「一般殖産及華士族授産の儀ニ付伺」
これは1878年(明治11年)に内務卿・大久保利通が太政大臣・三条実美に出した提案書で、これが実行に移され野蒜港築港の工事がスタートしたわけですが、それに何が記されていたのかというと、
①
宮城県下野蒜開港(築港した上で、北上川まで運河でつなぐ工事)
②
新潟港改修(水深が浅く外航船が入港できなかったので、これを改修する工事)
③
清水越道路開削(新潟県と群馬県の間をつなぐ道路整備)
④
大谷川運河開削(霞ヶ浦・茨城県下北浦・鉾田市涸沼・那珂湊まで運河を通す工事)
⑤
阿武隈川改修(野蒜港までのアクセスを向上させる工事)
⑥
阿賀野川改修(会津をもっと便利な街にする工事)
⑦
印旛沼・東京間運路整備(印旛沼から東京深川までをつないでしまう工事)
というもので、どれもこれも東北を中心とした物流網の構築です。
とにかく、一蔵どん(大久保利通)は鋭い!殖産興業のためには、物流網の整備がなければ成り立たないことを理解していたのですね!
そして、プランの最優先課題としての野蒜港築港だったわけで、宮城県民としてなんだか誇らしく感じます。この野蒜港築港が成功していたとしたら・・・という‟たられば話“ではありますが、東北全体がどのように、どれだけ変貌と発展を遂げたのだろうと想像するだけで楽しい気分になります。
では、明治初期というこの時代がどのような世の中であったかというと、これがまためちゃくちゃだったようです。尾去沢銅山事件(井上馨/長州)、山城屋事件(山縣有朋・長州)。彼らは成り上がりの勘違いで、国家予算に勝手に手を付けたり、権力で商人を脅したりして私腹(莫大な金額です)を肥やし、バレてもうやむやどころか政府に居座り、首相や大臣にまで昇り詰めてしまいます。そんな彼らにも事件発覚後、逮捕の危機が迫る場面があったようです。そのとき彼らに救済の手を差し伸べた参議・西郷隆盛が征韓論に敗れて下野。それ以降、西郷従道(隆盛の弟)が勝手に3000名の兵士を引き連れて台湾に出兵したり、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱など不平士族の反乱が発生したり…。極めつけが西南戦争というような時代でした。こうなると、もろもろ費用が掛かり過ぎて政府は救貧状態。やってはいけない兌換紙幣をバンバン印刷して世の中にばらまく大間違いを犯してしまいました。その結果、当然のことながらハイパー・インフレを引き起こしました。そのような状況下での太政大臣に対する提案だったわけですから、一蔵どんはどんな心境であったのか?
今にして思いますが、日本を一刻も早く欧米列強と肩を並べる国家に仕立てなければ、清国の二の舞になるという焦りだったのかもしれません。それこそ生きた心地はしなかったでしょうが、本当に着工前に暗殺されてしまいました。
森友学園、加計学園問題、次々辞任する閣僚、政治家。毎月勤労統計の不正操作、桜を見る会、IR問題など不祥事を連発しつづけている今の政治は前代未聞です。維新のころの明治政府の稚拙さを笑えないですよね。
考えてみると安倍総理は山口県(長州)が地元だなぁ…