2013/09

2013/09/30

黒く蝕み地を染めん【MH4 ―ザ・フォーストレイル―】

あなどっていた……

漆黒の瘴気は爆炎となり、私を取り巻いた。
私は為す術もなく意識を失った。
朦朧とする意識の中で、私は何度も繰り返していた。

あなどっていた……

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黒蝕竜ゴア・マガラとは、これまで二度遭遇していた。
一度目はキャラバン隊の移動中。
やつは私の所属するキャラバンの船を襲撃した。

二度目はやつに襲われた行方不明のハンターを救出する作戦で、時間稼ぎのためにやつを足止めした。

過去二度にわたる遭遇で、私は黒蝕竜の攻撃パターンやその威力を確認し、この程度ならば撃破も容易いだろうと思っていた。

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戦闘不能の私を運ぶアイルーたちの担架の上で、私は後悔していた。
もう少し慎重に行動すべきだった。

過去二度の遭遇の時、あいつはまだ本気を出していなかった。
あいつにとってはじゃれついていたに過ぎなかったのかもしれない。

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三度目の遭遇、今回の戦闘で私はあいつにはまだほとんどダメージを与えていない。
すでに私は二度意識を失った。
あと一度戦闘不能になったら、もはやクエストは続けられない。
ダメージへの耐久力を大幅に上昇させる秘薬はまだ作れない。
絶望的な状況は、私の弱さに訴えかける。
これはもう諦めるべきだろうか?
【フォーストレイル】で初めてのクエスト失敗という屈辱を舐めるのだろうか?
この状況はハンターから戦意を奪い去るにはじゅうぶんだった。

だが、私はハンターである。
少しでも可能性が残されている限りハンターは諦めない。

とにかく死なないことを最大の命題に掲げて、私はゴア・マガラにみたび突撃することにした。

正面からの斬り込みが危険なことは、先ほど痛い目を見たので理解した。
黒蝕竜の正面120度は、暗黒の爆炎の範囲内であり、下手をすれば一撃で私は沈まざるを得ない。

時にお供アイルーを囮にして、時にゴア・マガラの動きを冷静に見極め、極力正面から斬りかかることを避けて私は大剣を振り回した。
ふた太刀あびせては退き、み太刀あびせては退き、その度に体勢を立て直した。
回復薬はじゅうぶんに残されていた。
【フォーストレイル】では、応急薬もハチミツと合成すればアップグレード出来るし、ハチミツはフィールドである程度は補充出来る。加えて、私は持てるだけの回復アイテムを持ってきたので、回復量に関していえば余裕はある筈だ。

執拗に斬撃を加えていると、ゴア・マガラの角が折れた。

効いているな。

私はほくそ笑む。
さらに翼が見た目にも分かるほど破損している。
だが、やつは弱った気配を見せない。
もしかしてと思って、シビレ罠にかけて、捕獲用麻酔玉をふたつ投げつけてみたが、やつはぴんぴんしていた。
捕獲にするにはまだ時期尚早だった。

黒蝕竜の反撃で私もほとんど死にそうになりつつも、なんとか猛攻をやり過ごし、やがてやつは巣に戻った。
だが、弱っている気配はないし、休息を取る様子もない。

何度もエリア移動をしては回復薬を呑み、そうして戦場に戻っては斬り込んだ。

私は隙をついてゴア・マガラの背中に飛びつき、必死になって背中に攻撃を加えた。
【フォーストレイル】で初めて体得した大型モンスターの背に張りつき、そこからの追撃によるダメージでモンスターを転倒させるという大技は、実は私はあまり得意ではない。背に飛びつくことは出来ても、いつも転倒までには至らない。背中への追い討ちは、かなり本気でやらない(ボタン連打)と成功しないのだが、どうにもうまくいかなかった。
だが、私はこの時必死だった。いつか本で読んだ“必死剣竜刺し”(藤沢リュウ平著)が、まさにこの時発動した。
必死剣竜刺しは、怖ろしい黒蝕竜を転倒させて、背中から振り落とされた私は、黒蝕竜との間合いを詰めて無我夢中で大剣をぶん回した。

気がつくと黒蝕竜ゴア・マガラはゆっくりと大地にくずおれようとしていた。

私が黒蝕竜討伐のクエストを開始してから38分が経過していた。

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私は興奮して、嬉しさのあまり目を見開いて、ニヤリとした。
そこはこちら側の世界でいうところの電車の中だった。

(つづく)


thanks_dude at 23:01|Permalink 【ゲームの話】 

2013/09/29

植物園には青い鳥【201309津軽】

<2013/9/9・その二>

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お濠にいる白鳥を眺めてから、私は弘前公園内にある植物園に這入った。天守閣とこの植物園と後で行こうとした藤田記念庭園の共通券がお値打ち価格だったので、せっかくだから植物園もさらりと見ていこうと思ったら、植物園が意外に面白くて長いこと滞在してしまった。 

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蓮の葉

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蓮の花

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木の実

花や木にはそれぞれの名前が入ったプレートが付属していたが、やっぱり木の名前と特徴はなかなか覚えられない。ナラとかブナとか見分けがつかない。言うなれば外国人の顔がみんな同じに見えるというあの状況と同じなのかもしれない。

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日本庭園には鯉がいて鯉に餌をやっていると青い鳥が可愛らしい声で囀りながら舞い降りて、また違うところへ飛んでいった。

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くちばしの長いあの青い鳥はこれまでの旅でも何度か見かけているカワセミである。

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カワセミはしばらく橋の下の岩の上に二本足でちょこんと立ってきょろきょろしていた。

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私が立ち止まってじっくりと観察していると、カワセミは別の岩場でひと休みしたあと、また忙しなくどこかへ飛び去った。

(つづく)


thanks_dude at 23:53|Permalink 【2013秋・旅の旅の旅】 

弘前城【201309津軽】

<2013/9/9・その一>

太宰治は弘前の街についてこんなことを記述している。

“けれども、見よ、お城のすぐ下に、私のいままで見た事もない古雅な町が、何百年も昔のままの姿で小さい軒を並べ、息をひそめてひっそりうずくまっていたのだ。ああ、こんなところにも町があった。年少の私は夢を見るような気持で思わず深い溜息をもらしたのである。”

今の弘前にはもうその面影はほとんど残っていない。
わずか百年かそこらの間に、日本の町並みは大きく変わってしまった。変わらざるを得なかった。その先に我々は立っている。それは仕方のないことだったのだ。そうしなければ、この国はこの国なりに育んできたささやかな矜持を守ることが出来なかった。失われたものの多くを犠牲にして、それとはまったく違う繁栄がもたらされたことを、そのおこぼれに与っている私のような卑小の者が断じることなどけして出来はしないのだ。

弘前駅から弘前公園までは徒歩で二十分から二十五分くらいの距離にあった。

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公園内は早朝でも開かれているので、私は弘前城の門や櫓を見て回り、天守閣の外観を眺めた。

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天守閣は現存天守の中でも小さい方で、昨年訪れた丸亀城と同じくらいの大きさだった。

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戦国時代が終わって、江戸時代のはじめに城が築城されたのは一六一一年。そしてそのわずか十六年後に天守閣は落雷のために焼失した。現存の弘前城天守閣は一八一〇年に本丸辰巳櫓を解体新造されたもの。江戸時代中期から後期の太平の世であり、度重なる飢饉や凶作に見舞われ、この地方の藩財政は特に困窮していたとも想像される。だからそれほど大仰な天守閣は必要ではなかったし、建造することも出来なかったのだろうと思う。

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ひと通り弘前公園を見て回ったので、可愛らしい天守を眺めながら、私は弁当を食べることにした。

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午前九時になると天守閣が開いて、城内を見学できる。
私は一番乗りで天守閣の前にやってきて、そして天守閣の三階までひと息に駆け上った。
天守閣からは津軽富士と呼ばれる岩木山がよく見えたが、頂上付近は雲に隠れていた。

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雲が晴れたら、弘前から見る岩木山をじっくりと眺めてみようと私は思った。

さらに太宰治から引用する。

“弘前城が、いまもなお天守閣をそっくり残して、年々歳々、陽春には桜花に包まれその健在を誇っている”

“弘前城。ここは津軽藩の歴史の中心である。津軽藩祖大浦為信は、関ヶ原の合戦に於いて徳川方に加勢し、”その功により“徳川幕下の四万七千石の一侯爵となり、ただちに弘前高岡に城池の区劃をはじめて、二代藩主津軽信牧の時に至り、ようやく完成を見たのが、この弘前城であるという。”

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津軽為信像

ちなみに津軽氏は隣国の南部氏(今の岩手県中部から青森県東部を所領)との根深い確執があり、南部氏側の言い分では元々は南部氏の家臣であった津軽氏が南部氏を裏切って津軽を自分の所領したということである。この辺りのことは司馬遼太郎の『街道をゆく』にも記述されていた。

天守閣を降りながら、私は展示されている品々をじっくりと見ることにした。
展示されているのは侍の時代の武具や防具や身の回りの品など。美術品や書簡なんかもあったと思う。

そうして私はこじんまりとした可愛らしい弘前城を後にした。

(つづく)


thanks_dude at 22:40|Permalink 【2013秋・旅の旅の旅】 

2013/09/28

正岡子規『仰臥漫録』読了

秋田県にある象潟という土地は、松尾芭蕉が奥の細道の旅で最終目的地とした場所で、秋田県では唯一の歌枕でもある。
象潟は、古くは西行法師から近年では司馬遼太郎に至るまで、数多くの歌詠み、俳人、文士たちが訪れた由緒正しい場所なのだ。
象潟にある蚶満寺というお寺の檀家さんがボランティアでお寺の案内をしてくれて、いろいろと象潟のことを教えてくれた。
象潟の近くに訪れた正岡子規は、その宿で出されたこの地方の岩牡蠣を食べて、“うまいうまい。非常にうまい”と三度繰り返したという話を聞いた私は、思わず子規らしいなと思って微笑んだ。檀家さんは『仰臥漫録』の中にそんなことが書かれていると話していた。私はちょうど来月の愛媛県の松島(子規の古里)を訪れるのでその本を購入して秋田から帰ったら読もうと思っていたので、そのことを話すと檀家さんは嬉しそうに微笑んでいた。

正岡子規の『仰臥漫録』を読了した。
この本は、正岡子規晩年の日記を収録したもの。

そこには正岡子規の痛みも苦しみも隠すことなく記述されていた。
それでも子規の姿に悲壮感や感傷を見ることが出来ないのは彼の生まれ育った伊予という土地柄が関係しているのだろうか。

痛みに堪えかねて自ら生命を絶とうと思い立ったことさえも、鬼気迫る描写ながら、どこか哂っている気配さえも感じられた。
やがて子規は自らの死期を悟り、葬式は質素にしろとか、戒名など要らぬとか書き遺している。
“空涙は無用に候 談笑平生の如くあるべく候”なんて、遺される者への愛情が感じられてさすがにこの時代の人は洒脱だと思う。
それでもやはり健康な人々の日々に生活に対するもどかしさも感じていたようで、“天下の人余り気長く優長に構へ候はば後悔可致(こうかいすべく)候”などとも書いている。
気ぜわしい私からすると、悠長に構えているくらいがきっといちばん幸せなのかもしれないと時々思うが、生き急ぎがちな人には子規のその思いは共感出来るものがある。

病の中でも驚くほどの健啖家である子規は、日々の食事を事細かに書き残していた。
そこに子規の生きることへの執着(しゅうじゃく)と、どんな境遇にあっても生きることを愉しむことを辞めない姿勢が垣間見えて、ますます子規の心根の強さを見た気がした。

鳥海山の麓、秋田県の象潟のちかくの岩牡蠣のことは、こんな風に書いていた。

“うまいうまい 非常にうまい 新しい牡蠣だ 実に思ひがけない一軒家の御馳走であつた 歓迎せられない旅にも這種(このしゅ)の興味はある”

私がその地方を訪れた時、すでに牡蠣の季節は終わっていた。
案内してくれた檀家さんは、七月から八月のはじめがいちばん美味しい時期だと言った。
いつか、私もこの地方の岩牡蠣を食べて、子規みたいに“うまい”と三度つぶやいてみたいものだと思う。


thanks_dude at 22:08|Permalink 読書 

正岡子規『旅の旅の旅』読了とひとり物産展

正岡子規は、『旅の旅の旅』という随筆の中で、“旅の旅その又旅の秋の風”という句を詠んでいる。
子規もまた若い頃まだ身体が病に犯されて動けなくなる前には、よく旅をしていたようだ。
そこから生まれる創作への意欲をそのまま形にもしたし、後々回想して文章を残したりもした。

私もまた“風雲の念おもいなお已やみ難く頻しきりに道祖神にさわがされて霖雨の晴間をうかがい草鞋よ脚半よと身をつくろいつつ”旅に出た。道子規の“道祖神”云々の記述はもしかしたら松尾芭蕉の『奥の細道』を踏まえてのことかもしれない。

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久しぶりに街を走った。
九月の週末はフットサルの練習があったり、旅先でたくさん歩いたり自転車に乗ったりしていたので、ジョギングをほとんどしなかった。
気が付くと季節はもう秋で、虫たちがしきりに演奏会を開いていて、吹く風は心地よかった。沿道には曼珠沙華がたくさん咲いていた。金木犀が香るのはまだもう少し先みたいだった。

家に帰ってシャワーを浴びてから晩御飯を食べることにした。
秋の秋刀魚を焼きながら、大根をおろして、焼きそばを作ることにした。今宵の焼きそばはただの焼きそばじゃない。鳥取県の三朝温泉というところで何となく購入したひるぜん焼きそばのソースを使った焼きそばである。蒜山(ひるぜん)は鳥取県と岡山県の境にある高原で、ひるぜん焼きそばはB級グルメのグランプリでも一位になったことがあるという。
まずは青森の黒にんにくエキスが入った黒ビールで晩酌とした。
太宰治の生家である斜陽館の近くで購入した斜陽館ビールはちょっと問題があったので、帰ってからすぐに数本を飲み乾してしまった。これはほとんど太宰の作品を読んでいるあろうリョーマにお土産として渡したかったんだけど、怖くて人にはあげられない。低温で保存していれば何も問題はないのだけれど。
それから島根県松江市の地ビール“ビアへるん”のスタウトを開けた。へるんというのは、小泉八雲、ラフカディオ・ハーンのことである。
とどめは秋田のしょっつるを使ったハタハタの佃煮と“いぶりがっこ”(燻した沢庵)。
酒は青森の“じょっぱり”。意地っ張りという意味らしい。

こんな風に帰宅してからも旅を思うことが出来るのは幸せなことだと思う。
買ってきた食べ物や酒ははいつかは消えて失くなってしまうけれど、記憶は私の頭の中のなんとか葉とかなんとか皮質とかなんとか野とかの活躍で、おぼろげながら、私が死ぬまではどこかに仕舞い込まれていることだろう。そうして時折旅先で見た“つかいみちのない風景”は、ふいに私の脳裏をかすめるのだろう。
私の死んだあとのことなどは私の知ったことではない。
それでいいのだと思う。
私はハーンや子規や太宰ではないのだから。


thanks_dude at 21:31|Permalink 読書 | 気が狂う程まともな日常

BUMP OF CHICKEN 2013 TOUR 「WILLPOLIS」@横浜アリーナ

子どもの頃、いつも世界はきらきらとして、毎日が新しい発見の連続だった。
最近すこし疲れている私がそう思うのは、しみったれた懐古趣味なのだろうか?
いつからだろう?
世界が鈍色のフィルターの中に沈み込んでしまったのは…。

長い休息の代償なのだろうか。職場では予期せぬトラブルの連続で、私の精神は限界近くまですり減っていた。起因は私であったり、そうではなかったりしたが、みんながどうしようもなく混乱していることだけは確かだった。

一昨日、ふいにBUMP OF CHICKENの2013年のライブツアー“WILLPOLIS”のステージサイド席とやらが解放されて、その抽選販売がなされると知った。
決算期とはいえ、一日くらいなら定時ないしすこし早引けしても納期には間に合うだろうと思って、私は条件反射的にその抽選予約にエントリーした。これまで幾度も“WILLPOLIS”のチケットを入手しようと手を尽くしてきたが、その思いが叶えられることはなかった。だから今回は期待はしていなかったのだけれど、思いかけずにそれは私の手の中に滑り込んできた。

午後二時間の有給休暇をとって、業務が逼迫しているので午後五時まで仕事をして、私は新横浜へと赴いた。新幹線を使えば早引けしなくても間に合うけれど、総合的に考えてそこまでする必要もないだろう。

コンビニエンスストアで缶ビールを買い、ジャンクフードの店でフィッシュバーガーを買った。フィッシュバーガーはキャンペーン中らしくもう一個おまけに呉れた。

新横浜でボトル缶のビールを二本買い、一本を呑みながら横浜アリーナへと向かった。
入場ゲートではカメラの所持を問われたが、酒の所持は問われなかった。
売店ではビールも売っていたから、人に迷惑をかけない程度なら呑んでもいいらしい。

入場時に配られたリストバンドは、八月のマリンスタジアム配られたものと同じ代物で、ザイロダインという名前だった。どうやらリモコン制御でライブの進行状況に応じて発光するものらしい。

ステージサイド席は、三階席の端にあった。ステージを真横から見下ろす形にはなるが、三階席ステージ正面席と比べたらだいぶステージとの距離は近い。今はスクリーンが張られてステージは何も見えないが、きっとそれもライブが始まれば取り払われるだろう。

ステージの両脇にはモニターが設置されていて、開演前にザイロダインから絶縁体を引き抜いて電源をオンにしてくださいという内容のブリーフィング画像が提示されていた。アナウンスでは“この動作を完了しないとザイロダインが正しく作動しません”などと機械的な調子の女の声が流されていた。

今回もバッググラウンドに流れている聴きなじみのあるボレロの演奏が最高潮に達すると、午後6時40分に照明が落とされて、やがてモニターには飛空挺と少年と鳥の物語が映し出された。それは前回のツアーでも映し出されていた物語の延長線上にあるみたいだった。

そしてステージは幕を開けた。
BUMP OF CHICKENは、今日も唄を歌う。
彼らにしか歌えない唄を・・・。
大きな声でりんりんと。


<セットリスト>

2013/9/25 Tue.

01.Stage of the ground
02.firefly
03.虹を待つ人
04.Sailing day
05.ゼロ
06.プラネタリウム
07.花の名
08.ダイヤモンド
09.グッドラック
10.飴玉の唄
―星の鳥―
11.メーデー
12.カルマ
13.車輪の唄
14.天体観測
15.fire sign

アンコール
16.真っ赤な空を見ただろうか
17.宇宙飛行士への手紙


私は詩人にして歌うたいの藤原元央の紡ぐ世界を見のうちに入れながら時々涙した。

何回転んだっていいさ
擦り剥いた傷をちゃんと見るんだ
真紅の血が輝いて「君は生きてる」と教えてる

目標なんか無くていいさ
気付けば後から付いてくる

そんな歌詞が身に沁みる。
そうか、今の俺に必要なのはBUMPの歌なんだと私はしみじみと思った。

「グッドラック」と「飴玉の唄」はアリーナ席の中央よりやや後方のふたつめのステージでアコースティック編成による演奏だった。
メインステージから移動するときに、メンバーはアリーナ席の人々とハイタッチをしながら歩いていた。
アリーナ席のスペースは上から見ると、まだまだ余裕があるようだった。

「車輪の唄」を聴きながら、その唄の物語の情景がいとも自然に頭の中に浮かんだ。それはいつか見た遠い日の記憶かもしれないし、そうではないのかもしれない。私はその心象風景を久しぶりに取り戻した気がした。
いつも思うのだけれど、この唄はすごいと思う。
きっとこの唄を聴く人それぞれに違った心象風景があるのだと思う。
高い普遍性を持った唄というのは、そういうものなのだ。

あと二曲でライブもお仕舞いと藤原基央がいうと、客席から「もうちょっと聴きたいから偉い人に相談して」という声がした。
藤原は応える。「いや俺もお金のこととかそういうことよくわからないけどさ、きっと偉い人に相談しても、その偉い人も自分より偉い人に聞かなきゃ分からないって言うと思うよ。世の中はそういうもんだよ」と悪戯っぽくぼやいていた。

「天体観測」で飛び跳ねたあとは、「fire sign」でハミングをした。
メンバーがステージを去った後も、そのメロディーはいつまでも胸の中に残っていた。
聴衆が、そのメロディーを口ずさんで、それをアンコールの意思表示としていた。
それがいつからはじまった儀式なのかは私にはよく分からない。

アンコールでは、メンバーそれぞれがすこしずつ思いを語っていた。
藤原元央は、「なんだろうね。こんな風に知らない人たちが集まって同じ時間を過ごせるってことは本当にすげえことだよね。ありがとね。ありがとね。マジありがとね。だってさ、俺、君たちが昨日何してたのかも知らないんですよ?学校で悩んだりとかさ、職場ですごいへこんだりしてかもしれないけどさ、そんなこと何もしらないんだよ?そんな人たちがさ、音楽を中心にして“イエーイ”とか“ウォー”とか言えるってすごいことじゃないですか?俺、そんな風に思うだよね」と話していたのが印象的だった。

すべての演奏を終えたメンバーは、それぞれ思い思いに語り、タオルやシャツやピックをアリーナ席に投げ込んだりして、ステージの余韻を愉しんでいた。最後に藤原元央が「幸せな時間をどうもありがとう。みんなといられて楽しかったです。またあおう。ありがとう。おやすみ」と、穏やかだかしっかりとした声で話し、そしてこの日のステージは完全に幕を閉じた。

この日のステージでは、猫の唄は聴けなかったし、久しぶりに聴きたいとずっと思っていた「ギルド」も聴けなかった。
今年のBUMPのツアーはおそらくもう参加出来ないだろう。私の予想では最終公演には「ギルド」が演奏されるんじゃないかと思うのだけれど、今回みたいにステージサイド席とか機材のスペースが開放されない限り参加出来そうにもない。
え?ヒラリー・ダフ…?いやいや……げふんげふん。

ともかくも、私はすでに私の中から失われて久しい きらきらを唄の中に見つけたような気がした。
とても気持のよい夜だった。 

(おしまい)


thanks_dude at 17:24|Permalink BUMP OF CHICKEN 

久しぶりに何もない日

久しぶりに特に何もない休日。9月はずっと旅に出ていたので家でじっとしているということも少なかった。
旅の空の下では、ストレスのない非日常の世界で羽を伸ばすことが出来るが、心は慌しく右往左往する。
何もない休日もまた、私の心は右往左往しているが、それでもゆっくりと自分の住み処で過ごすというのは、大いなる休息になるだろう。

夢の中で、私はどこかへ旅に出ていた。
旅先の晩飯をうなぎ屋に定めた私は酒を呑みながら、うなぎが出てくるのを待った。
しばらく待っていたのだが、一向にうなぎは供されず、私は目を覚ました。夢の中とはいえ、うなぎを食べたかったと私は思った。
私はとても腹が減っていた。

目覚めてすぐに市役所に出かけた。
住民票の写しを発行してもらい、スーパーマーケットで食材を買い込み、家に帰った。

家に帰ってから、遅い朝御飯を食べることにした。
朝御飯は先週末の秋田旅行で買った稲庭うどん。
缶ビールを開けて、それを呑み、前菜の塩トマトをかじった。
トマトはあら塩を振って喰うのがいちばん旨いと私は思う。
稲庭うどんは時間節約のため、鶏の手羽と一緒に煮込んだ。
稲庭うどんは、北国(ほっこく)の寒さの中で乾燥させた腰の強い麺である。
茹で上がった麺を冷水で洗いぬめりを取ると、つるつるでしこしこのとても美味しいうどんが出来上がる。
煎り胡麻と海苔とわかめを添えて、昨年の三月に讃岐で買ったおかせんという店の醤油で味付けをした。
胡麻と海苔の風味がうどんのうまみを引き立てていて美味だった。
食べ終わった後におかせんの醤油の消費期限を確認してみたら、昨年の十二月までだった。
まあ、あれは摂取した人が中毒になったりしたときのための保険として表示されているだけだから気にする必要もないだろう。今回で使い切ったし、別段身体に異常はない。醤油だって一リットルくらい飲んだらオーバードーズで死ぬかもしれないのだから、そんなことをいちいち気にしてもいられない。

さて、今日は酒でも呑みながら記憶を文章に変換して過ごそう。
晩飯は夢の中で待ち望んだうなぎではなく、いまのところまだ大衆魚でうなぎとはまた違った味わいのある秋刀魚にしよう。何しろ今が旬だから。


thanks_dude at 11:44|Permalink 気が狂う程まともな日常 

2013/09/25

WILLPOLIS@横浜アリーナその一に参加

BUMP OF CHICKENのツアー横浜公演一日目に思いがけず参加。今の俺にはBUMPの唄が必要だったと実感しつつ密かに涙した。ギルドも聴きたかったな・・・。詳細はレポートとセットリストはそのうち。

thanks_dude at 23:59|Permalink BUMP OF CHICKEN 

2013/09/24

急遽、BUMP。君にBUMP。

明日のBUMP OF CHICKENのステージサイド席(横浜アリーナ)に申し込んでみたら、抽選の結果チケットがご用意できましたとかいうメールが来た。
おいおい…
仕事が壊滅的なほど忙しいのに当たっちまったよ

クレジットカード払いだよ。
決済済みだよ。
もちろん早引けしてでも行くけどさ

明日は二時間有給使って、一時間半くらいはただ働きだな。
しかし、ステージサイド席ってどんなもんなんだろう。 


thanks_dude at 23:54|Permalink BUMP OF CHICKEN 

2013/09/23

津軽へ行こう【201309津軽】

<2013/9/8-9>

ふと、時間が出来たので津軽に行くことにした。
なんとなく四十七都道府県をすべて訪れてみようと思いたってから、はや数年が経過した。
訪れていない土地は、両手の指で数えられるくらいにまで絞り込まれた。
青森県にはまだ訪れたことがない。
津軽には、侍の時代から今も残る天守閣がある。
それから津軽は、太宰治の古里でもあった。
私は太宰の『思ひ出』、『津軽』、『苦悩の年鑑』、『十五年間』などの作品を読んで準備を整え、いよいよ津軽へと赴くことにした。

夕刻、相模の国は激しい雨が降っていた。
この雨が出発の時刻までに弱まってくれたらと、私は祈るような気持ちで願い、旅の支度を進めた。

午後八時二十分、雨は小降りになっていた。
傘を差す必要は感じられない。
夕立は去ったのだ。

東京駅にはバスが出発する三十分前に到着した。
ほどなくしてバスが来て、私はそれに乗り込んだ。
私にあてがわれた席は通路側で、隣の窓際の席には体脂肪率二十五パーセントくらいの男が座っていた。
おそらく今宵はまともに眠れないだろう。
私は暗澹たる思いをとにかく頭の中から強引に追い払ってみた。

出発までの間に、持参した弁当を缶ビール片手に腹に流しこんだ。
バスは東京駅を午後十時十五分に出発した。
私はもう一本の缶ビールを開け、ほどなくして呑み乾した。一リットルのビールはしっかりと腹の中に収まった。
午後十一時二十分に佐野パーキングエリアに到着するまで、すこしだけうとうととした。
十五分の休憩の後、バスはまた走り出した。

隣の若造が私のパーソナルスペースを遠慮などせずに侵食する。腹が立つから時々カウンターを当ててやるが、生意気にも熟睡していやがるから、効いているのか効いていないのか分かりゃあしない。
こうなったら定期的にカウンターをあてて、やつの眠りを阻害してやると、意地悪な私は考えたが、そんなことをしても彼がはみ出した部分を引っ込めることもほとんどなかった。

私が眠ったような眠らなかったような曖昧な状態を繰り返していると、やがてバスは弘前に到着した。
午前六時三十分だった。
予定よりも二十五分ほど早い到着だった。
バスの停車した場所が地図上のどの地点なのかさっぱりわからなかったので、少し街をうろうろする羽目になった。
やがて弘前駅を見つけたので、私は弘前公園まで歩くことにした。

(つづく)


thanks_dude at 23:20|Permalink 【2013秋・旅の旅の旅】 

津軽【201309津軽】

<序文>

「ね、なぜ旅に出るの?」
「苦しいからさ」

太宰治の『津軽』という紀行文のような小説の本編はこんな風な問いかけから始まる。

「正岡子規三十六、尾崎紅葉三十七、斉藤緑雨三十八、国木田独歩三十八、長塚節(たかし)三十七、芥川竜之介三十六、嘉村磯多三十七」
「それは、何のことなの?」
「あいつらの死んだとしさ。ばたばた死んでいる。おれもそろそろ、そのとしだ。作家にとって、これくらいの年齢の時が、一ばん大事で」
「そうして苦しい時なの?」
「何を言ってやがる。ふざけちゃいけない。お前にだって、少しは、わかっている筈だがね。もう、これ以上は言わん。言うと、気障になる。おい、俺は旅にでるよ」

それは太宰にとって、己の半生を振り返る巡礼の旅だった。

私もまた旅に出る。
苦しいから旅に出る。
津軽は私の古里ではないけれど、その土地を旅することは、いくばくかの癒しを私にもたらすだろう。それがたとえ束の間のものであっても、私にとっては得がたい体験となるだろう。それが今回の旅の動機のひとつであるのかもしれない。もちろんこれは他にもたくさんの動機はあるのだけれど。

太宰はまた、古里についてこんなことも書いている。

“汝を愛し、汝を憎む。”

多かれ少なかれ古里に対するアンビレンスな思いは、ある意味では普遍性を持っていると思う。

“おのれの肉親を語る事が至難な業であると同時に、故郷の核心を語る事も容易に出来る業ではない。ほめていいのか、けなしていいのか、わからない。”

きっと古里というのは、そういうものなのだと私は思う。


thanks_dude at 23:04|Permalink 【2013秋・旅の旅の旅】 

2013/09/19

今年もまた秋刀魚の季節がやってきた

一週間ほどの旅に出る前に、冷蔵庫の中の生鮮食品は空にする。
肉や魚は冷凍保存も出来るけれど、野菜はやはり新鮮なうちに食べた方がよい。

旅から帰ったばかりなので、家に野菜がなかった。
会社帰りにスーパーマーケットに立ち寄ると、ぷりぷりに肥えた秋の秋刀魚がとても美味しそうだったので、晩飯は秋刀魚の塩焼きにした。

秋の味覚の代表格である秋刀魚は価格も安く、庶民のための御馳走に他ならない。
しかも手軽に調理できるのがいい。

今年もまた小津安二郎の『秋刀魚の味』という映画を思い出して、秋の味覚を愉しんだ。


thanks_dude at 00:13|Permalink 料理 

2013/09/18

そしてまた、狩猟解禁【MH4 ―ザ・フォーストレイル―】

2013年9月14日、日本全国のハンターたちに狩猟が解禁された。
狩猟の舞台はニンテンドー3DSの中に造られた仮想世界。
リリース直後の状況を私は知らない。
その日、私は出雲にいて、現実の世界を旅していた。

9月17日に、私は出雲と伯耆の旅を終えて、米子から飛び、羽田に降り立った。
空港連絡バスで横浜まで移動して、家電量ハン店にて、予約しておいた『モンスターハンター4』(以下MH4)のソフトウェアを引き取った。
旅から帰った日は、時間がなくて狩猟をはじめる事が出来なかった。

9月18日、通勤時に漸く新しい街でハンターとしての生活をはじめることにした。

今回の或るハンターの大地を駆け巡る冒険のはじまりは龍撃船の上だった。
メルヴィルの『白鯨』で描かれてるモービィ・ディックを連想させる古龍の襲撃を受けた龍撃船の船上で、物語の主人公である私は、装備も物資もままならぬ状況野中で駆け回り、知恵と勇気のみを頼りに応戦し、わずかな時を稼いだ。わずかな時間の間に、街の人々は迎撃体勢を整え、巨大な龍を撃退した。

龍撃船の船長は、商隊を編成するための人材を探しているという。
そうして、私は彼にスカウトされた。

かつてのハンターとしての実績や物資は、この物語には引き継がれないらしい。

序盤はチュートリアル的なミッションが多く、経験豊富なハンターには物足りなく、かつもどかしい。
このあたりをすっとばしたい思いが強いが、これも致し方ないことなのだろう。

MHの面白いところは、ひとつひとつ地味な依頼を達成していくだけでも、それなりに楽しめるところだと思う。
今回もそれは踏襲されている。
徐々に討伐対象のモンスターたちも強力になっていくことだろう。

まずはちびちびと素材を集めながら、簡単な依頼をこなして行こう。

(つづく)


thanks_dude at 23:45|Permalink 【ゲームの話】 

2013/09/12

津軽から帰宅

昨日は酸ヶ湯温泉旅館からバスで奥入瀬に移動。奥入瀬を十数キロメートル歩いて、十和田湖の子の口と呼ばれるところまで行った。銚子大滝という瀑布がいちばん見ごたえがあった。子の口からはまたバスに乗ってバス停十和田湖駅(休屋)へ。そこから十和田神社に行き、御朱印をいただいた。そこから占場という修験場に行こうと思ったら落石のため通行止めになっていた。修験場なだけに道中は険しいところもあるらしく楽しそうだったんだけど残念。晩飯は青森駅周辺でいただいた。すごい美味しかった。バスは空いていて4列シートの2シートを独占できてよく眠れた。

今晩また出雲に立つ。その準備もほぼ終わった。新宿のバス乗り場はよく分からないので、乗り遅れないようにしなくちゃ。


thanks_dude at 10:28|Permalink  

2013/09/09

KOKIA「都会の隠れ家コンサート Vol.5@sonorium

秋が来ると、KOKIAは都会の片隅で、ひっそりと音楽会を開催する。
それは“都会の隠れ家コンサート”と銘打たれていて、私がそれに参加するのは今回で三回目となる。

会場はずっと同じだった。
永福町という駅の近くにあるsonoriumという本当に隠れ家とか秘密基地みたいな場所だった。
渋谷から井の頭線に乗って数分で永福町にはたどり着く。
ここが東京都何区に属しているのか私は知らないが、街は賑やか過ぎず寂れ過ぎずちょうどよいバランスを保っているみたいだった。
ちょうど、街は秋祭りの日で、人々ははっぴを着て祭りの準備をして、山車や神輿が通りに出ていた。

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sonoriumには、すでに何人かの気の早い人たちが列を作っていた。
弱い雨が降っていた。
そういえば、昨年の隠れ家コンサートも、私が参加した日の午後には雨が降っていた。
昨年のは非道い通り雨だったが、今日のは遠慮がちにぽつぽつと降る小雨だった。
開場の三十分前にどこかで見たことのあるようなスタッフに入場整理券を貰った。
整理番号は十番だった。

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午後一時少し前になって私は列に戻り、私はsonoriumのエントランスをくぐった。
過去二回は、フロア後方の1.5メートルくらい高くなったスペースの一番前を確保したのだけれど、今日は思い切って最前列を確保してみることにした。

この隠れ家コンサートで先行販売される15周年コンサートのDVDを購入して、ウェルカムドリンクのスパークリングワインとおもてなしのフィンガーフードを貰った。

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それらを口に入れながら、ステージやフロアの様子を眺めた。美しいスタインウェイのグランドピアノを白と琥珀を混ぜたような柔らかな間接照明が照らしていた。

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開演時間は午後一時三十分になって、さきほど私に整理番号を渡してくれたスタッフが、挨拶をはじめた。
どうやらそのスタッフは、ビクターエンターテイメントの助川さんらしい。助川さんといえば、アルバム『moment』のステージレコーディングの時に、舵取りを行っていたA&Rとかいう役割の人じゃないか。ビクターではけっこう偉い人というイメージがあるが、KOKIAのためにこうしてファンクラブイベントのお手伝いなんかもしてくれているんだね。

まだ会場に来られていない人もいるので、すこしだけ開演を遅らせて、そして今年の隠れ家コンサートも幕を開けた。
KOKIAはいつものようにふわりとしたツモリチサトのワンピースをまとっていた。
黒地に白の街をイメージしたラフな柄がプリントされて、裾は赤で、黒のローマ字でツモリチサトとプリントされているみたいだった。

いつものように穏やかなアルカイックスマイルをたたえて挨拶をしたKOKIAは、「ウェルカムドリンクでお酒も供されているので、もしかしたらほろ酔い気分の方もいるかもしれません。もちろんKOKIAは飲んでいませんよ。それは終わってからの楽しみです。楽しいひと時を過ごしてもらえたらと思います」と、そんな風に言ってスタインウェイに向き合い椅子に座った。椅子の軋む音も、KOKIAの足音も私の耳には聴こえた。手を伸ばせばKOKIAは届きそうな場所で唄を歌っている。なんという至高の瞬間だろうか。私はその一瞬一瞬をひとつずつ慎重に拾い集めては、この時間と空間の美しさに酔っていた。じんわりと心が昂揚していくのを感じた。


<セットリスト(9/8・1stステージ)>
01.傘をかしてあげて(弾き語り)
(瀬田創太呼び込み。以降、ピアノ演奏は瀬田創太)
02.Power of smile
03.Happy Birthday to me
04.Summer Time(カバー)
05.アエテウレシイにゃん
06.もういちど(未発表曲)
07.愛と平和と音楽と
08.Remember the kiss


ファンクラブイベントである隠れ家コンサートは、肩肘の張らないゆったりとしたステージで、幕間にKOKIAはとりとめのない事を話したり、フロアにいる聴衆から質問を募ったりする。それらを掻い摘んで、いつものようにだらだらと記述していこうと思う。例によって忘れてしまった細かい部分は創作により補うことにしよう。このレポートを書く主な目的は自分で過去の記事を読み返して記憶を掘り起こすことなのだからそれで問題ない。

まず、本日の音響関係の調整は、ミックスエンジニアの笹原さんが担当しているという。笹原さんはKOKIAのアルバム製作にも参加している人らしい。
助川さんにしろ、瀬田さんにしろ、笹原さんにしろ、KOKIAという歌うたいのために、こうやって駆けつけて協力をしてくれるというのは、とてもありがたいことだと思う。ファンクラブイベントの一参加者という立場でその恩恵に与れるということも、KOKIAという人の周りで人々がそれこそ傘を貸してあげているような光景を目にすることができるのも、とても素敵なことだと思った。

KOKIAは二曲目を歌う前に、この曲は久しぶりに歌うと話した。
それから“ある村のお話だよう♪”とイントロのフレーズを歌いはじめた。
うん?これは久しぶりでもないかな?と思っていると、これはフェイクで本当は「Power of smile」だった。「Power of smile」も一年以内には聴いた記憶があるから久しぶりでもないが、最近はそれほど頻繁に歌われる唄じゃない。

次は、昔インストアライブを行っていたころによく歌っていた曲で、今年の隠れ家コンサートに向けて歌って欲しいという要望も多かった曲を歌うと言う。さてなんでしょう?というKOKIAの問いかけに私は「人間ってそんなものね」を連想した。他の人たちは「Sigh」とか「私の太陽」を挙げていた。結局、KOKIAはもったいぶって答えを言わず、瀬田創太はピアノの演奏を開始した。
イントロデュースのメロディを聴きながら、私は何度も大きく頷いた。
なるほど「Happy Birthday to me」か……。
この唄は大好きだ。
私は大好きな歌を聴きながら、すこしだけ泣きそうになってしまった。

毎年隠れ家コンサートでは質問コーナーを設けていたのだけれど、毎年同じでは能がない。
あれ?しょうがない?
ああ、芸がないでいいのかな?
そんな風にKOKIAは言って、やっぱり今年も質問コーナーが始まる。

質問1:
以前に隠れ家コンサートでKOKIAさんのお気に入りにのクロエのピンクのリボンの香水の事を教えていただき私も愛用しているのですが、いまでもクロエの香水はお使いでしょうか?

KOKIanswere:
今もクロエの香水は使っていますが、最近は香水はつけなくて、ヘアクリームとかボディクリームを使用していることも多いですね。今日もいい匂いのするヘアクリームに瀬田君が興奮していたんですよ。
瀬田:
「ああ、そうですね。いい匂いでした」といつものように曖昧でソツのないようなあるようなリアクション。

質問2:
15周年コンサートの時に歌った「夢の途中」が印象的でしたが、KOKIAさんの考える夢の到達点というものはどんなものですか?

KOKIanswere:
「夢の途中」は到達しない夢、終わりを想定しない目標をイメージしています。
追いかけても追いつかないというのがよいのだと思います。
どんなに何かを成し遂げても終わりはない。それでいいと思います。

質問3:
いつもブログなどでお洒落なものの写真などをアップされているKOKIAさんですが、そういったものはどこで見つけてくるのでしょうか?

KOKIanswere:
KOKIAは雑貨屋めぐりやカフェめぐりが好きなので、そういうところで見つけます。
お洒落な雑貨を売っているカフェなんかもあるので、駅前探索はKOKIAの趣味となっています。
大船にあるカンノン(観音か?)食堂は、最近行ったお店の中で印象に残っています。是非行ってみてください。

質問4:
この前、ロンドンから帰ったばかりのKOKIAさんに質問があります。
海外での過ごし方について、何かおすすめなどあったら教えてください。

KOKIanswere:
その国のスーパーマーケットに行くと、現地の人びとの生活の空気感とか雰囲気を感じられるのでおすすめです。
それからあまり観光客などの訪れない教会などに出かけるのも好きです。
それから、ウェン・イン・ローム(郷に行っては郷に従え)じゃないけれど、普段食べないような現地の食べ物を食べたりするのもいいですね。
私は割と秘境と呼ばれるようなところでも平気で、むしろ訪れたいとさえ思っています。昨年放送されていてKOKIAの唄がテーマソングになっていたテレビ番組のプロデューサー(ディレクター?)とお話をしているときに、番組でどこか行ってみる?という話になったのだけれど、結局それは具体的な形にはなりませんでした。

ジャズのスタンダードナンバー「Summer Time」の時には、2020年のオリンピックが東京で開催されることに決まったので、外国人がたくさん来ますねと言って、瀬田創太の実家の浅草あたりでたこ焼き屋を営業したらたくさん売れるかもしれませんねとKOKIAはお道化ていた。

それからまた質問コーナー。

質問5:
実はKOKIAさんの足の親指のネイルにユニオンジャック(英国の国旗)を発見してしまったのですが、これはロンドンに行っていたことが影響しているのでしょうか?

KOKIanswere:
見えないお洒落を気づいてもらって、KOKIAは嬉しそうに応える。
そうなんです!
さっきまで手の指にもユニオンジャックが入っていたんだけど、ピアノを弾くからとっちゃったの。
KOKIAはロイヤルベビーと同じ日が誕生日なんですよ。
すっかりイギリスかぶれです。
(KOKIAの足の爪の英国旗に)瀬田君は気づいてた?とKOKIAが瀬田創太に訊ねると、彼は気づいていなかったといつものように飄々と応えた。

質問6:
独立したときにやりたかったことをどれくらい達成できましたか?またこれからやりたいと思っていることを具体的に教えてください。

KOKIanswere:
達成率は30%くらい。
目標はいろいろあるけれど、それは日々変わっていったり増えていったりして更新されていくので、常に30%くらいの達成率でいるのがちょうどいい。
これからやりたいことは、もっとステージを増やしたい。なかなか歌えない唄を集めたライブもやりたい。来年は大きなことが出来そう。ヨーロッパツアーにもまた行きたい。
それから十月くらいにはまた新しいお知らせをお届けできそうな気がします。
瀬田君と一緒にやった“smoothes”(ジャズバンドを組んで割と自由なセッションで演奏する)のライブは実現できたことのひとつですね。

昨年私が参加した会は、もうちょっと質問者が多かった気もするが、今回は初日の初回なせいもあって、みんな控えめだった。
そんなわけで中盤の質問はふたつでお仕舞い。

「アエテウレシイにゃん」は、多人数同時プレイ型RPGのテーマソング「Battele of Distiny」のカップリング曲で、KOKIAが猫のキャラクターを演じつつ歌っているような遊び心のある唄。もうこの曲を人前で歌うことはないでしょうねとお道化てみせながら、猫のKOKIAは愉快な唄を歌った。
瀬田君は「ドラゴンネスト」はけっこうやっているみたいだけどレベルはいくつなの?とKOKIAが訊くと、瀬田創太は「レベル50だニャン」と顔を赤らめて応えていた。

未発表曲の「もういちど」は、十五年くらいまえに完成した唄だという。男性目線の歌詞だから、誰か有名な人に歌ってもらえたらなんてことを考えて今まで温存してきたのだけれど、今のところその目論見はあともう一歩のところまでは行ったけれど、実現はしていないという。
ギターを弾き語りできるような素敵な男子に歌って欲しいとKOKIAが話すと、瀬田創太は松尾さん?と応える。
松尾さんというのは、KOKIAのサポートギタリストの松尾和博さんのことである。
ただKOKIAは、松尾さんは大人の男性だから、出来れば些細なことで喧嘩をしてしまいそうな若い人に歌って欲しいと話していた。
KOKIAがこの唄について、「この子、すごく好きなんです」と話しているのが、とても印象的だった。
隠れ家コンサートに先立って、ふいに「もういちど」の譜面を見つけたKOKIAは、この唄も歌いたくなって、気まぐれに譜面を持ってきたらしい。そして、瀬田創太とリハーサルをすることもなしに本番でいきなり歌うことにしたらしい。こんな風に急にオーダーを変えても瀬田君は出来る人だからちゃんと対応出来るんですとKOKIAは瀬田創太をベタ褒めする。一度聞いただけで楽譜を覚えちゃうんだよねというKOKIAに、瀬田創太はそんなことはないと否定していた。
とにかく、リハーサルもしていない「もういちど」はつつがなく演奏された。
演奏を始める前にテンポはこんな感じと言ってKOKIAは鼻歌を歌い、瀬田創太はそれに合わせた。
どこか「Whisper」とか「僕の気持ち」みたいなKOKIAの初期の楽曲に似ている気がした。
演奏が終わってから、KOKIAはあそこはこうした方がよかったねと言って、瀬田創太と打ち合わせをしていた。おそらく今日の二回目のステージではちょっと違った楽曲の構成になるのだろう。
それにしても、何だかすごい光景を目にしているような気がしてきた。こんなシーンはたぶんそれほど頻繁に目撃できる光景じゃないだろうと思った。

そして質問コーナー。

質問7:
「もういちど」は男性目線の唄ですが、この唄を作るに当たっての経緯とか、その時に感じていた思いなどを教えてください。

KOKIanswere:
KOKIAはまだその時は学生で、“自分の付き合っている人がこんな風に思ってくれたらいいな”とか“私はこんな風に思っているのに、男子はそんなこと思わないの?”(キーーー!!!)とかいう気持ちで書いた曲。
ひとつの曲を作り上げるた時のイメージは、強烈に記憶と密着しています。
匂いや味と同じように、その曲を思うとその頃の記憶がぱあーっと広がるような気がします。
だからひとつひとつの唄を作った時のことは、ちゃんと覚えています。

質問8:
KOKIAさんはカラオケに行きますか?

KOKIanswere:
タイムリーな質問!
この前、私たちはカラオケに行ったんですよ。
お友達の結婚式の流れでカラオケに行って、瀬田君はKOKIAの「歌う人」を歌っていました。

会場は瀬田創太にその唄を歌えという拍手を送っていたが、その要望はかなえられなかった。

KOKIAは「Power of smile」と小柳ルミ子の「いまさらジロウ」を歌ったらしい。
KOKIAは「いまさらジロウ」をワンフレーズほど楽しそうに歌っていた。

三年前にカラオケに行った時はKOKIAメドレーを歌ったということだ。

「愛と平和と音楽と」は、やはりKOKIAのよさを引き立たせるよい歌だと思った。
興に乗ったKOKIAは、ハンドマイクを口元から遠ざけて、生の声を聴かせるようにしていたので、私はその歌声に酔いしれた。

隠れ家コンサートの参加希望者は年々増えていて、今のこの形式では運営出来ないかもしれないので、来年は違った形になるのかもしれないけれど、またいずれかの形でみんなに楽しんでもらいたいと思っているとKOKIAは話し、お礼の言葉を述べて、「Remember the kiss」を歌った。
最後は、KOKIAと聴衆との合唱だった。これもまた唄の導く素晴らしい瞬間のひとつであった。

終演後は、KOKIAによるお見送り。
お見送りの順番を待つ間に、物販スペースでKOKIAデザインの象のプリントされた傘を買った。物販のお姉さんは雨が降っているかもしれないですねと言った。私が今日は傘を持ってきていないと応えると、お姉さんはちょうどいいかもしれないですねと言った。
私はKOKIAと一緒の写真を撮ってもらい、今日のステージについて「Happy birthday to me」が好きでずっと聴きたいと思っていたので嬉しかったですと声をかけた。KOKIAは最前列にいらっしゃいましたね。ありがとうございますと言って微笑んで、私にクッキーを呉れた。クッキーには“ありがとう”の言葉が浮かんでいた。
私はありがとうの言葉を送ってKOKIAの元を辞した。

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永福町は小雨が降っていた。
自宅最寄り駅に着くと、激しい雨がアスファルトを叩いていた。
私は買ったばかりのKOKIAの傘を差して家まで歩いた。
KOKIAの「傘をかしてあげて」という唄が、心象風景の中で象徴的に流れていた。


thanks_dude at 22:21|Permalink KOKIA 

2013/09/07

小泉八雲『神々の国の首都』など再読

出雲と伯耆に行くので、パトリック・ラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)の文章をいくつか読んだ。
今回は、夢にまで見た加賀の潜戸と、夢には見ていないけれどハーンの文章からイメージを膨らませてきた美保関や一畑薬師に訪れる。
後は平成の御遷宮が完了した築木の大社(出雲大社)、八重垣神社、松江城、小泉八雲旧居などに再訪する。
シンガーソングライター星村麻衣の「くにびき大橋」も渡らなくちゃ。
天気はあまりよくないみたいだけど、奇跡的に天候のV字回復でもみせてくれないかな。


thanks_dude at 23:13|Permalink 小泉八雲 

【DVD鑑賞】西日本横断ブログ旅20

稲垣早希の西日本横断ブログ旅は大分へと突入した。

前回、大分で小さな女の子と出合った稲垣早希は、「早希ちゃん」と声をかけてくれたその女の子に今晩の宿をお願いする。
可愛らしい女の子はお父さんにお願いするも、そのお宅にはそのお宅の事情があるので、そんなに簡単に受け入れられる頼みではない。
「こんな小さな女の子に何をお願いしているんですか」という親玉ディレクターの突っ込みが的確で可笑しかった。

大分ひとつめの通過ポイントは耶馬溪にあるダムで、ウェイクボードの上で5秒間立ち上がるというもの。
ウェイクボードは、水上スキーのスキーの変わりにボードを使うようなスポーツ。
けっこう大変そうだったが、活動限界15分の間に、トレードマークの赤毛のウィッグをパージ(武装解除)しながらも見事にお題をクリアしていた。

大分ふたつめの通過ポイントは、東洋のナイアガラとも呼ばれているらしい原尻の滝。
司馬遼太郎の紀行文か何かで熊本県とどこかの県境に、ナイアガラの滝みたいな滝があると書いてあったような気がするのだけれど、原尻の滝はそれとは違うのだろうか?

今回のDVDは、大分を出て熊本のそれほど大きくはない町で終了。
その町にひとつしかないホテルが満室で落胆する稲垣早希にひとつの奇跡が起こる。
満室ですと従業員に告げられた直後に、キャンセルの電話が入り、所持金5331円だったのだが、宿泊料も4800円で済み、何とかその日の宿を確保出来たという何だかドラマチックな展開だった、
どうやら熊本のひとつめの通過ポイントは阿蘇らしいし、この町は熊本市街よりは阿蘇にも近いので、この町で宿を探してよかったのかもしれない。


thanks_dude at 22:59|Permalink バラエティ 

ボルダリング・スカイ

午前十時前に家を出て、瀬谷まで自転車で走った。
太宰を読みながら、電車で横浜まで移動して、徒歩十分くらいのところにある壁登りの施設へ赴いた。

今日は午前十一時からZooとボルダリング。
ボルダリングは、壁面に設置された凸凹をつかんで登って行くスポーツで、かなり腕の力を必要とする。
私は黒脚のサンジみたいに基本的に足技しか使わないので、それほど腕力に自信はない。
三十分程度壁に挑んだだけで、だいぶ腕がぱんぱんになった。
二時間ほどの壁登りは、アタックすればするほど筋肉が疲弊して、難易度の高いコースをクリアするのが困難になってくる。
最後はそれほど難しくないコースで終了とした。

横浜で一旦Zooと別れて、ヨドバシカメラでレンズキャップを買った。
どうもサイズを間違えたらしいので、交換可能ならば交換してもらおう。どうせポイントで購入したし、たいした値段でもないから交換不可ならそれでいいや。

マクドナルドでハンバーガーを購入し、瀬谷駅の有料駐輪場に止めた自転車を引き出して、瀬谷のスポーツセンターに赴いた。
どうでもいいが、瀬谷の駅前は自転車がたくさん並んでいた。そこは違法駐輪なのかどうなのかよくわからない。だが自転車が犯罪に巻き込まれる確立は有料駐輪場よりも高いかもしれない。
瀬谷のスポーツセンターにはすでにZooが来て待機していた。
ハンバーガーを喰いながら、Zooと話をして、他のメンバーが来るのを待った。

体育館の予約をした午後三時前にHYが来て、そのすこし後にJがやって来た。
体育館で行うのはフットサルの練習。
今日も少人数なので、木曽練習を行う。
パスの練習から、リフティングラリー、シュート練習という流れ。
ボールを落とさないように、パスをまわすリフティングラリーは、はじめた当初よりもみんなこなれてきたようで、なんとか目標の二十回は達成できた。

練習の合間に話をした。
いろいろとみんなの仕事の去就なんかも変わろうとしているようだ。
十月には私の環境にも変化があるし、Zooの環境にも変化があるらしい。
十二月にもみんなの環境に変化はある。
一月にJはまた旅に出るという。

私は数ヵ月後の未来を、おぼろげに想像して、そのスポーツセンターを後にした。


thanks_dude at 22:32|Permalink 気が狂う程まともな日常 

【DVD鑑賞】西日本横断ブログ旅16〜19

稲垣早希の西本横断ブログ旅もようやく中国地方を脱して九州へと突入した。

福岡ひとつめの通過ポイントは志賀島のアラカブ。
志賀島と言ったらあれである。
漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)の例の金印が見つかったところである。たぶん。
アラカブというのは魚の名前らしい。
赤い魚で見た目はオコゼに似ているらしい。

小倉から博多、志賀島と資金難の中でたどり着いて、志賀島の善男善女に助けられて、一宿の恩に与る。

通過ポイントは、アラカブを釣り上げるというものだった。
だんだん通過ポイントの難易度が上がっている。
所持金0のまま支払いもせずに漁船に乗り、アラカブを釣り上げて引き返した港で、サイコロタイム。
ここでいい目が出なければ、稲垣早希は無賃乗船になってしまうが、きっとこれはどう転んでも何らかのテレビ番組的な救済措置があったと思う。
結果として事なきを得たけれど。

博多の周辺にある櫛田神社では神輿とも山車とも違う“山笠”というものが一年中展示されているらしい。
博多のおでんには餃子天というものが這入っているという情報も記憶に留めておこうと思った。

福岡ふたつめの通過ポイントは王貞治が入院中に抜け出してまで食べに行ったという“らるきぃ”という店のパスタ。
ぺペロンチーノに半熟たまごを絡めたパスタは、カルボナーラみたいな味がするのだろうか?

そして佐賀へ。
佐賀ひとつめの通過ポイントは佐賀北部にあるというツイタ鼻という景勝地。
ツイタ鼻という地名は、豊臣秀吉の朝鮮出征の頃の故事に起因しているという。

佐賀ふたつめの通過ポイントは清水の滝というところで滝に打たれること。
ロケは二月に行われたようなので、ものすごく寒そうだった。
下手したら低体温症になりかねない危険なロケだと思った。危ないからせめて夏にしなさい。

佐賀から長崎に入り、ちゃんぽんを食べようとした稲垣早希は、ショッピングモール内のゲームセンターで、思いもかけないものを見つけた。
一度だけサイコロを振りなおせる“フルカード”がクレーンゲームの景品になっていたのだ。クレーンゲームは一回一万円。王様のUFOキャッチャーである。結局、稲垣早希は五回のチャレンジでフルカードを手に入れた。番組的にも、ここで救済措置のフルカードを稲垣早希に支給しておくことは必要だったのだと思う。

長崎ひとつめの通過ポイントは軍艦島。
かつて炭鉱だったこの島は、資源が枯れて今は廃墟となっている。
私もいつかこの島には行ってみたい。

長崎では運気に恵まれずに二日連続で、一般の人の家に泊めてもらっていた。

そして稲垣早希は長崎で二回連続の1を出す。
もう最終兵器フルカードを出すしかない。
わずか二日前に五万円で手に入れたフルカードは、こうしてあっけなく失われた。

フルカードによる緊急回避は成功して、三度目の1という悪夢は振り払われた。
もう一度ふりだしに戻ることになったら、彼女の心は折れてしまうかもしれない。
だから、きっと番組は救済措置を用意したのだろう。

長崎ふたつめの通過ポイントは五島列島の福江島にある大瀬崎灯台。
映画『悪人』のロケ地となった岬にあるらしい。
悪天候の中でたどり着いた灯台は霧のため最悪の視界だった。
テレビ番組的にはうれしくない映像だった。

私は、福岡には大人になってから赴いたのは下関のついでに立ち寄った門司・小倉くらいだし、佐賀と長崎は修学旅行で行って以来赴いてはいない。佐賀に至っては伊万里で絵付けをしたに過ぎない。だからまたこれらの土地には訪れたいと思う。その時は熊本で行き残した小泉八雲と夏目漱石旧居、それから旧制第五高等学校にも訪れたい。その時には稲垣早希のたどった不思議な旅も大いに参考になると思う。

バスで長崎から大分へたどり着いた稲垣早希は、由布院の温泉街を楽しみ、そして資金が少なくなったところで小さな女の子と出会い、その場面で19巻は幕を閉じた。

次の巻はレンタル中だったので、明日みつけられたら借りてこよう。


thanks_dude at 02:17|Permalink バラエティ 

『飯待つ間―正岡子規随筆集―』

正岡子規の随筆集『飯待つ間』を読んだ。
若くして労咳に罹患した子規は、病床の中でたくさんの句を読み、文章を残した。
これは子規の生まれ持ったものだろうが、彼の文章に悲壮感や重苦しい感傷などひとつも感じられない。
想像を絶するような痛みを記述している文章でさえ、どこか滑稽に描写している節すらある。
俳諧とも歌論とも違う子規の随筆は、落語のような語り口調だったり、肩肘の張らない文体だったりして、とても心楽しく読むことが出来た。

大病を患っていても、すばらしい健啖家であることが窺えるのも、何だか子規の人柄を現しているような気がした。

子規の後の時代に、同じく労咳を病んで、『檸檬』を代表とするいくつかの短編を残した梶井基次郎の本とはまた違った感覚をもって、私は子規の随筆集を閉じた。


thanks_dude at 00:35|Permalink 読書 

高橋直樹『山中鹿之介』読了

山中鹿之介(正確には鹿介)は、戦国中期に山陰地方で強力な地盤を固めていた尼子氏の家来であった。
尼子氏は、出雲にある月山富田城を本拠に、安芸を中心に隆盛を誇っていた大内氏と対立し、中国地方の覇権を争っていた。
後に中国地方を制する毛利元就は、そのふたつの勢力の狭間で、汲汲と地場固めに奔走することしか出来なかった。
二大勢力の圧力に苦しみながらも着実に力を蓄えていた毛利氏だったが、大内氏にクーデターが起こり家臣である陶晴賢がその実験を握ると、これを好機と見て攻勢に転じた。厳島の戦いにて陶晴賢に圧勝すると、もはや毛利氏の勢いを止める者は中国地方には存在しなかった。
弱小な地方豪族に過ぎなかった毛利は、戦国の世の常としてそうすることが当たり前のように、名門尼子氏をも呑み込もうと、二本の牙を出雲へと突き立てた。
山中鹿之介が武将として台頭したのは、毛利氏の圧迫を受けて尼子氏が衰退しようとしているそんな時期だった。

毛利氏の勢いはすさまじく、調略の妙もあり、尼子配下の国人(地方豪族)たちはこぞって毛利方になびいた。
尼子氏は毛利の両川(りょうせん。元就の次男・吉川元治と三男・小早川隆景)と呼ばれる名将たちの指揮に元に押し寄せる軍勢を抑えることが出来なかった。
かくして戦国大名尼子義久は毛利元就に降り、その身は禅寺に幽閉されて、家臣団は解体させられた。

だが、山中鹿之介を中心とする尼子の家臣団は、京都で僧籍に入っていた尼子勝久を擁立して、尼子再興の兵を挙げた。
毛利が九州の大友宗麟と争っている頃合いを見計らって、尼子勢はわずかな期間で出雲一国を掌握した。
この時代、国人たちは自分の身を守るためにより優勢な勢力になびくのが常だった。
出雲一国を奪還した尼子が有利と見るや、多くの国人は旧である尼子氏になびいた。
だが、毛利氏は目の上のこぶである尼子の復興を望まなかった。
すぐさま軍勢を差し向けてその鎮圧にあたった。
本腰を入れて攻め寄せる毛利氏に堪えきれずに尼子勢は崩壊を余儀なくされた。
この戦で鹿之介は、吉川元治勢に捕縛されるも、計略により辛くも脱出を果した。

物語の中で鹿之介はあくまでも尼子再興に固執し、出雲の地に拘泥する。
大名に成り上がれる器量を認めながら、鹿之介はただ尼子再興にのみ尽力する。
とても不器用な生き方だと思う。
この時代、不器用な武将はたとえ有能であっても長生きは出来ない。
幾度も暗躍する山中鹿之介に業を煮やした吉川元治は、捕縛した鹿之介を謀殺し、尼子再興の夢は永久に露と消えた。

武士は二君に仕えずなんていう支配者に都合のいい倫理観が絶対的な正義とされたのは江戸時代になってから。
そのためかどうか、江戸時代になってから山中鹿之介は忠義の士として広く巷間に語り継がれた。
その物語は、講談という形で人口に膾炙していくうちに、さまざまな逸話が伝説となって、真実とはすこし異なるものへと変質していったのかもしれない。
それでも、不器用にしか生きられなかった漢の物語はじゅうぶんに面白いものだった。

なお、鴻池財閥の祖は、山中鹿之介の子であるとも伝えられている。


thanks_dude at 00:24|Permalink 読書 

2013/09/06

梅原猛『古事記』読了

出雲に行くので『古事記』を読むことにした。
前半は古代の人々の大らかな暮らしぶりや思考法が垣間見えて面白い。
後半は皇統の正当性を主張するための政治的な意味合いも含んだ物語。
出雲で再び神々の息吹に触れるのが今から楽しみだ。



thanks_dude at 22:42|Permalink 読書 

2013/09/05

非道い目にあった

朝、支度をしていると激しい雨音が私の心を不安にさせた。
大抵のことには動じないつもりの私は、ただひとつ大雨が怖い。
私の家は低地にあって、いつか私の部屋が水浸しになって、私の大事なものがほとんど水浸しになってしまうんじゃないかと思って、いつも憂慮している。
だから台風とか集中豪雨とかゲリラライブとかが恐ろしくて仕方がない。いや最後のゲリラライブはちっとも怖くなんかない。筆が滑っただけだ。
豪雨の中、駅までの道を歩くだけで、靴の中は水浸しだし、パンツの裾はびしょ濡れになってしまった。
駅のプラットフォームで電車を待っていると、近くに雷が落ちたようで、激しい地鳴りがした。
電車は駅を出て、十分もしないうちに停滞した。
二つ手前の駅の周辺に雷が落ちて、そのあたりが停電しているという。
私の乗っている電車が停車している駅は、停電などしていないようだが、安全確認のためにしばらくは運転を見合わせるという。
数十分経っても電車は一向に動く気配を見せなかった。
さっさと問題のない区間だけでも折り返し運転を始めろよと我侭な一旅客に過ぎない私などは思うのだが、きっと鉄道会社には鉄道会社の事情というものがあるのだろう。その駅はどの路線とも交差していない。故に駅から他の路線の駅へと振替輸送のバスが出ているらしい。だが、バス停は長蛇の列で一向に前に進む気配もない。とにかく列に並んでいるた私は一時間後に電車の運転再開の報せを耳にした。結局、私はまたプラットフォームに戻ってまた同じ電車に乗り込んだ。こんなことならずっとこの電車に乗ったままで、悠々と太宰治の『津軽』でも読み続けていればよかった。
ようやく動き出した電車はこれほど停滞していたのに、たとえばJR東海道本線で人身事故が起きたときのような、人の尊厳をないがしろにするような惨憺たる状況には陥らなかった。それがこの私鉄のよい所でもあるのかもしれない。
いつも会社には始業時間の45分前に到着するのだが、今日は始業時間を1時間30分送れてたどり着いた。
おかげさまかどうか、私は『津軽』を読了することが出来た。『津軽』は紀行文と自伝が融合したような作品で、紛れもなく傑作だった。

出遅れたが、今日の業務を乗り越えたら、後はもう私は現実から逃避できる。
午後5時30分に、どうにも動きの遅い担当者からデータを受け取り、それからデータを精査した。
そこには大きな落とし穴があって、だいぶ手間取ってしまった。
とにかくも私はそれを片付けて、午後8時に家路に就いた。

明日は合法的にサボタージュして、土日をはさんで日曜の夜から旅に出る。
津軽と出雲と伯耆。津軽から一旦帰宅して、また出雲へと旅立つ。
今回の旅では、どんな出来事が私をまちうけているのだろう。
今のところ、来週前半の津軽の天候は悪くないらしい。
今日は非道い目にあったが、これも安息へのイニシエーションだったのかもしれない。


thanks_dude at 23:18|Permalink 気が狂う程まともな日常 

2013/09/04

【DVD鑑賞】西日本横断ブログ旅14〜15

お笑いコンビ・桜の稲垣早希による西日本ブログ旅の14巻から15巻を鑑賞。
中国地方も残すは広島と山口を残すのみ。

今回は、安芸の宮島・厳島神社から。
稲垣早希が訪れたときは干潮時で、鳥居まで参拝者が歩いて行けるくらいに潮がひいていた。
稲垣早希は鳥居の周りに水がないので、他に海水に浸かった鳥居があるものだと勘違いしていたのが微笑ましかった。
私は、今年の十月十五日に宮島の温泉宿に宿泊しようと思う。
ちょうどその日は、祭りか何かで神楽が見物できるというので、とても楽しみにしている。
DVDの映像を見ているだけでも、とても楽しみで仕方がない。
稲垣早希の旅のチェックポイントは、鳥居をシーカヤックでくぐるというものだったが、私の旅では宮島の中央に坐(いま)す弥山(みせん)の頂上に立つこと。
それから“うえの”のあなご飯も食べたい。厳島参道には牡蠣を食べさせる店もおおいようなので、それも楽しみだ。

厳島を危なげなくどころか順風満帆で後にした稲垣早希は、山口県へと向かう。
ここからは、私の10月に予定している旅の行き先からは外れて、私がすでに訪れたことのある土地をめぐるものとなる。もちろん各県で課される通過ポイントのすべてに訪れているわけではないが、これからはわくわくする気持ちよりも懐かしい気持ちで観ることになるだろう。テレビ放送で本格的に見はじめたのも山口とか福岡あたりだったような気もするので、一層そういうことになるのかもしれない。
さて、稲垣早希の次の目的地は秋吉台の秋芳洞(しゅうほうどう)。
私も何年か前に訪れたとても大きな鍾乳洞である。
鍾乳石の棚田みたいな百枚皿は、子どものころに見ていたアニメ名作劇場の『トム・ソーヤの冒険』に出てきた鍾乳洞みたいでわくわくしたのを今でもよく覚えている。
ただ、稲垣早希は、秋芳洞に這入る前に賽ころ運に見放されて、二回連続で1を出すという失態を演じていた。
この旅のルールでは二回連続で1を出すとふりだしの兵庫有馬温泉へと戻らねばならない。
救済措置として“フルカード”を持ってさえいれば、それを使用していちどだけ賽ころを振りなおすことが出来る。
前回ふりだしに戻るという悲劇を演じた悪夢の旧広島市民球状で、たった一枚だけ支給されたフルカードは使ってしまった。
だが、鳥取県大山の麓の土産屋で、何故かフルカードは売っていた。
5万7千4百円で売っていた。
稲垣早希は所持金のほぼすべてを投げ打って、それを手に入れていた。
もちろんフルカードを使用して、この最悪のピンチを脱するべく賽ころを振りなおす。
しかし、この娘は三回連続でも1を出すような子でもある。

緊張の一瞬、意地悪な親玉ディレクターは1を望む。

悪夢を振り払うかのように振った賽ころの目は4。
窮地は脱した。
だが、そのあともツキは稲垣に味方せず、結局15巻が終わるまで資金難の中、あたたかい人々に助けられたり、ネルカード(無条件で宿に泊まれる)を使用したりして、苦しい旅は続いた。

秋芳洞の次は角島大橋という日本海の美しい海に架かる端。
特牛(こっとい)という難読の駅で降りて、そこからバスで海まで行く。
鄙びた土地を公共の交通機関を利用して旅したことのある人ならば解ると思うが、こういった場所ではバスや電車の本数が極端に少ない。
2分とか3分とか5分とか10分間隔でほぼ遅滞なく電車がやって来るなんて、ほとんど奇跡に近いことなのだとDVDを観ながら改めて思う。(旅行好きの友人の話を聞くと、海外の田舎に行けばもっとそう思うのかもしれない。)
絶景の角島大橋を通過した稲垣早希は、資金を温存するために二時間半の道のりを徒歩で特牛(こっとい)駅まで移動した。
駅で電車を待っていると、電車遅延のアナウンスが聴こえた。電車が鹿にぶつかったために、電車は遅れるという。都会では人身事故という言葉をよく耳にするが、田舎では獣身事故というものがあるらしい。しかも遅れてやってきた電車はプラットフォームを前にして停車した。駅職員によると、どうやら今度は猪にぶつかったらしい。カメラの前で偶然そんなことが起こるのも何だか面白い。しかし、本当にそんな理由で電車が遅れるなんてことがあるのだろうか?都会で暮らすに私にはよく分からない。
どうでもいいが、私は富山で高校生が電車のガラス窓を割って電車が停まった場面に遭遇したことあるのを思い出した。
だからきっとこの世ではいろいろな理由で電車が止まり得るのだ。

山口県のふたつのチェックポイントを通過した稲垣早希は、下関でふぐを喰い、それから関門海峡を渡って福岡県の門司港へ赴いた。
下関の唐戸市場や門司港には私も訪れたことがあるのでとても懐かしい。
稲垣早希が訪れたときは、関門海峡の海の下の歩行者と自転車のための本州と九州をつなぐ道は工事中で閉ざされていたみたいだが、あの道は是非通って欲しかった。

関西横断ブログ旅15巻は、稲垣早希があまりの寒さに宿探しをあきらめて、スタッフが無条件で宿を手配してくれる“ネルカード”を使用したところで、今回の収録分は終了。
このネルカード使用が稲垣早希にどのような新展開をもたらすのかは次回以降に語られるようだ。


thanks_dude at 23:39|Permalink バラエティ 

2013/09/01

【DVD鑑賞】西日本横断ブログ旅11〜13

島根の水族館で無事に白イルカとの対面を果した稲垣早希の次なる目的地は広島。
賽ころの目は、1と6の間で大きく揺れる。
資金も乱高下しながらも、元手となるブログのコメント数が暴走モードに突入しているので、順調に旅は続く。

だが、広島市民球状で悪夢が。
前回の出目が1だったので、資金は没収されている。
そして二回連続1を出すとふりだしの有馬温泉へと戻るという過酷なルールがある。
一抹の不安を抱えながら、稲垣早希が振った賽ころの目は1だった。
打ちひしがれる彼女には、たったひとつの望みが残されていた。
旅のはじめに支給された“FURUカード”は、一度だけ賽ころを振りなおすことが出来る。
こういう事態を想定しての救済措置的な意味合いのあるFURUカードを使用しての三度目の賽投げ。
稲垣早希は関西縦断ブログ旅の序盤で三回連続1を出したこともある。彼女にはそういうマイナス面での引きの強さがあるのだ。
運命をかけた一投で出た目は、無常にも1。
これでスタート地点の有馬温泉(兵庫)に戻ることが確定した。

岡山、鳥取、島根の各二つずつのチェックポイントは無効だが、救済措置として今までのクリア済みの六つのチェックポイントは賽ころを振って出た目の分だけ訪れればいいらしい。1が出れば岡山一つ目のチェックポイントだけでいいし、6が出れば三県二つずつのチェックポイントを訪れなければならない。同じチェックポイントを訪れてもバラエティ番組として面白くないので、チェックポイントは別の場所が設定されているという。
チェックポイント数設定の賽ころの出目は3。
可もなく不可もなく、岡山ふたつと鳥取ふたつのチェックポイントを訪れたら、広島の最初のチェックポイントであるしまなみ街道自転車の旅へと舞い戻ることが出来る。

岡山は内陸部がチェックポイントだった。
亀甲という駅の近くのとても美味しそうなたまごかけご飯がひとつめ。亀甲なんて何だかSMチックな名前の土地だけれど、このたまごかけご飯はいつか食べてみたいと思った。
ふたつめは蒜山高原というところ。

鳥取のひとつめは大山寺の圓流院。
伯耆から観る大山は伯耆富士と呼ばれる。
とても景色が綺麗だった。

連続で1を出してふりだしに戻ったロスは、比較的順調にリカバーできたようだ。
このあたりから、私もしっかりと深夜のテレビ放送を見始めたような気がする。

そして尾道からしまなみ街道を自転車へ進む。
稲垣早希は暑さと疲労で困憊していたが、私は若いころから炎天下の下で運動を続けてきたから、しまなみ街道を自転車で滑走するのは本当に楽しそうだ。
大島の瀬戸内海の潮流体験のクルーズは、スケジュールがあえば私も体験してみたい。

13巻は広島ひとつめのチェックポイントであるしなまみ街道自転車の旅を達成したところで終了。
次はどうやら厳島神社らしい。
これもまた楽しそうだ。


thanks_dude at 22:41|Permalink バラエティ 
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