19591月革命政府を樹立したキューバのカストロス首相は、盟友のゲバラを世界各地に派遣しました。その中に日本も含まれており、同年7月に来日したのです。では、なぜ革命政府は日本を訪問先に選んだのか、また来日した彼が何をしていったのかという事が気になったので調べてみました。
カストロ

革命後、キューバ国立銀行総裁の地位に就いたゲバラ率いる使節団(一行6名)は、日本をはじめインドネシア、パキスタン、スーダン、ユーゴスラビア、ガーナ、モロッコや東ヨーロッパ諸国を歴訪。基本的には、サトウキビの取引相手国が中心であり、当時の日本は米国に次ぐ輸入国であったこと。それに加えて、どうやらカストロ首相が個人的に日本贔屓だったということが理由のようです。

これは私の想像ですが、日本が連合国(特に米国)を相手に果敢に戦った事実、そして戦後の荒廃から奇跡的に立ち直り、工業を中心としてめざましい発展を遂げつつあつたことに自国の状態を重ね合わせて考えたのではないかと思います。

当時、戦後復興の途上にあった日本では、日本製品の輸出振興を目的とした「日本産業巡航見本市協会1980年に解散した組織ですが、JETORO の前身のような存在ではないかと思われます)」が見本市船あとらす丸を仕立て、移動ビジネスショーのようなイベントを世界各地で開催しました。

1958128日、あとらす丸は東京港を出港。ホノルル(米国)、カリヤオ(ペルー)、バルパライソ(チリ)、ブエノスアイレス(アルゼンチン)、モンテビデオ(ウルグアイ)、サントス、リオデジャネイロ(ブラジル)、ラガイラ(ベネズエラ)、トルヒリヨ(ドミニカ共和国)を巡り、キューバのハバナにも3日間停泊しました。そのとき、カストロ首相はいち早く見学に訪れ、あれこれ見て回り、しつこく目玉をハートの形にしながら質問を繰り返したのでしょう。カストロは、日本を手本とした産業振興を目指したのだと思います。

こうあっさり記してしまうと、「ああ、あの頃の日本もけっこう頑張ってたんだな!」で終わってしまいそうですが、ちょっと待った!

あとらす丸の出港は128日。その時点でのカストロやゲバラは、政府転覆を狙う反乱軍。そして、1229日にその反乱軍300人のゲリラ部隊がキューバ第2の都市サンタ・クララに突入して制圧。一気に280キロは離れたハバナを目指します。

年が明けて195911日、反乱軍に加勢する国民の数も膨れ上がり、もはやこれまでと悟ったキューバの大統領フルヘンシオ・バティスタがドミニカ共和国へ亡命。18日カストロのハバナ入城により「キューバ革命」が成就したわけです。cuba-1446341_1280

つまり、あとらす丸は出港して間もなくキューバ政権の崩壊を知るわけで、日本政府、日本産業巡航見本市協会、あとらす丸の乗組員は大変な騒ぎになったはず。巡行の予定変更も議論されたことでしょう。

あとらす丸のハバナ寄港が、いつの時点で誰が決断された事柄なのか分かりません。それが革命の前であろうと後であろうと、その決断には驚かされます。

現在、革命直後のキューバと同様のことがアフガニスタンで起きています。やがて閣僚の顔ぶれが出揃い、政府としての形が整ってくるのも時間の問題かと思われますが、カブールでビジネスショーを開催する気にはどうしたってなりませんよね。

というわけで、革命政権が樹立されて間もない、治安のレベルもはっきりしないキューバに寄港し、ビジネスショーの開催に踏み切った当時の日本人の大胆さと勇気に感服してしまいました。