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 あなたはこれまでに、「無料!」のコーヒー豆1袋を提供するクーポン券をとろうとしたことがあるだろうか―自分はコーヒーを飲まないし、それを淹れる機械を持っていないのにもかかわらず、だ。ビュッフェで、食べ尽くした食べ物すべてでお腹が痛くなりだしていたにもかかわらず、皿に山積みしたあのすべての無料の食べ物についてはどうだろうか。
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 ただで何かを手に入れるととtrも気分がいいということは、だれもが知っている。もし何かが50セントから20セントに値引きされているとしたら、あなたはそれを買うだろうか。おそらく買うだろう。それが50セントから2セントに値引きされているとしたら、あなたはそれを買うだろうか。おそらく買うだろう。50セントからゼロに値引きされているとしたら、あなたはそれをひっつかむだろうか。もちろん!
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 「無料!」の何がそんなに魅力的なのだろうか。なぜ私たちは、それが本当に欲しいものではないのに、「無料!」の品物に飛びつきたいという理性を欠いた衝動に駆られるのだろうか。
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 その答えはきっとこういうことだと思う。ほとんどの取り引きには良い面と悪い面があるが、何かが「無料!」であるとき、私たちはその悪い面を忘れてしまうのだ。「無料!」はあまりにも私たちの感情を高ぶらせるので、私たちは提供されているものが実際よりはるかに価値があると認識してしまうのだ。なぜか。それは、人間は本質的に損を恐れるからだと思う。「無料!」の本当の魅力は、この恐れに関係がある。「無料!」の品物を選ぶときには、明らかな孫の可能性はない(無料なのだから)。しかし、無料でない品物を選ぶと仮定しよう。おやおや、今度はまずい選択をしたという危険—損失の生じる可能性—がある。だから、選択できる場合には、私たちは無料のものを選ぶのだ。
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 こういう理由で、値段設定の世界では、ゼロは単なる値段の1つではない。「無料!」による感情の高まりに打ち勝つものなどないのだ。この「ゼロ価格効果」は独特のカテゴリーに入っているのだ。
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 確かに、「ただで何かを買う」とうのは矛盾しているように聞こえる。しかし、「無料!」というあの厄介なもののせいだけで、欲しくはないかもしれないものを買っていしまうという罠に、私たちがどんなふうに、しばしば陥るのかを示す一例を挙げよう。
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 2007年、私はある大手電機メーカーの新聞広告を見たのだが、それは、そのメーカーの新しい高画質DVDプレーヤーを買えば「無料!」のDVD7作品を提供するというものだった。第一に、当時私は高画質プレーヤーが必要だったのだろうか。おそらく必要なかった。しかし、たとえ必要だったとしても、値段が下がるのを待つ方が賢明だったのではなかったのだろうか。いつもそうなるのだ—今日の600ドルの高画質DVDプレーヤーは、あっという間に明日の200ドルの機械になるのだ。第二に、そのDVDメーカーは提案の背後に明確な意図を持っていた。この会社の高画質DVDシステムは、ブルーレイ—他の多くのメーカーに支持されていたシステム—と激しい競争をしていた。当時、ブルーレイは優位にあり、その後市場を席巻するようになった。だから、売り出されている機械がメーカーによって製造中止になる予定である場合、「無料!」とはいくらになるのだろうか。そうしたことが、私たちが「無料!」の魅力のとりこになるのを防いでくれるかもしれない2つの理性的な考えだ。しかし、なんてこった、あの「無料!」のDVDは確かに良く見えるのだ!

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 トーニング。ライトニング。ブライトニング。ホワイトニング。アフリカにおいて、肌の改良を促進するマーケティングのスローガンは様々なものかもしれないが、その根本的な効果はほぼ同じものである。私は美白化粧品を使わないが、私の住むナイジェリアでは何百万人もの女性がそれを使っている。 私の地元の店では、濃い肌の色を薄くすることを目的とした幅広い種類の製品が売られている。
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 だから、先月、人気のあるケニア人モデルのベラ・シディカが肌を脱色するのに大金を使っていることを公に認めたとき、彼女はすでに煙の上がっている熱い火に油を注いだのだ。アフリカ人の美の認識についての激しい議論を再燃させるには、たった1つの告白があれば十分だった。
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 シディカは、自分は自分の見た目に誇りを持っていると言っており、アフリカ社会はこの解決の難しい問題に対して偽善的だと考えている。 しかし彼女の正直さは大陸全土の多くのソーシャルメディアユーザーの怒りをかき立てた。
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 誰かが人種問題を持ち込むと必ず、アフリカ人の間ででは必然的に激情が高まる。 肌を白くすることという話題については、シディカのような女性たちに自分たちが何となく自分の人種を裏切ってるかのように感じさせようとして、「黒は美しい」といったような感情的なスローガンがしばしば用いられる。 そして、そうした女性たちは白人に対して劣等感を持っているとして非難されるのだ。
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 より濃くであれより薄くであれ、特定の肌の色合いになりたいという人々の願いは、人々がより魅力的になって他人に注目されたいと思うところから生じる。 そしてたいてい、このここアフリカで肌の色を薄くする処置を受けた個人について言えば、それはうまくいくのだ。批評家たちは公にはこのことを認めたがらないかもしれないが、アフリカでは薄い色の肌をした若い女性の方が濃い色の肌をした女性よりも確かに注目を浴びて評価される、というのが厳しい現実なのだ。
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 ナイジェリアの男性たちが、「ああ先日このきれいな娘に会ったよ。それに彼女の肌の色はとても薄かったよ」といったことを言うのをしばしば耳にするのは、珍しいことではない。 しかしその後、あるナイジェリアの女性、特に世間の注目を浴びている女性が、自分の肌を脱色していることを公に認めたなら、この同じ男性たちは偽善的にも憤慨するだろう。 もしナイジェリアの男性にとって肌の色合いが全く問題でないのなら、肌の色を薄くするクリームや石けんは現在のようにここまで飛ぶように売れたりしてはいないだろう。 ナイジェリアのミュージックビデオでも、人は肌の色が薄い女性の方が明らかに好まれていることに気づくことがある。 私の属している社会は、アイデンティティと美しさに対する社会の認識の問題について、認めたくないほど混乱しているのではないか、というわずかな疑いが残る。
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 身体的な魅力は本能的なものであり、ナイジェリアのような肌の色の濃い社会では、肌の色の薄い女性が男性の注意をより多く引き付けてしまうのだ-主に白人からなる社会で肌の色の濃い人々がそうであるのと同じように、そのような関心は必ずしも何らかのコンプレックスに起因するとは限らず、多くの場合は全くもって異なるものへの単なる好奇心なのだ。 肌の色を薄くすることは、ある個人の自分の人種に対するあからさまな拒絶なのだ、などど機械的に見なされるべきではない。 ある女性が、自分の肌の色を薄くすればもっときれいになったりもっと自信がついたりすると感じているのなら、社会は彼女を放っておくべきであり、彼女の美の概念に、裁判官や陪審員としてでしゃばるべきではない。 今こそアフリカ人は、自らの自尊心とアイデンティティの問題に関して、ヒステリックになったり角に身構えたりするのをやめるべき時だ。

 

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 携帯電話,Eメール,ブログ,チャットルーム,ソーシャル・ウェブサイトといったものから成る現在のデジタル時代に私たちが用いている言葉の短縮にぞっとしている人々がいる。
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 例えばジャック・ムーア教授だ。彼は「携帯電話のメールの世界では、文法と句読法を知らないことが、その人のc u 18r (see you later)のようなメッセージを伝える能力に影響しないのは明らかだ」と書いた。ジャーナリストのビル・ウェールズは、ムーア教授の意見を支持して、彼の週1回のコラムに、「electric mail (電子メール)の短縮形が活字に現れ始めたとき、問題は、それをe-mailと書くべきかE-mailと書くべきか、ということだった。つまり、大文字の形を使うことが、許容できる表現形式について決定ではあろうが、明らかに小文字のほうが広く使われている。人間の知性に対する私の信頼は、続いて起きた進展からまだ立ち直っていない。すなわち、一般大衆の間で普通になっているつづりは、私たちの知性に対する侮辱であるe-mailになってしまっているのだ」と書いた。ところで、あなたもムーア氏やウェールズ氏のように、私たちが今日用いている言葉の短縮にぞっとしているだろうか。
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 わめいたり不満を言ったりしているが、この風潮を止めたいと思っている人々は、言語に関する真に重要な現象が彼らの目の前で起こっているのが見えていない。私たちが目撃しているのは、言語の歴史上初めて、コミュニケーションの形式が読み手より書き手のほうを大事にするようになった、ということかもしれないのだ。ムーアやウェールズやそのほかの人々が指摘しているように、句読法は読み手が書き手の言いたいことを明確に素早く理解するのを助けるというただ一つの目的のために生み出されたのだ。一般的な文法についても同じことが言える。語法に規則についても同じことが言える。それは読み手や聞き手が理解するのを助けるのだ。しかしながら、現在言語を方向付けている情報時代の短縮語は、主に書き手の便利のために—つまり読み手を犠牲にして—つくられている。seeとつづるために携帯電話で文字をスクロールするのは時間がすごくかかるので、私は単に c と書く。
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 問題でも? いや、問題はない。人々が次に述べることを理解している限りは。
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 こうした短縮語は好きな時にいつでも使ってよいが、それは読み手に負担をかけているという事実を自覚している場合に限るということだ。たとえば、チャットルームでは、これは怒鳴っているのだ(すべて大文字で書くことは怒鳴っていることを表す。) だから、今度キーボードのキャップスロックボタンを押すときは、あなたのメッセージを読む人が怒鳴られることをどう思うだろうか、ちょっと立ち止まって考えなさい。さらに、「昨日あなたのメールを読みましたいいと思いますが一部同意できません私はそのウェブサイトを確かめましたがそこにはありませんでした」のように句読点のまったくない文は、読み手にあまり歓迎されないかもしれないということを留意しておくほうがいいだろう。言い換えれば、インターネット上には句読点が存在しないように思われる頃があるからというだけで、それが時代遅れで決して使うべきではないということにはならないのだ。

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