2020年最初の投稿は、野蒜築港の話題です。以前のブログでは茶化したような書き方をしてしまいましたが、資料を調べてみると、当時最先端の技術が投入された巨大築港プロジェクトであったことが分かり、少し反省している次第です。

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明治初期、殖産興業の政策としてのインフラ整備及び華士族授産(特に職を失った不平士族の救済策)という狙いもあって、 全国各地で公共工事が行われました。その中の一つに日本最初の西洋式港湾建設事業として野蒜港築港があったのです。横浜や東京に先んじて実施された物流体制整備の大型プロジェクトだったわけですから、このことだけでも明治政府の力の入れようを伺い知ることができます。

政府のお雇い外国人技師ファン・ドールン(オランダ人)の設計により、鳴瀬川河口に野蒜築港の建設工事がスタート。0003
1881(明治14)年に第1期工事が完成し運用が開始されたのでした。その計画立案の中心人物が、皆さまよくご存じの内務卿・大久保利通です。大久保は、残念ながらプラン立案の直後に暗殺され港の完成を見ることはできませんでした。

この計画そのものにペンでケチをつけていたのが、郵便報知新聞(現在の『スポーツ報知』)の記者であった原敬(後に総理大臣になった岩手県人)。スケールが小さいとか、鳴瀬川を敷設しても和船や帆船しか航行できないから野蒜はダメだとか、蒸気船が使えない港は無駄などと、辛口の記事を書き立てたようです。港が完成すれば、岩手もその恩恵に浴する計画だったのに何で…と思わざるを得ません。

 さて、港は桟橋があればそれでOKというわけではありません。工事の段階から様々な施設や設備が必要になります。当然のことながら、かなりの人数の工事関係者が集まりすし、倉庫がなければ港として機能しないわけですから、全国から大工が集められました。現代のように工事現場までクルマで通うなどということはできません。もちろん近所にコンビニもありません。というわけで、まかないとしての食堂、宿泊所が必要になります。おそらく全国から人工が集められたでしょうから、故郷で暮らす家族に手紙を出す人もいたことでしょう。緊急連絡で電報の需要もあったのでしょう(電報は、1870年からサービスが開始)。ということで電信分局(郵便局)も設置されました。

 元々のプランに野蒜の市街化も組み込まれていましたから、そこには船大工、鍛冶屋、宿泊施設、米などを扱う問屋、食堂、商店、労働者の住居などがあっという間にでき、『港社会』が形成されたという事は容易に想像できます。

ちょっと気になるのが、現場に駐在しているファン・ドールンを中心とした数名のオランダ人技師たちが何を食べていたのか(?)ということです。オランダ人の食生活がどんなものなのか知りませんが、まさか『焼き魚定食』とか『おにぎり』というわけにはいかないでしょう。ちなみに、『オランダ料理』をキーワード検索してみたところ、とてもとても明治初期の日本に存在するはずがないような華やかな料理写真ばかり表示されました。

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しかしながら、野蒜には仙台にもないような上等な旅館が建ち、そこからビール、ワイン、シャンパンなどの嗜好品も容易に入手することができたらしいですから驚きです。従いまして、技師たちはきっと美味いモノを食べていたはずです。

船舶の安全航行には、今も昔も気象観測がとても大切です。従いまして、気象測量場も設置されたのですが、これは当初仙台に設置する予定が変更されて、東北地方最初の測候所として設置されたものです。

この続きはまた後日投稿しようと思いますが、物流拠点としての「港」の影響力というのは凄いものだなぁと、只々驚くばかり。コンテナ四方山話でも書きましたが、港は雇用の一大供給地。インフラが整備され、人々が集まり、その生活を支える商売が生まれ、ひとつの社会が誕生するのですね。

 

つづく