2011.12.4/梅田芸術劇場「みんな我が子」 at 新国立劇場 小劇場2011.12.23/チェルフィッチュ「三月の5日間」 at 神奈川芸術劇場 中スタジオ

2011年12月17日

2011.12.11/日本劇団協議会「ポルノグラフィ」 at 恵比寿・エコー劇場3

チラシとパンフレットの一番上の箇所に、こう銘打ってあります。
『文化庁委託事業「平成23年度次代の文化を創造する新進芸術家育成事業」 日本の演劇人を育てるプロジェクト 在外研修の成果公演」

国費で海外研修に行った若手演劇人が集い、その成果を発表する公演という名目です。だから日本を代表するような若手俳優やスタッフが参加しているのかというとそうではなく、キャスト・スタッフには新劇系の若手劇団員が目立ちます。

チョイスした戯曲が目を引きました。イギリスのサイモン・スティーヴンスが書き下ろし2007年にドイツ初演、その後ヨーロッパを回った作品です。同時代の海外戯曲が上演されること自体が多くないので、いわば「世界の窓」の意味合いがあります。

2005年7月7日に勃発して56名の命が奪われた、ロンドン地下鉄・バス連続爆破テロ。その日までの数日間という設定で、事件で亡くなった被害者や死亡した実行犯の足跡をクローズアップする話。「近親相姦にふける兄妹」「報告書の作成に追われるキャリアウーマン」「女性教師にしつこくつきまとう男子生徒」「教え子を部屋に連れ込んだ大学教授」「孤独を愛する老婦人」「爆破事件の実行犯」(公演チラシより引用)のダイアローグとモノローグで構成されています。

黒一色の舞台を横切る一段高い通路。大量のコピー用紙を舞台に散乱させる、その紙を出演者が紙ヒコーキや紙吹雪にして遊ぶ、ペットボトルの水を飲み散らかす、スクリンプクラーから放たれた水が舞台を覆う、といった過剰さや異物感を観客に印象付ける演出(上村聡史)です。初演のドイツ版では「舞台上で役者たちが背景一面にあるバベルの塔のジグソーパズルを黙々と製作してい」たとのこと(公演パンフレットより)。一方、nobby さんによれば、エジンバラ・フェスティバルの公演ではこういった類の演出効果は最小限に抑えられ、俳優の語りが舞台の主役に据えられていたとのことです。

イギリスの一般紙・テレグラフのウェブサイトにエジンバラ公演のレビューが掲載されています。それを読むと、テロの実行犯は社会からの疎外感を心に抱えていた、その疎外感は現代の大量消費文化が引き起こすものであり、さらにポルノの生産と消費こそがその大量消費文化の本質を具現化したものだ、というような説明があります。ポルノに象徴されるような過剰生産・過剰消費が舞台の登場人物に社会からの疎外感を植えつけている、というのが戯曲の核心。演出はなんとかこの点を表現したくてあれこれ技巧を凝らしたのでしょうが、肝心の俳優がホンについていけなかった。演技が上滑りしてしまい、台詞が全くと言ってよいほど観客に届いていない役者が見受けられました。そうではなく台詞自体には力があり、舞台上で存在感を発揮している俳優もいたものの、総じてロンドンの固有名詞あるいは台詞に裏打ちされているカルチャーの違いに阻まれ、台詞あるいは役柄の意味するところを十分に咀嚼しきれないまま本番を迎えてしまった感じが拭えませんでした。
この戯曲は実験的な作品かもしれませんが、決して抽象的な内容を扱っているわけではありません。それにもかかわらず、「何が言いたいのか分からなかった」という感想を抱いてしまう芝居になってしまう。やはり、異なる文化圏でコンテキストの共有がない舞台作品を受容することの困難を感じざるを得ませんでした。



☆「Corich舞台芸術」でのこの公演のレビューはこちら

theatergoer_review at 20:34│Comments(0)TrackBack(0)

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2011.12.4/梅田芸術劇場「みんな我が子」 at 新国立劇場 小劇場2011.12.23/チェルフィッチュ「三月の5日間」 at 神奈川芸術劇場 中スタジオ