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物流に関連する四方山話を書いています。

丸山運送の創業は1962年。その頃の世の中についていろいろな角度から情報を検索していますが、いつの時代にも様々な事件が起きてるんだなと感心することしきり。

先にご紹介したキューバ危機は、その代表格。ときを同じくして国内に目を向けてみると、ときの総理・池田勇人が1960年に打ち出した『所得倍増計画』というのがありますね。これも興味深い。もし、「みなさんの給料を2倍にします!」なんて岸田政権が発表したら内閣支持率が急上昇するのか、はたまた気でも狂ったのかと思われるのか、どちらでしょうか⁉

話しを所得倍増計画に戻します。この計画は1961年から1970年にかけての10年間の経済政策です。丸山は、その真っただ中での創業でした。では、政策の背景をちょっと覗いてみましょう。

1960年、当時の岸信介首相(安倍晋三さんの祖父で‟昭和の妖怪“と呼ばれています)が中心となって強行採決した改訂日米安全保障条約に怒り心頭の革新政党や労働組合、学生団体、市民団体が激しい反対運動を行い、連日国会議事堂前に抗議デモをする人々が押し寄せ、国会に突入した全学連が警官隊と衝突。そんな中、全学連側の女子学生が死亡する事件も起きました。また、アイゼンハワー米大統領訪日の打ち合わせに来日していた秘書官のクルマがデモ隊に取り囲まれ、米海兵隊が出動するという事件も発生。もはや日米安保粉砕の動きは日本中を巻き込み、政治的コントロール不能に陥ってしまったところで岸首相は内閣総辞職。あとを引き継いだ池田勇人首相が打ち出した目玉政策『所得倍増計画』だったのです。この政策は、国民の生活水準の向上を図ると同時に、安保条約を強行採決した政府に対する国民の怒りをはぐらかす意味もあったようです。

 一方、日本海を挟んだ隣国、中国はどのような状態だったのか⁈ もちろん、当時は日本との国交はありません。実は、権力闘争の真っただ中だったのです。大衆の間で絶大な支持を誇っていた共産党中央委員会主席・毛沢東は、1950年代の人民公社政策や大躍進政策の失敗によって経済状態が急激に悪化し、指導部内において求心力と共に実権を失いつつありました。そのような中、共産党中央委員会副主席の座に就いた劉少奇や共産党書記・鄧小平(当時)が政治の実権を握り、部分的にではありますが市場経済の導入によって経済の立て直しを図ろうとします。その政策を資本主義的であるとして猛反対したのが毛沢東。そして1966年に『文化大革命』と称する権力の奪回闘争を起こし、政敵を次々と排除・粛清。この運動は毛沢東逝去の翌年1977年まで続き、稀にみる膨大な数の犠牲者を出してしまいました。推定死者数は数十万人から2,000万人とも言われていますが正確なところは不明。やはり、日本とは何もかもがケタ違いですネ。

 それ以外にも1960年代には様々な事件が起こっています。さて、2022年は、何を掘り起こしてみようかな…

ケネディが大統領に就任した1962年に世界を震撼させる大事件が起きました。

その年の7月から8月にかけて、ソ連やその同盟国の貨物船が頻繁にキューバの港に出入りするようになったため、これを不審に思った米軍は偵察を強化。そして、1014日に偵察機から送られてきた航空写真を見てケネディ大統領は驚愕します。翌日にもたらされた写真解析班の報告によると、それらは準中距離弾道ミサイル(MRBM)だったのです。さらにその後3つの中距離弾道ミサイル(IRBM)を発見しました。これらは、いつでも発射できるレベルでの配備が完了しているようでした。しかも、全てのミサイル基地からは米国本土は射程圏内です。

この時のソ連最高指導者はスターリンの後継であるフルシチョフ。スターリンが最高指導者の時代に行った大粛清に積極的に加担し、忠誠を示すことによって生き残った人物です。unnamed

彼は、キューバの革命政府が米国による経済制裁を受けはじめると積極的にカストロに接近し、経済支援を行いました。そして、秘密裏にキューバ沿岸にミサイル発射基地の建設したのです。

その時、ケネディのとった対策はキューバの海上封鎖です。

「ソ連のミサイルをこれ以上キューバに持ち込ませるわけにはいかない」

米国本土へいつ発射されるかわからない核ミサイル。そして完全に射程圏に入っている配備状況に、下手をすれば第三次世界大戦が勃発し、世界は破滅しかねない状況となりました。

さて、1014日に偵察機が写真を持ち帰り、翌15日に写真の分析結果を報告。その翌日の16日から丸3日、昼夜を問わず連続して会議が開かれ、米国政府がどのような対応をとるのかが話し合われました。この時、核戦争の恐ろしさを理解していたケネディではありましたが、国内のタカ派やNATO諸国の顔色を窺い「開戦やむなし」というスタンスで会議に臨んだようです。実際に、キューバにあるソ連基地への空爆や、キューバへの侵攻など具体的な作戦までも検討されました。

この時、司法長官であった大統領の実弟ロバート・ケネディが会議で提案したプランがものすごい中身。

    1週間の準備と西欧諸国とラテンアメリカ諸国への通告の後に24日にMRBMの施設を爆撃する

    フルシチョフへの警告の後にMRBMの施設を爆撃する

    ミサイルの存在・今後阻止する決意・戦争の決意・キューバ侵攻の決意をソ連に通告する

    政治的予備会談を実施し失敗の場合に空爆と侵攻を行う

    政治的予備折衝無しに空爆と侵攻を行う

というもので、もしこのとき開戦していたら間違いなく世界は今の情勢と変わっていたはず。もしかしたら、丸山運送も日本という国家も消滅していたかもしれません。

そこから始まる米国とソ連との交渉の基本は、じれったい書簡のやり取り。互いの腹を探り合う、ぎりぎりの交渉だったようです。その間、米軍の爆撃機がキューバ上空で撃墜されたり、逆に米国の偵察機がソ連の領空を侵犯してソ連の戦闘機に追いかけられたり、海上封鎖線上を航行するソ連の潜水艦に米軍が爆雷を投下したり、両国は完全に臨戦態勢。そして最悪の日を迎えます。1027日、ワシントンのソ連大使館で、大使館員が書類を焼却する姿が目撃され「ソ連は開戦に備えている」との憶測が飛んだのです。これは、後に「暗黒の土曜日」と呼ばれることになりました。とにかく1027日に危機は極限にまで達したわけです。

もはや一刻の猶予もない状態。書簡を作成している時間にも事態は悪い方向へと動いていく。john-f-kennedy-63160_960_720両首脳はもはや制御不能の状態に陥りつつあることを認識し、フルシチョフがモスクワ放送のラジオでケネディ書簡の受託を宣言。当然、米国もその放送を傍受し事態は急展開、沈静化へと向かいました。それが1028日のことです。
ここに至って両国は互いに譲歩し(ほとんどの歴史の教科書では、ケネディがフルシチョフから好条件を引き出したように書かれていますが、冷戦時代のソ連は鉄のカーテンで覆われており情報に乏しいことから、米国から出される一方的な情報をもとにストーリーが編纂された結果、そうなったのだと思います)、

「アメリカは絶対にキューバを攻撃しない。ソ連は速やかに撤退する」という結論を導き出し、どうにか核戦争による世界滅亡の危機を回避できたというのが表向きの話。

米国としてはあまり触れられたくない水面下での条件提示として、キューバを絶対に攻撃しないということに加えて、トルコに配備してあるミサイルの撤去というおまけを付け、ソ連はようやく納得。ソ連
51BJM2YKYVL._AC_SY445_にとっては、米国のキューバ不可侵条件よりもトルコに配備してある米軍ミサイル撤退の方が価値のある条件だったようです。なぜこのときトルコのことが伏せられたかというと、それはNATO諸国への配慮だと言われています。

world wide network_page-0001このようにして、あわや核戦争という地球の危機が回避された次第。世にいう「キューバ危機」という大事件で、ケビン・コスナー主演の映画「13DAYS」は、この時の攻防を映画化したものです。

当社Maruyamaが誕生した1962年、地球最大の事件であったことは間違いありません。現在のところ当社のWorld Wide Network にキューバは含まれていませんが、いずれかの段階で取引が可能となることでしょう。

チキータ革命直後、カストロ首相は米国と友好的な関係を維持しようと努力したのですが、ユナイテッド・フルーツ(現:チキータ)などの大企業のプランテーションや首都ハバナに立ち並ぶカジノホテル(殆どは米国マフィアが所有)などを眺めていて我慢できなくなったのでしょう。アメリカ企業の資産の接収と国営化を次々に推し進め、経済的植民地状態からの脱却を試みます。

そのキューバに対し、米国は国交断絶と禁輸措置を発動。しかし、既にソ連と緊密な関係になりつつあったキューバは、砂糖と石油のバーター取引や借款などソ連の手厚い保護の下で国内政治を安定化させていき、武器調達取引の調印に至っては、米国を青ざめさせました。

そのような混沌とした情勢の中、19611月、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは438ヶ月でした。彼は大統領選挙においてマフィアの大物サム・ジアンカーナ(アル・カポネの部下からのし上がったシカゴのボス)の影響力を借りて、かろうじて当選したわけで、大統領に就任してからのケネディはマフィアから相当なプレッシャーをかけられていたのではないでしょうか。cuba-2125799_1280キューバ

「おい、大統領さんよ、キューバにある俺のホテルを取り戻してくれよ!」みたいに脅されていたのかもしれません。

そして、その年の5月、キューバはとうとう社会主義を全世界に向けて宣言し、米国はびっくり仰天。何せ、キューバはフロリダ半島から150kmしか離れてないわけで、米国にとって家の庭の中にある島国だったわけですから。それに追い打ちをかけるように、更なる衝撃が米国を襲います。1962年の1014日、キューバにソ連の核ミサイル施設が建設されているのを米軍が発見しちゃったわけです。

丸山運送が創業した1962年に起こった驚天動地の大事件、「キューバ危機」が勃発したのです。

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