港の話:野蒜築港に関して

『この計画そのものにペンでケチをつけていたのが、郵便報知新聞(現在の『スポーツ報知』)の記者であった原敬(後に総理大臣になった岩手県人)。スケールが小さいとか、鳴瀬川を敷設しても和船や帆船しか航行できないから野蒜はダメだとか、蒸気船が使えない港は無駄などと、辛口の記事を書き立てたようです。港が完成すれば、岩手もその恩恵に浴する計画だったのに何で…と思わざるを得ません。』0002

ということを書きましたが、なぜ原敬は計画を批判したのか、その背景について調べてみて腑に落ちました。

原敬は、安政3年、盛岡藩士 原直治の長男として生まれています。原家は祖父が藩の家老職にあったほど高い家柄でありました。しかし、戊辰戦争で新政府軍に敵対した盛岡藩は多額の賠償金を支払うことになり、原家も土地・屋敷など資産のほとんどを売却せざるを得なくなりました。その後はお菓子屋などで生計を立てることになったようです。

そうなると、武士の生まれですから当然のことながら反骨精神と共に御家の再興を志すわけです。彼は苦学の末、司法省学校に入学し勉強しましたが、学生の待遇改善運動に関係したという理由で退学処分になってしまいます。そこで、地元岩手の先輩に相談した結果、ラッキーにも郵便報知新聞の記者としての職を得ます。その時、まさに大久保利通の野蒜築港計画にぶち当たったわけです。
0001原敬

当時は薩長中心の藩閥政治(安倍総理は長州藩士の子孫、麻生副総理は薩摩藩士であり計画立案者である大久保利通の子孫。このことを考えると藩閥政治が現代にも受け継がれている気がします)。しかも、政府の首脳や高級官僚には下級氏族からの成り上がり者が多く、為政者としてはずぶの素人。従って、政治は汚職や不祥事が横行していました。ちょっと前まで「ちぇすとー!」などと叫びながら刀を振り回していた連中が、俄かに権力の座に就いてしまったものですから、大きな勘違いが生まれるわけですね。その腐敗した政治に対する不満の頂点が西南戦争であったわけですが、それでもまだ不平士族と一般大衆のストレスは解消されなかったのではないかと思われます。というのも、西南戦争などの戦後処理のために政府は兌換紙幣を乱発して、経済はボロボロのハイパーインフレだったからです。そのような藩閥政治に対しペンで立ち向かったのが原敬だったのです。

巨大プロジェクト「野蒜築港計画」は、明治政府が最も力を注いだ公共事業の一つ。それ自体は素晴らしい計画でしたが、原にとってこの公共工事は藩閥政治の象徴的な存在。もしかしたら計画の裏で蠢く何かに気が付き、ペンの力であぶりだそうとしたのかもしれません。かっこいい!

その後、原敬は外務省の官僚、政治家へと転身を重ね、大正時代には首相にまで上り詰めました。打倒藩閥政治という姿勢、公と私を明確に区別する潔白な生き方など、現代の政治家も見習うべき姿勢を貫くことにより、「平民宰相」として多くの国民に愛されたのです。しかし残念ながら、右翼勢力と関係の深い青年(大塚駅の職員)に刺殺されてしまいます。現場は、東京駅丸の内南口(今でも現場に刺殺の経緯が記載されたプレートがあるそうです)。ダウンロードhara

野蒜築港計画に反対した原敬ではありますが、それは藩閥政治への批判であったのです。このような事情や人物像を知るにつけ「原敬は東北人の誇り」と謳い上げたくなりました。


最後に、彼が家族のために残した遺言をご紹介します。


余は殖利の考えなしたる事なし。

故に多分の財産なし。

去りとて利益さえ考えなければ損失する愚もなく

今や一文の借金も之なし。

余の遺族子孫もこの心掛けあらば永く安全なるべし