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物流に関連する四方山話を書いています。

タグ:仙台港

「一般殖産及華士族授産の儀ニ付伺」

これは1878年(明治11年)に内務卿・大久保利通が太政大臣・三条実美に出した提案書で、itizou-donこれが実行に移され野蒜港築港の工事がスタートしたわけですが、それに何が記されていたのかというと、

    宮城県下野蒜開港(築港した上で、北上川まで運河でつなぐ工事)

    新潟港改修(水深が浅く外航船が入港できなかったので、これを改修する工事)

    清水越道路開削(新潟県と群馬県の間をつなぐ道路整備)

    大谷川運河開削(霞ヶ浦・茨城県下北浦・鉾田市涸沼・那珂湊まで運河を通す工事)

    阿武隈川改修(野蒜港までのアクセスを向上させる工事)

    阿賀野川改修(会津をもっと便利な街にする工事)

    印旛沼・東京間運路整備(印旛沼から東京深川までをつないでしまう工事)

というもので、どれもこれも東北を中心とした物流網の構築です。

とにかく、一蔵どん(大久保利通)は鋭い!殖産興業のためには、物流網の整備がなければ成り立たないことを理解していたのですね!

そして、プランの最優先課題としての野蒜港築港だったわけで、宮城県民としてなんだか誇らしく感じます。この野蒜港築港が成功していたとしたら・・・という‟たられば話“ではありますが、東北全体がどのように、どれだけ変貌と発展を遂げたのだろうと想像するだけで楽しい気分になります。0001

では、明治初期というこの時代がどのような世の中であったかというと、これがまためちゃくちゃだったようです。尾去沢銅山事件(井上馨/長州)、山城屋事件(山縣有朋・長州)。彼らは成り上がりの勘違いで、国家予算に勝手に手を付けたり、権力で商人を脅したりして私腹(莫大な金額です)を肥やし、バレてもうやむやどころか政府に居座り、首相や大臣にまで昇り詰めてしまいます。そんな彼らにも事件発覚後、逮捕の危機が迫る場面があったようです。そのとき彼らに救済の手を差し伸べた参議・西郷隆盛が征韓論に敗れて下野。それ以降、西郷従道(隆盛の弟)が勝手に3000名の兵士を引き連れて台湾に出兵したり、佐賀の乱、神風連の乱、萩の乱など不平士族の反乱が発生したり…。極めつけが西南戦争というような時代でした。こうなると、もろもろ費用が掛かり過ぎて政府は救貧状態。やってはいけない兌換紙幣をバンバン印刷して世の中にばらまく大間違いを犯してしまいました。その結果、当然のことながらハイパー・インフレを引き起こしました。そのような状況下での太政大臣に対する提案だったわけですから、一蔵どんはどんな心境であったのか?

今にして思いますが、日本を一刻も早く欧米列強と肩を並べる国家に仕立てなければ、清国の二の舞になるという焦りだったのかもしれません。それこそ生きた心地はしなかったでしょうが、本当に着工前に暗殺されてしまいました。

 

森友学園、加計学園問題、次々辞任する閣僚、政治家。毎月勤労統計の不正操作、桜を見る会、IR問題など不祥事を連発しつづけている今の政治は前代未聞です。維新のころの明治政府の稚拙さを笑えないですよね。

考えてみると安倍総理は山口県(長州)が地元だなぁ…

江戸幕府が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約は、外国に領事裁判権を認め、外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと、日本に関税自主権(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていること。無条件かつ片務的(契約当事者の一方だけが債務を負担する契約)な最恵国待遇条款を承認したこと等々、国際的条約としては、はちゃめちゃな不平等条約でありました。2y0427この条約が改正されるまで締結から25年近くを要したわけですが、その間に日本が千年間かけて蓄えてきた金銀のほとんどすべてを外国に流出させてしまったと言われています。いったいいくらなんだろう? ああ、もったいない!

この頃の列強各国は、神戸を中心として密輸や脱税などやりたい放題だったようで、そのことに危機感を抱く政治家や役人もずいぶんいたのです。考えてみれば、当時の政治家や役人の皆さんは、ちょっと前まで刀を振り回して尊王攘夷だ!と暴れまわっていたのですから当然ですよね。

その中の一人に佐賀藩出身の大蔵卿・大隈重信(早稲田大学の創設者)がおりました。大隈は、密輸・脱税を取り締まる規則の制定を政府に求めたのですが、取り締まりには相手国の了承が必要であるとの姿勢を崩すことはありませんでした。大隈に真っ向から対立したのが第4代外務卿・寺島宗則。江戸時代、彼は薩摩の下級武士でしたから藩閥(出身藩の派閥)と個人的コンプレックスがあったのかもしれません。結局、大隈がどれほど食い下がっても政府としての見解が覆ることはありませんでした。

さらに大隈は「横浜港大波戸場新築之儀ニ付伺」という提案書を提出します。その背景には、横浜港において増え続ける貿易量に付焼刃的な艀の増築で対応している無策への憤りがあり、大桟橋の建設によって抜本的な対策をとる必要性を説いたわけです。大隈さんです

しかし、冒頭で述べた事情に加えて佐賀の乱、台湾出兵による出費が加わり絶望的な窮状に陥っていた明治政府は、大隈プランを握り潰したのです。一説によると握り潰した張本人は、薩摩藩出身の内務卿・大久保利通だと囁かれています。大久保はその頃「東日本7大プロジェクト構想」なるものを思い描いて、そちらを優先させるために大隈プラン退けたらしいのです。そのプロジェクトの一つに、大失敗に終わった宮城県野蒜港の築港も含まれていました。
http://the080.re-cruit.info/blog/detail/96 (港の話1:野蒜港はこちらから)

ところで、派閥の存在を身近に感じたことはありませんか?こういうのイヤですよね!当社に不平等条約はありません。CREDOをしっかり守っていますからご安心ください。
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横浜のシンボル的な存在といえば赤レンガ倉庫。その目の前に、ぱしふぃっくびいなす、飛鳥Ⅱ、ダイヤモンド・プリンセス、にっぽん丸など日本を代表する豪華客船が着岸する大桟橋があります。DSC_0112横浜港の築港は、この大桟橋からスタートしました。明治27年のことです。

当時、江藤新平をリーダーとした佐賀の乱(明治7年)の鎮圧や西郷従道が勝手に台湾に出兵(明治7年)してしまったことにより、明治政府の台所は火の車。とても港湾整備などできない窮状ではありましたが、そこに降って湧いたように米国から巨額の予算が届いたのです。

このお金、幕末に長州藩vsイギリス・フランス・オランダ・アメリカ、列強四国との間に起きた二度にわたる武力衝突の賠償金として幕府がアメリカに支払ったもの。長州藩
当時、アメリカは南北戦争の真っ最中で遥か彼方の日本にかまってる余裕はなく、4か国の連合艦隊には適当な船をチャーターしてわずかな大砲を積み込み日本に向けて出港させました。実は、国際的な対面を維持するための形ばかりの参戦だったようです。その後、南北戦争が終戦を迎え、国内が落ち着いた段階になると、そこはピューリタン、熱血&正直なんですね。『いったい我が国にあんな莫大な賠償金を請求する資格があるのか…』という議論が沸き起こり、じゃ日本にお金を返そうということになりました。そんなわけありのお金だったのです。

この予算によって、かろうじて大型船が着岸できる鉄の桟橋が完成。ここから横浜港の発展がスタートしたのです。現在では、年間300TEUを超えるコンテナ取扱量を誇る国際戦略港湾となった横浜港には、こんなドラマがあったのですね。Trafficnews_78444_9ba3_1

この大桟橋、かつては『メリケン波止場』と呼ばれていたことがありますが、このような事情を反映した愛称だったのかもしれません。



※過去の投稿は、こちら!
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ロジスティクスは「兵站」と訳されます。弾薬・食料から日用品に至るまで、戦場に物資を補給することを意味する言葉です。ベトナム戦争当時、米軍のロジスティクスは想像以上に貧弱、笑ってしまうくらい無秩序なものでした。民間では既に海上コンテナの登場によって物流革命が起こりつつある時代です。c65853dfab91619c8a8abbcab2b1d778
米軍は、陸軍・海軍・空軍それぞれが勝手にベトナムに向けて補給物資を送り込み、現地の沖仲仕を雇い入れて到着した貨物を揚陸しようとしましたが、何せ貨物船を着ける埠頭もクレーンもありません。仕方なく、沖に貨物船を停泊させ、その船から現地で調達した〝はしけにバケツリレーでもって貨物を積み替え、岸についたらまた貨物を担いで陸揚げする。そんなバカげた作業を繰り返していました。そして、その作業にはよく戦争映画に登場する上陸用舟艇まで使っていたのです。そんなこんなで漸く揚陸できたとしても、陸上には貨物を保管する倉庫がなく、そのスペース確保をめぐって陸・海・空軍の陣取り合戦が勃発する始末。もちろん、アマゾンがやっているような行先ごとに荷物にタグ付けなどされているはずもなく、迷子の荷物が発生するは、必要ない荷物が到着するは。そのすったもんだに乗じて盗難が相次ぐなど、もはや海も陸も大混乱です。米軍の物資供給は絶望的な状況に陥っていました。
そこに、ちょっと進んだ考えを持った将校が登場して梱包のユニット化を提唱し、すぐさま実行に移されました。しかしながら、米軍が保有していたのは5トン積みのコネックス・ボックスといわれる小さなコンテナ。米軍コンテナ当社が苦竹で展開しているレンタル収納スペースPio程度のサイズですね。その中に、すべての貨物が収容されれば少しは混乱を回避できたのでしょうが、戦地に送り込む貨物ですから長いモノ、大きなモノ、やたらと重たいモノからZippoライターに至るまで形状・重量は様々。そんな小さなボックスに収まる貨物ばかりではありません。結局、そのサイズゆえに他の荷物と一緒に混載船に積み込まれていました。従って、他の貨物を下ろすためにコネックス・ボックスを一旦陸揚げし、再び積み込むといったようなムダも頻繁に発生。まったく意味のないユニット化だったのです。このような状況は、ウソのようなホントの話。
本来ロジスティクスは荷物の仕分け、梱包、積み込み、海上輸送、陸揚げ、保管、陸上輸送を一連の流れで計画しなければ成立しないわけで、軍隊内部の縦割り指示系統が招いた大混乱であったわけです。そんな現地を視察してほくそ笑んだ人物がいました。コンテナの父であり神様と呼ばれたマルコム・マクリーンです。

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