草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

草津温泉駅の謎(5)

草軽電鉄の55.5㎞

これまで草津温泉駅の移転について拙い考察で述べてきましたが、もうひとつこれにちなんで、草軽電鉄の “総延長” についてここで触れておきたいと思います。

草軽が好きで研究されている方ならば、その総延長距離が “55.5㎞” だった、ということはすぐに出てくると思います。ナローゲージとしてのこの距離は、静岡鉄道駿遠線に次いで長いものだったことは有名ですね。
しかしちょっと考えてみると、“55.5㎞” というのはなんとも大雑把な表記だと思いませんか?。
戦前の資料などに目を通せは、その延長距離についてはそれこそ “何㎜” の単位まで出ています。それを100mの単位で終わらせてしまうとは、どういうことなのでしょう。
しかし手元にある資料など、公式なものを含めて、戦後に書かれたものは全て見事に “55.5㎞” と言い切っていますし、他にそれ以上詳しい数値の表記は見たことがありません。
これはひょっとして、表記とおり総延長は55.500㎞だった、と判断するべきなのでしょうか?
これが疑問の発端でした。

 

17.6.4使用
草津温泉駅跡記念碑

大きな手がかりとして期待されるのが、写真の草津温泉(旧)駅跡にある記念碑の文章ですので、これをみてみましょう。
曰く、
“長野県軽井沢町と群馬県草津町を結ぶ草軽電気鉄道 55粁241米 の群馬県側の始発駅として…” とあります。
“55.5㎞”ではないのです。もしもこの記述を信じるとすると、259mの誤差が出てしまいます。

さらに、手元にあるもう一つの資料。
草軽(草津軽便鉄道)が念願叶って草津温泉まで開通した際の監督官庁への報告、“草津前口草津温泉間線路敷設工事竣工監査報告”(T15.9.20)にある記述をみてみましょう。
“新軽井沢起点 三十四哩二十一鎮三十一節 に於ける草津温泉停車場~” 。
これは、“34マイル21チェーン31リンク” と読みます。それぞれの単位をいちいち確認していると長くなりますので、計算した数字のみあげれば、これはほぼ55㎞146mとなります。
この数字でも、354mの誤差がでることになってしまいます。

それぞれの距離表記が何を根拠にしていたかは今となっては不明ですが、10歩譲ってここから考えられるのは、資料によって誤差はあるものの、戦時中に “旧駅”から“新駅”へ移転した際、その延長を加算して、結果 “55.5㎞” になったのではないか、ということです。


別にこのような部分に拘らず、“大体そのくらいの距離だった” で片付けてしまえばいいのだし、皆様も興味はないことだとは思うのですが、あえてはなしを進めます。
というのは、草軽電鉄の総延長 である “55.5㎞”、その “証拠” をついに発見したのです。
この写真を見てください。

1962.3.29-3
草津温泉駅構内(線路撤去作業中)  1962(昭和37) 年3月29日 撮影:田中一水


これは昭和37年、草軽が全線廃止になった翌日の草津温泉駅構内の様子です。既に新駅への延長区間の線路は撤去されてしまい、これは旧駅があった部分の様子を記録したものです。カメラは軽井沢を向いています。

途切れた線路上にトロッコが停まっている地点、その右側に見えるのは旧駅のホーム跡です。そこに立っている電柱の下あたりをよく見てみれば、何かの標識が確認できます。
拡大してみましょう。

1962.3.29-3-3

 この標識は、1㎞ごとに立つ距離標の中間を示すもの、つまりこれが立っているのは最後の㎞の地点からきっちり500mの場所ということです。
さらに本当にありがたいことに、撮影者である田中一水さんは、この標識を記録してくれていました。
 

1962.3.29-3-2
 草津温泉駅構内 1962(昭和37) 年3月29日 撮影:田中一水

55㎞と500m。文字通りこれは動かぬ証拠、といってよいでしょう。
そして、この標識が立っている場所をもう一度見てみましょう。“旧駅”のホーム跡の末端部分です。つまり戦時中に“新駅”まで線路が延長されるまでの終点部分。新軽井沢から延々続いた線路は正にここで終わっていた、ということになります。
草軽電鉄の総延長55.5㎞は、戦時中 “新駅” まで延長されるまで、間違いなく55.500㎞だったのです。

しかし喜んでばかりもいられません、そうなると当然もうひとつの疑問が出てきます。
いうまでもなくそれは、“だったら延長された後、総延長はどう変化したか。” ということです。
旧駅から新駅までは、現在歩いても、少なくとも200mくらいの距離はあります。にも関わらず、前述の通り、戦後の資料は全て、“55.5㎞” なのです。
延長されたのが戦時中、ということで、監督官庁への報告もおざなりになってしまい、戦後はもう “どうでもよく” なってしまったのでしょうか?。それも考えにくいことです。
恐らくこの問題もまた、永遠に謎のままなのかもしれません。



“フォト蔵” の写真

これで、わたしの “草津温泉駅が戦時中に場所を変えていた”、という事実に関する記事はおわりです。

最後にぜひご紹介したい写真があります。

南西方向から草津の街を見下ろした光景です。草津中学校の新校舎が写っているので、撮影は恐らく昭和30年前後ではないでしょうか。ぜひ拡大してご覧ください。
これは以前、“フォト蔵” で見かけた写真なのですが、今回このブログで掲載したいと思って撮影者に連絡をとろうとしたところ、既に削除されてしまっており、手がかりがありませんでした。でも、あまりに素晴らしい写真なので、あえてここに掲載させていただくこととします。
もしも撮影した方、関係者の方がご覧になっていたら、ぜひご一方頂ければ、と思います。

2010-10-30 -2

標高1500mの高原に広がる草津の街並。
手前の広大な校庭をもつ学校は草津小学校と草津中学校です。長野原からの道路は画面の右端から街の中心部に向かって伸びています。
そして、草軽電鉄の草津温泉駅もしっかりと記録されています。
その部分を拡大してみましょう。

2010-10-30 13-53-23_org-2

 画面右端は旧駅構内の末端部分です。そこから伸びる線路は、本当に180度近くカーブを描いて、国道に面した地点で終点となます、いうまでもなく “新駅” です。そこには駅舎もしっかりと見えていて、ホームの屋根も確認できますが、そこに車両がいるかどうかは残念ながらわかりません。
しかし、そんな細かい部分にこだわらなくても、なんともおおらかでゆるやかで静かなやさしい写真ではないですか。たとえ線路はよく見えなくても、なんでこんなに草軽電鉄の情景に心を奪われてしまうのか、言葉ではなく説明できてしまうような光景だと思います。

街を見下ろす小高い丘の上に立てば、ずっと遠くの山並みが見渡せて、流れる雲はゆっくりと大地に影を落としながら過ぎ去っていきます。学校の校庭からは子供達の明るい声が、かすかな硫黄のにおいと共に風に乗って聞こえてきます。
もしも今、ここに軽井沢からの電車が到着すれば、きいきいと線路を軋ませる音がよく聞こえることでしょう。ホームに着いた電車からはけっこうたくさんの乗客が降りてきて、湯畑までいく“10円バス”に乗換えていますし、そのまま歩いていく人も大勢います。終点に着いた電車は、そのままバックしていって操車場で向きを変えて、またホームに戻ってきました。しばらく線路を軋ませる音や連結器の音が遠くに聞こえていましたが、やがてまた静かになって、時々耳の中で“ぼうぼう”いう風の音と、それにのせた子供達の声だけが聞こえていました。  (完)


〈鉄道青年〉 


おしらせ

当ブログ、
“火山山麓のレモンイエロー:草軽電鉄の記憶”
のタイトルを、

2018(平成30)年6月14日 より、

 “草軽電鉄の記憶:火山山麓のレモンイエロー” 
に変更いたしました。

引き続きご愛顧を頂けますよう、よろしくお願いいたします

〈鉄道青年〉 

草津温泉駅の謎(補遺)

駅人物
上州草津驛  1952 (昭和27) 年 撮影:田端久道(提供:田端秀行)


この写真、
建物の看板に “上州草津驛”、と書いてあります。
滋賀県にも草津という地名はありますが、“上州” とつく限り間違いなく群馬県、草津温泉の草津でしょう。
これまでおはなししてきた草軽電鉄の駅は確かにありましたが、それはその名の通り “草津温泉” 駅でした。

ではこの駅は何なのでしょう、というのが今回のおはなしです。

はじめに、この写真を撮影されたのは田端久道さんという方です。撮影は昭和27年。

ご本人は既に亡くなられているのですが、アマチュアカメラマンだったお父様の写真を整理されているご子息、田端秀行さんのご提供です。
これまでお会いしたことはなかった方なのですが、昨年(2017年)に開催した草軽の写真展でおはなしを伺う機会を得ました。

見せて頂いた草軽の写真は、純粋に鉄道写真のアプローチではなく、駅や車両をとりまく人々の光景が中心でした。その撮影は実に昭和23年、というもので、想像もつかない遠い昔の草軽の光景が生き生きと蘇るものでした。
それらの写真を、このブログでみなさまにご紹介できれば、と心から思います。


さて、本題にもどりましょう。
写っているダンディなお方は、撮影者である田端久道の連れの方のようです。ここでは交代でカメラに収まっています。

言葉で説明するよりも、この案内図を見ていただきましょう。(拡大可)

温泉案内図
“草津温泉旅館案内図”     (“草津高原”:草津町観光協会  1957)より                             提供:草津町教育委員会

左下のほとんど町外れに草軽電鉄の草津温泉駅の表記があります。
これを読んで頂いているみなさまには、もうそれが “新駅” であることの説明の必要はないでしょう。
この駅から町の中心に向かって歩いて行くと、最初の大きな交差点があって、まさにその場所に “上州草津駅” の表記が見えます。

勘違いしてはいけないのは、ここに鉄道が通っていたわけではありません。駅、とはいってもバスの駅、国鉄のバスターミナルだったのです。
写真で見る、当時の草津の賑わいはたいへんなもので、まだマイカーが一般的ではなかった時代、交通の花形はバスでした。草津を中心として、各方面へと発着する多くのバスは、まさに“駅”の雰囲気だったのでしょう。
残されている写真からも、当時の活気が伝わってくるようです。
下の写真は、上の写真が撮影された昭和27年から数年後の “上州草津駅” ですが、大きなひさしが増設されて、さらに立派な構えになっています。

この駅は、昭和41年までこの場所に存在して、以後は通りの向かい、現在のバスターミナルがある位置に移転して、建物を新築して現在に至っています。

上州駅
“草津高原”(草津町観光協会  1957)より     提供:草津町教育委員会



さて、“駅” と名のつく施設が、草津温泉には複数あったことがわかりました。
そして、それはふたつだけでなく、実はもう一ヶ所あったのです。

上記、“草津温泉旅館案内図” をもう一度見てみましょう。
“上州草津駅” から、さらに町の中心へと歩いていけば、ほどなく今も昔の変わらない、草津温泉の象徴である “湯畑” に行き当たります。
この湯畑を囲む施設の中に、“中央駅” と書かれた表記があるのがわかります。
ここにも駅が!?、とわたしは驚きました。
そして、こちらの駅の方が、先の“上州草津駅”よりも、ある意味重要なのです。

何故かといえば、これは草軽電鉄の駅だったのです…。

もちろん、草軽の電車がここまで入ってきていたわけではありません。
ここもまた、“草軽電鉄の” バスターミナルだったのです。

草軽電鉄(の鉄道線)の駅は、図の通り町外れにあったのですが、国鉄をはじめとした各社と地域の覇権を競った草軽電鉄ですから、少なくとも“草津”の冠した駅が、このような寒駅でおわろうはずもありません。
つまり、草軽電鉄の草津側の中枢として存在していたのが、この湯畑に面した、その名も“中央駅”だったのです。
草津で最初に街頭テレビが設置されたのも、この中央駅だったのだそうです。
電車の時間になると、ここから鉄道駅まで、“10円バス” と呼ばれたシャトルバスも運行されていました。

写真は鉄道の草津温泉駅です。
停車したバスの方向幕には、“草津湯畑” と表示があるので、これが中央駅行きの “10円バス” なのかもしれません。
駅舎も末期に比べて、まだ全然ばりっとしているように見えます。

10円バス
“草津高原”(草津町観光協会  1957)より     提供:草津町教育委員会

ところがです、このように賑わった草軽の中央駅ですが、やはり写真がないのです。
そして、いつ頃までそこに存在していたか、というのも今のところ不明です。
もちろん天下の草津温泉、しかもその中心である湯畑ですので、全体を見渡す写真は確かに残っています。でも、それではよくわからないのです。
もっと、どのような施設だったのかがわかるような写真が見てみたいですし、これからも資料を探してみます。


草津温泉駅のおはなしに絡めて、もうひとつのちょっとした “謎” のおはなしをしてみました。 (つづく)                                            協力;田端秀行様/ 草津町教育委員会 中沢様
〈鉄道青年〉 



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