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これまで明治初期の物流イノベーションともいうべき野蒜築港について記してまいりましたが、やはり自分の目で確かめなければならないという衝動にかられ、現地に行ってまいりました。

315日(日)晴れの天気ではありましたが、さすがに風が強い。そして海岸線はサーファーが大喜びするような波が立っており、一目見て「これはいかん!」という印象を受けました。それでも、ドルーンは「ここならいける!」と思ったのでしょうね(実際には事前に風や波に関する野蒜周辺での実地調査を行なっていなかったのです)。0003

❶ 鳴瀬川の河口に建てられた石碑。西南戦争の直後、この地に日本初の近代港湾建設事業によって物流に革命を!という壮大なドラマが展開されたことを示しています。

❷ 市街地の中心部に設けられた内務省土木局野蒜出張所跡です。

❸ 野蒜測候所跡です。レンガは門柱でしょうか? これは野蒜築港に伴い置かれたものでしたが、築港の廃止により施設は1887(明治20)年に石巻に移転して石巻測候所と改称。後に仙台(管区)気象台設立の基盤となりました。

❹ 工事に使用されたローラー。整地のためのものだと思われます。

❺ ローラーの側面には「土木」の文字が刻まれています。

❻ 運河にかけられた橋の土台(橋台)。このレンガは、もちろん市街地内のレンガ工場で製造されたものです。これから始まるであろう港湾発展を夢見て、ワクワクしながらこの橋を渡ったのだと思います。

東日本大震災の以前には、もっと多くの史跡があったらしいのですが、その大半は大津波で流されてしまったとのことです。

第一期工事が着工されたとき、全国から様々な職種の人々がこの地に入りました。その数は、2000人規模と言われています。そんな当時の市街地は、どのような雰囲気だったのだろう。職人・作業員たちは、この地の宿泊施設に寝泊まりして工事に従事。昼はにぎりめし。夜は、地元の海産物をつまみに酒を酌み交わし、大騒ぎしたのではないでしょうか。そのような工事関係者を当て込んだ妓楼が3軒、募集したわけではないし、市街地を分譲したわけでもありませんが、いつの間にやら店を出していたというのですから、風俗系の商売のスピードとたくましさに脱帽です。0002

野蒜港は、残念ながら第2期工事を待たずに台風によって崩壊してしまったわけですが、このプロジェクトが日本の港湾土木技術の進歩に大きな教訓と多大なノウハウを残したことでしょう。何より、殖産興業の基盤は物流にあり!と考え、実行した大久保利通の発想が素晴らしい。

今回は、往時をしのんで現地を歩き、わずかに残るレンガに触ってみたりしました。今では津波への備えとして、海岸線にかなり高い堤防が築かれ、明治初期の状況をイメージするのが難しくなっていますが、江戸と明治、激動の時代を駆け抜けた大久保利通という大政治家が、東北を舞台に夢見た物流革命を後世の人々にも伝えていきたい、そんなふうに思えました。