功したのでしょうか?。

後の輸送形態をみれば、それは失敗だった、といわざるを得ません。戦時中にせっかく新車で揃えた電車でしたが、戦後すぐの昭和22年に1両(105)、昭和25年に2両(103・104)を栃尾電鉄に売却してしまいます。草軽に残った2両も、もっぱら新軽井沢・旧軽井沢の区間運転に使用され、地味な運転に終始したのはご周知の通りです。今となっては、その明確な理由は知る術がありませんが、当時の運転士のはなしとして、
 

● 重心が高く下りのカーブで怖かった。

● 草軽では唯一のエアブレーキ装備車だったが、草軽の急勾配・急カーブにはハンド  ブレーキの方が使いやすかった。


などの証言があります。

結局、電化以来の重心のたいへん低い電気機関車によって牽引される混合列車が、基本的な形態として鉄道の最後まで運行されたのでした。


ちなみに、モハ100型の写真ですが、晩年まで残った101・102の写真は多く残されている反面、戦後すぐに草軽を去った3両の写真は見たことがありませんでした。しかし最近になって、103・104の写真を見ることができましたので(拙ブログ:“14号電気機関車” 参考)、わたしにとって “幻の” 番号はモハ105、ということになります。

〈鉄道青年〉 

ホハ10をつくる(下)

DSC02760

いきなり完成です。

特に変ったことはしていませんが、台車は日光モデルに特注した、TR20に11.5㎜のプレート車輪 を付けたものです。
塗装は茶色1色なので問題は無いのですが、いつも迷うのは “どんな茶色にするか”、というです。 残されたカラーの写真を見ると、同じ茶色でも赤っぽいもの、黒っぽいもの、それらが色あせてよくわからなくなっているもの、など様々です。今回はちょっと暗めの茶色にしてみましたが、思ったよりも地味なのでもう少し赤っぽくすればよかった、と思いましたが手遅れです。

DSC01395

でも、そんなことよりも困った問題が完成後に起こりました。 それは、なんだか決定的に実車のイメージと違うのです。 
正直に言えば、若干の設計ミスはごまかして作っているのですが、そんな細かい問題ではなく違うのです。
では、一体どういうものが “実車のイメージ” なのでしょうか? 。
それは大きな台車と車輪がむき出しになった、腰高な車体とのアンバランスだと思います。これらの写真を見ればわかるように、元の姿の “電車” は、木造単車としてはかなり大柄なものでした。しかし、それすら感じさせないほどに、足回りとのバランスが悪いのです。まあ、そういう部分が “軽便” “ナロー” の魅力には違いないのですが…。
要するに、わたしの模型は “足が短い”  のです。実際の車輪径は610㎜で、1/48に換算すると12.7ミリです。先述の通り、わたしが付けたのは11.5㎜、これでは確かに小さいです。このことは最初からわかっているのですが、12.7㎜の車輪というのは入手が困難ですので、割り切ってやってきました。
ですので今回も、“こんなもんかな…”、と諦めようとしたのですが、思い直して、試しに0.8㎜ほど車高を上げてみたのと、屋根をできるだけ薄く削ってみました。
この加工をすることによって結構見られるようになった、と思えたので、完成としてしまいました。後は皆さまのご判断にお任せします。

DSC01405

この客車を製作するにあたって、どうしてもやりたいことがありました。
それは、RMライブラリー No.53 『草軽 のどかな日々』に載っている、宮田道一さん撮影の印象的な写真です。新軽井沢駅構内で発車を待つ下り電車には、機関車のすぐうしろにこのホハ10が付いていて、開け放った妻面の窓からは2人の女子高生が楽しそうにおしゃべりしている、という場面でした。この光景をなんとか再現したいものです。
このような時頼りになるのは、いうまでもなく舘野 浩さんです。写真とイメージを伝え、実際の配置のためのジグもお渡しして、いつもながらの素敵な乗客を作ってもらいました。
洋子さんと真智子さん、にしましょう。
ふたりは県立軽井沢高校に通う高校2年生。洋子さんは長日向から、真智子さんは旧軽井沢から電車に乗って軽井沢に通っていました。夏休みも間近な日、たまたまクラブ活動が休みだったので、いつもよりも1本早い電車に乗って帰ることにしました。夏の夕暮れ時、昼間の暑さがそのまま残っていましたが、ひとたび電車が動きはじめれば、正面から吹き込んでくる風は爽やかで、緑のいいにおいを運んできます…。

こんなストーリーに免じて、わたしの拙いホハ10型客車も大目に見て頂きたい、と思います 

DSC01385

〈鉄道青年〉 
記事検索
アクセスカウンター