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荒木比奈(33)は慟哭する


1 :◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:51:26 :SvS主

小説を書きます。
辛い話です。
ゲーム時間から13年後の荒木比奈さんが主に登場します。

今回は、それ以前に他所に投稿した下記2作品の人間関係を前提としています。

十年後もお互いに独身だったら結婚する約束の比奈と(元)P
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1513345340/

佐々木千枝を生贄に捧げる
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1521029010/

また同じ設定を共有しているこちらを読むと薬味が利くかもしれません。
あと八ヶ月で結婚する約束の比奈(29)と(元)P
http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1521344176/

それぞれ渋のほうにも間違い訂正済みのものをアップしています。


2:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:53:07 :SvS主

 秋口のその日は全国的に概ね晴れだった。
 仙台へ向かう高速道路の出口からほど近い一般道上で事故があった。
 一般道を走行していた車両のフロントガラスが飛び石で破損。大きなヒビが入り、驚いた運転手は道路上でブレーキを踏み急停止。
 背後に続いた車両は衝突を避けるため同じくブレーキをかけ減速したが間に合わず、前の車両をかわすために対向車線に逃げようとした。しかし、対向車線からは別の車両が向かってきていた。
対向車線を走っていた車両の運転手は、はみ出してきた車を避けるために、歩道側に向けてハンドルを切り、歩道に乗り上げた。歩道には、複数の歩行者がいた。
 事故の被害は死者一名、軽傷二名。死者は、その時刻に歩道を歩いていた会社員男性だった。

 黒いドレスに身を包んだ比奈は、喪主としての挨拶を終えると、深々と頭を下げた。あまり眠れていないのであろう、両目の下には濃い隈がはっきり見て取れた。
顔を上げた比奈は、口を結びまっすぐに弔問客を見ていた。空っぽに微笑んでいるような、穏やかではあるけれど、どこにも色のない表情だった。
 儀式が終わり、弔問客は立ち上がり、通夜振る舞いの会場へ向かうもの、帰路につくもの、それぞれがそれぞれの想いを胸に、その場を後にした。
 和装の喪服に身を包んだ松本沙理奈は、祭壇の中央に置かれた遺影と、比奈の顔を一度ずつ見た後、胸の前で拳を握り締めて、祈るように頭を垂れてぎゅっと目をつぶった。
 不運としか言いようがない、もし何者かの悪意が介在したのであればそれは人ならざる上位のものであるとしか言いようがない事故の犠牲者は、
荒木比奈、川島瑞樹、松本沙理奈、上条春菜、佐々木千枝の五人がかつて結成していたユニット、ブルーナポレオンの活躍当時にプロデューサーを務めており、紆余曲折のうえ、比奈の夫となった人物であった。


3:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:53:52 :SvS主

「……比奈さん、落ち着いてましたね」

 通夜振る舞いの席で、上条春菜は隣に座っている春菜の元プロデューサーに言う。

「亡くなってすぐは、考える暇もないくらいばたばたする。やることが多すぎて、亡くなったと実感する暇もないくらいなんだ。辛いのは、落ち着いて日常が戻ってからだ。俺のじいさんのとき、ばあさんがそうだった」

「……私、比奈さんの迷惑にならない程度に、連絡を取るようにします」

「そうしてやってくれ」

 話していると、会場に比奈と親族たちが入ってきた。
 比奈は会場係からマイクを受け取ると、テーブルの客を見渡す。

「あー、皆さん、お忙しいところお集まりいただき本当にありがとうっス。もうごくごく親しい人しかいないっスから、この場は堅苦しいのは抜きで。
……あの人も、しんみりするより、そういうほうがいいでしょうし。じゃ、みなさん、献杯の準備をお願いするっス」

 比奈はやはり、穏やかに微笑んでいた。
 川島瑞樹は、目頭をハンカチで押さえながら、グラスを取った。

「本当に……嫌ね。涙もろくなっちゃって」

 瑞樹は震える声で言うと、両目に交互にハンカチを押し当てた。


4:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:55:25 :SvS主

「ごめんなさい、遅くなってしまって!」

 通夜が全て終わり、弔問客がほぼ退出を終えた頃、仕事を終えた佐々木千枝は、千枝の担当プロデューサーと共に斎場に到着した。
 着替えは間に合わなかったのだろう、二人とも喪服ではなかった。
 駆け寄る千枝に、比奈は微笑みかけた。

「ああ、千枝ちゃん……ありがとう、申し訳ないっス、いま、祭壇のカギを閉めたとこで」

「ううん、申し訳ないのは私のほうです……」千枝は姿勢を正して、深く頭を下げる。「このたびは、誠にご愁傷様でした」

 隣に立った千枝のプロデューサーも黙って頭を下げた。
 千枝はゆっくりと顔をあげてから、唇を震わせて、静かに泣き始めた。

「……うっ、ふっ……どうして……どうして、あの人が……」

 比奈は千枝の背中に手を回して、そっと抱く。

「千枝ちゃん、ありがとうっス」

「ごめんなさい、比奈さん、お通夜、間に合わなくて、ごめんなさい……」

「大丈夫っスよ、ぜんぜん……千枝ちゃんが忙しいなら、あの人だって誇らしいと思うはずっス」

「急、すぎます……こんなこと……」

「事故だったっス。誰も悪くなかったんスから、しょうがないっスよ。強いて言うなら、運が悪かったっス」

 千枝は比奈の肩に顔をうずめるようにして、震えていた。
 その後ろで、千枝のプロデューサーはじっと比奈と千枝を見ていた。

「千枝ちゃんのプロデューサーさんも、お疲れのところ、ありがとうっス」

 比奈は千枝を支えたままで、顔だけで千枝のプロデューサーを見た。

「……いえ……」

 千枝のプロデューサーは、返答に困った様子で視線を外した。
 千枝のプロデューサーは、同僚としても比奈の夫のことをよく知っている。


5:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:55:38 :SvS主

「すいません、喪主さん、お手続きをお願いします」

「あ、ハイ」

 斎場の係員から呼ばれ、比奈は声のした方に顔を向けて返事をした。千枝はそっと比奈から離れる。
 斎場の係員は、書類とボールペンが挟まれたクリップボードを持って比奈のほうに向かってくる。

「……あー、……」

 比奈は低い、曖昧な声を出すと、一瞬目線を泳がせた。
 それから、比奈は困ったように笑う。

「すいません、ちょっと大事なお客さん来ていただいちゃったっスから、書類関係は夫の父の代筆でお願いするっス、アタシの依頼ってことで、ハンコが必要でしたら後から」

「あ、はい、了解しました」

 係員は退散していった。
 千枝と千枝のプロデューサーは、その様子をじっと見つめていた。

「比奈さん、ごめんなさい、私たちが……」

「大丈夫っスよ」比奈は微笑む。「それより、千枝ちゃんをあまり引き止めてしまうほうが申し訳ないっス。明日もお仕事っスか?」

 比奈の問いに、千枝は首を縦に振った。

「そしたら、できるだけ早く休んだほうがいいっス。お参りはいつでもできますし、いつきていただいてもいいっス。
それで腹を立てたり拗ねたりするような人じゃないっス。千枝ちゃんが知ってる通りっスよ」

「でも……!」

 千枝は再び涙して、うつむいた。

「千枝。お言葉に甘えましょう。あまり長居してもかえってご迷惑になってしまうわ」

 千枝のプロデューサーは千枝の両肩に手を置いた。
 千枝は小さく頷くと、かすれた声で「また挨拶に伺います」と言い、斎場を後にした。


6:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:56:27 :SvS主

「……プロデューサーさん」

 斎場から最寄り駅までの帰路で、ハンチング帽を深く被った千枝はプロデューサーに声をかけた。

「ええ」

 千枝のプロデューサーは同意の声をあげた。通りの向こうからタクシーが走ってくるのが見えた。
プロデューサーは右手を挙げ、タクシーを停める。運転手に最寄の駅の名前を告げると、二人はタクシーに乗り込んだ。

「落ち着いているように見えるけれど、おそらく、それだけじゃない」

「はい」

 千枝はプロデューサーに同意して、ぐす、と鼻をすすった。

「部門でバックアップできるように動いてみる」

「私も、みんなに相談してみます」

 タクシーは走り出した。千枝はハンドバッグからハンカチを取り出して、自分の涙を拭った。
 プロデューサーはタクシーの窓から流れて行く景色を見つめながら、複雑な思いを胸に溜息をついた。

「なにやってんのよ」

 つぶやく。不運だったとは理解していても、プロデューサーはそう口に出さずにはいられなかった。

-----


7:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:57:03 :SvS主

「比奈ちゃん……!」

 火葬場から車で自宅に戻った比奈を、佐藤心が出迎えた。比奈は親族を先に自宅に向かわせ、骨壺の桐箱を抱えて心に微笑んだ。
 天気は晴れ。見事な秋晴れだった。

「お出迎え、ありがとうっス」

「気にすんな、こっちがわがまま言って迎えさせてもらったんだ」

 心は比奈が抱えている桐箱を見た。視線に気づいた比奈は、桐箱をちょっと持ち上げてみせる。

「こんなに小さくなっちゃったっス……」

「……っ」

「……親戚の葬式とかで見たことありますし、想像はしてましたけど、持ったことはなかったんで、思ったより軽いっていうか」

「……」

「ほとんど壺の重さみたいなもので、もう少し重いかと」

「比奈ちゃん」

 心は比奈に歩み寄ると、桐箱ごと比奈を抱きしめた。

「……はぁとさん、アタシ、結構大丈夫っスよ」

「それでも言っとくぞ。ちょっとでもしんどいって思ったら、すぐ言え。
はぁとでもいい、はぁとに繋がってる人ならだれでもいい。はぁと、飛んでくから」

「……ハイ、ありがとうございます。肝に銘じとくっス」

「うっ、ひぐ……っ」

 微笑む比奈の一方で、心は涙を流した。


8:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:57:41 :SvS主

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 ネット配信の情報番組収録の合間に、春菜は楽屋に戻ると、自分のスマートフォンを開いた。葬儀以降続けた比奈とのSNSでのメッセージのやりとりは、概ね順調に返事が来ていた。
 それでも、春菜は小さな違和感を覚えていた。
 サイバーグラスとして二人で長年やってきたからこそ、その違和感に確信を持つことができる。
 できれば今すぐにでも比奈のところへ行ってやりたかった。
 しかし、仕事を中断していくようなことを比奈が喜ぶはずもなく、また比奈が亡くした一番大切な人もまた、春菜が仕事を中断して向かうことを喜びはしないだろう。
 二人を良く知っているからこそのジレンマだった。
 春菜は唇を嚙んで、千枝にメッセージを綴った。
千枝からブルーナポレオンのメンバーに連絡があった。比奈を精神面でサポートしてあげてほしいこと。
通夜の時に引っかかることがあったので、プロダクションでもサポート体制を取ること。違和感があったらすぐに教えて欲しいこと。
 紙飛行機のアイコンをタップして送信を終えると、春菜はスマートフォンを胸元に抱くようにした。

「サイバーグラスの相棒なのに……近くにいられないで、こんなことしかしてあげられない……!」

 春菜はやりきれない思いでそう口にした。


9:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)21:59:13 :SvS主

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 葬式から十日程度が経った日中、千枝と千枝のプロデューサーは、比奈の自宅前に来ていた。
比奈は結婚を機にそれまでの住まいから引っ越しをしていて、千枝は新しい二人の住まいにも数回遊びに訪れたことがあった。
 天気は曇り。午後から雨の予報があった。
 千枝がロビーのインターホンに部屋番号を入れて呼び出すと、応答があった。

「はい……千枝ちゃん? 突然っスね、どうしたっスか?」

 比奈の声がして、千枝は心中で安堵した。
 もし不在だったりすると、また千枝が訪れることができるタイミングまでは日数がかかる。

「千枝です。この前、きちんとご挨拶できていなかったので、すこし、お時間いただきたくて。……私のプロデューサーさんも、一緒です」

「あー……ちょっと散らかってるっスけど、それでよろしければ」

「大丈夫です」

「はいはい、じゃ、どーぞっス」

 オートロックの扉が開く。千枝とプロデューサーはロビーを抜け、エレベーターを上がると、玄関のインターホンのベルを鳴らす。
 扉の向こうから足音が聴こえて、すぐに扉が開いた。
 奥で焚かれているのだろう、線香の香りが漂った。

「いらっしゃいっス」

「お邪魔します、ごめんなさい、突然」

「失礼します」

 千枝とプロデューサーはお辞儀する。

「いえいえどーぞ、大したお構いもできませんけど、お茶くらいでしたら」

「ううん、連絡しないで来ちゃったので、いいんです、本当に」

「スリッパ、そこの使ってください。お仕事は大丈夫だったんスか?」

「今日は午後のちょっと遅い時間から撮影なんです」

 奥に進む比奈に千枝が続く。さらにその後ろにプロデューサーが続いた。
 プロデューサーは後ろ手で玄関の扉を閉め、鍵を掛けると、あたりを注意深く観察しながら奥へと進んだ。
 広いリビングルームの一角に、簡素な祭壇が置かれている。
 テーブルの上には書類の束と、畳まれたノートPCに液晶タブレット。スタイラスペンのスタンドがあるが、ペンは刺さっていない。
祭壇とは反対側の部屋の角に、半透明の燃えるゴミの袋が口を結んだ状態で置かれている。

「これが祭壇っス。四十九日まではここで」

 比奈がクッションを二つ、祭壇の前に置いた。


10:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:00:26 :SvS主

「失礼します」

「……失礼します」

 千枝とプロデューサーはクッションに正座する。千枝が鈴を鳴らし、二人はそれぞれ両手を合わせて拝んだ。
 じっと拝み続ける千枝のとなりで、プロデューサーは先に顔をあげると前を向いたまま小さく千枝の名を呼んだ。

「はい。私はもう少し……」

「わかったわ」

 プロデューサーは立ち上がると、比奈のほうを向いて、頭を下げた。

「荒木さん、とお呼びしていいかしら」

「あ、ハイ。芸名は前のままなんで、それで構わないっス」

「では……荒木さん。この度は、本当にご愁傷様でした……」

「あ、いえ……」

 比奈は困ったようにお辞儀する。

「ひとつ、プロダクションからお伝えしたいことが、あります」

「はぁ、なんでしょう」

 プロデューサーは鞄からクリップボードとペンを取り出し、クリップボードを比奈に向けた。

「今日から、私が荒木さんのプロデュースを担当させていただきたいと思っています」

「……へっ?」

 比奈は、目を丸くして、間の抜けた声をあげた。
 対峙する比奈とプロデューサーの傍らで、千枝は、大切だった人の遺影に、じっと祈りを捧げ続けている。

「……事前に相談もさせていただいていませんし、拒否することもできます。承諾か否か、こちらの書類に、お返事を直筆でご記入いただきたいと思っています」

「いやいや、えっと……ちょっと、お話が見えないんスけど……」

「社内でそういった方針が立ち、本人に承諾を得るようにと。話が前後してしまって申し訳ありません。臨時、短期ですが、ご了解いただければ」

 淡々と、プロデューサーは言う。
 千枝は、ようやくゆっくりと顔をあげた。


11:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:01:37 :SvS主

「比奈さん」

「千枝ちゃん、千枝ちゃんはこの話、了解してるんスか?」

 千枝は頷く。

「どうして……千枝ちゃんの、アイドル部門のプロデューサーさんスよね?
 アタシ、そもそも今はもうアイドルじゃないですし、プロダクションとはプロデューサーがつくでもなくて個人的な契約でぼちぼちやってたところで」

「比奈さん」千枝は比奈の言葉を遮る。「驚かれてると思います。だから、保留でもいいんです。でも……そのときは、その書類に『保留』って、書いて、ください」

「千枝」

 プロデューサーは千枝を制するように呼んだが、千枝は首を振った。

「ううん、私が聞きたいの。比奈さん。……ペン、持てますか?」

「……っ」

 比奈は明らかに表情を曇らせて、半歩後ずさった。

「……やっぱり持てない、ですか?」

「あ、あの……」

 比奈の顔は青ざめている。

「ごめんなさい、比奈さん」

 千枝は辛そうな表情で言うと、部屋の隅に歩いていき、置かれた燃えるゴミの袋を開き、中を探った。やがて、千枝は悲痛な表情でプロデューサーの方を見て言う。

「プロデューサーさん」

「ええ」


12:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:02:38 :SvS主

 プロデューサーはクリップボードとペンを鞄にしまった。
 千枝はゴミ袋の中の何に手を突っ込む。
 取り出したのは、破壊された筆記用具だった。
 鉛筆、シャープペン、ボールペン、絵筆、Gペン、そしてタブレットのスタイラスペンまでも、すべてが真ん中から二つに折られていた。
鉛筆は芯も折られている。
 比奈は脱力したように、へなへなと床に座り込んだ。その目はどこも見ていなかった。
 千枝は比奈のとなりに膝立ちになると、比奈の背を優しく撫ぜた。

「あ、あ、見られちゃったっス、ね……」

「ごめんなさい、お通夜の時、比奈さんの様子がちょっと気になって、プロデューサーさんと相談したんです」

「はは、は、そう、スか……」比奈は困ったように笑った。「すごい観察力っスね、千枝ちゃんも、千枝ちゃんのプロデューサーさんも……」

「私、ずっと比奈さんと一緒にアイドルやってきましたから」

「千枝、あとは私が」

「ううん」千枝は首を横に振る。「お願い、私に」

 千枝の言葉に、プロデューサーは目を細めて、口をつぐんだ。


13:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:02:43 :SvS主

「比奈さん、私からお願いです」千枝はそこでいちどつばをのんだ。「あの人のこと……比奈さんの絵で、描いてください」

「あっ」

 比奈は両手で顔を覆って、ぐっと背を丸める。
 それから、獣のように荒く、三度呼吸をした。
 そして、ひゅううと深く深く息を吸う。

「ああああああああああああああああああああああああ!」

 比奈は叫ぶような泣き声をあげた。
 千枝は、慟哭する比奈の身体を、そこに引き留めようかとするように強く抱きしめていた。

「ダメっス! ダメっスよ! だって、それをやっちゃったら! アタシは、それはっ!」

 比奈は床にくずおれて、首をぶんぶん左右に振った。

「比奈さんっ! 比奈さんっ!」

 千枝は比奈の名前を呼び続けた。

「うわああああああああああ!」

 比奈はわめき続ける。顔も髪もぐちゃぐちゃになっていた。
 千枝は比奈の頭の側に回ると、比奈の頭を優しく抱いた。

「うう、うううう、うっ、うっ」

「比奈さん、来るのが遅れて、ごめんなさい。こんなに張り詰めちゃう前に、もっと早く来てあげられたらよかった」

 比奈は叫ぶのをやめ、小さく頭を左右に振りながら、嗚咽を漏らし続ける。
 千枝は比奈の頭の上にそっと手を置いて、涙を溜めた目を閉じ、優しく撫でた。
 プロデューサーは傍らに立ち尽くして、千枝のするその仕草を見て、辛そうに目を細めていた。

-----


14:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:03:41 :SvS主

 比奈はうっすらと目をあけた。自宅の寝室のベッドだった。クイーンサイズで、いつも隣にいたはずの人の残り香は、もうだいぶ薄くなってしまっている。
 窓の外から、雨の降る音がしていた。
 比奈の視界がにじんだ。
 比奈は思考が濁っているのを感じた。身体を動かそうとしたが、ひどい風邪を引いたときのように身体が重く、すこし腕の位置を変えただけで諦めてしまった。
 そのとき、暗かった寝室に光が差し込んだ。寝室の扉が開かれたためだった。
 スリッパを擦る音が聞こえた。比奈はぼんやりと考えた。いま家には誰がいるのだったか。その答えが出るより前に、足音の主が声を発した。

「目が覚めた?」

 千枝のプロデューサーだった。

「……あぇ……?」

『あれ?』と言おうとして、比奈の口は思ったように動かなかった。

「無理に返事をしなくていいから、聞いていて。さっき、荒木さんはひとしきり泣いたあと、そのまま倒れるように眠ってしまったの。
……気絶だったのかもしれないわね。だから、勝手に入って申し訳ないけれど、寝室に運ばせてもらったわ」

「……千枝……ちゃんは……?」

「仕事に行かせた」

「……なん……で……」

「なんで私がここに居るか、かしら。私があなたのプロデュースをするからよ」

 プロデューサーは穏やかに言うと、ベッドの傍らにしゃがみこむと、比奈の体温を確かめるように比奈の額に手を当てた。
 それから、ベッドの上に放り出された比奈の手を握る。

「まだ、荒木さんの許可はもらってないけれどね」

「……」

「白湯を入れてくるわ。キッチンを使わせてもらうから」

 そう言うと、プロデューサーは握っていた比奈の手を離した。
 比奈は去っていくプロデューサーの後ろ姿を目だけで追った。


15:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:04:09 :SvS主

 プロデューサーに支えてもらって身体を起こし、白湯を飲んで身体を温めた比奈は、ふたたび横になると、深く息をついた。

「食欲が出てきたら言って。なにか買ってきてもいいし、冷蔵庫の中にあるものでなにか作ってもいい」

 言いながら、プロデューサーはベッドに腰かけ、再び比奈の手を取った。

「……たぶん、冷蔵庫はほぼ空っス」

「そう」

「……千枝ちゃんの、お仕事は」

「今は臨時で別のプロデューサーがついてる」

「アタシの……せいっスかね……」

「それは違う。荒木さんが何かを背負う必要はないわ。千枝や私がそうすると決めたことだから」

「……」

「気持ちが落ち着いてから、ゆっくりでいい、順番も気にしなくていいから、話せることを話して欲しい」

「……あー、ハイ……」

「……」

 比奈は湯呑をプロデューサーに渡すと、ベッドの何もないところを十数秒見つめてから、ゆっくりと口を開いた。


16:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:04:55 :SvS主

「……挨拶が、最後だったのに、おざなりになってしまって。アタシは締切が近くて、あの人はいつもどおりの時間で出勤で。
……朝ゴハンの食器を溜めた水に漬けて、塗りかけのカットを先に進めたかったっス」

「ええ」

「それで、集中してたんで、あの人が『行ってきます』って言ったのに、アタシは、多分返事はしたとと思うんすけど、ほとんど無意識だったっていうか、たぶん適当にハイって言ったくらいで」

「そう」

「出張だって言ってたんで。半日して、昼ゴハン取ってから少し仮眠して、日が落ちたころに連絡に気づいて、そしたら……」

「……」

「あの、そし、たら」

「焦らなくていい。言いづらかったら無理に言葉にしなくていいから」

「……ハイ。……連絡が。あったっス、それで、それで、行ってらっしゃいって、ちゃんと言えばよかったかもって」

「そうなのね」

「……あぁ……」

 そこまで言うと、比奈は少し泣いた。
 プロデューサーは、自分の手を重ねていた比奈の手をさすった。
 しばらくして、比奈は震えた呼吸を数回繰り返し、話を続ける。

「それで、あっ、アタシ、考えたのが、その、描きたい、って、いう、アレで」

「ええ」

「こんな、あの人が、いなく、事故で、いなくなっちゃうのに、アタシ、最初に、考えたのが、あの人で、あの人の、マンガ……そんなの、で」

「辛かったのね」

「……っ」

 比奈は額をシーツにこすりつけるようにして、声を殺して泣いた。
 プロデューサーは比奈の手をさすり続けていた。
 やがて、比奈はもう一度、充電が切れた機械のように眠りに落ちた。
 プロデューサーは比奈のかけているブランケットを直し、その場を離れた。


17:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:05:44 :SvS主

-----

 次に比奈が目を覚ましたとき、扉の向こうで祭壇の鈴の音が聞こえた。
 比奈は身体を動かしてみた。さきほどよりも重くないように感じ、比奈は身体を起こしてベッドに腰かけた。部屋の隅にあるアナログ時計は八時を指していた。カーテンから光が差し込んでいるのを見て、比奈は今が朝であることを自覚した。

「……あー、っ……」

 比奈は声を出してみる。少し枯れていた。
 足音がして、寝室のドアが開いた。

「おはよう。体調はどう?」

 プロデューサーが顔を出した。

「……多少、いいっス。……いろいろ、口に出したのが、よかったのかもしれないっス……ご迷惑を」

「気にしないで」

「泊まってくれてたんスか」

「ソファーとブランケットを使わせてもらったわ。あと、シャワーも借りた」

「はぁ……すいません」

「立ち上がれそう? お粥を作ってあるから、そろそろ少しずつ何か胃に入れたほうがいい」

 プロデューサーは比奈に手を差し伸べる。

「……いただくっス」

 比奈はプロデューサーの手を取った。
 雨は、もう止んだようだった。

 リビングルームは、比奈が嗅ぎなれた線香の香りが漂っていた。プロデューサーが焚いたのだろうと比奈は考えた。
 比奈は祭壇の前に座り、両手を合わせて深く祈る。それからテーブルにつくと、プロデューサーが用意したお粥をゆっくりと口に運んだ。
 半分ほど食べて、比奈は手を止めた。

「……すいません、これ以上は無理そうっス」


18:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:06:13 :SvS主

「わかった。片付けるわ」

「あの、アタシが」

「まだだめ」プロデューサーは比奈の額に手を添える。「プロデューサーとして許可できない」

「……まだ、プロデュースしてもらうことを承諾してないっス」

「そう。あなたのタイミングで良いから、返事をしてね」言いながら、プロデューサーはお粥の入った器をキッチンへと運んだ。「それから、家の中のゴミもまとめさせてもらったから」

「ありがとうっス」

 比奈はそのまま、椅子の背もたれに体重を預け、ひとつ息をついた。極度の空腹だったせいか、比奈は粥を食べたことで、自分の身体にエネルギーが染みわたっていくような気がしていた。
祭壇を見る。遺影の顔は変わらず、穏やかに笑っていた。
 午前の静かなリビングルームに、生活の音だけが穏やかに流れている。


19:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:06:58 :SvS主

 食事の片付けが終わり、プロデューサーは二人分の湯呑を持ってテーブルについた。

「……お話しても、いいっスか」

「どうぞ」

「本当に、どうして、あのときだけでわかったんスか」

「通夜の時のこと?」

 プロデューサーが尋ねると、比奈は頷いた。

「私や千枝だけじゃない、あの日訪れた、荒木さんを知る多くの人が違和感を覚えていたわ。
私たちはたまたま、荒木さんが書類にサインをするのを拒んだのを見たから、違和感の正体までたどり着けただけ」

「……それでも、それだけで……」

「……千枝が、あなたと同じ種類の苦しみを抱いていたの」プロデューサーはテーブルに視線を落とす。「彼が亡くなったと知らせを聞いたときに、千枝は深い悲しみを抱いた。
けれど、それと同時に、この体験をしたことでもっといい表現ができるようになる、と考えた。そして、すぐあとに、そう思ってしまった自分自身への罪悪感を抱いた」

「……」

「だから、千枝は荒木さんが同じ罪悪感を抱くかもしれないと予想した。そして、荒木さんにとって誰より近い人を亡くしたからこそ、そのエネルギーの大きさに苦しんでいるのかもしれないと」
 そこで、プロデューサーは言葉を切った。

「千枝ちゃんも、アタシと同じように考えていたんスね……」

 比奈は湯呑を両手で包むように持って、その水面を見つめる。
 プロデューサーは祭壇の遺影に目を向けた。


20:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:08:15 :SvS主

「……私が、そうするようにしてしまったの。千枝が抱く喜怒哀楽、全てを千枝の表現に活かすように仕向けたのは……私がやってきたこと。千枝のプロデューサーとして、千枝を一流の女優にするためにしたことに、後悔するつもりはないけれど」

「それで千枝ちゃんは、今、誰よりも輝いてるっス。プロデューサーさんの手腕っスよ」

「それでも、やっぱり考えてしまうときはあるの。千枝は、先鋭化した表現者としてではなく生きるのと、どっちが幸せだったかって」

「……」

「荒木さん」プロデューサーは、比奈の目を見て言った。「あなたは、彼の死について描くべきよ」

 比奈は、返事の代わりに、水面を見つめたまま深くひとつ呼吸した。

「千枝が表現者であるのと同じように、荒木さんもまたクリエイターであり、クリエイターではない荒木さんには戻れない。
彼の死によって深く悲しむ妻としての荒木さんと、彼の死というショックを表現によって昇華したいと願うクリエイターとしての荒木さんは、どちらも肯定されるべきだわ」

 プロデューサーが言い終わり、比奈はしばらく黙って何かを考えていたようだったが、やがて湯呑を持ち上げて、白湯を一口飲むと、湯呑をおいてほうっと息をついた。

「……ありがとうございます」比奈は穏やかに微笑んだ。「まだ、頭の中ぐちゃぐちゃしてるっスけど、でも……ああ、きっと、アタシは描く……描いてしまうっス。
それは、あの人の妻としてやっちゃいけないことなんじゃないかと……けど、別のアタシは、それを抑えられなくて」

 比奈は、遺影を見て目を潤ませる。

「あの人は、それも、受け入れてくれるっスね」

「……」

「いつも、なんでも受け入れてくれてたっス。
締切が近くなるほど自堕落になっていくアタシも、修羅場で昼夜が逆転して全然一緒の時間を過ごせないアタシも、風邪を引いたとき、弱ってるときのアタシも、全部全部、だから、あの、こういうときまで甘えてしまうのが、申し訳、なくて」

 比奈はテーブルの上にぽたぽたと涙を零した。


21:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:09:00 :SvS主

「私は、荒木さんとあの人の間に口を出したり、あの人の言葉を代わりに言うなんて己惚れたマネはできない。けれど、クリエイターと妻、両方の荒木さんが救われるべきだと強く思う」
プロデューサーは、そこで一度言葉を切ってから続けた。「そうして立ち直らないと……荒木さんがまた大切なものを失うようなことにでもなったら、それこそ、あの人に顔向けができないでしょう」

「……あ、はは」比奈は乾いた声で笑う。「……容赦、ないっスねぇ……」

「変に気を使うほど、荒木さんのことを理解できている自信がないの。それならむしろビジネスライクなほうが、嘘や保身が混ざらなくて安心できるでしょう」

「道理っス」

「だから、私からは仕事として荒木さんに依頼する。描いて。そして、あの人のことを描く荒木さんを、プロデュースさせて」

 言われてから、比奈はしばらく黙って考えていた。
 それから、ふっと息を吐く。顔はリラックスしていた。

「……プロデューサーさん、例の書類、サインするっス」

「ええ」

 プロデューサーはソファーの足元に置かれた鞄から書類とペンを取り出す。

「私が荒木さんの短期、臨時プロデューサーとなることを承諾してもらえるなら、承諾に丸をして、氏名欄に署名を」

 比奈はペンを受け取ると、書類に書かれた『承諾する』の項目に、しっかりと丸をし、比奈の名前でサインをした。

「プロデュース、お願いするっス」

 比奈は、頭を下げてはっきりとそう言った。

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22:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:09:24 :SvS主

 比奈の漫画制作は、比奈の体力の回復を待ってから開始されることになった。
 プロデューサーと比奈の関係は、プロデュースという言葉が使われてはいたが、実際の仕事は比奈の制作の各種環境サポートと、
完成後の原稿の発表に関するものであものであったため、どちらかといえば身の回りのことを手伝うアシスタントに近いものであった。
 サインから五日経った日、比奈は『描こうと思う』とプロデューサーに告げた。


23:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:10:19 :SvS主

 その日は晴れの日だった。

「筆記具類、作画道具一式を渡しておくわ。足りないものやこだわりたいものがあったら準備をするから」

 比奈の家を訪れたプロデューサーは紙袋を比奈に手渡す。

「はい……ああ、スタイラスペンまで。有難いっス。さて……描きますか」

 比奈は作業机に座ると、原稿用紙を取り出し、グリップをつけた鉛筆を握った。
 白い紙をしばらく眺める。

「……」

 比奈の顔が不快そうに歪んだ。

「……っ!」

 比奈はペンを置いて立ち上がる。

「荒木さん!?」

 ノート端末を持ち込んで事務仕事をしていたプロデューサーは比奈に声をかけるが、比奈はトイレに向かって走って行った。
 乱暴にドアが閉まる音がして、それから比奈のえづく声がドア越しに聴こえてきた。

「荒木さん、大丈夫? 水を持ってくるわ」

「……すいません」

 プロデューサーはキッチンに走り、コップに水を注ぐと、トイレの扉をノックする。
 ドアが軽く開き、プロデューサーは比奈が伸ばした後ろ手にコップを手渡した。

「……必要なら、もう少し時間を置いてもいい。焦らないで」


24:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:10:38 :SvS主

「いや、これは……」比奈は水を一口含む。「大丈夫っス。……すいません驚かせて」

 比奈はトイレの床に座り込んで少し休んでから、ふたたび作業机に戻った。
 比奈は白い紙にシャープペンを走らせる。
 みるみるうちに、紙の上にはおおよそ五、六等身程度の男性のキャラクターのスケッチが描かれていった。
 プロデューサーはその特徴から、比奈の夫をキャラクター化したものだと判断する。
 比奈が自身の生活についてイラストエッセイを描いたとき、稀に登場してくるキャラクターと同じ特徴だった。
 手を動かし続ける比奈の顔からは涙が流れていた。
 比奈は一旦眼鏡をはずして涙を拭い、また続きを描きはじめた。
 それでも涙は流れてくるので、拭くのが煩わしくなったのか、比奈はそのまま描き続けた。
 プロデューサーは何も言わず、比奈の作業を見守っていた。
 と、比奈の家のインターホンが鳴る。モニター画面には春菜の姿が映っていた。

「……出てもいいかしら」

 プロデューサーが言うと、比奈は「お願いするっス」と紙面を見据えたまま返事をした。


25:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:11:28 :SvS主

 部屋にあがった春菜は、まずは何も言わずに比奈の手を握り、部屋に置かれた祭壇の前に座り、合掌、礼拝した。
 春菜たち、元ブルーナポレオンメンバーをはじめとするプロダクションのアイドル仲間には既に、比奈が夫についての漫画を描くと決めたことが伝えられていた。
彼女たちは、比奈の精神面でのケアを兼ねて、オフの時に比奈の家を訪れ、可能なサポートをすることを打ち合わせていた。

「比奈ちゃん……」

 春菜は比奈の顔を観る。比奈はきょとんとしていたが、比奈の顔の涙のあとを気にしているのだと気づき、ああ、と困ったように笑った。
 春菜はふっと微笑むと、肩から掛けていたバッグから眼鏡を取り出す。それを比奈の向きに構えた。

「へ? あの、春菜ちゃん、見てのとおりアタシ、前に春菜ちゃんがくれた作業用の眼鏡、かけてるっスけど」

「大丈夫です、これ、度は入ってませんから。それに、眼鏡はいくつかけたっていいものですよ!」

 いやいや、と言う比奈に構わず、春菜は比奈の眼鏡の上に眼鏡を乗せる。
 春菜は満足そうに頷くと、再びバッグに手を突っ込む。眼鏡が出てきた。

「ちょ、ちょっとちょっと春菜ちゃん」

「いくつかけてもいいものなんです!」

 春菜はさらに眼鏡を乗せた。再びバッグに手を突っ込む。眼鏡が出てきた。
 比奈はもう観念していた。春菜が眼鏡を乗せる。バッグに手を。眼鏡が出てきた。
 比奈の顔に眼鏡を乗せる場所がなくなり、春菜は満足そうにすると、比奈の手を握った。


26:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:12:00 :SvS主

「比奈ちゃんはよく知ってると思いますけど、眼鏡は私にパワーをくれるんです。だからこれは、比奈ちゃんにおすそ分けです」

「あはは、ありがとうっス、春菜ちゃん」

 比奈は困ったように笑う。大量の眼鏡が頭に載っているので、落とさないように、比奈は殆ど頭を動かせないでいた。

「ほんとは、もっと早く、駆け付けたかったんです。だから、その分」

「春菜ちゃん……」

「これ、置いていきますから。私がいないときは、この眼鏡が比奈ちゃんを助けます」

「……重いっす」比奈は言う。「でも、嬉しい重さっス」

 比奈は一つずつ、丁寧に眼鏡をはずすと、作業机の一角に並べていく。
 それから、何かを思いついたかのようにはっと顔をあげた。

「そうだ、春菜ちゃん。これからこの画にペンを入れるっス。最初の線を、一緒に描いてくれませんか」

「えっ、私が……? でも、比奈ちゃんの作品じゃ」

 比奈は首を横に振った。

「今から描くのはあの人のマンガで、アタシとあの人の関係には、春菜ちゃんをはじめとして、欠かせない人がたくさん居るっス。この作品は既に、アタシだけのものじゃないっス」

「……それなら」

 春菜が頷くと、比奈はGペンをインクに漬け、持ち上げる。
 比奈の握るその上から春菜がペンを握り、ゆっくりと原稿用紙の真上に移動する。
 丁寧に、柔らかく、二人の握るGペンは紙の上を移動した。
 下書きされたキャラクターに、しっかりとした輪郭が描かれた。

 それからも、比奈の作業中にはたくさんの人が訪れた。


27:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:12:42 :SvS主

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 すこし風が強い日だった。

「漫画のお手伝いはちょっと自信がないから、私は賄いを作らせてもらうわ!」

 そう言って張り切ってキッチンに向かったのは、川島瑞樹と松本沙理奈だった。
両手いっぱいの高級食材で豪勢な食事を作り、比奈達と共にそれを楽しんだ。

「もちろん、旦那様にもねー」

 沙理奈は取り分けた食事を祭壇に供え、それから合掌して、静かに祈った。

「いつか、アタシがそっちに行ったら、思い切り誘惑してあげるから、覚悟しててね」

 顔をあげた沙理奈が言うと、比奈が後ろで笑っていた。


28:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:13:02 :SvS主

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 薄曇りの日だった。

「比奈さんのお手伝いなんて何年ぶりだろう。なつかしいな」

 関裕美は、原稿にかぶせたトーンにカッターの刃を走らせながら、嬉しそうに言った。

「細かい作業で申し訳ないっス、助かるっス」

「ううん、最近は落ち着いてアクセサリーを作る時間がなかったから、嬉しいんだ、こういうの。……漫画に参加させてもらえるのも、すごく嬉しい」

 裕美はそう言って、丁寧に作業を進めた。


29:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:13:37 :SvS主

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 急に寒くなった日だった。

「比奈さんっ! なにか買ってくるものはありませんかっ! 細かい作業は自信がないので、買い出しいってきますっ!」

 日野茜に言われて、比奈はしばらく考える。

「そうっスねぇ……早苗さんたちはどーします?」

「私? うーん、作業打ち上げ用に……ルービー?」

 問われた片桐早苗は悪戯っぽく舌を出す。

「あはは、ナナは明日もお仕事ですし、お茶で……」

 安部菜々が早苗の横で笑った。

「ビールとお茶、了解しましたっ! 比奈さんは!」

「アタシは……ジュースで。柑橘系がいいっス」

「了解です! 行ってきます! ボンバー!」

 日野茜は部屋を飛び出して行った。

「ベタねぇ」

 早苗が比奈を肘でつついた。

「ベタ塗りはもう終わってるっス」

 比奈は早苗にそう言って笑った。


30:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:14:38 :SvS主

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 月が綺麗な日だった。

「だいぶできてきたわね」

 プロデューサーは、持ち込んだノートPCのキーボードを叩く手を止めると、ソファーに座って黙々と編み物を続ける佐々木千枝に声をかけた。
 時刻は夜の十二時を回ったところだった。比奈は一時間ほど前に寝室に入り、プロデューサーと千枝は比奈の部屋に一泊する予定だった。

「うん。……これからもっと寒くなるし、おなか冷やしちゃうといけないから」

「完成しそう?」

 プロデューサーは千枝の編み物を見て言う。

「オフだけじゃなくて、移動中も少しずつ編んでるし、間に合うと思います。……漫画も、もうすぐ完成ですね」

「ええ。……良かった」プロデューサーはテーブルに頬杖をついて、ふっと体の力を抜いた。「今だから言うけど、荒木さんがあのままふさぎ込んでしまったら、どうしようかと思ってた。私は言葉も冷たく聞こえるってよく言われるし」

「プロデューサーさん、ほんとはすっごく優しいのに」千枝は編み物を続けながら、祭壇の遺影を見る。「……あの人は、皆が頑張れるように、支えてくれる優しさでした。
プロデューサーさんは、頑張れるように引っ張ってくれる優しさ。相手のために厳しいことを言ったほうがいいときでも、それを口に出せる人はあまりいないから。もしかしたら傷つけちゃうかも、嫌われちゃうかもって、怖くなっちゃう。
でも、プロデューサーさんは、必要なときには、自分を犠牲にしてでも、色んな事を背負って、前に前にって引っ張ってくれる」

 千枝はプロデューサーに向かって微笑む。

「私は、プロデューサーさんが私をプロデュースするためにしてくれたこと、どれも嬉しかったんです。だから、私だって比奈さんに前に進んでもらいたいときは、怖がらないで背中を押さなきゃって」

 プロデューサーは姿勢を正して、目を細めた。

「千枝、ありがとう」

「こちらこそありがとうございます、プロデューサーさん」

 千枝は少し頬を染めて言った。


31:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:16:05 :SvS主

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 薄く曇った昼間だった。
 その日は、部屋の中に比奈しかいなかった。
 比奈が一人で居ることを望んだためだった。
 比奈は最後の仕上げの作業を、一人で終わらせることを望んだ。
 ディティールアップの最終段階が終わろうとしているそのとき、比奈は手を止めた。
 比奈は手に持っていたブラシを置いて立ち上がると、仏壇の扉を開き、鈴を鳴らして合掌し、拝む。
 目をあけて、飾られた遺影を見つめた。

「もうすぐ、完成するっスよ」

 比奈はゆっくりと息を吸う。仏壇の中に残っていた線香の香りが漂っていた。

「長い……長いお葬式だったっスね。お通夜、斎場でのお葬式、荼毘に付して、納骨して……その間から今までアタシが続けてたこの制作は、
アタシなりの弔いの形で、アタシがこの現実を受け入れるための、軟着陸でもあったっス。だから……いまなら、受け入れられる気がするっス」

 比奈は天井を仰ぐ。

「描きはじめてからもいろいろ悩んだっス。十年ちかくも引っ張らないで早く素直になれば、もっと長く幸せな時間を味わうことができたのかもとか。いろいろ。
でも、変えられないことを悩み続けても仕方ないですし……なにより、繋がってる人達、みんな……みんなにたくさん助けてもらったっス。いつか、言ってたっスよね。
全部、大切な人達との大切な関係でできてるから、大事にしたいって。その通りでした。アタシたちの人生には大事な人達とのつながりがあるから、アタシもちゃんと立って、前をむかなきゃって、思わせてもらえるっス。
辛くても、何度倒れても、また立ち上がれたっス」

 比奈は目を閉じて、胸に右手を添えた。

「アイドルにならなきゃ、こうはなれませんでした。アイドルをやってて、よかったっス」

 比奈は立ち上がる。

「さあて、最後の仕上げっスよ!」


32:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:16:26 :SvS主

 比奈は作業机に座ると、カラー原稿の最後の手直しを始めた。
 水彩絵の具を使って、ゆっくりと紙面に色を足し置いていく。
 比奈は、指先から頭と足の先まで、全身に気持ちを巡らせて、一つ一つ思い出を重ねるように丁寧に描いていった。
 十数分の作業を終えて、比奈はふっと息を吐き、筆を置く。
 それから、自分で作った原稿を目の前の高さまで持ち上げた。
 そのページには、ひとつだけの大きなコマが配置されていた。
 今から家を出ようとする男性が、家の中、読者の方を見ながら、靴を履いている。
 比奈はそのページを見つめながら、目を細めて呟く。

「……いってらっしゃい。……っス」

 比奈がそう言ったとき、窓の外の空には、雲の隙間から日が差し込んでいた。

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33:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:17:14 :SvS主

 晴れの日だった。
 プロデューサーは比奈の部屋でテーブルにつき、比奈の原稿を確認し終えると、それを封筒に丁寧にしまった。

「お疲れ様。漫画に詳しいわけじゃないけど、お世辞じゃなくとてもいい漫画だったと思う」

「またまたぁ。評価していただいて有難いっスよ。プロデューサーさんはもともとお芝居に造詣が深いっスし、
なんでも最近はずっといろんな漫画を読んで、漫画について勉強してたらしいじゃないっスか」

「……っ!」プロデューサーは頬を赤らめた。「千枝ね……もう……」

 比奈はしてやったり、という顔で笑う。
 プロデューサーはコホン、と小さく咳をしてから、真面目な顔に戻る。

「これを、荒木比奈さんの作品として、プロダクションの責任のもと、発表します。……当然、それなりの批判も届くと思う。
夫の死を商売にするのか、みたいな、何も知らない人間の安易で気楽な言葉が。小遣い稼ぎのメディアの人間の心ない言葉が」

「ええ、来るでしょうね。わかってるっス」

「一切、関わらないで。荒木さんはこれを描く必要があったし、描かれた作品は読まれるべき。つまらない横槍を入れる人間の言葉は無視して。私たちも全力で荒木さんを守る」

「心得ました。お願いするっス」

 比奈の言葉には迷いがなかった。
 プロデューサーはその目の光を確認すると。封筒をバッグに仕舞う。

「プロデューサーさん」比奈は立ち上がり、作業机に向かう。「実はもう一つ、読んでもらいたいものがあるっス」

 比奈は机の引き出しを開けて封筒を取り出し、プロデューサーに手渡す。
 プロデューサーは黙ってそれを受け取り、封を開いた。
 中から出てきたのは、五十ページ弱の漫画の原稿だった。


34:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:17:49 :SvS主

「まだ、ネームっスけど」

「……作業の間に、こんなことを……」プロデューサーは咎めるような目で比奈を見る。「ちゃんと休みなさいって、言ったでしょう」

「いやぁ……漫画描きは、ノルマと関係ない作品を描いてるときの時間は休憩に分類されるっスよ」

 比奈はおどけるように言った。プロデューサーは溜息をついてから、原稿を読み進めていく。

「……これ……」

 プロデューサーはそれだけ呟いて、あとは黙って読み進めていた。
 比奈が作ったもう一つの原稿は、仕事に出かけた比奈が、不幸にも事故にあって命を落とし、残された夫が激しく慟哭するが、仲間の力で立ち上がる話だった。
 原稿を読み終えたプロデューサーは、原稿の束を整えると、ゆっくりと机の上に置いた。

「これも、発表するの?」

「いえ……その、プロデューサーさんは、同人誌って判りますか」

「名前くらいは。こういう雰囲気かもってイメージはあるけど、正しいかはわからないわ」

「どういうものかわかれば十分っス。これは、アタシの同人誌っス。同人誌は……二次創作は、受け手の想いのエネルギーが形になったものっス。あのキャラが好きだからとか、本編では描かれなかったけど、こういうお話があったらいいな、とか。
そういう中に、途中で退場……死んでしまったキャラクターが、もしも生きていたら、っていうイフの世界を描くものも、よくあるんスよ。これはそういう、イフの世界のお話っス」

「……それなら、……」プロデューサーは言ってから一瞬言葉に詰まり、意を決したように続けた。「二人とも生きている世界でも、よかったんじゃないの?」


35:◆Z5wk4/jklI:2019/02/26(火)22:19:02 :SvS主

「うーん、考えたっスけど、なんか違うって思ったんスよね。ヘンかもしれないっスけど。でも、プロデューサーが言うような世界もあってもいいはずっス。
それから、アタシとあの人が結ばれなかった世界も。アタシじゃなくて、千枝ちゃん、春菜ちゃん、沙理奈さん、瑞樹さん、ほかの誰かがあの人と結ばれた世界も。アタシがアイドルにならない世界も。
数えられないくらいの可能性が、パラレルワールドがもしかしたらこの世界と同じように、どこかにあって……でもアタシはあの人と結ばれた世界に居るから、あの人とは平等でいたいっス。
それなら、対の作品として、アタシがいない世界を描くほうが、バランスがとれてるようなきがしたっス。あはは、自分で言っててよくわかんないっスけど」

「……」

「色んなイフの世界があるなら、ある世界ではプロデューサーさんは男の人で、千枝ちゃんといい関係になってるかもっスね。あ、性転換するジャンルもよくあるんスよ」

「ちょ、ちょっと!」

 プロデューサーが明らかに動揺したのを見て、比奈はちょっと笑った。

「冗談っス。……この原稿は、これから少しずつ仕上げていくっス」

 比奈は机の上に置かれた原稿に、愛おしそうに触れた。

「完成したら? ……発表はしないの?」

「そうっスねぇ、もうプロデューサーさんには見せちゃいましたし、誰かに見せてって言われたら隠すつもりもないっスけど……とりあえず」

 比奈は、すっきりした顔で笑う。

「これは、墓まで持っていくっス」



 天気予報では、翌日以降もしばらく晴れが続く予定だった。


(終)


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【おーぷん2ch】荒木比奈(33)は慟哭する
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