言志四録

私欲は有るべからず。公欲は無かるべからず。公欲無ければ、則(すなわ)ち人を恕(じょ)する能(あた)わず。私欲有れば、則ち物を仁(じん)する能わず。


自分の利益ばかり追求する欲はあってはいけないが、公共の利益を追求する欲はなくてはいけない。公共心がなければ、他人を思いやることができない。利己心があれば、慈悲の心で他人に物を施すことができない。

アホやから『何故?』なんて議論いらん。親共々アホやから。ここまで放置した時代、親があほ!
こんな時代がおかしいわしも叩くぞ。こんな子供にした親を逮捕すべき。

私欲は有るべからず。公欲は無かるべからず。公欲無ければ、則(すなわ)ち人を恕(じょ)する能(あた)わず。私欲有れば、則ち物を仁(じん)する能わず。

自分の利益ばかり追求する欲はあってはいけないが、公共の利益を追求する欲はなくてはいけない。公共心がなければ、他人を思いやることができない。利己心があれば、慈悲の心で他人に物を施すことができない。

君(きみ)に事(つか)えて忠ならざるは、孝に非(あら)ざるなり。戦陣に勇無きは、孝に非ざるなり。曾子(そうし)は孝子(こうし)にして、其(そ)の言此(か)くの如(ごと)し。彼(か)の忠孝は両全ならずと謂(い)う者は、世俗の見なり。

「君に仕えて忠義を尽くさない者は孝とは言えない。また、戦場に出て勇気にない者は孝とはいえない。」と言った曾子は孝行の人であって、しかも、このように言ったのである。忠と孝は両立しない場合があるという人がいるが、これは俗世間の間違った見解でしかない。

 GYMビル駅方面に歩いて丹波屋があるビルに君臨していた行列のできる食パン🍞屋が突然閉店(閉店に追い込まれ)し早、数ヶ月。猫の額ほどの坪数店舗に何が入るのだろうと思っていたら、垂水に昔から君臨するパン屋が入るらしい。ヘドが出る話を想像してしまう。
前の食パン🍞美味かったのに。仮に疑う話でなくてもパン屋の後にパン屋とは出来すぎた話や。

処し難き事に遭(あ)わば、妄動(もうどう)することえを得ざれ。須(すべか)らく幾(き)の至るを候(うかが)いて之(こ)れに応ずべし。

処置に困った出来事に遭遇したら、むやみに行動してはいけない。よい機会が到来するのを待って、これに対応するべきである。

 本日、明石市役所横の中ホールにておやじファイト開催されます。
2名出場為GYM休みとなります。ご了承ください。

吾(わ)れ静夜独り思うに、吾が軀(み)は、一毛(もう)、一髪(ぱつ)、一喘(ぜん)、一息(そく)、皆父母なり。一視(し)、一聴(ちょう)、一寝(しん)、一食(しょく)、皆父母なり。既に吾が軀の父母たるを知り、又吾が子の吾が軀たるを知れば、則(すなわ)ち推(お)して之を上(のぼ)せば、祖、曾、高も我れに非(あら)ざること無きなり。逓して之(こ)れを下せば、孫、曾、玄も我れに非ざること無きなり。聖人は九族を親しむ。其の念頭に起る処、蓋(けだ)し此に在り。

私は静かな夜、独り考えてみると、自分の体にある一本の毛髪も一回の呼吸もすべて父母のものであり、一視・一聴・一寝・一食できることもすべて父母からいただいたものである。自分の身体が父母の授かり物であると知り、また我が子の身体が自分の分かれ身であると知れば、これを上にさかのぼって考えると、祖父母、曾祖父母、高祖父母も自分でない人はいない。また、これを次第に下にたどって考えると、孫、曾孫、玄孫も自分でない者はいない。聖人が「九族を親しむ」ということを心に想起するのは、思うにこういうところからなのであろう。

明日休みです。

理到るの言は 人服せざるを得ざる。然れども其の言激する所有れば則ち服せず。強うる所有れば則ち服せず。挟む所有れば則ち服せず。便する所有れば則ち服せず。凡そ理到りて人服せざれば、君子必ず自ら反す。我先ず服して後人之に服す。

道理の行き届いた言葉には 誰でも服従しないわけにはいかない。しかしながら、その言葉に激しいところがあると、聞く人は服従しない。強制するところがあると、服従しない。私心を挟んでいると、服従しない。自分の便利のために言っているのであれば服従しない。およそ道理が行き届いているのに人が服従しない場合には、君子たる者、必ず自らに立ち返って反省をする。まず自分が自分の行為に十分に従うことができて、しかるのちに人はそれに服従してくれるものである。

故に博学・審問・慎思・明弁・篤行、人之れを一たび十たびすれば、己れ之れを百たびす。果して此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明に、柔なりと雖も必ず強く、以て漸く非常の域に進むべし。蓋し此の理有り。但だ常人は多く遊惰にして然する能わず。豈に亦天に算籌有るか。

ゆえに『中庸』に「博く学び、審らかに問い・慎んで思い・明かに弁別し、誠実に実行する。人がこれを一回するなら自分は百回行い、人がこれを十回すれなら自分は千回行う。果たしてこの方法を実行すれば、愚者であっても必ず賢者になり、柔弱な者であっても必ず強くなる」とあるように、こうした方法を励行すれば、少しずつでも非凡の域に近かづくことができる。誠にこれは道理に適っているといえる。
ただし、普通の人はたいてい遊び怠けてしまい、努力を続けることができないものである。これには何か天の算段があるものであろうか。

 今週の帰宅時の出来事。
乗換バス時間に合わせて快速に乗車し、次駅舞子に到着、乗り降り済ませて舞子駅出発を待っていた。頭の中は電車からバスに乗り換え帰宅し、1日の労働に対価する食事を摂取する事のみが渦巻いていた。しかし待てど暮らせど出発しない。嫌な予感が脳裏をかすめた時に車内放送。
『ホームにお客様が倒れているため安全確認を行います』
次の瞬間描いていたバス乗継→帰宅→食事の図柄がガラガラ音を鳴して崩れ落ちた。車内から乗り出しホームをのぞくと1両前方車両横、点字ブロック上に泥酔マンの丸太ん棒が横たわっていた。その、車両と丸太ん棒の距離ならさすがにJR車両はすり抜ける選択はできないだろう距離。場所は数年前に酔っ払いが連結部に落ちて人身事故につながった舞子駅。尚更である。
結局、5分以上の無駄な停車時間を費やし、丸太ん棒が車椅子に乗せられるオゾマシイ姿を見ながら出発。おかげで思惑のバス乗継叶わず無駄なバス待時間を費やす羽目に。
 とかく近頃、アホに振り掛けられるストレスが増えた。これをきょうびの人はストレスと感じないのであったら、きょうびの人は、きょうびの時代はおかしいぞ。

人の受くる所の気は、其の厚薄の分数、大抵相若たり。軀の大小、寿の脩短、力の強弱、心の知愚の如き、大に相遠ざかる者無し。其の間に一処の厚きを受くる者あれば、皆之を非常と謂う。非常たるは則ち姑く之れを置く。就ち常人の如きは、軀と寿と力との分数、之れを奈何ともすべからず。独り心の智愚に至りては、以て学んで之れを変化すべし。

人が天から受かるところの気は、その厚いと薄いと分け与えられている分量はだいたいおなじようなものである。身体の大小、寿命の長短、力の強弱、心の賢愚といったものは、誰でもそれほど大きな差があるわけではない。その間に、特に一箇所厚いところを授けられた者があれば、人々はみな、これを非凡という。この非凡たる者は則ちしばらく問題の外に置いておこう。すなわち普通の人にあっては、身体の大きさや寿命の長さや力の強さの分か前はどうすることもできない。しかし心の賢さや愚かさついては、学門によって変えることができるのである。

 『千里のおっちゃん』
昨日、母方の叔父さんが亡くなりました。母が86歳、叔父さんは母の弟にあたるので母の86よりは下だが80歳は下らないと思う。少なく見積もっても25年はお逢いしていなかった。
小生、大阪市最南端に位置する平野区喜連瓜破のマンモス団地で出生、16歳まで育った。御世辞にも環境よくない地域。『千里のおっちゃん』は字の如く大阪府山の手千里ニュータウンのマンモス団地に家族4人で住まっていた。おなじマンモス団地でも山の手団地と下の手団地では環境的に月とすっぽんの相違が。
子供の頃同じ世代の子供(当然親戚)がいる緑豊かな千里ニュータウンの叔父さんの家に行くのが本当に楽しみだった。おまけに叔父さん、見た目異常に優しく良くしてくれた。母の家族は戦争時支那と呼ばれた中国からの疎開引き揚げ、9人家族。戦後中国から引き揚げの際、内地(日本)での生活は困窮極めかなり苦労した様子。その事は母からよく聴かされた。
叔父さんの小生への優しさは、共に苦労し、弟である自分をかまってくれた姉の子供(叔父さんからしたら甥っ子)を介しての母への感謝の表れだったんだと思う。
人生、無くして初めて大事なものを想い返すことばかり。
             弔合掌
 本日午後、豊中で営まれる通夜に参列致します。GYMはふくおに任せます。よろしくお願い致します。

 16日予定でしたふくおのタイトルマッチ、対戦相手負傷につき中止となりました。
応援予定頂いておりました皆様申し訳ありません。次回お願い致します。

人は最も当に口を慎むべし。口の職は二用を兼ぬ。言語を出し、飲食を納るる是なり。言語を慎しまざれば。以て禍を速くに足り、飲食を慎しまざれば、以て病を致すに足る。諺に云う、禍は口より出て、病は口より入る。

人は特に口を慎まなければいけない。口は二つの機能を兼ねている。一つは言語を発することであり、もう一つは飲食物を取り込むことである。言葉を慎まないと禍を招くことがあるし、飲食を慎まないと病気になることがある。諺に「禍は口より出て、病は口より入る」とあるのは、これを言っているのである。

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