2016年07月10日

2016.5.27/Bunkamura/キューブ「8月の家族たち」 at シアターコクーン

[作]トレーシー・レッツ
2007年 米初演

2008年のピューリッツアー賞、トニー賞最優秀作品賞受賞作品。
合衆国南中部オクラホマ州に住む老夫婦の実家に三姉妹とその夫や孫、叔母一家が集うが、自殺、薬物中毒、離婚、 はては出生の秘密が明らかになったりとハプニング連続のホームコメディ。アメリカのテレビドラマにはこういった刺激的なモチーフを散りばめた"Soap Opera"が多いそうだが、この戯曲がそれらと一線を画して芸術作品たりえるのは、ひとえにレッツの作劇の巧みさに依ると、初演時のニューヨーク・タイムズの劇評に記されていた。
俳優陣は熱演、3時間を超える長丁場を飽きずに観ていられた。

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2016年05月01日

2016.4.22/文学座「野鴨」 at 文学座アトリエ

[作]ヘンリック・イプセン
1885年 ノルウェー初演

来年、創立80年を迎える文学座。試演期間を経た第一回公演がこの演目だったらしい。まだ第二次大戦中の1940年上演。

前回、「野鴨」を観たのは、2010年に来日したベルリン・ドイツ座の公演。その頃、「ポストドラマ演劇」という言葉が日本の演劇界でちょっと流行っていたが、この芝居もその特徴を備えた作品だった。斜めに切り落とした巨大な円筒が陣取る舞台上で、客席の方を向いた俳優たちが抑揚をつけず早口で台詞を発していく。計算された演出が、作品の骨子のみを浮かび上がらせる。舞台から放たれる台詞の力強さにとても感動したことを覚えている。一方、今回の文学座の公演に奇を衒った仕掛けはない。イプセンの作品では、生き方や価値観の違いを登場人物が正面切ってぶつけあうが、文学座の俳優陣の力のこもった台詞がアトリエの舞台空間を飛び交い、物語を引っ張っていた。
この戯曲は、羽を撃たれてエクダル家で飼われている野鴨が具体的に何を象徴しているのかが解釈の肝である。なぜグレーゲルスは野鴨を犠牲にすることをヘドヴィクに勧めたのか。彼のアドバイスを彼女はどのように受け取り、自死に至ったのか。このあたりが自分としてすっきりくる理屈が見当たらない。だが、幸せな家族が抱える秘密が徐々に明らかになり、悲劇のラストを迎えるまでのストーリーは力強く、観客を物語の世界にくぎづけにする。

ヘドヴィク役の内堀律子は3年前に座の付属研究所に入所し、今年準座員に昇格した若手。いきなりメインキャストを配役されたが、変に役をなぞろうとせずに台詞を強く言うことに注力した、清々しい演技だった。俳優を目指す以前はプロ女子サッカー選手だったとのこと。また、発話時の姿勢や台詞回しが、「転位節」に近かった。俳優訓練を重ねるなかで自然とあのスタイルになったのか、それとも演出上の指示によってか、興味深い。

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2016年04月18日

2016.4.8/まつもと市民芸術館/地人会新社「海の風景」 at シアタートラム

[作]エドワード・オールビー
1975年 米初演

作者二度目のピューリッツァー賞受賞作。 
序盤はうららかな浜辺に佇む熟年夫婦の心のすれ違いをさらりと描く。突如背後から一組の巨大トカゲのカップルが出現。二組のカップルのぎごちないやり取りを経て、終盤にかけて生物や人間の本質を問うていく。巧みなストーリーと軽妙な会話で観客を物語に引き込む。
巨大トカゲの着ぐるみのインパクトが強烈で笑ってしまった。真面目な会話劇にああいったキャラクターが登場するギャップは大きく、半ば反則技(笑)。トカゲの動きを模した池田鉄洋と小島聖の演技もうまい。

観劇後に、「エドワード・オールビー全集」所収の本作戯曲を読む。上演台本と訳者は一緒(鳴海四郎)だが、台詞はかなり変わっていた。上演に際して現場で変更したと思われる。 

妻ナンシーを演じる草笛光子が素晴らしい。流れるような台詞が耳に心地よい。演者の台詞の呼吸と劇を観ている自分の呼吸が合う瞬間は快感。戯曲を読む限り、串田和美演じる夫チャーリーとの関係はどこかぎくしゃくしたものを感じさせるが、草笛の演技は終始朗らかで、幸せな夫婦生活を送ってきたことを観客に感じさせるものだった。

全体として大変質の高い芝居。劇場に足を運ぶたびにいつもこれぐらいの水準の作品を観ることができたら、本当に幸せだと思う。 

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