言志四録

学を為すのは初めは、固より当に有字の書を読むべし。学を為すこと之れ熟すれば、則ち宜しく無字の書を読むべし。


学問を始めるときは、もちろん文字の書かれた書を読んでまなばなくてはいけない。学問が上達してくれば、字の書かれていない書、すなわち天地自然の理を読み取るようにするべきである。

本日GYM休み。

経書を読むは、即ち我が心を読むなり。認めて外物となすこと勿れ。我が心を読むは、即ち天を読むなり。認めて人心となすこと勿れ。


聖賢の書を読むことは、すなわち自分の本心を読むということである。したがって、自分の外にあるものを読んでいると見なしてはいけない。自分の本心を読むというのは、すなわち天地自然の真理を読むことである。したがって、本心を私心というように理解してはいけない。

本日GYM休み。

無能の知は是れ瞑想にして、無知の能は是れ妄動なり。学者宜しく仮景を認めて。以て真景となすことなかるべし。


実践を伴わない知識は妄想というものであり、知識の裏づけのない実践は妄動である。学問をする者は心眼をひらいて、仮のありさまを本物とみなしてはならない。

明日、明後日はGYM休みです。
ご注意ください。22日(土)23日(日)はレディースタイムありません。

夢中の我も我なり。醒後の我も我なり。其の無我たり醒我たるを知る者は、心の霊なり。霊は即ち真我なり。真我は自ら知りて、醒睡に間無し。常霊常覚は、万古に亘りて死せざる者なり。


夢の中の我も我である。夢から醒めた後の我も我である。我が夢の中の我であるか、夢から醒めた後の我であるかを知るのは、心の霊妙な働きである。この霊妙な働きが真実の我なのである。真実の我は、醒めたときも眠れるときも何も差がない事を自ら知っている。真我は常住の霊力であり、常住の知覚であって、永遠に不朽不滅のものである。

生を好み氏を悪むは、即ち生気なり。形にこくするの念なり。生気はすでにゆけば、此の念併せて亦ゆく。故に天年を終うる者は、一死眠るが如し。


人が生きることを願い、死を嫌うのは、生きようとする気があるからである。これは身体という形にとらわれた考えである。生きる気力がなくなってしまえば、こうした身体にとらわれた考えもなくなってしまう。そいれゆえに、天寿を全うした者は、死生にとらわれることなく眠るように死を迎えるのである。

海水を器に汲み、器水を海に翻せば、死生は直ちに眼前に在り。


海水を器に汲んで、その器の水を海に返せば、死生の道理はそのまま目の前直にある。
○器に汲んだのが水の生であり、海に返したことが死にあたり、道理を意味している。

無は無より生ぜずして、有より生ず。死は死より死せずして、生より死す。


無は無から生ずるのではなくて、有から生ずるのである。死は死から生ずるのではなくて、生から死が生ずるのである。

凡そ人は、少壮の過去を忘れて、老ばつの将来を図る。人情皆然らざるは莫(な)し。即ち是れ竺氏が権教の由って以て人を誘う所なり。
吾が儒は則ち易に在りて曰く、「始めを原ねて終わりに反る。故に生死の説を知る」と。何ぞ其れ易簡にして明白なるや。


だいたいにして世の中の人は、過去の少壮の時代を忘れて、将来の老いや死について考える。それが人情の常であって、すべてそうでないものはない。即ちこれは仏教がその教えによって人を惹きつける理由となっている。わが儒教では『易教』に「生命の始めをたずねていけば、死の終わりに返っていく。そこから人の生死の理(儒教の死生観)を知ることができる」とある。なんと簡潔にして明瞭であることか。

死の後を知らんと欲せば、当に生の前を観るべし。昼夜は死生なり。醒睡も死生なり。呼吸も死生なり。


死後のことを知ろうとするならば、生まれる前の事を観るとよい。昼が生なら、夜は死である。目覚めている時が生ならば、眠っている時は死である。吐く息が生ならば、吸う息は死である。

生は是れ死の始め、死は是れ生の終り。生ぜざれば則ち死せず。死せざれば則ち生ぜず。生は固より生、死も亦生。「生生之れを易と謂う」とは、即ち此れなり。


生は死の始めであり、死は生の終りである。生まれなければ死ぬことはないし、死ななければ生まれることもない。生はもちろん生であるが、死もまた生なのである。「生々変化して窮まりのないことを易という」というのは、このことである。

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