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物流に関連する四方山話を書いています。

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横浜のシンボル的な存在といえば赤レンガ倉庫。その目の前に、ぱしふぃっくびいなす、飛鳥Ⅱ、ダイヤモンド・プリンセス、にっぽん丸など日本を代表する豪華客船が着岸する大桟橋があります。DSC_0112横浜港の築港は、この大桟橋からスタートしました。明治27年のことです。

当時、江藤新平をリーダーとした佐賀の乱(明治7年)の鎮圧や西郷従道が勝手に台湾に出兵(明治7年)してしまったことにより、明治政府の台所は火の車。とても港湾整備などできない窮状ではありましたが、そこに降って湧いたように米国から巨額の予算が届いたのです。

このお金、幕末に長州藩vsイギリス・フランス・オランダ・アメリカ、列強四国との間に起きた二度にわたる武力衝突の賠償金として幕府がアメリカに支払ったもの。長州藩
当時、アメリカは南北戦争の真っ最中で遥か彼方の日本にかまってる余裕はなく、4か国の連合艦隊には適当な船をチャーターしてわずかな大砲を積み込み日本に向けて出港させました。実は、国際的な対面を維持するための形ばかりの参戦だったようです。その後、南北戦争が終戦を迎え、国内が落ち着いた段階になると、そこはピューリタン、熱血&正直なんですね。『いったい我が国にあんな莫大な賠償金を請求する資格があるのか…』という議論が沸き起こり、じゃ日本にお金を返そうということになりました。そんなわけありのお金だったのです。

この予算によって、かろうじて大型船が着岸できる鉄の桟橋が完成。ここから横浜港の発展がスタートしたのです。現在では、年間300TEUを超えるコンテナ取扱量を誇る国際戦略港湾となった横浜港には、こんなドラマがあったのですね。Trafficnews_78444_9ba3_1

この大桟橋、かつては『メリケン波止場』と呼ばれていたことがありますが、このような事情を反映した愛称だったのかもしれません。



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http://the080.re-cruit.info/blog/detail/96

ロジスティクスは「兵站」と訳されます。弾薬・食料から日用品に至るまで、戦場に物資を補給することを意味する言葉です。ベトナム戦争当時、米軍のロジスティクスは想像以上に貧弱、笑ってしまうくらい無秩序なものでした。民間では既に海上コンテナの登場によって物流革命が起こりつつある時代です。c65853dfab91619c8a8abbcab2b1d778
米軍は、陸軍・海軍・空軍それぞれが勝手にベトナムに向けて補給物資を送り込み、現地の沖仲仕を雇い入れて到着した貨物を揚陸しようとしましたが、何せ貨物船を着ける埠頭もクレーンもありません。仕方なく、沖に貨物船を停泊させ、その船から現地で調達した〝はしけにバケツリレーでもって貨物を積み替え、岸についたらまた貨物を担いで陸揚げする。そんなバカげた作業を繰り返していました。そして、その作業にはよく戦争映画に登場する上陸用舟艇まで使っていたのです。そんなこんなで漸く揚陸できたとしても、陸上には貨物を保管する倉庫がなく、そのスペース確保をめぐって陸・海・空軍の陣取り合戦が勃発する始末。もちろん、アマゾンがやっているような行先ごとに荷物にタグ付けなどされているはずもなく、迷子の荷物が発生するは、必要ない荷物が到着するは。そのすったもんだに乗じて盗難が相次ぐなど、もはや海も陸も大混乱です。米軍の物資供給は絶望的な状況に陥っていました。
そこに、ちょっと進んだ考えを持った将校が登場して梱包のユニット化を提唱し、すぐさま実行に移されました。しかしながら、米軍が保有していたのは5トン積みのコネックス・ボックスといわれる小さなコンテナ。米軍コンテナ当社が苦竹で展開しているレンタル収納スペースPio程度のサイズですね。その中に、すべての貨物が収容されれば少しは混乱を回避できたのでしょうが、戦地に送り込む貨物ですから長いモノ、大きなモノ、やたらと重たいモノからZippoライターに至るまで形状・重量は様々。そんな小さなボックスに収まる貨物ばかりではありません。結局、そのサイズゆえに他の荷物と一緒に混載船に積み込まれていました。従って、他の貨物を下ろすためにコネックス・ボックスを一旦陸揚げし、再び積み込むといったようなムダも頻繁に発生。まったく意味のないユニット化だったのです。このような状況は、ウソのようなホントの話。
本来ロジスティクスは荷物の仕分け、梱包、積み込み、海上輸送、陸揚げ、保管、陸上輸送を一連の流れで計画しなければ成立しないわけで、軍隊内部の縦割り指示系統が招いた大混乱であったわけです。そんな現地を視察してほくそ笑んだ人物がいました。コンテナの父であり神様と呼ばれたマルコム・マクリーンです。

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