2014年05月

拝見したのだが。

11069b4e.jpg東京の青山、神宮前のイラストレーター御用達ギャラリーを含めた10ギャラリーをハシゴした。その中の数展示は是非拝見したかったのと、ひとつの展示は自分の企画する展示を御観覧頂いている作家が参加している手前、御案内されればなるべくは伺わなくては、といった御付き合いの部分も大きかったのだ。最初に入ったギャラリーは何度も拝見している作家の作品だが、敢えて作家に御挨拶した事もなった。その為、自分の顔を見ても作家は無反応で、挨拶も返してはもらえなかった。狭い会場にテーブル席を大の大人が4人で占拠していたので、壁面に展示された平面作品を距離をとってみる事もできない状態。仕方なくテーブル席の方々を挟んで作品を観覧したが、彼等は一切気にしない。(「何なんだコイツ」といった顔さえ見えた)その次のギャラリーも同様、ギャラリーの方は顔見知りだが、作家は若い男性で、狭い会場の真ん中に陣取りおしゃべりをして、観覧者の自分が作品を見ながら歩いても避けたりしない。結局自分が避け、会場の奥まで進む事となった。そのまま作家とギャラリーの方は話しを続け、自分がギャラリーの方に「失礼します」と言っても作家はそのまま話し続けた。若い女性イラストレーターが小さめのギャラリーで個展を開催していた。メインの大きなイラストが入ってすぐの右側壁面、記名紙(芳名帳代り)のある台のすぐ脇である。そのメインイラストの部分パーツイラストがその他の壁面を全て埋める展示となっていた。狭いとは言え長方形の会場、目立つのは入口正面壁面であり、エントランスが全面ガラスなので、外側へのアプローチもその奥壁面なのである。自分は何故メインの大型イラストを奥壁面に展示せず、小さな部分的イラストを単調に並べているのかが理解できなかった。展示が単調になれば、観覧はつまらなくなり、観覧者は作品を集中して見られなくなる。作家には展示する作品の配置に訳があるのだろうと想像するが、とても自分には不可思議な展示だった。それから有名とされるイラストレーターのグループ展に伺った。一見華やかで同業者やギャラリー関係者等が賑わっており、自分には信じられない程の褒め称える言葉が会場内を飛び交っていた。予想通りではあったが、苦手なものは苦手である。やがて業界の著名な方が会場入りして、御紹介と御説明の御時間が始まった。益々自分にとって苦手な雰囲気になったので、作品も一通り拝見した事もあり、挨拶して会場を出た。最後に伺ったギャラリーもグループ展、一つのテーマで5名以上のイラストレーターがそれぞれ描きたいものを描いている感じだった。折角テーマを統一しているのに、展示配置に配慮は見当たらず、そのテーマに普段興味を持っていないと面白みの無さそうな作品が大半だった。展示会場の流れや見せ場を作る事無く、イラストレーターの作品自体のみを見せるだけの展示というのは、誠に勿体無い限りだ。テーマはチーム性を持つものなだけに、出展者達の個人プレーにばかり頼ったバラバラなグループ展示というのが自分の正直な感想だ。個展にしても、グループ展にしても開催するにあたり、展示全体で何を見せるのか?見せたいのか?という事を最低限配慮するべきなのではないだろうか?(真剣に見せようと考える事を認識して欲しいと思った観覧だった:勿論、個人的見解である)

未熟さの証明

a48b02b3.jpg何度も伺うギャラリーで動物をモチーフとした作品展を拝見した。リアルな動物の表現ではなく、単色の焼き物タイルを割ってタイルとタイルの隙間を一定の線の様に見せる色面構成に類似しており、今展の作品はその画材がタイルではなくアクリル絵具である為、作家の意図的なラインが強く見られる表現となっていた。自分が個展会場に入った時にギャラリーの方が、他の方と作品について御話をされていた。盗み聞きをするつもりは無いが、会場内は自分を含めてその三名だけだったので、どうしても話の内容まで聞こえてしまった。「この作品は写真とか実物を見て描いているのかな?」「この動物なんかは実際はこうじゃないから、きっと記憶と想像なんだね」といったもの。実物が存在するものをモチーフに描かれた作品に関してのよくある御意見で、自分も動物をモチーフにする作品を描いたり、つくるので、御馴染みの御話なのである。作品自体がその世界観を圧倒的な魅力として見せる事ができれば、そういった点(実物との相違点)については気にならない事が多いと考えられる。つまり作品は作品、モチーフにした実物はあるものの、それとは異なった世界が作品の中に存在すれば、その世界に観覧者が入っていけて、描かれた対象物の詳細については気にならなくものなのでは?と考えられるのである。自分以外の作家が描いた作品には具体的な表現手法が次々と思いつくのは、客観的に分析できるからなのだと想像できる。まだまだ自分が修行の足りないという描き手だという証明だ。(残念)

夜道『ながら』に注意

7091b291.jpg夕暮れを過ぎ暗くなってから近所を歩くと、スマートフォンを持っている人が画面を見ながら歩いてる光景をよく見かける。『ながらスマフォ』というらしいが、特徴として暗闇に画面を見る顔周りがボーっと照らされ、幽霊のイメージ、そして当人は画面に気持ちが集中しているので、足元はフラフラか、真っすぐ歩く事無く反れている感じである。何なら向いからすれ違う自分に気が付かず向って来る感じである。なので、自分としては注意していないと打つかられてしまうのである。 きっと「今日も一日疲れたなぁ、さてSNSの友達はどうしているのかな」とか「このゲーム面白れ~」といった感じなのだろう。しかし事故の元となる可能性は高いと思われ、感心しない。自分はたまにスポーツ観戦とまではいかないが、高校野球やサッカー日本代表チームの試合中継等をガラケー携帯電話のワンセグで、確認程度ではあるが見てしまう事がある。勿論、普段から『ながらスマフォ』をよく思っていない自分は、自分が同じ様に歩きながら携帯電話を見る行為は避けたい。結果、立ち止まって暫く見るようにしている。(通行人の邪魔にならない場所に)

集団的自衛権の扱い

36253711.jpg集団的自衛権について色々な持論が交わされ、日本国的にはどのような形で取り扱うべきか?を決めようとしている。よく例え話にされるのは、同盟国であるアメリカ合衆国の軍隊が、日本の自衛隊と合同演習や合同作戦として国際的な作業を進行している時に、第三国から攻撃を受けた場合、自分達が攻撃されていないからといって無反応でいられるのか?何もせずにいて善いのか?という話である。確かに単純な話では、仲の良い友達が他の人間に不当な扱いを受ければ、その相手に対して抗議する事や、友達に助け舟を出すのは当たり前である。しかし、日本国には過去の歴史的な過ち等から決められた定(法律)があり、軍事的行動に制限が設けられているので、防衛を超えた軍事的攻撃はできない事になっている筈だ。その事について国内外で色々な判断がされており「日本はそういった定がある為に戦後から今まで平和でいられたのだ」という肯定的な見方と「今まではそれで満たされた部分も合ったが、国際的な変化に対して、変わらないという選択は時代遅れなのではないか?」「変わらなければ平和ではいられなくなる」という変革を求める見方もある。そして「日本はいつも資産援助ばかりで血を流す事のない国だ」という悪い意味で認識される場合もある。日本は原爆を二度も投下され戦争の悲惨さについて身に染みた国のひとつであると自負している方も多いが、だからこそ集団的自衛権を取り扱う判断が国際的にも注目される事実も考慮しなければならない。独自の分析からの判断も大切だが『集団的』とある以上は、自国だけの問題では無いのだから。(個人的見解)国民が選んだからといって一部の国会議員のみで、決められてしまうのは、やはり厳しい部分ではある。(個人的見解)

細かい対応の必要性

a4438732.jpg日本国内で働く女性、御母さんが幼い我が子を預ける為の保育所が不足しているとされる『待機児童問題』がある。保育所の関係者に御話しを聞いたところ、現状は保育所に入る為の児童は定員割れさえ起こしている状態だそうだ。つまり「足りない足りない」といった声に、闇雲に保育所を増やしてしまい、利用数よりも多くなってしまっているという事らしいのだ。少し前に安部総理が横浜市の待機児童ゼロという結果に対して、大いに見習うべきとして、そのノウハウを日本国内の待機児童問題を抱えた都道府県に応用したいといった様な発言もあったと記憶している。結局利用する母親達は生活環境に合った場所や方針の保育所を選ぶ為、対応するには微妙な施設だったり人材だったりの調整が必要であり、細かく沢山の保育所自体をつくるといった単純な方法では、保育所と保育士を余らせてしまう新たな問題を作ってしまう可能性が出て来てしまうのである。需要と供給を考えると、保健所同士がネットワークを組み、必要に応じて保育士の出向勤務といった形で、足りない施設に対しての対応をする様な柔軟性を持って運営していく事があっても良いのでは?と考えた。国民的な色々な緒問題は日本国レベルで持ち上がってはいるが、それぞれの地域で事情はかなり異なって来る。なので、地方毎の細かく賢い責任を持った対応が必要なのであろう(あくまで個人的見解である)
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