火山山麓のレモンイエロー : 草軽電鉄の記憶

その昔、浅間高原を走った軽便鉃道のこと、その模型など思いついたままに語る、鉃道青年のブログ。

浅間模型

浅間模型製品第一弾は、ホヘ19!

前回は浅間模型立ち上げるのおはなしをいたしました。
その浅間模型の最初の製品として、先日までこのブログでご紹介をしていた草軽の病客車、ホヘ19型を製作いたしましたので、この場でご報告いたします。
スケールは1/48、16.5㎜。真鍮製組み立てキットです。

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所属しているOナローモジュール倶楽部(ONMC)の代表である川村きよしさんに、草軽に所属した車両の図面をおこして頂いて以来、わたしにとって、このホヘ19型は是非とも製作してみたい車両のひとつでした。否、筆頭、といっても過言ではなかったのです。

なぜ写真1枚残されていないこの車両に心を奪われてしまったのでしょうか。
ブログの記事でもおはなししたように、ホヘ19は貨車から改造されて客車になった車両です。車両のサイズや妻面などを見ると、そのまま貨車の面影を残していますが、全体をみれば(図面だけですが…)、粗野な中にも大正から昭和初期にかけての特徴的な、凝った意匠を見ることができます。
軽便鉄道の “病客車”、という極めて特殊な車両ではありますが、どこかアメリカ的な雰囲気も感じさせつつ、あくまでも美しい日本の客車です。そこにつく巨大な台車と車輪の醸し出す雰囲気は、他の草軽の車両とは全く違った大きな魅力を感じさせます。これを、図面という二次元の世界でなく、三次元で再現できたら、と思っただけでもうわくわくしてしまったのです。


ただ記事でも書いた通り、ハンセン氏病患者輸送用という用途で運用されたこの客車は、その誕生のいきさつからして曰くがありました。そこにはその当時の患者が舐めなければならなかった辛酸の消し難い事実があり、またそれらの問題はまだ、“遠い過去の歴史” にはなっていないのです。
単にマニア的な興味本位のみで、この車両にアプローチしようとするのは、ある意味ナンセンスなことなのかもしれません。
しかし、“マニア的な興味” でなければわからないことも多くあるはずです。現にこのホヘ19型に関しては、写真も全く発見されていない上に、具体的な証言ももはや得ることは多分不可能なことでしょう。
草軽が好きでかこの車両に興味を持って、そのいきさつを調べて記事にしてみなさまに読んで頂く、そしてそれがどのような形態のものだったのか、模型として再現してみる。それができるのはむしろ、“マニアの特権” と考えることにしています。


模型のことにはなしをもどしましょう。
スケールは1/48、16.5㎜ゲージ。一応 “On30” です。
写真からはどのような印象を持たれるでしょうか?。
“せっかく細かい部分まで作り込めるOスケールなのだからもう少し…”、といううご意見ももちろんあるでしょう。
ただわたしは、逆に “Oなのだから、◯◯しなければならない…”。という考えには賛同できません。やりたい方がそのように工作すればいいだけのことです。
それを “できない”(わたしのように…)人が、“かくあるべき” と考えて思い詰めると、やがて鉄道模型そのものを憎しみの対象のように感じ始めてしまいます。

だから、いいわけではあるのですが、わたしが作ったり考えたりする鉄道模型は、 “超絶” とは対極のところにあるもの、といってもいいものかもしれません。たとえ超絶な工作はできなくても、もっと気楽に明るく鉄道模型の工作は楽しめる、ということを完成写真から感じて頂けたなら幸いです。

とはいっても、それをお客さまに買って頂く、という以上、それはプロの仕事になります。なんら言い訳、能書きは通用しません。
ですので、矛盾するかもしれませんが、いい加減なものは作っていないつもりです。
今までのキット製作の経験から、“こうだったらやりやすいのに…” と考えた部分もいくつかありますし、“木造車” の雰囲気を強く出すために、重量が出てしまうというリスクをおかしても、全体0.5㎜厚板を使用することにこだわりました。
また、ディティールアップのためには、よきベースとなるようにも心がけたつもりです。

あと、ガレージキットの強みなのかもしれませんが、使用する素材、パーツは可能な限り同包しました。
これは、細かい素材やパーツを別に模型屋へ買いに行かなければならない、というのが自分にはとてもストレスだった、という経験があったからです。そして、ようやく行った模型屋の店頭で、“在庫切れ”“入荷未定” の宣告を受けたときのあのショック!。みなさまも経験があると思いますが、やり場のない怒りと共に、モチベーションも限りなくゼロ近くまで落ちてしまいますよね。
わたしはそれがいやだったので、その分値段は上がっても、作り始めから完成まで責任を負えるものを目指しました。
いくらか、というと、税込 ¥27,000- の予定です。

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来月東京ビッグサイトで開催される国際鉄道模型コンベンション(8/18~20)で、城東電軌様との共同出店をいたします。
ぜひお越し頂き、Oスケールならではの質感・重量感をお確かめください。
なお、18日(金)のみ、わたし(小林)は売り場に不在です。19・20(土・日)はおりますのでお声がけください 。

最後になりましたが、今回の浅間模型立ち上げ、製品の製作には、城東電軌、鵜藤様の全面的なアドバイスを頂きました。この場を借りてお礼を申し上げます。

〈鉄道青年〉

浅間模型、はじめます!

プレート

わたしの手元にこのようなプレートがあります。
25才のとき、銀座の伊東屋で製作したものです。

当時わたしは、大学は出たものの、教員を目指しては挫折して、デザイナーを目指しては挫折して、エディターとかになったものの、その仕事の過酷さに、逃げるようにしてやめてしまったり…、と、とにかく全く地に足がついていない生活を送っていました。そのくせ、真っ当に社会人としての地盤を堅実に固めて、自信をと誇りを持って生活している自分と同年代の人たちに、激しい劣等感を持っていたのです。
このように、その頃のわたしの生活は矛盾に満ちた、正に体のよいPU太郎でしかなかったのです。

こんな生活をいつまでもしているわけにないかない…。
わたしにも少しは向上心があったとみえて、その後一応 “ちゃんとした会社” に就職して真面目に働こう、と考えたのでした。
そして、そこで頂いた初めての夏のボーナスで、このプレートを作ったのです。
そこは、別に鉄道模型と関係のある仕事だったわけでは全然ないのです。では何故、このようなものを作ろうと考えたのでしょうか。
当時の気持ちを一生懸命思い出してみれば、それはようするに、“夢を忘れないように” ということだったのだと思います。

この当時から模型の工作はしていましたし、もちろん “就職先” として、その世界も視野にはいれていました。でも現実はそれほど甘くはなかったのですね。
それに、“鉄道模型屋(メーカー)を始める” などというには、それこそ億単位の資金と、業界の強力なコネを構築していなけばならない、と当時は信じていて、そのようなこと到底自分には敵わない、関係を持ちたくても全く無関係な世界だ、と諦めていたのです。
でも趣味で工作は続けていても、せめてそんな気持ちだけは忘れずにいたい、なんてカッコつけて言えばそうなのですが、優柔不断な生き方に戻ってしまいそうな時の “戒め” のつもりでもあったのです。
だから、作ったことを忘れないように、たとえ高額ではあっても、伊東屋で作ることに意味があった、というわけです。

屋号の “浅間模型” ですが、これはもうこれしかありませんでした。特に理由はありません。
軽井沢、という言葉がありますが、バブル景気絶頂のこの時期、当の軽井沢にはいくつものタレントショップが立ち並んで、不自然極まりない雰囲気でした。草軽電鉄が存在した浅間高原、軽井沢に憧れたいたわたしとしては、そこは到底親しめる街並みではなかったのです。
でもやはり、“草軽” の名称の片方を担った地名であることには変わりありません。そこに入れる地名は軽井沢しかなかったのです。


さて、それから早いものでもう30年が経ってしました。
54才の現在、模型関係のイベント等に参加させて頂くようになり、若い頃は色々な意味で “エラい人たちの世界” だった鉄道模型の世界も、気分的に少しづつ親しみのあるものにかわってきました。そして思い出したのが、件のプレートでした。

それまで特に思い出すことのなかったものでしたが、探したらすぐに出てきました。やはり無意識のうちにずっと手元に置いておいたようです。
それを見ながら、“ダメもとでいいから、ちょっとやってみよう…“、という危険な考えがむくむくと大きくなったのでした。
そういえば、このブログの最初の回を見返してみれば、草軽の模型のことを書いているのですね。

幸い、城東電軌の鵜藤様の全面的な協力とアドバイスを得ることができ、現在製品を開発中です。
自分がこれまで感じてきた、“こうすればもっとつくりやすいのに…”、“こうすればもっと雰囲気がよくなるのに…”、といった経験と想いを込めています。

では、何がでてくるのか!?
次回発表いたします。


〈鉄道青年〉 


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