昨年三菱さんは、創業150年を迎えました。それを記念したスペシャルサイトが公開されており、私があれこれ調べて書くより遥かに詳しく、また正確な内容であると思います。世界に冠たるコングロマリットの黎明期から現在に至るまで、歴史を知ることができますのでご興味のある方はご覧になってみてください。

ただ、若き日の岩崎弥太郎が藩の公金で遊郭に入りびたり、大酒を飲んで(さすがは土佐の高知)すってんてんになったことなどは、サイトでは触れていません。

 

弥太郎が世に出るきっかけを作った一人の人物が、竜馬よりも先に世界を夢見た男・吉田東洋です。吉田東洋
彼は、土佐藩15代藩主・山内容堂によって大目付に抜擢されたあと、参政という要職にまで上り詰めた博学明敏の上士であり、強力に藩政改革を主導したのです。しかし、酒の席で失態を演じて罷免。家禄も減らされ、4年間の冷や飯の時代を過ごすことになりました。その間、東洋は少林塾というちっぽけな私塾を主催して糊口をしのいでいたのですが、その塾に通ったのが岩崎弥太郎だったのです。

容堂は、東洋のことをよほど買っていたのでしょう、蟄居が解かれ再び参政に登用。華麗に返り咲いた東洋は、藩政改革に大変な手腕を発揮しました。その改革のひとつが複雑怪奇、厳格極まる土佐独特の身分制度改革でした。それまでの約20段階ほどあった身分を5段階にまとめ、上士・下士に関わらず能力ある若者を登用したのです。しかし、そのことで藩内に多くの敵をつくることにもなってしまいました。

その身分制度改革の波に乗ったのが弥太郎です。彼は「郷回り」という最下級ではありましたが歴とした地方公務員として土佐藩に就職。もちろん東洋の推挙があったのでしょう。その直後、藩から海外の事情を調べてこい!という出張命令がだされ、公金(かなりの大金)を懐に入れ開港して間もない長崎へ向かったのでした。しかしながら、その旅たるや寄り道ばかり。各地の温泉を転々として歩き、土佐から長崎まで46日のかけての長旅。長崎に入ってからも留まることのない遊郭通いと酒の日々を送る始末。結局、蘭語も英語もできない弥太郎は海外の事情に関する調査など何一つできず、自ら解任を申し出て、逃げるようにして姉様の嫁ぎ先に身を寄せて暮らすようになりました。そして、出張旅費精算のための金策に奔走。これはさぞや大変だったろうと思いますが、どういうわけか地元の造り酒屋の旦那が百両もの金を用立ててくれ、九死に一生を得ました。唯々ラッキーというしかありませんね!江戸時代の一両の価値は現在の円に換算して8~20万円の幅で変動していたようですから、弥太郎の口の上手さなのか、或いは真に将来性に惚れ込んだのか知りませんが、奇特な人もいたもんです。

時を同じくして、吉田東洋が土佐勤皇党(リーダーは武市半平太)によって暗殺されてしまい、藩の人事もガラリと刷新。米国ではトランプさんに代わってバイデンさんが大統領に就任。それと共に政府高官が総入れ替えになるようですが、土佐藩も当にそのような状況だったのでしょう。そして、東洋の子飼いと見られていた弥太郎が藩職に戻るチャンスも潰えてしまいました。

しかしながら、温泉につかり、遊郭に入りびたり、大酒を飲んでいたこの時代に築き上げた人脈の価値は計り知れず、後のビジネスに大いに役に立っただろうことは想像に難くありません。

これらことは、三菱が誕生するずっと以前の話です。

岩崎弥太郎という人物は、とにかくとんでもない青春時代を過ごしていたのですね。